「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 何の木の花とはしらず匂ひかな 芭蕉
本日 2016年 3月 5日
貞享5年 2月 4日
はグレゴリオ暦で
1688年 3月 5日
伊勢山田
何の木の花とはしらず匂ひかな
「笈の小文」より(順列操作されてある)。この日、芭蕉は伊勢神宮外宮を参拝した(貞亨五年二月中旬発杉山杉風宛書簡に『其元、御無事と見え候而(にて)、歳旦、伊勢にて一覽、珎重(ちんちやう)に存候。拙者、無事に越年いたし、今程山田に居申候。二月四日參宮いたし、當月十八日、親年忌御座候付、伊賀へかへり候て、暖氣に成(なり)次第、吉野へ花を見に出立(いでたた)んと心がけ、支度いたし候』とある)。次の句の注でも記すが、彼は僧形であるから、直接の正殿参拝は許されず、旧外宮正殿の南百メートルほどのところにあった僧尼遥拝所からの参拝であった。西行の「山家集」に載る、
何事のおはしますかは知らねども忝なさに涙こぼるる
のインスパイアであるが、西行も同じく遥拝せねばならなかったはずであり、実はこの一首や芭蕉の句は、僧尼遥拝所の物理的な微妙な距離感が基にあって、それがしかも同時にある感覚上のパースペクティヴ、人界と神域との見えながら届かぬという時空間を創り出し、しかもそれが、芭蕉の場合、嗅覚上のそれ(これを梅の花の香とするような解釈には私は従わない。次句「お子良子(こらご)の一もとゆかし梅の花」を見よ。但し、後掲する付句はそれではある。しかしそれは付け句である以上、シチュエーションを変えるのは当然であって本句解釈の素材足り得ない)にメタモルフォーゼさせてあるところが妙味である。
山本健吉氏の「芭蕉全句」によれば、これは山田の益光亭で興行した八吟歌仙の発句で、
何の木の花とはしらず匂ひかな 芭蕉
こゑに朝日を含むうぐひす 益光
と付けているとある。即ち、本句は外宮遥拝のエクスタシーを益光亭庭前にあったであろう梅の花の香に添えて仕立て替えした挨拶句ではあるのである。山本氏は続けて、この益光のそれは『朝日に匂う梅の花に鶯の囀りを付けたもののようである。それにこの花は西行の「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」の歌を踏まえていると思われる。この句は芭蕉のいわゆる「大国に入つての句」(赤冊子)の代表句ともいうべき品格を持っている』と絶賛する。私の同感である。
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