「笈の小文」の旅シンクロニティ―― さまざまの事おもひ出す櫻かな 芭蕉
本日 2016年 4月13日
貞享5年 3月13日
はグレゴリオ暦で
1688年 4月13日
故主蟬吟(せんぎん)公の庭にて、
さまざまの事おもひ出す櫻かな
「笈の小文」。真蹟詠草には、
探丸子(たんぐわんし)のきみ、別
墅(べつしよ)の花見を催させ給ひ
けるに、昔の跡もさながらにて
と前書する。
「故主蟬吟」とは芭蕉が少年期より近習(きんじゅう)として出仕していた(現行では芭蕉の出自は農民であり、事実上の仕事は厨房担当であったと推定されている)藤堂良忠(寛永一九(一六四二)年~寛文六(一六六六)年)のこと(蟬吟は彼の俳号)。伊賀国上野の城代付侍大将であった藤堂新七郎良清(良精とも)の三男で、松永貞徳や北村季吟について俳諧を嗜んでいた縁から配下の芭蕉も俳諧を始めたとされる(芭蕉は良忠より二歳年下であった)。享年二十五で、芭蕉は彼の遺骨を高野山に納めると故郷を出でて、風狂の世界に生きることとなった。真蹟詠草前書の中の「探丸子のきみ」とは、良忠の嗣子であった良長の俳号。「別墅」は別荘。良長の別邸は「八景亭」と称し、現在の三重県伊賀市上野玄蕃町(げんばまち:先に注で示した菅原神社の東北直近に当たる)にあった。
この句に、ホストの良長は、
さまざまの事おもひ出す櫻かな 芭蕉
春の日はやくふでに暮行 探丸
と脇を付けている(言わずもがな乍ら、「ふで」は「筆」、「暮行」は「くれゆく」)。
芭蕉の万感胸に迫る思いを考えれば、誰も何も言う資格など持てぬ。いや、誰もにも、その人それぞれその人だけの、「さまざまの」ことを思「ひ出す」、「櫻」が、ある――