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2016/03/14

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(8) 日本の家族(Ⅲ)

 族長的家族の制度は、何處でもその祖先の祭祀に起原をもつて居る、それで日本に於ける結婚及び養子の問題を考へる前に、古の家族の組織に就いて一言する必要がある。昔の家族はウヂ(氏)と呼ばれた、――此言葉はもと近代の文字ウチ(內)則ち內部、若しくは家と同じ意味をもつて居たものであるが、正しく極古い時代から『名』――特に氏族の名の意味に用ひられて居た。ウヂに二種ある、オホ―ウヂ則ち大族竝びにコ―ウヂ則ち小族で、――いづれの文字も血統竝びに同一な祖先の祭祀に依つて結ばれたる大きな團體を意味するのである。そのオホ―クヂは或る程度まで、ギリシヤの γένος(種族)ロオマの gens(部族)と同じで、コ―ウヂは其分派で、オホ―ウヂに隸屬する。社會の單位はウヂであつた。各オホ―ウヂは其所屬のコ―ウヂと共にPhratry(人民の或る階級)若しくは Curia(或る一族の集合)のやうなものを代表して居た、そして原始的日本の社會を作る大きな團體は、ただウヂを合はせたものであつた――それを氏族と云つても、部族、民群と呼ぶとしても。一定した文化の生じたと共に、大きな仲問は、當然分かれ、又さらに細かく分かれたが、其及少の分派も、なほ其當初の組織を保つて居た。近代の日本の家族すら一部分は其組織をもつて居る。それはただ一家といふ意味ではなくて、ギリシヤ、ロオマの家族の、部族(gens)の分解後に、其形をなした所のものと同じものである。吾々(ヨォロッパ人)に取つては家族なるものは分解してしまつて居る、吾々が或る一人の家族と云ふ時には、その人の妻子を言ふのである。然るに日本の家族は、もつと大きな仲間である。早婚であるが故に、その家族は一軒の家として、曾祖父母、祖父母、父母及び子供――幾代もの子息及び娘から成り立つて居ると見るべきであつて、通例は只だ一個の家族以上に及んで居るのである。古い時代にあつては、其家族は、一村若しくは一町內の全人員を包有して居たかも知れないのであつて、從つて今日なほ日本には、大きな社會でありなながら、その人々がみな同一な族名をもつて居るといふ事がある次第である 或る地方に於ては、以前は出來る限りすべての子供達を、もとの家族の一團體の內に、其ままにして置くといふ事を習慣として居た――すべての娘達にはその夫を養子として迎へて。斯うなるとその一つ屋根の下に住んで居る團體は、六十人或はそれ以上の人々から成るといふ事になる、其場合家は、勿論その要求に應ずる爲めに、だんだんに擴げて建て增しされるのである。(私は只だ說明の爲めにこんな不思議な事實を記して居るのである)併し民族の落ち着いた後には、大きなウヂは急速に增加した、そして遠い邊陬の地には、なほ一家を以つて、一社會を成するやうなのもあると言ふ事てはあるが、原始的な族長の團體は殆ど到る處で疾くに分壞したに相違ない。それから後もウヂの主なる祭祀はつづいて、またその小區分の祭拜として殘り、もとの部族の人々は、つづいて同一の祖先則ち氏の神(ウヂカミ)を祭つたのである。それから徐に氏の神の靈屋は近代の神道の社に變はり、祖先の靈は地方の守護の神となつた、その近代の稱呼、氏神なる言葉は、昔の名である氏の神を短くしたものに過ぎない。その内一般に一家の祭祀が成立して後、個々の家は、社會一般の祭祀に加へて、その家の死者の爲めに特別な祭祀を營むやうになつた。かくの如き宗敎上の狀態は今日なほりつづいて存立して居る。家族なるものは澤山の家を包有する事もある、併し各家はその家の死者に對する祭祀を營んで居る。そしてその大小に拘らず、一族の團體はその古い制度と特徴とを守つて居る、それは今日でもなほ宗敎的社會であつて、家族の各員に向つて、傳統的風習に從ふ事を求めて居るのである。

[やぶちゃん注:「氏」ウィキの「氏」によれば、『日本の古代における氏(うじ、ウジ)とは、事実上または系譜上、祖先を同じくする同族集団、すなわち氏族を指す。家々は氏を単位として結合し、土着の政治的集団となった。さらに、ヤマト王権(大和朝廷)が形成されると、朝廷を支え、朝廷に仕える父系血縁集団として、氏姓(うじかばね)制度により姓氏(せいし)へと統合再編され、支配階級の構成単位となった』。『氏では、主導的立場にある家の家長が「氏の上」(うじのかみ)となって、主要構成員である「氏人」(うじびと)を統率し、被支配階層である「部民」(べのたみ)や「奴婢」(ぬひ)を隷属させた。氏は、部民や田荘(たどころ)、賤(せん)などの共有財産を管理し、「氏神」(うじがみ)に共同で奉祀した。氏の名は朝廷内での職掌や根拠地・居住地の地名に由来し、多くは氏姓制度により地位に応じて与えられたカバネ(姓)を有し、政治的地位はカバネによって秩序づけられた』。『ウジの後には、(古代は)格助詞「」を入れて読む。この「」は、帰属を表す。例えば「蘇我馬子(そがうまこ)」ならば、蘇我氏「の(に属する)」馬子、源頼朝(みなもとよりとも)ならば、源氏「の」頼朝という意味となる』。『また、氏の呼称は自己の属する血縁集団に基づいて名乗るものであり、婚姻によって本来所属していた家族集団とは違う氏に属する家族集団に移ったとしても氏を変えることはなかった。平(北条)政子が源頼朝の正室になっても「源政子」と名乗らなかったのはこうした考え方による。ただし養子縁組の場合は』ケース・バイ・ケースであった。『源師房が藤原頼通の養子になっても「藤原師房」とは名乗らなかったが、源義家の四男惟頼が高階氏に養子に行ったときは、高階氏に改姓している。藤原清衡のように、もともと入り婿の形で清原姓を名乗っていたものが、藤原姓に戻したものもある『平安時代の貴族や武士では、血縁集団を区別するための氏(ウジ)とは別に、家族集団を区別するために家名ないし苗字を名乗るようになり、それが一般的に通用するようになる。例えば源氏の中のある家系は足利という苗字を称し、別の家系は新田の苗字を称した。つまり足利も新田も、血縁集団としては同じ源姓の源氏だが、家族集団としては足利家と新田家と別個に分かれた。時がたてば、足利も新田も家族的規模からより大きな氏族的規模となり、そこからさらにまた家族集団が新しい苗字で別れていった』。『江戸時代までは、朝廷の公式文書には氏(ウジ)と姓(カバネ)を記すのが習わしであった。姓(カバネ)が朝廷との関係を表す。例えば、源氏を自称した徳川家康の場合は「源朝臣家康」と記した。「源」が氏(ウヂ)で、「朝臣」が姓(カバネ)である。ただし、平安時代の頃から、氏(ウジ)と姓(セイ)とは同じものとされるようになり、例えば「源」は姓=氏とされた。姓(氏)と名字(苗字)との違いは、姓=氏が天皇(朝廷)から賜ったものであるのに対し、名字は自らが名乗ったものであるということである。例えば、足利尊氏の場合、姓(氏)の「源」を使った場合は「源尊氏」であるのに対し、名字(苗字)の「足利」を使った場合は「足利尊氏」である』。『明治時代においては、まず』明治三(一八七〇)年に、『それまで身分的特権性を有していた苗字を平民も自由に公称できるようになり、苗字の特権性が否定された(平民苗字許容令)。つまり明治以前までの、姓(氏)と、名字(苗字)の二重制度が廃止され、姓(氏)=名字(苗字)として一元化され、自由に名乗れることにされたのである』。明治五年に『壬申戸籍が編纂された際、戸主の届出によって、戸籍へ登録する氏が定められることとなる。それまで、朝廷で編纂される職員録には伝統的な氏(うじ)と諱が用いられてきたが』、『多くの戸主は籍への登録は苗字家名を以てした。広く知られている例では、越智宿禰博文が伊藤博文と、菅原朝臣重信が大隈重信と、源朝臣直正が鍋島直正と、藤原朝臣利通が大久保利通と、藤原朝臣永敏が大村益次郎と登録したものなどである。その後も伝統的に旧来の氏を用いる場面は皆無ではないが、この壬申戸籍以降、国家が公的な場面で旧来の「藤原朝臣○○」などの名称を用いることはなくなり、この壬申戸籍によって伝統的な氏(うじ)の用法は事実上ほぼ途絶したものといいうる』。『のち日本国民全てを戸籍により把握する必要が発生したことや事務上の要請もあったことなどから』、明治八(一八七五)年には、『全ての国民について苗字の公称が義務づけられることになる(平民苗字必称義務令)。その際、妻は生家の苗字を称すべきか、夫のそれを称すべきかが問題となったが』、翌年の『太政官指令では、武士の慣行であった夫婦別氏の慣行に従うべきこととした これに対しては、庶民の生活実態に合わないなどの理由(社会生活上、嫁ぎ先の苗字を使うことがあった)で、明治政府の夫婦別氏政策に対しては、地方から疑問や批判も出され、事実上同氏を用いた者もあったと主張する者もいるが、実態は明らかではない。いずれにしても、法律上は夫婦別氏(子は親の氏を称する)であった』。『その後、不平等条約の解消の一環として民法典の編纂がその頃始まったが、当時のヨーロッパ法(フランス法とドイツ法が参考にされたが、フランス法は夫婦別氏、ドイツ法が夫婦同氏であった)を参考にし、夫婦単位で妻が夫の氏を名乗る夫婦同氏制が草案の段階で採用され』、明治二三(一八九〇)年に『公布された旧民法において、妻が夫の家の氏を用いるとする夫婦同氏の制度が初めて登場することになった(この旧民法において、法令上は「氏」で呼称が統一される)』。『ところが、同氏とする旧民法案は、日本伝統の家父長制度を否定するものだとする反対論(いわゆる民法典論争)が多く施行されなかった。そこで、夫婦単位ではなく家単位とすることとして、改めて民法が制定・公布され』、明治三一(一八九八)年に『施行された。これは、家族同氏として人民管理を容易にしたい内務省と婚姻により氏は変わらない伝統を重視する勢力との妥協の産物だとみられている。ここでは、家族制度につき戸主及びその家族から構成される家という集団を想定し戸主に家の統率権限を与えるという、いわゆる家制度が採用された(家制度自体は、旧民法でも採用)。そして「戸主及ヒ家族ハ其家ノ氏ヲ称ス」』(明治民法七百四十六条)『と定められたことから、氏は、家の呼称としての性質を有することになる。また、家を同じくする者を一つの戸籍に編成する法制を採ったため、戸籍編成の単位としての意味をも持つことにもなった』とある(下線やぶちゃん)。この近代部分の下線部、私は不学にして知らなかった。なお、「うぢ(うじ)」の語源説としては八雲が述べる「内(うち)」の意であるとする説の他にも、「家系」や「家柄」「身分」「地位」を表すところの「筋(すぢ(すじ))」とする説の他、朝鮮語の「親族」の意の「ウル(ul)」や、蒙古語の「親戚」の意の「ウルク(urukurug)」に由来するとする説などがある。少なくとも「内」が定説な訳ではないので注意されたい。

「オホ―ウヂ」「コ―ウヂ」(「―」は長音符ではなく、分節記号であるので注意されたい)は大氏・小氏のこと。ウィキの「氏姓制度」(前注の引用元とは異なるので注意)によれば、『大化の改新により、氏姓制度による臣・連・伴造・国造を律令国家の官僚に再編し、部民を公民として、一律に国家のもとに帰属させた』が、その最初の天智天皇三(六六四)年に行われた「甲子の宣」に於いて、『大化以来の官位を改め、大氏(おおうじ)、小氏(こうじ)、伴造氏(とものみやつこうじ)を定め、それぞれの氏上(うじのかみ)と、それに属する氏人(うじびと)の範囲を明確にしようとするものであった。つまり、官位の改定によって、大錦位』(だいきんい:大氏)『・小錦位(小氏)、つまり律令の四、五位以上に位置づけられる氏上をもつ氏を定めたものであり、これによって朝廷内の官位制度と全国の氏姓制度とを連動させようとした。さらにこのような氏上に属する氏人を父系による直系親族に限ることとし、従来の父系あるいは母系の原理による漠然とした氏の範囲を限定することとした。これにより、物部弓削(もののべゆげ)、阿倍布勢(あべのふせ)、蘇我石川(そがのいしかわ)などの複姓は、これ以後原則として消滅することとなる』とある。

γένος」古代ギリシャ語で発音は「ゲノス」。現行のギリシャ語では「人種・種類・種族・出自」など。

gens既出既注

Phratry」古代ギリシア語の「φρατρία(フラトリア)」の英語化。古代ギリシアの諸都市に於いて「兄弟団」と呼ばれた社会制度を指す。

Curia」「クリア」で一般には「民団」などと訳す、古代ローマに於ける市民団区分の一つ。
 

――それを氏族と云つても、部族、民群と呼ぶとしても。」原文は“— whether we call them clans, tribes, or hordes.”。「氏族」の“clan”(クラン)はゲール語の「子孫」に由来する「スコットランド高地人の氏族/一族・一門/閥・族・一味/大家族」の意、「部族」の“tribe”(トゥライブ)はラテン語の「ローマの種族」に由来する「同一の血統を持ち、上に族長をいただいて群居する種族・部族/古代イスラエル人の支族/生物の族・類」の意、「民群」の“horde”(ホォード)はトルコ語の「野営地」に由来する「遊牧民・流民の群れ/大群」の意である。

「邊陬」「へんすう」と読む。辺境の意。]

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