「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 吉野にて櫻見せうぞ檜木笠 芭蕉 / 吉野にて我も見せうぞ檜木笠 萬菊丸
本日 2016年 4月19日
貞享5年 3月19日
はグレゴリオ暦で
1688年 4月19日
彌生半(なかば)過ぐるほど、そぞろに浮き立つ心の花の我を導く枝折(しをり)と成りて、吉野の花に思ひ立たんとするに、かの伊良古崎にて契り置し人の 、伊勢にて出迎でひ、倶に旅寢の哀れをも見、且つは我が爲めに童子と成りて、道の便りにもならんと、自ら萬菊丸と名を云ふ。まことに童(わらべ)らしき名のさま、いと興あり。いでや門出の戲(たはぶ)れごとせんと、笠のうちに落書(らくがき)す。
乾坤無住同行二人(けんこんむぢゆうどうぎやうににん)
吉野にて櫻見せうぞ檜木笠
吉野にて我も見せうぞ檜木笠 萬菊丸
「笈の小文」より。
「かの伊良古崎にて契り置し人」は杜国のこと。彼は米延商空米売買(こめのべあきないからまいばいばい:現在でいう先物取引)によって伊良湖岬に流罪となっていたが、これは尾張藩領内からの追放であって、監視人がいるわけでも軟禁されているわけでもなく、尾張領を避けて海路を辿って伊勢に行けば問題なく、以後も場所を弁えれば、普通に旅が可能であった。但し、公的に刑に処せられたされた罪人であることから、芭蕉は一応、遠慮して、ここに俳号すらも添えていないのである(読みゃ、これ、分からない奴はいないけどね)。詳しくは私の「芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる」の「笈の小文」の原文や私の詳注を参照されたい。「笈の小文」には具体に約束は載せられていないが、この折りの二人の「契り」であったのである。
「我を導く枝折(しをり)」これは西行の「新古今和歌集」に載る(第八六番歌)、
吉野山に昨年(こぞ)の枝折(しをり)の道かへてまだ見ぬ方の花をたづねむ
を意識した表現で、西行の歌の「枝折」は道標(みちしるべ)のこと乍ら、芭蕉の謂いは、「そぞろに浮き立つ心の花」(「心の花」は「華やかに浮き立つ心」の謂いで、既して「浮かれ心」が示されている)という「主(あるじ)」が、私芭蕉をその花へ導く「案内人」(「枝折」)と「成」して、「吉野の花に思ひ立たんとする」というのである。花見に行くのは芭蕉ではない。花に惹かれる芭蕉の心の中の「そぞろ」神であり、「浮き立つ心の花」なのである。お間違えのないように。こうして立ち止まって凝っと吟味しない輩に限って、俳句なんて和歌に劣るなんどと、糞のようなことを言うのである。
「童子」侍童(じどう)。寺院の稚児(ちご)。「契り」――「門」出の「戲れごと」――「萬菊丸」の「菊」と謂い――そこで彼が相聞する句の「我も見せうぞ」と謂い――若衆道の匂いが強烈に漂ってくる。実に――いい。
「乾坤無住同行二人」原義は――この総ての現世の無常なる天地の世界(「乾坤」)には、我らは一所として落ち着くようなことはせぬ(「無住」)――ただただ、「仏」と「私」と二人きりでともに求道の旅をすることこそが生きるということである(「同行二人」)――である(遍路などでは自分と「同行」してくれるのは弘法大師様であるとも謂う)が、ここは「興」に乗った「戲れごと」で、「二人」とは――芭蕉とプエル・エテルヌス(puer eternus:ラテン語で「永遠の少年」)「萬菊丸」杜国――を同時に、というより、それを確信犯の真意として見立てているのである。しかもここが面白いのは、それを檜を薄く削って網代に編んだ笠に裏書し(これ自体は遍路もする)、しかも次の句を、その「檜笠」に向かっての呼びかけ、預言・誓約の句柄とするという、とんでもない遊び心が働いている点である。これは読者の意識が萬菊丸に過度に向けられてしまい、流罪の罪人ではないかという下らぬ穿鑿意識をいなす機能をも同時に持っていると私は思う。芭蕉によるホモセクシャルな雰囲気の過剰とも言える演出もそれに功があるようにも私は感じている。