「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 裸にはまだきさらぎの嵐哉 芭蕉
本日 2016年 3月18日
貞享5年 2月17日
はグレゴリオ暦で
1688年 3月18日
二月十七日神路山(かみぢやま)を
出(いで)るとて、西行の涙をした
ひ、增賀(ざうが)の信(まこと)
をかなしむ
裸にはまだきさらぎの嵐哉
句は「笈の小文」にも載るが、ここは「泊船」の前書を附した。「笈日記」の「伊勢部」には、前掲した「何の木の」の句とペアで伊勢神宮への奉納句としたことが以下のように記されてある。
貞享の間なるべし。此國に抖櫢(とてつ)ありし時、
奉納 二句 ばせを
西行のなみだをしたひ、増賀の信をかなしむ
何の木の花ともしらずにほひかな
裸にはまだ二月のあらしかな
「抖櫢」は、衣食住に対する欲望を払い除けて身心を清浄にすることを指す。
前書の「神路山」は現在の三重県伊勢市宇治の広域山域名で、伊勢神宮内宮から南へ流れる五十鈴川上流域の総称。「增賀」は天台僧増賀上人(延喜一七(九一七)年~長保五(一〇〇三)年)比叡山の良源に師事し、天台学に精通して密教修法に長じたが、ことさらに名利を忌避し、そのために数々の奇行を演じたことで知られる。大和国多武峰(とうのみね)に遁世した。
以前に示した通り、「何の木の花とはしらず匂ひかな」が西行の和歌をインスパイアしたように、本句はまさに「撰集抄」の冒頭「卷一 第一增増賀上人の事」に載る、増賀が伊勢神宮を参拝した折り、名利(みょうり)を捨てよという示現(じげん)を得、着衣を総て脱いで素っ裸となって着物は皆、門前の乞食に与えたという増賀の奇行記事に基づく。以下に頭の当該部分のみを引く(本条はかなり長い)。底本は西尾光一校注一九七〇年岩波文庫版を用いた。
*
むかし、增賀聖人と云ふ人いまそかりける。いとけなかりけるより、道心ふかくて、天台山根本中堂に千夜こもりて、是をいのり給ひけれども、なほまことの心やつきかねて侍りけん。あるとき、只一人伊勢大神宮に詣でて。祈請し給ひけるに。夢に見給ふやう、道心をおこさむとおもはば、此身を身とな思ひそと、示現を蒙り給ひける。打驚きておぼすやう、名利をすてよとにこそ侍るなれ。さらばすてよとて、着給ひける小袖衣、みな乞食共にぬぎくれて、ひとへなる物をだにも身にかけたまはず、あかはだかにて下向し給ひける。見る人、不思議の思ひをなして、「物にくるふにこそ。見めさまなどのいみじきに、うたてや」など云ひつゝ、打ちかこみて見侍れども。つゆ心もはたゝき侍らざりけり。
*
増賀上人のように、素っ裸になるには、これ、未だ二月(きさらぎ)の、しかも寒風の吹き荒ぶ中にあっては、風狂人にして僧体ではあれど、凡俗の我らには、とてものことに、いまだ無理なこと、言わずもが乍ら、「如月(きさらぎ)」、を脱ぐどころか、「更(さら)」に衣を「着(き)」る、重ね「着(ぎ)」をさえせねばならぬ、と洒落たのである。
なお、以降、当年で詠の日時が推定及び確定された句は、旧暦三月八日(グレゴリオ暦四月八日)まで、ない。それまで暫く、ごきげんよう。
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