甲子夜話卷之二 2 明和大火のとき、浚明廟御仁心の事
2-2 明和大火のとき、浚明廟御仁心の事
明廟は御仁心深く有せ給ふと聞く。明和大火のとき御櫓に登らせ給ひ、火勢を御覽ぜられ、左右に上意ありしは、さてさて大火、これは天災と云べし。下々さぞ難儀することなるべし。これは吾身の罪なりと仰あり、左右恐入て言なかりしと云。
■やぶちゃんの呟き
「明和大火」明暦の大火・文化の大火とともに「江戸三大大火」の一つと称される、明和九年二月二十九日(一七七二年四月一日)に江戸で発生した大火。目黒行人坂大円寺(現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近)が出火元であったことから「目黒行人坂大火」とも呼ばれる。以下、ウィキの「明和の大火」によれば、『出火原因は、武州熊谷無宿の真秀という坊主による放火である。真秀は火付盗賊改長官である長谷川宣雄(長谷川宣以の父親)の配下によって』同年同四月中に捕縛されて同年六月、『市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された』。二十九日の午後一時頃、『目黒の大円寺から出火した炎は南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの』、同日の午後六時頃に『本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた』。三十日の『昼頃には鎮火したかに見えたが』、またしても三月一日の午前十時頃に『馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅した』。類焼した町九百三十四、大名屋敷百六十九、橋百七十、寺三百八十二を数え、『山王神社、神田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災した』。死者は一万四千七百人、行方不明者は四千人を『超えた。老中になったばかりの松平定信の屋敷も類焼し』ている。なお、この明和九年十一月十六日には安永に改元されているが、改元理由の一つとし本大火が挙げられている。
「浚明廟」「しゆんめいべう(しゆんめいびょう)」浚明院は第十代将軍徳川家治の諡号。大火の当時は将軍職に就任して十二年目で、満三十四歳。