原民喜「雜音帳」(自筆原稿復元版) 皺
皺
電車は例によつてひどく混んでゐた。三十分あまり待たされた後、漸く乘れた電車であつた。吊革に凭れたまま見るともなしに坐席の人々を見渡してゐると、華美なモンペイを着た娘から二三人おいて、奇妙な男の顏があるのが彼の注意を惹きつけた。はじめはただ黯んが顏が目に映つたのだが、よく見ると、その顏はひどく夥しい皺によつて造られてゐるのだつた。額や頰などに刻まれてゐる大きな皺と皺の合間には無數の小皺が網の目をなして刻み込まれ、顏中が皺の塊で出來上つてゐて、そのため眼などははつきりした印象を殘さない。これは木乃伊を聯想さす顏であつた。彼は見てゐるほどに、奇異な感嘆にうたれた。あれは一體何をする男なのだらうか、そして年齡は凡そどれ位なのだらうか、あの澤山の皺の一つ一つは激しい勞苦の跡を物語るのであらうか、それとも何か造化の戲れによつて刻まれたものであらうか、――さう思ひながら、彼の注意が相手の顏から全身へ移されて行つた時、ここでもまた夥しい皺と出逢つた。見ればその男の手も足も胸のあたりも殆ど顏と同じ調子で縱橫に皺は刻み込まれてゐるのだ。が、彼はもうこれ以上相手の姿を觀察する氣にはなれなかつた。さうして、眼を窓の外の野づらに向けた時である。眼には何か微かに明るい色彩が映つた。靑い野の一端から中空に對つて、たしかに虹が懸つてゐるのであつた。そのあたりには晩夏の烈しい光線を孕んだ一塊の雨雲が屯してゐて、虹はほんの中途で立消えになつてはゐるが、かすかにさまざまの色を放つて、茫と美しい。あの下にはいかなる幸が想像されるのであらうか。昨夜から警戒警報で何となく空模樣が氣になつてゐる折から、吻と童話めいた花が空には消殘つてゐるのであつた。(昭和十八年)
[やぶちゃん注:本篇で主人公が見た皺だらけの人物、全身性の皮膚弛緩を起こしている人は、何らかの皮膚疾患(先天性の遺伝性疾患かも知れない)を持った方である可能性が高いように思われる。
「モンペイ」「もんぺ」のこと。「もっぺ」「もんぺい」とも呼んだ。語源は「股引(ももひき)」或いは「股はき(ももはき)」が変化して「もっぺ」→「もんぺ」になったとする説、門兵衛(もんべゑ)という人が考案したため、名前をもじって「もんぺ」になったとする説、厠で用を足すためには脱ぐのに時間がかかることから、体の門が閉ざされているの意の「門閉(もんぺい)」から「もんぺ」になったとする説、ズボン様の下穿きのことをアイヌ語で「おむんぺ」と呼ぶことから、それが転じて「もんぺ」になったとする説など多様である。
「屯してゐて」「たむろしていて」と訓ずる。
「吻と」「ほつと」。]

