「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 紀み井寺着(本文のみ) 芭蕉
本日 2016年 4月29日
貞享5年 3月29日
はグレゴリオ暦で
1688年 4月29日
紀み井寺
跪(ひざ)はやぶれて西行にひとしく、天龍の渡しを思ひ、馬を驅(か)る時は、いきまきし聖(ひじり)の事、心に浮ぶ。山野、海濱の美景に造化の工(たくみ)を見、あるは無依(むえ)の道者(だうじや)の跡を慕ひ、風情(ふぜい)の人の實(じつ)を窺ふ。猶、栖(すみか)を去つて器物の願ひなし。空手(むなで)なれば途中の憂ひも無し。寛歩(くわんぽ)、駕(が)に換へ、晩食、肉よりも甘(あま)し。泊るべき道に限り無く、立つべき朝(あした)に時無し。唯だ一日の願ひ、二つのみ。今宵、好き宿、借らん、草鞋(わらぢ)の我(わが)足に宜しきを求めんとばかりは、聊かの思ひなり。時時(じじ)、氣を轉じ、日々に情(じやう)を溫(あたた)む。若し僅かに風雅ある人に出あひたる、喜び限り無し。日頃は古めかしく頑ななりと、憎み捨てたる程の人も、邊土の道連れに語り合ひ、埴生(はにふ)、葎(むぐら)の中(うち)にて見出したるなど、瓦石(ぐわせき)のう中(うち)に玉を拾ひ、泥中に黃金(こがね)を得たる心地して、物にも書き付け、人にも語らんと思ふぞ又、是れ、旅の一つなりかし。
「笈の小文」。句はない。「紀み井寺」は「紀三井寺(きみいでら)」で、現在の和歌山県和歌山市紀三井寺にある救世観音宗(ぐぜかんのんしゅう)総本山。正式名は「紀三井山(きみいさん)金剛宝寺護国院と称する。但し、勘違いしてはいけないのは、これは同寺で詠んだ句をこの後に載せることを企図した前書であって(句は現存しない)、以下の文章は実は紀三井寺とは関係がない。但し、この三月二十九日に同寺を参詣しているものとは推定され、以下の文章もその日辺りに書したものという意識で配されてはあるのである。
・「跪(ひざ)」諸本「踵(きびす)」(とすれば「かかと」)と書き換えるのが圧倒的である。「やぶれ」るのは肉体としてのその箇所であるから、「踵」がよいようには思われる。
・「天龍の渡しを思ひ」西行の生涯を多数の歌をまじえて記した鎌倉時代の作者未詳の「西行物語」などで知られる逸話。西行が天龍川の渡しで船に乗った際、満席で危ないと船頭が西行に降りろと命じ、無視した西行は頭を鞭で打たれて下ろされたが、西行はこれも修行の内と思うて平静としていた、という故事を踏まえる。この話は既に阿仏尼の「十六夜日記」(群書類従版)に割注附きで、
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廿三日、天りうのわたりといふ。舟にのるに、西行がむかしもおもひいでられていと心ぼそし〔「西行法師繪詞」云、「東のかたざまへ行ほどに、遠江國天龍のわたりにまかりつきて舟にのりたれば、「所なし。おりよ。」と鞭をもちてうつほどに、かしらわれてちながれてなん、西行うちわらひて、うれふる色もみえておりけるを」〕
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と記されており、事実如何は別として、早い時期から知られて信じられていた西行伝説の一つであることが判る。
・「馬を驅(か)る時は、いきまきし聖(ひじり)の事、心に浮ぶ」「驅る」は諸本は「借る」とする。以下の故事を考えると、確かに走らせる時にではなく、借りようと思うた折りにはの方が穏やかで自然ではある。これは「徒然草」の以下の第百六段の話に基づく。
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高野の証空上人、京へ上りけるに、細道にて、馬(むま)に乘りたる女の、行きあひたりけるが、口(くち)引きける男、あしく引きて、聖(ひじり)の馬を堀へおし落してけり。聖、いと腹惡(はらあ)しくとがめて、「こは希有(けう)の狼藉(らうぜき)かな。四部(しぶ)の弟子はよな、比丘(びく)よりは比丘尼(びくに)に劣り、比丘尼より優婆塞(うばそく)は劣り、優婆塞より優婆夷(うばい)は劣れり。かくのごとくの優婆夷などの身にて、比丘を堀へ蹴いれさする、未曾有(みぞう)の惡行なり」と言はれければ、口引きの男、「いかにおほせらるるやらん、えこそ聞きしらね」といふに、上人、なほいきまきて、「なにといふぞ、非修非學(ひしゆひがく)の男」とあららかに言ひて、極まりなき放言(ほうげん)しつと思ひける氣色にて、馬ひき返して逃げられにけり。尊かりけるいさかひなるべし。
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以上の引用文中の注。「証空上人」は伝未詳。「四部の弟子」以下に出る仏弟子の四種の区別。「比丘」出家して具足戒を受けた男性僧。「比丘尼」同前の儀を受けた尼僧。「優婆塞」俗人の中で五戒を受けて仏門に帰した男性在家信者。「優婆夷」同前の女性信者。「極まりなき放言しつと思ひける氣色」がポイントで、はっと、自身こそがが無智蒙昧(「非修非學」)なる貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)に他ならぬ三毒を口にしてしまったことに気づいたからこそ、そそくさと「馬ひき返して逃げ」てしまったのである。「尊かりけるいさかひ」の仏法の理(ことわり)に叶のうた、まことの勝者とは実は「口引きの男」であったという訳である。
・「無依(むえ)の道者(だうじや)」あらゆる依るところの対象を無くした、即ち、執着を捨て去った古えの仏道の修行者。限定した特定の人物を指しているのではない。
・「風情(ふぜい)の人の實(じつ)を窺ふ」まことの風雅を愛する人のその心の核心を少しでも垣間見んと努める。
・「空手(むなで)」諸本「くうしゆ」と音読みするが、この「むなで」の訓は、よい。無一物の意。
・「寛歩(くわんぽ)、駕(が)に換へ」物見遊山の常套たる楽な駕籠に乗るのに換えて(乗らずに)、ゆっくりゆったりと徒歩(かち)の旅をして(行くと)。
・「晩食、肉よりも甘(あま)し」(すっかり健康に腹も減って)食う宿の晩飯は粗食であっても、美味高価なる魚肉のそれよりも甘く美味い。前とこれは西晋の学者皇甫謐(こうほひつ)の「高士伝」の中の「晩食以當肉、安步以當車」に基づく謂いである。
・「泊るべき道に限り無く」一日に歩いてもここまでだといった限りなんどは設けることなく。
・「聊かの思ひ」ささやかな唯一の思い。
・「時時、氣を轉じ、日々に情(じやう)を溫(あたた)む」その時その時に自在に応じ、気の向くまま風の向くまま、好き勝手に歩き廻り、その日その日に偶然に出逢った対象から受けた、鮮やかな情趣情感の温もりを味わう。
・「邊土」片田舎。
・「埴生(はにふ)」貧しい小屋。
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