原民喜「雜音帳」(自筆原稿復元版) たから
たから
ある男が久振りで知人の家の二階に泊めてもらつた。どういふものか睡つけない部屋であつたが、夜あけ頃ふと氣がつくと、すぐ枕許の床の間の邊で何かゴソゴソといふ物音がするので、だんだんその方に注意を傾けると、音の源はどうやら床の間の下の方らしかつた。絶えずハトロン紙のやうなものを引掻いてゐるやうな音で、どうしてもこれは鼠の仕わざと覺えたが、それにしても床の間の下に巣でも造らうとしてゐるのであらうか。翌朝、彼は早速その家の主婦に鼠の一件を告げた。すると主婦は案外平氣な顏で、「あそこですか、あそこには寶が隱してあるのですよ」と語つた。
それから彼は思ひがけなくも、そこの家に長逗■〔留〕するやうになつたが、滯在してゐるに隨つて、寶の意味がわかつて來た。寶は床の間の下だけでなく、彼が寐てゐる疊の下にも、いたる處に隱されてゐるらしく、主人は時■〔折〕それを出し入れしてゐた。さうして、そこの家では寶と引換へに、いろんな食糧が這入るらしく、みんな顏の血色が麗しいのであつた。
しかし、前には一度、そこの家を怪しんで、警察がやつて來たことがあるさうであつた。さうすると間もなく、その街の黑幕が仲に立つて、円滿に事を運び、それから後は却つて顏役の世話で更に物資は円滑に流れ込むやうになつたといふ――噓のやうな話を彼はきかされた。ところが、現に彼の滯在中も、ある日警官がその家の工場の方を調べに來た。その主人は警官と一緒に工場の入口まで來ると、可憐な女子學徒が恰度作業もたけなはなところであつたが、中央にゐる級長がたちまち「作業やめ、敬礼」と號令をかけた。すると警官は心機一轉し、調査もそこそこに引あげて行つたのである。(昭和十九年)
[やぶちゃん注:青土社版全集は題名を「だから」とする。採れない。これはどう考えても「寶」であって「たから」であり、接続詞の「だから」ではない。二箇所の抹消字「■」は判読不能。ちょっと書きかけて消してある。
「それから彼は思ひがけなくも……」の箇所は青土社版全集では前の段落に続いている。
「恰度」老婆心乍ら、「ちやうど(ちょうど)」と読む。「丁度」に同じい。]
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