進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第二章 進化論の歷史(3) 三 キュヴィエー(天變地異の説)
三 キュヴィエー(天變地異の説)
[キュヴィエー]
[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]
このキュヴィエーといふ人はラマルクよりは二十五年も後に生れた人であるが、非常な勉強家で、馬車で路を往來する時にも常に手帳と鉛筆とを持つて何か書いて居たといふ位であるから、著書も頗る多く、動物に關する一個一個の事實を知つて居たことは實に驚くべき程であつた。その外、尚世事にも長じた人と見えて、終には我が國でいへば文部省の局長といふ位な役を務め、男爵を授けられ、華族に列したが、この人の學術上の功績の多くある中で、特に擧ぐべきものは、動物比較解剖の研究と化石の調査とである。
[放散動物
一 くらげ 二 いそぎんちゃく 三 ひとで]
[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]
リンネーの分類法は單に動植物の名稱を探り出すに使利なやうに造つただけのもの故、その分ち方は頗る人工的で、恰も支那や日本で昔から用ゐて居る禽獸蟲魚といふ位なものに過ぎず、例へば蛤でも蚯蚓(みみづ)でも、章魚(たこ)でも、海鼠でも、甚だしきは盲鰻といふ魚までも、皆蟲類といふ中に混じて入れてあつたが、キュヴィエーは比較解剖の結果に基づいて、全動物界を大別して四門とした。即ち獸類・鳥類・魚類を始め、蛇・蛙・蜥蜴(とかげ)・蠑螈(ゐもり)に至る迄、凡そ身體の中軸に脊骨のある動物を總括して脊椎動物と名づけ、蝶・蜂・蜘蛛・蜈蚣(むかで)・蝦・蟹の類より蚯蚓・「ごかい」に至るまで、凡そ身體に關節のある動物を總括して關節動物と名づけ、章魚・烏賊(いか)を始め、榮螺(さざえ)・田螺(たにし)・蛤・「あさり」等の如き身體の柔かな貝類は皆之を總括して軟體動物と名づけ、また、「うに」・「ひとで」・「くらげ」等の如き動物は、身體に頭と尻との區別もなく總べての器官が皆放散狀に竝んであるため、まるで盥や傘と同じやうにたゞ表と裏との差別があるばかりで、前後左右は少しも違はず、何方を前へ向けても少しも差支のない形のもの故、之を總括して放散動物と名づけた。尤も動物を脊椎動物と無脊椎動物とに區別することだけは、既にラマルクの行つて居たことであるが、かやうに全動物界を四つに大別して之に門といふ名稱を附けたのは、全くキュヴィエーが始めてで、之が今日行はれて居る動物自然分類法の土臺である。またキュヴィエーは高等動物の化石を丁寧に調べてその性質を明にし、「化石の骨」と題する大部の書物を著して、終に今日の所謂古生物學を起した。
抑々化石とは、いふまでもなく、古代に生活して居た生物の遺體であるが、かやうに氣の附いたのは比較的近世のことで、耶蘇紀元より數百年も前に當るギリシヤ時代の哲學者には却つて化石の眞性を知つて居た人もあつたやうに見えるが、その後には種々の牽強附會な説が行はれ、降つて千七百年代に至つても世人は化石に對しては實に笑ふべき考を抱いて居た。例へば、或る人々は化石を以て單に造化の戲であるなどと言つて濟ませ、また或る人々は天地の間には精氣とでもいふベきものがあつて、この物が動物の體内に入れば子となり、誤つて岩石中に入れば石の螺(にし)、石の蛤などに成ると論じ、甚だしきに至つては、神は天地開闢の際に諸種の動物を造るに當り、眞の動物を造る前に先づ泥を以て試驗的にその形を造つて見て、氣に入らぬものは之を山中へ投げ捨てたのが、今日化石となつて殘つて居るのであると論じた人々さへあつた。今から考へて見ると餘り馬鹿げて居て、殆ど信ぜられぬ程であるが、その頃は耶蘇教の勢力が非常に盛であつたために、科學が全く衰へて、甚だしき迷信が世に行はれ、耶蘇教の坊主の中には、粘土でヘブライ文字を造り、瓦に燒いて之を山中に埋めて置き、數年の後に之を自分で掘り出して神樣の御直筆であると言つて一儲けしようと計畫した山師などがあつた位の世の中であるから、實際かやうな考が行はれて居たのも不思議はない。併しその後化石に關する知識が追々進歩し、ラマルクが貝類の化石を調べ、キュヴィエーが獸類、魚類等の化石を調べるに及んで、化石は愈々古代の動物の遺體であるといふことが確になり、最早之に就いて疑を插む人は一人も無くなつた。
[スウィス國で發見した山椒魚の化石]
[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]
前にも述べた通り、キュヴィエーは全く動物種屬不變の説を主張した人であるが、自分の研究の結果、化石の性質が明になるに隨ひ、嘗てリンネーの書いて置いた如くに、生物の種類の數は最初神が造つただけよりないといふ説をそのまゝに保つことが出來なくなつた。それはこの以前から化石は古代の動物の遺體であると考へた人は幾らもあつたが、觀察が極めて粗漏で、骨骼の形狀の區別なども丁寧に調べず、象の骨を掘り出して之を人間の骨であると思ひ誤り、昔は何物も皆大きくて、人間などもこの骨から考へて見ると、少くとも我々よりは三層倍も大きかつたに違ひないなどと言つて居た位で、その一例には、スウィス國の某といふ醫者は、一種の大形の山椒魚の化石を發見したが、之を人間の骨と思ひ違へ、化石となつて出る位であるから、之は全くノアの大洪水の時に溺死した人間の骨であらう。天地開闢の時、神樣が御造りなされたアダム・エバ兩人の子孫が盛に繁殖し、追々惡事を働くやうになつたので、神樣が大に御怒り遊ばし、數百日の間續けて雨を降らして、善人ノアの一族を除くの外、罪人どもを悉く退治しておしまひになつたが、この骨はその節の罪人の一人に相違なからうといつて、「洪水に出遇うた人間」といふ意味の學名を附け、「後の世の罪人どもよ、この骨を見て汝等の罪を悔い改めよ」といふやうな優しい歌まで書き添へて、この發見を同國の學術雜誌上に報告したことがある。人間の骨骼は素より十分に知つて居て、他の動物の骨との相違は直に解るべき筈の醫者でさへ、かやうな具合故、たとひ化石は古代の動物の遺體であると氣が附いても、なかなかそれがどのやうな動物であつたやら種屬の識別などは無論出來ず、大概今日の動物と同じやうな種類であらうと推察して誰も濟まして居つた。然るにキュヴィエーの精密な調査に據ると、化石となつて出て來る動物は、現今生きて居る動物とは確に全く種屬が異なつて居て、同じく化石といふ中でもその出る地層地層に隨つて皆種屬が互に相違して居ることが解つた。そこでこの化石となつて掘り出される動物はいつ造られ、いつ死に絶えたもので、また現今の
動物とは如何なる關係を有して居るものであるかといふ疑問は、是非とも起らざるを得なかつたが、キュヴィエーは自分の説も打ち消さずまた化石の因緣も明瞭に説明するには如何したらば宜しかろうと頻に苦しんだ後、遂に一の新説を案じ出した。その説の大略次の如くである。
「現在生きて居る動物の種屬は皆開闢のとき神が造つただけのものであるが、この開闢といふことは動植物に就いては決してたゞ一囘に限られた譯ではなく、實は幾度もあつた。而して毎囘開闢の前には山が海になり、海が山になつて、天地も覆るかと思はれる程の大變動によつて、その時まで住んで居た動植物は一時に悉く死に絶えてしまひ、その跡に更に新しい一揃の動植物が造られたのである。故に現今の動物と化石として掘り出される動物とは、兩方とも神に造られたには相違ないが、その造られた時が全く違ひ、古い方が悉く死に絶えて仕舞つた後に、新しい方が別に造られたものであるから、その間には何の關係もない。今日高い山の頂上から魚類の化石や貝類の化石が出て來るのは、そこが以前に海であつた證據で、その化石の形が如何にも苦みに堪へず跳ね廻つた如き有樣であるのは、海が山になるときの變化が極めて急劇であつた徴である。最初の世界開闢以來今日に至るまでには、少くとも十四五囘は地球の表面に斯かる大變動があつて、その度毎にそのとき住んで居た動物は皆死に絶え、僅に化石となつて今日まで殘つて居るのである」と、かやうに論じて、キュヴィエーは自分の主張して居た動物種屬不變の説を立て通さうと盡力した。この説は地球の表面には幾度も非常に急劇な大變動があつたものと假定するのであるから、先づ「天變地異の説」とでも名づけて置いたら宜しからう。
今日から思ふと、キュヴィエーの天變地異の説は素より確乎たる證據もなく、隨分牽強附會極まる説のやうに思はれるが、その頃學者間に於けるキュヴィエーの勢力は實に大したものであつたから、この不思議な假想説も暫時世人の信仰する所となつた。尤もラマルク以後にも動物進化の説を唱へて居た人は多少あつて、その中でもフランス國のジョッフルア・サンチレールといふ學者などは、動物の形狀・性質は外界の狀態に應じて變化して行くものであると論じて、大にキュヴィエーの説に反對し、幾度もパリー學士會院の講堂で公開の討論を行つた。併し何をいふにも、キュヴィエーの方は一個一個の事實を知つて居ることは非常なものであつたのと、また一方ではサンチレールの動物進化の説は甚だ不完全であつたのとで、千八百三十年七月三十日の討論の席で、終に表面上全くキュヴィエーの勝利に定まつた。
かやうなことがあつたので、益々キュヴィエーの勢が好くなり、キュヴィエーの唱へる議論ならば一も二もなく人が之を信ずる有樣となつて、かの天變地異の説も暫くは全盛の姿であつた。
[やぶちゃん注:「キュヴィエー」フランスの博物学者ジョルジュ・キュヴィエ/バロン・ジョルジュ・レオポルド・クレティアン・フレデリック・ダゴベール・キュヴィエ(Baron Georges Léopold Chrétien
Frédéric Dagobert Cuvier 一七六九年~一八三二年)。ウィキの「ジョルジュ・キュヴィエ」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『退役して年金で暮らす将校』の子として生まれた。『キュヴィエ家はプロテスタントで、ジュラ山脈部のフランス・スイス国境地帯から宗教迫害の結果移住してきた家系である』。『シュトゥットガルトのカルルスシューレ(当時設立された軍人養成校)で四年間学んだ後、エリシー伯爵家の家庭教師をした。エリシー伯爵はフェカンの近くで夏を過ごすのを恒例にしていたが、それが縁で当時フェカンに蟄居していた農学者アンリ=アレクサンドル・テシエの知遇を得た。テシエがパリに住む友人たち宛に紹介状を書いてくれた結果、キュヴィエは著名な博物学者であるエティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールと文通した後、一七九五年に国立自然史博物館の比較解剖学教授の助手に採用されることになった』。『またキュヴィエは同年に設立されたフランス学士院の会員に選出された。一七九六年からパンテオン中央学校(École Centrale du Pantheon)で教鞭をとりはじめ、四月に学士院の集会が開催されると彼の最初の古生物学の論文となる文章を発表した。これが後に一八〇〇年に『現存および化石のゾウ種についての覚書』Mémoires
sur les espèces d'éléphants vivants et fossiles の名で出版されることになるものである』。『一七九八年に初めての著書『動物の自然史基礎編』Tableau
élémentaire de l'Histoire naturelle des animaux を出版した。これは彼がパンテオン中央学校で行った講義の要約であったが、おそらくは彼の動物界の自然分類の基礎となっており、最初にして全般的な説明となっているとみなすことができるものである』。『一七九九年にルイ・ジャン=マリー・ドバントンの後を継いでコレージュ・ド・フランスの自然史教授となった。翌年出版した『比較解剖学教程』Leçons
d'anatomie comparéeは、初め二巻をアンドレ・デュメリル(フランス語版)の、残り三巻をジョルジュ・ルイ・デュヴェルノワの協力のもと執筆したものだが、古典的研究と位置づけられている』。『一八〇二年パリ植物園の正規の教授となった。同年、学士院の代表として、公教育の視学監督官に任命された。この後者の立場で彼は南フランスを視察していたが、一八〇三年初頭に学士院の物理学および自然科学部門の終身書記に選出された結果、視学監督官の職を辞任し、パリへ戻った』。『主要な古生物学と地学の調査の結果は最終的に二つの別々の研究として世に送り出された。一つは有名なRecherches
sur les ossements fossiles de quadrupedes で一八一二年』に『パリで出版され、一八二一年と一八二五年に改訂された。もう一つはDiscours
sur les revolutions de la surface du globe で一八二五年パリで出版され』たが、その後の『四色八つ折り判の本の一八一七年の初版及び一八二九年から一八三〇年までの五巻の内の二巻目の形で出版されたRegne
animal distribué d'après son organisation』は非常に『高い評価』を得た。『この古典的な研究でキュヴィエは現生及び化石動物での彼の全ての調査の結果を具体化した。全ての研究は昆虫綱を除き彼のものであり、それは友人のピエール・アンドレ・ラトレーユの支援によるものだった』。一八二一年には『「早まった声明」と呼ばれるものをした。彼は著書の中で「大型哺乳動物の新種発見はもはや有り得ないだろう」と述べた。しかし実際にはキュヴィエの声明以降も多くの発見がされている』。『動物学と古生物学の自らの独自調査とは別に、キュヴィエは学士院の終身秘書及び全体の公教育の関連として莫大な量の仕事を行ない、それらの殆どは最終的に出版された。一八〇八年彼はナポレオン・ボナパルトにより、フランスへ加えられたアルプスとライン川の向こうの地区のより高い教育状態の樹立を調査し、そして中央の大学と提携する方法を報告する任務で帝国大学の評議会へ配置され』、その議長も三度務めている。その後も、『学士院終身秘書の地位で、キュヴィエは多数の科学アカデミーの死去したメンバーのエロージュ・ジストリック(éloges historiques:歴史的賞賛)だけでなく、多数の物理学、自然科学史の報告書の筆者と』もなっている。『ナポレオンの没落(一八一四年)に先立ってキュヴィエは国務省の議会に認められ、その地位はブルボン家の復古にも影響を受けなかった。彼は学長に選ばれ、その地位で公教育評議会の仮の会長として活動し、その一方でルター派としてプロテスタント神学部を監督していた。一八一九年内政委員会の会長に任命され、死ぬまでその職に就いていた』。『一八二六年にレジオン・ドヌール勲章を得、一八三一年にはルイ・フィリップにより貴族に昇格、その後国務省議会の会長に任命される。一八三二年の初め内務相に指名されたが、五月にコレラによって死亡した』。『彼の研究は、比較解剖学に基づき、ひとつには現在の動物の分類を行い、また化石との比較から古生物学を大きく推し進めた。彼は動物の体はその各部分が機能に結びついた構造を持ち、それらが互いに関連して統一的な仕組みをもつと見た。そこから、器官や骨のひとつからも、その動物の全体像が知れると言っている』。『キュヴィエは次の三つの事項の探求に今度は特に専念した。一つは軟体動物門の構造と分類の関係、二つ目は魚類の比較解剖学と系統的位置、そして三つ目は主として化石哺乳類と爬虫類、次に同じグループに属する現生動物の骨学』で(下線やぶちゃん)、『軟体動物に関する彼の研究は一七九二年に始まったが、この部門の殆どの回想録は一八〇二年から一八一五年の間にAnnales
du museum で発表された。それらは後にMémoires
pour servir de l'histoire et a l'anatomie des mollusques として一冊に集約されて一八一七年パリで出版された』。『キュヴィエの魚の調査は一八〇一年に始まり、最終的に五千種の魚について記述されたHistoire
naturelle des poissons を出版する結果となり、それはキュヴィエとアシーユ・ヴァレンシアンヌ(Achille Valenciennes)の共同研究で』、『この調査の領域では彼は回想録の長い一覧を発表した。それは一部は絶滅動物の骨に関係し、一部は現生動物の骨格の観察結果―特に構造及び化石との類似点を詳細を述べている。その二番目のカテゴリーにはインドサイの、バク、ケープハイラックス、カバ、ナマケモノ、マナティーなどと関係する多数の論文が含まれるだろう。前のカテゴリーではより多数の回想録が含まれ、モンマルトルの始新世の地層の絶滅哺乳類、化石種のカバ、絶滅種のオポッサム(Didelphys
gypsorum)、メガロニクスやメガテリウム等の地上生大型ナマケモノ、ホラアナハイエナ、プテロダクティルス、絶滅種のサイ、ホラアナグマ、マストドン等の絶滅種のゾウ、化石種のマナティーとアザラシ、ワニ目、カメ目、魚類、鳥類の化石の形式についての論文が含まれる』。『彼の比較解剖学は、徹底的に実証主義に基づいたものであった。それ以前の比較解剖学は自然哲学的な色彩を強く持つもので、さまざまな動物の構造を比較し、相同器官などの概念を作り出した一方で、ともすれば恣意的な解釈に陥りがちであった。たとえばサンティレールは節足動物の歩脚と脊椎動物の肋骨を相同とみなし、それによって両者の体制が同じであるとの論を述べたのに対して、キュヴィエは何度も討論を行い、これを打ち破った。彼は生物の構造を機能に結び付けて理解することを目指し、生物体の各部分は互いに関連し、機能的に結びついていると述べた。この考えが化石研究にも生かされたといっていいだろう』。『哺乳類に関係する古生物学分野は本質的にキュヴィエにより作られ確立されたとも言える。彼は上記のように、比較解剖学において、各部分が機能的に結びついているとの判断を持った。たとえば肉食獣は牙がとがっており、その代わりにあごは張らない。逆に草食獣では発達した臼歯があり、あごは張る。そのような推察や判断によって、通常バラバラに出土する化石を組み立て、古生物を復元することを行った。彼以前に、骨を組み立てることを考えたものはいなかった』。『同時に、彼はラマルクの進化論に強く反対したことでも知られる。彼は古生物が時代によって異なるものから構成されることを明らかにしたが、これを複数回にわたる天変地異による絶滅と、その後の入れ替わりによるという、いわゆる「天変地異説」を唱え、進化によって生物の変化することを認めなかった』。『しかしながら、このことは彼の考え方が保守的であった事を示すとは必ずしも言えないようである。むしろキュヴィエは当時次第に意識されるようになっていた実証主義的な科学の方法にのっとっており、その範囲では種の不変性が明らかであった。そのため、逆に思弁的な研究に基づいて提出されたラマルクの論には納得できなかったというのである』とある。
「かやうに全動物界を四つに大別して之に門といふ名稱を附けたのは、全くキュヴィエーが始めてで、之が今日行はれて居る動物自然分類法の土臺である」ウィキの「門(分類学)」によれば、『従来、英語などでは門を、動物学ではphylumと呼び、植物学では国際植物命名規約(現在の国際藻類・菌類・植物命名規約)に基づきdivisionと呼んだ。東京規約(国際植物命名規約の』一九九四年の『版)から、植物学でもphylumと呼ぶことが認められたが、現在でもdivisionと呼ぶことが多い』。『phylumの語源はギリシア語のphylaiで、原義は古代ギリシアの都市国家において血縁に基づき決められた投票グループのことである。ヘッケルがGenerelle
Morphologie der Organismen (1866) で導入した語であるが、概念としてはキュヴィエが用いたembranchement(「分岐」)と同義である。divisionの原義は「分ける」である』とある(下線やぶちゃん)。
『「化石の骨」と題する大部の書物』先の引用に出た、一八二一年刊の「Recherches
sur les ossements fossiles de quadrupedes」(四脚を有する化石骨に関する研究)。
「耶蘇教の坊主の中には、粘土でヘブライ文字を造り、瓦に燒いて之を山中に埋めて置き、數年の後に之を自分で掘り出して神樣の御直筆であると言つて一儲けしようと計畫した山師などがあつた」直ぐに引っ張り出せないが、私の読んだ記憶(これと全く同じ内容で化石した文字の図入り。確か荒俣宏氏の著作だったか)では、内心憎んでいた神父か牧師かを陥れるために、ある農夫が永年月で信用させ、仕組んだこととして読んだ。
「大形の山椒魚」とあるが、ここは両生綱有尾目サンショウウオ上科オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属Andrias の属する(次注も参照)オオサンショウウオ類の化石種であり、サンショウウオ上科 Cryptobranchoidea のサンショウウオの大型種ではないので注意されたい。
「洪水に出遇うた人間」これについては、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑3 両生・爬虫類」(平凡社一九九〇年刊)の「オオサンショウウオ」の項から以下を引いておく(ピリオド・コンマを句読点に代え、学名部分を斜体とした)。
*
【アンドリアス】オオサンショウウオの学名には奇妙な由来がある。このなかまは現在アンドリアスという属名を与えられているが、元来これは化石で出た巨大なサンシヨウウオ(絶滅種)につけられた名だった。しかしその後日本と中国で〈生きている化石〉が発見され、これら現生種に対し、1837年に博物学者J.J.vonトゥデイが、Megalobatrachusの属名を与えた。しかし化石種とほとんど差がないので、最近は現生種もアンドリアスに含められるようになった。
そのようになった理由は、オオサンショウウオがかつてヨーロッパにもひろく生息していたためである。だから次のような奇妙な事件が起きても不思議ではない。
1726年のこと、ノアの洪水以前の人骨をやっきになってさがしていたスイスの博物学者J.J.ショィヒツァーはボーデン湖畔のエニンゲンの石切場で脊椎動物の化石を発見した。彼はすでにイクチオサウルスの骨を人間のものと見誤ったことがあったが、今度は疑いもなく〈ノアの洪水で溺れ死んだ昔の罪ぶかい人間の哀れな骨格〉だと信じた。そして、Homo tristis
deluvi testes(大洪水を目撃した哀れな人類)と名づけた。当初は誰もこの説を疑わなかったが、18紀後半にドイツのヨハン・ゲスナーが人骨であることを否定し、大きなナマズの骨だと主張した。もっとも、彼は実地に魚類の骨格と比較したわけでもなかったら しいが、支持する者は多かった。
しかし、この〈ナマズの骨〉説が完全に打ち消されるのは、キュヴィエが化石の研究をはじめてからである。1811年、彼はショイヒツァーの発見した骨が人骨でもナマズの骨でもなくて,巨大なサンシヨウウオの骨であることをあきらかにした。なお、この骨は大英博物館にあったがのちにハーレムの博物館に移された。石川千代松は《はんざき調査報告》(1903/明治36)のなかで、〈しょいふつえる氏が之これを見て人骨なりと断定せしは実に奇なること〉と述べている.
ちなみにオオサンショウウオの化石を発見したショイヒツァーは,有能な翻訳家でもあった。問題のオオサンショウウオが生きている土地日本の動植物を西洋で初めてとりあつかったケンペルの《日本誌》(原稿として残されたままであった)を英訳出版したのが彼だったことは、オオサンショウウオにまつわる奇話のひとつだろう。この経緯からもわかるように、日本のオオサンショウウオは〈生きた化石〉としてヨーロッパを騒がせた動物となったのである。
《引用終了》
荒俣氏らしい博物学的なすこぶる面白い記載である。
「ジョッフルア・サンチレール」フランスの博物学者エティエンヌ・ジョフロア・サン―ティレール(Étienne Geoffroy Saint-Hilaire 一七七二年~一八四四年)。パリの自然史博物館教授。比較解剖学で優れた業績を挙げ、器官及び組織の相同関係を明らかにして、動物界には共通した「構造の単一のプラン」があると説いたが、この点に就いて自らが自然史博物館に招いたキュビエと対立、ここに記された一八三〇年に有名な論争を行った(かのドイツの文豪にして自然科学者でもあったゲーテはサンチレールに賛同している)。ジョフロア・サンチレールはまた、「前成説」(個体発生に於いて成体の総ての構造や形態が発生の当初にすでに決定されていて発生が進むに連れてそれが展開するに過ぎないとする古典的発生説)を否定する目的で奇形学の研究を始め、ニワトリ胚を用いて実験的奇形の創出を試みている。「tratologie」(テラトロジィ:奇形学)の語も彼が最初に用いたとされる。主著に『解剖哲学』(一八一八年~一八二〇年)がある(小学館「日本大百科全書」の八杉貞雄氏の記載に拠る)。
「千八百三十年七月三十日の討論の席で、終に表面上全くキュヴィエーの勝利に定まつた」これは「国際基督教大学」のサイト内の「キリスト教と文化研究所」にある「『Newsletter
科学史フォーラム』1号より」に載る、東京水産大学助教授金森修氏の「ジョフロワ・サン=ティレール論」が詳しい。それによれば(半角数字を全角に替えさせて戴いき、一部に私が下線を引いた)、
《引用開始》
それまでのジョフロワの議論はキュヴィエの4界論の一つ、脊椎動物内部での相同を探すというものだったが、20年代になると彼は一層大胆になり、脊椎動物と体節動物との間の相同を探そうとする。昆虫の外骨格を脊椎動物の内骨格と並行的に論じて、内骨格の内部に内臓系がすべて入ってしまったものが昆虫に他ならないと彼は主張した。つまり脊椎動物の肋骨が昆虫の足に他ならないとしたのである。この種の仕事はそれ以降多くの類似事例をよぶことになった。
1830年2月から4月にかけて行われた王立科学アカデミーでの論争には以上のような背景があった。論争のきっかけはある若い二人の博物学者が提案した軟体動物と脊椎動物との相同論にあった。それをジョフロワは自らの「体制一致」論をさらに敷衍するものとして好意的に注釈した。だがそれまで自らの4界論が蹂躙されても我慢していたキュヴィエはついに公衆の面前で立ち上がり、頭足類とは二つ折りに折り曲げられた脊椎動物に他ならないとするその論考の趣旨が動物学的に成立しないということを強く主張した。論争は、相同というジョフロワの概念がもつ曖昧性に触れられた後で舌骨などの専門的問題にいたり、しかも双方が何ら歩み寄りの姿勢を示さなかったので、4月にはジョフロワの提案で中断された。ジョフロワは直ちにその論争を自ら『動物哲学の原理』という冊子にまとめた。二人は、以後キュヴィエが1832年に逝去するまで、対立することをやめようとはしなかった。32年にキュヴィエが亡くなっても、その後ジョフロワは12年間も生きることになる。だが晩年の彼は、大量の著作を執筆したにもかかわらず、同僚科学者からはあまり相手にされない存在になっていった。その冗長な文体なども否定的に働いたのかもしれないが、何よりも30年代の彼は自らの本来の研究分野である動物学を離れて、植物のこと、さらには物理学のことにまで言及するようになっていたというのがその最大の原因だった。だが晩年の特徴を最も明らかにするその種の著作の内の一つ『自然哲学の総合的、歴史的、生理学的概念』(1838)は、確かに燃焼と帯電という二力の拮抗によって宇宙の全物質の離合集散を説明するという大ざっぱな議論仕立てをもつ思弁的物理学にすぎないとはいえ、見方を変えればそれは近代初期以降無数に繰り返された自然哲学的思弁の伝統を正統的に引き継ぐものだともいえた。ジョフロワはまだアカデミー論争での時点では、自らをいわゆる自然哲学者とは見なさないでいたが、この頃にはほとんど意識的に自分を自然哲学者と規定するようになっていた。分析よりは総合を重んじ、単なる事実収集ではなく、収集は単なる出発点なのであり、その後の大胆な仮説形成にこそ科学の神髄があると信じたジョフロワは、自らのその信念に突き動かされるようにして、晩年の10年あまりを自然哲学の錬磨に捧げた。ただなにぶんにもその自然哲学は動物学という周知の領域を離れ、物理学的言説のなかで展開されたものであるだけに、大まかにすぎ、自然哲学的伝統のなかでもやや遅蒔きの印象は免れないものではあった。ただ、電気力に霊感を受けるというのはラマルクにも見られたことであり、しかも若年時エジプト旅行をした際に、魚類の電気器官を調査したことから一種特異な自然哲学的思弁をしたという事実もあるので、電気論が全く脈絡なしに突然でてきたものだったとはいえない。さらには奇形形成の調査の過程で動物体を正中線を中心にした一種の面対称物体として捉え、その両側にある類似要素が互いに引き合うということを、彼は生物の原理としていたという事実があるので、彼の電気的引力論は奇妙なことに奇形学的背景ももっていたともいえる。そのようにみていくと、彼の晩年の「自己帰一性原理」を中心とした大局的な物理論は必ずしも荒唐無稽な思いつきにすぎないとはいえなくなる。むしろそれは長年の動物学的・奇形学的調査と、若年時の電気への思い入れなどが長い間に熟成された果てにでてきた、彼にとっては自然な流れだったのだと考えたい。彼のなかに当時の、徐々に弱まりつつあった自然哲学的伝統の最後の偉大なきらめきを見て取るのは見当はずれなことではない。
《引用終了》
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