芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) Blanqui の夢
Blanqui
の夢
宇宙の大は無限である。が、宇宙を造るものは六十幾つかの元素である。是等の元素の結合は如何に多數を極めたとしても、畢竟有限を脱することは出來ない。すると是等の元素から無限大の宇宙を造る爲には、あらゆる結合を試みる外にも、その又あらゆる結合を無限に反覆して行かなければならぬ。して見れば我我の棲息する地球も、――是等の結合の一つたる地球も太陽系中の一惑星に限らず、無限に存在してゐる筈である。この地球上のナポレオンはマレンゴオの戰に大勝を博した。が、茫々たる大虛に浮んだ他の地球上のナポレオンは同じマレンゴオの戰に大敗を蒙つてゐるかも知れない。……
これは六十七歳のブランキの夢みた宇宙觀である。議論の是非は問ふ所ではない。唯ブランキは牢獄の中にかう云ふ夢をペンにした時、あらゆる革命に絶望してゐた。このことだけは今日もなほ何か我我の心の底へ滲み渡る寂しさを蓄へてゐる。夢は既に地上から去つた。我我も慰めを求める爲には何萬億哩の天上へ、――宇宙の夜に懸つた第二の地球へ輝かしい夢を移さなければならぬ。
[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十月号『文藝春秋』巻頭に、前の「火星」、後の「庸才」「機智」(二章)の全五章で初出する。前の「火星」の考察と感懐を美事に受けた芥川龍之介の宇宙観の表明である。「Blanqui」は以下に注するフランスの社会主義者で革命家であったルイ・オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui 一八〇五年~一八八一年)のことである。
・「Blanqui」「ブランキ」平凡社「世界大百科事典」の福井憲彦氏の解説を引く(アラビア数字を漢数字に代え、コンマを読点に代えた。途中の挿入は諸辞書に拠る)。『十九世紀パリの民衆蜂起と革命のほとんどすべてに、直接・間接に関与したフランスの革命家。十代で秘密結社カルボナリ』(フランス語::Charbonnerie:十九世紀前半にイタリアとフランスに興った革命的秘密結社。急進的な立憲自由主義(憲法に立脚する自由主義)を掲げてノーラ・トリノを始め、各地で武装蜂起を企てた。カルボナリ党とも呼称する)『に加わり、復古王政打倒の運動と一八三〇年の七月革命の民衆蜂起に参加する。七月王政の反民衆的性格をすばやく見ぬいて反体制運動をおこし、共和派の〈人民友の会〉が弾圧された法廷で、逆に雄弁に体制を告発して一躍有名になった。フランス革命のジャコバン主義』(Jacobinisme:フランス革命に於いて主にロベスピエール(Maximilien François Marie
Isidore Robespierre 一七五八年~一七九四年:フランスの政治家。大革命期の一七九二年に国民公会の議員となり、ジャコバン派の中心人物としてジロンド派を追放。革命の防衛の名のもとに恐怖政治を強行し、封建制の全廃などの諸改革を行ったが、一七九四年のテルミドールの乱で処刑された)やサン=ジュスト(Louis Antoine Léon de Saint-Just 一七六七年~一七九四年:フランスの政治家・革命家。ロベスピエールらとともにフランス革命に参加し、彼の右腕と称された。その美貌と冷厳な革命活動から「革命の大天使」(l'Archange de la Révolution)「死の大天使」(L'Archange de la Terreur)とも称された)らに代表される思想。社会理念としては小市民階級的平等主義を目指し、所有権は自然権ではなく、社会制度であり、否定せず制限されるべきであると「小所有者の共和国」を説いた)『とバブーフ』(François Noël Babeuf 一七六〇年~一七九七年:フランスの革命家・思想家。私有財産制の廃止を主張、共産主義的独裁政権の樹立を目指して総裁政府転覆を企てたが、逮捕処刑された。その武装蜂起による権力奪取や革命的独裁の理論は後のかのマルクスにも影響を与えている)『の平等主義の伝統をブオナローティ』(Filippo Giuseppe Maria Ludovico
Buonarroti 一七六一年~一八三七年:イタリア生まれのフランスの革命家。芸術家ミケランジェロの家系に属するとされ、フリー・メーソンの会員でもあった)『からうけつぎ、少数精鋭の秘密結社運動を開始する。なにより行動を重視した彼』であったが、『目標はパリの蜂起を』発条(ばね)にした『過渡体制の創出と、民衆教育を』梃子(てこ)とした『平等社会建設であり、少数前衛の蜂起自体を絶対視したわけではない。有名な〈季節社〉』(Société des Saisons:フランスの秘密結社。一八三〇年代の七月王政下のフランスでは議会内外の共和主義者による自由主義的改革運動とストライキを中心とした労働大衆の運動や蜂起が頻発し、人間の権利協会のように一部には両者の連帯の組織化も生じていた。これに対し、政府は抑圧の強化を以って臨み、反体制運動と組織の壊滅を行った。こうした状況を前提に組織されたのが「季節社」で、ブランキらが一八三七年に結成、その加盟者は六百乃至千名の間と見積もられている)『の蜂起の前後から、一八四八年の二月革命、第二帝政と一八七一年のパリ・コミューンを経て、第三共和政初頭に至るまで、彼の生涯は革命運動か獄中かのいずれかであった。実に総計四十三年二ヵ月間も獄中ないし特別監視下におかれたことから、共和主義運動と革命の象徴として、〈幽閉者〉とよばれた。第二帝政下に、同獄にいた共和派の青年たちに多大な影響を与え、その』中から『労働者をも含んだ秘密結社型のブランキ派が組織され』て、『帝政末からコミューンにかけ、ブランキ派は多くの公開集会や実力行動の中で重要な役割を果たした。しかしブランキ自身は蜂起直前に逮捕され、コミューンを直接指導することはできなかった』。ウィキの「」によって補足すると、一八七〇年にナポレオン三世の従兄ピエール・ボナパルトに射殺されたジャーナリストヴィクトール・ノワールの葬儀に参加、その後、暴動化したデモを扇動したとして逮捕され、死刑判決を受けた(翌年、普仏戦争後に発足したパリ・コミューンの「大統領」に選出され、コミューンがティエール政権に対してコミューン側の囚人の解放と引き換えにブランキの釈放を要求したが拒否されている)が、その翌一八七二年に健康状態の悪化を理由に懲役刑に減刑され、さらに一八七九年には釈放され、政治活動を再開したが、その二年後、パリで脳卒中のために死去した、とある。
・「宇宙を造るものは六十幾つかの元素である」一八六九年にロシアの化学者ドミトリ・イヴァーノヴィチ・メンデレーエフ(Дмитрий Иванович Менделеев/ラテン文字転写Dmitrij Ivanovich Mendelejev 一八三四年~一九〇七年)によって「メンデレーエフの周期律表」が発表された当時、既に分かっていた化学元素数は龍之介の言う通り、六十三であった。メンデレーフはそれら既知の元素の性質の周期的規則性を見つけ、それを「周期律」と呼んで、未発見の元素の予見をもしていた。本章公開当時(大正一三(一九二四)年十月)に判明していた元素数は定かでないが、七十前後はあったものと考えられる(言わずもがな乍ら、原子番号と発見史は一致しない。例えばハフニウム(hafnium:原子番号72)はこの一九二三年の発見であるが、プロトアクチニウム (protactinium:原子番号91)は一九一七年)が、既にこの時代には元素は「発見する」ものではなく、自然の宇宙には存在しないか存在しない可能性が極めて高い、人間が「創る」ものと化しつつあったのだから、龍之介が「宇宙を造るもの」とする元素は私は「六十幾つかの元素である」という謂いは、決して古臭い科学的言説ではない。だから、諸注が現在の元素数をここに記すのは私はあまり意味のあることとは思えないでいる。しかし、彼らに敬意を表して――無論、皮肉である――現在、知られている元素数は百十八種類であり、現在正式名称が決定している最大の原子番号の元素は超ウラン元素の一つである原子番号116のリバモリウム(livermorium:元素記号 Lv)、原子番号118の元素は、未だ正式に認定されていないために仮名で呼ばれている超ウラン元素の一つであるウンウンオクチウム(ununoctium:元素記号 Uuo:ラテン語由来の「百十八番の元素」の意)である、と記してこの注を終わることとしよう。
・「マレンゴオの戰」「戰」は「たたかひ(たたかい)」と訓じておく。フランス語で「Bataille de Marengo」、一八〇〇年六月十四日に行われたフランス革命戦争に於ける戦闘の一つ。ウィキの「マレンゴの戦い」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、一部の記載・記号を変更・省略した。下線はやぶちゃん)。『現在のイタリア北部ピエモンテ州アレッサンドリア近郊の町マレンゴにおいて、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍が、ミヒャエル・フォン・メラス率いるハプスブルク君主国(オーストリア)軍に対して勝利を収めた』戦闘である。『一七九八年にオーストリアは第二次対仏大同盟を結成してフランスへ宣戦し、一八〇〇年までに北イタリアの大部分を奪回した。一七九九年に第一統領に就任してフランスの独裁権を確立したボナパルトは、反撃のためにジュネーヴに軍を集結させた。一八〇〇年五月、ボナパルトは三万七千を率いてグラン・サン・ベルナール峠を越え、北イタリアへ進出した』。『その頃、オーストリア軍はジェノヴァに篭城するアンドレ・マッセナ指揮下のフランス軍部隊を攻囲中であった。ボナパルトはオーストリア軍の背後に出てミラノとパヴィアを占領するが、ジェノヴァのフランス軍部隊は限界に達し』、『六月四日に開城した。その後、オーストリア軍主力はトリノに集結した』。『ボナパルトの機動によってオーストリア軍は退路を遮断される形となったが、司令官のメラスは東進を決意し、アレッサンドリアまで前進した。これに対してフランス軍は、オーストリア軍主力がトリノにとどまっていると誤認し、兵力を分散したまま西進した。こうして両軍は、六月十四日、アレッサンドリア近郊のマレンゴにおいて遭遇した』。『六月十四日早朝、オーストリア軍三万一千はアレッサンドリアからマレンゴへ前進し、午前九時、マレンゴの村にいたクロード・ヴィクトール=ペランのフランス軍部隊を攻撃した。このときボナパルトは戦場から五キロ後方にいた。ボナパルトは攻撃がオーストリア軍主力によるものと認識し、直ちにジャン・ランヌとジョアシャン・ミュラの部隊を増援に投入した。さらに別働隊へも伝令を送り、自身は午前十一時に戦場へ到着した』。『この時点で戦場のフランス軍は二万三千しかおらず、数で勝るオーストリア軍の攻勢を支えるのに手一杯であった。午後二時にはマレンゴの村がオーストリア軍に奪われ、フランス軍は三キロ余りの後退を強いられた。メラスはこの時点で勝利を確信し、勝報をウィーンへ送っている』。『午後五時、ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼーの別働隊五千が来着し、兵力の上では互角となったフランス軍は逆襲に転じた。ドゼー自身がオーストリア軍の正面へ突撃し、ケレルマンの騎兵部隊がオーストリア軍の背後を襲撃した。この奇襲攻撃によってオーストリア軍は分断され、アレッサンドリアへ向けて敗走した』。『戦いはフランス軍の逆転勝利に終わったが、激闘の最中、勝利に大きな貢献を果たしたドゼーは三十一歳で戦死し』ている。『六月十五日にメラスは降伏し、北イタリアは再びフランスの手に落ちた。十二月三日にジャン・ヴィクトル・マリー・モローの率いるフランスのライン川方面軍がオーストリア軍を破ったホーエンリンデンの戦いとあわせて、オーストリアは戦意を喪失し、リュネヴィルの和約に応じた。これにより第二次対仏大同盟は崩壊した』。以下、「逸話」の項。『マレンゴの戦いの夜、戦場の混乱の中で食料が届かず、ボナパルトの料理人はありあわせの材料で工夫し、チキンのトマト煮にエビと玉子を添えた料理をボナパルトに出した。これがフランス料理の「鶏のマレンゴ風」であるという。以来、ナポレオンはゲン担ぎの意味でしばしばこの「鶏のマレンゴ風」を食したという』。百年後のプッチーニ(Giacomo Antonio Domenico
Michele Secondo Maria Puccini 一八五八年~一九二四年)の有名なオペラ「トスカ」(Tosca 一九〇〇年初演)では、『第一幕でボナパルトがマレンゴの戦いに敗れたという誤報がもたらされ、第二幕でボナパルトが勝ったという正しい知らせが届く』(上記の引用にも早まって勝報を伝えた事実が載るが、案外、芥川龍之介のここでの仮定は歴史書に載るそれよりも、この「トスカ」辺りがネタ元のような気もする)。『ナポレオンの肖像画にも描かれている芦毛の愛馬「マレンゴ」の名はこの戦いが由来とされている』。その後(ここからはウィキの「ナポレオン・ボナパルト」に拠った)、翌年二月に『オーストリアは和約に応じて(リュネヴィルの和約)、ライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約をもって第二次対仏大同盟は崩壊し、フランスとなおも交戦するのはイギリスのみとなったが、イギリス国内の対仏強硬派の失脚や宗教・労働運動の問題、そしてナポレオン率いるフランスとしても国内統治の安定に力を注ぐ必要を感じていたことなどにより』、一八〇二年三月には『アミアンの和約で講和が成立し』ている。岩波新全集の山田俊治氏の注には、このマレンゴの戦いの勝利によって、ナポレオンは『パリの政治的危機を救い、独裁の地位を固めた』とある。さても下線部辺りを見る限り、龍之介の仮想、ナポレオンの敗北は、これ、あっても少しもおかしくなかったことがよく判る。実際、戦史上ではナポレオンはたびたび失策を繰り返しており、彼が勝ったそれらはただの偶然としか思えないほどである。
・「大虛」「たいきよ(たいきょ)」は「太虚」とも書く。一般名詞では大空・虚空(こくう)の意。ここは宇宙と同義である。
・「他の地球上のナポレオンは同じマレンゴオの戰に大敗を蒙つてゐるかも知れない」所謂、幼少の頃より私の好きな、SFの常套的テーマである「平行世界」、「パラレル・ワールド」(parallel world)である。『「火星人」の次は「第二の地球」「反地球」カイ!』と侮ってはいけない(「反地球」とはSFや疑似科学で太陽を挟んで地球の反対側にあるとされる架空のトンデモ惑星のこと)。ウィキの「パラレルワールド」にも以下のようにある。『パラレルワールドはSFでよく知られた概念であるだけでなく、実際に物理学の世界でも理論的な可能性が語られている。例えば、量子力学の多世界解釈や、宇宙論の「ベビーユニバース」仮説などである。ただし、多世界解釈においては、パラレルワールド(他の世界)を我々が観測することは不可能であり』、『その存在を否定することも肯定することも出来ないことで、懐疑的な意見も存在する』。『理論的根拠を超弦理論の複数あるヴァージョンの一つ一つに求める考え方も生まれてきている。現在の宇宙は主に正物質、陽子や電子などで構成されているが、反陽子や陽電子などの反物質の存在が微量確認されている。この物質の不均衡は、ビッグバンによって正物質と反物質がほぼ同数出現し、相互に反応してほとんどの物質は消滅したが、正物質と反物質との間に微妙な量のゆらぎがあり、正物質の方がわずかに多かったため、その残りがこの宇宙を構成する物質となり、そのため現在の既知宇宙はほぼ全ての天体が正物質で構成されているのだと説明されている。ビッグバンの過程において、この宇宙以外にも他の宇宙が無数に泡のごとく生じており、他の平行宇宙では、逆に反物質のみから構成される世界が存在するのではないかという仮説も提示されている』とありますぞ。因みに、ナポレオンがマレンゴの戦いで「大敗を蒙つてゐ」たら、確実に歴史は変わっていたであろう。ナポレオンは皇帝になることもなく、フランス革命の余波がヨーロッパ中に波及することもなかったであろう……とすると……などと空想し出すと、何やらん、かえって、トンデモなく逆にヒドい現在が私には想像されてしまい、逆に、もの狂ほしくなってくるんですが、ね? ブランキさん? どうよ?
・「これは六十七歳のブランキの夢みた宇宙觀である」「六十七歳」を満年齢とすると、一八七二年で、前に示した通り、ブランキは、この二年前にパリ・コミューンの弾圧により、デモ扇動の罪で逮捕され、死刑判決を受け、投獄されていた(但し、この年中に健康状態の悪化を理由として懲役刑に減刑され、七年後の一九七九年になってやっと釈放されている)。山田氏の注にはこれを『出典未詳』とするが、筑摩全集類聚版脚注では、『“La patrie en danger”の著作』とある。この「La
patrie en danger」(「祖国は危機にあり」 一九七一年の作)はブランキの代表作らしいのだが、しかし寧ろ、翌一九八二年に彼の出した「L'Éternité
par les astres」(「星々による永遠」)の方が、この引用元らしく見える書名ではないか? 但し、私はこの本を読んでいない。しかし、個人ブログ「Augustrait」の同翻訳書(二〇一二年岩波文庫刊浜本正文訳)のレビュー「『天体による永遠』オーギュスト・ブランキ」を読んでみたら、ますますそんな気がしてきたのである(リンク先の引用を見よ!)。今度、購入して読んでみようと思う。新たな発見があった場合は追記する。
「何萬億哩」「哩」は「マイル」。一マイルは約一・六キロメートルで、一「萬億」は通常では一兆であるから、九兆六千億キロメートル前後になるか(私は度量衡に「何」とか「数」を附した不定値は六倍したものを標準値することを常としている)。これは流石は芥川龍之介! だって一光年のキロメートル換算、約九・五兆キロメートルに一致するからである。]
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