甲子夜話卷之二 3 享和の比、町中火防手當の事
2-3 享和の比、町中火防手當の事
故松平豆州は予が岳父なり。因て少年の頃より往來す。かの臣に新藤右兵衞と云し人あり。頗學者にて、其頃はや老年なりしが、享保の頃よりの人なり。これが語しは、德廟の時は町中火防の手當も今とは替れり。其次第は、まづ火事と聞くと、其町限にして他の町には往かずして、壯長なる者は、皆火防を專として、屋上に登て火を禦ぐ。老少の中、用にも立べきは、皆下に在て水を運び、屋上の防火の力を助く。これに依てその頃大火はなかりしとなり。今は出火と聞けば、皆其所に馳衆り騷動大かたならず。それゆへ延燒も還てありと云しが、其新藤が言も亦既に廿餘年を歷て、火事場の體もますます陵遲せり。
■やぶちゃんの呟き
「享和」一八〇一年から一八〇四年。
「松平豆州」三河吉田藩第二代藩主松平信礼(のぶうや/のぶいや 元文二(一七三七)年~明和七(一七七〇)年)。ウィキの「松平信礼」によれば、『生来病弱であった信礼は』、明和七(一七七〇)年一月の『将軍紅葉山参詣の際に御鏡餅役は勤めたものの』、同年五月『下旬以降は病床に臥して全く登城できず』、六月十六日に死去した。享年三十四。若死にであるが学問も好み、『武芸にも励み、特に射撃の腕前がよかったという。古楽についてもまた父と同様に興味を持っており、楽書数十巻を購入し』ているとある。
「予が岳父」信礼の娘である鶴年(「靏年」とも表記。読み不詳。「つるとし」と一応訓じておく)は松浦清(静山)の正妻であった。静山は義父の信礼とは二十三歳年下で、本文に「少年の頃より往來す」とあるところからは、婚姻関係が成立する以前から親しく出入りしていた(そこで娘との婚姻が成立した)と考えた方が自然である。
「新藤右兵衞」不詳。
「頗」「すこぶる」。
「享保」一七一六年から一七三五年。
「德廟」第八代将軍徳川吉宗。
「限」「かぎり」、
「專」「もつぱら(もっぱら)」。
「登て」「のぼりて」。
「禦ぐ」「ふせぐ」。
「助く」「たすく」。
「馳衆り」「はせあつまり」。
「還て」「かへりて」。却って。
「其新藤が言も亦既に廿餘年を歷て」「歷て」は「へて」(経て)と読む。静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文政四(一八二一)年(十一月十七日甲子の夜)であるから、静山がこの話を新藤から聴いたのは寛政一二(一八〇〇)年より以前ということになろうか。
「體」様子。様態。状況。
「陵遲」「りょうち(りょうち)」と読み、物事が次第に衰えること。