車の響 原民喜
車の響 原 民喜
散文詩
「今日は天氣がいゝから車に乘つて歸つて見ようかしらと云つて居たよ」と母が歸つて話ました。その頃は姉の病氣も良くなりかゝつて居たのです。私も一度病院に見舞に行つた事がありますが十一歳の私にはそこが淋しいと云ふより懷しい暗いと云ふよりも晴やかな處でした。病院の長い廊下がつるつるして居て白い看護婦の輕げにスリツパーを鳴らして通るのも面白げでした。病室のベッドの上に坐り直つた姉の顏はいつもとは優しく想はれました。箱を出して美しい繪を竝べて「どれがすき?」と尋ねられたり急にマジメに「あんた大きくなつて何になる積りね?」と云はれた時、私は嬉しくてまごつきました。こんなに二人だけがしんみりと話をするのは稀で、こんな時ほんとに甘えたい樣な心地がするのでした。姉は病んで居ても壞れた樣には見えません。しかし弟として十一歳の私が姉を美しいと考へるのはなんとなく恥かしく氣がとがめるのでしたが總々した髮が頰に浮ぶ人懷つこい表情や太い白の腕を眺めると私は病氣でねて居る姉を世にも幸福な御伽噺の姫君になぞらへて見ました。その日の印象は春の樣に明るかつたのです。
どうしてあの日から僅か三ケ月の後に姉がなくなるなんて考へられたでせう。今でも私には姉の死が信じられないのです。ですからよく夢に姉は車で歸つて來ました。そして、あゝその夢はいつも悲しく覺めるのでしたが……。
でも――姉の死だけは信じられないで、いつか玄關前の敷石に威勢のいゝ車の響がして高らかに姉の笑ひ聲が聞える日が來る樣な氣がするのです。
それにしても六ケ年たちました。やつぱり姉さんがあのまま消えたとは想へません。何處かに姉さんは存在して居て再び私と巡り合ふと想はれるのです。
[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年七月発行の『少年詩人』七月号に所収。
底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅰ」の拾遺集を用いたが、戦前の創作なので、恣意的に漢字を正字化した。
「十一歳の私」は数えなら大正四(一九一五)年、満なら大正五年、「あの日から僅か三ケ月の後に姉がなくなる」とあり、その逝去から現在まで「六ケ年たちました」と述べているが、この事実に最も適合する民喜の姉は一人しかいない(五男であった彼の兄弟は多く、姉三人・妹二人、兄四人(長男と次男は夭折)に弟二人の延べ十二人である)。次女のツルである。生まれは明治三〇(一八九七)年で民喜より八つ年上(民喜十一歳の折りならば十九である)で、底本年譜によれば大正七(一九一八)年に亡くなっている(死因や月日は不詳)。但し、ツルの亡くなった当時の民喜は数えで十四、満で十三か十二であり、本篇発表の大正十二年七月からは恐らく丸五年である。併し、回忌で数えるなら六回忌で問題ない。また「十一歳の」私とは、例えばツルが病んで病院に入院した折りの実満年齢を言ったと考えるなら、整合し得るであろうと私は思う。
私の母聖子テレジアは二〇一一年三月十九日朝、たった独りで筋萎縮性側索硬化症(ALS)のため、鎌倉聖テレジア病院で亡くなった。今年は丸五年で六回忌に当たる……私はこの詩を涙なくして読むことが出来ない……]

