「笈の小文」の旅シンクロニティ―― ちちははのしきりにこひし雉の聲 芭蕉
本日 2016年 4月26日
貞享5年 3月26日
はグレゴリオ暦で
1688年 4月26日
高野
ちちははのしきりにこひし雉の聲
散る花に髻(たぶさ)はづかし奥の院 萬菊
「笈の小文」。サイト「俳諧」の「笈の小文」では、三月二十四日に吉野山を発ち、翌二十五日に五條宿から不動坂を経、その夕刻に高野山に着き、その翌二十六日に高野山奥の院にて本句を詠じたと推定されている。
松尾家の宗旨は真言宗で、実の父母(この前月二月十八日の祥月命日には伊賀上野の実家にて十三の時に亡くなった父松尾与左衛門三十三回忌法要を営んでおり、この年の六月二十二日は亡母の五回忌に当たった)を含め、先祖の鬢髪(びんぱつ)はここに収められており、しかも若き日に自ら仕えた故主蟬吟藤堂良忠(この一ヶ月後は寛文六(一六六六)年四月二十五日没した彼の二十三回忌に当たる)の遺骨を抱いてここに納めに参ったのも芭蕉自身であり、しかもその後に、彼は無常を感じて故郷を出で、かく漂泊風狂の俳諧人生へと旅立ったのでもあった。彼にとって、高野とはまさに芭蕉という精神現象の常に岐路にあったのだと言えるのである。
ずっと後のことながら、加藤暁台門下で名古屋の俳壇を主導した井上士朗(寛保二(一七四二)年~文化九(一八一二)年)の「枇杷園随筆」(文化七年刊)の「秋挙夜話」には「高野山端書」と仮題した芭蕉の遺文が載り、そこには、
*
高野の奥に登れば、靈場盛んにして法の燈(ともしび)消ゆる時なく、坊舎、地を占めて、仏閣、甍を並べ、一印頓成(いちいんとんじう)の春の花は、寂寞(じやくまく)の霞の空に匂ひておぼえ、猿の聲、鳥の啼くにも腸(はらわた)を破るばかりにて、御庿(ごびやう)を心しづかに拜み、骨堂(こつだう)の邊りに佇みて、倩(つらつら)思ふやうあり。此(この)處(ところ)は多く人の形見(かたみ)の集まれる所にして、我が祖先の鬢髪(びんぱつ)を始め、親しき懷しきかぎりの白骨も、此の内にこそ思ひこめつれと、袂(たもと)もせきあへず、そぞろにこぼるゝ淚をとゞめて、
父母のしきりに戀し雉の聲
*
と出る。この印象的な前書を信ずるならば、この句のロケーションは納骨堂に参り入った際の詠と読めよう(山本健吉氏もそう、とっておられる)。さればこそ、雉子の声は直に耳に入る鋭い声ではない。そのSEでこそ私は、よい、と考える。
この一句は行基菩薩が高野山で詠んだとされる(伝承に過ぎず、少なくとも詠地は高野ではあるまい。事実とすれば高野山金剛峯寺建立の遙か七十年以上前ということになるからである)「玉葉集」の一首(第二六二七番歌)、
山鳥のなくを聞(きき)て
山鳥のほろほろと鳴く聲きけばちちかとぞ思ふははかとぞ思ふ
に基づく。その程度で考証は、もう沢山だ。諸家の「焼け野の雉(きぎす)夜(よる)の鶴」なんぞをしたり顔に挙げる注は、句の深く沈潜した芭蕉への共感的「感傷」を妨げるだけの退屈な「鑑賞」に過ぎぬ。
なお、添えられた「萬菊」丸杜国の「散る花に髻(たぶさ)はづかし奥の院」という句は、金剛峯寺の、弘法大師が今も生きて居らるるとされる聖域「奥の院」を訪れた髻(もとどり)のある杜国が、その俗体(彼はまた、現世で、現に今、追放を受けている罪人でもあるが故にここは妙にさらにさらに相応しい気がしてくるのである)を忸怩たるものとして恥じ入る――花散る無常の季節の理の下で、である――という句である。芭蕉の句の構造と美しい対句を成していることにも着目されたい。杜国――こいつ――ただ者(もん)じゃあ、ない――
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