原民喜・昭和二〇(一九四五)年十二月十二日附・永井善次郎宛書簡(含・句稿「原子爆彈 即興ニスギズ」)
[やぶちゃん注:発信は被爆後に次兄守夫とともに身を寄せていた広島郊外の八幡村。宛先は松戸市の義弟(妻貞恵の実弟)永井善次郎(文芸評論家佐々木基一(きいち)の本名。民喜より九歳年下)。民喜、満四十歳。被爆・敗戦から四ヶ月後の書簡。
底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅲ」の「書簡集・遺書」に拠ったが、終生、民喜が諸原稿を基本的に正字で記していた事実に鑑み、恣意的に正字化した。句は読み易くするために、句間を一行空けとした。「※れし」の「※」の字は表記不能で、
「※」=(へん)「血」+(つくり)「卜」
の字体である。これについては後の句の異同で注するように、決定稿の「杞憂句集」では「倒れし」の字に変わっていること、さらに私の『原民喜「淡章」(恣意的正字化版) 南風』でも「仆」(たふれる(たおれる))の字と同じ用法をしていると推定されることから、歴史的仮名遣で「たふれる」と訓じてよいと判断される。「個所」はママ。句「水をのみ死にゆく少女蟬の聲」の、「蟬」の用字は底本のママである。
なお、通信文中の「本郷へはまだおいでになりませんか」という「本郷」は、恐らく、彼や民喜の妻貞恵の故郷である広島県豊田郡本郷町(現在の三原市)のことを指すと思われる。
問題はこの句稿がどう扱われたであるが、これがはっきりしない。ここに出る句群を頭に置いたまさに「原子爆弾」という標題の句群は確かに原民喜の句集「杞憂句集」にある(総て後掲する)。しかし、この「杞憂句集」なるものは、原民喜の自死後の昭和四〇(一九六五)年に刊行された芳賀書店版「原民喜全集第一巻」に初出するという書誌情報以外には私は知らない(青土社版の底本の初出一覧に拠る)。ということは、これらの句稿は結局、原民喜の生前には公にされていないというのが、現在通行の共通認識であると考えられる。即ち、少なくともこちらの句稿は佐々木基一によって筐底に保管されていただけであって、どこかの雑誌などには公開されなかったのであり、原句稿も、この書簡発送からは二十年の後、民喜の自截から十四年後になって初めて日の目を見たのである。而も、本書簡及び句稿に至っては本底本で初めて公開されたのであるから、実に民喜の自死からは遠く二十七年後にやっと明らかにされたものなのである。
現行の知られる原民喜の「杞憂句集」の「原子爆弾」との句の異同を最後に注で示した(リンク先は私の電子化したもの)。]
お變りありませんか。
新しい原稿書きかけたのですが纏まらないので原子爆彈の方を速達で送つておきました。十七文字十二行になつて居て字もきたなく意に滿たない個所もありますが、適當に御取扱ひ下さい。
本郷へはまだおいでになりませんか。
寒くてやりきれない年末がやつて來ます。
十二月十二日 原民喜
原子爆彈 即興ニスギズ
夏の野に幻の破片きらめけり
短夜を※れし山河叫び合ふ
炎の樹雷雨の空に舞上がる
日の暑さ死臭に滿てる百日紅
重傷者來て呑む淸水生温く
梯子にゐる屍もあり雲の峰
水をのみ死にゆく少女蟬の聲
人の肩に爪立てて死す夏の月
魂呆けて川にかがめり月見草
廢虛すぎて蜻蛉の群を眺めやる
[やぶちゃん注:句の異同その他について注する。私は既に自身のサイト内で「原民喜句集(杞憂句集)」を公開しているが(底本は本電子と同じであるが、収録は別の箇所である「杞憂句集 その二」である)、そこに示した「原子爆弾」のパートを、本電子化ポリシーに基づいて正字化して示して見ると、以下のようになる(前記と同様に「水をのみ死にゆく少女蟬の聲」の「蟬」は元の用字)。
*
原子爆彈
夏の野に幻の破片きらめけり
短夜を倒れし山河叫び合ふ
炎の樹雷雨の空に舞上がる
日の暑さ死臭に滿てる百日紅
重傷者の來て呑む淸水生温く
梯子にゐる屍もあり雲の峰
水をのみ死にゆく少女蟬の聲
人の肩に爪立てて死す夏の月
魂呆けて川にかがめり月見草
廢墟すぎて蜻蛉の群を眺めやる
秋の水燒け爛れたる岸をめぐり
飢ゑて幾日ぞ靑田をめぐり風そよぐ
飢ゑて幾日靑田をめぐり風の音
里とんぼ流れにうごき毒空木
もらひ湯にまた新しき蟲の聲
秋雨に弱りゆく身は晝の夢
薄雲の柿ある村に日は鈍る
小春日をひだるきままに歩くなり
霜月の刈田のはての嚴島
吹雪あり我に幻のちまたあり
こらへ居し夜のあけがたや雲の峰
ある家に時計打ちをり葱畑
山は近く空はり裂けず山近く
*
これと、本書簡との間には二つの問題がある。まず一つはたいしたことのない、句の微妙な異同である。というよりも、標題自体が、
「原子爆彈 即興ニスギズ」から「原子爆彈」
に変えられている事実には私は着目しておかねばならぬと思う。「即興ニスギズ」の附加文は、私は、原爆の惨状をろくに伝えることの出来ぬ、たかが俳句/されど俳句、という民喜の苦渋の思いが含まれているのであって、あって然るべきであると私は個人的に思うのである。以下、異同のある句に就いて、前に○本書簡句稿を、後に◎現行の改稿定稿(恣意的に正字化変換したもの)を示す。
○短夜を※れし山河叫び合ふ(「※」=(へん)「血」+(つくり)「卜」)
↓
◎短夜を倒れし山河叫び合ふ
○炎の樹雷雨の空に舞上がる
↓
◎炎の樹雷雨の空に舞ひ上がる
〇重傷者來て呑む淸水生温く
↓
◎重傷者の來て呑む淸水生温く
〇廢虛すぎて蜻蛉の群を眺めやる
↓
◎廢墟すぎて蜻蛉の群を眺めやる
この内、有意な異同は「重傷者來て呑む淸水生温く」を敢えて字余りに確信犯で変えた「重傷者の來て呑む淸水生温く」だけである。これは、まさに描くところの熱戦に焼かれた重症者の奇妙な運動のリズムを伝えるものであり、字余りの真骨頂というべき卓抜な推敲と思う。「※」の変更は高い確率で編集者によるものであり、「舞上る」「廢虛」(これは誤字ではない。かくも書くのである)の変更は民喜の与り知らぬ各全集編者の仕儀ともとれぬことはない。
しかしもっと大きな問題がここにはある。それは本書簡にない句が、現行の「杞憂句集」には実に十三句も後に続いているという事実である。
しかも現在、この「杞憂句集」を読む読者は、その十三句も「原子爆彈」のパート内のものとして百人が百人読んでいる事実である(実際に青土社版の「杞憂句集」には「廢墟すぎて蜻蛉の群を眺めやる」の句と「秋の水燒け爛れたる岸をめぐり」の間には、行空けも何もなく、そのまま最後まで続いているのである。
私は別に――「秋の水燒け爛れたる岸をめぐり」以降の句は――被爆後の句群でない――などと言おうとしているのでは――ない。
確かに「秋の水燒け爛れたる岸をめぐり」は被爆後の景として腑には確かに落ちる。
ところが――である。
この内の、
ある家に時計打ちをり葱畑
は、被爆以前、その十九年も前の、戦前の民喜二十の頃の句であることが判明しているのである。
私の『原民喜「春眠」十五句 (山本健吉撰)』(大正一五(一九二六)年十月発行の生原稿を綴った回覧雑誌『四五人会雑誌』一号(萬歳号)掲載)を御覧戴きたい。そこで私は以下のように注した。
*
[やぶちゃん注:この句、実は民喜の「杞憂句集」の最終パートである「原子爆弾」の終りから二つ目に、完全な相同句がさりげなく配されている。私は被爆後の句とばかり思っていた。或いは、被直後に移った広島郊外の八幡村(恐らくは広島県の旧山県郡八幡村。現在の北広島町内)で同じ景色を再体験して完全なフラッシュ・バックが起ったものかも知れないが、実際には実に十九年前の句であったのである。しかしこれは恐らく、民喜の恣意的な仕掛けではない、と私は思う。杞憂が現実となって太陽が地に落下したあの日――彼の意識はまさに遙かにあの原爆の閃光のように――意識のフラッシュ・バックが起こっていたのではなかったか?――自分個人は永遠に取り戻すことの出来なくなった、青春の日の至福の、田園風景のスカルプティング・イン・タイムに向かって――]
*
この句は少なくとも――元は原子爆弾とは無縁な句であった――のである。そうしてそういう観点から、再度、「秋の水燒け爛れたる岸をめぐり」以降の句を虚心に読んでみるならば、概ね、被爆後に身を寄せた八幡村の景と読めはするものの、それは冒頭十句の強烈な被爆実景からは急速に離れていくことが判る。寧ろ、虚脱した中で、被災現状を幻であったかのように見せる、避難した同村の田園風景を基調としていることが判る。それでも「秋の水燒け爛れたる岸をめぐり」「飢ゑて幾日ぞ靑田をめぐり風そよぐ」「飢ゑて幾日靑田をめぐり風の音」「もらひ湯にまた新しき蟲の聲」「秋雨に弱りゆく身は晝の夢」「小春日をひだるきままに歩くなり」「吹雪あり我に幻のちまたあり」「こらへ居し夜のあけがたや雲の峰」「山は近く空はり裂けず山近く」といった句には、原爆被災の後景を確かに看取することは出来る。
しかし、例えば「薄雲の柿ある村に日は鈍る」はどうか? 「霜月の刈田のはての嚴島」はどうか? そうしてこの遙か戦前の日の詠である「ある家に時計打ちをり葱畑」を「原子爆彈」のパートの一巻に配するは――原民喜自身の矜持として――よいかどうか? という疑問が私には残るのである。
私は、これら十三句を一連の「原子爆彈」群としたのは初出の芳賀書店版全集の編者の恣意ではなかったか? と実は疑っているのである。
私は個人的には――「杞憂句集」のこの十三句は、「廢墟すぎて蜻蛉の群を眺めやる」の後にアスタリスクなどを挟み、前の「原子爆彈」群とは間隙を挟んで掲載されるべきもの――と大真面目に感じている人間であることを最後に表明しておく。]
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