原民喜「雜音帳」(自筆原稿復元版) 干もの
干もの
干ものを賣つてくれる家をある人から教へられた。大通に面した印刷屋から二軒目の平屋造の仕舞屋で、門口二間の葦簾の方から入ると、三尺の土間になつてゐて、すぐそこから六疊の一間が見渡せた。緣なし疊を敷詰めた六疊の部屋には壁の方に戸棚が立てかけてあつたりしたが、その向は緣側になつてゐて、雜然とした空地が感じられた。その辺で誰かパタパタ團扇を便つて火をおこしてゐる容子であつた。二三度大きな聲を掛けると、漸く跫音がして、老婆が緣側から覗いた。凉しさうな身なりをした老婆は六疊の中央まで滑るやうな足どりでやつて來ると中腰で立留まつた。
「今日はなにか干ものがありませんか」と聲をかけると、老婆はすぐ了解したやうな顏付で、「それが生憎、昨日から脚を痛めてゐますので、まだ取りに行けないのです、二三日後なら又あるでせう」と云つた。どんなものがあるのか訊くと、鰺、梭子魚などだといふ。
この頃、魚の配給は一匹もなく、野菜も二十日に一回位ほんの一握りばらばらつと配ばられるだけで、どうしてやつて行つていいのか誰も見當がつかないのであつたが、在る處には何でもある、といふ噂ばかりは聞き倦きるほど聞かされてゐた。
鯵の干ものでも澤山買へれば、どんなにいいことか、買へないさきから病人は家で喜んでゐた。
二三日して、再びその家を訪ふと、今度は老婆と娘が部屋の中央に坐つてゐた。「昨日、忰に連隊まで面會に行きましたので、又、入つたらお知らせしますから」と老婆は云ふ。「何なら取つておきませう、どれくらゐお入用なのですか」娘も口を出した。一匹三十錢位だときいたので百匹ほど賴んでおいた。
一週間したが通知はなかつた。百匹の干ものを想像して、風呂敷を携へて再びその家を訪ねた。生僧、お祭りで漁師がみんな休んでゐるから、もう十日ほど後にしてくれといふことであつた。
野菜買出の取締が嚴重で、どこの驛でも取上げた西瓜の山のほとりで、ポカポカと男が撲られてゐるといふことをよく耳にした。これもその頃のことであつた。
それから十日後のこと、またその家を訪れた。すると緣側のはとりで、男と娘と老婆が一塊りになつて、何かむしやむしや食べてゐた。老婆はこちらを振向くと、白いものを片手に持つたまま、滑るやうにやつて來た。
「度度來て頂いて、お氣の毒ですが、昨日取りに行く筈でしたのにかういふ電報が參りました、何しろ警戒が嚴しう御座いますから」さう云つて一葉の電報を疊にひろげると、片手に持つてゐた白いものを差出した。「ほんの一つですが召上りなさい」玉蜀黍の茹でたものであつた。(昭和十九年)
[やぶちゃん注:この一篇は途中で(正確に言うと、「この頃、魚の配給は一匹もなく、野菜も二」(ノンブル書き込み「41」頁)/「十日に一回位……」(ノンブル書き込み「42」頁)の斜線部分以降)原稿用紙が変わっている。「42」以降は彼の兄が経営する広島の「原商店」の原稿用紙である二〇×一〇=二〇〇字詰ブルー・ブラック色の印刷でルビ行はない縦横罫紙である(マスは縦が少し長い)。右罫外下方に『廣島市幟町京橋筋』(標柱)『合名會社』(二行)『原 商 店』(ポイント大)とあり、左罫外には上方に『昭和 年 月 日』、下半分に『(電話中一二八番・七九三〇番) (振替口座廣島八一六番』とあり、下罫外に『17.2.5,000』の数字がそれぞれ印刷されてある。民喜は今まで通り、左上部角の位置に頁数を書き入れている。執筆に使用されているインクの色に変化はなく、ここ以降を別に書き直したようには見受けられず、単に前の原稿用紙が尽きたものと考えられる。なお、これによって、実はこの前まで原稿用紙は二〇×一〇=一〇〇字詰原稿用紙であることが判明した。
なお、本篇では魚類と野菜類の統制が背景にあるが、これについては、「法政大学大原社会問題研究所」公式サイト内の「日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態 The Labour
Year Book of Japan special ed.」の「第五編 物価・配給統制と労働者の生活」の「第二章 配給、消費、生活実態」に以下のようにある。『野菜、果物類については一九四〇』(昭和十五)『年七月に配給統制規則が施行されるとともに同年八月、一九四一年七月の二回の統制価格の設定によって、物価統制はほとんど全品目に及ぶことになったが(第一章第一節を参照)、一般消費者への青果物供給状況は、一九四一年春から夏にかけての端境期に豪雨の被害が大きく生産が著減したため、配給が混乱し、大都市においては買出しによって配給不足を補わねばならなかった』。『魚類についても一九四○年九月における統制価格の設定、および一九四一年九月におけるその拡充によって物価統制は魚介類のほとんど全部に及ぶようになった。また一九四一年四月には鮮魚介の配給統制規則が実施されたが、同年一一月ごろ、東京においてはすでに魚のヤミ売りが増大し、一般配給の不足が激しくなった。当時、上等の魚はいわゆるヤミルートを通って富裕階級や高級料理屋に集中し、一般消費者に配給されるものは鮮度の落ちた』イワシやサバ、スルメイカ、ハタハタ『ばかりの状態だといわれた(朝日新聞一九四一年一一月一二日付)。そのため同月、魚の登録配給制が実施されたが、効果はなかった。また一九四二年一月には水産物配給統制規則が公布され、かん詰めを除く全水産食用加工品に配給統制が実施された』。『都市における生鮮食料品の最低配給必要量は、野菜類が一人一日当たり二五〇グラム、魚類は同じく五〇グラムといわれていた。しかしこの生鮮食料品の生産、供給量は季節的変動や日々の変動が大きく、またその性質から保存に不向きであった。そのため毎日の配給量は供給量の変動に直接左右されて増減がはなはだしく、一定量の規則的配給の確保ということには困難な条件をもっていた。さらにこの配給機構の欠陥がこれを助長した』。『各都市における生鮮食料品の配給は、こうして統制開始の当初から混乱を内包したまま太平洋戦争期にはいったが、戦争下需給事情が悪化するにつれて、一般配給量は著減し配給もきわめて不規則となって、欠配状態が増大した。行列買い、情実売り、ヤミ売りは横行し、生鮮食料品の欠乏は戦争中を通じて最もはなはだしいものだった。またこれは肉や鶏卵、あるいは乾物、煮物などの副食品の配給についても同じだった』。『また日銀調査局の資料によると、東京における一九四二年一月から一一月にかけての魚の一般家庭配給量は一人一日当たり平均一一・三匁』(約四十二グラム)『にすぎないという状況だった(「食糧品ノ配給ニ付テ」一九四四年一月による)』。同ページの注には別に引用で、「『普通消費者に配給された実際の数量は最初から指定数字の六〇%にすぎず、のちになるにしたがってますます低下した。たとえば、東京における魚類の実際配給量は一九四二年の一日三六・五グラムから一九四五年一月の一〇・五グラムに下り、一九四五年の八月には皆無となった。」』とある。本篇作品中時間の前年である昭和一八(一九四三)年には、『東京における四月ごろの魚の配給は一人一日当たり平均六・九匁』(二十六グラム弱)『程度にすぎず、たまにあればさめだけという状況だった。六月から魚の隣組単位の登録制が実施されたが、七月、八月と魚の配給は依然として少なく一週間~一〇日ぐらいに一回』、ニシンや塩ザケ、マスなどの『配給が行なわれる程度だった。野菜もまた不足が続いた。またこれまで野菜の買出し(持出し)制限は、青果物配給統制規則により一人一日当たり八貫目』(三十キログラム)『以内とされていたが、七月からこれが二貫目』(七・五キログラム)『以内に制限された』とあるのが非常に参考になる。
「二間」三メートル六十三・六センチメートル。
「葦簾」文字通りなら「あしず」で葦を編んで作ったすだれであるが、まあ、「よしず」(葭簀)と訓じてよかろう。
「三尺」九十・九センチメートル。
「鰺」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目アジ科アジ亜科 Caranginae に属するアジ類。或いは代表種であるアジ亜科マアジ属マアジ Trachurus japonicus 。
「梭子魚」「かます」と訓ずる。スズキ目サバ亜目カマス科カマス属 Sphyraena の類。或いは単に「カマス」と呼ばれて売られていることの多い同属のアカカマス Sphyraena pinguis。因みに「かます」は「叺(かます)」で長方形の筵(むしろ)を二つ折りにして袋状にしたもので、昭和三十年代の水産業界では盛んに使われた。本カマス類の口がこの「叺」の入れ口ように大きいことに由来する(由来はしばしば海産生物では参考にさせて戴いている「ぼうずコンニャクの魚類図鑑」の「アカカマス」の記載に拠った)。
「鯵の干ものでも澤山買へれば、どんなにいいことか、買へないさきから病人は家で喜んでゐた。」というこの独立段落は青土社版全集では前の段落に続いていて、この後で改行されている。
『二三日して、再びその家を訪ふと、今度は老婆と娘が部屋の中央に坐つてゐた。「昨日、忰に連隊まで面會に行きましたので、又、入つたらお知らせしますから」と老婆は云ふ。「何なら取つておきませう、どれくらゐお入用なのですか」娘も口を出した。一匹三十錢位だときいたので百匹ほど賴んでおいた。』(改行)「一週間したが通知はなかつた。百匹の干ものを想像して、風呂敷を携へて再びその家を訪ねた。生僧、お祭りで漁師がみんな休んでゐるから、もう十日ほど後にしてくれといふことであつた。」(改行)野菜買出の取締が嚴重で、どこの驛でも取上げた西瓜の山のほとりで、ポカポカと男が撲られてゐるといふことをよく耳にした。これもその頃のことであつた。」(改行)の三段落は青土社版全集は一段落となっている。
「西瓜」この年(昭和一九(一九四四)年)一月二十四日附けで、スイカ・メロンなどの不急作物の作付けが禁止されている(「一般戦災ホームページ」の「太平洋戦争の年表」(社団法人 日本戦災遺族会 昭和五四(一九七九)年度「全国戦災史実調査報告書」に拠る)を参照した)。
「電報」漁師からの、現地での取り締まりが強化されたために売れない、危ないから来るな、といった内容であろう。]