原民喜「淡章」(恣意的正字化版) 鞦韆
鞦韆
干潟の果てには水と空があつた。錆びた鏡の面のやうに海は佗しく、傾いた午後の柔かい陽ざしが、遠くにある水を微かに光らせてゐた。――あんな遙かな水と空との中に消えてゆく小さな舟の姿を目に描いて、少しづつ、少しづつ、消えてゆくのを考へてゐると、そのうちにだんだん睡くなるのだ、と後の方で話聲がしてゐた。
四人は海岸通から高臺の方へ出て、茫とした畑道を歩いた。向の空に氣球が見る間に低くずれさがつて來て、それが大きく目に見えるにつれだんだん不安な氣持をそそる。と、狹い徑の芙蓉垣の側に潛んでゐた眼の鋭い男が、鎌を振上げて、萱を刈りだした。四人はおどろいたやうに、その男を見返つた。それからまた畑の中を進んだ。松林を拔けて、徑が曲り、旅館の庭が見えて來た。ひつそりとした夕暮の庭に鞦韆があつた。と、一人がつかつかと鞦韆に近づき、身輕に搖すぶつて飛乘つてゐた。――その若い學生は翌年の秋、鞦韆に飛乘るやうな身輕さで自らの命を絶つたのである。
[やぶちゃん注:「鞦韆」音読みなら「しうせん(しゅうせん)」であるが、「ふららこ」或いは「ぶらんこ」と読みたい(私は朗読のことを考えると後者で読みたい)。なお、「ブランコ」の語源はポルトガル語“balanço”に基づくという説があるが、定かではない。なお、「翌年の秋」「自らの命を絶つた」「若い學生」は不詳である。]
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