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2016/04/22

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― さくら狩奇特(きどく)や日日に五里六里 / 日は花に暮れてさびしや羅漢柏 / 扇にて酒酌むかげや散る櫻 / 春雨の木下につたふ淸水かな 芭蕉

本日  2016年 4月22日

     貞享5年 3月22日

はグレゴリオ暦で

    1688年 4月22日

 

   櫻

 

さくら狩奇特(きどく)や日日に五里六里

 

日は花に暮れてさびしや羅漢柏(あすならう)

 

扇にて酒酌むかげや散る櫻

 

   苔淸水

 

春雨の木下(こした)につたふ淸水かな

 

吉野の花に三日とどまりて、曙(あけぼの)、黃昏(たそがれ)の景色に向ひ、有明の月の哀れなるさまなど、心に迫り胸に滿ちて、或るは攝政公の詠(ながめ)に奪はれ、西行の枝折(しおり)に迷ひ、かの貞室(ていしつ)が是れは是れはと打なぐりたるに、我が云はん言葉も無くて、徒(いたづ)らに口を閉ぢたる、いと口惜し。思ひ立ちたる風流いかめしく侍れども、ここに至りて無興(ぶきやう)の事なり

 

「笈の小文」。以上の四句は掲げた後文と、いつも本電子化で月日同定のお世話になっているサイト「俳諧」の「笈の小文」から、二十一日から二十三日の吉野滞在中の句と推定出来る。中をとって二十二日に配した。因みに、今年は既に吉野は奥千本に至るまで葉桜である(因みに今年の満開日は下千本・四月 五日/中千本・四月 七日/上千本四月九日/奥千本・四月十二日であった。三百二十八年前とは言え、温暖化は恐るべきである。

 

《一句目「さくら狩奇特(きどく)や日日に五里六里」》

・「奇特」表面的には一般的な「おこないが感心なさま」「けなげなさま」 に、なんともまあ、風狂人の愚かなる非生産的行動という自己韜晦としての「珍しいさま」「不思議なさま」の皮肉なる滑稽の諷喩を込めつつも、実は、句作もおろそかにして(後文に「徒らに口を閉ぢたる」とある。「奥の細道」の松島のように感極まった対象には芭蕉は張りあうような句をあえて詠もうとはしないのである。「奥の細道」の旅の事前の想定上の風雅のクライマックスが「松島の月」であったのにである。なお、実はこの「笈の小文」の旅に相当する草稿類の芭蕉生前の推敲改稿は「奥の細道」の旅以降に成された箇所が有意にあると考えられている)、憑りつかれたように「櫻狩」をして黙々と歩む芭蕉、彼をかくも惹くところの妖艶なる「桜の精」の「そぞろ神」的なる「不思議な効力」やその吉野山の「霊験」性(役小角はこの地で蔵王権現を本尊とする金峯山寺や修行道である大峯奥駈道を開いたとされる)をも裏に秘めたものと私は読む。なればこそ限られた山中でありながら「五里六里」と超人的に異空間的にこんなにも歩けるのである。いやさ、それだからこそ「きとく」でなく「きどく」なのだと私は感ずる種類の人間である。この句は諸注にけんもほろろに短評するような、ただの自省の滑稽諷刺のざれ句なんぞでは、ない。

・「五里六里」十九・六三~二十三・六四キロメートル。現在の近鉄吉野駅から奥千本までを往復しても凡そ九キロメートルであるから、その倍以上を一日にこの山中で桜狩りして逍遙したというのである。

 

《二句目「日は花に暮れてさびしや羅漢柏(あすならう)」》

 私は個人的にこの翳のある句が個人的に非常に好きである。真蹟懐紙や「笈日記」に、

 

    「明日は檜の木」とかや、谷の老

    木(おいき)の言へることあり。き

    のふは夢と過て、あすは未だ來らず。

    たゞ生前一樽の樂しみのほかに、明

    日は明日はと言ひくらして、終に賢

    者のそしりをうけぬ

 

 さびしさや花のあたりのあすならう

 

という句が載るが、これは本句の改作と思われる。私は中途半端な浪漫主義が漂うような改作よりも遙かに原形の方の冥さを愛する。

・「檜」 球果植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa

・「羅漢柏」日本固有種であるヒノキ科アスナロ属アスナロ Thujopsis dolabrata

 因みに改作の前書の中の「明日は檜の木」は「枕草子」(第三十七段)の、『あすはひの木、この世に近くも見え聞こえず、御嶽(みたけ)に詣でて歸りたる人などの持(も)て來(く)める。枝ざしなどは、いと手觸れにくげにあらくましけれど、何の心ありて、「あすはひの木」とつけけむ。あぢきなきかね言(ごと)なりや。誰(たれ)に賴めたるにかと思ふに、聞かまほしくをかし』(「御嶽」は吉野の金峰山、「あぢきなきかね言」は何のたしにもならぬつまらぬ予言の意)を指し、「生前一樽の樂しみ」は白居易の七言古詩の「勧酒」の中の「身後堆金挂北斗 不如生前一樽酒」(身後に金(こがね)を堆(うづたか)くして北斗を挂(さき)ふとも 如かず 生前一樽の酒に:死んでしまった後になって黄金を山の如く積んで北斗七星を支えたとしたって、それは、生きているうちに味わうこの一樽の酒には遠く及ばぬことだ)に拠る謂いである。

 

《三句目「扇にて酒酌むかげや散る櫻」》

 「駒掫(こまざらへ)」(芙雀編・元禄一五(一七〇二)年刊)には、

 

扇にて酒くむ花の木陰(こかげ)かな

 

で載ることから、掲げた句の「かげ」は「影」ではなく「陰」と読める。

 舞や能狂言の所作を引き出した夢幻的な句で、先の「花の陰(かげ)謠(うたひ)に似たる旅ねかな」と同様な発想に基づく。悪くない。無論、「扇にて酒酌むかげや散る櫻」の句形がよい。

 

《四句目「春雨の木下(こした)につたふ淸水かな」》

・「苔淸水」前書中のこれは固有名詞で、吉野にある西行庵跡近くにある清水、通称「とくとくの清水」を指す。西行が、

 

 とくとくと落つる岩間の苔淸水くみほすほどもなき住居かな

 

と詠んだとされることに基づく。但し、これは伝承であって、本歌は西行の歌集類には見出されない。芭蕉は既に「野ざらし紀行」の中でここを訪れて、

   *

 西(さい)上人の草の庵(いほり)の跡は、奥の院より右のかた二町ばかり分け入るほど、柴人(しばびと)の通ふ道のみわづかに有りて、嶮(さが)しき谷をへだてたる、いと尊し。かのとくとくの淸水は、昔に變らずとみえて、今もとくとくと雫(しづく)落ちける。

 

  露とくとく心みに浮世すすがばや

 

     若し是れ扶桑(ふさう)に伯夷あら

     ば、必ず口をすすがん。もし是れ許

     由(きよいう)に告げば、耳をあら

     はむ。

   *

と記している。

 以下、「笈の小文」の本文注。

・「有明の月」一六八八年四月二十二日の月の出は〇時一〇分、月の入りは九時三四分(月齢は一九・八)、翌二十三日なら月の出は一時〇二分、月の入りは一〇時四〇分である(月齢二〇・八)。やや膨らんだ半月。

・「攝政公の詠(ながめ)」後京極摂政藤原良経の「新勅撰和歌集」の「春上」所収の以下の和歌を指す。

 

 昔たれかかる櫻の種をうゑて吉野を春の山となしけむ

 

・「西行の枝折(しおり)」西行の「新古今和歌集」(第八六番歌)の以下の和歌を指す。

 

    花歌とてよみ侍りける

 

 吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ

 

・「貞室が是れは是れは」貞門七俳人の一人安原貞室(慶長一五(一六一〇)年~延宝元(一六七三)年:京の紙商人であった。芭蕉の師北村季吟は貞室の門弟から貞門に入っており、三十四も年下の芭蕉とともに改革派の一人として活躍した。芭蕉は彼を非常に高く評価している)の吉野での知られた句で「曠野」の巻頭を飾る、

 

    よしのにて

 

 これはこれはとばかり花の芳野山

 

を指す。

・「打なぐりたるに」その感銘を打ちつけ、ぶちまけるかのように吟じたのに。

・「我が云はん言葉も無くて」前掲の名吟群にすっかり圧倒されてしまって、私は詞にすべき吟詠の一つも産み出せず。

・「いかめしく侍れども」如何にもものものしく事大主義的であったのに。「笈の小文」の旅の事前の想定上の風雅のクライマックスはまさに吉野に設定されていたのである。

・「ここに至りて」こんな為体(ていたらく)と成り果てて。

・「無興」興醒め。

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