「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 花をやどにはじめをはりやはつかほど 芭蕉
本日 2016年 4月18日
貞享5年 3月18日
はグレゴリオ暦で
1688年 4月18日
瓢竹庵(へうちくあん)ざをいれて、
旅の思ひ、いと安かりければ、
花をやどにはじめをはりやはつかほど
真蹟詠草。「笈の小文」には不載。芭蕉葉二月末より杜国と吉野に発つ三月十九日までの二十日ほどの期間を伊賀上野城代の家臣岡本正次(俳号、苔蘇(たいそ))の邸内にあった瓢竹庵に滞在した。無論、宿主への謝意を込めた挨拶句ではあるが、この一句は「詞花和歌集」の関白前太政大臣藤原忠通の一首(第四八番歌)、
咲きしより散り果つるまで見しほどの花のもとにて二十日へりけり
に拠っているものの、芭蕉のそれこそがまさに二十日間の実際の花の蕾の開くそれから落花までのまことの「花の移ろい」の総て、自然の時間の始まりと終わりの実景の嘱目のリアズリズムに裏打ちされた強靭なものであって、遙かに美しい。
それにしても思うのは、当時の平均気温が現在よりも遙かに低く、桜の開花が遅かったと思われることである。例えば今日の吉野観光協会の桜情報によれば、既に奥千本は12日の満開から6日も経って散り始めている。芭蕉が杜国と明日発ったのでは、桜は既に見る影もないであろう。因みに、初春から低温の続いた4年前の2012年の奥千本の満開は4月24日であった。芭蕉の「花」を桜と限定せず、山吹などとする解釈、句の花は風雅の想像の産物と見る向きもあろうが、私はそれではあまりに侘びしく哀しいと思うのである。
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