原民喜・昭和二二(一九四七)年八月二十三日附・長光太宛書簡(含・散文詩稿「私語」)
[やぶちゃん注:発信は中野区打越(当時、民喜はこの中野の甥の下宿に転がり込んでいた)。宛先は札幌市の長光太(詩人で民喜生涯の盟友であった)。当時、民喜満四十一。
底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅲ」の「書簡集・遺書」に拠ったが、終生、民喜が諸原稿を基本的に正字で記していた事実に鑑み、恣意的に正字化した。但し、彼の自筆原稿を起こした経験からは、例えば「乱」は「亂」ではなく「乱」の可能性の方が高い。書簡中の「私語」という散文詩は底本では全体が二字下げである。なお、本詩はざっと縦覧する限りでは、青土社版の原民喜全集には定稿や拾遺などに相同相似形のものを見出し得ない。
通信文冒頭の「靑」云々は来信がないので不明であるが、ずっと後の彼との書簡の中を読む限り、詩篇(或いは文芸作品)の題名のようである。
「春鶯囀コンプレツクス」の「春鶯囀」は民喜満二十歳となる大正一五(一九二六)年の、春一月に発刊した詩の同人雑誌の名。発行所は東京都東中野の熊平清一(民喜の中学時代からの盟友である武二の兄)で、同人には彼ら兄弟の他、長新太や石橋貞吉(山本健吉の本名)らが参加しているが、同年五月発刊の四号で廃刊となった。その「コンプレツクス」というのはやはり来信がないので不詳。
「定形」後に「自由律」とあるので分かるように、「定形」俳句(及び「自由律」俳句)のことである。
「三田文學」民喜はこの前年の昭和二一(一九四六)年十月より『三田文学』の編集に携わっていた(辞任するは昭和二四(一九四九)年末)。
「眞善美社」この出版社、この翌年にまさに最後に出る、埴谷雄高「死霊」、安部公房「終りし道の標べに」などを出版していることは調べ得た。
「佐々木君」民喜の義弟(妻貞恵の弟)である文芸評論家佐々木基一(以下に続く人物は知られた連中なので注しない)。
「文祭」不詳。正式雑誌名を省略しているか。次の「新浪漫派」もありそうで、分らぬ。識者の御教授を乞う。
「近代文学」敗戦直後に刊行された文芸雑誌。昭和二〇(一九四五)年に荒正人・平野謙・本多秋五・埴谷雄高・山室静・佐々木基一(既に述べたように民喜の義弟)・小田切秀雄の七名の同人によって創刊され、昭和二二(一九四七)年七月に第一次同人拡大によって久保田正文・花田清輝・平田次三郎・大西巨人・野間宏・福永武彦・加藤周一・中村真一郎が加わり、その後も同人拡大が行われている。創刊時の同人たちの多くは戦前のプロレタリア文学運動の末端にいた作家たちであったが、戦時経験を通して文学の自律性を訴えることの大切さを主張とした。彼らの独自の切り口は、創刊号及び第二号で小林秀雄・蔵原惟人という文学的に対極にあると思われていた二人の座談を設定したことなどにもよく表われている。後に彼らの多くは「新日本文学会」に加わったが、会の主流であった旧プロレタリア文学の流れとは距離を取った。昭和三九(一九六四)年、終刊(以上はウィキの「近代文学」に拠った)。]
長光太樣
「靑」についての君の説明よくわかるやうだ。春鶯囀コンプレツクスなどといふことを云つてゐるのを讀んでおやおやと思つた。君の疵は大きかつたのだが、その疵の上に恐らく今後も大きなものを築いてゆけるだらうと思ふ。
定形のことについては、僕は今のところ何といつていいのかわからない。今日のやうな混亂期には定形が求められてゐることもわかるし、すぐれた自由律をつくるためにももう一どここへ立戾つてくる人はゐるだらう。しかし、僕自身、詩についての意見はあまり纏まらないのだ。僕の詩は自分であまり高く評價してゐないし、僕が今後詩でどんな仕事をするかもあまり抱負するところはない。三田文學の詩のペイジもあれはただ今後日本にすぐれた詩人が出てくるための後への温床的意味なのだし、ほかに適當な人がないので僕がその勞をとつてゐるだけのことだと思ふ。
生活に追ひつめられてゐるので、どうしても僕は小説で道をひらくより他はないがその小説もなかなか思ふやうには捗らない。この夏は暑さに負けて一枚も書けなかつた。弱い體質と相談しながらも、仕事をしようなどと考へてゐるとインフレの虎に笑はれるかな。月三十枚書いてそれで飯が食へるやうになるといいのだがね。
眞善美社で君の詩集の話を佐々木君が持出したところ花田淸輝氏が原稿を見せてほしいと云つてゐるさうだ。凡そ二百頁位になる原稿を纏めて花田氏なり佐々木君あてに送り給へ。もつとも二百頁分以上の原稿を送り、その選を先方に任してもいいだらう。序文は小野十三郎氏なり草野心平氏あたりに書いてもらふといい。詩集は賣れないからねと花田氏は云つてゐたさうだが、思ひきつて出してくれるといいね。それでは又。
君の詩「野火」は「文祭」に「霰」は「新浪漫派」にそれぞれ送つてみました。もつと有力な雜誌もねらつてはゐるのですが。
近作一つお目にかけます。
私語
はかなげな心のなかに描かれてゐた街はまだ生きのこつてゐるが 眼のあたり街は一ふきの風で散りうせた。たとへどんなものが現れようともはや儚いものばかりだ 心のなかの幻のほかは。
埴谷雄高は偉いね、近代文學からもらふ三百円の月給と「死靈」の稿料のほか收入はないのに頑張りつづけてゐるのだから敬服する。
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