譚海 卷之一 琉球國木香花の事
琉球國木香花の事
○琉球國より先年獻上せし薔薇を木香花と號す。吹上の庭に植へられし珍花也。香氣十里に聞ゆと云。
[やぶちゃん注:「木香花」バラ目バラ科バラ亜科バラ属モッコウバラ(木香茨/木香薔薇)Rosa
banksiae。ウィキの「モッコウバラ」より引く。『中国原産のバラ。種小名は植物学者ジョゼフ・バンクスの夫人にちなむ』。『常緑つる性低木。枝には棘がないため扱いやすい。花は白か淡い黄色で、それぞれ一重咲と八重咲があり』、直径二~三センチメートルの『小さな花を咲かせる。開花期は初夏で一期性。黄花の一重や白花には芳香はある。一般的にモッコウバラといった場合には、黄色の八重咲を指す』。現在は『庭園などで、アーチやフェンスなどに用いる。生育が早く、大量に花をつけるため、大きなモッコウバラの開花時は圧巻である。バラの短所である棘がなく、病気、害虫にも強くバラとして理想的な性質を持っているが、一方、一期咲であること、黄花の八重咲に芳香がないこと、白と黄色しか花色がない事などの短所もある。そのために植える場所の選定や、芳香性のあるバラと組み合わせるなどの工夫が必要である』とあるから、ここに出るのは、黄花の一重咲きか白花体である。なお、ウィキの「バラ」によれば、本邦では、『日本はバラの自生地として世界的に知られており、品種改良に使用された原種のうち』三種類『(ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナシ)は日本原産である』。『古くバラは「うまら」「うばら」と呼ばれ、『万葉集』にも「みちのへの茨(うまら)の末(うれ)に延(ほ)ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」という歌がある。『常陸国風土記』の茨城郡条には、「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。常陸国にはこの故事にちなむ茨城(うばらき)という地名があり、茨城県の県名の由来ともなっている』。『江戸時代初期に、仙台藩の慶長遣欧使節副使・支倉常長が西洋からバラを持ち帰った。そのバラは、伊達光宗の菩提寺の円通院にある光宗の霊廟「三慧殿」の厨子に描かれたため、同寺は「薔薇寺」の通称で呼ばれるようになった』。『江戸時代には職分を問わず園芸が流行ったが、バラも「コウシンバラ」「モッコウバラ」などが栽培されており、江戸時代に日本を訪れたドイツ人ケンペルも「日本でバラが栽培されている」ことを記録している。また、与謝蕪村が「愁いつつ岡にのぼれば花いばら」の句を残している』とある(下線やぶちゃん)。本書は寛政七(一七九五)年自序であるから、実際には、これが「モッコウバラ」自体の初渡来というわけではないように思われ、調べてみると江戸初期には入っていたようである。ただ、この時のそれが非常に香りの高いものであったのであろう。
「十里」三十九キロメートル強。漢文的誇張である。]
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