原民喜「淡章」(恣意的正字化版) 秋雨
秋雨
秋の眞晝の雨が薄暗い小驛の簷に注いでゐた。乘替への電車を待つ人がホームにぼんやりと佇み、雨に濡れた線路に眼を落してゐる。電車はなかなかやつて來ず、周圍にゐる人々はみんな啞のやうな表情で、濕つた鞄や外套を抱へてゐた。こんな時刻に遭遇しては、人はみんな、てんでに己を齡よりも老けて感じるらしい。彼もまた屈托した氣分で、侘しい田舍驛の風景に染まつてゐた。その提げてゐる蝙蝠傘は布が薄いため烈しい雨なら遠慮なく漏つたが、この二三日、傘を漏る雨のために、彼は靴も帽子も眼鏡までもびしよ濡れになつたのである。彼は老いてこの田舍に教師として虛しく埋れてしまふ身の末路をぼんやりと想像してゐた。むしろ、かういふ時刻に於いては、落魄の身がしのばれるのかもしれなかつた。何もかも色彩を失ひ、情緒を忘れ、冷々としたもので鎖されてゐる。
ふとその時、向のホームに電車が來て留まるのが眺められた。彼の視線は何氣なく、昇降口の扉の方に注がれてゐた。ひどく混んでゐると見えて、そこの扉は人の姿で一杯であつたが、ちらりと若い娘の顏がこちらを覘き出した。娘は今、何が嬉しいのか、微笑を湛へて、頻りにこちらを眺めてゐるのである。無表情の儘、彼は珍しげに相手の動作を視守つた。その娘は彈む氣持をどうにも出來ないらしく、何かにそれを頒ち與へようとしてゐる。とうとう娘は掌のハンケチをもつて、曇つてゐる硝子板を丁寧に愛情の籠る動作で拭ひ出した。それから綺麗になつた硝子のところから、更に滿足げにこちらを眺めるのであつた。暫くすると、娘を乘せた電車は發車のベルとともに動き出した。と、娘はこのことが又新しい幸福の發見かのやうに、嬉々としてこちらに別れの面を向けた。
(神が女を創り、靑春を與へたとは、驚くべきことだ)と彼は茫然と考へてゐた。
[やぶちゃん注:「とうとう」はママ。本電子化の冒頭に示した通り、本作が昭和一七(一九四二)年『三田文学』五月号初出であるとすれば、「彼は老いてこの田舍に教師として虛しく埋れてしまふ身の末路をぼんやりと想像してゐた」という叙述と実際の原民喜の経歴との一致が一見、一致しているかのようには見える。当時、彼は妻とともに千葉県登戸(のぶと)町二―一〇七(現在の千葉市中央区登戸)に居住しており、この年の一月からは千葉県立船橋中学校に英語教師として週三回勤務していたからである。しかし、本篇のロケーションが「秋」であり、この発表が五月号であるということは、時系列上の事実とは実は合致するとは言えなくなるのである。悩ましい。]
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