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2016/05/31

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 親子(四章)

 

       親子

 

 親は子供を養育するのに適してゐるかどうかは疑問である。成程牛馬は親の爲に養育されるのに違ひない。しかし自然の名のもとにこの舊習の辯護するのは確かに親の我儘である。若し自然の名のもとに如何なる舊習も辨護出來るならば、まづ我我は未開人種の掠奪結婚を辨護しなければならぬ。

 

       又

 

 子供に對する母親の愛は最も利己心のない愛である。が、利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に與へる影響は――少くとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかである。

 

       又

 

 人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる。

 

       又

 

 古來如何に大勢の親はかう言ふ言葉を繰り返したであらう。――「わたしは畢竟失敗者だつた。しかしこの子だけは成功させなければならぬ。」

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年一月号『文藝春秋』巻頭に、この全四章と、後の「可能」「ムアアの言葉」「大作」「わたしの愛する作品」の全八章で初出する。芥川龍之介にとって痛切であり、しかも双方向性を持ち、而して読者の胸をも同期的に突くのは第三の「人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる。」のアフォリズムである。

 龍之介の実母(新原(にいはら:旧姓芥川)フク(万延元(一八六〇)年~明治三五(一九〇二)年:享年四十二歳/龍之介満十歳)と実父新原敏三(嘉永三(一八五〇)年~大正八(一九一九)年:享年六十八歳/龍之介満二十七歳)についての彼の〈子としての感懐〉は後の簿」(大正一五(一九二六)年十月『改造』)を読むに若くはない(実母については「一」、実父については「三」)。

 また、龍之介は遺稿「或阿呆の一生」の中で〈子としての感懐〉(「こいつも」の累加の係助詞「も」に着目)と同時に〈父としての感懐〉をこう述懐している(リンク先は孰れも私の電子テクスト)。

   *

       二十四 出産

 

 彼は襖側(ふすまぎは)に佇んだまま、白い手術着を着た産婆が一人、赤兒(あかご)を洗ふのを見下してゐた。赤兒は石鹼の目にしみる度(たび)にいぢらしい顰(しか)め顏を繰り返した。のみならず高い聲に啼きつづけた。彼は何か鼠の仔に近い赤兒の匂を感じながら、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。――

 「何の爲にこいつも生まれて來たのだらう? この娑婆苦(しやばく)の充ち滿ちた世界へ。――何の爲に又こいつも己(おのれ)のやうなものを父にする運命を荷つたのだらう?」

 しかもそれは彼の妻が最初に出産した男の子だつた。

 

   *

そうして――そうして最後に、龍之介の遺書の、私の二〇〇九年に作成した芥川龍之介遺書全六通 他 関連資料 ≪2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫の『□4 「わが子等に」遺書』と私の注を読まれたい。私は、そこで私が遺書から解析した龍之介の〈父としての感懐〉――それは自裁の主理由でもあると私は信じて疑わぬ――を以って、ここの注に充分に代え得ると感じている。]

ブログ・アクセス820000突破記念 埋葬 梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年一月号『早稲田文学』に発表されたが、既刊本には未収録。底本は昭和五九(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第一巻」に拠った。一ヶ所空欄があるが読点の落ち(誤植)と判断して打った。

 本作は梅崎春生自身の体験に基づくノンフィクションと読んで差支えない。そこで敗戦直後の周囲の兵たちの心理を批判的に捉えた箇所がある。では彼は梅崎は本当はどうだったのだ、とちゃちゃを入れる輩がいるかも知れぬ。そういう奴のために、既に公開した梅崎春生の敗戦の年の日記をリンクさせておく。

 本電子テクストの公開は、2006年5月18日のニフティの本ブログ・アクセス解析開始以来、820000アクセス突破記念とする。【2016年5月31日 藪野直史】] 

 

   埋葬 

 

「キイロ・キイロ・キイロ」

「コイヌ・コイヌ・コイヌ」

 これは太平洋戦争の末期、日本海軍が制定したある暗号である。晴号というよりは略語に近いものだが、おそらくこの「キイロ」「コイヌ」の連送は、実際には使用されなかっただろうと思う。これは、上空に原子爆弾を積んだと推定される飛行機を発見した場合に、各方面に無電で通報するための暗号だが、それから四五日もしたら戦争は終ってしまった。だから此の暗号は制定されただけにとどまって、実際には電波に乗っていない筈だ。此の時期海軍暗号兵であった私も、此の連送は一度も受信しなかった。しかし此の連送信だけは、ふしぎに私の胸に残っている。

「キイロ・キイロ・キイロ」

「コイヌ・コイヌ・コイヌ」

 片仮名の此の組合せを、中央の誰が考案したものか。それは私は知らないけれども、これらの言葉のなかには、微妙ないやらしいニュアンス、いわば超現実風な嘔吐(おうと)感がある。ある救われがたい頽廃と言いようもない冷淡さが、此の片仮名の組合せにはこめられているように思えるのだ。それはただ、私が感じるだけだろうか。あの日本海軍の末路を、そして一年四箇月の苦しかった兵隊生活を憶(おも)うたびに、これらの言葉は一種の終末的な感じを引いて私の胸に浮び上ってくる。

 あの八月十五日の日、私の部隊ではラジオの具合がわるくて、あの放送の内容は誰にも判らなかった。それから私は居住区へ戻って来て昼寝をして、夕方六時頃当直のため暗号室に出かけて行った。暗号室(といっても壕の中だが)に入って、前直が受信した電文綴りを調べようとして一枚めくると、いきなり終戦という文字が眼にとびこんできて、私は心臓がどきんとして、身体がみるみる熱くなって行くのが自分でも判った。私は顔をあげて、指揮卓にいる暗号士に思わずはなしかけた。

「これは本当ですか?」

 暗号士は私を見て、ふしぎな笑いを頰にうかべながら、極くあたりまえな口調でこたえた。

「そうだ。本当だ」

 そのまま暫(しばら)く私は腰かけにすわっていたが、ついにこらえ切れなくなって、便所に行ってくるような顔をして壕の外にとびだし、壕の入口のすぐ前にある草原の斜面を、ひとりで興奮してぐるぐる歩き廻った。そのうちに興奮もしだいに収まってきたから、また壕の内にもどって行った。暗号室というのは壕の奥のほそながい場所で、そのむこうは両側の台に器械をずらずらと連ねて、電信兵たちがカチャカチャと電鍵を打っている。いつもの光景と少しも変化がないのが、私には大へん奇異に思われた。皆なにも知らないのではないかとも思った位だ。もちろん通信兵たちだから知らない筈はないのだけれども、その場の印象はおそろしく落着いていて、いつもとすこしも変りなかった。海軍では、冷静とか沈着とかいうことを何時も言っていて、大事に際しても心緒(しんしょ)を乱さぬことが第一の条件とされていたが、その教育が徹底して、こんな具合になったのかも知れない。しかしその場で、私が全身をもって感じ取ったのは、そのような堅固な自律ではなかった。そんなものでは全然なかった。うまく言いあらわせないが、たとえば、頽廃の果てにある冷淡さ。私が感じたのはそんなものであった。此の日を通じて、何時もと少しでも違ったものがあったとすれは、それはあの時暗号士の頰に浮んだ不思議な笑いだけだった。それは何か羞恥に満ちたような変なわらい方であった。晴号士は予備学生で、出征前はたしか東京の荒川区かの小学校の先生だという男だった。赤沢少尉といったが、あまり軍人らしくない若々しい男であった。あの笑い方は私にも判らないことはない。あの場合私が聞かれる立場になれば、私もあんな笑い方をしただろうと思う。私はこのことだけで、赤沢少尉に対しては今でも人間的な親近感をもっている。上官対部下として、勤務以外にはほとんど交渉はなかったのだけれども。 

 

 それから一日一日経って、武装解除、部隊解散、ということが皆に判り出した頃から、各科それぞれ復員荷物のつくり方が始まった。たとえば看護科では看護兵たちが自分の衣囊(いのう)に薬品をつめるのに懸命になっているし、主計科では罐詰や航空糧食の分配に専念しているというわけで、たちまちにして部隊の機能は混乱を呈してきたが、混乱しているのは機能だけであって、各個人個人はいささかも混乱してはいなかったのである。じつに沈着に自らの衣囊をみたすことに専心していた。私なども足に怪我をしていて看護室にそれまで通っていたのだが、そうなるとてんで治療もしてくれなくなったのだ。軍医は軍医で、ごっそりともつて行こうと大がかりな衣囊をキャンバスでこさえて、専(もっぱ)らそれに高価な薬品を詰めこむことに大童で、私の顔をみても、それは故郷にかえって治療したらいいだろう、と言うだけで、何にも手を加えてくれない。どこの科でもそうであった。私たち通信科の方でも、電報はだんだん減少してきたし、来ても翻訳を要しない平文が多かったから、大へん暇になった。夜は充分ねむれるし、食事の方は主計科の連中が分取った余りを惜しみなく、白米はたくさん焚いてくれるし朝から牛乳がついていたりして、食べきれない分を谷底に捨てる程であった。しぜん居住壕にごろごろしていたりする時間が多かったが、そこで出る話というのはおおむね、どこそこの科ではどんな物資を分配したかとか、故郷に戻ったらどんなことをするつもりだとか、専(もっぱ)らそんな会話ばかりで、此の戦争で日本が負けたことの感想だとか、将来日本がどうなるかというような話は、ほとんど皆の口にのぼらなかったのである。たまにそんな話がでても、皆そんなものに興味がない風で、すぐ他の話ととってかわった。兵隊は年がわかいのだから仕方もないのだろう。けれども、年配の下士官でもそんな具合で、そんな連中が通信科は分取る物質が少ないなどと嘆いているのを見ると、私はなにか摩滅した人性といったようなものをそこに感じ、此の男たちは本気でこんなことを言っているのかと、ふと不安になる位であった。通信科は物資が少ないといっても、その連中はけっこう抜け目なく、衣囊(いのう)に真空管をたくさん詰めこんだりしていた。あんなに真空管をもって帰ってどうするつもりか、と私は思ったりしたのだが、なかにはあの重い発電機を苦労してかついで復員して行った下士官もあったのだ。こんな具合にして、第三十二突撃隊桜島分遣隊という私の属した部隊の物資は、皆ちりぢりに消滅してしまった。私もまた人なみに、自分の衣囊をさまざまなものでふくらませて、八月二十六日軍用波止場から大発にのり、一箇月余勤務した此の荒涼たる火山島をはなれた。

 鹿児島の埠頭(ふとう)に降りて駅の方へ歩きだそうとすると、反対側についていた小汽船の中から私の名をよぶ声がする。見ると小さな窓から首を出していたのは、谷山の部隊で一緒だった上原という下士官であった。私が近づいて行くと、ほとんど涙ぐまんばかりにして掌をふりながら、

「残念だったなあ。残念だったなあ」

 気持が激してきて、それだけしか言えない風であった。そばにやはり谷山で一緒だった田上兵長もいたが、これはけろりとした顔で私にあいさつしただけであった。私は始め、上原兵曹がなにを残念がっているのか、ちょっとはかりかねていたが、やがて此のたびの降伏を言っているのだと判ると、私もまた一種の感動で思わず胸が熱くなるような気がした。しかし私はあの放送以来、残念というのから正反対の気持になっていたのだが、私にしてみればあの日このかた、此の上原兵曹の言葉が最初に聞く人間の肉声みたいな感じがしたのである。此の汽船は鹿児島湾内を巡航する航路なので、上原兵曹も田上兵長も薩摩半島にある自分の故郷に、これに乗って帰るところらしかった。だから私たちは此の埠頭で帽子をふって別れた。それ以後逢(あ)いもしないし、また生涯逢う機会もないだろうが、やはり私はときどきこの感傷的な下士官のことをある親近感をもっておもいだす。自分の面前に去来する事象にだけむやみに熱心なくせに、その他のことにはおそろしく冷淡で無関心な海軍軍人の中で、この下士官はその感傷でもって人間としての保証を示していたように思われるのだ。この下士官が異例であったということが、いわば日本海軍の最大の不幸であった。

 日本海軍は、その冷情ゆえに、もはや頽廃にまで深まったこの冷情のゆえに、もろくも地球上からほろびたもののようである。 

 

 佐世保海兵団にいたとき、巡検後の莨盆(たばこぼん)で、見知らぬ下士官が私をつかまえて、自分の戦争の経験を話してくれたことがある。それはミッドウェイの海戦で、航空母艦に乗っていたという。魚雷を食ったとき、彼は上甲板にいたのだ。またたく間に艦は傾きはじめて総員退去の命令が出た。魚雷をうけてから一分間も経たない間のことだ。

「何しろ手荒く早かったな。居住区の連中は逃げる間もありやしない。下から水はどんどん入って来るし、隔壁はぴしゃりしめられたままだし――」

 換気の円筒の中を我先にのぼってくる。ところが上甲板に開いているその換気孔は、びっしりと金網が張ってあって、そこから出ることは出来ないのだ。もはや海水がいっぱいだから引返すことは出来ない。皆わかい搭乗員たちだったと言うのだが。

「鼠取りというのがあるな。それを河の水に漬けるのと同じよ。ひしめきながら鼻先を金網のさきに出して、やがてぐつと艦が傾いて、おれが浮んで木片にとりついたときは、あの大きな艦が、影も形もなかった」

 その話の内容はともかく、私の注意をいたくひいたのは、その男の話しぶりであった。ひとことで言えば、おそろしくつめたい客観的な話し方である。微塵(みじん)の感傷もない。可哀そうだったとか、残念だったとか、そんな主観的な言葉も全然使わない。ただ自分が見聞したことを、冷然とつたえるだけである。この話し方は私を少からず驚かせた。

 その頃私はひやひやしていた。海兵団では私は定員ではなく、補充員だったから、どのみち転勤命令がくるにきまっていた。毎朝分隊ごとに集合して、転勤命令の発表がある。台の上に先任下士が立って、名前を呼び上げ、以上海防艦何々行とか、何々警備隊行とか、大声でいう。万事はそれで定ってしまう。あの話をきいて以来、航空母艦の配乗になったらどうしよう、と私は毎朝ひやひやした。私は暗号兵だから、上甲板にいるという訳にはいかない。そんなことがあれば、やはり鼠取りの鼠の二の舞である。もちろんどの船に乗組んでも同じことだが、そんな話を聞いた揚句だから、気分で航空母艦にだけは乗りたくなかった。

 毎朝そんな具合にえらばれた人員は、各分隊からのと皆一緒にあつまって、ひるごろ列をつくつて海兵団から出てゆく。その時軍楽隊が正門のところにいて、にぎやかに吹奏するのである。足を合わせてざっくざっくと出て行く。居住区にいてもその楽音はきこえて来るのだ。居住区にいる兵隊も、洗濯場にいる兵隊も、毎日で慣れているせいか、ほとんど耳にも入らない様子であった。明日は自分があの楽隊に送られて、再びかえらぬ旅路に出るかも知れないのに、平気な顔をして聞きながしている。勿論(もちろん)はたから見れば、私もそんな顔しているに違いなかった。だから残留する兵たちの心情を、必ずしもつめたいとは断言できぬが、総体的にいえばそこには言いようもない冷淡さが私には感じられるのであった。そのなかに遠くひびきわたる楽隊の音ほどかなしい音楽を、私は生涯再び聞くことはないだろう。 

 

 周囲の運命や、あるいは自分の運命にも、おそろしく冷淡であるくせに、自己の生活的な利害や感覚にさからってくるものには、極めて敏感であるのが此の人々の特徴であった。私も始めごろは、こんな小姑(こじゅうと)的ないじめ方をされて、海軍の軍人とは何と女みたいにひねくれているのだろうと思ったりしたが、その中に慣れてくると、自ずと要領を知って、彼等の視角の盲点に自分をおくすべを覚えてきた。覚えてしまえば何でもないことであった。

 佐世保海兵団というのは、大へん複雑な地形と混乱した機構をもっていて、建物だって整然と並んではいず、あっち向いたりこつちを向いたりしていた。補充員分隊では、朝食後にタテツケをやって、皆作業に出てゆく。山ノ田とか川棚とかに行って、トロッコを押したり火薬を運んだりするのである。これがなかなかの重労働で、相当の危険もあるし、私のように体力劣弱なものにとつてはまことに苦痛な作業であった。もともと補充員の分隊は、それぞれどこかへ配乗される予定のものの溜り場みたいな処で、海兵団の中では特定の仕事をもっていない。だからこんなに作業に引っぱり出されるのである。四五日その作業をやってうんざりしたから、それ以後は私は出ないことにした。出ないためにはどんなことをすれはよいか。方法は簡単である。タテツケに整列しなければよかったのだ。

 そして昼中海兵団の中をうろうろ用ありげにうろついて居ればよかった。その代り班の方には作業に出たことになっているから、昼飯を食べに帰るわけには行かない。辛いといえばそれが辛かった。しかしその辛さも作業にくらべれば物の数でなかった。そして一日中うろつくことにおいて、あの特徴的な冷淡さが私には大へん有難かった。もし冷淡でない下士官でもいて私に、お前は何のためにうろついているのか、と問いかけでもしたら、たちまち私は困つたに違いないからである。うろつくことにも飽きたら、私は衣囊の中からそっと自分の汚れ物を持出して、洗濯場で洗濯をした。だから海兵団にいる間に私は、自分のものはすっかり洗濯しあげて、やがて命令で新しい配置につくことが出来た。幸いにもおそれていた空母乗組ではなくて、佐世保通信隊付であったことは、私の生涯の幸運のひとつであった。私はやはり楽隊におくられて正門を出、すぐお隣の鎮守府の中にある通信隊におちついた。ここからも毎日、あの楽隊の音を遠く聞くことが出来たのである。また玉砕部隊が出て行くと私たちはその度に話し合ったりした。私もだんだんその頃から無感動になって行くらしかった。

 この佐世保通信隊には私はふしぎに縁がふかく、前後二回を通じて六箇月私はここに勤務した。私の兵隊生活の三分の一以上である。ここは海兵団ほど世帯が大きくなかったから、視角の盲点というものがなかなか無くて、生命の危険は絶対になかった代りに、勤務としては大へん辛い隊だった。しかし、海軍軍人のいろんな性格の型や共通した偏向を、充分に知ることが出来たのは此の隊に於てである。私は何時か此の通信隊のことを一度は書いてみたい。ぼけたような顔の司令や、神経質な暗号士や、女みたいに執拗な下士官どものことを、私は存分に書いてみたいと思う。 

 

 インテリと言ったら語弊があるから、学校出と言おう。私は学校出の人間をほとんど信用しない。軍隊での経験が私にそれを教えたからだ。

 応召の学校出ばかりをあつめて、暗号の講習をやり、そして暗号員として配置する。こんなことを海軍が考えて、私も入隊すぐそれに入れられた。だから講習の三箇月間は皆学校出と一緒だったし、実施部隊に行ってもそんな連中が配置されていて顔が合った。そのせいで私は学校出のいやらしさを徹底的に見聞した。ことに若い学校出がわるかった。食事当番のときに自分のだけに沢山よそったりするのは極って学校出だった。また自尊心が強いくせに卑屈で、うるさい下士官などにまっさきにペコペコするのも、学校出の特徴であった。もちろん皆が皆そうではなかった。しかしおおむねそうだった。そして学校出のいやらしさというのは、つまり私のいやらしさに外(ほか)ならなかった。その事は私もうすうす気付いていた。そしてますます学校出を憎む気持におちた。

 海兵団にいた頃、教班長に師範学校出がいて、これからずいぶん痛めつけられたことがある。師範出というのは何故か特典があって、すぐ下士官になることが出来る。この教班長もそれであった。大へん冷酷で残忍な男であった。しかしこの傾向は多かれ少かれ師範出に共通なものであることを、私は間もなく知った。師範出の教班長はその海兵団にはたくさん居たから。

 そして私たちがだんだん日数を経て、古い兵隊になるにしたがって、わかい兵隊に威張りたがったり殴りたがったりするのも、必ず学校出だった。それは不思議な位であった。なぜ彼等は位がすすんで一等水兵になったのが、そんなにうれしかったのだろう。しかし私は応召前は東京都庁やある軍需会社などに勤めていたから、小役人や会社員からの類推で、これを不思議だとは余り考えなかった。現代の奴隷根性はむしろ学校出にあることを、せんから私はぼんやり感じ始めていたのである。軍隊におけるその見聞は、いわばその確認にすぎなかった。そしてそれらはすべて私にかえってきた。私は自分の根性の屈折を探ることで一年半を暮したもののようである。

 講習が終って、同年兵があつまって撮った写真が私に残っている。顔を眺めても、もう半分位は名前も忘れてしまった。どの男にもも一度会いたいとは思わない。此の男たちも私に会いたいとは思わないだろう。この男たちもやはり、まことに冷淡な傾向があった。

 ふつうの志願や徴募の兵の冷たさは、なにか摩滅したものの冷たさであったが、学校出に共通したものは卑少なエゴイズムからくる冷たさであった。同じつめたさでも、その肌合いは異っていた。しかし冷たいという点では同じだった。その雰囲気の中で、自分だけは異質と考え、周囲から隔絶した壁をつくつたつもりの私も、ひとしく冷たい個体にすぎないのかも知れなかった。意識的に私は自分を摩滅させようとは思わなかったが、自然に私の内部で死んで行ったものがあるらしかった。しかし私はあたたかいものへの思慕を絶やさなかったから、今こうして生きて居れるのだろう。あの桜島の暗号士や上原兵曹を時々思い出すのも、なにかそことつながっているような気が私にはするのである。 

 

 海軍の暗号兵で苦労した老兵があつまって、若しかりしことどもを語り合おうということになつて、此の間出かけて行った。あつまったのは三人で、宮内寒弥、倉崎嘉一の両氏と私とである。私は少し定刻におくれて行ったのだが、時間を切るとはなにごとだと、あぶなく二人から整列をかけられそうになって、あやまって勘弁してもらい、それから新橋あたりで焼酎など飲みながら昔話をした。たいへん愉快な一夕であったけれども、話はおおむね具体的な思い出ばかりで、私にしてもあの持続した孤独感をうまいこと言いあらわせなくて、結局はそんな具体的な経験だけを口にしたようにおぼえている。しかし、それはそれでいいのだろう。言葉にすれは嘘(うそ)になるようなものが、人間の心の中にはあるものだから。そしてそれは各自が秘めていて、墓場にもちこす外はないだろう。私のあの一年四月の生き方も、人にとってはその類であるもののようだ。私の心の中で埋葬してしまう外はない。

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 批評學

 

   批評學

       
――佐佐木茂索君に――

 

 或天氣の好い午前である。博士に化けたMephistophelesは或大學の講壇に批評學の講義をしてゐた。尤もこの批評學はKantKritikや何かではない。只如何に小説や戲曲の批評をするかと言ふ學問である。

 「諸君、先週わたしの申し上げた所は御理解になつたかと思ひますから、今日は更に一步進んだ『半肯定論法』のことを申し上げます。『半肯定論法』とは何かと申すと、これは讀んで字の通り、或作品の藝術的價値を半ば肯定する論法であります。しかしその『半ば』なるものは『より惡い半ば』でなければなりません。『より善い半ば』を肯定することは頗るこの論法には危險であります。

 「たとへば日本の櫻の花の上にこの論法を用ひて御覽なさい。櫻の花の『より善い半ば』は色や形の美しさであります。けれどもこの論法を用ふるためには『より善い半ば』よりも『より惡い半ば』――即ち櫻の花の匂ひを肯定しなければなりません。つまり『匂ひは正にある。が、畢竟それだけだ』と斷案を下してしまふのであります。若し又萬一『より惡い半ば』の代りに『より善い半ば』を肯定したとすれば、どう言ふ破綻を生じますか? 『色や形は正に美しい。が、畢竟それだけだ』――これでは少しも櫻の花を貶したことにはなりません。

 「勿論批評學の問題は如何に或小説や戲曲を貶すかと言ふことに關してゐます。しかしこれは今更のやうに申し上げる必要はありますまい。

 「ではこの『より善い半ば』や『より惡い半ば』は何を標準に區別しますか? かう言ふ問題を解決する爲には、これも度たび申し上げた價値論へ溯らなければなりません。價値は古來信ぜられたやうに作品そのものの中にある譯ではない、作品を鑑賞する我我の心の中にあるものであります。すると『より善い半ば』や『より惡い半ば』は我我の心を標準に、――或は一時代の民衆の何を愛するかを標準に區別しなければなりません。

 「たとへば今日の民衆は日本風の草花を愛しません。即ち日本風の草花は惡いものであります。又今日の民衆はブラジル珈琲を愛しています。即ちブラジル珈琲は善いものに違いありません。或作品の藝術的價値の『より善い半ば』や『より惡い半ば』も當然かう言ふ例のやうに區別しなければなりません。

 「この標準を用ひずに、美とか眞とか善とか言ふ他の標準を求めるのは最も滑稽な時代錯誤であります。諸君は赤らんだ麥藁帽のやうに舊時代を捨てなければなりません。善惡は好惡を超越しない、好惡は即ち善惡である、愛憎は即ち善惡である、――これは『半肯定論法』に限らず、苟くも批評學に志した諸君の忘れてはならぬ法則であります。

 「扨『半肯定論法』とは大體上の通りでありますが、最後に御注意を促したいのは『それだけだ』と言ふ言葉であります。この『それだけだ』と言ふ言葉は是非使はなければなりません。第一『それだけだ』と言ふ以上、『それ』即ち『より惡い半ば』を肯定してゐることは確かであります。しかし又第二に『それ』以外のものを否定してゐることも確かであります。即ち『それだけだ』と言ふ言葉は頗る一揚一抑の趣に富んでゐると申さなければなりません。が、更に微妙なことには第三に『それ』の藝術的價値さへ、隱約の間に否定してゐます。勿論否定してゐると言つても、なぜ否定するかと言ふことは説明も何もしてゐません。只言外に否定してゐる、――これはこの『それだけだ』と言ふ言葉の最も著しい特色であります。顯にして晦、肯定にして否定とは正に『それだけだ』の謂でありませう。

 「この『半肯定論法』は『全否定論法』或は『木に緣つて魚を求むる論法』よりも信用を博し易いかと思ひます。『全否定論法』或は『木に緣つて魚を求むる論法』とは先週申し上げた通りでありますが、念の爲めにざつと繰り返すと、或作品の藝術的價値をその藝術的價値そのものにより、全部否定する論法であります。たとへば或悲劇の藝術的價値を否定するのに、悲慘、不快、憂鬱等の非難を加へる事と思へばよろしい。又この非難を逆に用ひ、幸福、愉快、輕妙等を缺いてゐると罵つてもかまひません。一名『木に緣つて魚を求むる論法』と申すのは後に擧げた場合を指したのであります。『全否定論法』或は『木に緣つて魚を求むる論法』は痛快を極めてゐる代りに、時には偏頗の疑ひを招かないとも限りません。しかし『半肯定論法』は兎に角或作品の藝術的價値を半ばは認めてゐるのでありますから、容易に公平の看を與へ得るのであります。

 「就いては演習の題目に佐佐木茂索氏の新著『春の外套』を出しますから、來週までに佐佐木氏の作品へ『半肯定論法』を加へて來て下さい。(この時若い聽講生が一人、「先生、『全否定論法』を加へてはいけませんか?」と質問する)いや、『全否定論法』を加へることは少くとも當分の間は見合せなければなりません。佐佐木氏は兎に角聲名のある新進作家でありますから、やはり『半肯定論法』位を加へるのに限ると思ひます。……

         *   *   *   *   *

 一週間たつた後、最高點を採つた答案は下に掲げる通りである。

 「正に器用には書いてゐる。が、畢竟それだけだ。」

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十二月号『文藝春秋』巻頭にこの一章のみで初出する。副題にある「佐佐木茂索」は、芥川龍之介の弟子で小島政二郎・滝井孝作・南部修太郎とともに「龍門の四天王」と呼ばれた、作家で後に編集者となった佐佐木茂索(明治二七(一八九四)年~昭和四一(一九六六)年 龍之介より二歳八ヶ月年下)。京都出身で京都府第一中学校中退。その後、叔父を頼って朝鮮の仁川(インチョン)に渡って英国系の銀行に勤めたが、大正七(一九一八)年に内地へ戻り「新潮社」に入社、直後に芥川龍之介に師事している。大正八(一九一九)年に「中央美術社」編集主幹に転じ、翌年には「時事新報社」文芸部に主任として招かれて五年務めた。大正一四(一九二五)年に発表した「曠日」(「こうじつ」((歴史的仮名遣は「くわうじつ」)。「曠」は、この場合は「虚しい」或いは「虚しくする」の意で「何もせず空しく日を過ごすこと」の意)が芥川に賞賛された。龍之介の死後は昭和四(一九二九)年に菊池寛に請われて「文藝春秋社」の総編集長となったが、翌昭和五年を最後に作家としては筆を折り、昭和一〇(一九三五)年には菊池寛と図って芥川賞・直木賞を創設、戦後の昭和二一(一九四六)年には同社社長(正確には当時の名称は「文芸春秋新社」)となった。姓の表記は、本名は普通の「佐々木」であるが、「々」が中国にはない知ってから「佐佐木」と表記するようになったとする(それもそれは龍之介が中国特派以前に彼にそれを指摘したと私は聞いている)。但し、芥川は書簡その他では「佐佐木」「佐々木」の両方を用いている。

 なお、後掲される「廣告」「追加廣告」再追加廣告の三章(連続)も参照のこと。


・「或天氣の好い午前である」龍之介が小説の書き出しで好んだ起筆表現である。

・「博士に化けたMephistophelesは或大學の講壇に批評學の講義をしてゐた」「博士」は「はかせ」がよかろう。「Mephistopheles」メフィストフェレス。十六世紀、ドイツのファウスト(Faust:十五世紀末から十六世紀にかけてドイツに実在した錬金術師ヨハン・ゲオルク・ファウスト(Johann Georg Faust 一四八〇年?~一五四〇年?)の事跡をもとに形成された民間伝説の主人公。博学であったが、自身の人生に不満をつのらせ、悪魔と盟約を成して、自身の魂と引き換えに享楽と冒険の遍歴生活を送るが、神に背いた罰によって破滅する)伝説や、それに材を取った文学作品(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)の「ファウスト」(Faust 第一部は一八〇八年、第二部はゲーテの死の翌年の一八三三年に発表)が最も知られ、龍之介は森鷗外訳で精読、特にこのトリック・スターであるメフィストフェレスに強い関心を持っていた)に登場する悪魔の名。名の由来については定説はないが、ウィキの「メフィストフェレス」によれば、有力な説として、ギリシア語の三語からの合成語で「光を愛せざるもの」の意。ラテン語の「mephitis」とギリシャ語の「philos」の合成語で「悪臭を愛する者」の意。ヘブライ語の分詞「破壊する(mephir)」或いは「嘘つき(mefir)」に「嘘をつく(tophel)」を合成したもの、が挙げられてある。なお、言わずもがな乍ら、このメフィストフェレスが化けた大学教授らしき「博士」の謂わんとする内容は正に「侏儒の言葉」に於ける批判修辞法の実際というニュアンスが濃厚で、この大学教授には龍之介の面影が髣髴していると言える。実は龍之介には大正七(一九一八)年九月(満二六歳で海軍機関学校教官現任)に慶應義塾大学英文科教授として招聘するという話があって、龍之介自身、かなり乗り気であったが、学内での調整に時間がかかり、同年十一月には大阪毎日新聞社社友となる話が持ち上がるなどしたため、遂に実現しなかったという過去がある。「如何に小説や戲曲の批評をするかと言ふ」「講義」をする、龍之介の好きなメフィストフェレスが化けた大学教授――これはもう、芥川龍之介自身と言ってよいのである。

・「KantKritik」「カントのクリティク」「Kant」はドイツの哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant 一七二四年~一八〇四年)で、Kritik」はドイツ語で「批判」「批評」の意。カントの知られた三大批判(書)である「純粋理性批判」(Kritik der reinen Vernunft 初版一七八一年刊)・「実践理性批判」(Kritik der praktischen Vernunft 一七八八年刊)・「判断力批判」(Kritik der Urteilskraft 一七九〇年刊)を指す。ウィキの「イマヌエル・カント」によれば、彼はこれらの主著によって『批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらし』、『ドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖とされる』とある。

・「貶した」「けなした」。

・「價値論」岩波新全集の山田俊治氏はここに注して、『価値を論じ、諸価値の体系化をはかる学問』とされ、これには価値の『基準を主観的な有用性に求める立場と、経験的評価を超越した真、善、美などの基準を説く立場とがある』が、『ここでは前者で立論されて』ある、とある。

・「赤らんだ麥藁帽」陽に焼けて変色し、ばさついて役に立たなくなった麦藁帽子。

・「扨」「さて」。

・「一揚一抑」「いちやう(よう)いちよく」。これは漢詩や謠(うたい)などに於ける抑揚法の謂いらしい。ぐっと一度高く揚げては、即座にぐっと引き締めて落とすという、まさにここで語られる半ば褒めておいて一気即座に貶しめる「半肯定論法」の極意であろう。

・「隱約の間」「いんやくのかん」。「隱約」は既出既注であるが再掲する。ここでは後にただ「言外に否定してゐる」とあるように、「あからさまには表現していない」ことの謂い。

・「顯にして晦」「けんしてくわい(かい)」。はっきりしているように見えると同時に、はっきりとしていないようにも見える。

・「木に緣つて魚を求むる論法」「緣つて」は「よつて(よって)」で拠る・寄るの意。「木に縁りて魚を求む」は「孟子」の「梁恵王上」の「以若所爲、求若所欲、猶緣木而求魚也」(若(かくのごと)き爲す所を以つて、若(かくのごと)き欲する所を求むるは、猶ほ木に緣りて魚を求むるがごときなり)に拠る故事成句。原義は「方法を誤ってしまうととても成功する望みはないこと」の譬えであるが、ここはそれをメビウスの帯のように捻ったもので、原義とは異なる。例示されたように、「或悲劇の藝術的價値を否定するのに」、「非難を」真「逆に用ひ」て、「幸福、愉快、輕妙等を缺いてゐると罵」る法を指す。「悲劇」の一般通念である「悲慘、不快、憂鬱」の絶対的と思われる必要条件の属性の批判を用いずに、その逆から責めて、「悲劇の藝術的價値」として必要なのは実は「幸福、愉快、輕妙」である、それをこの「悲劇」は致命的に「缺いてゐる」という、パラドキシャルな手法で「全否定論法」を行使する方法と私は読むが如何であろう? これは確かに「痛快を極めてゐる」と私は思うし、「時には」どころか、概ね、「偏頗の疑ひを招」くものではあるものの、相手は一瞬たじろいで、沈黙することは請け合いである。

・「看」「かん」。ここは「もてなし」「待遇」の謂いであろう。「感」とか「観」の謂いではない。

を與へ得るのであります。

・「佐佐木茂索氏の新著『春の外套』」大正一三(一九二四)年十一月金星社刊の処女短編集(大正八年からこの年までの短篇十五篇を所収)。本章は大正一三(一九二四)年十二月発表であるから、まさに新著であり、さりげなく自分の弟子のそれを宣伝しているわけである。実は芥川龍之介はこの作品集の序文を書いている。以下に、全文を電子化する。

   *

 

   「春の外套」の序

 

 昨日の流行は拵らへぬ小説である。畫の具も乾かないスケッチである。けれども今日の流行は明らかに拵らへた小説である。ヴァアニッシュのかかつた油畫である。佐佐木茂索君の作品はこの點に今日の流行と一致する特色を具へてゐる。君の作品を支配するものは人生記錄の生なましさではない。いづれもちやんと仕上げを施した、たるみのない畫面の美しさである。

 しかし又昨日の流行は所謂「餘裕のない小説」である。せつぱつまつた人生のせつぱつまつた一斷面である。けれども今日の流行は――いや、今日の流行も所謂「餘裕のない小説」である。佐佐木茂索君の作品はこの點に今日の流行と一致しない特色を具へてゐる。君の作品の主題は勿論、作品の中の一情景さへ少しも動きのとれぬものではない。いづれも春雲の去來するやうに、小面憎い餘裕に富んだものである。

 昨日の流行に反したものは夏目先生の筆に成つた所謂「餘裕のある小説」である。今日の流行に反するものも佐佐木茂索君の筆に成つた所謂「餘裕のある小説」である。しかし佐佐木君の作品は夏目先生の作品のやうに蒼老の趣には饒かではない。その代りに爭ふべからざる近代的な匂を漂はせてゐる。昔、ヴェルレニンは「作詩術」の中に「色彩よりも寧ろ陰影を」と言つた。佐佐木茂索君の作品は一面には餘裕に富んでゐると同時に、他面には又繊細を極めた情緒のニュアンスに溢れてゐる。これは君の作品を除いた所謂「餘裕のある小説」には、殆ど見出し難い特色である。わたしの君の作品を評して、近代的な匂を云々と言つたのは必しも妄りに言を立てたのではない。

 佐佐木君の作品の特色は勿論これだけには盡きないであらう。が、わたしは少くとも上に擧げた二三の特色を著しいものと信じてゐる。佐佐木君は第一の短篇集「春の外套」の成るに當り、わたしに一篇の序を徴した。即ちわたしの信ずる所を記し、聊か大方の讀者の爲に便にしたいと思つた所以である。

   大正十三年十一月九日夜

 

   *

「ヴァアニッシュ」はワニス(varnish)。ニスのこと。透明な被膜を形成する塗料であるが、ここはいらぬ装飾、虚飾の謂い。「小面憎い」は「こづらにくい」と読み、原義は「顔を見るだけでもいやになるくらい憎らしい・小生意気で癪に障る」の謂いであるが、ここは「小憎らしいほど味な」といった褒め言葉のニュアンスである。「蒼老」は「さうらう(そうろう)」で、老成していること・いぶし銀の謂い。「饒か」は「ゆたか」。「ヴェルレニン」はヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine 一八四四年~一八九六年)のことで、「作詩術」は彼の「Art poétique」(一八八五年)という九連から成る詩の題名で、引用箇所は第四連目の二行目「Pas la couleur, rien que la Nuance !」である。「徴した」とは供出を求めたの意。

・「一週間たつた後、最高點を採つた答案は下に掲げる通りである。」「正に器用には書いてゐる。が、畢竟それだけだ。」これは師芥川龍之介の弟子佐佐木茂索への、一見、悪意に満ちた「『より惡い半ば』を肯定」した『半肯定論法』に見えるが、実は同時に最大最上のエールでもあるのである。何故なら、前に示した龍之介の序文は、まさに、これとは逆に、この作品集の「藝術的價値の『より善い半ば』」を『半肯定論法』で評したものに他ならぬからである。合わせて相殺されれば、それは本作品集への素直な賛辞(但し、精進すべき留保を添えた、である)に他ならぬことになるからである。
 
 但し、一方で、この「正に器用には書いてゐる。が、畢竟それだけだ。」という言葉は別に、実は佐佐木以外の弟子或いは作家仲間へ向けられた皮肉な返し矢ででもあった可能性がすこぶる高いと私は考えている。これはたまたま全く別な必要性から、二〇〇九年岩波文庫刊石割透編「芥川龍之介書簡集」の石割氏の注を管見していたところ、これは!?! と思わせる記載を発見したからである。それは大正九(一九二〇)年七月十五日附の「龍門の四天王」の一人、南部修太郎宛書簡(田端発信・石割透編「芥川龍之介書簡集」書簡番号一〇三/岩波旧全集書簡番号七四三)の注である。ここで少し脱線して述べておくと、南部修太郎(明治二五(一八九二)年~昭和一一(一九三六)年)は師龍之介(但し、彼は龍之介と同年(六ヶ月ほど下)であり、「師」という認識は私は実は南部にはなかったと考えている)のかつての不倫相手であった歌人秀しげ子と関係を持っており、龍之介は大正十年の九月(推定)に二人の密会場面にたまたま遭遇、激しいショックを受けている。因みに、この事件が翌年一月に発表される
中」に強い影響を与えていることは間違いない。但し、この時点では私は龍之介としげ子の方の不倫関係は一応、終わっていたと考えている。兎も角も、このトラブルを遠因とすると私は推理しているが、翌大正十一年八月には龍之介と南部は喧嘩をし、絶交寸前にまでなっている(書簡(南部修太郎宛・同年八月七日附・田端発信・岩波旧全集書簡番号一〇六四。因みに石割版書簡集はこの書簡を採録していないので注意されたい)が残るが、五十九字に及ぶ削除部分があり、直接の理由は不明である)。本章発表(大正一三(一九二四)年十二月)の四年前、龍之介は私の偏愛する「南京の基督」(大正九(一九二〇)年七月一日発行『中央公論』)を発表しているが、それに対し、が、発表直後の大正九(一九二〇)年七月十一日附の『東京日日新聞』掲載の「最近の創作を読む」に於いて(以下、石割氏の注から引用)、『南部は「南京の基督」について、「この主の作品から心にアッピイルする何物かを得ようなどとは私は思はない」、「筆達者」は「気持ちが好い」が「たゞそれだけだ」と評した』とある(下線やぶちゃん)。少なくとも、龍之介がこの「批評學」の最後の台詞を書いた時、彼の脳裏には南部のこの評言がもとにあったと私は信じて疑わない。また、南部は「南京の基督」を評して「遊びが過ぎる」と言っているらしい(その龍之介の書簡(石割透編「芥川龍之介書簡集」書簡番号一〇三/岩波旧全集書簡番号七四三)中に出る)が、それについても石割氏は注されて、『「小器用に纏め上げた Fiction を書いて、氣持好さそうに遊んでゐる」と評した。また、安倍能成や久米正雄も、ほぼ同じ批評を新聞に寄せた』(下線やぶちゃん)とあるから、このアフォリズム「批評學」のエンディングのアイロニーは南部だけではなく、同輩の安倍や久米にさえも向けられた毒でもあったとも思われるのである。]

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 壁蝨

Dani

 

だに   螕【音卑】

壁蝨  【和名太仁】

    【和名抄用蜹

     字者非也蜹

     者蚊之屬】

 

本綱此即臭蟲也狀如酸棗仁人血食與蚤皆爲牀榻

之害避之于席下置雄黃或菖蒲末或蒴藋末或楝花末

或蓼末

五雜組云壁蝨又謂木蝨多生木中入夜則縁床入幕噆

[やぶちゃん字注:「幕」の字は底本では(「巾」+「莫」)であるが同字と見て、「幕」とした。訓読ではこの注は省略する。]

人遍體成瘡燔殺之甚臭

按俗云太仁是也在山林圃中着人牛犬猫雉鳶等

 血初生似陰蝨而團匾黃赤色利喙八足噉着則半入

 皮將取棄之身半切亦不去血滿腹則肥脹如草麻子

 而色亦稍黒潤時自堕落蓋與蚤同爲牀榻之害者不

 然也若山民邊地之居其然乎

 

 

だに   螕【音、卑。】

壁蝨  【和名、「太仁(だに)」。】

    【「和名抄」に「蜹」の字を用ふるは非なり。「蜹」は蚊の屬。】

 

「本綱」、此れ、即ち、臭蟲〔(くさむし)〕なり。狀、酸棗仁〔(さんさうにん)〕のごとく、人の血を〔(す)ひ〕て食ふ。蚤と與〔(くみ)にして〕皆、牀榻〔(しやうたふ)〕の害を爲す。之を避くるに席〔(むしろ)の〕下に于〔(おい)〕て雄黃、或いは菖蒲の末、或いは蒴藋(そくず)の末、或いは楝(あふち)の花の末、或いは蓼〔(たで)〕の末を置く。

「五雜組」に云ふ、壁蝨〔(かべじらみ)〕、又、木蝨〔(きじらみ)〕と謂ふ。多く木の中に生ず。夜に入れば、則ち、床に縁(は)ひ、幕に入りて人を噆〔(か)む〕。遍體(みうち)瘡〔(かさ)〕と成る。之れを燔(や)き殺〔さば〕、甚だ臭し。

按ずるに、俗に云ふ「太仁」、是れなり。山林・圃(はたけ)の中に在り。人・牛・犬・猫・雉・鳶等に着きて、血を(す)ふ。初生、陰蝨(つびじらみ)に似て團〔(まる)〕く、匾〔(たひら)かにして〕、黃赤色。利〔(と)〕き喙〔(くちばし)〕、八足。噉着〔(くらひつ)く〕時は則ち、半〔(なかば)〕は皮に入る。將に之れを取り棄てんとす〔れば〕、身、半〔(なかば)〕は切れても亦、去らず。血、腹も滿つれば、則ち、肥脹して草麻子(たうごま)のごとくして、色、亦、稍〔(やや)〕黒く潤ふ時〔は〕、自〔(みづか)〕ら堕落〔(お)〕つ。蓋し、蚤と同〔じく〕牀榻〔(しやうたふ)〕の害を爲すと云ふは、然らざるなる〔も〕、若〔(も)〕し、山民邊地の居には其れ然〔(しか)あ〕るか。

 

[やぶちゃん注:前項の「狗蠅(いぬばへ)」の考証でフライングしてしまったが、

 

この「本草綱目」と「五雜組」をもとにした記載部分の生物は

 

ここにもろもろ出る「壁蝨」「蜱」「蟎」「螕」などと書くところの

 

ダニ(節足動物門鋏角亜門クモ綱ダニ目 Acari に属するダニ類)

 

ではなく、吸血性寄生昆虫である、所謂、ナンキンムシ

半翅(カメムシ)目異翅亜目トコジラミ下目トコジラミ科トコジラミ属トコジラミ Cimex lectularius

である。ところが、しかし最後の良安の記載内容は、そのトコジラミではなくて、まさに吸血性の、全くの別生物種である、

 

鋏角亜門クモ綱ダニ目マダニ亜目マダニ科 Ixodidae

 

の記載となっているのである。それについては後注で明らかにするので、取り敢えずは、まず先に、半翅(カメムシ)目異翅亜目トコジラミ下目トコジラミ科トコジラミ属トコジラミ Cimex lectularius たる「トコジラミ」を解説する。

 私が実物を見たことがないけれども、近年、実は本邦では異様に再繁殖をし始めており、一般家庭にも再び出現するようになっており、あなたの家にもおるやも知れぬ故、以下、ウィキの「トコジラミ」より引いておく。和名に「シラミ」を含むが、『シラミ目ではなく、カメムシ目トコジラミ科の昆虫である。トコジラミ科の昆虫は全て吸血性であるが、そのほとんどは主に鳥類やコウモリ類を宿主とする』。『一方で本種および近縁種のタイワントコジラミ(台湾床虱。学名:Cimex hemipterus。別名、ネッタイトコジラミ、ネッタイナンキンムシ、熱帯南京虫)のみが人間を主な吸血源とする』。成虫は五~七ミリメートル程まで成長する。『不完全変態で、幼虫と成虫はほぼ同じ形をしている。また成虫も翅を持たない。体色は吸血前は薄黄色からやや赤褐色を呈すが、吸血後は吸血した血液が透けて見えるためより濃い茶色となる。成虫は卵形で、背腹軸に扁平である。タイワントコジラミとは形態的によく似ているが、トコジラミは前胸の縦横比が』二・五倍程度で『あるのに対し』、『タイワントコジラミは』二倍程度と『少し細長くなっている』。『雄成虫は腹部の末端が雌成虫よりも尖っており、末端に良く発達したペニスを持つ。メス成虫には腹部』第四節の『腹側の中央より左に特徴的な切れ込みがある。交尾の際に雄はこの切れ込みにペニスを挿入し』、『雌に精子を提供する』。『トコジラミは雄雌ともに吸血し、幼虫・成虫にかかわらずその全生存期間を通じて栄養分を血液に頼る。成虫にいたるまで』五齢までの『幼虫期を経るが、幼虫の各齢期に一回以上の吸血を必要とする』。『孵化から成虫まで』約二~七週間『かかるが、これは吸血原の有無や温度などに大きく依存する。飢餓に強く、実験室内での実験ではあるが』、十八ヶ月間も『無吸血で生存したという記録がある』。『トコジラミはふつう夜間に吸血するが、厳密には夜行性ではなく、暗ければ昼間でも吸血することがある』。『普段は明かりを嫌い、壁の割れ目など隙間に潜んでいる。トコジラミは翅を持たないため自力では長距離を移動することはできない。しかし、人間の荷物または輸送される家具などに取り付くことでその分布を拡大する。ボルバキアという共生細菌がいないと正常な成長や繁殖が困難であることが研究で明らかにされた』。『刺咬する際に唾液を宿主の体内に注入するが、この中に含まれる物質が引き起こすアレルギー反応で激しいかゆみが生じる。俗に、刺されると肌に』二つの『赤い痕跡(刺し口)が残ると言われるが、実際には刺し口は』一つである『ことの方が多い。かゆみは刺された当日よりも』二日目以降の『方が強い。刺咬の痕跡は』一乃至二週間以上『消えない』。『同じカメムシ目』(半翅(カメムシ)目Hemiptera)『の昆虫にはシャーガス病』(Chagas' disease:トリパノソーマ症の一種で、原虫(真核単細胞の微生物の内、動物的な性質を示す生物を指す。現行では寄生性で特に他の生物に対して病原性を示す種群についてかく呼称するケースが多い。これはまず、寄生虫学に於いて単細胞の寄生虫を「原虫」として区分呼称していることにより、一方で病理学上では、病原体の大部分は細菌類であることから、それらと区別するために「細菌類でない種群で類動物的な性質を示す病原体」をかく呼んで区別するのである。なお、生物学的にはトリパノソーマは鞭毛虫である)であるトリパノソーマ・クルージ(エクスカバータ界 Excavataユーグレノゾア門Euglenozoaキネトプラスト綱 Kinetoplastea トリパノソーマ目 Trypanosomatida トリパノソーマ科 Trypanosomatidae トリパノソーマ属 Trypanosoma トリパノソーマ・クルージ Trypanosoma cruziの感染を原因とする人獣共通感染症。「サシガメ(刺し亀)病」とも呼ばれる。中南米に於いて発生し、哺乳類吸血性である半翅目異翅亜目トコジラミ下目サシガメ上科サシガメ科Reduviidaeに属するサシガメ類をベクターとする。この感染症に罹り得る動物(感受性動物)はヒト・イヌ・ネコ・サルなど百五十種を越える哺乳類とされる。潜伏期間が長く時には十数年の後に発症することもある。症状はリンパ節・肝臓・脾臓の腫脹。筋肉痛・心筋炎・心肥大等の心臓障害や脳脊髄炎である。根治薬は現在もない。ここまでは主にウィキの「シャーガス病」に拠った。因みに、ダーウィンはビーグル号の航海を終えた翌年に原因不明の病気に襲われ、終生、主に胃痛や嘔吐、頭痛と心臓の不調で苦しんだが、彼は航海中に南米で捕獲したサシガメを飼育し、餌として自分の血を吸わせており、それによってシャーガス病に感染していた可能性があることを若き日に私は読んだことがある)『を媒介するオオサシガメ類が存在する。しかし、現在のところトコジラミが媒介する伝染病は確認されていない。トコジラミの体からB型肝炎ウイルスなど幾つかの人間の病原体を検出した例があるが』、『いずれも実際にこれらの病原体を媒介しているという証拠は見つかっていない』。『「南京虫」の「南京」とは、江戸時代には海外から伝わってきた小さいもの、珍しいものに付けられる名だった(他の用例として南京錠、南京豆などが挙げられる)。この昆虫は海外からの荷物に付着して伝わってきたと考えられている。ただし、実際に中国南部の広東省から江蘇省にかけても多く生息しているため、南京という地名に由来するとの説もあながち間違いではない。中国語では「臭虫」と呼ばれ、本種を「温帯臭虫」、タイワントコジラミを「熱帯臭虫」と称して区別する。タイワントコジラミとの混称と思われるが、地方名に、「あーぬん」(沖縄県石垣島)、「あやぬん」(沖縄県小浜島)、「ひーらー」、「っちゅくぇびーら(人食いひら)」(首里方言)、「あかめ」(東京都八丈島)などがある』。『布団やベッドに潜み、そこで被害を受けることが多いので「トコジラミ」や後述の「トコムシ」の名称が付いた。英語ではトコジラミ、タイワントコジラミともに「bedbug」の名称が使われるが、トコジラミを特に指す場合は「common bedbug」と言う』。文禄四(一五九五)年刊行の、『イエズス会員アンブロジオ・カレピノのラテン語辞書をもとにした『羅葡日対訳辞書』に「トコムシ:cimex」の項目があるが、「cimex」とはトコジラミである。この頃すでに日本に侵入していた事実が窺われる。また』、その八年後の慶長八(一六〇三)年に『刊行された『日葡辞書』ではトコムシ(Tocomuxi)の項にカメムシを意味する「Porsouejo」の訳語が記されている』。『一方、トコジラミ研究に先鞭をつけた人物といわれている博物学者の田中芳男』(天保九(一八三八)年~大正五(一九一六)年:信濃飯田城下の医師の家に生まれ、蘭方医伊藤圭介に学び、文久二(一八六二)年に蕃書調所に出仕して物産学を担当、幕末から明治にかけてパリやウィーンなどで開催された万国博覧会に参加する一方で内国勧業博覧会の開催を推進、殖産興業政策に尽力した。農商務省農務局長・博物館長・元老院議官・貴族院議員等を歴任、駒場農学校(東京大学農学部の前身)・大日本農会・大日本山林会・大日本水産会・大日本織物協会の創立、東京上野の博物館・動物園の設立などにも貢献した近代日本の優れたプラグマティクな博物学者である)は「南京虫又床虱」と『題した報告を残し、繁殖状況、性質、駆除の方法などを述べている。同報告によると、南京虫は明治維新前に幕府が外国から古船を購入した際、その古船に潜んで日本に上陸したものであるといい、神戸港界隈に一番多くいたということである。このことはトコジラミが江戸時代の日本国内では一般には知られていなかったことを意味する』。明治一一(一八七八)年に『日本を訪れた旅行家、イザベラ・バードは著書『日本奥地紀行』(Unbeaten Tracks in Japan)で、行く先々の宿で南京虫による被害に遭ったことを記述しており、当時すでに一般家庭や旅籠などに蔓延していたことが推測される。終戦後も不衛生な地域や古い木造の建物、特に公衆の出入りする安ホテルや警察の留置場などにはきわめて普遍的に見られた害虫である。江戸川乱歩が回想記』「わが青春記」(昭和三二(一九五七)年刊)の『中で、上京後住み込みで働いた印刷工場の寮で南京虫に悩まされたことを記している』。だが昭和四〇(一九六五)年頃より『使用されだした有機リン系の殺虫剤がよく効き』、昭和五〇(一九七五)年頃には『ほとんど目にすることはなくなった』。『住居では、畳の隙間やコンセントの隙間、壁の隙間、ベッドの裏、絨毯の裏、読まないで長期間放置している見開き雑誌などに隠れていることが多いので重点的に点検する。ベッドの縁や壁の隙間などに半透明楕円形の卵を産むが』、卵を全て発見し、除去しないと、『再発生を繰り返す』。『薬剤の使用、エアゾール状の薬剤を通り道に散布する。絨毯や畳の裏などにはピレスロイド系のフェノトリン(商品名スミスリンなど。粉末状の薬剤)を散布することが有効である。パラジクロロベンゼンなどの防虫剤を嫌うため、旅行先などで付着されないためには荷物へ防虫剤を入れる』。『薬剤に耐性をもったトコジラミの駆除は、加熱乾燥車など熱風を利用した駆除が効果的である』とある。あなたの家に、いませんように。

 前項の狗蠅(いぬばへ)」の注で考証した如く、「本草綱目」では「壁蝨」は独立項ではなく、「狗蠅」の附録としてある。ここに示すべきであるものであるから、煩を厭わず再掲しておく(引用は国立国会図書館デジタルコレクションの明代の一五九〇年刊の胡承竜による版の「本草綱目」の画像を視認した。一部、破損による判読不能の箇所はで示した)

   *

附錄 壁蝨【時珍曰、即臭蟲也。狀如酸棗仁、人血食、與蚤皆爲牀榻之害古人多於席下置麝香、雄黃、或菖蒲末、或蒴藋末,或楝花末、或蓼末、或燒木瓜煙、黃蘗煙、牛角煙、馬蹄煙,以辟之也。

   *

寺島の引用はほぼこれに則るが、カットしたものでは「黃蘗」(おうばく)を注しておく。これは双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense のことで、和訓ではこれで「きはだ」と読む。

 

・「螕」以下に出る通り、音「ヒ」で、この字はダニの他にも「大きな蟻」をも意味する。

・『「和名抄」に「蜹」の字を用ふる』「和名類聚抄」には確かに、

   *

蜹 野応案蜹【如税反與芮同和名太仁】今有小虫善齧人謂之含毒即是

   *

とある。

・『「蜹」は蚊の屬』確かに「トコジラミ」や「ダニ」にもこの漢字を当てるが、これは国訓に過ぎず、漢語にはそれらの意味はない。漢語(中国語)としてはこれは、まずは第一義的には、吸血性の双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目ユスリカ上科ブユ科 Simuliidaeの昆虫の総称であり、第二に良安の言うように蚊(カ下目カ上科カ科 Culicidae の蚊の類)を指す語である。

・「臭蟲〔(くさむし)〕」「しうちゆう(しゅうちゅう)」と音読みするよりもこちらが良いと感じたので、かく訓じた。現在でも中国語でトコジラミを「臭虫」(チョォチヨン)と呼ぶ。これは彼らがその後脚の基部にある臭腺から油臭い悪臭を出すことに基づく。

・「酸棗仁〔(さんさうにん)〕」は現代仮名遣では「さんそうにん」で、クロウメモドキ目クロウメモドキ科ハマナツメ連ナツメ属サネブトナツメZizyphus jujuba var. spinosaの種子(生薬)。

・「與〔(くみ)にして〕」「~と仲間で」「~と同類であって」。同じく吸血性であることから。

・「牀榻〔(しやうたふ)〕」寝床。

・「席」「蓆」と同義。

・「雄黃」鶏冠石。毒性が強いことで知られる三酸化二砒素(As2O3 :英名 Arsenic trioxide)を含む。

・「蒴藋(そくず)」これは実際には他にも多様の読みがある。スイカズラ科ニワトコ属ソクズ Sambucus chinensis で、現在は入浴剤などに用いられる。

・「楝(あふち)花」ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach の花で配糖体の一種を多く含む。

・「蓼〔(たで)〕」ナデシコ目タデ科 Persicarieae連イヌタデ属Persicariaのタデ類を指す。

・『「五雜組」に云ふ』これ同書の「物部」の「壁虱」の後に、

   *

江南壁虱多生木中惟延綏生土中遍地皆是也入夜則緣床入幕人噆遍體成瘡雖徙至廣庭懸床空中亦自空飛至南人至其地輒宛轉叫號不可耐無計以除之也

   *

とあるのに基づく。

・「壁蝨〔(かべじらみ)〕、又、木蝨〔(きじらみ)〕と謂ふ」孰れも音読みすべきが正しいとは思うが、それではトコジラミの別称であることが伝わり難いので、かく訓じた。最近のトコジラミ被害をニュース映像で見たが、まさに壁や木の桟と畳の間にびっしりと蠢いておった。

・「縁(は)ひ」「縁」には「纏わる・絡む」という動詞の意がある。なお、「和漢三才圖會」の原典も、また中文サイトで視認した「五雜組」の原典も「緣」ではなく、「縁」の字を書いてある。私のタイプ・ミスではない。再度言っておくが、私のこれら原文は、基本、原典を視認して私が手打ちしている電子テクストである。どこかから安易にOCRで読み取ったものではない。

・「幕」寝室の幔幕(まんまく)、帳(とばり)のこと。

・「噆〔(か)む〕」咬む。

・「遍體(みうち)」遍身。体中(からだじゅう)。

・「初生」幼体。

・「陰蝨(つびじらみ)」「つび」とは一般には女性生殖器及びその周縁部を含む陰部(陰門・玉門)を差す古語であるが、時には男性のそれにも用いた。「つびじらみ」は「陰虱」或いは「鳶虱」(「つび」を「とび」と誤認したか訛りか)などとも書き、ほぼヒトの陰部に特異的に寄生する昆虫綱咀顎目シラミ亜目ケジラミ科ケジラミ属ケジラミ Pthirus pubis のことを指す。次の次に独立項「陰蝨」として出るのでそこで詳注する。

・「噉着〔(くらひつ)く〕時は則ち、半〔(なかば)〕は皮に入る。將に之れを取り棄てんとす〔れば〕、身、半〔(なかば)〕は切れても亦、去らず」これはトコジラミの記載ではない。毟り取れるほどに有意に大きく、皮膚に比較的深く食い入って吸血し、無理に毟り取ると、咬んでいる口器を含む頭胸部が千切れて残り、治癒に時間がかかったり、二次感染を起こして化膿したりするのは、鋏角亜門クモ綱ダニ目マダニ亜目マダニ科 Ixodidae の大型のマダニ類しか考えられない。やっとここで名にし負うところの真正の「ダニ」について語れる(なお、私は特にマダニ類には一般人よりも詳しい。長女の先代アリス(ビーグル犬)以来、何度もきゃつらと戦ってきた歴史があるからである)。ウィキの「マダニ」によれば、マダニ科の種群は『口器を皮膚に刺し込んだ際にセメント様物質を唾液腺から放出する。このセメント様物質は半日程度で硬化するため、これ以降』、一~二週間程度は寄生主の『体から離れない。そこで無理にマダニを引き抜こうとすると、消化管内容の逆流により感染リスクの上昇を招いたり、体内にマダニの頭部が残ってしまう可能性が高い』。一~二週を『経過した後は、セメント溶解物質を唾液から出し、これによって皮膚から離れる』。但し、同じマダニ亜目 Metastigmata のヒメダニ科Argasidaeの吸血性のヒメダニ類(一部はやはりヒトにも寄生する)は『セメント様物質を放出しないため、容易に取り除くことが出来る』。『感染症罹患の恐れがあるため、マダニ咬症の場合は医療機関を受診すべきである。切開してマダニを除去するのが一番確実であるが、ダニ摘除専用の機器も存在している。民間療法では、マダニにワセリン』、『アルコール、酢や殺虫剤をつけたり、火を近づけたりするとマダニが嫌がって勝手に抜けることがあり、それが成功した例も報告されているが、無理に自己摘除しようとするとダニ媒介感染症の感染リスクが上昇するので推奨されない』とある。ここで言うダニ感染症とは死に至る危険性もあるので馬鹿に出来ない。以下に代表的なものを同ウィキから引いておく(以下の下線はやぶちゃん)。

「日本紅斑熱」:リケッチアの一種である日本紅斑熱リケッチア(真正細菌プロテオバクテリア門Proteobacteriaアルファプロテオバクテリア綱Alphaproteobacteriaリケッチア目 Rickettsialesリケッチア科リケッチア属日本紅斑熱リケッチア Rickettsia japonica)に感染するによって引き起こされる、一九八四年に徳島県で症例が確認された比較的新しい感染症である。『感染したときの症状は、かゆみのない発疹や発熱などがある。この時点で病院に行けば大事には至らないが、放っておくと最終的には高熱を発し、そのまま倒れてしまうことがある。治療は点滴と抗生物質の投与。咬傷が見当たらなくても、医師にキャンプやハイキングなどに行ったと伝えておけば、診断しやすくなる』。死亡例もある。かの古来、恐れられてきたツツガムシ病(ダニ目ツツガムシ科 Trombiculidaniのツツガムシ類に咬まれることでリケッチア科 Orientia 属ツツガムシリケッチアOrientia tsutsugamushi に感染して発症する。治療が遅れると多臓器不全で死に至るケースも多い)との鑑別が難しい(最後はウィキの「日本紅斑熱に拠る)。

「Q熱」:偏性細胞内寄生体(別の生物の細胞内でのみ増殖可能であり、それ自身が単独では増殖出来ない微生物)である真正細菌プロテオバクテリア門ガンマプロテオバクテリア綱Gamma Proteobacteriaレジオネラ目Legionellalesレジオネラ科コクシエラ属コクシエラ菌 Coxiella burnetii よって発症する。『治療が遅れると死に至る上、一度でも重症化すると治っても予後は良くない。山などに行った後に、皮膚などに違和感を覚えたり、風邪のような症状を覚えたら、この病気を疑うべきである。日本紅斑熱の場合と同じく、キャンプやハイキングなどに行った後に何らかの症状が出た場合は医師に伝えることが推奨される』。

「ライム病」:『ノネズミやシカ、野鳥などを保菌動物とし、マダニ科マダニ属 Ixodes ricinus 群のマダニに媒介される』真正細菌スピロヘータ門Spirochetesスピロヘータ綱スピロヘータ目スピロヘータ科ボレリア Borrelia 属の種群(複数の種がいる)に感染することに『よって引き起こされる人獣共通感染症のひとつ』。通常は咬着感染して数日から数週間後に刺咬部を中心とした同心円状の特徴的な遊走性紅斑と呼ばれる症状が現れる(無症状の場合もある)。播種が行われて病原体が全身に拡散すると、皮膚症状・神経症状・心疾患・眼の異状や関節炎・筋肉炎など多彩な症状が現れ、慢性化もする(後半はウィキの「ライム病に拠った)。

「回帰熱」:ヒメダニ属Ornithodoros・マダニ属 Ixodesに『媒介されるスピロヘータ科の回帰熱ボレリア』(前のライム病を参照)『によって引き起こされる感染症。発熱期と無熱期を数回繰り返すことからこの名がつけられた』。一九五〇年以降、『国内感染が報告されていなかったが』、二〇一三年に『国立感染症研究所でライム病が疑われた患者』の血清八百検体の『疫学検討を行ったところ、回帰熱ボレリアの一種であるB.miyamotoiのDNAが確認され』ている。病名は発熱期と無熱期を数回繰り返すことに由来する。致死率は治療を行わない場合、数%から三〇%程度とかなり高い(死亡率はウィキの「回帰熱に拠る)。

「ダニ媒介性脳炎」:『マダニ属のマダニが媒介するウイルス性感染症。脳炎による神経症状が特徴的。東ヨーロッパやロシアで流行がみられ、日本においても、過去に一例の国内感染例が報告されている』。ウィキの「ダニ媒介性脳炎によれば、潜伏期間は七~十四日ほど、『潜伏期の後に頭痛・発熱・悪心・嘔吐が見られ、症状が最大に現れると脳炎症状が見られることもあ』り、三〇%の致死率を持ち、『多くの例で麻痺が残り、北海道の道南地域で発生した例では高熱と神経症状を示した後、退院後も麻痺が後遺症として残った』とある。

「重症熱性血小板減少症候群」:SFTSウイルス(第五群ブニヤウイルス科 Bunyaviridaeフレボウイルス属Phlebovirus重症熱性血小板減少症候群ウイルス Severe fever with thrombocytopenia syndrome virus)の『感染により引き起こされる感染症で、本症候群に起因する死亡事例が』二〇一三年に『国内で初めて発表され』ている最も新しい、そうして誰もが罹り得る、しかも厄介な看過出来ないダニ感染症の一つである。症状は一週間から二週間の『潜伏期間を経て発熱、嘔吐、下痢などが現れる。重症患者は、血球貪食症候群を伴って出血傾向を呈す例が多』く、『西日本で、これまで』九十六人が『感染して、発熱や出血などの症状を訴えた後』、三十人が『死亡している』。現在、有効な薬剤やワクチンない

・「草麻子(たうごま)」キントラノオ目トウダイグサ科トウゴマ属トウゴマ Ricinus communisの実。これ、吸血して腫脹した「マダニ類」ならば形も模様も実によく似ていると言える(吸血したナンキンムシにはあまり似ているとは言えないと私は思う)。ここは良安先生は完全にマダニとして記していることが判るここに至って言おう。寺島良安は「本草綱目」の「壁蝨」を現在の鋏角亜門クモ綱ダニ目マダニ亜目マダニ科 Ixodidae のマダニ類や人や獣に寄生して吸血するダニ目 Acariのダニ類と誤認している。しかしそれは無理もないのである。先に引いたウィキの「トコジラミ」の引用を再読されたいのである。そこにはトコジラミの日本伝搬を明治維新前辺りであるとし、トコジラミは江戸時代の日本国内に於いては一般にはまるで知られていなかった、良安自体がトコジラミを知らなかったのである。だから彼がこの「本草綱目」や「五雜組」に記載された「虫」(トコジラミはカメムシ類であるからして現代の生物学でも真正の「昆虫」)をダニ(ダニ類は現代の生物学では蜘蛛類であるから「昆虫」ではない)と同じく人の血を吸い、吸血すればころんころんになる、マダニ類、同一の「虫」だと思い、それに同定したとして、これ、少しもおかしくもなんともない、寧ろ、自然なことなのであった

 

・「蓋し、蚤と同〔じく〕牀榻〔(しやうたふ)〕の害を爲すと云ふは、然らざるなる〔も〕、若〔(も)〕し、山民邊地の居には其れ然〔(しか)あ〕るか」ともかくも蚤(昆虫綱隠翅(ノミ)目 Siphonaptera のノミ類)と同じように、積極的に寝床に侵入してきて、盛んに刺しては吸血して害をなすと述べられているのであるが、本邦のそれは、そんなことはしない。しかし、山の民や僻地の住まいなどでは、そうしたことがあるのかも知れぬが、この記載は私には疑問ではある、というのである。ダニは吸血するが、ぞろぞろと蚤や蚊や蚋(ぶよ)のように寝床につぎつぎと活発に侵入して来たりは確かにしない(但し、不衛生で劣悪な環境下ではそういうことも起こる。山中に於いてダニが多量に寄生していた熊や猪などの大型哺乳類が死亡した場合、その近くにたまたま人が知らずに休んでいれば彼等は大挙してその人に群がる。自衛隊員の訓練中の体験談で似たような話を聴いた記憶がある)。。まさにここは最後に良安が、ちらと、『私が同定している大型のマダニ類とこいつらは違うかも?』と疑問に思った場面なのであった!]

2016/05/30

キイロ・キイロ・キイロ……コイヌ・コイヌ・コイヌ……

キイロ・キイロ・キイロ……
コイヌ・コイヌ・コイヌ……
 
これは何か?……近いうちにくる私の820000アクセス記念テクストで明らかになる……

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或資本家の論理

 

       或資本家の論理

 

 「藝術家の藝術を賣るのも、わたしの蟹の鑵詰めを賣るのも、格別變りのある筈はない。しかし藝術家は藝術と言へば、天下の寶のやうに思つてゐる。あゝ言ふ藝術家の顰みに傚へば、わたしも亦一鑵六十錢の蟹の鑵詰めを自慢しなければならぬ。不肖行年六十一、まだ一度も藝術家のやうに莫迦莫迦しい己惚れを起したことはない。」

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」「武者修業」「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」「森鷗外」と、後の「或資本家の論理」の全十一章で初出する。

 

・「蟹の鑵詰め」「日本製缶協会」公式サイト内の「缶詰・製缶業界のあゆみ」の「大正時代」によれば(以下、本注内の下線は総てやぶちゃん)、『日清戦争で台湾、日露戦争で北洋漁業と大きな資源を確保した日本はパイナップル、鮭鱒・カニを原料とした缶詰の発展を見た。さらにタケノコ、グリーンピース等の蔬菜の缶詰も出現し』、『今日の様な水産、畜肉、果実、蔬菜と様々な分野の缶詰が誕生した』。『缶詰の製造が一つの産業として確立すると』、『日露戦争の後の軍需が一旦途絶えるものの』、『欧米人の嗜好にあった缶詰を開発することで輸出産業として缶詰産業は大きく転換した』。『代表する例として千島・樺太のカニ缶詰、カムチャツカのサケ缶詰である』。『いずれも水煮で欧米人に歓迎され品質も優良だったといわれている』。『そのほか、カキ、エビ、貝柱、グリーンピースなどもこれに加わった』。大正一一(一九二二)年に『サケ缶詰の国内消費拡大を目的とした「缶詰普及協会」が創立され輸出とともに国内の需要拡大を図った。当普及協会の活動としては、①市販缶詰開缶研究会②研究会に出品の優良缶詰に推奨マークの貼付③缶詰の宣伝試食等を行っている』。大正一二(一九二三)年に『相模湾を震源地とする関東大震災が発生し、京浜地帯に壊滅的な打撃を与えたが、その時避難民の救済に缶詰が使われ、はからずも国内の需要を高めるきっかけになった』。『大正年間に缶詰業からの製缶業の分離・独立は下記の経緯を辿った。明治維新以降、我が国においては缶詰業が勃興したが明治年間においては、缶詰業と製缶業の分離がなされず、それぞれの缶詰工場にて製缶の熟練工を抱え缶を製造していた。しかし、北洋漁業のサケ・マスを原料とした缶詰製造を開始した堤商会が』、大正二(一九一四)年に『米国より自動製缶機を購入し、カムチャツカにて缶詰を製造した。この自動製缶機は高性能であり、自社が製造する缶詰以上の能力を発揮した』。大正五(一九一六)年にはこれを『函館に移設し』、『自動製缶機の空缶製造の余力分を外部の缶詰会社に販売した事が缶詰製造と製缶業が分離した始まり』となった。『しかし、名実ともに缶詰業から製缶業が分離・独立したのは』大正六(一九一七)年の『大阪にて米国から自動製缶機を購入し、創業した東洋製罐株式会社であった』。大正一〇(一九二一)年には、『北海製罐倉庫株式会社が創業した。同社は北洋漁業関連の空缶製造を目的に設立された。また』、大正一四(一九二五)年には『函館に日本製罐株式会社が創業した。この製缶業の分離・独立によって、それまでの缶詰業者が勝手な寸法の缶を注文し、製缶会社が多品種小ロットの生産を強いられていたものを、より安価な空缶を提供することを目的に、缶詰業者と協議の上、空缶の規格統一化が推進された』とある。なお、小林多喜二の「蟹工船」が発表されるのは龍之介の死から二年後の昭和四(一九二九)年(『戦旗』初出)でのことである)。また、ウィキの「蟹工船によれば、「あらすじ」の項に、『蟹工船とは、戦前にオホーツク海のカムチャツカ半島沖海域で行われた北洋漁業で使用される、漁獲物の加工設備を備えた大型船である。搭載した小型船でたらば蟹を漁獲し、ただちに母船で蟹を缶詰に加工する』。『蟹工船は「工船」であって「航船」ではない。だから航海法は適用されず、危険な老朽船が改造して投入された』。『また工場でもないので、労働法規も適用されなかった』。『そのため蟹工船は法規の真空部分であり、海上の閉鎖空間である船内では、東北一円の貧困層から募集した出稼ぎ労働者に対する資本側の非人道的酷使がまかり通っていた。また北洋漁業振興の国策から、政府も資本側と結託して事態を黙認する姿勢であった』。『情け知らずの監督である浅川は労働者たちを人間扱いせず、彼らは劣悪で過酷な労働環境の中、暴力・虐待・過労や病気で次々と倒れて』いったのであった。同ウィキの「現実の蟹工船」の項には、『夏場の漁期になると貨物船を改造した蟹工船と漁を行う川崎船が北方海域へ出て三ヶ月から半年程度の期間活動していた。 蟹工船は漁をしていない期間は通常の貨物船として運行しており、専用の船があったわけではない。 蟹の缶詰は欧米への輸出商品として価値が高かったため、大正時代から』昭和四十年代まで『多くの蟹工船が運航されていた』。大正一五(一九二六)年九月八日附『函館新聞』の記事には、『「漁夫に給料を支払う際、最高二円八〇銭、最低一六銭という、ほとんど常軌を逸した支払いをし、抗議するものには大声で威嚇した」との記述がある。逆に、十分な賃金を受け取ったという証言もある。「脱獄王 白鳥由栄の証言」(斎藤充功)において』、白鳥由栄(明治四〇(一九〇七)年昭和五四(一九七九)年:吉村昭の「破獄」で知られる「昭和の脱獄王」)『は収監以前に働いていた蟹工船について「きつい仕事だったが、給金は三月(みつき)の一航海で、ゴールデンバット一箱が七銭の時代に三五〇円からもらって、そりゃぁ、お大尽様だった」と述べている』。大正一五(一九二六)年に十五歳で『蟹工船に雑夫として乗った高谷幸一の回想録では』、陸で働く十倍にも『なると述べているが、単調な』一日二十時間労働で『眠くなるとビンタが飛ぶ過酷な環境で』、大半は一年で『辞めるところ、高谷幸一は金のために』五年も『働いたと証言している』。『高い給料を貰える代わりに、睡眠時間は短く、狭い漁船の中で何カ月も過ごさなくてはならず(監禁に近い)、食料も限られた。そのため、ストレスや過労により環境がおかしくなり、陸では温厚な人物ですら、鬼に変えてしまうほど精神的に追い詰められ』たとある。そういうことをしていたトップにいたのが、この爺(じじい)であったことをよく知った上で、このアフォリズムは読まれなければならない

・「顰みに傚へば」「ひそみにならへば(ひそみにならえば)」と読む。元来は「西施(せいし)の顰みに倣う」で美人の西施が病気で顔を顰(しか)めたところが、それを見た醜女(しこめ)らが自分も顔を顰めれば美しく見えるのかと思って真似をしたという「荘子(そうじ)」「天運篇」に載るの故事から、「善し悪しも考えずに人の真似をして物笑いになる」意であるが、ここはそこから派生した、他人に倣(なら)って事を成すことを遜(へりくだ)っていう謂いである。但し、それがまたこの資本家の用法では慇懃無礼ななものとなり、蟹缶と合わせて生臭く面白いのである。

・「六十錢」先に十円を今の金額に換算すると凡そ一万円から五万円相当、中をとって三万円ほどとしたから、六百円から三千円、中をとって千八百円相当か。

・「行年六十一」「きやうねん(きょうねん)」「ぎやうねん(ぎょうねん)」「かうねん(こうねん)」といかようにも読む(私は私が死んだ年の意味では「こうねん」とは個人の趣味で発音しないので、それで読みたい。筑摩全集類聚版では「ぎやうねん」とルビする)。ここは単に今まで生きて来た年数の意で、数え六十一だから、単純に発表時から換算すると、文久三・元治元年(一八六四)年に相当する。

・「己惚れ」「うぬぼれ」「おのぼれ」二様に読めるが、私は後者で読みたい。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 森鷗外

 

       森鷗外

 

 畢竟鷗外先生は軍服に劍を下げた希臘人である。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」「武者修業」「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」と、後の「或資本家の論理」の全十一章で初出する。但し、本章は単行本「侏儒の言葉」ではカットされた。森鷗外(本名・森林太郎 文久二(一八六二)年~大正一一(一九二二)年七月九日)は、ご覧の通り、この発表の二年前四ヶ月前に亡くなっている(死因は萎縮腎及び肺結核)。彼は作家である前に公的には陸軍軍医(最高位で明治四〇(一九〇七)年十月に中将相当陸軍軍医総監に昇進、人事権をもつ軍医最高位である陸軍省医務局長に就任している)で、当時の軍人の佩刀は当然であるから、このアフォリズムのオリジナリティは「希臘人である」の部分にあることになる(「希臘」は「ギリシア」で読んでおく)。無論、これは古代ギリシャ人の謂いで、さすれば、ギリシャの先哲らのように、武人にして政治家・博物学者・文学者・科学者あり、それ前に哲学者や美学者であるといった八面六臂の総合的才知の持ち主の謂いではあろう。しかしでは何故、これを単行本から削除したのか? それは思うに捻りも何にもない前振りが、逆に芥川龍之介自身の軍人嫌いの生理的不快を自分で刺戟してしまったからだろうとまずは言える。さらに、知られたことであるが、彼が「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」で始まる最後の遺言(七月六日附)を残していたため、その遺言に従って、墓には一切の栄誉と称号を排し、ただ「森林太郎ノ墓 」とのみ刻されている(私も大学に入ったその年の四月に一度だけ、三鷹市の禅林寺に墓参したことがある。但し、ウィキの「森鷗外」の注によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『遺言を残した翌七月七日に天皇と皇后から葡萄酒が下賜され、八日に摂政宮(のちの昭和天皇)から御見舞品が下賜され、従二位に叙せられた。鷗外本人は、遺言を残した六日夜半から容体が悪化し、七日夕刻から昏睡状態に入っ』たとしながら、『もっとも、死去する前日の八日に従二位に叙せられたこと』から、一部の研究者は『鷗外最後の遺言を疑問視し、鷗外の叙爵への執着を指摘し』ており、『鷗外が石黒忠悳』(ただのり 弘化二(一八四五)年~昭和一六(一九四一)年陸軍軍医。子爵。鷗外の上官)『によって貴族院議員に推挙された際に喜んでお受けしたい旨の返書を送ったという日記(大正五年一月六日)の記述を挙げ、鷗外が臨終の際に袴をはいていたのは叙爵の使者を迎えるためだったと指摘』されてもいる)。孰れにせよしかし、世間に於いては謎めいた軍人としての事蹟の拒絶を示すような遺言の文々(もんもん)がいろいろと軍内部の確執などが噂された(事実あったともする研究者は多いようだ)ことから、龍之介は草葉の陰で鷗外の霊が恨むというより、このアフォリズムが彼の意図とは異なった形で曲解される(ごく短文なればこそ作者の意図とは真逆に解釈される(それがどのようなおぞましいものかは私には生憎想起出来ないが)可能性は高い)ことを憚った故の削除であったような気が私がしている。取り敢えず謂い添えておくなら、龍之介は三中時代から師漱石の諸作とともに鷗外の作品にも親しんではいた。生涯に少なくとも三度は面会している。また、鷗外に〈歴史其儘〉やら〈歴史離れ〉の歴史小説があって、龍之介の王朝物・切支丹物・近世物などを始めとする寓話的なそれらは確かに「歴史物」ではあるものの、両者は自ずとはなはだ懸隔したものであると言える。龍之介は「文藝的な、餘りに文藝的な」(昭和二(一九二七)年『改造』。リンク先は私の電子テクスト)の「十三 森先生」では以下のように述べている。全文を引く。

    *

 僕はこの頃「鷗外全集」第六卷を一讀し、不思議に思はずにはゐられなかつた。先生の學は古今を貫き、識は東西を壓してゐるのは今更のやうに言はずとも善(よ)い。のみならず先生の小説や戲曲は大抵は渾然と出來上つてゐる。(所謂ネオ・ロマン主義は日本にも幾多の作品を生んだ。が、先生の戲曲「生田川」ほど完成したものは少かつたであらう。)しかし先生の短歌や俳句は如何に贔屓目に見るとしても、畢に作家の域にはひつてゐない。先生は現世にも珍らしい耳を持つてゐた詩人である。たとへば「玉篋兩浦嶼(たまくしげふたりうらしま)」を讀んでも、如何に先生が日本語の響を知つてゐたかが窺はれるであらう。これは又先生の短歌や俳句にも髣髴出來ない訣ではない。同時に又體裁を成してゐることはいづれも整然と出來上つてゐる。この點では殆ど先生としては人工を盡したと言つても善(よ)いかも知れない。

 けれども先生の短歌や發句は何か微妙なものを失つてゐる。詩歌はその又微妙なものさへ摑めば、或程度の巧拙などは餘り氣がかりになるものではない。が、先生の短歌や發句は巧は即ち巧であるものの、不思議にも僕等に迫つて來ない。これは先生には短歌や發句は餘戲に外ならなかつた爲であらうか? しかしこの微妙なものは先生の戲曲や小説にもやはり鋒芒を露はしてゐない。(かう云ふのは先生の戲曲や小説を必しも無價値であると云ふのではない。)のみならず夏目先生の餘戲だつた漢詩は、――殊に晩年の絶句などはおのづからこの微妙なものを捉へることに成功してゐる。(若し「わが佛(ほとけ)尊(たふと)し」の譏りを受けることを顧みないとすれば。)

 僕はかう云ふことを考へた揚句、畢竟森先生は僕等のやうに神經質に生まれついてゐなかつたと云ふ結論に達した。或は畢に詩人よりも何か他のものだつたと云ふ結論に達した。「澀江抽齋」を書いた森先生は空前の大家だつたのに違ひない。僕はかう云ふ森先生に恐怖に近い敬意を感じてゐる。いや、或は書かなかつたとしても、先生の精力は聰明の資と共に僕を動かさずには措かなかつたであらう。僕はいつか森先生の書齋に和服を着た先生と話してゐた。方丈の室に近い書齋の隅には新らしい薄緣りが一枚あり、その上には蟲干しでも始まつたやうに古手紙が何本も並んでゐた。先生は僕にかう言つた。――「この間柴野栗山(しばのりつざん)(?)の手紙を集めて本に出した人が來たから、僕はあの本はよく出來てゐる、唯手紙が年代順に並べてないのは惜しいと言つた。するとその人は日本の手紙は生憎月日しか書いてないから、年代順に並べることは到底出來ないと返事をした。それから僕はこの古手紙を指さし、ここに北條霞亭の手紙が何十本かある、しかも皆年代順に並んでゐると言つた。」! 僕はその時の先生の昂然としてゐたのを覺えてゐる。かう言ふ先生に瞠目するものは必しも僕一人には限らないであらう。しかし正直に白狀すれば、僕はアナトオル・フランスの「ジアン・ダアク」よりも寧ろボオドレエルの一行を殘したいと思つてゐる一人である。

   *

 この後半に出るシークエンスを問題にして、山崎一頴(かずひで)氏は「森鷗外と龍之介」(『国文学』一九三九年三月)の中で、『晩年の龍之介の精神は、魂の震えの如き繊細な神経で支えられていた。しかも壊れ易いガラスのような精神の芥川の眼前で、鷗外は北條霞亭の年次なき書簡を編年に並べ平然としていた。芥川はその強靭な精神に恐らく羨望と恐怖と嫌悪とを感じた』と述べて、龍之介の鷗外に対する、敬して遠ざくが如き微妙な雰囲気を非常に上手く表現されておられる(以上の山崎氏の論の引用は、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の林正子氏の「森鷗外」の項に引用されているものを孫引きしたものであることを断わっておく)。まさに、この龍之介を含めたありとある現代人が『羨望と恐怖と嫌悪とを感』ずるところの、恐るべき『強靭な精神』の持ち主なればこそ、龍之介は彼を「希臘人」と呼んだのではあるまいか。

 私が最初に担任した教え子の女性は今や、森鷗外の第一人者である。軽々なことは語れぬ。これを以ってとめおくことと致す。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  ポオ

 

       ポオ

 

 ポオはスフインクスを作る前に解剖學を研究した。ポオの後代を震駭した祕密はこの研究に潜んでゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」「武者修業」「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」と、後の「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。アメリカの詩人であり、幻想作家であったエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe 一八〇九年~一八四九年)は芥川龍之介が生涯を通じて偏愛した作家であり、このアフォリズムも短章ながらも、この作家アフォリズムの中では極めて素直な感懐を表明している。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の山本健氏の「ポー」の項を参考に以下、叙述すると(引用は総て私が岩波旧全集に当たってオリジナルに長く引いており、途中に私の感想も挿入しているので注されたい。お手軽に山田氏のそれを引用したものではないということである。龍之介の作品へのリンクは「ポーの片影」を除いて総て私の電子テクストである)、山田氏は龍之介は大正二(一九一三)年(満二十一歳の一高卒業前後)にはポーを系統立てて読み始めていたらしいと指摘され、書簡(大正四(一九一五)年五月二十三日附井川(後に恒藤)恭宛・岩波旧全集書簡番号一六〇)の記載から、彼が『ポーをゴシック・ロマンの系譜に位置付けて』いることが判る、とある。この大正五年当時を回想した「あの頃の自分の事」(大正八(一九一九)年一月『中央公論』)の「四」では谷崎潤一郎を評して(下線やぶちゃん。ここが龍之介の当時のポー観である)、谷崎の『美しい悪の花は、氏の傾倒してゐるポオやボオドレエルと、同じ莊厳な腐敗の香を放ちながら、或一點では彼等のそれと、全く趣が違つてゐた。彼等の病的な耽美主義は、その背景に恐る可き冷酷な心を控へてゐる。彼等はこのごろた石のやうな心を抱いた因果に、嫌でも道德を捨てなければならなかつた。嫌でも神を捨てなければならなかつた。さうして又嫌でも戀愛を捨てなければならなかつた。が、彼等はデカダンスの古沼に身を沈めながら、それでも猶この仕末に了へない心と――une vieille gabare sans mâts sur une mer monstrueuse et sans bords 』(筑摩全集類聚版脚注に『果てしない、恐ろしい海の上のマストもない一隻の老朽船。(仏)。ボードレールの「悪の花」の中の「七人の老爺」の一節』とある)『の心と睨み合つてゐなければならなかつた。だから彼等の耽美主義は、この心に刧』(おびや)『かされた彼等の魂のどん底から、やむを得ずとび立つた蛾の一群だつた。従つて彼等の作品には、常に Ah! Seigneur, donnez-moi la force et le courage / De contempler mon cœur et mon corps sans dégoút 』(筑摩全集類聚版脚注に『ああ、主よ、力と勇気とを与え給え、嫌悪なくしてわが心と肉体を熟視するための。(仏)。ボードレールの「悪の花」の中の「シテールへの或る旅」の最後の句』とある)『と云ふせつぱつまつた嘆聲が、瘴氣の如く纏綿してゐた。我々が彼等の耽美主義から、厳肅な感激を浴びせられるのは、實にこの「地獄のドン・ジユアン」のやうな冷酷な心の苦しみを見せつけられるからである。しかし谷崎氏の耽美主義には、この動きのとれない息苦しさの代りに、餘りに享樂的な余裕があり過ぎた。氏は罪惡の夜光蟲が明滅する海の上を、まるでエル・ドラドでも探して行くやうな意氣込みで、悠々と船を進めて行つた。その點が氏は我々に、氏の寧』(むしろ)『輕蔑するゴオテイエを髣髴させる所以だつた。ゴオテイエの病的傾向は、ボオドレエルのそれとひとしく世紀末の色彩は帶びてゐても、云はば活力に滿ちた病的傾向だつた。更に洒落て形容すれば、宝石の重みを苦にしてゐる、肥滿したサルタンの病的傾向だつた。だから彼には谷崎氏と共に、ポオやボオドレエルに共通する切迫した感じが缺けてゐた』と批判している(ここでの谷崎への辛口批評はすこぶる痛快であり、私も極めて共感するものであるが、ここは下線部に注目されたい)。山田氏は、『つまり芥川はポーやボードレールの耽美主義やデカダンスの背後に、享楽的余裕とは無縁な、神や道徳に反逆した者の「恐る可き冷酷な心」を見ていたのである。感覚的、刹那的唯美主義の内包する悲劇の可能性をいち早く予感していた芥川は、晩年の作品群』、ことに「齒車」『などにおいて、「恐る可き冷酷な心」の崩壊のドラマを、自らの「切迫した感じ」に最終的な形を与えることで演じきってしまうことになる』と評されておられる。最後の部分などは至極共感する謂いである。大正八(一九一九)年の「妖婆」(『中央公論』)の冒頭段には、『この大都會の一隅でポオやホフマンの小説にでもありさうな、氣味の惡い事件が起つたと云ふ事は、いくら私が事實だと申した所で、御信じになれないのは御尤です』とあり、随筆「點心」(大正一〇(一九二一)年『新潮』)の「Ambroso Bierce」(アメリカの作家アンブローズ・ギンネット・ビアス(Ambrose Gwinnett Bierce 一八四二年~没年不祥:一九一三年、七十一歳の時に自らも関わった南北戦争の旧戦場を巡る旅に出たまま失踪した)についてのアフォリズム)の中では、「(一)短篇小説を組み立てさせれば、彼程鋭い技巧家は少い。評論がポオの再來と云ふのは、確にこの點でも當つてゐる。その上彼が好んで描くのは、やはりポオと同じやうに、無氣味な超自然の世界である。この方面の小説家では、英吉利に Algernon Blackwood があるが、到底ビイアスの敵ではない』と記す。山田氏はこの後に本アフォリズムを挙げ、『芥川の言う「技巧」即ち「解剖学」とは、ポーが「構成の原理」』(The Philosophy of Composition 一八四六年)『で説き明かした、作品校正過程を徹頭徹尾、意識化、方法化していく分析的創作原理』の謂い『に他ならない』とされる(下線やぶちゃん)。また、龍之介は文藝的な、餘りに文藝的な(昭和二(一九二七)年『改造』)の「三十七 古典」で、『元來東西の古典のうち、大勢の讀者を持つてゐるものは決して長いものではない。少くとも如何に長いにもせよ、事實上短いものの寄せ集めばかりである。ポオは詩の上にこの事實に依つた彼の原則を主張した。それからビイアス(Ambrose Bierce)は散文の上にもやはりこの事實に依つた彼の原則を主張した。僕等東洋人はかう云ふ點では理智よりも知慧に導かれ、おのづから彼等の先驅をなしてゐる。が、生憎彼等のやうに誰もかう云ふ事實に依つた理智的建築を築いたものはなかつた。若しこの建築を試みるとすれば、長篇源氏物語さへ少くとも聲價を失はない點では丁度善い材料を與へたであらうに。(しかし東西兩洋の差はポオの詩論にも見えないことはない。彼は彼是(かれこれ)百行の詩を丁度善い長さに數へてゐる。十七音の發句などは勿論彼には「エピグラム的」の名のもとに排斥されることであらう。)』と記した如く、『意識的姿勢を貫徹し、あらかじめ想定された効果を達成するには作品は短ければ短いほどよい』(山田氏の解説より引用)と考えており、アフォリズム「藝術その他」(大正八(一九一九)年『新潮』)の冒頭で『藝術家は何よりも作品の完成を期せねばならぬ。さもなければ、藝術に奉仕する事が無意味になつてしまふだらう。たとひ人道的感激にしても、それだけを求めるなら、單に説教を聞く事からも得られる筈だ。藝術に奉仕する以上、僕等の作品の與へるものは、何よりもまづ藝術的感激でなければならぬ。それには唯僕等が作品の完成を期するより外に途はないのだ』と書いたように、『短編小説の形式、構成、文体に完璧を期することを課題とした芥川が、ポーに短篇作法の規範を求めたのは当然の成り行きと言えた』と山田氏は記しておられる。なお、芥川龍之介には珍しく敬体で記された随筆片影」(大正一四(一九二五)年『秋田魁新報』。このリンクのみ青空文庫版)があり、またそれと縁の深い、死の年の昭和二(一九二七)年の二月に新潟高等学校で講演した「ポオの一面」がある。後者は以前から電子化したいと思っているものであるが(元は原稿ではなく、芥川龍之介自身の名刺二十一枚の裏に記された講演用メモである)、英文記載がはなはだ多く、注に時間がかかることから、二の足を踏んでいる。これを機に手がけてみようとは思う)。

 

・「スフインクス」短篇小説「スフィンクス」(The Sphinx 一八四六年)。平成七(一九九五)年新潮文庫刊「侏儒の言葉・西方の人」で注解を担当されている神田由美子氏はポーをあまりお読みになったことがないらしい。スフィンクスの辞書的説明の後に、『ここではポーの怪奇で夢幻的な小説のことをさす』という半可通な注が附く(私は若き日からポーの愛読者である)。これでは、ポーは小説活動に入る前に本格的な解剖学を修学修得したとしか読めないが、彼の経歴にそのような事実は、ない(彼は詩人としてデビューし、小説家活動を始めるのは一八三二年である。因みに、彼の専門的な修学はラテン語やギリシャ語に始まる驚異的な語学力(諸言語を自在に読めた)による博物学的な広汎な古典研究を主体(他にドイツ文学を好んだ)としている)。但し、冒頭に引用した井上健氏の見解(私が下線を引いた箇所の五番目のところ)に照らすならば、神田氏のこの謂いは、結果としては、正しいとは言える。しかしやはりここは実際のポーの小説「スフィンクス」を注としては示さなければ私は不十分と思う。

 怪奇的でミステリアスな謎解き物の短篇「スフィンクス」は、主人公「僕」が親戚の招待を受けてハドソン川河畔の別荘で二週間避暑に出向いたという語りから始まる(以下、私の所持する一九七四年東京創元社刊「ポオ小説全集 4」の丸谷才一氏の訳を参考に梗概を記す。最後はネタばれになるが、この注としてはどうしても必要である。ポオ・フリークの私としては、未読の方はお読みになってからの方がよかろうとは存ずる)。

   *

――当時、ニューヨークでコレラが猖獗を極めており、毎日のように友人の死の報知が齎され、南部から吹いてくる風には死の匂いが感じられるほどに、「ぼく」の心は死の予感に満ち満ちたものであった。

――とある焼けるように暑い日の夕刻、窓辺に腰かけて読書をしながら、ふと、眼を上げてみると、遙か彼方の山の頂きから、その麓へと、斜面を急速に下ってゆく、古い軍艦ほどもある恐ろしく大きな黒い怪物が蠢くのを目撃する。それは七十四門もの大砲状の突起物を備えており、直径は象の胴体ぐらい、長さ十九~二十一メートルもある鼻状の突起物の先に口が開口している。その鼻の基部には水牛二十頭分の毛を集めたのより多い、膨大な黒い毛が密生しており、その下方には光り輝く二本の、猪のそれを途方もなく大きくしたような牙が垂直にそそり立っている。別に鼻に平行に、左右から九~十二メートルある棒状の突起が前方に突き出ているが、これは純正の水晶製のように観察出来た。それは完璧なプリズムを成して、黄昏の光を絢爛に反射していたからである。胴体は地面に尖端を突き刺した杭のような形状を成し、そこから二対の翼(一枚のそれは長さ九十一センチメートル強)が生えていて、一対は今一対の翼の上に重なっており、その上の翼の背面は総て金属の鱗で覆われている。その一枚一枚の鱗の直径は三~三・六メートルほどと推定され、上下段の翼は鞏固な鎖によって連結されてあった。そうしてその最も恐るべき特徴は、その胸部の殆んど全面を覆っている髑髏(どくろ)の絵にあった。それは黒地の体に絵師が念を入れて描きあげたかの如く、くっきりとまぶしい白で刻まれてあったのである。そうして、鼻の尖端にある巨大な顎状のものを突如、大きく拡げたかと思うと、哀しげな轟然たる声がそこから響き、そいつは麓の森の中へと姿を消した。瞬間、「僕」は失神して床に倒れた。

――それから三、四日した夕暮れ、その異様な怪物を目撃した部屋で「ぼく」は友人(別荘の主人)にそれを告白する。友人は最初は腹を抱えて笑い、後には「ぼく」が発狂したと思ったことを示す態度に変わる。

――ところが、その瞬間、「ぼく」は再び、あの怪物の姿を目撃した。恐怖の叫びを挙げて、彼に注意を促すと、目の前の友にその辿る行路まで子細に説明した。友人は熱心に聴いた。しかし彼は「何も見えない」と答えた。「ぼく」は激しい不安に襲われた。「ぼく」の幻は「ぼく」の死の予兆ではないのか?! と……

――しかし友人は冷静さを取り戻し、「ぼく」からその野獣の形状や細部について問い質すと(以下、二重括弧内は丸谷氏の訳)、『人間のおこなうあらゆる観察において、誤りの主たる原因となるものは、対象が近い距離にあることを図りそこね、その対象を過小評価ないし過大評価することだ』、『「たとえば」と彼は言った』、『「民主主義の普及が広く人類に及ぼす影響を正しく評価するには、この普及が達成されるのはおそらく遠い将来においてであるということが、まずその評価の一要素でなければならぬ、ところが、問題のこの点について、論ずるに値するだけ考えぬいた政治家が、今まで一人でもいたでしょうか?」』(因みに、この友人の言葉、「侏儒の言葉」に載っていてもおかしくない!)。

――そこで彼は話をやめ、書棚から一冊の博物学概論を抜きとって、その本の小さな活字がよく見えるように席を代わって呉れと言ったので、「ぼく」は「ぼく」の坐っていた窓辺の椅子を彼に譲った。そうして徐ろに、『「君が怪物のことをことこまかに描写してくれなかったら」と彼は言った。「その正体を示すことはできなかったろうね。まず昆虫(インセクタ)』、つまり虫なんですよ、『鱗翅目(レピドプテラ)、薄暮族(クレプスクラリア)、スフィンクス種についての、学生むきの説明を読み上げよう……』(以下、「ぼく」が見たものと酷似した『髑髏(されこうべ)スフィンクス』という有翼生物についての奇体な生物の解説が載る。そこは訳書をお読みあれ。因みに、当該の原文は、

   *

"But for your exceeding minuteness," he said, "in describing the monster, I might never have had it in my power to demonstrate to you what it was. In the first place, let me read to you a schoolboy account of the genus Sphinx, of the family Crepuscularia of the order Lepidoptera, of the class of Insecta--or insects. The account runs thus:

"'Four membranous wings covered with little colored scales of metallic appearance; mouth forming a rolled proboscis, produced by an elongation of the jaws, upon the sides of which are found the rudiments of mandibles and downy palpi; the inferior wings retained to the superior by a stiff hair; antennae in the form of an elongated club, prismatic; abdomen pointed, The Death's--headed Sphinx has occasioned much terror among the vulgar, at times, by the melancholy kind of cry which it utters, and the insignia of death which it wears upon its corslet.'"

   *

である)

――そうして友人はその席で「ぼく」がさっき怪物を目撃した姿勢をとると、『「山肌を降りてゆく。とても目立つ姿だ。でも君が想像したほどは消して大きくないし、遠くへだたってるわけでもない。なぜって、窓枠に張った糸の上を、のたくって登ってゆくのだもの、こいつはいくら大きくったって十六分の一インチぐらい』(一・五ミリメートル)『でしょう。ぼくの眼から十六分の一インチぎらうしか離れていないのですよ」』(完)

   *

なお、この怪物の正体とする原文の「Lepidoptera」は現行も実際の鱗翅(チョウ)目であるが、「Crepuscularia」という族は少なくとも現行ではタクサに存在しない。但し、シャクガ科エダシャク亜科Ectropis属フトフタオビエダシャク Ectropis crepuscularia の種小名に同一の学名を見出せる。「Sphinx」スズメガ亜科 Sphinginae Sphinx属がいるが、上記原文にあるような蛾ではない。メンガタスズメ(面形天蛾、学名: Acherontia styx)は、チョウ目スズメガ科の昆虫。ガの一種。この怪物の特徴的な髑髏(どくろ)面で蛾となると、本邦にも棲息するチョウ目 Glossata 亜目Heteroneura下目カイコガ上科スズメガ科スズメガ亜科 Acherontiini 族メンガタスズメ属メンガタスズメ Acherontia styx 及びその近縁種がおり、彼等はまさに「髑髏(どくろ)蛾」「骸骨蛾」と呼ばれる(種小名 styx はギリシャ神話の冥府を取り巻いて流れる川ステュクス(仏教の三途の川に相当)に由来する)がいるが、本作の最後では「spider」(原文)とはっきりと書かれているから蛾ではない。体表に――白抜きのドクロ紋――を持つクモ類というのはいそうな気はするが、確認出来ない。識者の御教授を乞う。ともかくも原文で引いた「The Death's--headed Sphinx」というのは叙述から見ても蛾である(但し、「the melancholy kind of cry which it utters」(丸谷氏訳『その憂鬱な叫び声』)は挙げない)。ということは、極小のメンガタスズメ Acherontia styx を捕捉した極小のクモが「ぼく」の眼前を通り過ぎたということなのか? やや不審ではある。

・「震駭」「しんがい」。驚いて、震え上がること。]

2016/05/29

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) モオパスサン

 

       モオパスサン

 

 モオパスサンは氷に似てゐる。尤も時には氷砂糖にも似てゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」「武者修業」「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」と、後の「ポオ」「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。アンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant  一八五〇年~一八九三年)についてはさんざんっぱら、先行する「戀は死よりも強し」で注した。されば、そちらを参照されたいが、これはそこでも引用したように、若き日に強烈に感心し、惹かれた彼に対して、文壇の寵児となった龍之介の認識が見た目、真逆に変容したことを、彼はここでかく直喩したかのように読める。「あの頃の自分の事」の初出(大正八(一九一九)年一月『中央公論』)の第二章で、龍之介は感服した作家としては、「何よりも先ストリントベルグだつた」とし、彼には「近代精神のプリズムを見るやうない心もちがした。彼の作品には人間のあらゆる心理が、あらゆる微妙な色調の變化を含んだ七色に分解されてゐた」とまで持ち上げた上で、「ぢや嫌ひな方は誰かと云ふと、モオパスサンが大嫌ひだつた。自分は佛蘭西語でも稽古する目的の外は、彼を讀んでよかつたと思つた事は一度もない。彼は実に惡魔の如く巧妙な贋金使だつた。だから用心しながらも、何度となく贋金をつかまさせられた。さうしてその贋金には、どれを見ても同じやうな Nihil と云ふ字が押してあつた。強いて褒めればその巧妙さを褒めるのだが、遺憾ながら自分はまだ、掏摸に懷のものをひきぬかれて、あの手際は大したものだと敬服する程寛大にはなり切る事が出來ない。」とまで言い切っている。また、大正一〇(一九二一)年二月『中央文學』発表の「佛蘭西文學と僕」の中でも龍之介は、「ド・モオパスサンは、敬服(けいふく)しても嫌ひだつた(今でも二三の作品は、やはり讀むと不快な氣がする。)」と述べている。

――モーパッサンの作品は若き日に私が強く惹かれて感心し、恰も「一片の氷心 玉壺に在」るかの如く見えることもある(あった)けれど、時によると、それは壺に手を入れて触って見なくても、ただの氷砂糖の塊りでしかないようにも見えるのであった(見えたことがあった)のである。――

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) フロオベル

 

       フロオベル

 

 フロオベルのわたしに教へたものは美しい退屈もあると言ふことである。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」「武者修業」「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」と、後の「モオパスサン」「ポオ」「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。小説家ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert 一八二一年~一八八〇年)に就いては既に戀は死よりも強しの注で少し述べた。但し、今回、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の山田俊治氏の「フローベール」の項を読むに、芥川龍之介が彼に抱いた、やはりかなりアンビバレントな感懐を認識することが出来た。山田氏は芥川龍之介のフローベール観は「澄江堂雜記」(大正一一(一九二二)年四月『新潮』)の以下に集約されるとする(引用は澄江堂雜記電子テクスト。以下同じ)。

   *

 

       藝術至上主義

 

 藝術至上主義の極致はフロオベルである。彼自身の言葉によれば、「神は萬象の創造に現れてゐるが、しかも人間に姿を見せない。藝術家が創作に對する態度も、亦斯くの如くなるべきである。」この故にマダム・ボヴァリイにしても、ミクロコスモスは展開するが、我我の情意には訴へて來ない。

 藝術至上主義、――少くとも小説に於ける藝術至上主義は、確かに欠伸の出易いものである。

 

   *

これはしかし、まさに本アフォリズムの格好の注であるとも言える。「美しい退屈」の「美しい」は「藝術至上主義」に基づく「小説」の謂いであり、それはまた「美しい」と同時に「確かに欠伸の出易い」「退屈」でもある。それは何故か? それはフローベールが「藝術至上主義の極致」でありそれは彼が「神は萬象の創造に現れてゐるが、しかも人間に姿を見せない。藝術家が創作に對する態度も、亦斯くの如くなるべきである」と述べた如く、彼の代表作「ボヴァリー夫人」を読んでみ「ても、ミクロコスモスは展開するが、我我の情意には」全く以って「訴へて來ない」からである、と言っているのである。山田氏は龍之介はフローベールの『作者の主観的な解釈を徹底的に排除した』『小説は、人生に対する教訓を与えることはない、それほどフローベールは研ぎ澄ました精神を持続させ、徹底した文章の彫琢によって実在と拮抗するようなミクロコスモスを物語世界に構築ていたのである』と書かれた上で、『芥川は、こうしたフローベールに親近感を抱き、早い時期から』、「モオパツサンは事象をありのままに見るのみではない ありのまゝに觀た人間を憎む可きは憎み 愛す可きは愛してゐる。その点で万人に不關心な冷然たる先生のフロオベエルとは大分ちがふ」(この書簡引用は山田氏とは違った意味で私は既にやはり戀は死よりも強しで引用している。どちらの引用が正しいか、読者の判断にお任せする)『という理解を示している』とされる。そうして、龍之介の遺稿機關車を見ながら(昭和二(一九二七)年九月『サンデー毎日』秋季特別号。掲載誌の本文文末には、この掲載に関わった編集者の文章があり、そこには本稿は、彼の自死の直前、五、六日ほど前に執筆されたものと推定される、とある)から、

   *

 我々はいづれも機關車である。我々の仕事は空(そら)の中に煙や火花を投げあげる外はない。土手の下を歩いてゐる人々もこの煙や火花により、機關車の走つてゐるのを知るであらう。或はとうに走つて行つてしまつた機關車のあるのを知るであらう。煙や火花は電氣機關車にすれば、ただその響きに置き換へても善い。「人は皆無、仕事は全部」といふフロオベエルの言葉はこのためにわたしを動かすのである。宗教家、藝術家、社會運動家、――あらゆる機關車は彼等の軌道により、必然にどこかへ突進しなければならぬ。もつと早く、――その外に彼らのすることはない。

   *

の一部を引き、『という一節まで変わらなかったといえる』と述べておられる。私は既に「幻滅した藝術家」の注で述べたように、芥川龍之介が最終的に芸術至上主義者であったこと(況やそのために自裁したなどというまことしやかな謂い)に現在、深い疑義を抱いており、それを否定する地平に立とうとしている。龍之介はフローベールの世界に惹かれた部分はあるであろう。それが、孤高な龍之介のミクロ・コスモスと有意な箇所で部分集合を成すことは凡愚な私にも解るからである。「人は皆無、仕事は全部」と呟きながら、薬物のために震える手で筆を運ぶ龍之介の坐った後ろ姿は確かに現前する。しかし、では、龍之介の退屈な小説を挙げよ、と言われて、私は一掌品も、否、一断片すら名指し示すことは出来ぬ。龍之介の作品には「美しい退屈」など微塵もない。その意味に於いて、私は龍之介が『フローベールに親近感を抱き』、その死の直前に至るまで、そのシンパシーは『変わらなかった』とする山田氏の見解には、到底、肯んずることが出来ないのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  ドストエフスキイ

 

       ドストエフスキイ

 

 ドストエフスキイの小説はあらゆる戲畫に充ち滿ちてゐる。尤もその又戲畫の大半は惡魔をも憂鬱にするに違ひない。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」「武者修業」「ユウゴオ」と、後の「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーФёдор Миха́йлович Достое́вскийFyodor Mikhailovich Dostoyevsky 一八二一年~一八八一年)は、人間の良心とは何かという根源的テーマ及びそこから繋がるある選択肢としてのキリスト教に於ける救済の問題に於いて、芥川龍之介に最も影響を与えた作家の一人と考えてよい。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の国枝夏紀氏の「ドストエフスキー」の項を参考にすると、龍之介が「罪と罰」(Преступление и наказание 一八六六年:彼の読んだのは英訳本)を読んだのは東京帝国大学に入学した大正二(一九一三)年の満二十一歳の時で、彼は友人に当てて、『ラスコルニコフのと云ふ hero のカラクタアは凄い程強く出てゐるこのラスコルニコフと云ふ人殺しとソニアと云ふ淫賣婦とが黃色くくすぶりながら燃えるランプの下で聖書(ラザロ復活の節――ヨハネ)をよむ scene は中でも殊に touching だと覺えてゐる始めてドストエフスキーをよんで大へんに感心させられた』(引用は国枝氏に拠らず、岩波旧全集から改めて引いた。「touching」は「感動的」の意。)と書き送っている(新宿(当時の芥川家の自宅。実父新原敏三の持家)発信・藤岡蔵六宛・岩波旧全集書簡番号一〇五より)。国枝氏は、この感動が後の、私の偏愛する「南京の基督」(大正九(一九二〇)年七月『中央公論』。リンク先は私のテクスト。以下同じ)に『余韻を残し、ランプの「妙に赤々と煤けた光」「うす暗い光」の下の物語という状況設定に生かされる。また』宋(底本は「沈」となっているが、主人公の少女の名は「宋金花」である)『金花の〈敬虔な私窩子〉の形象は、〈聖なる娼婦〉ソーニャに通じ、両者共通の源泉は〈罪深い女〉マグダラのマリアであろう』(「私窩子(しかし)」(「南京の基督」本文に『少女は名を宋金花と云つて、貧しい家計を助ける爲に、夜々その部屋に客を迎へる、當年十五歳の私窩子(しくわし)であつた』と出る通り、淫売婦・売春婦のことである) とされておられるのは、すこぶる同感である。龍之介がドストエフスキイの作品中第一とした「カラマーゾフの兄弟」(Братья Карамазовы 一八八〇年)の読了は大正六(一九一七)年の夏(当時は満二十五で横須賀の海軍機関学校の英語の教授嘱託で塚本文とは前年末に婚約していた)であったが、『この読書の成果は、翌々年』の「疑惑」(大正八(一九一九)年七月『中央公論』)に『生かされた。濃尾大地震と拝啓は異なるが、秘められた殺人の罪、狂気とみなされる告白という題材において、』「カラマーゾフの兄弟」の第六篇の第二パート、『ゾシマ長老の伝記部分の一節「謎の客」と共通する』とされる(これもほぼ共感出来る)。この「侏儒の言葉」の陰鬱々たる「ドストエフスキイ」の短文を経、遺作「齒車」(昭和二(一九二七)年の自死の三ヶ月後の十月発行の『文藝春秋』で全章掲載)では極めて奇怪な形で「罪と罰」と「カラマーゾフの兄弟」が再び立ち現われてくる。「五 赤光」の後半部である。

   *

 僕は僕の部屋へ歸ると、すぐに或精神病院へ電話をかけるつもりだつた。が、そこへはひることは僕には死ぬことに變らなかつた。僕はさんざんためらつた後、この恐怖を紛(まぎ)らす爲に「罪と罰」を讀みはじめた。しかし偶然開いた頁は「カラマゾフ兄弟」の一節だつた。僕は本を間違へたのかと思ひ、本の表紙へ目を落した。「罪と罰」――本は「罪と罰」に違ひなかつた。僕はこの製本屋の綴ぢ違へに、――その又(また)綴ぢ違へた頁を開いたことに運命の指の動いてゐるのを感じ、やむを得ずそこを讀んで行つた。けれども一頁も讀まないうちに全身が震へるのを感じ出した。そこは惡魔に苦しめられるイヴァンを描(えが)いた一節だつた。イヴァンを、ストリントベルグを、モオパスサンを、或はこの部屋にゐる僕自身を。………

   *

そうして、遺稿「或阿呆の一生」(昭和二(一九二七)年十月『改造』)にも、その名は挙げられている。

   *

 

       一 時代

 

 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨオ、トルストイ、………

 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を讀みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴェルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、…………

 彼は薄暗がりと戰ひながら、彼等の名前を數へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根氣も盡き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。

 「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」

 彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。………
 

   *

――芥川龍之介の人生の最後の憂鬱の完成は――梯子の上に呆然と立ち尽くす二十(はたち)の龍之介がドリアン・グレイの肖像の如、一瞬のうちに幽霊のように痩せ衰えた魂の致死期の彼の姿に変貌するそれであった。……そうして……そこにも確かにドストエフスキイはいたのだった。……しかしそれは、アリョーシャ、では、なかった……]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  ユウゴオ

 

       ユウゴオ

 

 全フランスを蔽ふ一片のパン。しかもバタはどう考へても、餘りたつぷりはついてゐない。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」「武者修業」と、後の「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。「ユウゴオ」「レ・ミゼラブル」(Les Misérables(不運な人・悲惨なる者):一八六二年完成。執筆開始は一八四五年で初期稿の題は Les Misères (不運・悲惨))で知られる、フランス・ロマン主義の詩人にして小説家、フランスの七月王政から第二共和政期には政治家でもあったヴィクトル=マリー・ユーゴー(Victor, Marie Hugo 一八〇二年~一八八五年)のこと。

 

・「一片のパン」「レ・ミゼラブル」の冒頭(作品内時制では一八一五年設定)に登場する主人公四十六歳の男ジャン・ヴァルジャン(Jean Valjean)は、貧しさゆえ、二十七の時にたった一本のパンを盗んだ罪によって十九年も服役していたことが明かされる。因みに、「レ・ミゼラブル」は黒岩涙香による翻案が「噫無情」(ああむじょう)の題で明治三五(一九〇二)年から翌年にかけて黒岩が創刊した日刊新聞『萬朝報(よろずちょうほう)』に連載され、ユーゴーの名も広く知れ渡ることとなった(当時、芥川龍之介十歳)。私の海外文学の幼少時体験の古層にある名作である。ウィキの「レ・ミゼラブル」がよく書けている。芥川龍之介は管見する限り、少なくとも、ユーゴーの反体制の気骨(私の電子テクスト「骨董羹壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文」の「俗漢」或いはそれを勝手現代語翻案した私の芥川龍之介「骨董羹寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案附註した「骨董羹(中華風ごった煮)寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと」という無謀不遜な試みの「俗漢――俗物」を読まれたい)や、大衆に対して持つ言葉の力強さという点では、非常に高く評価していたように読める(条件付きながらもそれがよく表われているのは『「改造」プロレタリア文藝の可否を問ふ』であろう(大正一二(一九二三)年二月発行の『改造』に「階級文藝に對する私の態度」で発表後、単行本「百艸」で改題)。そこで龍之介は彼を頼山陽と並らべ、国民とともにその『悲喜を同うする』ことは軽蔑してよいものではない、文章の彫琢に精緻を凝らすよりは彼らのそうした立位置は遙かに『江東なることを信ずるものなり』と断言している。芸術性の高さは別とするとしても、「文藝一般論」の「三 内容」(大正一四(一九二五)年四月文藝。春秋社編『文藝講座』中の掲載)、『レ・ミゼラブル」は兎に角通俗小説としても成功すると言はなけでばな』らぬ(累加の係助詞「も」に着目。ここは文芸的価値が高い小説と通俗小説を対比して解説している箇所である)ともあり、また、「點心」の時弊一つ(単行本化の際には削除。リンク先は私の初出復元版)でも『もし作品の鑑賞上、作家の傳記が役立つとすれば、それは作品が與へた感じに、脚註を加へるだけのものである。この限界を守らぬ評家は、たとひ作品の價値如何に全然盲目でないにしても、すぐに手輕な「鑑賞上の浪曼主義」に陷つてしまふ。惹いては知見に囚はれる餘り、味到の一大事を忘却した、上の空の鑑賞に流れ易い。私はかう云ふ弊風が、多少でも見えるのを好まぬのである。ユウゴオ、芭蕉、ベエトオフエンなぞが輕々に談られるのを好まぬのである』と芭蕉・ベートーヴェンの巨頭と一緒の挙げて警告しているほどである。しかし、龍之介は彼の作品の芸術上の輝きについては強いて賞揚していない。そうしたある種の、時に読み進めるに退屈を感じるような部分を、フランス・パン特有の、あのバターなしだとそのうちに食い飽きてしまうパサついた感じで出そうとしたのかも知れない。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 武者修業

 

       武者修業

 

 わたしは從來武者修業とは四方の劍客と手合せをし、武技を磨くものだと思つてゐた。が、今になつて見ると、實は己ほど強いものの餘り天下にゐないことを發見する爲にするものだつた。――宮本武藏傳讀後。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」と、後の「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。「武者修業」は「むしやしゆげふ(むしゃしゅぎょう)」でよい。筑摩全集類聚版は本文内ともに「武者修行」(「修行」なら「しゆぎやう(しゅぎょう)」)に書き換えられてある。頗る不審である(意味上では「修業」は広義に「技術の習得のための努力」で、「修行」は仏道に専心して務めたり、学問・武芸などを磨いて努力して学び修めるの謂いであるから、意味としての限定度からは「修行」はよりよい語ではあるものの、「修業」は誤りではない。筑摩全集類聚版は脚注が豊富であるが、本文校訂に甚だ問題が多いこともまた、事実である。

 さても何故、ここで宮本武蔵(天正一二(一五八四)年?~正保二(一六四五)年 言わずもがな、二刀流の二天一流兵法の開祖で優れた美術工芸品をも残した剣實は己ほど強いものの餘り天下にゐないことを發見豪)なのかは、一読、お分かりであろう。芥川龍之介は自らを宮本武蔵に擬えているのである。この号の配列を見るがよい。、宮本武蔵を語っておいて突如、この後から「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」と西洋の文豪を短評した後、やおら御大「森鷗外」先生を挙げるのである。この時、文壇の寵児となって(「鼻」発表は大正五(一九一六)年二月で未だ東京帝国大学生で満二十四歳)から僅か八年目、未だ満三十二である。こんな感懐(しかしそこには、対等に斬り結ぶことの出来る鋭い刃先を持った作家に出逢えぬという強い孤独感もある)を漏らす若い者が、三年後に自死してしまうというのも、私は何か妙に納得してしまうのである、幽かな哀感を覚えながら。

 

・「四方」「しはう(しほう)」でよかろう。諸地方・諸国・天下。

・「劍客」「けんかく」「けんきやく(けんきゃく)」孰れにも読めるが、ここは音の響きからは「けんかく」で読みたくなる(筑摩全集類聚版も「けんかく」とルビする)。

・「己」「おのれ」。

・「宮本武藏傳」二刀流二天一流兵法の開祖で、優れた美術工芸品をも残した剣豪宮本武蔵(天正一二(一五八四)年?~正保二(一六四五)年)関連の芥川旧蔵書には、岩波新全集の山田俊治氏の注によれば、「宮本武蔵」(明治四一(一九〇八)年序。山田氏はこれ以外の書誌を記しておられない)が『残されているが、この伝記は未詳』とされる。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  事實

 

       事實

 

 しかし紛紛たる事實の知識は常に民衆の愛するものである。彼等の最も知りたいのは愛とは何かと言ふことではない。クリストは私生兒かどうかと言ふことである。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)と、後の「武者修業」「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。冒頭を「しかし紛紛たる事實の知識は常に民衆の愛するものである」で始めることで、前の前の「政治家」の一章目の「政治家の我我素人よりも政治上の知識を誇り得るのは紛紛たる事實の知識だけである。畢竟某黨の某首領はどう言ふ帽子をかぶつてゐるかと言ふのと大差のない知識ばかりである。」を直に飛んで受けるようになっている。同時に、前の「政治家」の二章の中の最後の一文「且又利害を超越した情熱に富んでゐることは常に政治家よりも高尚である。」という命題にそれがまた繋がるように作られてある。即ち、「利害を超越した情熱に富んでゐることは常に政治家よりも高尚である」ところの「民衆の愛するもの」とは、「政治家」が「政治上の知識」として「誇り得る」ところの「紛紛たる事實の知識」、「畢竟某黨の某首領はどう言ふ帽子をかぶつてゐるかと言ふのと大差のない知識ばかりである」となって、「彼等の最も知りたいのは愛とは何かと言ふことではない。クリストは私生兒かどうかと言ふことである。」と繋がるようになっているのである。それに気づいたとき、男女を問わず、あらゆる読者は苦虫を潰すこととなるのであるが、哀しいかな、殆どの読者は「彼等の最も知りたいのは愛とは何かと言ふことではない。クリストは私生兒かどうかと言ふことである」という部分でニンマリして鼻の下伸ばすばかりなのである。芥川龍之介の厄介なのは、こういう仕儀を仕掛けてくる点にあるのである。

 

・「クリストは私生兒かどうかと言ふこと」私はキリスト者でないので、新潮文庫の神田由美子氏の注をそのまま引いておく。「新約聖書」に『聖母マリアはヨセフの妻と決まっていたが、二人が結婚しないうちに、聖霊によって身籠(みごも)り、ベツレヘムの馬小屋でキリストを生んだと記されている』。私は龍之介のこの一章を読むと、アンドレイ・タルコフスキイ(Андрей Арсеньевич ТарковскийAndrei Arsenyevich Tarkovsky 一九三二年~一九八六年)の「アンドレイ・ルブリョフ」(Андре́й РублёвAndrei Rublev 九六七年:完成後に厳しい批判にさらされて改訂版公開及び本邦公開は一九七一年であった)の第七番目のパートに当たる「襲来 一四〇八年」にある、あるシークエンスを思い出すことを常としている。ウラジミールの聖堂を完膚なきまでに蹂躙し、略奪し、残虐の限りを尽くしているタタールの首魁汗(ハン)が、馬上のまま聖堂内を闊歩する。手引きをした、ロシア人の大公である兄を裏切った弟に対して(彼は自らが企てながらそのあまりの凄惨な破壊と暴虐のありさまに茫然自失している)、壁画にあったキリスト生誕の絵を指して、「これは何だ?」と問う。聖処女マリアがキリストを産んだ時の絵だと彼が答えるや、汗(ハン)は、「子供を産んで処女なんてことがあるもんかい!」と如何にも猥雑な笑みを浮かべて吐き捨て、「まあ、ロシアってぇのは不思議な国だからな。……面白い。」とほくそ笑みながら付け加えるシークエンスである。]

2016/05/28

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 政治家(二章)

 

       政治家

 

 政治家の我我素人よりも政治上の知識を誇り得るのは紛紛たる事實の知識だけである。畢竟某黨の某首領はどう言ふ帽子をかぶつてゐるかと言ふのと大差のない知識ばかりである。

 

       又

 

 所謂「床屋政治家」とはかう言ふ知識のない政治家である。若し夫れ識見を論ずれば必ずしも政治家に劣るものではない。且又利害を超越した情熱に富んでゐることは常に政治家よりも高尚である。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、後の「事實」「武者修業」「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。どこかの国も、いまどき、こんな政治家と国民ばっかりだぁな。かく言う私も「床屋政治家」に他ならない。トホホ。

 

・「紛紛たる」「ふんぷん」入り混じって乱れ、纏まりのないさま。ここでは原義には含まれない、「多分に些末な下らない」のニュアンスを含ませてある。

・「床屋政治家」床屋政談をする国民。髪結い床に来た客が髪を当たって貰いながら、店主と噂話でもするかの如く政談を展開することから、ろくな根拠もなしに、感情的で無責任な政治談議をすることを本来は指す。しかし、この語は直ちに、「髪結いの亭主」という言葉をも、読者に想起させる。稼ぎの良い髪結いを女房に持って遊んで暮らす馬鹿男で、女房の働きで養われている「ヒモ」である。当時の政治談議好きの男性読者(さぞかし、大正のこの頃は、右も左もいっぱしに政治思想を語り、ぶいぶい言わせる男性は頗る多かったことであろう。――いまどきのノン・ポリ男ばかりで、却って女性の方が鋭くディグして指弾する時代――とは異なって、である)は、二章目を読んで、苦虫を潰したに違いあるまい。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  機智(二章)

 

       機智

 

 機智とは三段論法を缺いた思想であり、彼等の所謂「思想」とは思想を缺いた三段論法である。

 

       又

 

 機智に對する嫌惡の念は人類の疲勞に根ざしてゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十月号『文藝春秋』巻頭に、前の「火星」「Blanqui の夢」「庸才」の全五章で初出する。これはすこぶる短章ながら、なかなか難しいと私は思う。以下、注を附しながら、乏しい我が「機智」を以って対峙して見よう。

 

・「機智」「機知」とも書ける。その場その場に応じて、活発に働く才知。ウイット(wit)。とっさの場合に素早く働く知恵(頓智(とんち))。この場合の「機」は「はずみ・ある事象の起こる(変化するきっかけ」或いは、そのような瞬時の知性的な「働き・活動」の謂いであると思う。

・「三段論法」分かり易さという点で(私は注を迂遠には附けるが、決して難解に附けることはしていないと自負している。あなたにとって私の注が難解だとしたら、それは珍しくもあなたがその叙述に関しては私の乏しい知にさえ追いついていないということに他ならない)、「ニコニコ大百科」の「三段論法とは」を引く(一部の表記を連続させ、記号を変更した。リンク元の方が読み易い)。『大前提(主に普遍的な法則)と小前提(個別の単なる事実)から結論を導き出す推論方法』で、『簡潔に説明すると以下のような論法である。『AはBである。→BはCである。→よってAはCである。』『「A」と「C」という元々直接的には関係しない事柄を、両方と関連性のある「B」という事柄を用いて論理的に結びつけることができる』。『三段論法の有名な例としては以下の文が挙げられる』。『ソクラテスは人間である。→全ての人間は死すべきものである。→ゆえにソクラテスは死すべきものである。』『上述の説明に当てはめると、「ソクラテス」はA、「人間」はB、「死すべきもの」はCに該当する』。『「ソクラテスは人間である」という小前提と「全ての人間は死すべきものである」という大前提により、「ソクラテスは死すべきものである」という結論が導き出されたのである』。『三段論法を少し応用すると以下のような論述もできる』。『Xさんは殺人を犯した。→殺人を犯した者は逮捕される。→Xさんは逮捕される。』『三段論法はどんな事柄にでも応用が利くため、あらゆる場面において重用される』。

・『彼等の所謂「思想」とは思想を缺いた三段論法である』この場合の「彼等」とは、機智を働かして面白おかしいが、なかなか侮れない洒落たことを言う連中の謂いであろう(誰かがそうじゃないか?(私の独り言))。「思想を缺いた三段論法」とは三段論法の大前提・小前提・結論のどこかに論理矛盾や偽があるのではなく、悪意を以って解釈するなら、大前提も小前提も結論もただの平板な比喩や換喩の関係にあるだけで、そこに三段論法を以って語ろうとするその者(機智を働かす者)の信じるところの「思想」が微塵もないことを意味する、と一応、採れるようには思われる。しかし、短文なればこそ全く逆に善意とは言わないまでもフラットな解釈をすることも出来る。その場合は、そうした「彼等」には世間で「思想」と認められているものとは隔絶した、全く異なるその(機智を上手く働かす者の)個人の中にのみ存在する純粋にオリジナルな「思想」に依拠する「三段論法」がある、と言う意味に採ることが可能である。そうして私は第二章とのジョイントの良さから、後者の謂いで理解している。即ち、芥川龍之介は、

その「機智を働かす者」には、信じ得るところの「既成の陳腐な思想」が微塵もないことこそが「その者個人の思想」なのであり、そうした「個人純正の思想に基づく三段論法」を操る者を――龍之介は否定していない

と読むのである。何故なら、そうでないとどうしても、次の二章目のアフォリズムと、上手く繫げて解釈することが出来ないからである(次注参照)。

・「機智に對する嫌惡の念は人類の疲勞に根ざしてゐる」この一文は「人類」の多くは、上手く「機智」を働かす人間とそのアジな「機智」に対して強い「嫌惡の念」を抱くが、それは多分に「人類の疲勞」、精神的にすっかり疲弊させられてしまっている「人類」の病的な心理状態に「根ざしてゐる」と言っているのである。一章目では不確かであった「機智」に対する龍之介の立場が、この二章目に於いてはっきりと示されてあるのである。

 そこで私は、はたと膝を打ったものである。

 機智を働かした一貫した「思想」は雲霧の彼方にまるで見えてこない、妖しい具体例が、実に目の前にあるではないか!

 アフォリズム(Aphorism)とは何だ?

 日本語では「金言」とか「格言」と訳されるが、辞書を開けば、その濫觴はギリシア語で「分離する」の意の(ラテン文字転写。以下、同じ:aphorizein)が語源で、ヒポクラテス(Hippocrates 紀元前四六〇年頃~紀元前三七〇年頃)が医学上の処方を記した「箴言」(Aphorisms)に始まるらしい。元来は「実用的な指示や助言を伝える」であったものが、後に、それぞれがまさに「分離した」簡明な文言を特に指す言葉となったのであったが、ルネサンス期頃からは人間の性格や処世上の教訓を述べる際にも好んで用いられるようになったという。また別な記載には、元は――理論や原理に於ける「定義」――の意であったものが、後には――原則や一般に受入れられた「真理」を端的な言葉で表わしたもの――を指すようになった、ともある。

 おお! 「こゝろ」の初版の見開きにあるあのラテン語の台詞(私のブログ。当該画像を見られる)が、まさにそのヒポクラテスの最古のアフォリズムの一つではないか!

 

――Ars longavita brevis.

――(アルスロンガ、ウィータ ブレウィス。)

――(医の)技術の修得は長く(かかる)、(しかし)生は短い。

――学問は永く、生命は短い。

――(やぶちゃん訳)僕にはやりたいことが腐るほどある、……だのに、その前に僕の脳味噌と肉

は腐ってしまうのだ。

 

 そうだ!

 

 この二章のアフォリズムは、それ自体が、まさに「三段論法」となっているのではないか?!

 

 芥川龍之介自身が「機智」を用いて「機智」と「思想」を皮肉に語りつつ、それを如何にもヤる気無さげに読者に投げ与えておいて(ヤる気は実は遍身に満ちているくせに)、

――あなたの「三段論法」でどうぞ讀解なされるが好(よ)いでせう――

 

と意地悪く、誘っているのではないか?

 

「私がここで働かせている機智」とは三段論法を欠いた「私だけの思想」である。

   ↓

「私だけの思想」とは何か? それは、世間で言うような退屈な思想なんぞをすっかり欠いた「純然たる冷徹にして論理的な私だけの三段論法」である。

   ↓

故に「私がここで働かせている機智」に対し、疲労し尽くして自分の機智を働かすことはおろか、他者の鋭い機智をさえ全く読み取れなくなってしまっている人類は、「私がここで働かせている機智」たるところの、「純然たる冷徹にして論理的な私だけの三段論法」を遂に理解出来ず、ただただ嫌悪するばかりなのである。

 

ヤラレた!

 

という感じが、今の私には、している。…………]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  庸才



       庸才

 

 庸才の作品は大作にもせよ、必ず窓のない部屋に似てゐる。人生の展望は少しも利かない。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十月号『文藝春秋』巻頭に、前の「火星」Blanqui の夢」、後の「機智」(二章)の全五章で初出する。「庸才」は「ようさい」平凡な才能の持ち主、大した才能を持たない人物、凡才のことである。「凡庸」の「庸」であって、「庸」には並・普通・ありふれた・変わった点を持たないの謂いがある。実は「中庸」というのはそれをフラットな「偏っていない」の意で用いた語なのである。自由意志と宿命との注で言った通り、私はこの漢字を見ただけで虫唾が走るほど嫌悪感を覚えるクチである。芥川龍之介が「庸才」とした作家は誰だろう? その「作品」は何だろう? 「窓のない部屋に似て」「人生の展望」が「少しも利かない」「作品」を書く奴とは? あいつかな? あいつの「あれ」か?!……などと想像してみるだけでもすこぶる楽しくなってくるのを私は常としている。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  Blanqui の夢


       
Blanqui の夢

 

 宇宙の大は無限である。が、宇宙を造るものは六十幾つかの元素である。是等の元素の結合は如何に多數を極めたとしても、畢竟有限を脱することは出來ない。すると是等の元素から無限大の宇宙を造る爲には、あらゆる結合を試みる外にも、その又あらゆる結合を無限に反覆して行かなければならぬ。して見れば我我の棲息する地球も、――是等の結合の一つたる地球も太陽系中の一惑星に限らず、無限に存在してゐる筈である。この地球上のナポレオンはマレンゴオの戰に大勝を博した。が、茫々たる大虛に浮んだ他の地球上のナポレオンは同じマレンゴオの戰に大敗を蒙つてゐるかも知れない。……

 これは六十七歳のブランキの夢みた宇宙觀である。議論の是非は問ふ所ではない。唯ブランキは牢獄の中にかう云ふ夢をペンにした時、あらゆる革命に絶望してゐた。このことだけは今日もなほ何か我我の心の底へ滲み渡る寂しさを蓄へてゐる。夢は既に地上から去つた。我我も慰めを求める爲には何萬億哩の天上へ、――宇宙の夜に懸つた第二の地球へ輝かしい夢を移さなければならぬ。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十月号『文藝春秋』巻頭に、前の「火星」、後の「庸才」「機智」(二章)の全五章で初出する。前の「火星」の考察と感懐を美事に受けた芥川龍之介の宇宙観の表明である。「Blanqui」は以下に注するフランスの社会主義者で革命家であったルイ・オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui 一八〇五年~一八八一年)のことである。

 

・「Blanqui」「ブランキ」平凡社「世界大百科事典」の福井憲彦氏の解説を引く(アラビア数字を漢数字に代え、コンマを読点に代えた。途中の挿入は諸辞書に拠る)。『十九世紀パリの民衆蜂起と革命のほとんどすべてに、直接・間接に関与したフランスの革命家。十代で秘密結社カルボナリ』(フランス語:Charbonnerie:十九世紀前半にイタリアとフランスに興った革命的秘密結社。急進的な立憲自由主義(憲法に立脚する自由主義)を掲げてノーラ・トリノを始め、各地で武装蜂起を企てた。カルボナリ党とも呼称する)『に加わり、復古王政打倒の運動と一八三〇年の七月革命の民衆蜂起に参加する。七月王政の反民衆的性格をすばやく見ぬいて反体制運動をおこし、共和派の〈人民友の会〉が弾圧された法廷で、逆に雄弁に体制を告発して一躍有名になった。フランス革命のジャコバン主義』(Jacobinisme:フランス革命に於いて主にロベスピエール(Maximilien François Marie Isidore Robespierre 一七五八年~一七九四年:フランスの政治家。大革命期の一七九二年に国民公会の議員となり、ジャコバン派の中心人物としてジロンド派を追放。革命の防衛の名のもとに恐怖政治を強行し、封建制の全廃などの諸改革を行ったが、一七九四年のテルミドールの乱で処刑された)やサン=ジュスト(Louis Antoine Léon de Saint-Just 一七六七年~一七九四年:フランスの政治家・革命家。ロベスピエールらとともにフランス革命に参加し、彼の右腕と称された。その美貌と冷厳な革命活動から「革命の大天使」(l'Archange de la Révolution)「死の大天使」(L'Archange de la Terreur)とも称された)らに代表される思想。社会理念としては小市民階級的平等主義を目指し、所有権は自然権ではなく、社会制度であり、否定せず制限されるべきであると「小所有者の共和国」を説いた)『とバブーフ』(François Noël Babeuf 一七六〇年~一七九七年:フランスの革命家・思想家。私有財産制の廃止を主張、共産主義的独裁政権の樹立を目指して総裁政府転覆を企てたが、逮捕処刑された。その武装蜂起による権力奪取や革命的独裁の理論は後のかのマルクスにも影響を与えている)『の平等主義の伝統をブオナローティ』(Filippo Giuseppe Maria Ludovico Buonarroti 一七六一年~一八三七年:イタリア生まれのフランスの革命家。芸術家ミケランジェロの家系に属するとされ、フリー・メーソンの会員でもあった)『からうけつぎ、少数精鋭の秘密結社運動を開始する。なにより行動を重視した彼』であったが、『目標はパリの蜂起を』発条(ばね)にした『過渡体制の創出と、民衆教育を』梃子(てこ)とした『平等社会建設であり、少数前衛の蜂起自体を絶対視したわけではない。有名な〈季節社〉』(Société des Saisons:フランスの秘密結社。一八三〇年代の七月王政下のフランスでは議会内外の共和主義者による自由主義的改革運動とストライキを中心とした労働大衆の運動や蜂起が頻発し、人間の権利協会のように一部には両者の連帯の組織化も生じていた。これに対し、政府は抑圧の強化を以って臨み、反体制運動と組織の壊滅を行った。こうした状況を前提に組織されたのが「季節社」で、ブランキらが一八三七年に結成、その加盟者は六百乃至千名の間と見積もられている)『の蜂起の前後から、一八四八年の二月革命、第二帝政と一八七一年のパリ・コミューンを経て、第三共和政初頭に至るまで、彼の生涯は革命運動か獄中かのいずれかであった。実に総計四十三年二ヵ月間も獄中ないし特別監視下におかれたことから、共和主義運動と革命の象徴として、〈幽閉者〉とよばれた。第二帝政下に、同獄にいた共和派の青年たちに多大な影響を与え、その』中から『労働者をも含んだ秘密結社型のブランキ派が組織され』て、『帝政末からコミューンにかけ、ブランキ派は多くの公開集会や実力行動の中で重要な役割を果たした。しかしブランキ自身は蜂起直前に逮捕され、コミューンを直接指導することはできなかった』。ウィキの「」によって補足すると、一八七〇年にナポレオン三世の従兄ピエール・ボナパルトに射殺されたジャーナリストヴィクトール・ノワールの葬儀に参加、その後、暴動化したデモを扇動したとして逮捕され、死刑判決を受けた(翌年、普仏戦争後に発足したパリ・コミューンの「大統領」に選出され、コミューンがティエール政権に対してコミューン側の囚人の解放と引き換えにブランキの釈放を要求したが拒否されている)が、その翌一八七二年に健康状態の悪化を理由に懲役刑に減刑され、さらに一八七九年には釈放され、政治活動を再開したが、その二年後、パリで脳卒中のために死去した、とある。

・「宇宙を造るものは六十幾つかの元素である」一八六九年にロシアの化学者ドミトリ・イヴァーノヴィチ・メンデレーエフ(Дмитрий Иванович Менделеев/ラテン文字転写Dmitrij Ivanovich Mendelejev 一八三四年~一九〇七年)によって「メンデレーエフの周期律表」が発表された当時、既に分かっていた化学元素数は龍之介の言う通り、六十三であった。メンデレーフはそれら既知の元素の性質の周期的規則性を見つけ、それを「周期律」と呼んで、未発見の元素の予見をもしていた。本章公開当時(大正一三(一九二四)年十月)に判明していた元素数は定かでないが、七十前後はあったものと考えられる(言わずもがな乍ら、原子番号と発見史は一致しない。例えばハフニウム(hafnium:原子番号72)はこの一九二三年の発見であるが、プロトアクチニウム protactinium:原子番号91)は一九一七年)が、既にこの時代には元素は「発見する」ものではなく、自然の宇宙には存在しないか存在しない可能性が極めて高い、人間が「創る」ものと化しつつあったのだから、龍之介が「宇宙を造るもの」とする元素は私は「六十幾つかの元素である」という謂いは、決して古臭い科学的言説ではない。だから、諸注が現在の元素数をここに記すのは私はあまり意味のあることとは思えないでいる。しかし、彼らに敬意を表して――無論、皮肉である――現在、知られている元素数は百十八種類であり、現在正式名称が決定している最大の原子番号の元素は超ウラン元素の一つである原子番号116のリバモリウム(livermorium:元素記号 Lv)、原子番号118の元素は、未だ正式に認定されていないために仮名で呼ばれている超ウラン元素の一つであるウンウンオクチウム(ununoctium:元素記号 Uuo:ラテン語由来の「百十八番の元素」の意)である、と記してこの注を終わることとしよう。

・「マレンゴオの戰」「戰」は「たたかひ(たたかい)」と訓じておく。フランス語で「Bataille de Marengo」、一八〇〇年六月十四日に行われたフランス革命戦争に於ける戦闘の一つ。ウィキの「マレンゴの戦いより引く(アラビア数字を漢数字に代え、一部の記載・記号を変更・省略した。下線はやぶちゃん)。『現在のイタリア北部ピエモンテ州アレッサンドリア近郊の町マレンゴにおいて、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍が、ミヒャエル・フォン・メラス率いるハプスブルク君主国(オーストリア)軍に対して勝利を収めた』戦闘である。『一七九八年にオーストリアは第二次対仏大同盟を結成してフランスへ宣戦し、一八〇〇年までに北イタリアの大部分を奪回した。一七九九年に第一統領に就任してフランスの独裁権を確立したボナパルトは、反撃のためにジュネーヴに軍を集結させた。一八〇〇年五月、ボナパルトは三万七千を率いてグラン・サン・ベルナール峠を越え、北イタリアへ進出した』。『その頃、オーストリア軍はジェノヴァに篭城するアンドレ・マッセナ指揮下のフランス軍部隊を攻囲中であった。ボナパルトはオーストリア軍の背後に出てミラノとパヴィアを占領するが、ジェノヴァのフランス軍部隊は限界に達し』、『六月四日に開城した。その後、オーストリア軍主力はトリノに集結した』。『ボナパルトの機動によってオーストリア軍は退路を遮断される形となったが、司令官のメラスは東進を決意し、アレッサンドリアまで前進した。これに対してフランス軍は、オーストリア軍主力がトリノにとどまっていると誤認し、兵力を分散したまま西進した。こうして両軍は、六月十四日、アレッサンドリア近郊のマレンゴにおいて遭遇した』。『六月十四日早朝、オーストリア軍三万一千はアレッサンドリアからマレンゴへ前進し、午前九時、マレンゴの村にいたクロード・ヴィクトール=ペランのフランス軍部隊を攻撃した。このときボナパルトは戦場から五キロ後方にいた。ボナパルトは攻撃がオーストリア軍主力によるものと認識し、直ちにジャン・ランヌとジョアシャン・ミュラの部隊を増援に投入した。さらに別働隊へも伝令を送り、自身は午前十一時に戦場へ到着した』。『この時点で戦場のフランス軍は二万三千しかおらず、数で勝るオーストリア軍の攻勢を支えるのに手一杯であった。午後二時にはマレンゴの村がオーストリア軍に奪われ、フランス軍は三キロ余りの後退を強いられた。メラスはこの時点で勝利を確信し、勝報をウィーンへ送っている』。『午後五時、ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼーの別働隊五千が来着し、兵力の上では互角となったフランス軍は逆襲に転じた。ドゼー自身がオーストリア軍の正面へ突撃し、ケレルマンの騎兵部隊がオーストリア軍の背後を襲撃した。この奇襲攻撃によってオーストリア軍は分断され、アレッサンドリアへ向けて敗走した』。『戦いはフランス軍の逆転勝利に終わったが、激闘の最中、勝利に大きな貢献を果たしたドゼーは三十一歳で戦死し』ている。『六月十五日にメラスは降伏し、北イタリアは再びフランスの手に落ちた。十二月三日にジャン・ヴィクトル・マリー・モローの率いるフランスのライン川方面軍がオーストリア軍を破ったホーエンリンデンの戦いとあわせて、オーストリアは戦意を喪失し、リュネヴィルの和約に応じた。これにより第二次対仏大同盟は崩壊した』。以下、「逸話」の項。『マレンゴの戦いの夜、戦場の混乱の中で食料が届かず、ボナパルトの料理人はありあわせの材料で工夫し、チキンのトマト煮にエビと玉子を添えた料理をボナパルトに出した。これがフランス料理の「鶏のマレンゴ風」であるという。以来、ナポレオンはゲン担ぎの意味でしばしばこの「鶏のマレンゴ風」を食したという』。百年後のプッチーニ(Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini 一八五八年~一九二四年)の有名なオペラ「トスカ」(Tosca 一九〇〇年初演)では、『第一幕でボナパルトがマレンゴの戦いに敗れたという誤報がもたらされ、第二幕でボナパルトが勝ったという正しい知らせが届く』(上記の引用にも早まって勝報を伝えた事実が載るが、案外、芥川龍之介のここでの仮定は歴史書に載るそれよりも、この「トスカ」辺りがネタ元のような気もする)。『ナポレオンの肖像画にも描かれている芦毛の愛馬「マレンゴ」の名はこの戦いが由来とされている』。その後(ここからはウィキの「ナポレオン・ボナパルト」に拠った)、翌年二月に『オーストリアは和約に応じて(リュネヴィルの和約)、ライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約をもって第二次対仏大同盟は崩壊し、フランスとなおも交戦するのはイギリスのみとなったが、イギリス国内の対仏強硬派の失脚や宗教・労働運動の問題、そしてナポレオン率いるフランスとしても国内統治の安定に力を注ぐ必要を感じていたことなどにより』、一八〇二年三月には『アミアンの和約で講和が成立し』ている。岩波新全集の山田俊治氏の注には、このマレンゴの戦いの勝利によって、ナポレオンは『パリの政治的危機を救い、独裁の地位を固めた』とある。さても下線部辺りを見る限り、龍之介の仮想、ナポレオンの敗北は、これ、あっても少しもおかしくなかったことがよく判る。実際、戦史上ではナポレオンはたびたび失策を繰り返しており、彼が勝ったそれらはただの偶然としか思えないほどである。

・「大虛」「たいきよ(たいきょ)」は「太虚」とも書く。一般名詞では大空・虚空(こくう)の意。ここは宇宙と同義である。

・「他の地球上のナポレオンは同じマレンゴオの戰に大敗を蒙つてゐるかも知れない」所謂、幼少の頃より私の好きな、SFの常套的テーマである「平行世界」、「パラレル・ワールド」(parallel world)である。『「火星人」の次は「第二の地球」「反地球」カイ!』と侮ってはいけない(「反地球」とはSFや疑似科学で太陽を挟んで地球の反対側にあるとされる架空のトンデモ惑星のこと)。ウィキの「パラレルワールドにも以下のようにある。『パラレルワールドはSFでよく知られた概念であるだけでなく、実際に物理学の世界でも理論的な可能性が語られている。例えば、量子力学の多世界解釈や、宇宙論の「ベビーユニバース」仮説などである。ただし、多世界解釈においては、パラレルワールド(他の世界)を我々が観測することは不可能であり』、『その存在を否定することも肯定することも出来ないことで、懐疑的な意見も存在する』。『理論的根拠を超弦理論の複数あるヴァージョンの一つ一つに求める考え方も生まれてきている。現在の宇宙は主に正物質、陽子や電子などで構成されているが、反陽子や陽電子などの反物質の存在が微量確認されている。この物質の不均衡は、ビッグバンによって正物質と反物質がほぼ同数出現し、相互に反応してほとんどの物質は消滅したが、正物質と反物質との間に微妙な量のゆらぎがあり、正物質の方がわずかに多かったため、その残りがこの宇宙を構成する物質となり、そのため現在の既知宇宙はほぼ全ての天体が正物質で構成されているのだと説明されている。ビッグバンの過程において、この宇宙以外にも他の宇宙が無数に泡のごとく生じており、他の平行宇宙では、逆に反物質のみから構成される世界が存在するのではないかという仮説も提示されている』とありますぞ。因みに、ナポレオンがマレンゴの戦いで「大敗を蒙つてゐ」たら、確実に歴史は変わっていたであろう。ナポレオンは皇帝になることもなく、フランス革命の余波がヨーロッパ中に波及することもなかったであろう……とすると……などと空想し出すと、何やらん、かえって、トンデモなく逆にヒドい現在が私には想像されてしまい、逆に、もの狂ほしくなってくるんですが、ね? ブランキさん? どうよ?

・「これは六十七歳のブランキの夢みた宇宙觀である」「六十七歳」を満年齢とすると、一八七二年で、前に示した通り、ブランキは、この二年前にパリ・コミューンの弾圧により、デモ扇動の罪で逮捕され、死刑判決を受け、投獄されていた(但し、この年中に健康状態の悪化を理由として懲役刑に減刑され、七年後の一九七九年になってやっと釈放されている)。山田氏の注にはこれを『出典未詳』とするが、筑摩全集類聚版脚注では、『“La patrie en danger”の著作』とある。この「La patrie en danger」(「祖国は危機にあり」 一九七一年の作)はブランキの代表作らしいのだが、しかし寧ろ、翌一九八二年に彼の出した「L'Éternité par les astres」(「星々による永遠」)の方が、この引用元らしく見える書名ではないか? 但し、私はこの本を読んでいない。しかし、個人ブログ「Augustrait」の同翻訳書(二〇一二年岩波文庫刊浜本正文訳)のレビュー『天体による永遠』オーギュスト・ブランキを読んでみたら、ますますそんな気がしてきたのである(リンク先の引用を見よ!)。今度、購入して読んでみようと思う。新たな発見があった場合は追記する。

「何萬億哩」「哩」は「マイル」。一マイルは約一・六キロメートルで、一「萬億」は通常では一兆であるから、九兆六千億キロメートル前後になるか(私は度量衡に「何」とか「数」を附した不定値は六倍したものを標準値することを常としている)。これは流石は芥川龍之介! だって一光年のキロメートル換算、約九・五兆キロメートルに一致するからである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  火星

 

       火星

 

 火星の住民の有無を問ふことは我我の五感に感ずることの出來る住民の有無を問ふことである。しかし生命は必ずしも我我の五感に感ずることの出來る條件を具へるとは限つてゐない。もし火星の住民も我我の五感を超越した存在を保つてゐるとすれば、彼等の一群は今夜も亦篠懸を黃ばませる秋風と共に銀座へ來てゐるかも知れないのである。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十月号『文藝春秋』巻頭に、後の「Blanqui の夢」「庸才」「機智」(二章)の全五章で初出する。私の好きな一章。SFっぽい内容は勿論、その語り口やロケーションのダンディズムはもとより、我々が生命体と呼んでいるものの如何にあやういものであるかということをよく伝えるところのすこぶる科学的な記載でもあるからである。龍之介の言うような透明な生命体であっても、それは恐らく現在の科学ならばそれと明らかに認知することは可能かも知れぬ。しかしそれは、ただ龍之介が、五感の中の視覚、それもたかだか肉眼レベルでの、ごく分かり易い例として示したものに過ぎないことに着目しなければならぬ。例えば、透明でなくともよい。見た目が石ころのようにしか見えない生命体がおり、それは我々の想像を絶する時間系を持っていて、何百年もかけて少しだけ体内代謝するような生命体がいたとしよう。現行の科学では恐らくそれを分解して精査しても、せいぜいよくって生物の「化石」だと断ずるにとどまるであろう。何故なら、それを何百年もかけて観察することが我々には不可能だからである。我々はそれを生命体としては遂に認識し得ないのである。「だからこそ宇宙でヒトは孤独なのだ」とも考えているのが一箇の生命個体である私でもある。

 

・「火星の住民の有無を問ふ」このアフォリズムが書かれた時代(現在(二〇一六年)から凡そ九十三年前)の地球では、現在の一部の信望者などとは比べ物にならぬほど遙かに多くの人類が、真面目に、地球外生命体の実在、とりわけ「火星人」の存在を強く信じていたことを確認する必要がある(それは私は精神的には幸福なことであったと考えている)。まずはウィキの「火星人から引こう。実に既に十八世紀前半、かの大数学者として知られるドイツの天文学者で物理学者でもあったヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス(Gauß De-carlfriedrich gaussCarolus Fridericus Gauss 一七七七年~一八五五年)らは、『ランタンと鏡を使って火星人に光学的な信号を送ることを構想した。遅くともこの時期までには、火星人の存在が考慮されていたことがわかる』。一八七七年(明治十年)の『火星大接近の際、イタリア王国のミラノの天文台長である天文学者 ジョヴァンニ・スキアパレッリ』(ジョヴァンニ・ヴィルジニオ・スキアパレッリ Giovanni Virginio Schiaparelli 一八三五年~ 一九一〇年)が火星を口径二十二センチメートルの『屈折望遠鏡で観測しているときに、火星全体の表面に線状模様があることを発見した(なお線状模様についてはこれ以前にも複数の観測者によってみいだされている)。それを発表の際』、『Canali(イタリア語で「溝・水路」の意)と記述したものを、英語に翻訳された際』、『Canal(英語で「運河」の意)と誤訳され、「それは運河である」という説になった。模様が直線や円などのなす幾何学模様で、とても自然に造られたようには見えないことからも、そう考えられるようになった』。『また、運河があるのならそれを作ったものがいなければならないということで、火星人が存在するに違いないという説が広まり始めた。また、運河は火星全体を覆うように縦横に張り巡らされており、これほど大規模な施設を建造できるなら、火星人は地球人よりはるかに進んだ文明を持っている、という説も出された』。『火星人が存在するという説を強く支持した人々のうちの』一人が、『アメリカ合衆国の天文学者パーシヴァル・ローウェルで、火星および火星人の研究に大いに貢献した。彼は実業界の出身で、火星観測のため私財を投じて、ローウェル天文台をアリゾナに建設し』、『その後の惑星研究の中心地となった。アリゾナ州フラッグスタッフという天体観測に最適な場所を見出したのも評価されている』とある(最後の引用箇所はウィキの「パーシヴァル・ローウェルに拠る)。さて、ここで日本研究者としてもよく知られるパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell 一八五五年~一九一六年)について、そのウィキの「パーシヴァル・ローウェルから引こう。彼は『ボストンの大富豪の息子として生まれ、ハーバード大学で物理や数学を学んだ。もとは実業家であったが、数学の才能があり、火星に興味を持って天文学者に転じた。当時屈折望遠鏡の技術が発達した上に、火星の二つの衛星が発見されるなど火星観測熱が当時高まっていた流れもあった。私財を投じてローウェル天文台を建設、火星の研究に打ち込んだ。火星人の存在を唱え』、一八九五年(明治二十八年)の「Mars」(「火星」)『など火星に関する著書も多い』。この出版された「Mars」には、『黒い小さな円同士を接続する幾何学的な運河を描いた観測結果が掲載されている。運河の一部は二重線(平行線)からなっていた』(なお、同書には三百『近い図形と運河を識別していたが』、現在では『火星探査機の観測によりほぼすべてが否定されている』)なお、彼の『最大の業績は、最晩年の』一九一六年(大正五年)に『惑星Xの存在を計算により予想した事であり』、これはそれから十四年後の一九三〇年(昭和五年)になって、『その予想に従って観測を続けていたクライド・トンボーにより冥王星が発見された。冥王星の名 "Pluto" には、ローウェルのイニシャルP.Lの意味もこめられている』。『なお、彼の業績』(火星観測の謂いであろう)『に対して天文学者のカール・セーガンは「最悪の図面屋」、SF作家のアーサー・C・クラークは「いったいどうしたらあんなものが見えたのだろう」と自著の中で酷評している(しかし一方で、前者は「彼のあとにつづくすべての子どもに夢を与えた。そして、その中からやがて現代の天文学者が生まれたのだ」と子供たちに天文学を志すきっかけを与えた面を、後者は「数世代のSF作家たちが嬉々として発展させた神話の基礎を、ほとんど独力で築き上げた」とSFの分野に影響を与えた面を評価した)。一部の眼科医はローウェルは飛蚊症だったのではないかという仮説を述べている』。『また、ローウェルの火星人・運河研究は』、イギリスの作家で「SFの父」H・G・ウェルズ(後述)の「宇宙戦争」(後述)、アメリカの「火星シリーズ」で知られるSF作家(彼は冒険小説「ターザン・シリーズ」の作者でもある)エドガー・ライス・バローズ(Edgar Rice Burroughs 一八七五年~一九五〇年)の「火星のプリンセス」(A Princess of Mars 一九一七年(大正六年)初版)、アメリカの幻想作家レイ・ブラッドベリ(Ray Douglas Bradbury 一九二〇年~二〇一二年)の「火星年代記」『火星年代記』(The Martian Chronicles 単行本発行は一九五〇年(昭和二十五年))に『インスピレーションを与えるなど、SF小説・映画などのエンターテインメント分野にも影響を与えたことも評価されている』とある。さても大御所ハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells 一八六六年~一九四六年)の「宇宙戦争」(The War of the Worlds  明治三一(一八九八)年)であるが、言わずもがな、そこで地球に襲来するのはまさに醜悪な蛸型をした「火星人」(Martiansなのである。御存じのかたには釈迦に説法だが、これは後の一九三八年十月三十日にアメリカで、かの後にアメリカの名優となるオーソン・ウェルズがアメリカを舞台として、事実報道と聴き紛う驚くべきドキュメンタリー・タッチでラジオ・ドラマ化(生放送)、多くのアメリカ市民が現実に起きている出来事と勘違いして、一大パニックを引き起こしている。因みに、この一九三八年とは昭和十三年である。本章の執筆は大正一三(一九二四)年である(以上の引用部も含めて下線は私が引いた)。ともかくも、少なくとも芥川龍之介はジャリ向けや冗談でこの一章を書いたのではないのである。これは至極大真面目に、ヒトという生物の認識とその思想主義といったものの儚さ及び厳然たる限界を語ったアフォリズムなのである。

・「篠懸」「すずかけ」と読む。一般にはヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis で、和名は晩秋に成る果実が楽器の鈴に似ていることに由来する「鈴掛」「鈴懸」であると多くは記すのであるが、そうすると芥川龍之介が当てている「篠懸」が解明されない。そこで「篠懸」で調べると、この「篠懸(すずかけ)」とは「鈴掛」とも書き、修験道の行者である山伏が衣の上に着る麻製の上下の法衣(ほうえ)全体の呼称であることが判った(金剛界を表わすとする上衣と胎蔵界を表わすとする袴から成る)。さてもここに「篠」を当てるのは、行者が深山を行く際に群れ茂れる篠竹の露を防ぐためのものであったからとされ、まず合点(がってん)! 而して山伏の衣を思い出すと、またまた合点! もしかして!?……「鈴」とは、あの胸に着いているボンボンのような丸(まある)い房飾り(水干・水干袴や鎧直垂(よろいひたたれ)・鎧直垂袴などの縫い合わせの箇所にそれを隠すように附けられた「菊綴(きくとじ)」が正式名称。以下は私の妄想――さても先に書いた通りに上衣が金剛界なら当然、丸は曼荼羅辺りがイメージされているのかも知れん――)の比喩じゃあねえか?! あれこそ「鈴」だろ! あれが懸っている法衣だから「鈴懸け」なんじゃあないか?! と今度は一人合点! さらに調べてみると、あの玉状の飾りは「結袈裟(ゆいげさ)」と呼ぶことが判明した(一般の山伏では紅色であるが、「勧進帳」の弁慶の墨染めの衣の胸の辺りに附いているそれは白い、と言えば画像が浮かばれよう)。さても! そこで私の結論は――「篠懸」を「すずかけ」と読み、それを樹木の「すずかけ」に当てるのは、これは樹木の「スズカケ」の実が「鈴」に似ているから「すずかけ」なのではなく、法衣である篠懸(すずかけ)の上着に飾りで附けられている結袈裟が「スズカケ」という和名のルーツなのではないか――である(大方の識者の御批判を俟つ)。現在は属名の「プラタナス」の呼称で呼ばれることが多いものの、実際には現在、我々がプラタナス=スズカケの木と名指している街路樹は圧倒的にこのスズカケノキ Platanus orientalis とスズカケノキ属アメリカスズカケノキ Platanus occidentalis の交雑種であるスズカケノキ属モミジバスズカケノキ Platanus × acerifolia あるらしい。龍之介が見たそれもモミジバスズカケノキであった可能性を考慮する必要があるようにも思われる。しかし一部の今の読者の中には「銀座の並木なら、柳じゃないの?」と疑問を呈する方がおるやも知れぬ。さても、銀座一帯はもともと水はけが悪く、明治初期に並木として植えられた松・桜・楓(かえで)は直きに根腐れて枯れてしまい、その代替となったものが、後に流行歌にも歌われた(昭和四(一九二九)年「東京行進曲」(作詞・西条八十/作曲・中山晋平)一番冒頭『昔戀しい 銀座の柳』)水気を好む柳であったのである。しかしながら、それも明治の後期には銀杏(いちょう)主体に替えられていた。ところが、この前年の関東大震災によってそれも壊滅してしまった。そこで新たに植えられたのがこのスズカケだったのである(だからこそ西条八十は「昔恋しい」と詠ったのであった。因みに、この歌謡曲(唱:佐藤千夜子)のヒットによって銀座の柳並木の復興が行われた。しかしそれも、東京大空襲によって壊滅、現在のそれは既に四代目という。ここまでの樹種や銀座並木についてはネット上の複数の信頼出来る記載を参考にして書いたものである)。最後に。これにはきっとダンディ龍之介も賛同してくれる自信があるのだが、考えてみると、ここはシチュエーションとしても「篠懸」(プラタナス)が本章の内容にも(言うまでもなくロケ地たる銀座にも)よりモダンな樹種選択であることが、よぅく解ってくるではないか。もしかしたら、柳や銀杏は少しは残っていたかも知れぬ。しかしモダンな火星人がそこに佇ませるとなると、これ、如何にも古臭い柳の下の足のない幽霊やら泉鏡花風「化け銀杏」にはなりはすまいか?――火星人にヤナギやイチョウはお洒落じゃあ、ない。やっぱ、プラタナス(篠懸:すずかけ)じゃあ、なくっちゃ――

2016/05/27

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 制限

 

       制限

 

 天才もそれぞれ乘り越え難い或制限に拘束されてゐる。その制限を發見することは多少の寂しさを與へぬこともない。が、それはいつの間にか却つて親しみを與へるものである。丁度竹は竹であり、蔦は蔦である事を知つたやうに。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年九月号『文藝春秋』巻頭に、前の「貝原益軒」「或辯護」の全三章で初出する。なお、文中の「それぞれ」は底本では後半が踊り字「〲」となっている(この場を借りて言っておくと、私は踊り字「く」「〲」自体を自筆の文章の中で生涯一度も使ったことがない。実は「ゝ」「ゞ」や「〻」も使ったことがない(但し、「々」という本邦でしか通用しない記号は頻繁に使う)。余生もその通りであろう。それは何故と言うに、特にこの「〱」「〲」が生理的に嫌いだからである。また、私の古い電子テクストでは使用したこともあったそれを模したいまわしき「/\」「/″\」も虫唾が走る。これは今も「青空文庫」を始めとして、多くの電子テクスト・サイトで平然と使用されている(なお、私はこの絵文字みたようなものを使って恥じない現代のネット人種の感性が全く理解出来ない)。現在、ユニコードの環境依存文字で「〱」「〲」が存在するが、これは横書文書では「/\」「/″\」と同等に笑止千万で(「/\」「/″\」の方は呆けた大口のようにしか見えぬ)、縦書にすると小さ過ぎて踊り字に見えず、そのままでは「く」「ぐ」と読み誤る弊害の方が遙かに甚大で、いちいちそこだけのポイントを大きくしないと誤植かと見紛うほどに実は頗る使い勝手の悪いものなのである(私はユニコードのこの「〱」「〲」を美事に用いて違和感のないネット上縦書テクストを未だ嘗て一度も見たことがない)。従って現在の私の電子テクスト・ポリシーに於いては「〱」「〲」の踊り字は正字化し、注でそれを明記する方法を原則、採用している。この方式を採用している電子テクスト作成者は実はあまりいないと思う。しかし、これは私の確信犯であり、譲れない。今までこれについて語ったことがないので、一言しておくものである)。

 

・「その制限を發見することは多少の寂しさを與へぬこともない。が、それはいつの間にか却つて親しみを與へるものである」この謂いは図らずも、芥川龍之介が自らを「天才」と自認していたことを暴露してしまっている。「與へぬこともない」と感じたのは話者人以外にはあり得ず、「それはいつの間にか却つて親しみを與へるもの」となったことを体験した故に「である」と断定出来るからである。しかしその「天才」という自己認識は辛いものであった。それは「それぞれ乘り越え難い或制限に拘束されてゐ」たからであり、そうして何より、荘子が堀の中の魚の楽しみが分かったように、「竹は竹であり、蔦は蔦である」「やうに」、私は私である/でしかなかったことを「知つた」/知ってしまったから、である。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或辯護

 

       或辯護

 

 或新時代の評論家は「蝟集する」と云ふ意味に「門前雀羅を張る」の成語を用ひた。「門前雀羅を張る」の成語は支那人の作つたものである。それを日本人の用ふるのに必ずしも支那人の用法を踏襲しなければならぬと云ふ法はない。もし通用さへするならば、たとへば、「彼女の頰笑みは門前雀羅を張るやうだつた」と形容しても好い筈である。

 もし通用さへするならば、――萬事はこの不可思議なる「通用」の上に懸つてゐる。たとへば「わたくし小説」もさうではないか? Ich-Romanと云ふ意味は一人稱を用ひた小説である。必ずしもその「わたくし」なるものは作家自身と定まつてはゐない。が、日本の「わたくし」小説は常にその「わたくし」なるものを作家自身とする小説である。いや、時には作家自身の閲歷談と見られたが最後、三人稱を用ゐた小説さへ「わたくし」小説と呼ばれてゐるらしい。これは勿論獨逸人の――或は全西洋人の用法を無視した新例である。しかし全能なる「通用」はこの新例に生命を與へた。「門前雀羅を張る」の成語もいつかはこれと同じやうに意外の新例を生ずるかも知れない。

 すると或評論家は特に學識に乏しかつたのではない。唯聊か時流の外に新例を求むるのに急だつたのである。その評論家の揶揄を受けたのは、――兎に角あらゆる先覺者は常に薄命に甘んじなければならぬ。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年九月号『文藝春秋』巻頭に、前の「貝原益軒」と、後の「制限」とともに全三章で初出する。

 

・「或新時代の評論家」不詳(岩波新全集の山田俊治氏の注も『不祥』とする)。芥川龍之介は、よっぽどこの人物のこの誤使用にイラッときていたものか、既に四年も前の「骨董羹壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文(大正九(一九二〇)年の『人間』に連載)の「誤謬」の冒頭でも、この誤りを最初に糾弾している。

   *

 門前の雀羅蒙求を囀ると説く先生あれば、燎原を燒く火の如しと辯ずる夫子あり。明治神宮の用材を贊して、彬々(ひんひん)たるかな文質と云ふ農學博士あれば、海陸軍の擴張を議して、艨艟(もうどう)罷休(ひきう)あらざる可らずと云ふ代議士あり。昔は姜度(きようと)の子を誕するや、李林甫手書(しゆしよ)を作つて曰、聞く、弄麞(ろうしやう)の喜ありと。客之を視て口を掩ふ。蓋し林甫の璋(しやう)字を誤つて、麞字を書せるを笑へるなり。今は大臣の時勢を慨するや、危險思想の瀰漫(びまん)を論じて曰、病既に膏盲(かうまう)に入る、國家の興廢旦夕にありと。然れども天下怪しむ者なし。漢學の素養の顧られざる、亦甚しと云はざる可らず。況や方今の青年子女、レツテルの英語は解すれども、四書の素讀は覺束なく、トルストイの名は耳に熟すれども、李青蓮の號は眼に疎きもの、紛々として數へ難し。頃日(けいじつ)偶書林の店頭に、數册の古雜誌を見る。題して紅潮社發兌(はつだ)紅潮第何號と云ふ。知らずや、漢語に紅潮と云ふは女子の月經に外ならざるを。

   *

この擬古文、なかなかに手強い(因みに、この文章は龍之介満二十八の時のものである)。リンク先の私の原文テクストにも私の注を附してあるが、失礼乍ら、それでも分らない部分は多かろう。何なら、私がこれを暴虎馮河に現代語敷衍訳した『芥川龍之介「骨董羹寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案附註した「骨董羹(中華風ごった煮)寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと」という無謀不遜な試み』の方の「誤謬」を参考にされんことをお薦めする。いや、無論、上記で十分、解るという御仁はもう、その限りではない。

・「蝟集する」「蝟」は針鼠(はりねずみ:哺乳綱ハリネズミ目ハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinae に属するハリネズミ類)のことで、彼らの自己防衛用の針(体表の背部側一面に生えるが、これは体毛の一本一本がまとまって硬化したものである)のように多くの対象物が、うじゃうじゃと一時のうちに寄り集まる、の謂い。

・「門前雀羅を張る」「雀羅」は「じやくら(じゃくら)」と読む。雀を捕えるための「かすみ網」のことである。訪れる人もなく、門の前には雀が沢山群れ飛んでいて、網を張れば容易に捕えられるほどだ、という謂いで、「訪れる者もいなくなってしまい、ひっそり如何にも寂れてしまっている」ことの喩えである。これはもと、司馬遷の「史記」汲・鄭(てい)列伝が元であるが(昔、翟(てき)公が官をやめたとたん、誰も来ずなって、「廢門外可設雀羅」(門を廢し、外に雀羅を設くべし)というありさまに成った)、かの白居易の「寓意詩五首」の一節(高位高官が左遷されてしまい、主の居なくなった屋敷は「賓客亦已散、門前雀羅張」(賓客亦(ま)た已(すで)に散じ、門前、雀羅張る。))によって広く知られるようになったものである。

・「わたくし小説」「私(わたくし)小説」(「ししょうせつ」とも読む)のこと。この四年前の大正九(一九二〇)年頃から使用され始めた文学用語。平凡社「世界大百科事典」の高橋英夫氏の解説から引く(現代部分を大幅にカットし、コンマを読点に代えた)。『作者自身とわかる人物が〈私〉として作中に登場し、〈私〉の生活や想念、目撃見聞した出来事を虚構を交えずありのまま語ったとみなされる小説をいう。これに類似するものに、ドイツの』「イッヒ・ロマン」(本文で芥川龍之介が謂っている「Ich-Roman」)『(主人公が一人称で語る小説)や自伝があるが、私小説は近代日本の特殊性につよく規定される点でそれらとは異なる。最も日本的な文学形態だけに、日本的な偏りを批判されることが多かった』。『用語例として〈私小説〉が確立される以前、田山花袋』の「蒲団」(明治四〇(一九〇七)年)が『赤裸々な恋愛感情を表現したのが私小説の事実上の発祥とされている。ヨーロッパの自然主義の影響による事実尊重と近代自我拡充の欲求が結合して私小説を生んだのである。しかし花袋のように、事実尊重は、公認の社会道徳から逸脱した私的側面、主として男女の情痴や破れかぶれの生活をえがく方向に向かい、岩野泡鳴〈泡鳴五部作〉』(「放浪」・「断橋」・「発展」・「毒薬を飲む女」・「憑き物」)(明治四三(一九一〇)年から翌年に発表)、近松秋江の「疑惑」(大正二(一九一三)年)などを経て、葛西善蔵の苛烈で自虐的な自己剔抉(てつけつ)に達した、「子を連れて」(大正七(一九一八)年)などが書かれた。『そこまでいくと赤裸々な自己暴露も、人生の卑小さ醜さの底での自己観照、自己救済に転ずる契機をつかむが、それが私小説の究極的形態としての心境小説になってゆく。心境小説の典型には透明な死生観を述べた志賀直哉』「城の崎にて」(大正六(一九一七)年)が挙げられる。『心境小説にいたって私小説は自然主義風の暗さを脱したため、大正中期以降は《白樺》派や佐藤春夫、芥川竜之介ら芸術派までも手を染めるようになっていった。この段階で私小説の日本的特異性が気づかれ始め、〈私小説〉が概念として確立され、私小説論議が盛んになった。その中で中村武羅夫』が「本格小説と心境小説」(大正一三(一九二四)年)で『心境小説批判の側に立ったのに対し、久米正雄』は「私小説と心境小説」(大正一四(一九二五)年)で『本格小説を通俗的と決めつけ、私小説こそ人の肺腑をつく芸術の本道であるとする擁護の立場に立っていた』。『私小説の長所はつくりごとや虚飾を去った自己認識を通じ、人間性の醇化(じゆんか)と救済に向かい、東洋的悟道、全世界と自己の宥和(ゆうわ)に達するところにある。反面その弱点は』、第一に、『裸一貫の〈私〉の経験、思索に忠実たらんとするため、作品に社会的広がりが乏しくなることである。作品が私的日常性の範囲に限定され、みすぼらしい貧乏生活、主観的想念の自己満足的表現になりやすい』。第二に、『〈私小説演技説〉が伊藤整により唱えられたように、私小説を書くための作者の意図的な自己演技がいつわりなきものであるべき生活をゆがめかねない』。第三に、『作品世界が実生活と別次元に立つことを忘れ、作品と実生活の混淆が生じがちである』という点にあった。『こういう得失の検討はすべての私小説論でなされてきたが、中でも小林秀雄』の「私小説論」(昭和一〇(一九三五)年)は重要で』、『小林はその中で〈社会化した私〉というキーワードを用いて私小説を批判しつつ、その批判を通じて否定しえぬ〈私〉の存在することを指摘した』。『このように私小説について特徴的なのは作品と論議とが同程度の重要さをもって発表されてきたことである。小林秀雄や後の中村光夫の』「風俗小説論」(昭和二五(一九五〇)年)の〈風俗小説〉『批判にもかかわらず』、『私小説は盛んに書かれ』続けた。第二次大戦後、『私小説は近代的自我を阻害し、近代小説の成立を妨げるものとして手きびしく論難されたが、その生命力は強卑で、旧来の作家のほか新しい作家たちも私小説を執筆している。その中のかなりの部分は私小説への批判や提言に対応する形で私小説の変質を実現しつつある』。ともかくも、『私小説が賛否を』越えて、『近代小説の日本的変種として日本人の体質と発想に適合していることには変りはない』とある。新潮文庫の神田由美子氏の注では、『芥川龍之介も晩年は「点鬼簿」 「蜃気楼(しんきろう)」 「歯車」など、私小説的作風に向かっていき、谷崎潤一郎と「『話』らしい話のない小説論を闘わす』(「文藝的な、餘りに文藝的な」を指す)『など、「私小説」に深い関心を抱いていた』と記す(リンク先は私の電子テクスト)。但し、それはあくまで私小説の技法上の興味に過ぎず、晩年の告白体形式のそれらは凡百の読まれなくなった私小説とは、自ずと一線を画するものであることは疑いない。]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 刺螺

 

【外】

刺螺 ニシカラノ口ノ左右ニ長キ針アルモノ和名ヲハツキト云

 

やぶちゃんの書き下し文

【外】

刺螺 「にし」。からの口の左右に、長き針あるもの。和名を、「はつき」と云ふ。

 

[やぶちゃん注:中文サイトで「刺螺」を検索すると、これは、

腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズ超科 リュウテンサザエ科リュウテン亜科リンボウガイ属トガリリンボウGuildfordia aculeatus

であるが、仮にそうだとしても、どう考えてもそこまで限定する気にはなれない。

リンボウガイ属Guildfordia

の仲間でよかろう。和名は武蔵石寿「六百介品」に出、仏具の輪宝(原型は車輪の形をした投擲して相手を傷つける古代インドの武器であるが、仏教に取り入れられて、仏法を守護する転輪聖王(てんりんじょうおう)の持物となり、王の行くところへ先行して四方を制するとされる)に似ていることに因む。コレクターも好む貝で、ベイゴマ形の貝の外側周縁に七~九本の角(つの)状の長い棘のような管状突起が伸びている(これは臍孔方向から見れば、本文の、螺で殻の「口の左右に長き針ある」という表現と私はよく一致すると思う)。この突起は成長に伴って殻が伸び、前にある突起物が成長の邪魔になると自切する。更に想像するなら、和名の「はつき」は「八起」とも思われ、自切や欠損した個体では実際に八本の突起が目立つからではないかと推定した。但し、悩ましいことに和名の「はっき」には、

腹足綱前鰓亜綱新生腹足上目新腹足目アッキガイ超科アッキガイ科アッキガイ亜科ハッキガイ属ハッキガイSiratus pliciferoides

なる種がおり、これは縦脹脈上に沿って尖った管状突起を持つのである。但し、これは縦方向で螺頂方向にも棘が並んでおり、これを私は「口の左右に」とはとても表現し得ない。因みに、こちらの和名は「白鬼貝」で棘を鬼の角と見立てたようである。なお、「刺螺」という語からは、同じ、

アッキガイ科アッキガイ亜科アッキガイ属ホネガイ Murex pecten

及びその近縁種が即座に想起されるかも知れぬが、中文サイトがそれを挙げていないこと、ホネガイを形容するなら、全体から棘が出ていると言わぬのは不自然で、「口の左右に」と穏やかに述べるほどにしか棘状の突起はないと読むのが自然であるから、私はやはりリンボウガイ類に同定するものである。

 益軒は「外品」とするが、本邦にも棲息する(本州中部以南)。但し、リンボウガイ類は水深八十~三百メートルの比較的深海の砂泥底に棲息しており、現行でも採集される場合は漁師の底刺網(そこさしあみ)や底曳網であって、ビーチ・コーミングで発見出来ても棘状突起が綺麗に残っていることは稀なことの方が多いかと思われる。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 貝原益軒

 

       貝原益軒

 

 わたしはやはり小學時代に貝原益軒の逸事を學んだ。益軒は嘗て乘合船の中に一人の書生と一しよになつた。書生は才力に誇つてゐたと見え、滔々と古今の學藝を論じた。が、益軒は一言も加へず、靜かに傾聽するばかりだつた。その内に船は岸に泊した。船中の客は別れるのに臨んで姓名を告げるのを例としてゐた。書生は始めて益軒を知り、この一代の大儒の前に忸怩として先刻の無禮を謝した。――かう云ふ逸事を學んだのである。

 當時のわたしはこの逸事の中に謙讓の美德を發見した。少くとも發見する爲に努力したことは事實である。しかし今は不幸にも寸毫の教訓さへ發見出來ない。この逸事の今のわたしにも多少の興味を與へるは僅かに下のやうに考へるからである。――

 一 無言に終始した益軒の侮蔑は如何に辛辣を極めてゐたか!

 二 書生の恥ぢるのを欣んだ同船の客の喝采は如何に俗惡を極めてゐたか!

 三 益軒の知らぬ新時代の精神は年少の書生の放論の中にも如何に潑溂と鼓動してゐたか!

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年九月号『文藝春秋』巻頭に後の「或辯護」「制限」とともに全三章で初出する。江戸時代の儒学者にして優れた本草学者であった「貝原益軒」(名は「えきけん」とも「えっけん」とも読む 寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)はウィキの「貝原益軒」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『筑前国(現在の福岡県)福岡藩士、貝原寛斎の五男として生まれ』、『一六四八年(慶安元年)、十八歳で福岡藩に仕えたが、一六五〇年(慶安三年)』、暗愚であった(ここは私が追加した)『二代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、七年間の浪人生活を送ることとなる。一六五六年(明暦二年)二十七歳、三代藩主・光之に許され、藩医として帰藩.翌年、藩費による京都留学で本草学や朱子学等を学ぶ。このころ木下順庵、山崎闇斎、松永尺五、向井元升、黒川道祐らと交友を深める。また、同藩の宮崎安貞が来訪した。七年間の留学の後、一六六四年三十五歳の時、帰藩し、百五十石の知行を得、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。藩命により『黒田家譜』を編纂。また、藩内をくまなく歩き回り『筑前国続風土記』を編纂する』。『幼少のころに虚弱であったことから、読書家となり博識となった。ただし書物だけにとらわれず自分の足で歩き目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持つ。また世に益することを旨とし、著書の多くは平易な文体でより多くの人に判るように書かれている』。『七十歳で役を退き著述業に専念。著書は生涯に六十部二百七十余巻に及ぶ。主な著書に『大和本草』、『菜譜』、『花譜』といった本草書。教育書の『養生訓』、『大和俗訓』、『和俗童子訓』、『五常訓』。紀行文には『和州巡覧記』がある』。『『大和俗訓』の序に「高きに登るには必ず麓よりし、遠きにゆくには必ず近きよりはじむる理あれば」とみえるように、庶民や女子及び幼児などを対象にした幅広い層向けの教育書を著した』。『思想書としては、一七一二年(正徳二年)の『自娯集』。学問の功は思にありとして、教義・道徳・教育等の意見を著した『慎思録』、朱子学への観念的疑問等を著した『大擬録』などがある』。『一七一四年(正徳四年)に没するに臨み、辞世の漢詩二首と倭歌「越し方は一夜(ひとよ)ばかりの心地して 八十(やそじ)あまりの夢をみしかな」を残している』とある。因みに、私は『貝原益軒「大和本草」より水族の部」』を手掛けているが、暫く、怠けている。

 

・「貝原益軒の逸事」岩波新全集の山田俊治氏の注によれば、このエピソードは、末松謙澄「小学修身訓」(明治二五(一八九二)年)の中の「二五 ほこるべからず付益軒先生」の他、「新編修身経典 尋常小学校用」(明治三三(一九〇〇)年)や同年刊の「新編修身経典 高等小学校用」等に掲載されている、とある。幸い、国立国会図書館デジタルコレクション新編修身教典 尋常小學校用 三」普及舎編輯所明治三三一九〇〇)十二普及舎見出(リンク先は当該章)ので、以下に電子化する。

   *

   第七課  貝原益軒先生 (二)

 先生、かつて、船にのりて、たびをせられしとき、のりあひの一人の書生が、じまんがほに、書物のはなしをせるを、一言も、ものいはずして、聞き居られき。

 まもなく、船、きしにつきたるとき、各、名のりあひたるに、彼の書生は、先生の名を聞きて、大にはぢ入り、にぐるが如くに、立ち去りき。

   *

芥川龍之介が江東小学校(現在の両国小学校)に入学したのが明治三一(一八九八)年であるから、彼の読んだものがこれに近いものであろうとは思われるが、調べてみると、同話のヴァリエーションでは、最後に同船していた他の客たちが走り逃げる書生を笑い謗ったシーンがあるらしく、龍之介が指弾した「二」から見ると、そちらの版がより相応しい。

・「滔々」「たうたう(とうとう)」。よどみなく話すこと。弁舌さわやかななるさま。

・「一言」「いちごん」。

・「大儒」「たいじゆ(たいじゅ)」。優れた儒学者。

・「忸怩」「ぢくぢ(じくじ)」と読む。自分の行いに対して心の内で強く恥じ入るさま。「忸」は「恥じる」、「怩」も「恥じる」であるが、「引け目を感じていじける」きまり悪く思う」の謂いを含む。

として先刻の無禮を謝した。――かう云ふ逸事を學んだのである。

・「益軒の知らぬ新時代の精神は年少の書生の放論の中にも如何に潑溂と鼓動してゐたか!」「放論」は「はうろん(ほうろん)」で、誰(たれ)憚ることもなく、思いのままに議論をすること(「身の程知らずの放言」の謂いもあるが、ここはフラットな意の方が強い)。「潑溂」「はつらつ」で、「きびきびとして元気のよいさま・生き生きとしているさま」を言う(「元気ハツラツ!」なんどと叫びながら、その実この漢字が書けない若者は今や、圧倒的であろう)。ここを読む都度、私は芥川龍之介黄粱夢こうりょうむ)を思い出さずにいられない(リンク先は私のブログ版電子テクスト注)。私は、そのエンディングの「顏をしかめた儘、然りとも否とも答へなかつた」「呂翁」のような面(つら)を益軒先生にさせて見たいと思う「書生」なのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 禮法

 

       禮法

 

 或女學生はわたしの友人にかう云ふ事を尋ねたさうである。

 「一體接吻をする時には目をつぶつてゐるものなのでせうか? それともあいてゐるものなのでせうか?」

 あらゆる女學校の教課の中に戀愛に關する禮法のないのはわたしもこの女學生と共に甚だ遺憾に思つてゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年八月号『文藝春秋』巻頭に前の「民衆」(三章)「チエホフの言葉」「服裝」「處女崇拜」(三章)とともに全九章で初出する。

 

・『「一體接吻をする時には目をつぶつてゐるものなのでせうか? それともあいてゐるものなのでせうか?」』「侏儒の言葉」の特異点。このアフォリズムは「侏儒の言葉」が始動してから、通算五十八番目のアフォリズムであるが(単行本ではカットがあるので通算数は二つ減ずる)、本物の台詞形式(生(なま)の女学生の言葉)で直接話法が出現し、しかもそれが独立段落として扱われているのはここが初めてである。鍵括弧が文中に引用語句或いは仮想会話文を示すのに用いられた例は幾らもあるが、直接話法は「尊王」のブルゴーニュ公とアベの会話だけで、これは改行せずに文中挿入である。改行独立段落では「醜聞」のグールモンのそれがあるが、これは会話文ではなく完全な引用である。時に、これにどう答えるか。多くのキスを描いた絵や写真は概ね目を瞑っている。目をカッと見開いた男女が接吻しているというのはどうも気持ちが悪いような気がする。さればこそ「愛に關する禮法」では目を瞑るということになるのであろうか? しかし、あなたはどうか? 本当に目を瞑っていたか? いやさ、いるか? 薄っすらと開けて女の瞑った目を確かめたりはしなかったか? 或いは、薄っすらと開けて見たら、女もそうして覗き見ていたから、慌ててギュと閉じたりはしなかったか? 遠い遠い日の、思い出、である。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  處女崇拜

 

       處女崇拜

 

 我我は處女を妻とする爲にどの位妻の選擇に滑稽なる失敗を重ねて來たか、もうそろそろ處女崇拜には背中を向けても好い時分である。

 

       又

 

 處女崇拜は處女たる事實を知つた後に始まるものである。即ち卒直なる感情よりも零細なる知識を重んずるものである。この故に處女崇拜者は戀愛上の衒學者と云はなければならぬ。あらゆる處女崇拜者の何か嚴然と構へてゐるのも或は偶然ではないかも知れない。

 

       又

 

 勿論處女らしさ崇拜は處女崇拜以外のものである。この二つを同義語とするものは恐らく女人の俳優的才能を餘りに輕々に見てゐるものであらう。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年八月号『文藝春秋』巻頭に前の「民衆」(三章)「チエホフの言葉」「服裝」と、後の「禮法」とともに全九章で初出する。三章目に至って初めて、龍之介の龍之介「侏儒の言葉」らしさが出る。因みに現在は、正規の美容整形外科術に処女膜再生手術がある。施術は二十分程度とある。

 

・「衒學者」「げんがくしや(げんがくしゃ)」とは学識があることを誇り(或いは、あるかのように振る舞い)、殊更にそれをひけらかす者。ペダントリー(pedantry)な輩。

・「輕々に」「けいけいに」。副詞。言動が慎重でなく、軽々しいさま。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  服裝

 

       服裝

 

 少くとも女人の服裝は女人自身の一部である。啓吉の誘惑に陷らなかつたのは勿論道念にも依つたのであらう。が、彼を誘惑した女人は啓吉の妻の借着をしてゐる。もし借着をしてゐなかつたとすれば、啓吉もさほど樂々とは誘惑の外に出られなかつたかも知れない。

 註 菊池寛氏の「啓吉の誘惑」を見よ。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年八月号『文藝春秋』巻頭に前の「民衆」(三章)「チエホフの言葉」と、後の「處女崇拜」(三章)「禮法」とともに全九章で初出する。それにしても如何にもな宣伝広告アフォリズムである。これは『文藝春秋』の巻頭言の一節である。『文藝春秋』の刊行者(同社創業と同時に私費で創刊)は芥川龍之介の盟友菊池寛である。これを読んだら、有意な読者は、頗る次元の低い興味から、その菊池の小説を読まずにはいられなくなるという寸法である。以下の私の最初の注も参照のこと。

 

・「啓吉の誘惑に陷らなかつた」『菊池寛氏の「啓吉の誘惑」』この二年前の大正一〇(一九二一)『新潮』に初出した菊池寛の小説。彼は同一の主人公啓吉(筆者自身の分身)を配した小説を多作、「啓吉物」と呼ばれ、まさにこの年大正十三年二月にこの「啓吉の誘惑」も所収する啓吉物の一括単行本「啓吉物語が玄文社よし刊行されている。リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの現物。総て画像で読める。岩波新全集の山田俊治氏の注によれば、『啓吉は、愛読者と称する住込みの女中を浅草オペラに誘い、妻の着物を着せて出掛ける。劇場で彼女に欲望を抱くが、妻の借着に戒められて何事もなく帰宅する。しかし、後で彼女が高等淫売だったことを知り、自分の態度を滑稽に思うとともに、正しいことをしたとも思い直すという内容』とある。かく知ってしまうと、おそよ龍之介に、見よ、と言われても一向見る気の起こらぬ内容である。

・「誘惑の外」「外」は「そと」。「誘惑の外に出」るで、誘惑を受けずに辛くも離れることを指す。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) チエホフの言葉

 

       チエホフの言葉

 

 チエホフはその手記の中に男女の差別を論じてゐる。――「女は年をとると共に、益々女の事に從ふものであり、男は年をとると共に、益々女の事から離れるものである。」

 しかしこのチエホフの言葉は男女とも年をとると共に、おのづから異性との交渉に立ち入らないと云ふのも同じことである。これは三歳の童兒と雖もとうに知つてゐることと云はなければならぬ。のみならず男女の差別よりも寧ろ男女の無差別を示してゐるものと云はなければならぬ。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年八月号『文藝春秋』巻頭に前の「民衆」(三章)と、後の「服裝」「處女崇拜」(三章)「禮法」とともに全九章で初出する。

 

・「チエホフはその手記の中に男女の差別を論じてゐる」出典を明らかに示しているのは岩波新全集の山田俊治氏だけ。アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(Антон Павлович Чехов/ラテン文字表記:Anton Pavlovich Chekhov 一八六〇年~一九〇四年)の『「手帖」(一八九一年一九〇四年)に「男女のちがい」として「女は年をとるにつれて、ますます女の仕事に身を入れる。男は年をとるにつれて、ますます女の仕事から遠ざかる」(池田健太郎訳)とある』と注されておられる。なお、チェーッホフを芥川龍之介は作家活動に専心するようになってから特に偏愛するようになり、彼の後期の幾つかの作品(「葱」・信」・「秋」・庭」など。リンク先は私の電子テクスト。私は特に「庭」を偏愛するが、確かにこれには「桜の園」との類似性が認められるように思う。最初の指摘は藤井淑禎(ひでただ)氏の「作品と資料 芥川龍之介」(一九九四年双文出版刊)である)にもその影響が見られると考えられている。

・「女の事」私はこれを子に対して愛情を注ぎこむことと採っている(私の妻そうであるが、子のない女性には失礼。)「男は年をとると共に、益々女の事から離れるものである」というのが「異性との交渉に立ち入らな」くなるというダイレクトな謂いであることは認めるが、それは必ずしも「男女とも年をとると共に、おのづから異性との交渉に立ち入らないと云ふのも同じことである」とは思わない。さらに言えば「これは三歳の童兒と雖もとうに知つてゐることと」も私は思わない。少なくとも愚昧な私は三歳の時にはそんなことは知らなかったし、私は初老に至っても「異性との交渉に立ち入らな」かったかと問われたなら、私は肯んずることが出来ないことも事実である。寧ろ、男が妻に対しては「年をとると共に」そうした「交渉に立ち入らな」くなる結果として、妻である女が「女の事」=「子に対して愛情を注ぎこむ」ことへ専心するようになると言えるのではないか? と推察する。とすれば、このチェーホフのアフォリズムは「男女の差別よりも寧ろ男女の無差別を示してゐるもの」とはならぬはずである。それはその見かけ上の共通性の中に夫婦間の恐るべき乖離状況があり、その原因がとりもなおさず男のそれにあって、結果が女のそれを惹起させるということになる。さればこそ論理的に「男女の無差別を示してゐる」とは言えないはずである。或いは、私の謂いを男女引っくり返して反論される龍之介弁護派もあるやも知れぬ。では引いておこう。当の「侏儒の言葉」の「S・Mの智慧」には「女。――メリイ・ストオプス夫人によれば女は少くとも二週間に一度、夫に情欲を感ずるほど貞節に出來てゐるものらしい。」とあるよ、と。さてもこれは室生犀星の言、いやさ、マリー・ストープスの謂いだ、と指弾されるなら、あなたは「侏儒の言葉」の「S・Mの智慧」に墨塗りをなさい、と応じておく。どうぞ、お塗りになられるがよかろうぞ。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 民衆

 

       民衆

 

 民衆は穩健なる保守主義者である。制度、思想、藝術、宗教、――何ものも民衆に愛される爲には、前時代の古色を帶びなければならぬ。所謂民衆藝術家の民衆の爲に愛されないのは必ずしも彼等の罪ばかりではない。

 

       又

 

 民衆の愚を發見するのは必ずしも誇るに足ることではない。が、我我自身も亦民衆であることを發見するのは兎も角も誇るに足ることである。

 

       又

 

 古人は民衆を愚にすることを治國の大道に數へてゐた。丁度まだこの上にも愚にすることの出來るやうに。――或は又どうかすれば賢にでもすることの出來るやうに。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年八月号『文藝春秋』巻頭に後の「チエホフの言葉」「服裝」「處女崇拜」(三章)「禮法」とともに全九章で初出する。

 このアフォリズム漫然と読むと、ギクシャクした論理の躓きを感じざるを得ない奇妙な章列に一見、読め、それがある種の生理的な不快感を惹起させるからである。それはまた、自分は「民衆」ではない自覚するような選民的現代人は決して多くはないからである。

 その強烈な不快感は実に、序章で「民衆は穩健なる保守主義者である」と既定しておきながら、残りの二章では「民衆」を「愚」なるものとして「愚」弄しているとしか一見、読めぬからである。

 以下、私なりに順を追って解析してみよう。

 

【第一章】

――命題「民衆は穩健なる保守主義者である」から引き出される属性。

――「民衆」は「民衆」相互の共有的視点からも見た目でも――「愚」――である。

――何故なら、「前時代の古色を帶び」ていることを嗜好する「穩健なる保守主義者」である「民衆」とは、当時の大正デモクラシーの洗礼を受けた「民衆」、モボ・モガといった一見軽薄な同じの流行に乗った「民衆」から見て「愚」とされるからである。

――ところが逆に、新しい思潮を謳歌する集団を見て「大正でも暗し」と揶揄し、奇体な役者めいた風俗を蔑視するところの、「穩健なる保守主義者」である大多数の「民衆」から見れば、彼等こそが真の「愚」と映るであるからである。

【第二章】

――「民衆藝術家」(第一章からの敷衍)或いは、そうではない「藝術家」(この「我々」とは広く作家・芸術家・思想家を指すと考え得る。それは不倶戴天の仇敵的対峙者であっても、である。「我我」の一人である芥川龍之介は自身を「民衆藝術家」として意識していないはずであるから)と対峙させた場合でも「民衆」、見かけ上――「愚」としか当然の如く、映らぬ(「民衆の愚を發見するのは必ずしも誇るに足ることではない」という命題から)。

――しかし同時に「我我」自称「藝術家」(前で述べた広義の意)にとって「我我自身も亦民衆であることを發見するのは兎も角も誇るに足ることである」ことは疑いない。

――則ち、「大衆」の「藝術家」と自認する者も、そうでない「藝術家」(例えば芥川龍之介のような「藝術」至上主義的立場をどこかで支持するような「藝術家」と例示してもよい)も、その本質に於いて「民衆」の一人である。

【第三章】

――古来の賢哲は、「民衆」を「愚」なるものし続けることこそが「治國の大道」(国家安泰の王道)の大事な要素の一つに数えて「ゐた」(いや、正しくは「いる」である。今の国家の権力者も基本的な精神に於いてそれは変わらない、と芥川龍之介は謂いたいのである。この肝心の最後の章がでなければ単なる古い哲学史に終わってしまうからである。さればこそ以下の倒置表現が読む者の心を痛く突き抉るのである)。

――その「民衆」を社会的に対象化物質化し、統御し、支配し、不要化廃用化すれば処理廃棄することを企むところの「国家権力」や「大衆」を扇動する「思想集団」の精神的な高みの立ち位置から俯瞰してみても、「大衆」は見かけ上、やはり――「愚」――である。

――古来の賢哲も、現代の「国家権力」も「大衆」を扇動する「思想集団」も、十全に「愚」と見える「民衆」をダメ押しでさらにさらに「愚」にすることが出来ると確信し、そうすることを望んででもいるかのように。

――或いはまた、どうかすると、今度は本来、救いがたい「愚」としか見做していないはずの「民衆」を『俺たちは「賢」いんだぞッツ!』と錯覚させることさえも出来ると確信し、そうすることを望んででもいるかのように。

 

 まさにこの論法の帰結するところ、結局は

 

――「民衆」というものは、その各個一個人の「民」という存在は実相に於いて「愚」ではないとしても、それが集合した「民衆」は必ず「衆愚」に他ならぬ。

 

といった、

 

「民衆に」とって絶望的な命題に帰結する「かのように」思わせる荒野に、これらのアフォリズムが多くの読者を導く「かのように」感じさせてしまう――それがこの――「民衆」三章のアフォリズムの「見かけ上の生理的不快感」――の正体

 

である、と私は思う。

 何故に私は「見かけ上の生理的不快感」と言うか?

それは、この「民衆」三章のアフォリズムは、芥川龍之介の素(す)の思索上の感懐をそのままただ投影したものではないと私は思うからである。

 この一読、如何にもバランスの不安定な、逆説と反則に満ちたように見えるこれら、

 

――「侏儒の言葉」の「民衆」(三章)は――実は芥川龍之介編になる「大正文学史」である。

 

 これは実に、当時の大正デモクラシーに始まり、「民衆文学」「大正労働文学」から、遂に革命のための道具として文学を変容させることとなる「プロレタリア文学運動」へと展開していく、大きな一つの文学を取り込んだ「民衆」を旗印に掲げた文化文芸思潮の潮流が、まず第一に龍之介の解析対象となっている。

 そうして第二章では、それに加えて、そうした流れに違和感を覚え、ある距離を置いて冷たい視線で眺めていた「新浪漫派」の流れを汲む「耽美派」「唯美主義」、及び、その辺りから社会主義思想とは異なる形で芸術表現を試みようとした「新感覚派」、或いはまた、既にして世界に例を見ない「私小説」という奇体な奈落への道を進みつつあった「自然主義」(西欧の「自然主義」とは似ても似つかぬ本邦独自に奇形化してしまったそれ)、宗教的な人道主義やら博愛主義やらに基づくお目出度い「白樺派」(批判的なのはどうにも仕方がない。私は「白バカ派」が総じて嫌いだから)が、龍之介の分析の視野には入ってくる。無論、自分の姿(後に「新現実主義」などと言う訳のわからぬグループに纏められる)もそこには含まれている。

 最後の第三章では、ここまで当の「民衆」を導かんとするインテリゲンツアの影と共時的に、そうした文学・芸術などというものを全的に認めない連中が登場してくる。そうして彼らは、彼らにとってクソにしか見えぬ芸術が、あろうことか、脅威を与え、これはどうにか懲らしめてやらんといかん思い始めた軍靴の音を立てている日本帝国という「国家権力」が、やおら、登場するという仕掛けとなっているのである。

 

 但し、ある意味、ぶっ飛んでいた大正の文学思潮を「民衆」と言う観点から、たった二百数十字で語り切るというのは暴虎馮河であり、この確信犯で取り組んだアンビバレントな三連章は「侏儒の言葉」の中では必ずしも成功しているとは言い難い。

 さても以上の私の解は、或いはとんでない誤認誤読かも知れぬ。大方の御叱正を俟つものではある。

 なお、読者諸君の中には私の「大正文学」認識の内容を疑う者もあろう。されば、私が十八の時、大学生になったその四月、立ち食い蕎麦で飢えを凌いでいた私が、國學院大學の生協の職員に「近代文学やるなら、これでしょ!」と半ば騙されて買ったものの、今日まで一度として役に立ったという記憶がない、岩波小事典の片岡良一編の「日本文学―近代」(一九五八年刊)の「大正文学」の項を引いておく。片岡氏は一九五七年に逝去しているのでパブリック・ドメインである(今後、電子化でせいぜい使ってやろうと思う)。なお、アラビア数字を漢数字に、ピリオド・コンマを句読点に代え、注記号は省略した。また、私は以上の部分は私の乏しい知識でオリジナルに書いたもので、以下を参考にはしていないことを断わっておく。

   《引用開始》

 大正文学 大正期の文学は新浪漫派の支配にはじまる。新しい文学を確立した自然主義は、それの意図した人間解放の道の梗塞多さにたじろいで、明治四十三、四年(一九一〇、一一)頃から分化期的な低迷に入ったし、四十三年に出発した白樺派の主我的成長主義は容易に一般化しえない社会的制約があったため、その制約や梗塞への抵抗を姿勢して耽美的な享楽主義などに傾いていた新浪漫派が、文芸界の主潮流とならずにはいなかったのである。が、それは明治末年から大正二、三年までのことで、大正三、四年頃にな ると、第一次大戦下の気流に即して著しく人道主義化した白樺派の文学が、唯美派系統の情話文学や遊蕩文学を圧倒して第一線に出た。と同時に、そこにも見られた文学における社会的関心の濃化が並行的に主知的な探求精神の強化を生んで、自然主義の伝統に数年来の低迷を越えた客観主義的成熟をもたらす一方、民衆芸術論書やデモクラシズムの擡頭を生み、それが従来の個人主義伝統と対立することになったところに大きな転換期の到来を思わせるものがあった。が、その転換はさすがにそう急速には行われず、民衆芸術やその延長線上にあらわれた無産者文学にだんだんと侵蝕されながらも、白樺派の主観的飛躍を現実にひきもどし、唯美派風の享楽主義や芸術主義をも適度にとかしこんで、自然主義以来見失われていた個人的な生の調和を現実に即して見いだそうとする新現実主義の風潮が、一般的には支配的な位置をしめることになった。しかもその道が結局は狭隘化された心境小説書や私小説を結論とするほかないものであったため、伝統の内部から新感覚派による反逆運動が生れた(大十三)年頃には、無産者文学もまたプロレタリア文学にまで成長し、そこに生れたはげしい時代的な蕩揺が、芥川竜之介の自殺(昭二)という終幕をもたらしたのである.唯美派の支配から或る意味でそれの崩壊とも見られるこの芥川の自殺までを大正時代と見ることもできるし、新感覚派結成の大正一三年(一九二四)以後を昭和文学として考える人も多い。自然主義の客観主義的成熟や唯美派系統の情話文学や遊蕩文学への転落までを明治文学の直接延長線上のものと見、時期的にはそれと重なり合った白樺派の進出から新現実主義にかけてを大正文学と規定すれば最もすっきりする。そう見れば、とにもかくにも解放された個人が現実に即して調和的な生の道を求めたのが大正文学であり、それが結局は狭いところに落ちこんだにしても、そこに市民文学の日本的達成が見られることになる。転換期的揺蕩の一翼として生れた宗教文学書が、そういう歴史にそって相当の勢力を持ったことや、それだけその奥には怖れや虚無感がただよっていたことも見落してはならない。

   《引用終了》

 

・「民衆藝術家」小学館「大辞泉」の「民衆芸術」には、『民衆が作り出す、また、民衆のための芸術。日本では大正中期、大杉栄らによって論じられ、詩壇では白鳥省吾らの民衆詩派が台頭、プロレタリア文学の先駆となった』と出、平凡社「世界大百科事典」の「民衆芸術論」には(コンマを読点に代えた)、大正期の文壇に於いて特に大正五(一九一六)年から『数年にわたって交わされた〈民衆と芸術〉のテーマをめぐる論議。大正デモクラシーの思潮の中から、芸術の民衆化、あるいは民衆の芸術参加という課題が浮かび、〈民衆芸術とは一般平民のための芸術〉と規定した本間久雄の論文』「民衆芸術の意義及び価値」(大正五年八月『早稲田文学』掲載)『が論議の発端になった。安成貞雄、加藤一夫、大杉栄、平林初之輔、生田長江などが発言したが、本間が民衆を教化する芸術を論じたのに対し、急進的な大杉は〈民衆によって民衆の為に造られ而して民衆の所有する芸術〉と規定して、労働階級の政治的自立と芸術的自立の同時達成を主張し、両者の論旨が有効にかみあうまでにいたらず、論議は労働文学や民衆詩などと一つになって、大正末年のプロレタリア文学をめぐる大渦の中に吸収されていった』と出る。岩波新全集の山田俊治氏の注ではこれに、『支配階級の専有物でない、民衆のための芸術を目的として実践する芸術家。大正期、ロマン・ロランらの影響下に、大杉栄などが提唱し、一九一七―二〇年にかけて活発な論議を呼び、プロレタリア文学理論の先駆とな』ったとする。

・「古人は民衆を愚にすることを治國の大道に數へてゐた」「論語」「泰伯第八」の第九章目に、「論語」の中ではあまり人気のない一節として、

 

子曰、民可使由之、不可使知之。(子曰く、「民は之れに由(よ)らしむべし。之れを知らしむべからず。」と。)

 

がある。この一章には幾つかの解釈があるようだが、文化大革命当時、この一節が「批林批孔」で孔子が愚民政治を主張した根拠とされた通り、素直に読むなら、新潮文庫の注の神田由美子氏の訳の如く、

『人民は道理に暗いものだから、いろいろ指導してただ従わせること。その原理を理解させようとしても無駄である』。

となろう。参照したネットのこの箇所の解釈についてのQ&Aサイトの親切な回答には、他に、

「能力がある人物はそのまま即座に起用し、能力がない者にはしっかりと教育を施すがよい。」(回答者は教育者孔子の言としては、これが正しいとされておられる)

「能力がある人物は彼らの自由にやらせるのがよい。能力がないなら、指導してやるのがよい。」

「民は自由にさせればよいか? いいや、教えなければならない!」

といったような訳(私が少しいじくってある)が示されてある。龍之介がこれを念頭に置いたかどうかは確約は出来ぬが(神田氏注以外にも筑摩全集類聚が「論語」のこの部分を注に載せている)、まずこれを指しているとみて間違いなかろう。そうして、龍之介のこの箇所の解釈は明らかに神田氏の訳のように、民衆を「愚」とする(『その原理を理解させようとしても無駄である』)ものである。]

2016/05/26

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  神(二章)

 

       神

 

 あらゆる神の屬性中、最も神の爲に同情するのは神には自殺の出來ないことである。

 

       又

 

 我我は神を罵殺する無數の理由を發見してゐる。が、不幸にも日本人は罵殺するのに價ひするほど、全能の神を信じてゐない。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年七月号『文藝春秋』巻頭に前の「社交」「瑣事」とともに全四章で初出する。この最初の章は、私がやはり偏愛する一文アフォリズムであるが、これは芥川龍之介の遺稿「或阿呆の一生」(自死から凡そ二ヶ月後の昭和二(一九二七)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表。リンク先は私の古い電子テクスト)の第四十二章「神々の笑ひ聲」という題のアフォリズムに、龍之介自身が引く形で出てくる。

   *

 

     四十二 神々の笑ひ聲

 

 三十五歳の彼は春の日の當つた松林の中を歩いてゐた。二三年前に彼自身の書いた「神々は不幸にも我々のやうに自殺出來ない」と云ふ言葉を思ひ出しながら。………

 

   *

「三十五歳」とあるが、龍之介は明治二五(一八九二)年三月一日生まれであり、自死は昭和二(一九二七)年七月二十四日未明であるから、当時一般であった数えとすれば、「二三年前に彼自身の書いた」とあり(この章の発表は大正一三(一九二四)年七月)、これは自死の年の春ではなく、前年大正一五(一九二六)年の春と考えられる。同年四月二十二日に鵠沼の東屋(あずまや)旅館に妻文(満二十五歳)と三男也寸志(生後九ヶ月)と養生に行っている(結局、翌年一月頃まで主にここ鵠沼で過ごしている)。「松林の中を歩いてゐた」というロケーションも鵠沼に合致する(何故、こんなことを考証するかというと、実は「或阿呆の一生」のアフォリズムの配列は龍之介自身による極めて複雑で恣意的な配列操作がなされてあるからである。「侏儒の言葉」が謎なら、「或阿呆の一生」はまさに出口を発見することが困難な迷宮(ラビリンス)と呼んでもよいシロモノなのである(幾つか部分的にはブログで考証を行っているが、何時か「或阿呆の一生」にもマニアックな全注釈で挑戦してみようとは思っている)。

 

・「罵殺」「ばさつ」は「罵倒」と同義。対象や人物を激しい言葉を以って罵り、否定し去ろうとすること。物理的に「殺す」ことではなく、まさに「罵(ののし)り倒す」のである。因みに「罵」は漢和辞典では部首は「馬」の部ではなく「罒」の部である(私は大学時分、とある国語学の教授が「罒」と板書して『この部首を「よこめ」などと気持ちの悪い読み方をする馬鹿がいる』と言ったので、「あみめがしら」が正しいと五十九になった今の今まで思っていたのだが、大修館書店の「廣漢和辭典」を今、試みに引いてみたら、「罒部」のところにははっきりと『よこめ』と書いてあったわい!)。

・「全能の神」細かいことを言うと、こう言った場合、その神はギリシャ・ローマ神話のゼウスのような神及び一神教のキリスト教の神に限定される。本邦の神道の神は全知でも全能でもないし、天孫族どもに不当に零落させられた神々は殲滅さえ受けているから自殺も可能である(私には自死したらしく感じられる神もいないではない)。仏教ではそもそも仏は神ではないし、天部の神々は全知全能では全くないわけで、さればここで龍之介が言っている神はキリスト教のヤハウェと考えるのがまず自然ではある。しかしそうすると、前段の「あらゆる神の屬性中」が齟齬を生じてしょぼくさくなって如何にもつまらなくなってしまうので、ここはキリスト教に限定せぬが身のためではある。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 瑣事

 

       瑣事

 

 人生を幸福にする爲には、日常の瑣事を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戰ぎ、群雀の聲、行人の顏、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。

 人生を幸福にする爲には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の爲に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破つたであらう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を與へたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享樂の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に樂しむ爲には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。

 人生を幸福にする爲には、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戰ぎ、群雀の聲、行人の顏、――あらゆる日常の瑣事の中に墮地獄の苦痛を感じなければならぬ。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二三)年七月号『文藝春秋』巻頭に前の「社交」と後の「神」(二章)とともに全四章で初出する。リフレインと「ずらし」の修辞技法を用い、ごく限られた語彙で組み立てられたアフォリズムであるが、完成度は頗る高い。故に難解である。芥川龍之介の言う「幸福」は、べろりと裏返して見れば「絶対の不幸」でもある。龍之介が好んだ言葉、「煩悩則菩提」が、まさにこの「長歌」の「短歌」とも言えるかも知れぬ。

 

・「瑣事」「さじ」。小さな事。つまらぬ事。「瑣」は小さい・細かい・取るに足りないの意。「些事」とも書ける。

・「戰ぎ」「そよぎ」。

・「群雀」「むらすずめ」。

・「行人」「かうじん(こうじん)」。道を歩いて行く人或いは旅人の意であるが、ここは擦れ違う見知らぬ他人の謂いと採るのがよい。

・「甘露味」「かんろみ」。「甘露」には多様な意があるが、ここは古代インドの聖なる甘い飲物で、苦悩を除き、長寿を保って、死者をも復活させるとされたものを指し、後には仏法の教えに喩えられたそれに基づき、想像だにし得なかった意外な感動・感懐の味わいを指すと考える。

・「庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破つたであらう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を與へたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享樂の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である」「愁」は「うれひ(うれい)」。無論、松尾芭蕉の人口に膾炙した「古池や蛙(かはづ)飛びこむ水の音」を指すが、この句は貞享三(一六八六)年春、芭蕉庵で催した句会で詠んだもので、それまで、歌学にあって専ら鳴くことをのみ当然の風趣としてきた平板な「蛙」という材料を美事に跳ね飛ばさせた上、その跳躍の瞬時の「動」から即座にずらして、その直後の池の絶対の「静」を引き出すという、新鮮な詩情を創出させている。これはまさに、全くそれまでの和歌や俳諧連歌に存在しなかった芸術性の高みをシンボライズする句であり、「蕉風」の象徴的句として俳句史に於いては捉えられている。それを踏まえながら、芭蕉がこの句に象徴されるところの新しい詩を生み出すことで、マニエリスムに陥っていた退屈な詩歌の「百年の愁」いを「破つた」のではあるが、しかしそれは同時に、孤独な作業にして、答えの出ることのない芸術探究という「百年の愁」いを現出させてしまったのだとも言い得る、日常の中にこそ波状的に襲いきたる「墮地獄」(だじごく)を味わう芭蕉の孤独はこの句から始まったのだ、ということである。ここで龍之介は孤高な芭蕉に秘かに自分自身を擬えていると言ってよい。でなければ、こんな逆説的感懐は脳裏に浮かびはしないからである。そうした芥川龍之介の共時的芭蕉観は「侏儒の言葉」の芭蕉限定アフォリズム集とも言うべき「芭蕉雜記」(大正十二(一九二三)年大正十三年や「續芭蕉雜記」(昭和二(一九二七年)に示されてある(リンク先は私の電子テクスト)。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  社交

 

       社交

 

 あらゆる社交はおのづから虛僞を必要とするものである。もし寸毫の虛僞をも加へず、我我の友人知己に對する我我の本心を吐露するとすれば、古への管鮑の交りと雖も破綻を生ぜずにはゐなかつたであらう。管鮑の交りは少時問はず、我我は皆多少にもせよ、我我の親密なる友人知己を憎惡し或は輕蔑してゐる。が、憎惡も利害の前には鋭鋒を收めるのに相違ない。且又輕蔑は多々益々恬然と虛僞を吐かせるものである。この故に我我の友人知己と最も親密に交る爲めには、互に利害と輕蔑とを最も完全に具へなければならぬ。これは勿論何びとにも甚だ困難なる條件である。さもなければ我我はとうの昔に禮讓に富んだ紳士になり、世界も亦とうの昔に黃金時代の平和を現出したであらう。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年七月号『文藝春秋』巻頭に後の「瑣事」「神」(二章)とともに全四章で初出する。前号最後の「S・Mの智慧」は特異点で「これは友人S・Mのわたしに話した言葉」として載せられたものであったが、それに続くこれがかくなる内容を持ち、しかも死後の「侏儒の言葉」では並んでそれらが読まれるのであるが、当の龍之介の数少ないまことの「知己」の一人であった犀星はそれをどう感じたであろう。微苦笑して淋しそうに「芥川らしい」と呟いたかも知れないなどと思う向きもあるかも知れぬが、私は寧ろ、この『文藝春秋』七月号を床に叩きつける犀星、単行本「侏儒の言葉」を叩きつけようと振り上げながら、しかし、とんとんとその表紙を叩いて、またつまびらく犀星を、私は思う。それは萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」(初出は雑誌『改造』昭和二(一九二七)年九月号)の第十三章の直情径行の純な人としての犀星を思い出すからである(リンク先は私の古い電子テクスト。ここでの引用では底本が「最後の別れ」に「○」の傍点を附すのを下線に代えてある)。

   *

         13

 

 その夜さらに、室生犀星君と連れだち、三人で田端の料理屋で鰻を食べた。その時芥川君が言つた。

「室生君と僕の關係より、萩原君と僕のとの友誼の方が、遙かにずつと性格的に親しいのだ。」

 この芥川君の言は、いくらか犀星の感情を害したらしい。歸途に別れる時、室生は例のずばずばした調子で、私に向かつて次のやうな皮肉を言つた。

「君のやうに、二人の友人に兩天かけて訪問する奴は、僕は大嫌ひぢや。」

 その時芥川君の顏には、ある悲しげなものがちらと浮んだ。それでも彼は沈默し、無言の中に傘をさしかけて、夜の雨中を田端の停車場まで送つてくれた。ふり返つて背後をみると、彼は悄然と坂の上に一人で立つてゐる。自分は理由なく寂しくなり、雨の中で手を振つて彼に謝した。――そして實に、これが最後の別れであつたのである。

   *

因みに私には、この時の田端の坂の上の龍之介の姿を確かに見たことがあるというデジャ・ヴュがあるほどに、この場面は忘れ難く切なく哀しいシークエンスなのである。

 

・「管鮑の交り」「くわんぱうのまじはり(かんぽうのまじわり)」と読む。極めて親密にして無二の心からの交際、互いを理解し合って利害に左右されることのない厚い友情の謂い。春秋時代の管仲と鮑叔牙(ほうしゅくが)が変わらぬ友情を持ち続けたという「列子」力命篇や「史記」管晏(かんあん)列伝の故事に基づく。「少時」(「しばらく」と訓ずる)問はず」と龍之介も言ってから、敢えて原話を引くのは厭味であろうから控える。因みに、言い添えておくなら、先に掲げた萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」の第三章の前半で実に萩原朔太郎は、

   *

 室生犀星君は、最近における故人の最も親しい友であつた。室生君と芥川君の友情は、實に孔子の所謂「君子の交り」に類するもので、互に對手の人格を崇敬し、恭謙と儀禮と、徳の賞讚とを以て結びついてた。けだし室生君の目からみれば、禮節身にそなはり、教養と學識に富む文明紳士の芥川君は、正に人徳の至上觀念を現はす英雄であつたらうし、逆に芥川君から見れば、本性粗野にして禮にならはず、直情直行の自然見たる室生君が、驚嘆すべき英雄として映つたのである。即ちこの二人の友情は、所謂「反性格」によつて結ばれた代表的の例である。

   *

とさえ述べているのである。朔太郎のこの讃言は恰も、前号末の「S・Mの智慧」とこの「社交」の二章を踏まえて感懐を述べているような錯覚に私は陥る(かも知れぬし、偶然かも知れぬ。ともかくもこの二章を続けて読める単行本「侏儒の言葉」は未だ刊行されていない(同年十二月刊)事実は述べておかねばならぬ)。

・「多々益々」「たた」と「ますます」で切って読むべきところである。

・「恬然」既注であるが、再掲する。「てんぜん」。物事に拘(こだわ)らず平然としているさま。「恬」自体が「気にかけないで平然としているさま」を意味する漢語である。

・「禮讓」「れいじやう(れいじょう)」。相手に対して礼儀礼節を尽くし、謙虚な態度を示すこと。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) S・Mの智慧

 

       S・Mの智慧

 

 これは友人S・Mのわたしに話した言葉である。

 辨證法の功績。――所詮何ものも莫迦げてゐると云ふ結論に到達せしめたこと。

 少女。――どこまで行つても淸冽な淺瀨。

 早敎育。――ふむ、それも結構だ。まだ幼稚園にゐるうちに智慧の悲しみを知ることには責任を持つことにも當らないからね。

 追憶。――地平線の遠い風景畫。ちやんと仕上げもかゝつてゐる。

 女。――メリイ・ストオプス夫人によれば女は少くとも二週間に一度、夫に情欲を感ずるほど貞節に出來てゐるものらしい。

 年少時代。――年少時代の憂欝は全宇宙に對する驕慢である。

 艱難汝を玉にす。――艱難汝を玉にするとすれば、日常生活に、思慮深い男は到底玉になれない筈である。

 我等如何に生くべき乎。――未知の世界を少し殘して置くこと。 

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』(前号五月号は休刊)巻頭に前の「二宮尊德」「奴隷」(二章)「悲劇」「强弱」とともに全六章で初出する。標題のイニシャル「S・M」の「友人」とは、芥川龍之介の数少ない真の理解者であった、詩人で小説家の室生犀星(むろうさいせい 明治二二(一八八九)年~昭和三七(一九六二)年:本名は室生照道(てるみち))のことである(龍之介より三歳年上)。本章はその言い回しなどから見ても、概ね犀星の直話と考えてよく、とすれば「侏儒の言葉」の中では他者由来のアフォリズムとして特異例ということになるが、自ずと龍之介の嗜好好みの条々であり、幾分か、龍之介の筆も加えられていると考えてよかろう。現在まで私の読んだ犀星の文章にこれを解説したものには出逢っていない。あれば、御教授戴けるよう、よろしくお願い申し上げる。私の貧しい注を少しでも充実させるために、である。

・「辨證法」ドイツの哲学者ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel 一七七〇年~一八三一年)のそれ(ドイツ語:Dialektik:音写「ディアレクティク」。 語源はギリシア語の「対話」(ラテン文字転写:dialektikē )と採る。グーグルの「弁証法」の検索で頭に出る解説が簡潔で分かり易いので引く。『物の考え方の一つの型。形式論理学が、「AはAである」という同一律を基本に置き、「AでありかつAでない」という矛盾が起こればそれは偽だとするのに対し、矛盾を偽だとは決めつけず、物の対立・矛盾を通して、その統一により一層高い境地に進むという、運動・発展の姿において考える見方。図式的に表せば、定立(「正」「自」とも言う)Aに対し』(「テーゼ」(ドイツ語(以下、同):These)、『その(自己)否定たる反立(「反」「アンチテーゼ」』(Antithese)『とも言う)非Aが起こり、この否定・矛盾を通して更に高い立場たる総合(「合」「ジンテーゼ」』(Synthese)『とも言う)に移る。この総合作用を「アウフヘーベン」』(aufheben)『(「止揚」「揚棄」と訳す)と言う』。
 
・「淸冽」「せいれつ」水が清らかで冷たいさま。

・「メリイ・ストオプス夫人」スコットランドの植物学者・作家・女性運動家で、特に産児制限運動家として知られたマリー・ストープス(Marie Carmichael Stopes 一八八〇年~一九五八年)。ウィキの「マリー・ストープス」から引く。『エディンバラに生まれた。父親は人類学者のヘンリー・ストープスで、母親のシャーロット・カーマイケル=ストープスは有名なシェークスピアの専門家で、スコットランドで最初に大学教育を受けた女性である。ロンドンで育ち』、十二歳まで『母親から教育を受けた。エディンバラのSt. George Schoolで学んだ後、女子校のノース・ロンドン・コレジエイト校を卒業した。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで、植物学、地質学を学ぶことを許された。古生代の地層から新たに発見された植物化石に強い関心をもった最初の女性となり、その化石の研究は高い評価を得た』。『植物学と地質学、地理学の学位を得た後、ミュンヘンの植物学研究所に進み』、一九〇四年に『自然科学の博士号を取得した。博士論文のテーマは、ソテツやシダの種子の構造に関するもので、絶滅したシダ種子類(Pteridospermae)の確立に重要な役割を果たした』。一九〇四年(明治三十七年)に『マンチェスター大学の最初の女性科学研究者とな』り、一九〇七年(明治四十年/マリー二十七歳)で『ミュンヘンで知り合った、日本人植物学者、藤井健次郎について、来日』、二年の間、日本で共同研究を行ない、『中生代後期の地層からの新種の植物化石を藤井と記載した』。一九〇八年に『イギリスに戻り、再びマンチェスター大学で働いた。カナダの地質調査や、ランカスターの植物化石の有名な産地のFern Ledgesなどで仕事をした』。一九一三年から『ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの古植物学の講師を』七年間務め、一九〇九年にはロンドン・リンネ協会の会員となっている。『産児制限運動や性教育の分野で、家族計画に関する著作』「結婚で結ばれた愛」( Married Love 一九一八年)や「賢明な親」( Wise Parenthood 一九一八年)があり、十三の言語に翻訳され、数百万部を売り上げるベストセラーとなった。ストープスの『来日費用は王立協会から北海道での白亜紀被子植物探索調査の名目で支給された。東京大学で講義をし、小石川植物園に化石研究の施設を整える一方、北海道で単身、化石採集を行った。明治時代の北海道を若い白人女性が化石採集するのは、センセーショナルで、新聞に取り上げられ、警官の護衛がついたとされる。滞日中の記録は、『日本日記』( A Journal From Japan )に残され、北海道以外に房総半島の旅行の記録や日本の風俗などが記録されている。藤井と共著で「白亜紀植物の構造と類縁に関する研究」を発表した。この研究には、白亜紀の単子葉類の子房の化石、クレトオパリウム(Cretovarium)が記載されている』。『滞日中のエピソードとしては、大使館の夜会にでるのにピンクのドレスで自転車で出かけたり、日本科学界の重鎮、桜井錠二男爵に可愛がられ、謡いの名手だった男爵から能の手ほどきを受け、能の公演にも招待された。帰国後王立協会で能の名作「隅田川」を朗読し』てもおり、また「日本の古典劇・能」( Plays of Old Japan (The NO)  一九一二年)をロンドンで出版してもいる、とある。来日当時は犀星十八、龍之介十五歳であった(因みに、この年、龍之介は当時在学中の東京府立第三中学校(源氏の都立両国高校)の同級生で親友の山本喜誉司(きよし)の姪であった塚本文(ふみ)七歳と初めて逢っている。後の芥川龍之介夫人である(結婚は大正七(一九一八)年二月二日))。なお、この「女は少くとも二週間に一度、夫に情欲を感ずる」に相当する部分が彼女のどの著作のどこの書かれているのかは私は知らない。諸注も掲げていない。彼女の研究者の御教授を切に乞うものである。

・「驕慢」「けうまん(きょうまん)」とは、驕(おご)り昂(たか)ぶって相手を侮(あなど)り、勝手気儘に振る舞うこと。
 
・「艱難汝を玉にす」「かんなんなんぢ(なんじ)をたまにす」と読む。苦労や困難を耐え乗り越えてこそ立派な人間と成るの意。筑摩全集類聚版脚注では、『西洋の諺の意訳。
Adversity makes men wise. 』とある。「adversity」は逆境・不運・災難・困難・困窮であるから、訳すなら「逆境は人を賢明にする。」である。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  强弱

 

       强弱 

 

 强者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れるものである。一擊に敵を打ち倒すことには何の痛痒も感じない代りに、知らず識らず友人を傷けることには兒女に似た恐怖を感ずるものである。

 弱者とは友人を恐れぬ代りに、敵を恐れるものである。この故に又至る處に架空の敵ばかり發見するものである。 

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』(前号五月号は休刊)巻頭に前の「二宮尊德」「奴隷」(二章)「悲劇」及び後の「S・Mの智慧」の全六章で初出する。

・「痛痒」「「つうやう(つうよう)」。痛みと痒(かゆ)み。

・「弱者とは友人を恐れぬ代りに、敵を恐れるものである。この故に又至る處に架空の敵ばかり發見するものである。」我々はこのアフォリズムを読んだ際、哀しいことに、それを前の段落にフィード・バックさせない点に於いて、無意識のうちに自身を「弱者」と認めてしまっていると言える。しかし翻って、却ってこの龍之介マジックに騙されない者というのは、前段落に「强者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れるものである。一擊に敵を打ち倒すことには何の痛痒も感じない代りに、知らず識らず友人を傷つけることには兒女に似た恐怖を感ずるものである。この故に又至る處に架空の友ばかり發見するものである。」という附加文を見出して慄然とするであろう。自らを「强者」とする龍之介に反駁する者は、実は「架空の友」しか自分の周囲にはいないという、普段からどこかで感じているところの厳然たる事実を目の当たりにしなければならなくなり、それは大多数の無意識に「弱者」として自己を認知する大多数の読者以上に、絶望的な曠野が眼前に広がることとなるからである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  悲劇

 

       悲劇

 

 悲劇とはみづから羞ずる所業を敢てしなければならぬことである。この故に萬人に共通する悲劇は排泄作用を行ふことである。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』(前号五月号は休刊)巻頭に前の「二宮尊德」「奴隷」(二章)及び後の「強弱」「S・Mの智慧」の全六章で初出する。

 

・「萬人に共通する悲劇は排泄作用を行ふことである」このアフォリズムは、その眇め的言い回しの面白さにあるのでは――ない。その勘所は、芥川龍之介が「萬人に共通する悲劇」と限定するところにこそ――ある。即ち、「悲劇とはみづから羞ずる所業を敢てしなければならぬこと」と定義出来る。しかしということは、それ「は排泄作用を行ふ」という一点に於いてのみ、「萬人に共通する悲劇」ということになるのであり、それ以外に「萬人に共通する悲劇」など――ない、という命題こそが真理であると龍之介は謂うのである。私はこの短律のアフォリズムを月並俳句と同等にしか読み込んでいない読者が、殊の外、多いように思うのである。いや、かく今謂う私自身にしてからが、教師時代にこの一節をそうしたのっぴきならない言説(ディスクール)として生徒に紹介していたかと逆に問われたなら、黙して俯かざるを得ないのである。

 龍之介は晩年(と言ってもこの二年後)、激しい下痢(及び嘔吐・便秘)と痔に悩まされることとなる。もともとの胃弱に加えて、睡眠薬を始めとする多量の薬剤を服用していた結果と見てよいが、書簡類を読むと、それは悲愴を極めるものである(下線やぶちゃん)。

「わたくしはけふの講演會へ出るつもりでゐましたが、腹を壞してゐる爲に出られません。」「腹に力のない時には出來ないのです。甚だ尾籠なお話ですが、第一下痢をする時には何だか鮫の卵か何かを生み落してゐるやうに感ずるのです。それだけでもがつかりします。おまけに胃袋まで鯨のやうに時々潮を吹き出すのです」(大正一五(一九二六)年六月二十二日・鵠沼東屋(あづまや)発信・鈴木了享宛・岩波旧全集書簡番号一四八九)

「君がかへつた翌日から又腹を下し、少なからず難澁した」「おまけに一人になつて」「今にも死にさうな氣がした」「小康を得たから室生を訪問したら、忽ち又冷えたと見えてけふは下痢と軟便との中間位になつてしまつた」「下痢ほど身心とも力のぬけるものはない」「字までひよろひよろしてゐるのはあしからず」(同年六月二十九日・田端発信・佐佐木茂索宛・岩波旧全集書簡番号一四九〇)

けふも亦屁をしたら、便が出てしまつて、氣を腐らせてゐる」(同年九月二十二日・鵠沼発信・佐佐木茂索宛・岩波旧全集書簡番号一五一八)

痔猛烈に再發、昨夜呻吟して眠られず」(同年十二月十二日・鵠沼発信・佐佐木茂索宛・岩波旧全集書簡番号一五四〇)

「鴉片丸[やぶちゃん注:睡眠薬。]乏しくなり心細く候間、もう二週間分ほど」「お送り下さるまじく候や。右願上げ候。」「一昨日は浣腸して便をとりたる爲、痔痛みてたまらず、眠り藥を三包のみたれど、眠ることも出來かね、うんうん云ひて天明に及び候」(同年十二月十三日・鵠沼発信・齋藤茂吉宛・岩波旧全集書簡番号一五四一)

 いや――そもそもがこの私(藪野直史)にとって、このアフォリズムは洒落にならないのである。

 私は下痢型のIBS(Irritable Bowel Syndrome:過敏性腸症候群)で(診断確定は二〇一〇年五十二の時)、小学校の時には朝礼で三度も糞を洩らした。どこかへ行くことになると、忽ち腹が下って何度も便所に行かねばならなかった。私が実は旅が嫌いなのは、いつ何時、腹が下るか予測出来ないからである。どこへ行ってもまずトイレはどこかを無意識に捜している。それでこの年まで何度死ぬほど恥ずかしい気分を味わったか知れぬ。そういう意味では排泄を自己抑制出来ない慙愧の念は「生きることの恥」の実感として確かに、ある。私のそれは常に下痢の急降下の波状爆撃に拠るのであるが、しかしその逆も真ではあろう。私は一度、とある法医学書の中に、強烈な便秘の末、腸閉塞で死んだ十代と思しい娘の写真附検視報告書を読んだことがある。なんとかそれを身体から掘りだそうとしていた末期の硬直した彼女の手と指の形と、剖検して出て来た石のようになった巨大な腸の形の塊りのを見た時、私は、何か言い知れぬ悲しみを感じた。排泄と恥と生及び死の宿命的関係性を、私はその時、強く感じたように思う。

 因みに、私の大学四年次の教育心理学特講での論文は、フロイトの精神分析を応用した「学校現場に於ける排泄タブーの研究」というタイトルだった。私の小中学生時代、男子は学校では大便は出来なかった。大に入るだけで軽蔑され、揶揄された。その時からIBSであったろう私には、あの――「穢れ」が「大便」の「排泄」にのみ「点」となって恐るべき収束を成すところの「禁忌」――こそ、私には、激しくおぞましい「排泄」の「悲劇」の記憶、トラウマに他ならぬのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 奴隷(二章)

 

       奴隷

 

 奴隷廢止と云ふことは唯奴隷たる自意識を廢止すると云ふことである。我我の社會は奴隷なしには一日も安全を保し難いらしい。現にあのプラトオンの共和國さへ、奴隷の存在を豫想してゐるのは必ずしも偶然ではないのである。

 

       又

 

 暴君を暴君と呼ぶことは危險だつたのに違ひない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危險である。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』(前号五月号は休刊)巻頭に前の「二宮尊德」及び後の「悲劇」「強弱」「S・Mの智慧」の全六章で初出する。

 

・「プラトオンの共和國」古代ギリシアの哲学者でソクラテスの弟子にしてアリストテレスの師たるプラトン(プラトーン ラテン語:Plato 紀元前四二七年~紀元前三四七年)の主著の一つである、「ポリテイア」(英語: The Republic:副題は「正義について」で、書名は「国家篇」と訳される)野中で理想とした国家体系。新潮文庫の神田由美子氏の注では、『この理想国は、支配階級、防衛階級、栄養階級の三階級からなり、その支配と服従において調和のとれた哲人政治をめざし』たものとされた、とある。教材工房製作のサイト「世界史の窓」のプラトン」には、「国家論」では、『現実のアテネの政治を批判的に論じ、徳のある哲人が国を治め(哲人政治)、軍人が防衛し、市民が文化を担うという分業国家を理想とした。その国家論では、奴隷は労働をになう分業社会の一員として肯定されている』と明記されてある。因みに、ウィキの「プラトンによれば、彼は紀元前三八七年の四十歳の頃に『アテナイ郊外の北西、アカデメイアの地の近傍に学園を設立した。そこはアテナイ城外の森の中、公共の体育場が設けられた英雄アカデモス』『の神域であり、プラトンはこの土地に小園をもっていた』という記載に注して、ドイツの哲学者フリードリヒ・カール・アルベルト・シュヴェーグラー(Friedrich Karl Albert Schwegler 一八一九年~一八五七年)の「西洋哲学史」(Geschichte der Philosophie im Umriß 一八四六年~一八四七年)によれば、『この地所はプラトンの父の遺産という。また、ディオゲネス・ラエルティオスによれば、プラトンが奴隷として売られた時にその身柄を買い戻したキュレネ人アンニケリスが、プラトンのためにアカデメイアの小園を買ったという』とあり、何と、プラトン自身が奴隷であった経験があることを記している。山田哲也氏のサイト「Webで読む西洋哲学史」のプラトン記載にその経緯が語られてあり、それによれば、現在のイタリア南部シチリア島にあった都市シュラクサイ(現在のシラクサ)を支配した、残虐で猜疑心が強く、執念深い最悪の暴君であったとされる、ギリシア人僭主ディオニュシオス一世(Dionysius I 紀元前四三二年頃~紀元前三六七年:二世と区別して「大ディオニュシオス」とも呼ぶ)の怒りを買ったためとある。

・「暴君を暴君と呼ぶことは危險だつたのに違ひない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危險である。」この一章について、現在的世界状況に基づいて考察した「韓国ハンギョレ新聞社」公式サイト内の、ペンネーム「朴露子(バク・ノジャ)」氏(本名Vladimir Tikhotov:ノルウェーのオスロ国立大教授で韓国学専門)による「善良な私たち」に対する幻想を破壊せよ朴露子コラムの「解」が非常に素晴しい! 是非、お読みあれかし!]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  二宮尊德

 

       二宮尊德

 

 わたしは小學校の讀本の中に二宮尊德の少年時代の大書してあつたのを覺えてゐる。貧家に人となつた尊德は晝は農作の手傳ひをしたり、夜は草鞋を造つたり、大人のやうに働きながら、健氣にも獨學をつづけて行つたらしい。これはあらゆる立志譚のやうに――と云ふのはあらゆる通俗小説のやうに、感激を與へ易い物語である。實際又十五歳に足らぬわたしは尊德の意氣に感激すると同時に、尊德ほど貧家に生まれなかつたことを不仕合せの一つにさへ考へてゐた。……

 けれどもこの立志譚は尊德に名譽を與へる代りに、當然尊德の兩親には不名譽を與へる物語である。彼等は尊德の教育に寸毫の便宜をも與へなかつた。いや、寧ろ與へたものは障碍ばかりだつた位である。これは兩親たる責任上、明らかに恥辱と云はなければならぬ。しかし我々の兩親や教師は無邪氣にもこの事實を忘れてゐる。尊德の兩親は酒飮みでも或は又博奕打ちでも好い。問題は唯尊德である。どう云ふ艱難辛苦をしても獨學を廢さなかつた尊德である。我我少年は尊德のやうに勇猛の志を養はなければならぬ。

 わたしは彼等の利己主義に驚嘆に近いものを感じてゐる。成程彼等には尊德のやうに下男をも兼ねる少年は都合の好い息子に違ひない。のみならず後年聲譽を博し、大いに父母の名を顯はしたりするのは好都合の上にも好都合である。しかし十五歳に足らぬわたしは尊德の意氣に感激すると同時に、尊德ほど貧家に生まれなかつたことを不仕合せの一つにさへ考へてゐた。丁度鎖に繫がれた奴隷のもつと太い鎖を欲しがるやうに。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』(前号五月号は休刊)巻頭に後の「奴隷」(二章)「悲劇」「強弱」「S・Mの智慧」の全六章で初出する。

 

・「二宮尊德の少年時代」江戸後期の経世家(けいせいか:「經世濟民」(世を經(をさ)めて民を濟ふ)の思想家)・農政家二宮尊徳(にのみやたかのり 天明七(一七八七)年~安政三(一八五六)年)の、ここに注として必要と考えられる、主に前史のみウィキの「二宮尊徳」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した。下線はやぶちゃん)。『経世済民を目指して報徳思想』(二宮尊徳が説き広めた経済思想。経済と道徳の融和を基軸とし、私利私欲に走らずに社会に貢献するならばそれはいずれは自らに還元されるとする思想)『を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した』彼の『通称は金治郎(きんじろう)であるが、一般には「金次郎」と表記されてしまうことが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓むが、有職読みで「そんとく」と訓まれることが多い』(されば、ここでも芥川龍之介は標題を含めて「そんとく」と読んでいると採っておく)。『相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に、百姓二宮利右衛門の長男として生まれる。母は曽我別所村・川久保太兵衛の娘好(よし)。尊徳の弟には二宮三郎左衛門の養子友吉(常五郎)と富治郎がいる』。『尊徳は、まず堀之内村の中島弥三右衛門の娘きの(キノ)を妻とするが、離縁。次いで二十歳若いが』、『貞淑温良な飯泉村の岡田峯右衛門の娘なみ(波子)を娶った。後者は賢夫人と称される。子息は、きのとの間に長男の徳太郎がいたが夭折しており、なみとの間に、嫡男の尊行(弥太郎)、長女ふみ(富田高慶室)がいる』。『当時の栢山村は小田原藩領であった。父利右衛門は、養父銀右衛門から十三石の田畑と邸を受け継いでおり、当初は豊かだったが散財を重ねていた。そこに、金治郎が五歳の時の寛政三年(一七九一年)八月五日、南関東を襲った暴風で、付近を流れる酒匂川の坂口の堤が決壊し、金治郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまった。その影響で父の田畑は砂礫と化し、家も流失した。開墾に従事して田畑は数年で復旧したが、借財を抱えて家計は貧する』。それから六年後の寛政九(一七九七)年に父が眼病を患ったため(金治郎満十一歳)、翌年から『酒匂川堤防工事の夫役を父に代わって務めるが、働きが足りないと憂い、自ら夜に草鞋を作って配布して献じた。この頃、寺に入れられていた弟友吉が耐え切れずに寺から戻った。寛政十二年(一八〇〇年)、父の病気が悪化し、九月に没する母よしが働くために前年生まれた富治郎を人の家に預けるが、乳張りがひどくて家に戻す。十四歳の金治郎が朝は早起きして久野山に薪とり、夜は草鞋作りをして、一家四人の生計を立てた』。享和二(一八〇二)年、満十五歳の時、『貧困の中で母が亡くなった。まだ幼い二人の弟は母の実家川久保家に預け、金治郎は祖父(伯父)萬兵衛の家に身を寄せることとなった。しかしこの年にまた酒匂川が氾濫し、金治郎の土地は水害に襲われてすべて流出してしまった』。『金治郎は本家・祖父の家で農業に励み、身を粉にして働いたが、ケチな萬兵衛は金治郎が夜に読書をするのを嫌い、しばしば口汚く罵られた。そこで金治郎は策を講じ、堤防に菜を植え、それで菜種油を取って燈油とした。また、用水堀に捨て苗を植えて、一俵の収穫を得た』。『文化元年(一八〇四年)、萬兵衛の家を離れ、同村の親族岡部伊助方に寄宿。この年に余耕の五俵を得て、翌年は親戚で名主の二宮七左衛門方に寄宿。さらにここで余耕の二十俵を得て、文化三年(一八〇六年)に家に戻り』、数え『二十歳で生家の再興に着手する。家を修復し、質入田地の一部を買い戻し、田畑を小作に出すなどして収入の増加を図った。しかし他方で、弟の富治郎はこの頃に亡くなっ』ている。『生家の再興に成功すると、金治郎は地主』として『農園経営を行いながら』、『自身は小田原に出て、武家奉公人としても働いた。この頃までに、身長が六尺(約百八十センチ強)を超えていたという伝承もある。また体重は』九十四キログラムも『あったと言われている。小田原藩士の岩瀬佐兵衛、槙島総右衛門らに仕えた』。『文化五年(一八〇八年)、母の実家川久保家が貧窮するとこれを資金援助し、翌年には二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言し、基金を立ち上げ』ている。その頃、小田原藩で千二百石取の『家老をしている服部十郎兵衛が、親族の助言により、金治郎に服部家の家政の建て直しを依頼した。金治郎は五年計画の節約でこれを救うことを約束し、文化十一年(一八一四年)に服部家の財務を整理して千両の負債を償却し、余剰金』三百両を『贈ったが、自らは一銭の報酬も受け取らなかった。この評判によって小田原藩内で名前が知られるようになった』。『文化十三年(一八一六年)、前年に家に戻った友吉(常五郎)を萬兵衛の長男三郎左衛門の養子とし、自らも最初の妻を娶った。文政元年(一八一八年)、藩主大久保忠真が孝子節婦奇特者の表彰を行った時に、その中に金治郎の名もあ』る。『文政二年(一八一九年)、生まればかりの長男が夭折。家風に合わぬという口実で妻きのが離別を申し出たので、離縁した。翌年、三十四歳の金治郎は十六歳のなみと再婚し』ている。その後は、小田原藩主大久保家分家宇津家の旗本知行所(下野国芳賀郡の桜町)の再興救済を藩主より命ぜられ、文政六(一八二三)年(満三十六歳)で名主役柄で高五石二人扶持待遇で桜町に移住して再建に着手、二年後には組頭格に昇進して同町の主席となって、再建を成し遂げる(その方法が「報徳仕法」として他の範となったという)。天保四(一八三三)年に「天保の大飢饉」が関東を襲うと、藩命を受けて下野(しもつけ)にあった大久保領の領民を救済している。その三年後の天保七(一八三六)年には重病の忠真公にから小田原に呼ばれ、功績を賞されるとともに、飢饉にある小田原の救済を命ぜられ、その後も藩外の諸人の依頼を受けて復興・再興を手掛けている。天保十三(一八四二)年五十五歳で遂に幕府召抱えとなり、普請役格とされて印旛沼開拓と利根川利水について二件の提案を行っている(但し、不採用)。その後、天領や日光山領の復興・経営を任されるなどした後、下野の代官山内氏の属吏となって真岡に移住、日光奉行配下として精力的に働いたが、病を発し(引用元には発病を『三度目』とあるので調べて見たところ、結核である)、安政三(一八五六)年に下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所で満六十九歳で没した。なお、引用元の「逸話」には、『子供の頃、わらじを編んで金を稼ぎ、父のために酒を買った』とか、『荒地を耕して田植え後の田に捨てられている余った稲を集めて植えて、米を収穫した』とかあるが、『これらの逸話の多くは、弟子の富田高慶が著した尊徳の』伝記「報徳記」を由来とするもので、『尊徳は幼少期の頃について全く語らなかったため、高慶は村人から聞いた話を記したとしており、高慶自身信憑性は保証できないとしている』とある。

・「小學校の讀本の中に二宮尊德の少年時代の大書してあつた」芥川龍之介は明治三一(一八九八)年四月に満六歳(彼は明治二五(一八九二)年三月一日生まれ)で江東尋常小学校(現在の領国小学校)に入学している。「讀本」「とくほん」と清音で読む。明治期から第二次大戦直後まで使用された小学校国語教科書、或いは広く教科書一般をも指した。「大書」(たいしよ(たいしょ)は、ここは大袈裟な表現を用いて書くこと、の謂いであろう。なお、我々がしばしば想起するところの像について、やはりウィキの「二宮尊徳」にある「尊徳・金治郎像」からここに引いておくこととする(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した。下線はやぶちゃん)。『各地の小学校などに多く建てられた、薪を背負いながら本を読んで歩く姿(「負薪読書図」と呼ばれる)に関する記述は、明治十四年(一八八一年)発行の『報徳記』が初出である。そこには「大学の書を懐にして、途中歩みなから是を誦し、少も怠らず。」とある。この「書を懐にして」を、「懐中」か「胸の前で持って」と解釈するかは判断に迷うところだが、金治郎像では後者で解釈されている』。但し、『先述のように『報徳記』の尊徳幼少期の記述は信憑性が薄く、このような姿で実際に歩いていたという事実があったかは疑問が残る』(前注参照)。「報徳記」を基とした幸田露伴著の「二宮尊徳翁」(明治二四(一八九一)年十月刊)の『挿絵(小林永興画)で、はじめて「負薪読書図」の挿絵が使われた。ただし、これ以前から既にこの図様に近い少年像は存在していた。金治郎の肖像画のルーツは中国の「朱買臣図」にあり、これが狩野派に伝統的な画題として代々伝わり、その末裔の永興もこれを参考にしたと想定される』(朱買臣(?~紀元前一一五年)は前漢の人で会稽郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)出身。家が貧しかったが読書を好み、生産業に従事せず、薪を売って生活しており、薪を担いで歩きながら書を読んでいたとされ、後に武帝から会稽太守を拝命した。但し、最後は武帝に誅殺されている。ここはウィキの「朱買臣」に拠った)。『確認されている最初のこの姿の像は、明治四十三年(一九一〇年)に岡崎雪聲が東京彫工会に出品したものである。明治三十七年(一九〇四年)以降、国定教科書に修身の象徴として尊徳が取り上げられるようになった。小学唱歌にも『二宮金次郎』という曲がある。しかし、修身国定教科書には金治郎の逸話は取り上げられたものの、「負薪読書図」は一度も掲載されていない。「負薪読書図」が広まったのは売薬版画や引札、子供向けの伝記類による』という。『これらの学校教育や、地方自治における国家の指導に「金治郎」が利用された経緯には、尊徳の実践した自助的な農政をモデルとすることで、自主的に国家に献身・奉公する国民の育成を目的とした統合政策の展開があった。この「金治郎」の政治利用は、山縣有朋を中心とする人脈によって行われ』、かの『小学校の校庭などに見られる「金治郎像」は、彼らの政策によって展開された社会環境を前提として、国家の政策論理に同調することで営業活動を行った石材業者や石工らによって広まったとされる。小学校に建てられた「金治郎像」でもっとも古いものは、大正十三年(一九二四年)、愛知県前芝村立前芝高等尋常小学校(現豊橋市立前芝小学校)に建てられたものである』(このことから、龍之介の文章が像のイメージに関わっていない理由が解る。本章の公開はまさに大正十三年六月であるからである)。『その後、昭和初期に地元民や卒業生の寄付によって各地の小学校に像が多く建てられた。そのとき、大きさが一メートルとされ、子供たちに』一メートルの『長さを実感させるのに一役買ったといわれることがあるが、実際に当時に製作された像はきっかり一メートルではないことが多い。これは、昭和十五年(一九四〇年)頃に量産された特定の像に関する逸話が一人歩きしたものと考えられる。この像が戦後、GHQの指令により廃棄されたといわれることがあるが、二宮尊徳が占領下の昭和二十一年(一九四六年)に日本銀行券(一円券)の肖像画に採用されていることからも分かるとおり、像の減少と連合軍総司令部は特に関係は無い。戦前の像は銅製のものが多く、これらの多くが第二次世界大戦中の金属供出によって無くなったため、混同されたものと考えられる』。『金属供出に際して、教育的配慮として、教師や児童の立会いの下で像にたすきをかけて壮行式を挙行し、戦地に送り出したり、撤収後の台座に「二宮尊徳先生銅像大東亜戦争ノタメ応召」の札が立てられたこともある』(最後の箇所は知って見ればまさにそれこそ「学校の怪談」、都市伝説の類いであったわけで、知れば、寧ろ、鋳潰したのは大日本帝國であったわけである。)。『石像のものはその後の時代も残った。また、残った台座の上に、新たに銅像やコンクリート像などがつくられることもあった。像のように薪を背負ったまま本を読んで歩いたという事実が確認できないことと、児童が像の真似をすると交通安全上問題があることから、一九七〇年代以降、校舎の立替時などに徐々に撤去され、像の数は減少傾向にある他、「児童の教育方針に合わない」などの理由で、破損しても補修に難色を示す教育委員会もある。 岐阜市歴史博物館調べによると、市内の小学校の』五十五・一%に『「二宮金治郎像」が存在し(二〇〇一年現在)、近隣市町村を含めると』、五十八・五%の『小学校に「二宮金治郎像」が存在する。また』、二〇〇三年に『小田原駅が改築され』、『橋上化された際、デッキに尊徳の像が新しく立てられた』。『二〇一〇年代に入って歩きスマホの危険性が社会問題になったが、この問題を受けて「いまいち一円会」が二〇一六年に日光市立南原小学校に寄贈した石像は立像ではなく座像となっている』。……スマホに負けて正座させられてしまった金治郎!!!――

・「草鞋」「わらぢ(わらじ)」。

・「健氣」「けなげ」。「けなりげ」の転訛で、「け」は「気」で「心身の精気・気力」の謂いであろう。心がけや態度がしっかりしているさま。現代では特に、幼く力の弱い者が、困難な状況で立派に振る舞うさまに用い、ここはまさにそれ。

・「立志譚」「りつしたん(りっしたん)」(筑摩全集類聚版は「だん」と濁るが、採らない)。志しを立て、苦労と努力の末に成功した人の物語・伝記。

・「十五歳に足らぬわたし」数えであるから、満で十三から十四歳相当となる。龍之介は明治三八(一九〇五)年三月(既に述べた通り、彼は明治二五(一八九二)年三月一日生まれ)に江東尋常小学校高等科三年を修了しているから、合致する(龍之介は無論、成績優秀であって、実は当時は高等科二年修了で旧制中学進学が出来たのであるが、生家新原家と養家芥川家との間の養子縁組に関わる戸籍上の問題解決に時間がかかったために、進学は一年延期されたのであった。ここは一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」の明治三十八年三月の条の記載に拠った)。

・「尊德の兩親」「は尊德の教育に寸毫の便宜をも與へなかつた。いや、寧ろ與へたものは障碍ばかりだつた位である。これは兩親たる責任上、明らかに恥辱と云はなければならぬ」「寸毫」「すんがう(すんごう)」は極めて僅かなこと・ほんの少しの意(「毫」は獣の細い毛を指す)。「障碍」は「障害」に同じい(「碍」の字は「妨げる・進行を邪魔して止める」の意。私は「害」の字が生理的に嫌いなので以前からよく「障碍」の字を用いるが、「障害」という字が身体にハンディを持つ人を差別するから「障碍」とするべきだという立場には立っていない。言葉狩りをしても差別意識は何ら変わらぬ。文字が消えても、心にその心のあるのは、もっとタチが悪いとさえ思う人間である)。さて、芥川(元姓新原)龍之介によって実父母や養父母はどのような存在だったかを考えてみると、この謂いは、机上の論理的な思惟なんぞではなく、実はこの感懐は龍之介自身が身に染みて感じている深刻なトラウマであることが見えてくるのである。龍之介は自身の複数の作品中(例えば簿」の「一」。冒頭が「僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。」で始まる。リンク先は私の電子テクスト)でしばしば実母フクを「狂人」と称し、その遺伝からの発狂恐怖を持っていたし、実父のことは明らかに冷淡に軽蔑していた様子が諸表現からつぶさに窺える。養父母に対しては心から感謝の念を持っていたものの、彼等を龍之介が猜疑する孝道に基づいて、或いは義務に於いて、経済的に支え続けねばならぬことに龍之介は正直、四苦八苦していた状況も見てとれるからである(養父母は孰れも龍之介自死の折りには存命であった)。

・「博奕打ち」「ばくちうち」。

・「彼等の利己主義」これは実際の尊徳の両親という個別性を問題としていない。あらゆる子を持つ、本話を自身らにのみ都合よく語るところの、人の子の「両親」、否、それを賞揚し、強制的に「孝道の鏡」として押しつけてくるところの「教師」、その背後でそれを操るところの「国家」こそが「彼等」であり、「彼等の利己主義」なのである。だからこそ最後の「鎖に繫がれた奴隷のもつと太い鎖を欲しがるやうに」という一文が強烈に生きてくるのである。

・「聲譽」「せいよ」。良い評判・誉(ほま)れ・名声。]

2016/05/25

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  惡

 

       惡

 

 藝術的氣質を持つた靑年の「人間の惡」を發見するのは誰よりも遲いのを常としてゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年四月号『文藝春秋』巻頭に前の「醜聞」「輿論」それぞれ二章と「敵意」「ユウトピア」「惡」と合わせて全八章で初出する。底本後記によれば、初出は、

 

 藝術的氣質を持つた靑年は最後に人間の惡を發見する。

 

である。「侏儒の言葉」の正しい「型」を龍之介は早々と「發見」していたのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  危險思想

 

       危險思想

 

 危險思想とは常識を實行に移さうとする思想である。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年四月号『文藝春秋』巻頭に前の「醜聞」「輿論」それぞれ二章と「敵意」「ユウトピア」及び後の「惡」の全八章で初出する。「侏儒の言葉」の一文アフォリズムの白眉である。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  ユウトピア

 

       ユウトピア

 

 完全なるユウトピアの生れない所以は大體下の通りである。――人間性そのものを變へないとすれば、完全なるユウトピアの生まれる筈はない。人間性そのものを變へるとすれば、完全なるユウトピアと思つたものも忽ち不完全に感ぜられてしまふ。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年四月号『文藝春秋』巻頭に前の「醜聞」「輿論」それぞれ二章と「敵意」及び後の「危險思想」「惡」の全八章で初出する。「ユウトピア」は地上樂園の私の諸注を見よ。

 

・「下」「しも」。以下。

 

・「人間性」人間を人間たらしめていると各人が考えるところの「本性」なるもの。実に興味深いことに「侏儒の言葉」群には「人間性」という言葉はここにしか出現しない。「人間らしさ」は正に括弧書きで前に出た。そちらの私の注を見よ。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  敵意

 

       敵意

 

 敵意は寒氣と選ぶ所はない。適度に感ずる時は爽快であり、且又健康を保つ上には何びとにも絶對に必要である。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年四月号『文藝春秋』巻頭に前の「醜聞」「輿論」それぞれ二章と後の「ユウトピア」「危險思想」「惡」の全八章で初出する。

 

・「寒気」「かんき」。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  輿論(二章)

 

       輿論

 

 輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯樂である。たとひピストルを用ふる代りに新聞の記事を用ひたとしても。

 

       又

 

 輿論の存在に價する理由は唯輿論を蹂躪する興味を與へることばかりである。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年四月号『文藝春秋』巻頭に前の「醜聞」二章と後の「敵意」「ユウトピア」「危險思想」「惡」の全八章で初出する。標題「輿論」は「よろん」で世間の大多数の人の意見、一般市民が社会や社会的問題に対してとる態度や見解の謂い。「輿」の原義には「多い・多くの・大勢・諸々」「万物を載せる(まさに「輿(こし)」である)大地」「物事の始まり」の他、実は「召使い・地位の低い人・下僕」の謂いもある(ここでニンマリする私がいる)。

 

・「私刑」「しけい」。法に拠らずに個人や集団が勝手に犯罪者などに加える制裁。私的制裁。リンチ(lynch:人を私刑によって殺すこと。一七七〇年代のアメリカのバージニア州で私的法廷を主宰していた治安判事ウイリアム・リンチ(Wiliam Lynch)の名前を語源とする)。

・「蹂躪」「じうりん(じゅうりん)」で既注の「蹂躙」に同じい。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  醜聞(二章)

 

       醜聞

 

 公衆は醜聞を愛するものである。白蓮事件、有島事件、武者小路事件――公衆は如何にこれらの事件に無上の滿足を見出したであらう。ではなぜ公衆は醜聞を――殊に世間に名を知られた他人の醜聞を愛するのであらう? グルモンはこれに答へてゐる。――

 「隱れたる自己の醜聞も當り前のやうに見せてくれるから。」

 グルモンの答は中つてゐる。が、必ずしもそればかりではない。醜聞さへ起し得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼等の怯懦を辯解する好個の武器を見出すのである。同時に又實際には存しない彼等の優越を樹立する、好個の臺石を見出すのである。「わたしは白蓮女史ほど美人ではない。しかし白蓮女史よりも貞淑である。」「わたしは有島氏ほど才子ではない。しかし有島氏よりも世間を知つてゐる。」「わたしは武者小路氏ほど……」――公衆は如何にかう云つた後、豚のやうに幸福に熟睡したであらう。

 

       又

 

 天才の一面は明らかに醜聞を起し得る才能である。

 

大正一三(一九二四)年四月号『文藝春秋』巻頭に後の「輿論」二章と「敵意」「ユウトピア」「危險思想」「惡」の全八章で初出する。「醜聞」は「しうぶん(しゅうぶん)」で、聞き苦しい噂・良くない風評・スキャンダル(scandal:不祥事・疑獄/醜聞に対する世間の反感・物議/不面目・言語道断な事柄/中傷・悪口・陰口)・ゴシップ(gossip:人の私事に関する噂話・世間話/新聞雑誌に載る名士などに関する噂話)である。…どこかのゲスな某自称ミュージシャン……どこかの某都知事……どこかの某総理大臣……
  
底本後記によれば、初出では二章目の頭の部分が、

 天才の一部は明らかに醜聞を起し得る才能である。

となっている。

 

・「白蓮事件」「びやくれんじけん(びゃくれんじけん)」と読む。ウィキの「白蓮事件」から引く。この発表の二年半前の大正一〇(一九二一)年十月二十日、福岡の炭鉱王であった伊藤伝右衛門の妻で歌人として知られた柳原白蓮(本名・燁子(あきこ) 明治一八(一八八五)年~昭和四二(一九六七)年)が滞在中の東京で出奔、『社会運動家で法学士の宮崎龍介』(明治二五(一八九二)年~昭和四六(一九七一)年)『と駆け落ちした事件。新聞紙上で妻白蓮から夫への絶縁状が公開され、それに対して夫・伝右衛門から反論文が掲載されるマスコミのスクープ合戦となり、センセーショナルに報じられた』。なお、ウィキの「宮崎龍介」によれば、以後、終生、燁子は夫の良き理解者となり、一男一女をもうけている、とある。因みに、これは実にまさにこの「醜聞」というタイトルが鏡返しで作者芥川龍之介に返って来、そこには何と! この白蓮がいる! この発表から四年後の昭和二(一九二七)年四月のこと、龍之介は妻文(ふみ)の幼馴染みで、文から龍之介の話し相手になって呉れと頼まれて龍之介と交際していた平松麻素子(ますこ)と帝国ホテルで心中未遂をした際、この柳原白蓮の追憶に従うなら(柳原白蓮「芥川龍之介さんの思ひ出」によるが、一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」に載るもの)、現場に白蓮が駆けつけ、説得して思い止まらせたという、まさに「龍之介事件」となるところだった「醜聞」未遂が記されてある(但し、この「龍之介事件」には白蓮の登場しない妻の文や盟友小穴隆一・甥葛巻義敏が止めるというシチュエーションの別話が現行では一般に知られている)。いやぁ、そうか! 「天才の一面は明らかに醜聞を起し得る才能である」と「又」で龍之介が追加したのは自分のためだったの、ね。

・「有島事件」作家活動に行き詰っていた有島武郎(明治一一(一八七八)年~大正一二(一九二三)年六月九日)がこの前年の六月に軽井沢の別荘で中央公論社の雑誌『婦人公論』の記者で愛人であった波多野秋子(明治二七(一八九四)年~大正一二(一九二三)年六月九日)と縊死心中した事件。当時の武郎は妻と既に死別(大正五(一九一六)年)していて独身であったが、秋子は人妻であり、それが露見して武郎はその夫から脅迫を受けていた。ウィキの「有島武郎」によれば、七月七日になって発見されたが、梅雨期に一ヶ月も『遺体が発見されなかったため、相当に腐乱が進んでおり、遺書の存在で本人と確認されたという。複数残されていた遺書の一つには、「愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかつた」と残されていた』とある。芥川龍之介は満二十七の大正八(一九一九)年五月三十一日に有島と初めて会っている(神田のレストラン「ミカド」で行われた「ホイットマン百年祭」)。武郎の心中を知った龍之介は大いに憂鬱となり、小島政二郎に「死んじゃ、敗北だよ」と語ったという(新全集宮坂覺編年譜の同年七月八日の条に拠る)。

・「武者小路事件」新潮文庫の神田由美子氏の注によれば、作家武者小路実篤(明治一八(一八八五)年~昭和五一(一九七六)年)が、この二年前の『大正十一年に夫人房子』(明治二五(一八九二)年~平成二(一九九〇)年)『と離婚し、あらたに飯河安子と家庭を持ったことをさす』とある。宮崎県公式サイト内の「みやざきの百一人」の武者小路房子」によれば、『「お互いが人間らしく生き、むつみ合い、そしてお互いの個性を尊重し、他人を傷つけることなく、しかも天命を全うすることができる理想郷、いわば調和的な共同体をめざす」そんなスローガンを掲げて』、大正七(一九一八)年十一月に「新しき村」が現在の木城町(きじちょう)石河内(いしかわうち)に『開設された。その中心人物は「白樺」派同人・武者小路実篤。房子夫人を伴っての入村であった。小説『土地』にようやく桃源郷を探し当てて驚喜する場面があるが、その時』実篤三十三歳、房子二十六歳であった。『房子は福井県大野の素封家竹尾茂の』四人姉妹の長女として生まれ、大正元(一九一二)年に『実篤と結婚。やがて千葉県我孫子の家を処分して、夫に従い』、遙か、『日向の山村に居を定めた。入村者は子供を含めて』約二十人であったが、五年後には四十四人となった。『その間』、『レコードコンサート、演劇、絵を描き、通信を出し、農作業をし、水路を開いたりした。しかし実篤と飯河安子の恋愛問題が起こり、彼は去り』、『村外会員になった。房子もまた杉山正雄との恋愛事件が起こり、実篤とは別れて生活することになった』。四年後の昭和七(一九三二)年に房子は『杉山と正式に結婚。実篤は』二人を『養子にして武者小路姓を名乗らせ』、二人は『「日向新しき村」に生涯をかけることとなった』。昭和一三(一九三八)年に『小丸川総合開発計画で美田が湖底に沈み、村のシンボルだったロダンの岩が消えたのが致命的であった。夫杉山は村の存続にすべてをささげた。房子は理想の灯を消すことなく』、『誇りを持って天寿を全うした』とある。因みに共同体「新しき村」は現在も埼玉県入間郡毛呂山町にあるが、ウィキの「によれば、二〇一三年現在で村内生活者数は十三人、村外会員は約百六十人ほどであり、『近年、村内の高齢化が進み、農業収入の低迷もあり、村の運営に困難が増している』とある。私は武者小路実篤が生理的に大嫌いであるが、今回、かく知って、ますますさらに嫌いになった。

・「グルモン」フランスのサンボリスム(象徴主義)の批評家で小説家レミ・ド・グールモン(Remy de Gourmont 一八五八年~一九一五年)ノルマンディーの名門の出身でカーン大学に学び、後にパリの国立図書館司書となったが、一八九一年に『メルキュール・ド・フランス』誌(Mercure de France:前年創刊で彼は創刊者の一人であった)に載せた論文「愛国心という玩具」(Le joujou patriotisme)の過激な反愛国主義的口調が筆禍事件に発展し、免官となった。同時期に結核性狼瘡(ろうそう)に罹患、醜い痕が顔面に残り、それが免職以降の一層の孤独幽閉の生活を強いることとなった。この二つの出来事と『重なり合って始まる彼の文学活動は、象徴主義的風土と充実した生の現実、知的生活と感覚的生活、プラトニックな恋愛と官能的恋愛の間を、絶え間なく微妙に揺れ動きつつも、バランスを保った』。有名な「シモーヌ」(Simone)詩編を含む「慰戯詩集」(Divertissements 一九一二年)、二十世紀を美事に先取りした作品である「シクスティーヌあるいは頭脳小説」(Sixtine, roman de la vie cérébrale 一八九〇年)、傑作「悍婦(アマゾーヌ)への手紙」(Lettres à l'Amazone 一九一四年)など、『いずれも前記のテーマに沿っている。批評家としての彼は、「観念分離」なる用語を用いて、観念あるいはイメージの月並み部分を排除することを説いたが、実をいうと、例の反愛国主義的論文もそれの一例であった。批評の代表作は』「神秘ラテン語」(Le Latin mystique 一八九二年)・「観念陶冶」(La Culture des idées 一九〇〇年)・「仮面集」(Le Livre des masques 一八九六年~一八九八年)・「文学散歩」(Promenades littéraires 一九〇四年~一九一三年)・「哲学散歩」(Promenades philosophiques 一九〇五年~一九〇九年)などである。(以上は引用を含め、小学館「日本大百科全書」の松崎芳隆氏の解説を主に用いた)。岩波新全集の山田俊治氏の注には、彼は『特に芸術における無意識の役割を強調した』とある。

・「隱れたる自己の醜聞も當り前のやうに見せてくれるから」同じく山田氏の注によれば、この引用はグールモンの「対話 Pensées inédites」『の中の言葉とされる』とある(一九二〇年の作)。「される」というのは意味深長。筑摩全集類聚版は同書に『「対話」にある』と断言、神田氏の注もはっきり同「対話」『に見える』と記す。さて、誰の謂いが正確なのかな? という気がしてくるね。

・「中つて」「あたつて」。当たって。

・「怯懦」既注であるが再掲しておく。「けふだ(きょうだ)」。臆病で気が弱いこと。意気地(いくじ)のないこと。

・「好個」「かうこ(こうこ)」あり対象や事柄がまさにちょうど良いこと・適当なこと。

・「臺石」「だいいし」。より高みに登るためのステップになる石。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 地獄

 

       地獄

 人生は地獄よりも地獄的である。地獄の與へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば飯の上に火の燃えるたぐひである。しかし人生の與へる苦しみは不幸にもそれほど單純ではない。目前の飯を食はうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外樂樂と食ひ得ることもあるのである。のみならず樂樂と食ひ得た後さへ、腸加太兒の起ることもあると同時に、又存外樂樂と消化し得ることもあるのである。かう云ふ無法則の世界に順應するのは何びとにも容易に出來るものではない。もし地獄に墮ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであらう。況や針の山や血の池などは二三年其處に住み慣れさへすれば格別跋渉の苦しみを感じないやうになつてしまふ筈である。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年三月号『文藝春秋』巻頭に前の「政治的天才」二章と「戀は死よりも強し」との全四章で初出する。私があらゆる世のアフォリズムの中でも(芥川龍之介の「侏儒の言葉」の中で、では、ない、ので注意されたい)殊の外、偏愛するアフォリズムである。私はしばしば、この冒頭の「人生は地獄よりも地獄的である。」という一文を、何処にあっても心の中で呟いている自分を見出すのである。

 底本後記によれば、初出では最後の一文が、

況や針の山や血の池などは二三年其處に住み慣れさへすれば格別跋渉の苦しみを感じないやうになつてしまひさうである。

となっている。改稿は正しい。

・「地獄の與へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば飯の上に火の燃えるたぐひである」冒頭から辛気臭いことを言うが、「地獄」と言っておいてその例として「餓鬼道」(がきだう(がきどう))を出すのは厳密には正しい叙述ではない。仏教に於ける浄土に対するところの、ありとある生きとし生ける衆生(しゅじょう)が生死(しょうじ)を繰り返すところの「六道(ろくどう)」は、最下層の地獄道に始まって餓鬼道と畜生道(以上を「三悪道」と称する)があり、その上に修羅道・人間道・天上道(この三つを「三善道」と称する)であって、「餓鬼」道と「地獄」道は自ずと異なる世界だからである。「地獄」道は謂わずもがなであるが、ウィキではシンプルな地獄よりも地獄」の記載の方が詳述を極めるのでお薦めである。一応、概要を前者に基づくと、死後、人間は三途の川を渡って閻魔をはじめとする十王(初七日から順に秦広王 ・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成(へんじょう)王・泰山王(四十九日目ここまでが七日目毎)・平等王(百か日目)・都市(とし)王(一周忌目(一年後))・五道転輪王(三回忌(二年目))の計七回の裁き(十全に手厚く冤罪を防ぐように七審制を採っていて我々の現世である人間道の冤罪だらけのそれよりも遙かに完全無欠な理想の司法制度であると言える)を『受け、最終的に最も罪の重いものは地獄に落とされる。地獄にはその罪の重さによって服役すべき場所が決まっており、焦熱地獄、極寒地獄、賽の河原、阿鼻地獄、叫喚地獄などがあるという。そして服役期間を終えたものは輪廻転生によって、再びこの世界に生まれ変わるとされる』のである。『衆生が住む閻浮提』(えんぶだい)の下方、四万由旬(ゆじゅん:古代インドに於ける長さの単位で梵語 yojana(ヨージャナ)の音写であるが、当時は度量衡が統一されておらず、厳密な定義は出来ない。一般的には七キロメートル、十一・三から十四・五キロメートル前後とされる)を『過ぎて、最下層に無間地獄(むけんじごく)があり、その縦・広さ・深さは各』二万由旬ある。『この無間地獄は阿鼻地獄と同意で、阿鼻はサンスクリット avici を音写したものとされ、意味は共に「絶え間なく続く(地獄)」である』。『その上の』一万九千由旬の位置に『大焦熱・焦熱・大叫喚・叫喚・衆合・黒縄・等活の』七種の『地獄が重層しているという。これを総称して八大(八熱)地獄という。これらの地獄にはそれぞれ性質があり、そこにいる衆生の寿命もまた異なるとされる』。また、この八熱地獄の』四面には四つの門があり、その門外にまた各四種の『小地獄があり、これを合して十六遊増地獄という(四門地獄、十六小地獄ともいう)。八熱地獄と合せ』ると実に『百三十六地獄となる。また八熱地獄の横に八寒地獄または十地獄があるともいわれる』。『また、山間廣野などに散在する地獄を孤独地獄という』とある。但し、これら地獄思想は主に中国で形成された偽経に基づいて細述具象化されていったもので、仏陀自身は悟りを得ない死後の世界は永遠に続く絶対の闇としてしか語っていない(その方が実は恐ろしいのだが)はずである。

 一方、一般に分かり易い「餓鬼道」はというと、生前に贅沢をした者が落ちる所とされ、今少し正確に規定するなら、生前に於いて強欲で嫉妬深く、物を惜しみ(吝嗇で他者に施しをしない謂い)、常に貪る心やそうした行為を恥じることなく平然として来た者が死後に生まれ変わる世界とされている(但し、少なくとも「餓鬼草紙」などを見る限りでは、一部の「餓鬼道」は現世とパラレルに存在する或いは通底している世界であって、隣りに餓鬼が居ても見えないだけという感じもし、その方がより変化に富んでいて面白いと個人的には思っている)。「餓鬼道」の世界は常に飢えと乾きに苦しみ、食物や飲物が眼前にあってもそれを手に取ると、忽ち火に変わってしまい、永遠に植え続けるとされる(より細かなバラエティに富んだ「餓鬼道」の各所案内はウィキの「餓鬼に詳しいので、是非とも先の地獄」ともども、事前によく勉強されておかれるとよい)。

・「腸加太兒」「ちやうかたる(ちょうカタル)」と読む。英文科の龍之介はルビを振るとすれば、「カタル」とカタカナ表記でしたであろう。カタル(英語:catarrh)は、『感染症の結果生じる粘膜腫脹と、粘液と白血球からなる濃い滲出液を伴う病態のこと。カタルは通常、風邪、胸部疾患による咳に関連して認められるが、アデノイド、中耳、副鼻腔、扁桃、気管支、胃、大腸に出現することもある。カタル性滲出液は排出されることもあるが、狭窄とともに管腔を閉塞させたり、慢性化したりすることもある』。消化器系では急性胃炎の方がよく知られているいるが、ここは「腸」と明記されているから大腸で起こる「大腸カタル」としておくが、龍之介自身をしつこく襲った実際のそれは多くは胃炎(それも神経性の)の方であったろうとは思う。

・「針の山」地獄の最下層に位置するとされる阿鼻地獄や無間地獄のガイドに出る剣樹・刀山がモデルであろう。

・「血の池」原始仏典の一つとされる「長阿含経(じょうあごんきょう)」に八大地獄に付随する小地獄の一つとして挙げる「膿血」地獄辺りが濫觴であろうか。

・「跋渉」「ばつせふ(ばっ しょう)」は、原義は山を越え、水を渡ることで、いろいろな所を歩き回ること。散策。ハイキング。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 戀は死よりも強し

 

       戀は死よりも強し

 

 「戀は死よりも強し」と云ふのはモオパスサンの小説にもある言葉である。が、死よりも強いものは勿論天下に戀ばかりではない。たとへばチブスの患者などのビスケツトを一つ食つた爲に知れ切つた往生を遂げたりするのは食慾も死よりは強い證據である。食慾の外にも數へ擧げれば、愛國心とか、宗教的感激とか、人道的精神とか、利慾とか、名譽心とか、犯罪的本能とか――まだ死よりも強いものは澤山あるのに相違ない。つまりあらゆる情熱は死よりも強いものなのであらう。(勿論死に對する情熱は例外である。)且つ又戀はさう云ふもののうちでも、特に死よりも強いかどうか、迂濶に斷言は出來ないらしい。一見、死よりも強い戀と見做され易い場合さへ、實は我我を支配してゐるのは佛蘭西人の所謂ボヴアリスムである。我我自身を傳奇の中の戀人のやうに空想するボヴアリイ夫人以來の感傷主義である。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年三月号『文藝春秋』巻頭に前の「政治的天才」二章と後の「地獄」との全四章で初出する。

 

・『「戀は死よりも強し」と云ふのはモオパスサンの小説にもある言葉である』フランスの自然主義作家で劇作家にして詩人であったモーパッサン、正式な本名、アンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant  一八五〇年~一八九三年)は作家芥川龍之介にとってはかなり複雑な対象者であったようである。「侏儒の言葉」では後で「モオパスサン」の章を立てて、『モオパスサンは氷に似てゐる。尤も時には氷砂糖にも似てゐる。』と意味深長なことを述べているが、若き日の龍之介は優れた短編作家であったモーパッサンを乱読し、且つ、絶賛していた。例えば、大正五(一九一六)年三月二十四日附井川恭(後の恒藤恭)宛書簡(岩波旧全集書簡番号二〇一)では、『僕はモウパツサンをよんで感心した この人の恐るべき天才は自然派の作家の中で匹儔の鋭さを持つてゐると思ふ すべての天才は自分に都合のいいよやうに物を見ない いつでも不可抗敵に欺く可らざる眞を見る モオパツサンに於ては殊にそのその感じが深い。』『しかしモオパツサンは事象をありのままに見るのみではない ありのまゝに觀た人間を憎む可きは憎み 愛す可きは愛してゐる。その点で万人に不關心な冷然たる先生のフロオベエルとは大分ちがふ。 une  vie の中の女なぞにはあふるるばかりの愛が注いである。僕は存外モオパツサンがモラリステイクなのに驚いた位だ。』と記している(「点」はママ。「匹儔」は「ひつちう(ひっちゅう)」と読み、匹敵すること。同じ類いや仲間と見做すことを言う。「une  vie」一八八三年発表の彼の代表作「女の一生」。なお、ここで龍之介がやはり本章に出る「ボヴアリイ夫人」の作者フローベールを辛辣に批判言及しているのにも着目されたい)。また、逆説や揶揄のニュアンスも多分に含まれてはいるものの、大正六(一九一七)年一月『新思潮』に発表した夢オチの諷刺小品「MENSURA ZOILI」(メンスラ・ゾイリ:Mensura はラテン語の秤・物差の意、ZOILI は本作の仮想国(ゾイリア)のこと)では、ゾイリア国の完璧なる芸術作品測定器についての説明を「角顎(かくあご)の先生」から受けて、芥川龍之介が「しかし、その測定器の評價が、確だと云ふ事は、どうしてきめるのです。」と問うと、「それは、傑作をのせて見れば、わかります。モオパツサンの「女の一生」でも載せて見れば、すぐ針が最高価値を指さしますからな。」と答えたので、龍之介がやや不服そうに「それだけですか。」と応じると、「それだけです。」と答えるばかりで、『僕は、默つてしまつた。少々、角顋の頭が、没論理に出來上つてゐるやうな氣がしたからである』と出る。ここには既に「女の一生」に対するやや眇めの印象もあるが、やはり一般通念としての名作という認識に物申しているとは言えない。ところが、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の山本卓氏の「モーパッサン」の項には、上記の例などを高評価のそれとして掲げた上で、『だが、芥川はモーパッサンの巧妙な語り口を作り物のように感じていた。否定的な評価も記しているのだ』として、「あの頃の自分の事」の初出(大正八(一九一九)年一月『中央公論』。但し、これを含む第二章(第六章とともに)は何故か、翌年一月に刊行された第四作品集「影燈籠」では丸ごと削除されている)を引いておられる(引用は山本氏のそれではなく、岩波旧全集に拠った。引用も山本氏より長く引いてある)。そこでは龍之介は感服した作家としては「何よりも先ストリントベルグだつた」(スウェーデンの劇作家ユーアン・オーグスト・ストリンドバーリィ Johan August Strindberg 一八四九年~一九一二年:「令嬢ジュリー 」(Fröken Julie 一八八八年)・「死の舞踏」(Dödsdansen 一九〇一年)・「幽霊ソナタ」(Spöksonaten 一九〇七年)などで知られる。私も好きなことと言ったら、龍之介の人後に落ちるものではない。なお、かれの精神疾患(恐らくは統失調症)を患っていたと考えられている)とし、彼には「近代精神のプリズムを見るやうない心もちがした。彼の作品には人間のあらゆる心理が、あらゆる微妙な色調の變化を含んだ七色に分解されてゐた」とまで持ち上げた上で、「ぢや嫌ひな方は誰かと云ふと、モオパスサンが大嫌ひだつた。自分は佛蘭西語でも稽古する目的の外は、彼を讀んでよかつたと思つた事は一度もない。彼は実に惡魔の如く巧妙な贋金使だつた。だから用心しながらも、何度となく贋金をつかまさせられた。さうしてその贋金には、どれを見ても同じやうな Nihil と云ふ字が押してあつた。強いて褒めればその巧妙さを褒めるのだが、遺憾ながら自分はまだ、掏摸に懷のものをひきぬかれて、あの手際は大したものだと敬服する程寛大にはなり切る事が出來ない。」とまで言い切っている。また、大正一〇(一九二一)年二月『中央文學』発表の「佛蘭西文學と僕」の中でも龍之介は、「ド・モオパスサンは、敬服(けいふく)しても嫌ひだつた(今でも二三の作品は、やはり讀むと不快な氣がする。)」と記してもいる。山本氏は以上から最後に、『ここにはモーパッサンに対する芥川の複雑な評価が読み取れる』と記しておられる。こうした龍之介のアンビバレントな感覚の背景には、私は、短篇作家として寵児となった龍之介が、その創作実際の苦闘の中で、事実、モーパッサンの巧妙にして狡猾なる技巧を見抜いたことも真実ではあろうと思うのであるが、また意地悪く言うなら、彼にとってはモーパッサンを痛烈に罵倒することが自己の小説理念の独自性を表明することにもなったに違いない(しかし寧ろ、それは龍之介と親しい作家仲間たちからさえ強い批判をも浴びたのではなかったか? 私は先の「あの頃の自分の事」の単行本での削除の理由の一つにそんなことを考えたものである)。さらには、モーパッサンが根っからの病的厭世主義者であったこと、晩年に精神疾患を患って自殺未遂を起こしながら生き永らえてしまい、精神病院に収容された末にそこで亡くなったこと(一八九一年に発狂、翌一八九二年には自殺未遂を起こして、パリの精神病院に収容されたとウィキの「ギ・ド・モーパッサン」にある)が、龍之介の厭世観や自殺観、精神疾患を患っていた実母のそれに関わる発狂恐怖という神経のイラっとくる部分に触れたということも挙げられるように私には思われるのである。

 モーパッサンの解説が長くなった。ここで芥川龍之介は「小説にもある言葉」とするが、これはほぼそれに近い標題の小説のことを指す。一八八九年に発表した「死の如く強し」(Fort comme la mort)である。筑摩全集類聚版脚注に、『長編小説。次第に老境に入って行くにつれて感ずる男女の悲哀が明快簡潔な筆致によって極めて巧妙に切実に描き出されている』とある。

・「チブスの患者などのビスケツトを一つ食つた爲に知れ切つた往生を遂げたりする」「チブス」はここでは腸チフスのことと思われる(日本に於いて「チフス」と呼ばれる疾患には、この他にパラチフスや発疹チフスがあり、腸チフスとパラチフスはともに真正細菌プロテオバクテリア門ガンマプロテオバクテリア綱エンテロバクター目腸内細菌科サルモネラ属 Salmonella に属する菌株による疾患であるが、発疹チフスはプロテオバクテリア門 Proteobacteria でも全く異なるアルファプロテオバクテリア綱リケッチア目リケッチア科リケッチア属 Rickettsiaの一種発疹チフスリケッチア Rickettsia prowazekii による疾患で、これらの疾患は症状が似ているために孰れも「チフス」と呼ばれていたが、全く別の疾患であるので注意されたい)。サルモネラ属の一種チフス菌 Salmonella enterica var enterica serovar Typhiによって引き起こされる感染症。以下、ウィキの「腸チフス」より引用する。『感染源は汚染された飲み水や食物などである。潜伏期間は』七~十四日間ほど。『衛生環境の悪い地域や発展途上国で発生して流行を起こす伝染病であり、発展途上国を中心にアフリカ、東アジア、東南アジア、中南米、東欧、西欧などで世界各地で発生が見られる』。『チフスという名称はもともと、発疹チフスのときに見られる高熱による昏睡状態のことを、ヒポクラテスが「ぼんやりした、煙がかかった」を意味するギリシア語 typhus と書き表したことに由来する。以後、発疹チフスと症状がよく似た腸チフスも同じ疾患として扱われていたが』、一八三六年に『 W. W. Gerhard が両者の識別を行い、別の疾患として扱われるようになった。それぞれの名称は、発疹チフスが英語名 typhus、ドイツ語名 Fleck typhus、腸チフスが英語名 typhoid fever、ドイツ語名 Typhus となっており、各国語それぞれで混同が起こりやすい状況になっている。日本では医学分野でドイツ語が採用されていた背景から、これに準じた名称として「発疹チフス」「腸チフス」と呼び、一般に「チフス」とだけ言った場合には、これにパラチフスを加えた』三種類を指『すか、あるいは腸チフスとパラチフスの』二種類のことを『指して発疹チフスだけを別に扱うことが多い』。『日本の法律上の起因菌は』、腸チフスが Salmonella Typhi、パラチフスが Salmonella Paratyphi A である。『無症状病原体保有者や腸チフス発症者の大便や尿に汚染された食物、水などを通して感染する。これらは手洗いの不十分な状態での食事や、糞便にたかったハエが人の食べ物で摂食活動を行ったときに、病原体が食物に付着して摂取されることが原因である。ほかにも接触感染や性行為、下着で感染する。胆嚢保菌者の人から感染する場合が多い。ネズミの糞から感染することもある。上下水道が整備されていない発展途上国での流行が多く、衛生環境の整った先進諸国からの海外渡航者が感染し、自国に持ち帰るケース(輸入感染症)も多く見られる』。『日本でも昭和初期から終戦直後までは腸チフスが年間』約四万人『発生していた』(漱石の「ろ」の「先生」両親膓窒扶斯(ちやうチブス)ってい。リンクは私の初出復元版の当該章)。『食物とともに摂取されたチフス菌は腸管から腸管膜リンパ節に侵入してマクロファージの細胞内に感染する。このマクロファージがリンパ管から血液に入ることで、チフス菌は全身に移行し、菌血症を起こす。その後、チフス菌は腸管に戻り、そこで腸炎様の症状を起こすとともに、糞便中に排泄される』。感染から七~十四日経過すると、『症状が徐々に出始める。腹痛や発熱、関節痛、頭痛、食欲不振、咽頭炎、空咳、鼻血を起こ』し、そこから三~四日で症状が重くなり、四十度前後の『高熱を出し、下痢(水様便)、血便または便秘を起こす。バラ疹と呼ばれる腹部や胸部にピンク色の斑点が現れる症状を示す。腸チフスの発熱は「稽留熱(けいりゅうねつ)と呼ばれ、高熱が』一週間から二週間も持続するのが特徴で、そのため体力の消耗を起こし、無気力表情になる(チフス顔貌)。また重症例では、熱性譫妄などの意識障碍や難聴を起こしやすい』。二週間ほど『経つと、腸内出血から始まって腸穿孔を起こし、肺炎、胆嚢炎、肝機能障碍を伴うこともある』。『パラチフスもこれとほぼ同様の症状を呈するが、一般に腸チフスと比べて軽症である』(本「チブス」を私が「腸チフス」と判断したのも相対的に後者が軽症であることに拠る)。現在はワクチンがあるが、『腸チフスのワクチンにはパラチフスの予防効果は無く、腸チフスのワクチンとして弱毒生ワクチン』(四回経口接種)と『注射ワクチン』(一回接種)『が存在するが、日本では未承認。そのため日本国内でワクチン接種する際は、ワクチン個人輸入を取り扱う医療機関に申し込む必要がある。経口生ワクチンを取り扱っている医療機関は非常に少なく、輸入ワクチンを取り扱っている医療機関の多くは不活化である注射型のものを採用している。有効期間は経口ワクチンが』五年、不活化Viワクチンで二~三年間程度と『言われている。そのほかは手洗いや食物の加熱によって予防できる』が、『ワクチンの効力が出るには接種完了後』二週間ほどかかる。『治療は対象株に感受性のある抗菌剤を用いるが、ニューキノロン系抗菌薬が第一選択薬となる。しかし、ニューキノロン系薬の効果が望めない症例では』第三世代セフェム系抗菌薬を『使用することがある。また、治療後も』一年間ほど『チフス菌を排出する場合がある』とある。岩波新全集の山田俊治氏の注に、腸チフスでは『当時絶食療法が行われていた』とあり、さればこそ、重篤化して医師も匙を投げた腸チフス患者に、末期の一口と「ビスケツトを一つ食」わせたが「爲に知れ切つた往生を遂げたりする」(この「知れ切つた往生」とは、最早、はっきりと分かっている絶命、既に決まっているところの臨終の謂い)、ということになるわけである。

・「ボヴアリスム」「我我自身を傳奇の中の戀人のやうに空想するボヴアリイ夫人以來の感傷主義」「ボヴアリスム」ボヴァリズム(Bovarism)とは、フランスの小説家ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert 一八二一年~一八八〇年)の代表作にして問題作「ボヴァリー夫人」(Madame Bovary:田舎の平凡な結婚生活に倦んだ若い女主人公エマ・ボヴァリー(Emma Bovary)が不倫と借金の末に追い詰められ、自殺するまでを描いた作品。一八五六年十月から十二月にかけて文芸誌『パリ評論』に掲載されたが、翌年の一八五七年に風紀紊乱(びんらん)の罪で起訴された。しかし無罪判決を勝ち取って同年にレヴィ書房より出版されるや、ベスト・セラーとなった。フローベールは本作に実に四年半もの歳月をかけており、『その執筆期間に徹底した文体の彫琢と推敲を行なっている。ロマン主義的な憧れが凡庸な現実の前に敗れ去れる様を、精緻な客観描写、自由間接話法を多用した細かな心理描写、多視点的な構成によって描き出したこの作品は写実主義文学の礎となった。サマセット・モームは『世界の十大小説』の一つに挙げている』。以上は引用を含め、ウィキの「ボヴァリー夫人に拠る。因みに私は大学二年の時に最初の数ページを読んでリタイアし、五十九の今に至るまで、その本を持ってはいるが、読んでいない。私には冒頭だけで地獄の退屈だったのである)の主人公である夫人の性格に基づき、後の一九一〇年にフランスの哲学者ジュール・ド・ゴーティーエー(Jules de Gaultier 一八五三年~一九四二年)が生み出した造語。Seoknamkjp氏のブログ「脳を起こすキーワード」のBovarismボヴァリズム)に、『人間の本性の一つとして、本来の自分自身と間違って、自分自身を想像する機能を指して称するためにボヴァリズムという言葉を使った以来、今までも普遍的な人間の心理として見做されている。不可能な幸福を夢見ながら、自分自身の実際の姿をそのままで受け入れずに理想的なモデルとかイメージと自身を同一視する態度は、誰でもある程度持ってる人間の心理であろう』。『フローベルもこの作品を完成した後、マダムボヴァリーは私であるといたと伝えている。現実から得る以上に何かを望むのは人間の悲劇性であろう』と記しておられる。「ボヴァリー夫人」と縁のない私には、諸注のインキ臭いそれよりも、この方の説明の方が遙かに即理解で目から鱗であった。なお、老婆心乍ら、「傳奇」とは現実には起こりそうにない不思議な話。また、そのような話を題材とした幻想的で怪奇な物語や小説類(楽天的なファンタジーもブラッキーなそれも総て含む)のジャンルの総称である。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 政治的天才(二章)

 

       政治的天才

 

 古來政治的天才とは民衆の意志を彼自身の意志とするもののやうに思はれてゐた。が、これは正反對であらう。寧ろ政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののことを云ふのである。少くとも民衆の意志であるかのやうに信ぜしめるものを云ふのである。この故に政治的天才は俳優的天才を伴ふらしい。ナポレオンは「莊嚴と滑稽との差は僅かに一步である」と云つた。この言葉は帝王の言葉と云ふよりも名優の言葉にふさはしさうである。

 

       又

 

 民衆は大義を信ずるものである。が、政治的天才は常に大義そのものには一文の錢をも抛たないものである。唯民衆を支配する爲には大義の假面を用ひなければならぬ。しかし一度用ひたが最後、大義の假面は永久に脱することを得ないものである。もし又強いて脱さうとすれば、如何なる政治的天才も忽ち非命に仆れる外はない。つまり帝王も王冠の爲にをのづから支配を受けてゐるのである。この故に政治的天才の悲劇は必ず喜劇をも兼ねぬことはない。たとへば昔仁和寺の法師の鼎をかぶつて舞つたと云ふ「つれづれ草」の喜劇をも兼ねぬことはない。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年三月号『文藝春秋』巻頭に後の「戀は死よりも強し」「地獄」との全四章で初出する。

 

・『ナポレオンは「莊嚴と滑稽との差は僅かに一步である」と云つた』新全集の山田俊治氏の注に、『オクターブ・オブリ』(Octave Aubry(一八八一年~一九四六年:フランスの歴史家)編「ナポレオン言行録」(Les Pages immortelles de Napoléon (1941))『中の格言。栄光の絶頂にいる者もふとしたはずみで悲惨な状態に陥ることがある。得意と失意は紙一重という意味』とある。

・「政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののことを云ふのである。少くとも民衆の意志であるかのやうに信ぜしめるものを云ふ」「政治的天才は俳優的天才を伴ふ」或いはある読者はアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler 一八八九年~一九四五年)を直ちに想起するかも知れない。しかし、この年(一九二三年)ヒトラーは未だ満三十四歳で、同年十一月にはナチス党員の一人としてミュンヘン一揆(ドイツ闘争連盟が起こしたクーデター未遂事件)に参加するも、半日余りで鎮圧され、ヒトラーは首謀者一員として警察に逮捕されている。彼のおぞましき晴れ舞台への登場はまだまだ先のことであった。

・「抛たない」「なげうたない」。

・「非命」「ひめい」とは、天命を全うしないで思いもかけない災難によって死ぬこと。横死(おうし)。

・「仆れる」「たふれる(たおれる)」。斃れ(たお)れる。

・「をのづから」はママ。
 
・『仁和寺の法師の鼎をかぶつて舞つたと云ふ「つれづれ草」の喜劇』「鼎」は「かなへ(かなえ)」で食物を煮るのに用いた金属の器。但し、以下の「徒然草」に出るそれは、実用料理具のそれではなく、室内装飾用に置かれたものと考えられる。言わずもがな、誰もが高校の古文で読まされた、「徒然草」第五十三段の、酒に酔った愚かな僧が鼎をすっぽり首まで被って舞い踊り、満座を沸かしたものの、さて鼎が抜けなくなってしまい、医師にも匙を投げられ、首も千切れんばかりに力任せに引き抜いたところが、耳・鼻が欠け、永く病むこととなったという滑稽譚である。挙げるまでもないが、まあ、短いし、懐かしかろうから、以下に掲げる。底本は木藤才蔵校注「新潮日本古典集成」本を基本参照したが、漢字を恣意的に正字化し、読み(無論、歴史的仮名遣)はオリジナルに増加させてある。

   *

 これも仁和寺(にんなじ)の法師(ほふし)、童(わらは)の法師にならんとする名殘(なごり)とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔(ゑ)ひて興(きよう)に入る(い)あまり、傍(かたはら)なる足鼎(あしがなへ)をとりて、頭(かしら)にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻をおしひらめて、顏をさし入れて、舞ひ出でたるに、滿座興にいる事かぎりなし。

 しばしかなでて後(のち)、拔かんとするに、大方(おほかた)ぬかれず。酒宴(しゆえん)ことさめて、いかがはせんと惑(まど)ひけり。とかくすれば、頸(くび)のまはり缺(か)けて、血(ち)埀(た)り、ただ腫(は)れに腫れみちて、息もつまりければ、打ち割(わ)らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪へがたかりければ、かなはで、すべきやうなくて、三足(みつあし)なる角(つの)の上に、かたびらをうちかけて、手をひき、杖(つゑ)をつかせて、京(きやう)なる醫師(くすし)のがり、率(ゐ)て行きける、道すがら、人のあやしみ見ること限りなし。醫師のもとにさし入りて、向ひゐたりけんありさま、さこそ異樣(ことやう)なりけめ。物を言ふも、くぐもり聲(ごゑ)に響きて聞えず。「かかることは、文(ふみ)にも見えず、傳へたる教へもなし。」と言へば、また、仁和寺へ歸りて、親しき者、老いたる母など、枕上(まくらがみ)によりゐて泣き悲しめども、聞くらんともおぼえず。

 かかるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻(みみはな)こそ切れ失(う)すとも、命(いのち)ばかりはなどか生きざらん。ただ、力(ちから)を立てて引きに引き給へ。」とて、藁(わら)のしべをまはりにさし入れて、かねを隔(へだ)てて、頸(くび)もちぎるばかり引きたるに、耳鼻缺けうげながら拔けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。

   *

 まず、総論を述べる。授業では絶対に言わなかったが、ここで先輩法師らが俗体であった「童」(稚児(ちご))が一人前の「法師」(法体(ほったい))となって別れるとて、かくも異様なるどんちゃん騒ぎをするのは、その背景に法師と稚児の公的(天台宗の稚児灌頂(ちごかんじょう)など)に許された同性愛行為があったからに他ならない。そこを語り、そこを知らなければ、このシークエンスの意味は真に理解出来たとは言えない、と今の私は思う。そもそもがだな、――挿し入れたものが容易抜けなくなる――というのはまっこと、分かり易いシンボライズであって、これは語るに価値ある内容であると今は私は切に思うのである。たとえ、相手が高校一年生の初(うぶ)な男女であっても、である。因みに、参考にした原文底本の木藤氏の頭注には『三本の角といえば、『梁塵秘抄』に見える』、「我をたのめて來ぬ男 角三つ生ひたる鬼になれ さて人に疎(うと)まれよ 霜雪霰(あられ)降る水田(みづた)の鳥となれ さて足冷かれ 池の浮草(うきくさ)となりねかし と搖りかう搖り搖られ歩け」『(巻二)とう歌謡が有名であるが、恐らくこの主の歌謡を一座で合唱して舞ったのであろう』と記しておられるが、この歌、それこそ、通いの絶えた男への深い恨みごとと呪詛を詠み込んだ歌詞である。以下、「」で語釈を附す。

「仁和寺」現在の京都府京都市右京区御室(おむろ)にある真言宗大内山(おおうちさん)仁和寺。宇多天皇の開基(光孝天皇の勅願で仁和二(八八六)年に着工されたものの、光孝帝は寺の完成を見ることなく翌年崩御したため、子の宇多帝が遺志を継いで建立した)の門跡寺院(出家後の宇多法皇が住したことから「御室御所(おむろごしょ)」とも別称された)。本尊は阿弥陀如来。

「大方」呼応の副詞で下に否定を伴い、一向に・全く(~ない)の全否定の意。

「かなはで」叶はで。打ち割ることも出来ないで。

「かたびら」「帷子」で単衣(ひとえ:裏をつけていない布で制した衣類)の総称。

「がり」「誰彼(たれかれ)の人のいる所(へ)」。元来はそうした方向を示す格助詞用法の上代の接尾語であったものが、中古以後に形式名詞化したもの。因みに、この語の成立や、この妙な意味(形式名詞なのに「もとへ」「ところろへ」と辞書に書かれてあるのは面妖極まりない)を高校一年生に分かれ、丸呑みしろ、と言うのは私はまさに文法嫌いにさせる元凶と思う。

「さこそ異樣なりけめ」さぞかし異様(いよう)面妖なようすであったであろう。「こそ」に呼応する文末助動詞「けり」の已然形の係り結びとともに、「けり」が間接過去の助動詞であることから、筆者はこれを実見したのではなく、話に聴いた際に想像し、その面妖さに呆れているのだ、とここで教授するのが古文授業の「王道」とされる。アホらし。

「くぐもり聲」内にこもってはっきりしない声の謂いであるが、ここは鼎の中で顔面が腫脹しているために発音が明瞭でないことに加えて、金属製の鼎の中での発声なれば反響するという、ダブルで全くB級SF映画の宇宙人(見た目も奇体なフル・フェリス・ヘルメットだ)みたような声となるのである。

「文」本草書や医書。

「傳へたる教へ」「文」に記載化されていない、医療(多分に民間療法的な)の口伝(くでん:口伝え)の治療法・処方のこと。如何にも辛気臭い事大主義的な医師のアセスメントであるが、ここは兼好、確信犯で笑いのダメ押しとして構築している。

「命(いのち)ばかりはなどか生きざらん」どうして助からないなどということがあろうか、いや、助かる。二箇所目の係り結びで、しかも反語であるから、国語教師にはまっこと、試験を作り易い教材では確かに、あると言える。教師時代、私は「いや、助かる」を附けない反語訳は「×」としたが、これもまっこと、阿呆らしい採点法だったと今は懺悔しよう。

「藁(わら)のしべ」藁の穂の芯の部分。滑りらせするための補助材である。

「かねを隔てて」金属製の鼎の口の周囲の部分と法師の肉身の頸部表皮との間に隙間を拵えて。

「うげ」「穿(う)ぐ」(カ行下二段活用・自動詞)の連用形で、孔が空く・抉(えぐ)り取られるの意。

「からき」形容詞ク活用「からし」の連体形で、ここでは、免(まぬか)れることが困難な・危ういの謂い。すんでのことに。

「まうけ」「まうく」(カ行下二段活用・他動詞)の連用形で、ここでは、命を危うくとりとめる。助かる、の意。

 まあしかし、後の芥川龍之介の謂い(「つれづれ草」)じゃないが、今考えれば、「中學程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ」「徒然草」なんぞは、これ、およそ「愛讀」する価値のある代物じゃあ、確かに、ない、ね。]

2016/05/24

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  佛陀(三章)

 

       佛陀

 

 悉達多は王城を忍び出た後六年の間苦行した。六年の間苦行した所以は勿論王城の生活の豪奢を極めてゐた祟りであらう。その證據にはナザレの大工の子は、四十日の斷食しかしなかつたやうである。

 

       又

 

 悉達多は車匿に馬轡を執らせ、潜かに王城を後ろにした。が、彼の思辨癖は屢彼をメランコリアに沈ましめたと云ふことである。すると王城を忍び出た後、ほつと一息ついたものは實際將來の釋迦無二佛だつたか、それとも彼の妻の耶輸陀羅だつたか、容易に斷定は出來ないかも知れない。

 

       又

 

 悉達多は六年の苦行の後、菩提樹下に正覺に達した。彼の成道の傳説は如何に物質の精神を支配するかを語るものである。彼はまづ水浴してゐる。それから乳糜を食してゐる。最後に難陀婆羅と傳へられる牧牛の少女と話してゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年二月号『文藝春秋』巻頭に前の「椎の葉」との全四章で初出する。底本の後記によれば第一アフォリズムは初出では、「六年の間苦行した所以は勿論王城の生活の豪奢を極めてゐた祟りであらう。」の「祟り」が、「六年の間苦行した所以は勿論王城の生活の豪奢を極めてゐた結果であらう。」となっている。仏陀を主人公としているところに「祟り」を持ち出すところがすこぶるよろしい、面白いと私は感ずる。それについては以下の私の「祟り」の注を参照されたい。

 

・「悉達多は王城を忍び出た後六年の間苦行した」「悉達多」は「しつたるた(しったるた)/しつだるた(しっだるた)」と普通は読むが、旧全集の芥川龍之介の「神神の微笑」で「したあるた」とルビあい、筑摩全集類聚版もそれを採っているので、ここでも「したあるた」と読んでおく(リンク先は私の初出推定復元版)。原音に基づくなら、ガウタマ・シッダールタ(Gautama Siddhārtha:紀元前五世紀頃の北インド出身の人物)であり、濁音化する方が近いが、辞書類は概ね清音で示すようである。これは梵語(古代サンスクリット語)の「Siddhārtha」(「すべて完成しているもの」の意)の漢訳で(フルでは「瞿曇悉達多(くどんしっだった)」)、釈迦が出家前に太子だった折りの名である。ウィキの「釈迦」によれば(下線やぶちゃん)、『釈迦の父であるガウタマ氏のシュッドーダナは、コーサラ国の属国であるシャーキャのラージャで、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーである』。二人の『間に生まれた釈迦はシッダールタと名付けられた。母のマーヤーは、出産のための里帰りの旅行中にルンビニで釈迦を生み、産褥熱でその』七日後に死んだとされる。『シャーキャの都カピラヴァストゥにて、釈迦はマーヤーの妹プラジャーパティーによって育てられ』、『釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った』。十六歳で『母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子、ラーフラをもうけた』(別説有り)。『当時のインドでは、後にジャイナ教の始祖となったマハーヴィーラを輩出するニガンタ派をはじめとして、順世派などのヴェーダの権威を認めないナースティカが、バラモンを頂点とする既存の枠組みを否定する思想を展開していた』。『釈迦が出家を志すに至る過程を説明する伝説に、「四門出遊」の故事がある。ある時、釈迦がカピラヴァストゥの東門から出る時老人に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時死者に会い、この身には老いも病も死もある、と生の苦しみを感じた(四苦)。北門から出た時に一人の沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった』。『長男のラーフラが生まれた後』の、二十九歳の『時に、夜半に王宮を抜け出て、かねてよりの念願の出家を果たした。出家してまずバッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、バッカバは死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。次にアーラーラ・カーラーマのもとを訪れると、彼が空無辺処(あるいは無所有処)が最高の悟りだと思い込んでいるが、それでは人の煩悩を救う事は出来ないことを悟った。次にウッダカラーマ・プッタを訪れたが、それも非想非非想処を得るだけで、真の悟りを得る道ではないことを覚った。この三人の師は、釈迦が優れたる資質であることを知り後継者としたいと願うも、釈迦自身はすべて悟りを得る道ではないとして辞した』。その後、ウルヴェーラーの林(苦行林)へ『入ると、父のシュッドーダナは釈迦の警護も兼ねて』五人の沙門(五比丘)を『同行させた。そして出家して』六年の間、『苦行を積んだ。減食、断食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。その際、五比丘は釈迦が苦行に耐えられず修行を放棄したと思い、釈迦をおいてワーラーナシーのサールナートへ去っ』ている。この時既に三十五歳となっていた釈迦は、そこで、『全く新たな独自の道を歩むことと』し、リラジャンという川で『沐浴したあと、村娘のスジャータから乳糜』(後注参照)『の布施を受け、気力の回復を図って、インドボダイジュの木の下で、「今、悟りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で瞑想した。すると、釈迦の心を乱そうとマーラ』(釈迦の瞑想を妨げるために現れた魔神。愛の神カーマと結び付けられて「カーマ」の別名又は「カーマ・マーラ」として一体で概念されることがある。マーラを降すことを「降魔」という)『が現れ、この妨害が丸』一日『続いたが、釈迦はついにこれを退け(降魔)、悟りを開いた(正覚)』とある。なお、岩波新全集の山田俊治氏の注では、『以下の説話は「今昔物語集」巻一第四、五によっている』と注する。しかしこれは厳密に言うなら、その前の「悉達太子在城受樂語第三」(悉達太子(しつだたいし)、城(じやう)にりて樂しみを受けたまへる(こと)第三)及び「悉達太子出城入山語 第四」(「悉達太子、城を出でて山に入りたまへる語第四)悉達太子於山苦行語第五」(悉達太子、に於いて苦行したまへる語第五の三篇に基づくとすべきところである(リンク先はともに私がしばしばお世話になっている「やたがらすナビ」の漢字新字版平仮名化の原文である)。「後」は「のち」。芥川龍之介は滅多に「あと」とは訓じない。

・「祟り」本来の仏教には「祟り」という概念はないと考えてよい(ヒンドゥーの魔神類は悉く如来の眷属化していて祟るべき神は教義上では存在しないはずと私は思う)。仏教よりも起源の古い(と私は考えている)日本の古い信仰に於ける「神」は(大和朝廷によって「古事記」などで整序された国家神道以前の信仰を私は指しているので注意されたい)、基本的に「祟り神」という絶対属性を持つ。辛気臭い仏教やら阿呆臭い現人神なんぞとはわけが違う――だから――小気味よく、すこぶるよろしく面白いのである。なお、本邦の仏教で「祟り」を謂い出すようになるのは神仏習合の恐らく非常に早い時期に神道側からの強い「祟り」観念の強力感染が仏教側に発生したことを意味するものと私は思っている。その感染菌が仏教の胎内で共生することによって、仏教側もたんまり儲けられるようになることが即座に判ったからに他ならない。ウィキの「祟り」にも(下線やぶちゃん)、『日本の神は本来、祟るものであり、タタリの語は神の顕現を表す「立ち有り」が転訛したものといわれる。流行り病い、飢饉、天災、その他の災厄そのものが神の顕現であり、それを畏れ鎮めて封印し、祀り上げたものが神社祭祀の始まりとの説がある』。一般に祟りというと、『人間が神の意に反したとき、罪を犯したとき、祭祀を怠ったときなどに神の力が人に及ぶと考え』て発生したものと考えてよかろう。『何か災厄が起きたときに、卜占や託宣などによってどの神がどのような理由で祟ったのかを占っ』たりすることによって、その神が『人々に認識され』、そこでやおら、『罪を償い』、『その神を祀ることで祟りが鎮められると考えられている。神仏習合の後は、本来は人を救済するものであるはずの仏も、神と同様に祟りをもたらすと考えられるようになった。これも、仏を祀ることで祟りが鎮められると考えられた。しかしこれはあくまでも俗信であり、仏教本来』(ここには要出典要請がかけられているが、どこでもよい、寺を訪ねて訊くがよい。祟りを語るのは水子や先祖霊の供養を高額で勧めるクソ坊主ばかりであるはずだ)『の考え方においては、祟りや仏罰を与えることはない』。後に御霊信仰の成立により(これは明らかに仏教ではなく、神道や古神道以前の信仰が遠い濫觴であると私は思う)、『人の死霊や生霊も祟りを及ぼすとされるようになった。人の霊による祟りは、その人の恨みの感情によるもの、すなわち怨霊である。有名なものとしては非業の死を遂げた菅原道真(天神)の、清涼殿落雷事件などの天変地異や、それによる藤原時平・醍醐帝らの死去などの祟りがある。時の天皇らは恐懼して道真の神霊を天満大自在天神として篤く祀り上げることで、祟り神を学問・連歌などの守護神として昇華させた。このように、祟り神を祭祀によって守護神へと変質させるやり方は、恐らく仏教の伝来以降のものと考え』て間違いはないと思われる

・「ナザレの大工の子は、四十日の斷食しかしなかつた」「新約聖書」の「マタイによる福音書」の第四章に以下のようにある(私が下線を引いた第二節が当該箇所)。大正改訳に読点などを補って示す。

   *

 ここにイエス、御靈(みたま)によりて荒野(あらの)に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり。 四十(しじふ)日四十夜(や)斷食(だんじき)して、後(のち)に飢ゑたまふ。試むる者、きたりて言ふ、

「汝もし神の子ならば、命じて此等(これら)の石をパンと爲らしめよ。」

答へて言ひ給ふ、

「『人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言(ことば)に由る。』と錄(しる)されたり。」

 ここに惡魔、イエスを聖なる都(きやこ)につれゆき、宮(みや)の頂上きに立たせて言ふ、

「汝もし神の子ならば己(おの)が身を下(した)に投げよ。それは、

   『なんぢの爲に御使ひたちに命じ給はん。

    彼ら手にて汝を支へ、その足を

    石にうち當つること無からしめん。』

と錄されたるなり。」

イエス、言ひたまふ、

「『主(しゆ)なる汝の神を試むべからず。』と、また錄されたり。」

 惡魔またイエスを最(い)と高き山につれゆき、世のもろもろの國と、その榮華とを示して言ふ、 「汝なんぢもし平伏(ひれふ)して我を拜(はい)せば、此等を皆、なんぢに與へん。」

 ここにイエス、言ひ給ふ。

「サタンよ、退(しりぞ)け。『主なる汝の神を拜し、ただ之れにのみ事(つか)へ奉まつるべし。』と録されたるなり。」

 ここに惡魔は離れ去り、視よ、御使ひたち來り事へぬ。

   *

・「車匿」「しやのく(しゃのく)」と読み、梵語Chandakaの音写で釈迦の元従僕(馬丁)で後に弟子となった人物。釈迦 が王城を後にして出家した際、苦行林までその馬を牽いたとされる人物で、釈迦の没後に阿難(釈迦十大弟子の一人。多聞(たもん)第一と称せられた)について修行し、阿羅漢(あらかん:梵語arhatの漢音写。「応供」(おうぐ)などと漢訳する。「尊敬を受けるに値する人」の意。略称して「羅漢」とも言い、主に小乗仏教に於いて最高の悟りに達した聖者を指す)となったとされる。「チャンダカ」「チャンナ」とも呼ぶ。ウィキの「車匿」によれば、『釈迦の弟子で、チャンナという同名の弟子は』四名『いたといわれる。釈迦が出家する際に、白馬・健陟(カンタカ)を牽引した馬丁チャンナと六群比丘の一人で悪行が多かったチャンナは共通の事説が多く、同一人物といわれる』。『チャンナは釈迦と同じ日に生まれたという。釈迦仏が太子時の従僕であるが』、『クシャトリア(王種)ともいわれる。シッダルタ太子(釈迦)がカピラ城をチャンナと共に出城し、東方の阿奴摩(アーマー)河にて剃髪し出家した。その際、チャンナに宝冠、衣帯、宝珠を渡し』て、『白馬カンタカを牽引して城へ帰さしめた』。「摩訶僧祇律」(まかそうぎりつ:中国の東晋代に成立した律蔵(教団規律集)の一つ。仏駄跋陀羅(ぶっだばっだら)と法顕の共訳で全四十巻)では釈迦十大弟子の一人で頭陀第一とされた摩訶迦葉(まかかしょう)の『後に続いて順に出家したとされるが、一般的には釈迦仏が故郷カピラ城へ帰った際に出家したといわれる』。『チャンナは自分がクシャトリアであり、仏と最も親しい者であると思い込んでおり、しばしば悪口を働き、そのため悪性車匿(あくしょう・しゃのく)、あるいは悪口車匿(あっく・しゃのく)といわれた。舎利弗』(しゃりほつ:釈迦十大弟子の一人。智慧第一とされた)や目連(釈迦十大弟子筆頭で神通第一とされる)に対しても嫉妬し、『悪口をいい、釈迦仏も幾度も彼に注意したが、その場では大人しいが、しばらくするとまた悪口を言うことを繰り返した。また戒律を犯しても認めようとせず、他の比丘衆からもよく駆遣呵責(くけんかしゃく=厳しくその責を咎める)された』。『釈迦仏の入滅直前に、阿難(アーナンダー)がチャンナをどう扱えばよいかと問うと、ブラフマダンタ(黙擯=だまってしりぞける、つまり無視する)の罪法を科した。アーナンダーは、それでもチャンナは気が荒く乱暴者であるから』、その場合は『どうすればよいか再度訊ねると、仏は大勢の比丘を率いていけばよいと答えた。しかして釈迦仏が入滅した後に、アーナンダーは』五百人の『比丘を連れてコーサンビーのゴーシタ苑に彼を呼び出し、仏から伝えられた罪を申し渡した。彼はそれを聞き、気絶して倒れたが、それを機に心を入れ替え』て『修行に励んだ結果、ついに阿羅漢果を得て、後に無余涅槃に入ったといわれる』とある。

・「馬轡」「はみ」或いは「くつわ」「くつばみ」と当てて訓じたい(筑摩全集類聚版は「ばひ」とルビするが、聴き慣れず、採らない)。要するに、馬具の一種である「轡(くつわ)」のことである。馬の口には嵌めて手綱に繫いで馬を制御する道具。狭義には、馬の口に噛ませるその主要な部分を「馬銜」(はみ・喰)と呼ぶ。

・「メランコリア」英語の melancholia は文語で鬱(状態)・病的な重い憂鬱の意。鬱気分や鬱病は現行では depression を用いる。

・「釋迦無二佛」釋迦無二」は「釋迦牟尼」が一般的表記であるが、所詮、梵語の Śākyamuni、「釈迦族の聖者」の意の音写の符号であるから別段「無二」でもよく、字面も「釈迦」の尊称として違和感がない。

・「耶輸陀羅」筑摩全集類聚版は「やすだら」とルビするが、現在では殆んどの辞書が「やしゆだら(やしゅだら)」とする。ところがウィキの「耶輸陀羅」では「やしょだら」(歴史的仮名遣なら「やしよだら」)で、言語の綴り(梵語:Yaśodharā / Jašódharā・パーリ語:Yasodharā)から見て、「やしょだら」で読むこととする。以下、ウィキの「耶輸陀羅」から引く。『釈迦が出家する前、すなわちシッダールタ太子だった時の妃である。一般的な説では、出家以前の釈迦、すなわちガウタマ・シッダールタと結婚して、一子羅睺羅(らごら、ラーフラ、ラゴーラ)を生んだとされる』。後に『比丘尼(すなわち釈迦の女性の弟子)となった』。『耶輸陀羅の身辺や出身には多くの説があ』り、『拘利(コーリヤ)族の天臂(デヴァーダハ)城のアンジャナ王を祖父として、その王の長男・善覚(スプラブッダ)、長女・摩耶、次女・摩訶波闍波提あり、耶輸陀羅は善覚の娘で提婆達多は弟に当る(南伝パーリ仏典、ジャータカ等)という説』、『釈迦族の住むカピラ城の執杖(ダンダパーニ)大臣の娘、瞿夷(ゴーピカー、普曜経等の記述)が同人異称とし、混同されて伝えられたという説』、『釈迦族のカピラ城の大臣、摩訶男(摩訶摩那とも、阿那律の兄で五比丘の一人とは別人)の娘(仏本行集経)の説』などがあるとし、『いずれにしても一般的には、摩訶摩耶の子である釈迦、摩訶波闍波提の子である難陀は彼女のいとこに当るという説が北伝』(北伝仏教:インドから北方のルートを経て伝播した仏教の総称。大乗仏教と同義)『では採用されている。北伝の仏典では、彼女の婿選び儀式 swayamvara)で釈迦と難陀や提婆達多等と競技を行い、釈迦の正妃となったとする説もあるが、彼女が』十歳前後で釈迦が十七歳(或いは十六歳)で『結婚したといわれる。また釈迦とは同じ生年月日で』十七歳で『結婚したとする説もある』。『また出家前の釈迦には、耶輸陀羅も含め三人の妃と子がいたと伝えられるが、耶輸陀羅はいずれもその正妃となったともいわれる』。『彼女は釈迦の妃となって初めて宮中に入る際、慣例を無視してヴェールをつけず侍女から注意されると、「この傷一つない顔をなぜ隠す必要があるのですか?」と言ったともいわれる。この故か五天竺第一の美女とも称せられる』。『彼女は釈迦仏が出家直前(直後とも)にラゴーラを生んだが、経典によっては、彼女はラゴーラを』六年もの間、『胎内に宿していた、という説や、釈迦が難行苦行中の』六年の間に『ラゴーラを宿していて、成道の夜に生んだという諸説がある。雑宝蔵経では、釈迦の成道後にラゴーラを生んだことで親族から貞節を疑われたと記し、ジャータカ因縁物語では釈迦の実父である浄飯(スッドダーナ)王は彼女の貞節を賛じたという』。『釈迦仏が』悟りを開いて十二年の後、『故郷カピラ城に帰郷した際、彼女はラゴーラを伴』って『釈迦仏に会いに行き』、『「財宝を譲って下さい」と言うようにラゴーラに言わせたという。釈迦仏はそのようにすればよい、と認めるもラゴーラはニグローダ樹苑に行こうとする釈迦仏の一行についていき、沙彌(年少の見習い修行者)となった』。『彼女自身も叔母の摩訶波闍波提』(まか はじゃはだい)や五百人の『女性と共に出家させてもらえるよう、釈迦仏に三度にわたり懇願したが、なかなか受け付けてもらえず』、『大声で泣いて帰城した。釈迦仏の一行は既にカピラ城を離れ』、『ヴァイシャリー城の郊外にある大林精舎(重閣講堂)へ赴いたが、あきらめきれなかった彼女たちは剃髪し』、『黄衣を着て』、『跡を追って行った。講堂の前で足を腫らして涙と埃や塵でまみれ大声で泣いていたが、彼女らを見た阿難陀(アーナンダ)が驚いて理由を聞かれ、女性の出家を認めるよう頼み、阿難陀の説得もありようやく出家を許された。出家後は自分を反省する事に努め、尼僧中の第一人者になったといわれる』とある。

・「すると王城を忍び出た後、ほつと一息つゐたものは實際將來の釋迦無二佛だつたか、それとも彼の妻の耶輸陀羅だつたか」実に上手い。彼は妻を置いて独り「王城を忍び出た」がしかし、「彼の思辨癖」(神経症的にぐるぐるぐるぐる考え続ける悪い癖)は、その後も(ということはそれ以前も)しばしば「彼」自身「をメランコリア」、重い抑鬱状態に陥らせた。だと「すると」彼が出家するために「王城を忍び出た後」に「ほつと一息つ」いた者は「實際」、当の「將來の釋迦無二佛だつた」のだろうか? いや、胆汁質の「メランコリア」の輩はそう簡単に「ほつと」などせぬ。実は彼がいなくなって「ほつと一息つ」けたのは、さんざんっぱら、彼の鬱気分につきあわされ続けてきて、内心は彼に飽き飽きしていた「彼の妻の耶輸陀羅だつた」のかも「知れない」、というのである。非常にこの気持ち、私にはよく判る。――私自身が「メランコリア」の輩だから――である。

・「菩提樹」釈迦が菩提を得た、悟りを開いた場所にあったとされる、イラクサ目クワ科イチジク属インドボダイジュ Ficus religiosa 。別名を「テンジクボダイジュ」(天竺菩提樹)と称し、釈迦が生まれた所にあったとされる「無憂樹」(マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サラカ属ムユウジュ Saraca asoca)及び釈迦の涅槃の場にあったとされる「沙羅双樹」(アオイ目フタバガキ科 Shorea 属サラソウジュ Shorea robusta)と並ぶ、仏教三大聖樹の一種。ウィキの「インドボダイジュによれば、熱帯地方では高さ二十メートル以上に『生長する常緑高木。葉の先端が長く伸びるのが特徴。他のイチジク属と同様、絞め殺しの木となることがある。耐寒性が弱く元来は日本で育てるには温室が必要であるが、近年では地球温暖化の影響で、関東以南の温暖な地域では路地植えで越冬できたり、または鉢植えの観葉植物として出回っている。各地の仏教寺院では本種の代用としてシナノキ科の植物のボダイジュ』(アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属ボダイジュ Tilia miqueliana)『がよく植えられている。そのためボダイジュが「菩提樹」であるかのように誤解されることが多いが、本種が仏教聖樹の「菩提樹」である』とある。

・「正覺」「しやうがく(しょうがく)」は仏教用語。「無上等正覚」の略で、仏の正しい悟り・最高の悟りの境地を指す。筑摩全集類聚版には「正」『意を以って宇宙人生の真理を』「覚」『悟した意』とある。

・「成道の傳説」「成道」は「じやうだう(じょうどう)」と読む仏教用語で、仏教の修行者や求道者が修行を積んだ結果、遂に悟りを開くことを指す(「道」は「さとり」の意)。釈迦は苦行実践を無益であるとして捨てた後、菩提樹の下で悟りを開いた、これを「成道」と呼び、毎年、その成道の日とされる十二月八日に「成道会(じょうどうえ)」 が行われる。新潮文庫の神田由美子氏の注には、『悉達多六年の苦行後、解脱(げだつ)を断念し、尼連禅河』(にれんぜんが:Nairañjanā; Nerañjanā:インド・ビハール州ブッダガヤーの東を流れる川。先に出した「リラジャン」川と同じ)『にて水浴し、村長の娘善生の供養する乳糜(にゅうび)』(次注参照)『を食べ』、『体力を回復した後、菩提樹下に初めて悟りを開き、仏陀とな』ったとする。その「正覺」、悟りに至った経緯を語る諸伝承の謂いである。

・「乳糜」「にゆうび(にゅうび)」は諸注総て、牛乳で米をに煮詰めた食物とする。「糜粥(びじゅく)」という熟語があり、これは薄い粥(かゆ)を指すから、牛乳を水で割って煮込んで製した粥ということであろうか(消化はすこぶる良さそうである)。先のウィキの「釈迦」から引いたり、或いは前注した通り、釈迦は尼連禅河で『沐浴したあと、村娘のスジャータ』(次注参照)から、この『乳糜の布施を受け』て、遂に悟達したのである。

・「難陀婆羅」「なんだばら」。この龍之介の文脈だと、乳糜を施してくれた人物と、「最後に」「話し」た「牧牛の少女」「難陀婆羅」は別人としか読めないが、考えてみれば、牛の乳の粥と牧牛であるから、これは同一人物と考えた方が自然である。実際、ウィキの「スジャータを見ると同一人物である。以下に引く。スジャータ(サンスクリット語及びパーリ語:Sujātā:正確に音写するなら「スジャーター」)は釈迦が悟る直前に乳がゆを供養して『命を救ったという娘である』。釈迦は六年に亙る『生死の境を行き来するような激しい苦行を続けたが、苦行のみでは悟りを得ることが出来ないと理解する。修行を中断し責めやつしすぎた身体を清めるためやっとの思いで付近のネーランジャラー川(尼連禅河)に沐浴をした』。『スジャータは「もし私が相当な家に嫁ぎ、男子を生むことがあれば、毎年百千金の祭祀(Balikamma)を施さん」とニグローダ樹に祈った。その望みの通りになったため、祭祀を行っていた。スジャータの下女はプンナー(PuNNā)樹下に坐していた釈迦を見て、樹神と思い、スジャータに知らせると、彼女は喜んで』、『その場に赴いて釈迦に供養した。釈迦はスジャータから与えられた乳がゆ(Pāyāsa)を食してネーランジャラー川に沐浴した』。『心身ともに回復した釈迦は心落ち着かせ』、『近隣の森の大きな菩提樹下に座し』、(東アジアの伝承では旧暦十二月八日に)『遂に叡智を極め悟りを得て』、『仏教が成道した』。『一般的に、釈迦がスジャータから乳がゆの供養を得て悟りを得た後に説法して弟子となったのは、五比丘であり、優婆夷(女性在家信者)ができたのもその後と考えられるが、彼女を最初の優婆夷とする仏典もある』。『スジャータは古代インドの女性名で、良い生い立ち、素性を意味する。漢訳では善生(ぜんしょう)、難陀婆羅(ナンダバラ)など。難陀(Nanda)とは、歓喜。婆羅(Vara)とは、菩薩(求める)』の謂いである。なお、彼女の出自や身辺は経典によって異なるとある。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  椎の葉

 

椎の葉

 

 完全に幸福になり得るのは白痴にのみ與へられた特權である。如何なる樂天主義者にもせよ、笑顏に終始することの出來るものではない。いや、もし眞に樂天主義なるものの存在を許し得るとすれば、それは唯如何に幸福に絶望するかと云ふことのみである。

 「家にあれば笥にもる飯を草まくら旅にしあれば椎の葉にもる」とは行旅の情をうたつたばかりではない。我我は常に「ありたい」ものの代りに「あり得る」ものと妥協するのである。學者はこの椎の葉にさまざまの美名を與へるであらう。が、無遠慮に手に取つて見れば、椎の葉はいつも椎の葉である。

 椎の葉の椎の葉たるを歎ずるのは椎の葉の笥たるを主張するよりも確かに尊敬に價してゐる。しかし椎の葉の椎の葉たるを一笑し去るよりも退屈であらう。少くとも生涯同一の歎を繰り返すことに倦まないのは滑稽であると共に不道德である。實際又偉大なる厭世主義者は澁面ばかり作つてはゐない。不治の病を負つたレオパルデイさへ、時には蒼ざめた薔薇の花に寂しい頰笑みを浮べてゐる。……

 追記 不道德とは過度の異名である。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年二月号『文藝春秋』巻頭に次の「佛陀」(同題で三章)との全四章で初出する。

 

・「もし眞に樂天主義なるものの存在を許し得るとすれば、それは唯如何に幸福に絶望するかと云ふことのみである」龍之介は人生の普遍的絶対属性を「絶望」のみと捉えていることがこれによって判明する。オプティミスト(optimist)とは「絶望」をさえ幸福と感ずる救いがたい白痴であると断じていることに注視せねばならぬ。しかも「厭世主義者は澁面ばかり作つて」いるわけではなく、厭世詩人の荊冠を被せられた「不治の病を負つたレオパルデイさへ」も「時には蒼ざめた薔薇の花に寂しい頰笑みを浮べて」いたと付け加えるところが胆(きも)である。絶望と厭世の中に在っても儚い薔薇の衰えゆく美を惜しみ愛でる感情こそが厭世主義者の正しき「道德」だというのである。彼は、殊更にこれ見よがしに悲観するペシミスト(悲観厭世主義者)も、何が何でも幸せとへらへら笑い呆けている楽天主義者も、これ、孰れも「過度」の病態を示した「不道德」な病者であると喝破しているのである。そこに思い至らねば、龍之介の真意、いや、まことの憂鬱を理解することは出来ぬのである。

・「家にあれば笥にもる飯を草まくら旅にしあれば椎の葉にもる」「万葉集」の「巻第二」の「挽謌」冒頭に載る有間皇子(みこ)が自らが謀反の罪で絞首刑される前に詠んだとされる辞世の二首(第一四一及び一四二番歌)、

 

   有間皇子(ありまのみこ)の自(みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)を結べる歌二首

 

磐代(いはしろ)の濱松が枝を引き結び眞幸(まさき)くあらばまた還り見む

 

家(いへ)にあれば笥(け)に盛(も)る飯(いひ)を草枕(くさまくら)旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る

 

の後の一首である。「松が枝を結べる」草木を結ぶことは、古来からある、その「結び繋ぐ」という行為の中に人の命を繫ぎ止める(死に至らせない)という類感呪術である。「磐代」は現在の和歌山県日高郡みなべ町(ちょう)西岩代。後に知られるようになる熊野古道が通るが、本歌に近似性のある一首「万葉集」「卷第一」の第十番歌である「中皇命(なかつすめらみこと)の、紀の温泉(ゆ)に往(いでま)しし時の御歌(みうた)」という前書を持つ「君が代もわが代も知るや磐代の岡の草根(くさね)をいざ結びてな」という歌の中西進氏の注(講談社文庫版「万葉集(一)」)にこの磐代の北にある『切目(きりめ)からここまでは海岸をはずれて峠を越える。この下り口の岡に無事を祈る習慣があったのだろう』と注されておられる。なお、「中皇命」は有間皇子の父孝徳天皇の皇后である間人皇后(はしひとのひめみこ)に比定されている(但し、有間皇子の母ではない)。「眞幸く」の「ま」は美称の接頭辞。「幸く」は命が栄えるさま。「見む」の「む」は推量。意志ととると、直前の「あらば」の仮定と微妙に齟齬する。「笥」食物を盛る木製の食器。当時、「笥を持つ」というのはその笥を使う男の妻となることを意味したから、この部分には妻への思慕の情が深く示されてある。「椎」ブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis の樹木或いは近縁のブナ科マテバシイ属マテバシイ Lithocarpus edulis かも知れぬ。

 有間皇子(舒明天皇一二(六四〇)年~斉明天皇四年(六五八)年)は飛鳥時代の皇族で第三十六代孝徳天皇の皇子。ウィキの「有間皇子」によれば、孝徳天皇元(六四五)年に父が即位して孝徳天皇となり、天皇は同年六月十九日に史上初めて元号を立てて「大化元年」とし、その十二月九日(ユリウス暦では丁度、六四六年一月一日)に都を難波宮に移したが、それに反対する皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)は白雉四(六五三)年に都を倭京(わきょう:大和)に戻すことを求めた。孝徳天皇がこれを聞き入れなかったため、中大兄は勝手に倭京に移り、皇族たちや群臣たちの殆んど、孝徳天皇の皇后である間人皇女までも中大兄に従って倭京に戻ってしまう。失意の中に孝徳天皇は白雉五年十月に崩御し、斉明天皇元(六五五)年一月(新たな元号は定められておらず、白雉の継続使用も行われていない)、孝徳天皇の姉の宝皇女(第三十五代皇極天皇)が再び、飛鳥板葺宮で題三十七代斉明天皇として重祚(ちょうそ)した。『父の死後、有間皇子は政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して牟婁の湯に赴いた。飛鳥に帰った後に病気が完治したことを斉明天皇に伝え、その土地の素晴らしさを話して聞かせたため、斉明天皇は紀の湯に行幸した。飛鳥に残っていた有間皇子に蘇我赤兄』(そがのあかえ:蘇我馬子の孫)が『近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘し、自分は皇子の味方であると告げた。皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。なお近年、有間皇子は母の小足媛』((おたらしひめ:大化の改新で左大臣に任じられた阿倍内麻呂の娘)『の実家の阿部氏の水軍を頼りにし、天皇たちを急襲するつもりだったとする説が出ている』。『ところが蘇我赤兄は中大兄皇子に密告したため、謀反計画は露見し(なお蘇我赤兄が有間皇子に近づいたのは、中大兄皇子の意を受けたものと考えられている)、有間皇子は守大石・坂合部薬たちと捕らえられた』。斉明天皇四年十一月九日(六五八年十二月九日)に『中大兄皇子に尋問され、その際に「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」(天與赤兄知。吾全不知)と答えたといわれる。翌々日に藤白坂』(ふじしろのさか:現在の和歌山県海南市藤白)『で絞首刑に処せられた』が、護送される途中、磐代の『地で皇子が詠んだ』二首がこれらの歌であるとされる。但し、この二首に『ついては、民俗学者・折口信夫により後世の人物が皇子に仮託して詠んだものではないかと』疑義が示されてある。『有間皇子の死後、大宝元年』(七〇一年)の『紀伊国行幸時の作と思われる長意吉麻呂や山上憶良らの追悼歌が』「万葉集」に残されているものの、『以降、歴史から忘れ去られた存在となるが、平安後期における万葉復古の兆しと共に、幾ばくか史料に散見されるようになり、磐代も歌枕とな』った。但し、俊頼髄脳では、『辞世歌が父・孝徳と喧嘩して出奔した際の歌とされているなど、伝説化の一途を辿るようにな』り、『極端な例では』、江戸期の「百人一首」の『注釈書などでは「後即位」とまでなっている』とある。

・「倦まない」「うまない」。飽きない。

・「不治の病を負つたレオパルデイ」イタリアを代表する詩人(厭世詩人)の一人で哲学者・文献学者でもあったジャコモ・レオパルディ(Giacomo Taldegardo Francesco di Sales Saverio Pietro Leopardi, Conte  一七九八年~一八三七年)。以下、平凡社「世界大百科事典」の河島英昭氏の解説に拠る(書名原題その他一部は私が挿入した。下線はやぶちゃん)。アドリア海を遠望する丘陵地帯の町レカナーティに伯爵家の長男として生まれた。母親も侯爵家の出身で、幼い頃から厳しい躾を受け、政治的にも文化的にも保守性の強い環境に育った。最初の教育は父親や聖職者たちから受けたが、刻苦勉励して異常なまでに早熟な才能をあらわし、十四歳の頃には教師を必要としなくなり、膨大な蔵書を収めた父親の書斎に引き籠って、専ら古典文献の読破に努めた。十歳から十八歳頃までの驚異的な勉学によって、英語・ドイツ語・フランス語の近代語は勿論、古代ギリシア語・ラテン語・ヘブライ語などをも独習して該博な知識を身につけたものの、この間にあまり陽光の入らない部屋のなかで生活したため、発育不全となって身長が伸びず、佝僂(くる)となって、はなはだしく健康を害することとなった。一方、その頃、ヘシオドスの翻訳や「オデュッセイア」「アエネーイス」の部分訳などを試み、古典的な文体を身につけた。しかし、初めは必ずしも文学を志したわけではなく、博識を駆使して「天文学史」(Storia dell'astronomia:一八一三年)などの啓蒙主義的な論文や悲劇の習作・古典文学論などを著している。その後、一八一五年から一八一六年にかけて言語に纏わる美に目覚め、一種の宗教的な体験のうちに、それまでの知識を振り捨てるようにして詩の世界へ踏み込んだ。詩編「死に近づく賛歌」(L'appressamento della morte:一八一六年作)はその意味で詩人レオパルディの誕生を画した文学的回心の作品とされる。この中でレオパルディは、言うなら、ダンテとペトラルカの詩法の融合を企て、一種の宗教的な信条から発した詩心を吐露している。しかし、彼の詩才に対して周囲は冷ややかな態度で接し、両親の無理解と屈辱的な経済援助のうちに詩人は呻吟して暮らした。すべての愛する者たちの心から離れ、全くの孤独のうちに詩作を続けたが、二十一歳の時、眼病に罹患し、読書の道を絶たれるなど、不幸は更に次々と彼を襲った。文学史上、しばしば世界最高の厭世詩人と呼ばれるように、レオパルディの詩は暗澹たるペシミズム(厭世主義)に塗りこめられているしかし、彼の詩には、本来、二つの異なる傾向が共存していた一つは詩編「イタリアに」(All'Italia :一八一八年)・「ダンテの碑の上で」(Sopra il monumento di Dante che si preparava in Firenze :一八一九年(彼についてのイタリア語版ウィキでは一八一八年とする))・「アンジェロ・マーイに」(Ad Angelo Mai, quand'ebbe trovato i libri di Cicerone della Repubblica:一八二〇年)などのように、同時代の政治的かつ文化的要請に応えようとする傾向で、その限りでは、近代イタリア国家統一へと収斂していくロマン主義文学と軌を一にしている今一つは、詩編「月に寄せて」(Alla luna:一八一九年)・「無窮」(L'infinito:八一九年)・「祭りの日の夕べ」(a sera del giorno festivo:一八二〇年)などのように、深い悲しみとあらわにされた心の動きをそのままに伝える一連の抒情詩で、そこには個人的な悲しみの感情を超えて、世界そのものが悲哀の存在として描き出されている。「サッフォーの最後の歌」(Ultimo canto di Saffo:一八二二年)・「シルビアに寄せて」(A Silvia:一八二八年)、また「月は傾く」(Il tramonto della Luna:一八三六年。但し、最後の六行は詩人の死の直前に口述されたものとされる)など、透徹した悲哀の詩編は、いずれも詩集「カンティ」(Canti:「Canti」は古フランス語の「チャント(chant)」で「詠唱・唱和」の意。初版一八三一年)に収められている。散文作品としては、対話形式をとった二十六の短編から成る「教訓的小話集」(Operette morali:一八二七年)があり、これはまさに絶望の哲学の書というべきもので、悲劇と喜劇が表裏一体となって展開する。また、生誕百年を記念して出版された膨大な手記「随想集」全七巻(一八九八年から一九〇〇年に刊行)は彼を十九世紀イタリア最大の思想家たらしめている。レオパルディは彼の詩の母体であると同時に苦しみの土地であった故郷レカナーティを二十四歳の時に離れており、以後はローマ・ミラノ・ボローニャ・フィレンツェなどを転々とし、晩年の一八三三年になってナポリの亡命者アントニオ・ラニエリの知遇を得て、その妹パオリーナの手厚い看護を受けながら、同地で病没した、とある。

 これだけ詳細な記載の中にも龍之介の言う「不治の病を負つた」の部分が明らかでないが、「佝僂」とあるところから、或いは先天的な脊椎奇形が疑われるようにも思われ、彼についてのウィキの英語版及び良質評価のつくドイツ語版を管見する(日本語版はリンクするのもおぞましいほど貧弱)と、脊椎カリエス(結核性脊椎炎)の持病を確認出来、直接の死因は肺水腫とし、喘息発作とも読める記載があることから、脊椎カリエスを含む慢性的脊椎疾患(先に述べた通り、その総て或いは一部が先天的なものであれば当時の医学上からは「不治」である)から来る重篤で致命的な呼吸器疾患に罹患していたものと推測される(重い喘息は発作によって窒息死することもままある)。逝去した折りにはコレラが蔓延しており、一時はそれらのコレラで死亡した多量の遺体とともに穴に投げ込まれて共同埋葬されそうになったが、無事に改葬されたことなども記されてある(脊椎カリエスなるものが分からない方は自分でお調べ頂きたい。私は一歳半から四歳半まで左肩関節結核性カリエスに罹患しているので私自身には注する必要がないからである。悪しからず)。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 「人間らしさ」

 

       「人間らしさ」 

 

 わたしは不幸にも「人間らしさ」に禮拜する勇氣は持つてゐない。いや、屢「人間らしさ」に輕蔑を感ずることは事實である。しかし又常に「人間らしさ」に愛を感ずることも事實である。愛を?――或は愛よりも憐憫かも知れない。が、兎に角「人間らしさ」にも動かされぬやうになつたとすれば、人生は到底住するに堪へない精神病院に變りさうである。Swift の畢に發狂したのも當然の結果と云ふ外はない。

 スウイフトは發狂する少し前に、梢だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似てゐる。頭から先に參るのだ」と呟いたことがあるさうである。この逸話は思ひ出す度にいつも戰慄を傳へずには置かない。わたしはスウイフトほど頭の好い一代の鬼才に生まれなかつたことをひそかに幸福に思つてゐる。

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年一月号『文藝春秋』巻頭に前の「地上樂園」「暴力」の三章で初出する。『「人間らしさ」』という標題の鍵括弧表記は「侏儒の言葉」の中では特異点である。言わずもがな乍ら、芥川龍之介が謂わんとするのは鍵括弧附きの――人間らしさ――である点に注意しなくてはならぬ。しかし龍之介が元来は英文科卒だからといって、これを「ヒューマニズム」(humanism)の意で解釈しようというのは寧ろ、危ういであろう。例えば、小学館の「大辞泉」の「ヒューマニズム(humanism)」を見ると(「」は別記載の抄録)、

   *

人間性を称揚し、さまざまな束縛や抑圧による非人間的状態から人間の解放を目ざす思想。

㋐「人文主義」に同じ。ギリシャ・ローマの古典研究によって普遍的教養を身につけるとともに、教会の権威や神中心の中世的世界観のような非人間的重圧から人間を解放し、人間性の再興をめざした精神運動。また、その立場。ルネサンス期にイタリアの商業都市の繁栄を背景にして興り、やがて全ヨーロッパに波及した(「大辞泉」に拠る)。

㋑十七~十八世紀にイギリス・フランスで、普遍的な人間性を認め、いくつかの市民革命の指導理念となった思想。市民的ヒューマニズム。

㋒新人文主義。ネオ・ヒューマニズム。二十世紀初頭、アメリカの批評家バビットIrving Babbitt(一八六五年~一九三三年)などによって唱えられたもので、ルソー流の自然復帰のロマン主義に反対し、伝統と教養を重んじる立場(平凡社「マイペディア」に拠る)。

㋓資本主義による人間の自己疎外から人間性の回復を目ざすプロレタリア階級の運動。社会主義的ヒューマニズム。

人道主義。人間性を重んじ、人間愛を実践し、併せて人類の福祉向上を目指す立場。博愛主義と共通する面が多い(「大辞泉」に拠る)。

   *

とある。しかしだ、これらの文字列をぼんやり眺めて居ても、どうにも龍之介の謂わんとする「人間らしさ」の影はちっとも見えては来ぬのである。いや、龍之介がここで問題にしようとしているのは、そのような辛気臭い、というか、インキ臭いところの「主義思想としての人間らしさ」なんぞではあるまい。それらを軽く併呑し得るところのものではあるが、それらと同等に並ぶものでも、それ以下の――多分に恣意的で感情的な物謂い――でも、ない。

 ここでのそれは明らかに、和語としてに「人間らしさ」という、そうさ、何やらん、漠然とした、難解なわけではないものの、如何にもその実体が曇ってはっきりしないもの――美麗な富士の霊峰の如くにも見えることもあれば――その足元を覗けば地獄の奈落に続くようにも窺えるもの――ではあるまいか?

 さても一晩考えたのであるが、やはり夏目漱石の「こゝろ」の「下 先生と遺書」の先生」の例の「愛」についての謂いを真似て言わせて貰おうなら(リンク先は私の初出復元版の当該章)、これは、

――「人間らしさ」という不可思議なものに両端(りょうはじ)があって、其の高い端(はじ)には神聖な感じが働いて、低い端(はじ)には性慾が動いている――

ようなもの、ということになるのではあるまいか? そんな謂いが、私には如何にもしっくりくるように思われて仕方がないのである。そもそも本章の前段の内容を考えてみるがよい。

 龍之介は、その「人間らしさ」にさえ「動かされぬ」ようになったとしたら、「人生は到底住」むに耐え得ない牢獄同様の「精神病院に變り」そうだ、というのである。しかし乍ら、彼は「不幸にも」その「人間らしさ」なるものを「禮拜する勇氣は持つて」いないと言い、それどころか、しばしばその「人間らしさ」に「輕蔑を感ずること」があることも厳然たる「事實で」は「ある」と言うのである。と同時に、「しかし又」、不思議なことに同時に、心のどこかでその「人間らしさ」に対して「愛を感」じているという「ことも事實である」という。そうして「愛を?――或は愛よりも憐憫」(れんびん:不愍(ふびん)に思うこと。憐れみの感情)「かも知れない」とつぶやく。

 これは既にして龍之介がその「人間らしさ」なるものは、龍之介のような冷徹な理智の「人間」でさえも、それに対し、「愛」或いは「憐憫」を覚える対象だと言っているのである。この章の「人間らしさ」を「こゝろ」の先生に敬意を表して、逆に「愛」に変えて弄ってみるなら、

   *

       「愛」

 わたしは不幸にも人間がかく表明する人間固有とされるところの「愛」に對して禮拜する勇氣は持つてゐない。いや、屢「愛」なるものに輕蔑を感ずることは事實である。しかし又常に「愛」に『愛』を感ずることも事實である。『愛』を?――『愛』に愛を感ずるといふは聊か説明にならぬといふなら、或いは「憐憫」というのが正確かも知れない。が、兎に角「愛」にも動かされぬやうになつたとすれば、人生は到底住するに堪へない精神病院に變りさうである。Swift の畢に發狂したのも當然の結果と云ふ外はない。

 スウイフトは發狂する少し前に、梢だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似てゐる。頭から先に參るのだ」と呟いたことがあるさうである。この逸話は思ひ出す度にいつも戰慄を傳へずには置かない。わたしはスウイフトほど頭の好い一代の鬼才に生まれなかつたことをひそかに幸福に思つてゐる。

   *

となろうか。恣意的な変換補遺である故に一応、大方の御叱正を俟つものではあるが、私はかくしても一向に破綻を生じないし、寧ろ、謎めいた『「人間らしさ」』という謎の澱んだ膜のようなものが取り払われ、すっきりと読めるように私は思うのである。

 因みに、諸本はこのわざわざ龍之介が鈎括弧を附けたことを、誰一人、問題としていないのである。龍之介よ、芥川龍之介研究など、結局、今でもこの程度のものだという証しだ。私は内心、慙愧に堪えられぬ思いである。悪いね、龍之介……

・「禮拜」ここは「らいはい」と読みたい。筑摩全集類聚版もかくルビする。

・「Swift の畢に發狂した」芥川龍之介が「不思議な島」(この翌年の大正一三(一九二四)年一月『随筆』に初出)河童」(自死の年である昭和二(一九二七)年三月『改造』初出。リンク先は私の電子テクスト。他に私は芥川龍之介「河童」決定稿原稿(電子化本文版)も手がけている)に於いて意識したとされ、彼の愛読書でもあった「ガリヴァー旅行記」(Gulliver's travels:原書初版は世論の批判をかわすために決定稿を改変して一七二六年に出版、一七三五年には本来の決定稿完全版が出版されている。なお、この作品の正式な題名は`Travels into Several Remote Nations of the World, in Four Parts. By Lemuel Gulliver, First a Surgeon, and then a Captain of several Ships(「船医から始まり、後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリヴァーに拠る、四篇から成る、世界の僻遠の国々への旅行記」)である)で知られる、イングランド系アイルランド人の司祭にして痛烈な諷刺作家であったジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift 一六六七年~一七四五年)はウィキの「ジョナサン・スウィフトによれば、「ガリヴァー旅行記」執筆前、政治活動に入れ込んだロンドンで懇意になったヴァナミリー家の娘の一人エスターと親密になった。彼の書簡によれば『エスターがスウィフトに夢中になり、それで彼は彼女の愛情に報いたものの、後悔してのちに縁を切ろうとしたことが示唆され』ているという。そうして、一七二八年一月二十八日、『エスター・ジョンソンは死去した。彼は彼女の病床で祈り、彼女の慰安のため祈禱を行いさえしたが、スウィフトは臨終に居合わせているのに堪えることができなかった。しかし、その夜の彼女の死に際して、彼は非常に興味深い』「ジョンソン夫人の死」を書き始めてもいる。しかし、彼は自ら首席司祭を勤める『聖パトリック寺院の葬儀に出席していられないほど具合が悪かった。後年、彼の机の中からエスター・ジョンソンのものと思われる一房の髪が、「一人の女の髪にすぎぬ」と書かれた紙に包まれて発見され』ている。『エスターの死後、スウィフトの人生は「死」に覆われる傾向をもつようになった』。一七三一年には、「スウィフト博士の死を悼む詩を書き、一七三九年には『自ら自分の死亡記事を出し』てさえいる。一七三二年、『彼のよき友人にして協力者ジョン・ゲイが死去し』、二年後の一七三五年にはロンドン時代からの今一人の友ジョン・アルバスノットも死去してしまう。そうした中、一七三八年には『スウィフトに病気の徴候が顕れ』始め、一七四二年には『病気の発作を患い、会話する能力を失うとともに精神障害になるという最大の恐怖が』彼を襲った(ここに本章に出る内容が括弧書きで『(「私はあの樹に似ている」と彼はかつて言った。「頭から先に参るのだ」)』と引用挿入されている)。『この偉大な男を餌食にしようとし始めた恥知らずな取巻きから彼を守るため、彼の最も親しい仲間たちは彼に「不安定な精神と記憶力」と宣言させた』。一七四五年十月十九日、『スウィフトは死去した。彼は希望に従ってエスター・ジョンソンの傍に葬られた。彼の財産は大半が精神病院の創設資金に残された』とある。ウィキには記載がないが、彼の罹患していた疾患は実は梅毒性の神経障害であった。その罹患はダブリン大学トリニティ・カレッジ(Trinity College, University of Dublin)在学時代に買った売春婦からうつされたものであったが、スゥイフトは自分が梅毒に罹患していることを知っており、それが進行して発狂するのではないかということを非常に恐れていたことは事実である。これは芥川龍之介が母の精神病が自分に遺伝していて、自分もいつか発狂するのではないかと恐怖していたことと、ある意味、ごく相似的である点には着目しなければならぬ(また同じく龍之介には売春婦から梅毒をうつされたのではないかという恐怖が実際にあったこともほぼ確実であり、その点でも「相似」どころか「相同」でさえあると私は思う)。しかしここでどうして言っておかなくてはならないのは、一般に現在でもそう思われ(筑摩前主類聚版脚注も『政治問題にも関心を持ったが志を得ず、不満と絶望のうちに晩年発狂』とし、岩波新全集の山田俊治氏注も『狂死』、新潮文庫の神田由美子由氏も『恋人の死後、絶望のうちに発狂』とある)、龍之介も「發狂」と明記しているのであるが、実際には彼には最後まで「発狂」と表わすような顕在的な精神障害は全く起こっていないというのが、現在の最新の見解であるのでごくごく注意されたい小島弘一論文ジョナサン・スウィフト、悪疾と諷刺(PDF)に非常に詳しい。必読!(但し、スゥイフトの梅毒による発狂恐怖の念慮が心因性精神疾患を惹起させた可能性は十分にあると私は思う。なお、因みに私は『ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版)』を現在、進行中である)。

・『スウイフトは發狂する少し前に、梢だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似てゐる。頭から先に參るのだ」と呟いたことがある』芥川龍之介は或阿呆の一生でもこの逸話を再度、採り上げている(リンク先は私の古いテクスト)。

   *

       四十六 譃

 彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかつた。彼の將來は少くとも彼には日の暮のやうに薄暗かつた。彼は彼の精神的破產に冷笑に近いものを感じながら、(彼の惡德や弱點は一つ殘らず彼にはわかつてゐた。)不相變いろいろの本を讀みつづけた。しかしルツソオの懺悔錄さへ英雄的な譃に充ち滿ちてゐた。殊に「新生」に至つては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪な僞善者に出會つたことはなかつた。が、フランソア・ヴィヨンだけは彼の心にしみ透つた。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡(をす)」を發見した。

 絞罪を待つてゐるヴィヨンの姿は彼の夢の中にも現れたりした。彼は何度もヴィヨンのやうに人生のどん底に落ちようとした。が、彼の境遇や肉體的エネルギイはかう云ふことを許す譯はなかつた。彼はだんだん衰へて行つた。丁度昔スウイフトの見た、木末(こずゑ)から枯れて來る立ち木のやうに。………

   *

ここでは遙かに龍之介とスゥイフトがはっきりとオーバー・ラップされているのが見てとれる。しかし乍ら、実はこのエピソード引用元を明記している記載を今のところ私は現認出来ていない。識者の御教授を乞うものである。なお、私はこの話を読むと、反射的にフラッシュ・バックするシーンがある。またしても漱石の「こゝろ」である。現行の「下 先生と遺書」の中の最大のクライマックス、「先生」がKの心に「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」と匕首を突き立てた直後の章、悟?シークエンである(リンク先は私の初出復元版の当該章。)。少し前から引く。但し、一部の原表記に問題があるので、手入れをしている(下線太字はやぶちゃん)。

   *

 「もう其話は止めやう」と彼が云ひました。彼の眼にも彼の言葉にも變に悲痛な所がありました。私は一寸挨拶が出來なかつたのです。するとKは、「止めて呉れ」と今度は賴むやうに云ひ直しました。私は其時彼に向つて殘酷な答を與へたのです。狼が隙を見て羊の咽喉笛へ食ひ付くやうに。

 「止めて吳れつて、僕が云ひ出した事ぢやない、もともと君の方から持ち出した話ぢやないか。然し君が止めたければ、止めても可いが、たゞ口の先で止めたつて仕方があるまい。君の心でそれを止める丈の覺悟がなければ。一體君は君の平生の主張を何うする積なのか」

 私が斯う云つた時、脊の高い彼は自然と私の前に萎縮して小さくなるやうな感じがしました。彼はいつも話す通り頗る强情な男でしたけれども、一方では又人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される塲合には、決して平氣でゐられない質だつたのです。私は彼の樣子を見て漸やく安心しました。すると彼は卒然「覺悟?」と聞きました。さうして私がまだ何とも答へない先に「覺悟、――覺悟ならない事もない」と付け加へました。彼の調子は獨言のやうでした。又夢の中の言葉のやうでした。

 二人はそれぎり話を切り上げて、小石川の宿の方に足を向けました。割合に風のない暖かな日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは淋しいものでした。ことに霜に打たれて蒼味を失つた杉の木立の茶褐色が、薄黑い空の中に、梢を並べて聳えてゐるのを振り返つて見た時は、寒さが脊中へ嚙り付いたやうな心持がしました。我々は夕暮の本鄕臺を急ぎ足でどしどし通り拔けて、又向ふの岡へ上るべく小石川の谷へ下りたのです。私は其頃になつて、漸やく外套の下に體の溫か味を感じ出した位です。

   *

ここで振り返った――人でなしの醜悪な「先生」が見る――「霜に打たれて蒼味を失つた杉の木立の茶褐色が、薄黑い空の中に、梢を並べて聳えてゐる」のを見た「先生」の視線はスゥイフトや龍之介の視線と全く相同であると私は思うのである。因みに、龍之介の師でもあった当の漱石が激賞したのもスウィフトであった。

・「わたしはスウイフトほど頭の好い一代の鬼才に生まれなかつたことをひそかに幸福に思つてゐる」私も年を重ねてくると(本年満五十九)、流石に偏愛し続けている芥川龍之介でも、こうした言い回しは要らぬ「厭味」として、不快に響くようになってしまうものであることを今日、気がついた。]

2016/05/23

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 暴力

 

       暴力

 

 人生は常に複雜である。複雜なる人生を簡單にするものは暴力より外にある筈はない。この故に往往石器時代の腦髓しか持たぬ文明人は論爭より殺人を愛するのである。

 しかし亦權力も畢竟はパテントを得た暴力である。我我人間を支配する爲にも、暴力は常に必要なのかも知れない。或は又必要ではないのかも知れない。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年一月号『文藝春秋』巻頭に前の「地上樂園」及び次の『「人間らしさ」』の三章で初出する。

 

・「複雜なる人生を簡單にするものは暴力より外にある筈はない」とすれば、繊毛や触手のように脳底にうじゃうじゃとひろごり、絡まった「複雜なる人生を簡單に」したいと思う「もの」は「暴力」を行使する「より外に」そこから逃れる術(すべ)の「ある筈はない」ということになる。この私のブログを読まれているあなた方はどうだか知らないが、私は「暴力」という単語を見ると必ずある小説の一節を思い出すのである。もう、お分かりであろう、夏目漱石の「こゝろ」である。「上 先生と私」で、学生の父が倒れ、学生の「私」が先生から金を借りて帰郷し、父小康を得た後、帰京「先生」のもとに返金と御礼に参ったシークエンスに出る。部分を引く(リンク先は私の初出復元版の当該章)。

   *

 「然し人間は健康にしろ病氣にしろ、どつちにしても脆いものですね。いつ何んな事で何んな死にやうをしないとも限らないから」

 「先生もそんな事を考へて御出ですか」

 「いくら丈夫の私でも、滿更考へない事もありません」

 先生の口元には微笑の影が見えた。

 「よくころりと死ぬ人があるぢやありませんか。自然に。それからあつと思ふ間(ま)に死ぬ人もあるでせう。不自然な暴力で」

 「不自然な暴力つて何ですか」

 「何だかそれは私にも解らないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使ふんでせう」

 「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力の御蔭ですね」

 「殺される方はちつとも考へてゐなかつた。成程左右いへば左右だ」

 其日はそれで歸つた。歸つてからも父の病氣の事はそれ程苦にならなかつた。先生のいつた自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいふ言葉も、其場限りの淺い印象を與へた丈で、後は何等のこだわりを私の頭に殘さなかつた。

   *

私は個人的にこのシーンは、謎の多い「こゝろ」の中でも超弩級に謎めいた箇所と思っている。私は「こゝろ」の多くの謎解きを自分なりにして来たが、これは殆んどお手上げに近い。それだけに脳裏にこびりついて離れない。或いは――芥川龍之介にとっても「こゝろ」のこの場面と台詞、いやさ、「暴力」という語は謎であったのではあるまいか?……といったことを私は今日只今、この注を記しながら、ふと、考えたのである。

・「往往」「わうわう(おうおう)」副詞。そうなる、そうなってしまう場合が多いさま。ある事柄や状態がよく在り、またよく起こるさま。好ましくない事態に対して用いることが多い。

・「石器時代の腦髓しか持たぬ文明人」ここで龍之介の言う「石器時代」とは、旧石器時代前期まで遡る謂いであろう。そうとらないと文意を把握出来ないからである。旧石器時代前期とは二四〇万年前から一四〇万年前まで存在していた原人ホモ・ハビリス(脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱サル亜綱正獣下綱霊長(サル)目真猿(サル)亜目狭鼻(サル)下目ヒト上科ヒト科ヒト属ホモ・ハビリス Homo habilis:「器用な人」の意)や同時期に存在していた原人ホモ・エレクトス(ヒト属ホモ・エレクトス Homo erectus:「直立する人」の意)の時代である。その原始人「の腦髓しか持たぬ文明人」という謂いはまっこと、面白い。即ち、そこまで遡ってしかも「文明人」の中に偏在的に潜在する原型とは何かというならば、善悪の観念を持たない弱肉強食性しかないからである。これを剥片石器が出現した中期旧石器時代――(ネアンデルタール人(ヒト属ホモ・ネアンデルターレンシス Homo neanderthalensis:種小名はドイツのデュッセルドルフ近郊のネアンデルタール(ドイツ語:Neanderthal:ネアンデル谷)の石灰岩洞穴で初めて発見されたことに由来)が広がるとともに極東アジアでは当該域に限定された北京原人(ヒト属ホモ・エレクトス・ペキネンシスHomo erectus pekinensis)などの原人類から進化した古代型新人が誕生、繁栄した時代)――や、石器が急速に高度化多様化した後期旧石器時代――(クロマニヨン人(現生人類と同じヒト属ヒト Homo sapiens:「クロマニヨン人」という通称は発見された南フランスのクロマニョン(Cro-Magnon)洞窟に因む)が主流となって他の化石人類が急速に姿を消した時代)――まで広げてとしてしまうと、ややこしくなる。ネアンデルタール人には死者を悼む埋葬習慣(屈葬。弔花を添えていたとする説もある)生じており、クロマニヨン人は御存じの通り、洞窟壁画や彫刻が残されており、死者は丁重に埋葬し、呪術をさえ行なった証拠もあって、既にして原型としては文明人と変わらぬ善悪の倫理観念が形成されていたと考えてよいからである。……さても。では「論爭より殺人を愛する」「石器時代の腦髓しか持たぬ文明人」とは――「世界正義」を振りかざしてどこにでも出向いては戦争をすることを好むどこかの野蛮な国、現に戦争を放棄すると明記した憲法を持ちながら、戦争をしたくてたまらないどこかの国の政治家どもを指すと考えて、よかろうよ。

・「パテント」patent。特許(権)・特許品・特許証。この場合は、合法的に暴力を行使することを独占的に使用することを許可された権利という皮肉である。しかしそれを許可するのは形式上、国民の総意であるケースもある訳である。

・「我我人間を支配する爲にも、暴力は常に必要なのかも知れない。或は又必要ではないのかも知れない」この逆説は逆説ではない。そもそも「複雜なる人生を簡單にするものは暴力より外にある筈はない」以上、大方の世界国家の首長たる「石器時代の腦髓しか持たぬ文明人は論爭より殺人を愛するのである」からして、「人間を支配する」という願望を実は彼らは持たない、のである。されば彼らの、否、ヒトという生物種の行き着く果ては、遂には自分をも含めた「殺人」行為、ヒト種を殲滅するホロコースト(英語:holocaust:大虐殺・大破壊・全滅)、ポグロム(ロシア語;погром:破滅・破壊)に至るということになる。されば「人間を支配する爲に」は「暴力」は最終的には「必要ではない」、無効であるということになるのである。驚くべき数の死神のマサカリたる核兵器と、不全で危険極まりない業火としての原子力発電所が地球上に数多ある今、私の謂いはこれ、凡愚の妄想や空論では、なくなっているのである――

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 地上樂園

 

       地上樂園

 

 地上樂園の光景は屢詩歌にもうたはれてゐる。が、わたしはまだ殘念ながら、さう云ふ詩人の地上樂園に住みたいと思つた覺えはない。基督教徒の地上樂園は畢竟退屈なるパノラマである。黃老の學者の地上樂園もつまりは索漠とした支那料理屋に過ぎない。況んや近代のユウトピアなどは――ウイルヤム・ジエエムスの戰慄したことは何びとの記憶にも殘つてゐるであらう。

 わたしの夢みてゐる地上樂園はさう云ふ天然の温室ではない。同時に又さう云ふ學校を兼ねた食糧や衣服の配給所でもない。唯此處に住んでゐれば、兩親は子供の成人と共に必ず息を引取るのである。それから男女の兄弟はたとひ惡人に生まれるにもしろ、莫迦には決して生まれない結果、少しも迷惑をかけ合はないのである。それから女は妻となるや否や、家畜の魂を宿す爲に從順そのものに變るのである。それから子供は男女を問はず、兩親の意志や感情通りに、一日のうちに何囘でも聾と啞と腰ぬけと盲目とになることが出來るのである。それから甲の友人は乙の友人よりも貧乏にならず、同時に又乙の友人は甲の友人よりも金持ちにならず、互ひに相手を褒め合ふことに無上の滿足を感ずるのである。それから――ざつとかう云ふ處を思へば好い。

 これは何もわたし一人の地上樂園たるばかりではない。同時に又天下に充滿した善男善女の地上樂園である。唯古來の詩人や學者はその金色の瞑想の中にかう云ふ光景を夢みなかつた。夢みなかつたのは別に不思議ではない。かう云ふ光景は夢みるにさへ、餘りに眞實の幸福に溢れすぎてゐるからである。

 附記 わたしの甥はレムブラントの肖像畫を買ふことを夢みてゐる。しかし彼の小遣ひを十圓貰ふことは夢みてゐない。これも十圓の小遣ひは餘りに眞實の幸福に溢れすぎてゐるからである。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年一月号『文藝春秋』巻頭に次の「暴力」『「人間らしさ」』の三章で初出する。標題の「地上樂園」は通常の一般認識では後に挙げる「基督教徒の地上樂園」、即ち、キリスト教に於いて「旧約聖書」の「創世記」に登場する、東方に存在するとされた、神が存在する地上の楽園「エデンの園」、「パラダイス」(ラテン語:paradisus)を指すが、どうも芥川龍之介がかく言う時に彼の念頭にあったものの大きな一つは、やはり後に「詩歌にもうたはれてゐる」とあるように、彼の卒業論文の対象であったイギリスの詩人でマルクス主義者でもあったウィリアム・モリス(William Morris 一八三四年~一八九六年)の、全三巻四万二千行にも及ぶ長編詩「地上楽園」(The Earthly Paradise (1868-1870))ではなかろうかと私は思う(芥川龍之介の卒論は「ウイリアム・モリス研究」であるが、まさにこの関東大震災で草稿も含めて焼失し、現存せず、それを読むことは出来ない)。平凡社「世界大百科事典」の小池滋氏の同作の解説によれば、美と平和と不死に恵まれた「地上楽園」の存在は中世以来、ヨーロッパで広く信じられており、古文献・地図にも実在するかのように記されてある。モリスの詩は、この伝説に基づいて、スカンジナビアの民が西の海の遠い彼方に、この楽園を求めて放浪の旅を続け、ギリシア古代文明が未だに残る都市を発見するという、中世への憧れとユートピア志向を示す作品である。但し、諸注は全くこれを挙げていない。それは龍之介が初段の最後に「況んや近代のユウトピアなど」と恰も軽蔑の最たるものの如くに掲げているものに含まれるからではあろう。しかし、私はやはり、ここにはモリスのそれを注として示す義務が、芥川龍之介の研究者なら、ある、と考えるものである。

 

・「屢」「しばしば」。

・「パノラマ」(panorama)は、この場合、遠景を曲面に描いて、その前に立体的な模型を配置して実景を見るかのように細工した、戦闘や物語の場面などを再現した見世物の覗き仕掛けの謂いである。

・「黃老の學者の地上樂園」「黃老」は「こうらう(こうろう)」で、中国の神話伝説上五帝の最初とされる理想的神仙皇帝である黄帝と、道家思想の祖とされる老子のことで、ここは「荘子(そうじ)」内篇の「逍遙遊篇」や「応帝王篇」に出る、道家(老荘思想)の「無何有郷」(むかいうきやう(むかうきょう)、無為自然(自然のあるがままの、愚かな人為のない、何ものもなく広々とした永久不変の)理想郷のことを指す。

・「ユウトピア」ユートピア(ラテン語に基づく英語:Utopia)はイギリスの法律家・思想家であったトマス・モア(Thomas More 一四七八年~一五三五年)が一五一六年に刊行した(ラテン語で書かれている)、政治・社会を風刺した書「ユートピア」(正式な書名は Libellus vere aureus, nec minus salutaris quam festivus, de optimo rei publicae statu deque nova insula Utopia で、ウィキの「ユートピア(本)」によればこれを翻訳するなら、「楽しいのと同様に有益な、共和国の最高の州の、そして新しい島ユートピアの、真実の金の小さな本」となるとあり、「ユートピア」(ラテン語: Ūtopiā )の語はギリシア語の「非 ou 」と「場所 topos 」、地名学によく見られる接尾辞「 -iā 」から成り、「 Outopía 」とは「どこでもない場所」(nowhere)という意味であると記す)に登場する架空の国家の名前である。ウィキの「ユートピア」によれば、『現実には決して存在しない理想的な社会として描かれ、その意図は現実の社会と対峙させることによって、現実への批判をおこなうことであ』り、しかもそこに描かれる国は『現代人が素朴に「理想郷」としてイメージするユートピアとは違い』、『非人間的な管理社会の色彩が強く、決して自由主義的・牧歌的な理想郷(アルカディア)ではない』とある。

・「ウイルヤム・ジエエムスの戰慄したこと」ウィリアム・ジェームズ(William James 一八四二年~一九一〇年)はアメリカの哲学者・心理学者でヘーゲルやスペンサーの主知主義・合理主義に反対し、機能心理学を提唱、プラグマティスト(実用主義哲学者)の代表者として知られる。その「意識の流れ」の理論はジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」など、多くの近現代文学に影響を与えた。彼の実弟は私の偏愛する怪奇仕立ての心理小説「ねじの回転」(The Turn of the Screw)を書いた小説家ヘンリー・ジェームズ(Henry James 一八四三年~一九一六年)である。但し、私はこの龍之介の言う彼が「戰慄したこと」、その「戰慄」を、この文章を読む大多数の一般大衆の「何びとの記憶にも殘つてゐる」というのが、これ、何に基づく謂いなのか、不学にして知らない。諸注もその私の疑問を溶かしてはくれぬ。せいぜい新潮文庫の神田由美子氏がその注で、『芥川は「真理の意味」「多元的宇宙」の二著を所蔵していた』とするのがヒントになるか。しかし今からその二篇を読む気力は、正直、ない。さればこそ、識者の御教授を乞うものではある。

・「兩親は子供の成人と共に必ず息を引取る」生物学的な生殖と繁栄の観点、及び、生存個体自体に過剰な負荷がかからぬ意味に於いて、これは正しく理想的であると私は断言出来る。「生物学的」にというだけの話である。

・「男女の兄弟はたとひ惡人に生まれるにもしろ、莫迦には決して生まれない結果、少しも迷惑をかけ合はない」私が馬鹿なのか、ここは意味が十全には私にはとれない。その世界を構成する全個体が知的に愚鈍ではないのはいいとしても、その中の幾たりかが悪人である状況下にあっては、「少しも」兄弟姉妹さらには他者に対して全く「迷惑をかけ合はない」という状態には到底ならない。私の認識に誤りあるとすれば、是非、御指摘頂きたい。

・「女は妻となるや否や、家畜の魂を宿す爲に從順そのものに變」り、同様に「子供は男女を問はず、兩親の意志や感情通りに、一日のうちに何囘でも聾と啞と腰ぬけと盲目とになることが出來る」これは家族に、かのロボトミー手術(前頭葉切裁術)を処理を施すのと同じである。それは科学的に可能である。「可能である」だけである。

・「甲の友人は乙の友人よりも貧乏にならず、同時に又乙の友人は甲の友人よりも金持ちにならず、互ひに相手を褒め合ふことに無上の滿足を感ずる」幻想の社会主義・人民主義・共産主義の妄想的理想としてはよく分かる。「分かる」だけである。

・「わたしの甥」小説家で文芸評論家の葛巻義敏(くずまきよしとし 明治四二(一九〇九)年~昭和六〇(一九八五)年)。彼は龍之介の次姉ヒサと獣医葛巻義定の長男(但し、明治四三(一九一〇)年に両親が離婚したため、東京市芝区銭座町(現在の東京都港区浜松町)の新原家(母の実家)で育てられ、ヒサはその後、弁護士西川豊と再婚するが、彼は偽証教唆で失権、昭和二(一九二七)一月には自宅の火事が彼の保険金目当ての放火と疑われ、その取調中に失踪、千葉で鉄道自殺を遂げた。その後処理のために龍之介は奔走、疲弊した。なお、その後にヒサは葛巻義定から復縁の話が持ち上がって西川との間に出来た子(一男一女)を連れて葛巻家へ戻っている。因みに、この連れ子の娘瑠璃子が後に芥川の長男比呂志の妻となった)。龍之介より十七歳年下であるから、この大正一三(一九二四)年一月当時は未だ満十三歳であった。彼は実はこの前年に東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)に入学したものの、武者小路実篤らの起した「新しき村」への参加を望んで家出をし、叔父である龍之介は武者小路と相談した上、田端の芥川家で龍之介の書生として働くことにして、丁度、この一月頃に義敏を自宅に引きとって養育を始めているのである(同附属中学校はこの年中に中退している)。彼は、龍之介関連資料の研究と称して龍之介の遺品類を独占した形になったため、龍之介が自分の子らに死後は父と思えと言うほどに信頼した盟友の画家小穴隆一から『芥川家に巣食う奇怪な家ダニ』(小穴隆一「二つの絵」昭和三一(一九五六)年中央公論社)などと痛罵されるなど、大方の龍之介研究者らからの評価も非常によろしくないが、龍之介は非常に可愛がった。文学の天才を叔父に持ってしまった凡庸な(失礼!)文学青年の悲哀は何となく分かるような気もしないでもないとは言える。「言える」だけである。

・「十圓」今の金額に換算すると凡そ一万円から五万円相当、中をとって三万円ほどか。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或自警團員の言葉

 

       或自警團員の言葉

 

 さあ、自警の部署に就かう。今夜は星も木木の梢に涼しい光を放つてゐる。微風もそろそろ通ひ出したらしい。さあ、この籐の長椅子に寢ころび、この一本のマニラに火をつけ、夜もすがら氣樂に警戒しよう。もし喉の渇いた時には水筒のウイスキイを傾ければ好い。幸ひまだポケツトにはチヨコレエトの棒も殘つてゐる。

 聽き給へ、高い木木の梢に何か寢鳥の騷いでゐるのを。鳥は今度の大地震にも困ると云ふことを知らないであらう。しかし我我人間は衣食住の便宜を失つた爲にあらゆる苦痛を味はつてゐる。いや、衣食住どころではない。一杯のシトロンの飮めぬ爲にも少からぬ不自由を忍んでゐる。人間と云ふ二足の獸は何と云ふ情けない動物であらう。我我は文明を失つたが最後、それこそ風前の燈火のやうに覺束ない命を守らなければならぬ。見給へ。鳥はもう靜かに寐入つてゐる。羽根蒲團や枕を知らぬ鳥は!

 鳥はもう靜かに寢入つてゐる。夢も我我より安らかであらう。鳥は現在にのみ生きるものである。しかし我我人間は過去や未來にも生きなければならぬ。と云ふ意味は悔恨や憂慮の苦痛をも甞めなければならぬ。殊に今度の大地震はどの位我我の未來の上へ寂しい暗黑を投げかけたであらう。東京を燒かれた我我は今日の餓に苦しみ乍ら、明日の餓にも苦しんでゐる。鳥は幸ひにこの苦痛を知らぬ、いや、鳥に限つたことではない。三世の苦痛を知るものは我我人間のあるばかりである。

 小泉八雲は人間よりも蝶になりたいと云つたさうである。蝶――と云へばあの蟻を見給へ。もし幸福と云ふことを苦痛の少ないことのみとすれば、蟻も亦我我よりは幸福であらう。けれども我我人間は蟻の知らぬ快樂をも心得てゐる。蟻は破産や失戀の爲に自殺をする患はないかも知れぬ。が、我我と同じやうに樂しい希望を持ち得るであらうか? 僕は未だに覺えてゐる。月明りの仄めいた洛陽の廢都に、李太白の詩の一行さへ知らぬ無數の蟻の群を憐んだことを!

 しかしシヨオペンハウエルは、――まあ、哲學はやめにし給へ。我我は兎に角あそこへ來た蟻と大差のないことだけは確かである。もしそれだけでも確かだとすれば、人間らしい感情の全部は一層大切にしなければならぬ。自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めてゐる。我我は互に憐まなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは、――尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手輕である。

 我我は互に憐まなければならぬ。シヨオペンハウエルの厭世觀の我我に與へた教訓もかう云ふことではなかつたであらうか?

 夜はもう十二時を過ぎたらしい。星も相不變頭の上に凉しい光を放つてゐる。さあ、君はウイスキイを傾け給へ。僕は長椅子に寐ころんだままチヨコレエトの棒でも囓ることにしよう。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年十一月号『文藝春秋』巻頭に初出するが、単行本「侏儒の言葉」には不載。内容と発表誌の年と月から分かる通り、ここに描かれるのはこの二ヶ月前の九月一日十一時五十八分に発生した関東大震災後のシチュエーションである。震災の惨禍の記憶の新しい中で、この一章は被災した一般読者にはおよそ受け入れ難い内容と私は読む。さればこそ相応の批難もあったものかも知れぬ。私が被災した芥川龍之介好きの一東京市民であったとしても、一読、何か文句を吐きそうな気がする。……「マニラ」に「ウイスキイ」に「チヨコレエト」だあ?!……「氣樂に警戒し」ているというお前らこそ、そうした高級品を火事場泥棒してはシコタマ抱え込んだ盗品を隠し守っている「自警團」じゃあねぇのか?! と指弾したくなるのである。さればこそ単行本でカットされたのも、何となく分かる気がするのであるが、如何? 但し、このデカダンな自警団にはアイロニックな作者自身の視線が感じられ、それは当時の自警団となった集団の一部(但し、驚くほど多い)による主に朝鮮人に対する集団暴行殺人(後述)を、荒廃した夜の帝都東京の瓦礫の彼方に炙り出そうとする意図が龍之介にはあったようにも思うものではある(しかしそれは御世辞にも成功してはいない)。

 なお、底本後記によると、岩波普及版全集では「蟻」を総て「蛾」とするとある。この「蛾」はただの誤植とも当初思ったのだが……考えてみると、「蝶」に対する「蛾」である。……「月明りの仄めいた洛陽の廢都に」いる「無數の」「群」である。……「あそこへ來た」と示す生物である。……これはもう、「蟻」よりも「蛾」の方が、実は自然ではあるまいか? 如何?

 

・「自警團」本来は大災害や突発的な戦争勃発等の状況下、居住地域の人間の権利侵害が強く想定される場面などに於いて、正規の司法手続に依らずに自らの実力行使をもって自己並びに共同体の安全と権利を維持確保するために結成される組織される私設の警察的軍隊的組織集団・民兵及びそれに類似する防犯組織集団を指すが、関東大震災では、当時の日本帝国の軍と警察の主導によって関東地方に自警団が組織されており(後の引用を参照)、ここはその一つを指す。ウィキの「関東大震災」の「地震の混乱で発生した事件」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した。下線やぶちゃん)、『九月二日午後十一時、下江戸川橋を破壊中の朝鮮人を警備中の騎兵が射殺。九月二日午後十一時、南葛飾郡でこん棒などで武装した三十人の朝鮮人が砲兵第七連隊第一中隊長代理砲兵中尉高橋克己のオートバイを包囲したが』、『中尉は脱出に成功した』。『陸軍の中には、震災後の混乱に乗じて社会主義や自由主義の指導者を殺害しようとする動きがあり、大杉栄・伊藤野枝・大杉の六歳の甥橘宗一らが殺された事件(甘粕事件(大杉事件))、労働運動の指導者であった平澤計七など十三人が亀戸警察署で軍に銃殺され、平澤の首が切り落とされる事件(亀戸事件)が起きた』。『震災発生後、混乱に乗じた朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などの噂が行政機関や新聞、民衆を通して広まり、民衆、警察、軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人、日本人(聾唖者など)が殺傷される被害が発生した』。『これらに対して九月二日に発足した第二次山本内閣は、九月五日、民衆に対して、もし朝鮮人に不穏な動きがあるのなら軍隊及び警察が取り締まるので、民間人に自重を求める「内閣告諭第二号」(鮮人ニ対スル迫害ニ関シ告諭ノ件)を発し』ている(引用元の一部新字となっている漢字を正字化した)。

   *

内閣告諭第二號

今次ノ震災ニ乘シ一部不逞鮮人ノ妄動アリトシテ鮮人ニ對シ頗フル不快ノ感ヲ抱ク者アリト聞ク 鮮人ノ所爲若シ不穩ニ亘ルニ於テハ速ニ取締ノ軍隊又ハ警察官ニ通告シテ其ノ處置ニ俟ツヘキモノナルニ 民衆自ラ濫ニ鮮人ニ迫害ヲ加フルカ如キコトハ固ヨリ日鮮同化ノ根本主義ニ背戾スルノミナラス又諸外國ニ報セラレテ決シテ好マシキコトニ非ス事ハ今次ノ唐突ニシテ困難ナル事態ニ際會シタルニ基因スト認メラルルモ 刻下ノ非常時ニ當リ克ク平素ノ冷靜ヲ失ハス愼重前後ノ措置ヲ誤ラス以テ我國民ノ節制ト平和ノ精神トヲ發揮セムコトハ本大臣ノ此際特ニ望ム所ニシテ民衆各自ノ切ニ自重ヲ求ムル次第ナリ

大正十二年九月五日 内閣總理大臣

   *

『この内閣告諭第二号と同日、官憲は臨時震災救護事務局警備部にて「鮮人問題ニ関スル協定」という極秘協定を結んだ。協定の内容は、官憲・新聞等に対しては一般の朝鮮人が平穏であると伝えること、朝鮮人による暴行・暴行未遂の事実を捜査して事実を肯定するよう努めること、国外に「赤化日本人及赤化鮮人が背後で暴動を煽動したる事実ありたることを宣伝」することである。こうして日本政府は国家責任回避のため、自警団・民衆に責任転嫁して行くことになり、また実際に朝鮮人がどこかで暴動を起こしたという事実がないか、必死に探し回った』。『一方で震災発生後、内務省警保局、警視庁は朝鮮人が放火し暴れているという旨の通達を出していた。具体的には、戒厳令を受けて警保局(局長・後藤文夫)が各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電した』。――『東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし』――『さらに警視庁からも戒厳司令部宛に』――『鮮人中不逞の挙について放火その他凶暴なる行為に出(いず)る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。この際これら鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし』――及び「朝鮮人による火薬庫放火計画」なるものが伝えられているという。『また、メディア情報の中には、「内朝鮮人が暴徒化した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というものもあった。こうした報道の数々が九月二日から九月六日にかけ、大阪朝日新聞、東京日日新聞、河北新聞で報じられており、大阪朝日新聞においては、九月三日付朝刊で「何の窮民か 凶器を携えて暴行 横浜八王子物騒との情報」の見出しで、「横浜地方ではこの機に乗ずる不逞鮮人に対する警戒頗る厳重を極むとの情報が来た」とし、三日夕刊(四日付)では「各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電」の見出しで「不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり」と、警保局による打電内容を、三日号外では東朝(東京朝日新聞)社員甲府特電で「朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を經て八王子に向つて盛んに火を放ちつつあるのを見た」との記者目撃情報が掲載されている。また、相当数の民衆によってこれらの不確かな情報が伝播された』。『こうした情報の信憑性については、二日以降、官憲や軍内部において疑念が生じ始め、二日に届いた一報に関しては、第一師団(東京南部担当)が検証したところ虚報だと判明、三日早朝には流言にすぎないとの告知宣伝文を市内に貼って回っている。五日になり、見解の統一を必要とされた官憲内部で、精査の上、戒厳司令部公表との通達において』――『不逞鮮人については三々五々群を成して放火を遂行、また未遂の事件もなきにあらずも、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあれば、最早決して恐るる所はない。出所不明の無暗の流言蜚語に迷はされて、軽挙妄動をなすが如きは考慮するが肝要であろう』――『と発表。「朝鮮人暴動」の存在を肯定するも流言が含まれる旨の発表が行われた。八日には、東京地方裁判所検事正南谷智悌が一部情報を流言と否定する見解を公表、併せて「(朝鮮人による)一部不平の徒があって幾多の犯罪を敢行したのは事実である」とし、中には婦人凌辱もあったと談話の中で語った。一部の流言については一九四四年(昭和十九年)に警視庁での講演において、正力松太郎も、当時の一部情報が「虚報」だったと発言している』。『警視総監・赤池濃は「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戍総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」内務大臣・水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した。これを受け、二日には、東京府下五郡に戒厳令を一部施行し、三日には東京府と神奈川県全域にまで広げた。また、戒厳令のほか、経済的には、非常徴発令、暴利取締法、臨時物資供給令、およびモラトリアムが施行された。最終的に政府は朝鮮人犯罪を一切報道しない報道規制をおこなうまでになった』(但し、この最後の箇所には要出典要請がかけられている)。『陸軍は戒厳令のもと騎兵を各地に派遣し軍隊の到着を人々に知らせたが、このことは人々に安心感を与えたつつ、流言が事実であるとの印象を与え不安を植え付けたとも考えられる。また、戒厳令により警官の態度が高圧化したとの評価もある』。以下、「自警団による暴行」の項。軍・警察の主導で関東地方に四千もの自警団が組織され、集団暴行事件が発生した。そのため、朝鮮人だけでなく、中国人、日本人なども含めた死者が出た。朝鮮人かどうかを判別するためにシボレス』(英語: Shibboleth:ある社会集団の構成員と非構成員を見分けるための文化的指標を表す用語。例として言葉の発音や習慣風習の差異などを指す)『が用いられ、国歌を歌わせたり、朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害したとしている。また、福田村事件』(震災発生から五日後の九月六日に千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀の利根川沿いに於いて、香川県三豊(みとよ)郡(現在の観音寺市及び三豊市)の薬売の行商人十五名が、震災後の混乱の中で被差別部落出身ということで地元自警団に暴行され、九名が殺害された事件(妊婦や子供を含む九名或いは胎児を含めて十名とする説もある。ここはウィキの「福田村事件」に拠った)『のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者(聴覚障害者)も、多くが殺された』。『横浜市の鶴見警察署長・大川常吉は、保護下にある朝鮮人等三百人の奪取を防ぐために、千人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したとされる。大川は朝鮮人らが働いていた工事の関係者と付き合いがあったとされている。また、軍も多くの朝鮮人を保護した。当時横須賀鎮守府長官野間口兼雄の副官だった草鹿龍之介大尉(後の第一航空艦隊参謀長)は「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」等のデマに惑わされず、海軍陸戦隊の実弾使用申請や、在郷軍人の武器放出要求に対し断固として許可を出さなかった横須賀鎮守府は戒厳司令部の命により朝鮮人避難所となり、身の危険を感じた朝鮮人が続々と避難している現在の千葉県船橋市丸山にあった丸山集落では、それ以前から一緒に住んでいた朝鮮人を自警団から守るために一致団結した。また、朝鮮人を雇っていた埼玉県の町工場の経営者は、朝鮮人を押し入れに隠し、自警団から守った』。『警官手帳を持った巡査が憲兵に逮捕され』、『偶然いあわせた幼馴染の海軍士官に助けられたという逸話もある。当時早稲田大学在学中であった後の大阪市長中馬馨は、叔母の家に見舞いに行く途中群集に取り囲まれ、下富坂警察署に連行され「死を覚悟」する程の暴行を受けたという。歴史学者の山田昭次は、残虐な暴行があったとしている』。『十月以降、暴走した自警団は警察によって取り締まられ、殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の四つの罪名で起訴された日本人は三百六十二名に及んだ。しかし、「愛国心」によるものとして情状酌量され、そのほとんどが執行猶予となり、残りのものも刑が軽かった。福田村事件では実刑となった者も皇太子(のちの昭和天皇。当時は摂政)結婚で恩赦になった。自警団の解散が命じられるようになるのは十一月のことである』(本章の発表は『文藝春秋』十一月号である)。『殺害された人数は複数の記録、報告書などから研究者の間で分かれており明確になっていない。内閣府中央防災会議は虐殺による死者は震災による犠牲者の一から数パーセントにあたるとする報告書を作成している。吉野作造の調査では二千六百十三人余、上海の大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」社長の金承学の調査での六千六百六十一人という数字があり、幅が見られる。犠牲者を多く見積もるものとしては、大韓民国外務部長官による一九五九年の外交文章内に「数十万の韓国人が大量虐殺された」との記述がある。内務省警保局調査(「大正十二年九月一日以後ニ於ケル警戒措置一斑」)では、朝鮮人死亡二百三十一人・重軽傷四十三名、中国人三人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人五十九名、重軽傷四十三名であった。朝鮮人殺害の具体例としては、九月五日から六日に掛けて発生した藤岡事件』(九月五日、群馬県藤岡市内の砂利会社で雇用されていた朝鮮人労働者十四名の身辺危機を感じた社長らが藤岡警察署に保護を求めたが、彼らが留置場で匿われていたことを聞きつけた地元自警団が警察署に殺到、制止する警察官を振り切って留置場に乱入、保護していた朝鮮人を引き摺り出して暴行を加え、虐殺に及び、翌六日、日野村の朝鮮人三名が藤岡警察署で保護されていることを聞きつけた自警団が再び警察署を襲撃、一人を殺害、逃亡した二人を町内で発見して殺害した事件。ここは徐裕行氏のブログの「関東大震災と朝鮮人虐殺事件に思う正義のありかた。」に拠った)『が挙げられる。群馬県藤岡市の藤岡警察署に保護された砂利会社雇用の在日朝鮮人ら十七人が、署内に乱入した自警団や群衆のリンチにより殺害されたことが、当時の死亡通知書・検視調書資料により確認できる。なお、立件されたケースの被害者数を合算すると二百三十三人となる』。『二〇一三年六月には、韓国の李承晩政権時代に作成された、被害者二百八十九人の名簿が発見され、翌年には目撃者や遺族の調査が開始された』とある。

・「マニラ」筑摩全集類聚版脚注に、『Manila 煙草の名。葉巻用として有名。香気高く、味が濃厚で東洋人向きと云われる』とある。

・「チヨコレエト」岩波新全集の山田俊治氏の注に、『日本では一九一八年、森永製菓がカカオ豆からの処理を一貫生産し、生産量、消費量ともに増加した』とある。一九一八年は大正九年、この震災の三年前のことである。

・「シトロン」新潮文庫の神田由美子氏に、『Citoron。清涼飲料水の商品名。サイダー』とある。

・「甞めなければ」「なめなければ」。

・「三世」「さん ぜ」と読む仏教用語。前世(ぜんせ)・現世げんせ)・来世(ごぜ)。

・「小泉八雲は人間よりも蝶になりたいと云つた」小泉八雲(一八五〇年六月二十七日~明治三七(一九〇四)年九月二十六日):出生名パトリック・ラフカディオ・ハーン Patrick Lafcadio Hearn)と蝶といえば、知られたものに「虫の研究」(Insect-Stidies)の「蝶」(Butteflies)がある(作品集「怪談」(Kwaidan:一九〇四年ロンドン/ボストン/ホウトン・ミフリン社刊)が、当該作にはこれに近似した感懐は述べられていない。岩波新全集の山田氏は注で、この『出典は不明。ただし、『骨董』(一九〇一年)所収の「餓鬼」では「蟬か蜻蛉の生涯にせめて生れ変りたい」とある』とあり、事実、「餓鬼」の末尾で小泉八雲は自身の感懐希望としてそう述べている(因みに、私は小泉八雲の電子化注も手がけている)。なお、龍之介は小泉八雲逝去時、未だ満十二才、江東(えひがし)尋常小学校(後の両国小学校)高等科三年であり、遂にハーンと対面することはなかった。八雲が長生きしていたら、きっと龍之介の良き師(漱石とは全く違った)となっていたに違いなく、八雲の作品ももっと違ったものに発展していたに違いなく、個人的にはとても残念な気がしている。

・「僕は未だに覺えてゐる。月明りの仄めいた洛陽の廢都に、李太白の詩の一行さへ知らぬ無數の蟻の群を憐んだことを!」龍之介はこの二年前、大阪毎日新聞社中国特派員として大正一〇(一九二一)年の六月七日頃から十日頃にかけて洛陽(現在の河南省洛陽市)に滞在している。

・「シヨオペンハウエル」「シヨオペンハウエルの厭世觀」この世は考えうる限りの最悪の世界であるとした厭世哲学(ペシミズム:pessimismのチャンピオンドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーArthur Schopenhauer 一七八八年~一八六〇年:音写は「ショーペンハウエル」などとも)の思想については、小学館「日本大百科全書」の佐藤和夫氏の解説から引く。彼にとっては『世界とは「わたしの表象」であり、現象にほかならない。つまり、主観である意志に対応する客観としてのみ、世界が存在する。時間・空間・因果関係においてある現象に対して、カントのたてた物自体とは実は意志そのものにほかならない。それは「生きんとする盲目的意志」であり、満たされない欲望を追求するがゆえに、生とは苦痛なのである。彼によれば、人類の歴史、時代の変転などの人間の多様な形態は、意志の適切な客体性であるイデアを読み取りうる限りで意味をもつのであって、それ自体においてはどうでもよいものである。このイデアを認識しうるのが芸術であり、なかでも音楽は、意志を直接にイデアという媒介なしに客観化するという点で卓越している。しかし、芸術による生の苦痛からの解脱(げだつ)は一時的なものでしかない。そこで生の苦痛から解脱するには、意志の否定によって無私の行為へと向かい、梵我一如(ぼんがいちにょ)の境地、涅槃(ねはん)の境地へ達するという倫理の次元こそが、真に求められるものである』とある。さて、私は龍之介の思想は無論、彼の厭世哲学の強い影響下にあったとは思う。しかし、龍之介はかの名作「河童」の中の降霊会の報告シークエンスで、自殺した厭世主義者の詩人「トツク」の霊に対して質問者が、あの世での『君の交友は自殺者のみなりや?』と問うと、トックは『必しも然りとせず。自殺を辯護せるモンテエニユの如きは予が畏友の一人なり。唯予は自殺せざりし厭世主義者、――シヨオペンハウエルの輩(はい)とは交際せず。唯予は自殺せざりし厭世主義者、――シヨオペンハウエルの輩(はい)とは交際せず。』と答えるというシーンを配していることに着目する。私も若き日には確かに彼の哲学に一瞬、惹かれたものではある。しかし、ショーペンハウエルは、その多くの若き弟子や追従者を次々と夭折の自死に追い込みながら、自身はヘーゲルの出現によって人気を奪われて、臍を曲げて隠棲、田舎に引っ込んで余生を暮らした事実を知るや、急速に熱が冷めたのを思い出す。なお、萩原朔太郎は「芥川龍之介の死」(リンク先は私の古い電子テキスト)の「9」の最後で、芥川のこんな吐露を書き記している。やや長いが総て引いてこの注の終りとする(傍点「ヽ」は下線に代えた)。

   *

 海に面した鵠沼の東家に、病臥中の芥川君を見舞つたのは、私が鎌倉に居る間のことだつた。ひどい神經衰弱と痔疾のために、骨と皮ばかりになつてる芥川君は、それでも快活に話をした。不思議に私は、その時の話を覺えてゐる。病人は床に起きあがつて、殆んど例外なしに悲慘である所の、多くの天才の末路について物語つた。「もし實に天才であるならば、かれの生涯は必ず悲慘だ。」といふ意味を、悲痛な話材によつて斷定した。それから彼は、一層悲痛な自分自身を打ちあけた。何事も、一切の係累を捨ててしまつて、遠く南米の天地に移住したいと語つた。

 さうした芥川君の談話は、異常に悽愴の氣を帶びてゐた。自分は彼の作品について、時にしばしば一種の鬼氣を――支那の言語で、丁度「鬼」といふ字が表象する所の悽愴感を――感じてゐた。實に私は、至る所にこの「鬼」の形相を見た。彼の容貌や風格に、そのユニイクな文字や書體に、そしてとりわけ作品や會話の中に。

 丁度、ひどい憂鬱の厭世觀に憑かれてゐた私は、談話のあらゆる本質點に於て彼と一致し、同氣あひ引く誼みを感じた。だが私は、彼の厭世觀の眞原因が、どこにあるかを判然と知り得なかつた。多分その絶望的な病氣と、それに原因する創作力の衰弱がとが、事情の主たるものであると思つた。且つ一つには、例の「人の心を見通す」聰明さから、彼一流の思ひやりで、たまたま私と合槌を打つてるのだとも考へた。實にこの一つの邪推は、彼に對する交際の第一日から、私の胸裏に根強く印象されたものであつた。彼はあらゆる聰明さで、あらゆる人と調子を合せて談話する。だがその客が歸つたあとでは、けろりとして皮肉の舌を出すだろう。そしていかに相手が馬鹿であり、愚劣な興奮に驅られたかを、小説家特有の冷酷さで客觀してゐる。

 この考へは、確かに不愉快なものであつた。だが私は、かつて伊香保で知己になつた谷崎潤一郎氏に對しても、やや同樣の邪推なしに居られなかつた。けだし私は、室生犀星以外のいかなる文壇人とも交際がなかつた上、特に小説家については全く未知の世界に屬してゐた。小説家は――あらゆる小説家は――私にとつて「星からの人類」だつた。彼等と交はることは、私にとつてちがつた宇宙への觀察だつた。自分たち詩人の仲間は、すべてが單純な情熱家であり、客觀的な觀照眼を殆んどもたない。詩人は常に醉つて居り、醉ひの主觀境地でのみ話をする。然るに小説家は、常に何事にも對しても客觀的で、冷靜な觀察眼をはなつてゐる。だから小説家と話をする時、自分等の倶樂部と全くちがふ、冷酷にまで氷結された空氣を感ずるのだ。そのちがつた空氣は、意地の惡い觀察の眼をもつて、じろじろと自分の醉態を眺めてゐる。そこに丁度、酒に醉つた者が、醉はない人々の中にゐて、意地惡く狂態を觀察されるやうな、一種不愉快な自覺が生ずる。

 芥川君に對する時、いつも自分はさうした不快さ――觀察されるものの不快さ――を、本能の微妙な隅に直感した。それからして自分は、時にしばしば彼を「意地惡き皮肉の人」とも考へた。けれどもこれは、小説家について全く知らない私が、一般の習性ともなつてる小説家的本能(觀察本能)を、たまたま初見の谷崎君や芥川君について邪解したものにすぎなかつたのだ。彼等は決して、そんな意地惡き觀察をしてゐるのでない。ただ態度が、職業的に習性となつてるその小説家的態度が、ある冷酷な――酒に醉はない――觀察本能を、我々ちがつた世界の人間に印象させるにすぎないのだ。

 話が餘事それたが、最後に、別れる時、前言の一切を取り消すやうな反語の調子で、彼は印象強く次の言葉を繰返した。

「だが自殺しない厭世論者の言ふことなんか、皆ウソにきまつてゐるよ。」

 それから笑つて言つた。

「君も僕も、どうせニセモノの厭世論者さ。」

   *]

2016/05/22

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 人生(三章)

 

       人生

        ――石黑定一君に――

 

 もし游泳を學ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思ふであらう。もし又ランニングを學ばないものに駈けろと命ずるものがあれば、やはり理不盡だと思はざるを得まい。しかし我我は生まれた時から、かう云ふ莫迦げた命令を負はされてゐるのも同じことである。

 我我は母の胎内にゐた時、人生に處する道を學んだであらうか? しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。勿論游泳を學ばないものは滿足に泳げる理窟はない。同樣にランニングを學ばないものは大抵人後に落ちさうである。すると我我も創痍を負はずに人生の競技場を出られる筈はない。

 成程世人は云ふかも知れない。「前人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の游泳者や千のランナアを眺めたにしろ、忽ち游泳を覺えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその游泳者は悉く水を飮んでをり、その又ランナアは一人殘らず競技場の土にまみれてゐる。見給へ、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに澁面を隱してゐるではないか?

 人生は狂人の主催に成つたオリムピツク大會に似たものである。我我は人生と鬪ひながら、人生と鬪ふことを學ばねばならぬ。かう云ふゲエムの莫迦々々しさに憤慨を禁じ得ないものはさつさと埒外に步み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思ふものは創痍を恐れずに鬪はなければならぬ。

 

       又

 

 人生は一箱のマツチに似てゐる。重大に扱ふのは莫迦々々しい。重大に扱はなければ危險である。

 

       又

 

 人生は落丁の多い書物に似てゐる。一部を成すとは稱し難い。しかし兎に角一部を成してゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年八月号『文藝春秋』巻頭に前の「告白」とこの三篇の「人生」の計四章で初出する。

 但し、底本の後記よれば、単行本化の際、初出の末尾にあった全六文に及ぶ長い段落が丸ごとカットされている。その省略部を以下に前の段落全部に繋げる形で復元しておく。

   *

 人生は狂人の主催に成つたオリムピツク大會に似たものである。我我は人生と鬪ひながら、人生と鬪ふことを學ばねばならぬ。かう云ふゲエムの莫迦々々しさに憤慨を禁じ得ないものはさつさと埒外に步み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思ふものは創痍を恐れずに鬪はなければならぬ。

 四つん這ひになつたランナアは滑稽であると共に悲慘である。水を呑んだ游泳者も涙と笑とを催させるであらう。我々は彼等と同じやうに、人生の悲喜劇を演ずるものである。創痍を蒙るのはやむを得ない。が、その創痍に堪へる爲には、――世人は何と云ふかも知れない。わたしは常に同情と詩語とを持ちたいと思つてゐる。

   *

カット・パートの前半分は確かにやや第三段落とダブるイメージがあり、最後の謂いも、「同情と詩語」という癒しがあるとするのでは、「人生」苛烈な「創痍」が、どうも、湯治に浸かっているような気になってよろしくない。カットは必然であった気はする。しかしながら、「我々は彼等と同じやうに、人生の悲喜劇を演ずるものである。創痍を蒙るのはやむを得ない。が、その創痍に堪へる爲には、――世人は何と云ふかも知れない。わたしは常に同情と詩語とを持ちたいと思つてゐる」という告解こそ、実は侏儒たる龍之介の本音でもあったことにも、我々は気づかねばなるまい

 副題の「石黑定一」(明治二九(一八九六)年~昭和六一(一九八六)年)というのは、岩波新全集に附録する「人名解説索引」(関口安義・宮坂覺(さとる)両氏編著)によれば、芥川がこの二年前の大正一〇(一九二一)年の『中国特派旅行中に知り合った友人』で、東京高等商業学校(現在の一橋大学の前身)卒で、当時は三菱銀行上海支店に勤務しており、後に『同行名古屋支店長をつとめた』とある。例えば、私は「上海游記 五 病院」に登場する謎の「石黑政吉」という人物はこの石黒定一ではないかと秘かに疑っている(リンク先は私のブログ版「上海游記」の当該章。詳細はその私の注を参照されたい。なお、「上海游記 附やぶちゃん注釈」(全)のHTML版はこちら)。読者の中には、本章の真の読解のためにはこの献ぜられた相手である石黒定一なる人物を明らかにする必要があるとお考えになる方が多くおられるのではないかと思っている。実際、私も高校時代に初めて読んだ時に、この名前が頭に刻まれて仕方がなくて、いろいろ考えた。例えば、この石黒なる人物は実は、オリンピックで期待された水泳か陸上の選手なのではないか? ここに開陳される如何にもな神経症的「人生」観を体現する数奇な運命を辿っている芥川龍之介の秘密の友人なのではないか? 等々である。ところが、どうもそういう意味深長な背景は、ない、ようなのである。少なくとも、この長めの「人生」(及び後の二つの「又」も合わせてそうとは読める)を献呈した理由は、以下の当の石黒定一宛のこの年の末の龍之介書簡(大正一二(一九二三)年十二月十五日田端発信・旧全集書簡番号一一五二)を読む限りでは、隠された秘密の暗号はないように(或いは石黒には分かる特別な仕掛けはあるのかも知れないが、現時点ではそれを明らかにしている研究者はいないと思われる)感ぜられるのである(底本は旧全集に拠ったが、踊り字は正字化した。下線はやぶちゃん)。

   * 

冠省御手紙ならびに奈良漬難有く落掌いたしました君の前に上海から東京へ來られた時日本橋の何處かの宿屋から僕へ手紙を頂いたことがあるでせうあの時僕は病の爲湯河原へ行つてゐたのです湯河原で君の手紙を(附箋のついた)受取つた時はもう君の東京にゐない時分だつたのですが念の爲宿へ長距離電話をかけて見ましたさうしたら昨日お立ちになつたとか云ふ事でしたその次第を手紙に書かうと思つてゐるうちに無精の爲、とうとうお流れになつたのですすると春服の出た時君に手紙を頂いたので、今度こそはと思つたのですがやつぱり天性の疎懶に負けてしまつたので、おわび代りに侏儒の言葉の一章を君に獻ずる事にしましたかう云ふ具合にこの手紙を書く迄には何度も書かう書かうと思つたのですがいつも思ひ思ひ書かずにしまふのですどうか失禮は不惡御高免下さい實はこの手紙ももつと早く差上ぐべきものですが新年號の〆切りや何か控へてゐた爲、又だらだらとのびてしまつたのです僕は明朝京都へ行き一週間ばかり遊んで來るつもりです 以上

     十五日   芥川龍之介

   石黑定一樣

   *

書簡中の「とうとう」はママ。「あの時僕は病の爲湯河原へ行つてゐた」龍之介は湯河原へは、中国から帰国(七月)した年の大正一〇(一九二一)年十月と、この大正一二(一九二三)年の三月から四月にかけて静養のために出かけているが、ここは後者か。「春服」は大正一二年五月十八日に春陽堂から刊行した第六作品集の書名。「疎懶」は「そらん」と読み、無精なこと・なまけることの謂い。以上は、老婆心乍ら、今の「侏儒の言葉」を愛読する若者たちが、若き日に私がとらわれた莫迦げた疑念の轍を踏まぬように、敢えて注しておくこととする。

 

・「創痍」「さうい(そうい)」「創」も「痍」も傷の意で、元来は刃物などによって体に受けた傷、創傷を指すが、転じて精神的な痛手の謂いとしてもよく用いられる。

を負はずに人生の競技場を出られる筈はない。

・「澁面」「じふめん」或いは「じぶづら」であるが、私は後者で訓じたい(筑摩全集類聚版は前者でルビを振る)。言わずもがなであるが、意味は、不愉快そうな苦々しい顔つき。しかめっ面。

・「埒外」通常の辞書では読みは「らちがい」であるが、私などは「らつがい」と読みたくなる(夏目漱石の作品ではしばしば「らつがい」とルビされる)。ある物事や対象の範囲外の意。

・「便法」「べんぱふ(べんぽう)」あることを成すのに手っ取り早い簡単容易に出来る方法。こんな短文にも龍之介の鋭いアイロニーはジャック・ナイフのようにキラりと光る。

・「人生は一箱のマツチに似てゐる。重大に扱ふのは莫迦々々しい。重大に扱はなければ危險である。」「侏儒の言葉」といえば、私は後の「わたし」、

 

 わたしは良心を持つてゐない。わたしの持つてゐるのは神經ばかりである。

 

の次に、この一章を直ちに想起するものである。龍之介の修辞の絶妙なることは、「重大に扱ふのは莫迦々々しい。」と「重大に扱はなければ危險である。」の二文の間に次のアフォリズムのような「しかし」という逆説の接続詞を配さない上手さにある。我々凡夫は必ずや、ここに流れの説明を示す語や表現を入れ込みたくなり、そうして文章の輝きは即座に消え失せるのである。芥川龍之介の盟友菊池寛は「人生を銀のピンセツトで弄んでゐる」と龍之介を洒落て評したが、それとこのマッチの一章を並べて見れば、自ずとどっちが文学の本物であったかがよく判ると私はいつも思う。

・「人生は落丁の多い書物に似てゐる。一部を成すとは稱し難い。しかし兎に角一部を成してゐる。」さて、落丁のある書物の場合――その落丁が一ヶ所なら――私はそのまま力技で読む。読み終わってしかし、その落丁部分には同書の核心的記述や重大な伏線が書かれているかも知れぬと漠然と夢想し、結局、購入した書店に持って行き、交換して貰う。しかし結局、その落丁部分にはたいしたことは書かれていないのである――私は生涯に文庫本の鎌倉時代について書かれた歴史解説書で一度、海外の幻想小説の単行本で一度、落丁本を買い、事実、そうした。そうして実際、交換して読んだその落丁部分にはたいした内容は記されていなかった。なお、力技で読んでから交換という仕儀は、単に綺麗な本を残しておきたいという書痴感覚に過ぎぬ――。即ち、――「他人の人生」という「書物」の一ヶ所の落丁――ならば、その「落丁」部分には――その人の人生の秘鑰(ひせき:その人を真に知り得る秘密の鍵)が隠されているやも知れぬ――とことさらに憧憬するやも知れぬとは言えるのである。しかし乍ら、所詮、それは私の実際経験の物語るように、結果的に失望する妄想に過ぎぬものである(しかしそれは実際にその「一ヶ所の人生の落丁」部を覗き読み得た場合に限る訳でもある)。……しかし「落丁の多い書物」となると、事態は全く変わってくる。複数の落丁がある場合、最早、類推によって読み進める意欲は失われ、早々にその書物を読むことはやめ、即座に新本との交換を求める。即ち、――その「落丁の多い」「人生」という「書物」は見かけ上の「書物」という実体を成しているようでありながら――その実――それは読むに値する/味読することの出来る「人生」という「書物」ではなく、「人生」という御大層な標題を冠した――「永遠に誰にも読まれことがない」ところの「人生」という題名の「書物」という形式上の「一部を成してゐる」に過ぎない。――それは、その内実からは「一部を成すとは稱し難い、しかし「兎に角一部を成してゐる」ようには見える/見えるだけの現実的には無用不用の形骸物・廃棄物――に過ぎないということになる。そうして……それが「自分の人生」であるとしたら……これは考えるだに胸掻き毟られるような焦燥ではないか?!……いや……しかし必ずしもそうではないかも知れない。そもそも落丁などなくとも、殆ど誰にも読まれることのない書物は、実際にあるではないか。しかし――果たしてそのような「書物」は本当に「あらゆる他者に対して無用不用の意味のないもの」なのであろうか?――その答えは後の芥川龍之介の私遺愛の掌品「詩集」(大正一四(一九二五)年『新小説』)に求めることが出来るであろう。短いので総てを掲げる(底本は岩波旧全集。大きな活字でお読みになりたい方は最古電子テクストであを見られたい。なお、四度あるリフレインの最初と最後の一行目末の読点がないのはママである)。

   *

 

  詩集

 

 彼の詩集の本屋に出たのは三年ばかり前のことだつた。彼はその假綴ぢの處女詩集に「夢見つつ」と言ふ名前をつけた。それは卷頭の抒情詩の名前を詩集の名前に用ひたものだつた。

    夢みつつ、夢見つつ

    日もすがら、夢見つつ……

 彼はこの詩の一節ごとにかう言ふリフレエンを用ひてゐた。

 彼の詩集は何冊も本屋の店に並んでゐた。が、誰も買ふものはなかつた。誰も? ――いや、必ずしも「誰も」ではない。彼の詩集は一二册神田の古本屋にも並んでゐた。しかし「定價一圓」と言ふ奥附のあるのにも關らず、古本屋の値段は三十錢乃至二十五錢だつた。

 一年ばかりたつた後、彼の詩集は新しいまま、銀座の露店に並ぶやうになつた。今度は「引ナシ三十錢」だつた。行人は時々紙表紙をあけ、卷頭の抒情詩に目を通した。(彼の詩集は幸か不幸か紙の切つてない装幀だつた。)けれども滅多に賣れたことはなかつた。そのうちにだんだん紙も古び、假綴ぢの背中もいたんで行つた。

    夢みつつ、夢見つつ、

    日もすがら、夢見つつ……

 三年ばかりたつた後、汽車は薄煙を殘しながら、九百八十六部の「夢見つつ」を北海道へ運んで行つた。

 九百八十六部の「夢見つつ」は札幌の或物置小屋の砂埃の中に積み上げてあつた。が、それは暫くだつた。彼の詩集は女たちの手に無數の紙袋に變り出した。紙袋は彼の抒情詩を橫だの逆樣だのに印刷してゐた。

    夢みつつ、夢見つつ、

    日もすがら、夢見つつ……

 半月ばかりたつた後、是等の紙袋は點々と林檎畠の葉かげにかゝり出した。それからもう何日になることであらう。林檎畠を綴つた無數の林檎は今は是等の紙袋の中に、――紙袋を透かした日の光の中におのづから甘みを加へてゐる、靑あをとかすかに匂ひながら。

    夢みつつ、夢見つつ

    日もすがら、夢見つつ……

 

   *

この「詩集」は決してたった十四部しか買われなかった――買ったからといって読まれる訳ではない。しかもこの詩集はフランス装であるために残りの九百八十六部は確実に誰も立ち読みでさえ読まれることはなかったのである。しかし、である。この小品が描いているのは――「夢見つつ」という「詩集」(という「人生」の――「悲劇」(的末路)――では――ない。このエンディングの如何にも掌(たなごころ)に感ずる林檎の温もりとそこから伝わってくる林檎の甘みの、何とリアルなことであろう! 私は――荘子の言った「無用の用」の如き――真の「詩の光栄」こそがこの「林檎の至福」としてある――と読むのである。

 なお、この一章は前章よりも無論、インパクトは落ちる。そういう意味では「甘い」。

 しかしそれこそが芥川龍之介の確信犯なのである。

 

――これあればこそ――前のマッチが恐ろしい――かの「地獄變」の絵巻のような――紅蓮の焰を上げて燃えさかるから、である…………]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 告白

 

       告白

 

 完全に自己を告白することは何人にも出來ることではない。同時に又自己を告白せずには如何なる表現も出來るものではない。

 ルツソオは告白を好んだ人である。しかし赤裸々の彼自身は懺悔錄の中にも發見出來ない。メリメは告白を嫌つた人である。しかし「コロンバ」は隱約の間に彼自身を語つてはゐないであらうか? 所詮告白文學とその他の文學との境界線は見かけほどはつきりはしてゐないのである。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年八月号『文藝春秋』巻頭に次の「人生――石黑定一君に――」とそれに続く二篇の「又」(「人生」)の計四章で初出する。

 

・「ルツソオ」ジュネーヴ共和国に生まれてフランスで活躍し、「学問芸術論」(Discours sur les sciences et les arts (1750))によって人為的文明社会を批判して『自然に還れ』と主張し、「エミール、又は教育について」(Émile, ou De l'éducation (1762))では知性偏重教育を批判し、「社会契約論」(Du Contrat Social ou Principes du droit politique (1762))で「人民主権」を展開、フランス革命に大きな影響を与えた哲学者で作家のジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau 一七一二年~一七七八年)は私の生理的嫌悪の絶対対象である。高校の「倫理社会」で、彼の私生活のエピソードの話を聴き、それが脳裏に固着したまま、私のルソー嫌いは四十年以上定着し続け、彼の如何なるありがたいお言葉も右から左へ抜け、私の心を全く動かさないのだから、仕方がない。ウィキの「ジャン=ジャック・ルソー」によれば、『私生活においては、マゾヒズムや露出癖、晩年においては重度の被害妄想があった。こうした精神の変調の萌芽は若い頃からあり、少年時代に街の娘たちに対する公然わいせつ罪(陰部を露出)で逮捕されかかった。更に、自身の』五人の『子供を経済的事情と相手側の家族との折り合いの悪さから孤児院に送った。自身の著書『告白』などでそれらの行状について具体的に記されている』とあるが、私の最大の嫌悪はこの五人の子の子棄て(孤児院というのは我々の認識とは異なり、単なる子棄て場に過ぎない)の行為にある。こんな男は、たとえその口をついて出る言葉が皆、御説御尤もであっても、人非人以外の評価を私はしない。「父」であることを放棄した彼は人間ではない。私は龍之介が「良き父」であるために自裁と本気で大真面目に思っている(御不信の向きは彼の子らへの遺書を再読精読されたい)。さればこそ龍之介はルソーを激しく嫌悪したものと思うのである。或いは龍之介は、ルソーのような思想と行為の乖離した人間であったなら私は自殺せずに済んだか知れぬ、と中有(ちゅうう)の底に沈んでゆく最中にちらりと思いはしたかも知れぬ。

・「懺悔錄」Les Confessionsは「告白(録)」などとも訳されるルソー晩年の自叙伝で、一七六四年から一七七〇年に執筆されたものの、死後の一七八一年(第一部)、一七八八年(第二部)になって出版されたものである(龍之介が前の古典」で言ったように既に死んでいる作家の「告白」「懺悔録」である点に注意)。以下、小学館「日本大百科全書」の原好男氏の解説に拠る。『世間の誤解を解くとともに、将来の人間研究の資料を提供しようという目的で書かれた。ルソーは自分の一生を、作家になる前とその後に分け、前半生を幸福な時代、後半生を不幸になった時代としてとらえていたが、作品にもそうした考え方が反映し』、二部に『分けられている』。第一部の『少年時代、青年時代の記述は、率直かつ詳細なもので、ときには卑しい行為や性的異常をも、はばかることもなく描いている。ユーモアあり悔恨あり、それが過ぎ去った時代をふたたび生きる喜びと混じり合い、いまなお読者を魅了してやまない』。第二部は、『晩年の被害妄想の影響下に書かれたため、また、昔の友人たちへの遠慮からか』、第一部と『比較すると精彩を欠き、暗いものとなっている。思想家ルソーのひととなりを知るための第一級の資料であるとともに、自伝文学の傑作の一つ。日本では、明治初期、自由民権運動の時代に、『社会契約論』が影響力をもったのにかわって、明治後期』(明治二四(一八九一)年の森鷗外によるドイツ語訳からの抄訳が本邦の初訳となった)、島崎藤村など、日本に於ける近代文学の成立、特に本邦独特の自然主義文学の形成に本書は強い影響を与えた。

・「メリメ」フランスの作家プロスペル・メリメ(Prosper Mérimée 一八〇三年~一八七〇年)は怪奇作家として私の大好きな小説家である。「日本大百科全書」の冨永明夫氏の解説を引く。パリ生まれ。『大学では法科に学んだが、早くから創作を志し』、一八二五年に「クララ・ガスル戯曲集」を『同名の女優の作と偽って出版したのが処女作』で、一八二九年、歴史小説「シャルル九世年代記」(Chronique du règne de Charles IX)で『好評を得、以後』、『続々と傑作短編群を発表するに至る。裏切りをはたらき家名を汚した幼い息子を冷然と処刑するコルシカ男の物語』「マテオ・ファルコーネ」(Mateo Falcone (1829))、『奴隷船上の黒人の反乱とその後の惨たる漂流を叙事詩風に綴』った「タマンゴ」(Tamango (1829))、『歴史ものらしく仕立てた怪異譚』「カール十一世の幻視」(Vision de Charles XI (1829))、精緻にして粋な恋愛心理小説である「エトルリアの壺」(Le Vase étrusque (1830):怪奇小説ではないが、私お薦めの作品である)『など、題材も手法もまちまちだが、いずれも透明な文体と緊密な構成により短編小説の見本といってよい。メリメの文名はかくて』二十代後半に『確立した感がある』。一八三一年からは官界に入り、一八二四年には『文化財保護監督官、以後は頻々と国内外に巡察旅行を試みて、歴史的建造物、遺跡の調査、保護、修復に精力を注ぐ。当時無名に近かった建築家ビオレ・ル・デュック』(一八一四年~一八七九年)『を登用して各地の中世建築の修復にあたらせたのも大きな功績である。数多い巡察旅行の副産物として、ピレネー山麓』『のイールを舞台とする考古学的怪談』である「イールのビーナス」(La Vénus d'Ille (1837))、『コルシカに取材した』「コロンバ」(Colomba (1840):後注参照)『などの佳作が生まれた。代表作と』される「カルメン」(Carmen (1845))も、『この延長線上にある作品といえる』。一八四四年にアカデミー会員、一八五三年には旧知のナポレオン三世の妃であったウージェニーに請われて上院議員となっている。しかし、「カルメン」以後、『小説への意欲は衰えをみせ、史伝、考証、ロシア文学の翻訳・紹介に文筆活動の重点が移る。他方、廷臣として多忙な社交生活のなかから、多分に公刊を予期した膨大な書簡群が生まれている。最晩年には小説への意欲が再燃したが、傑作を生むには至らず』、一八七〇年、『プロイセン・フランス戦争の敗北と帝政の崩壊を見て、失意のうちに』同年九月に『カンヌで没した』。『メリメの本質は』十八世紀的合理主義者ではあるが、『時代の好尚は争えず、ロマン派の影響下に、異国や遠い昔に材をとり、人間の暗い情熱や運命との抗争を物語る中短編がやはりその本領である。他方、心理小説風の試みや、風刺的戯作』、『怪異への好みなども指摘できるが、いずれの場合も古典的端正さを崩さない明晰』 にして『冷徹な文体が支えとなっている。明敏な都会人メリメは、異常な、あるいは幻想的な事件を物語りつつも、つねに作品と一定の距離を保たずにはいられない。彼はいつも「醒』『めて」いなければならな』かったのである。

・「コロンバ」(Colomba)はコルシカに永く伝わるかたき討ちの風習を素材とした、旧家の娘コロンバを主人公とする一八四〇年刊の、しばしば「カルメン」と併称されるメリメの代表的中編小説。新潮文庫の神田由美子氏の注は、『コルシカ島の名家の娘コロンバとその兄のオルソ』(Orso)『陸軍中尉』『が、父を暗殺したバリッチニ』(Barricini)『兄弟に仇討(あだうち)する話。「カルメン」とともに、女性の野性的情熱を描いたメリメの代表作、芥川の「偸盗(ちゅうとう)」のヒロイン「沙金(しゃきん)」に、この影響があると言われている』と、勘所を押さえつつ、コンパクトに纏めておられる。

・「隱約」「いんやく」で、はっきりと見分け難いこと。言葉は簡単であっても意味が奥深いこと。或いは、あからさまには表現していないこと、の謂いで、ここはの意である。筑摩版全集類聚脚注も新潮の神田氏もの意とするが、従えない。因みに、小学館の「大辞泉」の「隠約」のの意味の例文は、まさにこの龍之介の一文が引かれてある。]

2016/05/21

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 幻滅した藝術家

 

       幻滅した藝術家

 

 或一群の藝術家は幻滅の世界に住してゐる。彼等は愛を信じない。良心なるものをも信じない。唯昔の苦行者のやうに無何有の砂漠を家としてゐる。その點は成程氣の毒かも知れない。しかし美しい蜃氣樓は砂漠の天にのみ生ずるものである。百般の人事に幻滅した彼等も大抵藝術には幻滅してゐない。いや、藝術と云ひさへすれば、常人の知らない金色の夢は忽ち空中に出現するのである。彼等も實は思ひの外、幸福な瞬間を持たぬ訣ではない。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年六月号『文藝春秋』巻頭に前の「創作」「鑑賞」「古典」(二篇)と合わせて計五章で初出する。私はこの章は、これら四章の最後に満を持して配されてあるのだと思うものである。これは地獄變」なぞよりも遙かに芥川龍之介の芸術至上主義を語る一章とも読める(但し、近年、私は芥川龍之介の芸術至上主義自認に懐疑的である。地獄變」で良秀を自裁させることに、私は龍之介の中の異様なほどに強い倫理意識を感じとるからであり、彼の自死の子どもらへの遺書を読んでも、それをことさらに激しく感じざるを得ないからである(リンク先は私のもの)。

 さて、これらの五章が纏めて書かれ、しかもそれが一挙に載せられていることを考える時、我々は、と言うよりも、当時の読者に、これらが連続した同一体として読まれることを、芥川龍之介は切実に「要請」していたと考えて良いのではあるまいか? 煩を厭わず、試みに、やってみようではないか。

   *

 「創作」とは何かと言ふことを考へて見る。すると、それは、以下のやうに述べ得るであらう。即ち、『藝術家は何時も意識的に彼の作品を作るのかも知れない。しかし作品そのものを見れば、作品の美醜の一半は藝術家の意識を超越した神祕の世界に存してゐる。一半? 或は大半と云つても好い』。『我我は妙に問ふに落ちず、語るに落ちるものである。我我の魂はをのづから作品に露るることを免れない。一刀一拜した古人の用意はこの無意識の境に對する畏怖を語つてはゐないであらうか? 創作は常に冐險である。所詮は人力を盡した後、天命に委かせるより仕方はない』。例へば、『少時學語苦難圓 唯道工夫半未全 到老始知非力取 三分人事七分天』といふ、『趙甌北の「論詩」の七絶はこの間の消息を傳へたものであらう。藝術は妙に底の知れない凄みを帶びてゐるものである。我我も金を欲しがらなければ、又名聞を好まなければ、最後に殆ど病的な創作熱に苦しまなければ、この無氣味な藝術などと格鬪する勇氣は起らなかつたかも知れない』。さても、しかし、藝術作品には「鑑賞」といふ側面もあることは事實ではあらう。それに就いて私は以下のやうに考へるものである。即ち、『藝術の鑑賞は藝術家自身と鑑賞家との協力である。云はば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身の創作を試みるのに過ぎない。この故に如何なる時代にも名聲を失はない作品は必ず種々の鑑賞を可能にする特色を具へてゐる。しかし種々の鑑賞を可能にすると云ふ意味はアナトオル・フランスの云ふやうに、何處か曖昧に出來てゐる爲、どう云ふ解釋を加へるのもたやすいと云ふ意味ではあるまい。寧ろ廬山の峯々のやうに、種々の立ち場から鑑賞され得る多面性を具へてゐるのであらう』と。さて、翻つて、私はしばしば「古典」作品をその素材としてはゐる。しかし、その「古典」とは次のやうな屬性を持つてゐると斷言出來る。即ち、『古典の作者の幸福なる所以は兎に角彼等の死んでゐることである』といふ認識であり、さうして同時にそれは、「又」、『我我の――或は諸君の幸福なる所以も兎に角彼等の死んでゐることである』といふ歸結に至るといふことである。とすれば、私は次のやうに斷言し得る。即ち、「幻滅した藝術家」と言ふ存在が確かにこの世には存在し、しかも私はその「幻滅した藝術家」の一人では確かにあるといふことである。それを更に私なりに言ひ替へるとするならば、『或一群の藝術家は幻滅の世界に住してゐる。彼等は愛を信じない。良心なるものをも信じない。唯昔の苦行者のやうに無何有の砂漠を家としてゐる。その點は成程氣の毒かも知れない。しかし美しい蜃氣樓は砂漠の天にのみ生ずるものである。百般の人事に幻滅した彼等も大抵藝術には幻滅してゐない。いや、藝術と云ひさへすれば、常人の知らない金色の夢は忽ち空中に出現するのである。彼等も實は思ひの外、幸福な瞬間を持たぬ訣ではない』といふことになるのである。

    *

こういう仕儀に批判はあろう。大方の御叱正を俟つものではある。しかし、分立した章句を論(あげつら)うのではなく、ずっと麓まで下がって五篇の景観を見るべきではないのか? 彼自身が言っているではないか。「寧ろ廬山の峯々のやうに、種々の立ち場から鑑賞され得る多面性」こそが真に求められる、と。

 

・「良心なるものをも信じない」「侏儒の言葉」には、誰もが知るところのかの、「わたし」の中に、「わたしは良心を持つてゐない。わたしの持つてゐるのは神經ばかりである。」という一節(私の座右の銘である)がある。

・「無何有の砂漠」の「無何有」は「むかう」。「何有」は「何か有らむ」と読み、反語で「何物も存在しない」の意で、自然のままに何の作為もないことを本来的には指す。ただ、ここでは見た目も現実も、全く砂以外には存在しない、茫漠とした不毛の地という謂いである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 古典(二章)

 

       古典

 

 古典の作者の幸福なる所以は兎に角彼等の死んでゐることである。

 

       又

 

 我我の――或は諸君の幸福なる所以も兎に角彼等の死んでゐることである。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年六月号『文藝春秋』巻頭に前の「創作」「鑑賞」及び後の「幻滅した藝術家」と計五章で初出する。同題なので二つ一緒に示す。「又」は龍之介が「侏儒の言葉」でこの後、頻繁に使用する前の章との同題を指示する文字であるが、この「又」もなかなかに曲者である。概ね前の章をパラドキシャルに変換する効果を持つため、前章自体がパラドックスを述べている場合には、かなり手強い。龍之介のパラドックスは必ずしも元には戻らず、それこそ裏表や内側と外側が反転して張り合わされ、メビウスの帯かクライン管のような様相を呈するからである。

 この二章もまさにそれで、具体的な例を想起して考えてみると分かる。

 

○「荘子(そうじ)」や「源氏物語」の作者(に措定されている)ところの荘子(そうし)や紫式部が幸福である絶対的理由は彼らがとにかく既にして死んでいることに存している。

そして「又」、

●その「荘子」や「源氏物語」を読むところの、我々或いは読者諸君がそれを読みながら幸福であることが出来る理由もとにかく既にして荘子や紫式部が既にして死んでいることに同じく存している。

 

というのである。これは同語反復(トートロジー)の遊戯ではない。

 

○荘子や紫式部が幸福であるのは、その叙述創作したところの「荘子」や「源氏物語」に対する、如何なる毀誉褒貶に対してもそれを少しも気にすることもなく、それは同時に、自己の産み出した文学(的)作品に対して一切の責任を負う必要が全くないことを意味するからである。

そして「又」、

●翻って、その「荘子」や「源氏物語」を読んで面白がったり不思議がったり怖がったり涙を流したりする現代人全般がそれで幸福でいられるのは、それを創作した荘子や紫式部が既にして死んでいることに依拠するのは、作った奴がいないのだから、どう理解しようが、誤解・曲解しようが、神棚に祭りあげようが、厠の糞拭きにしようが、基本的に自由自在だからである。作者がその解釈は全然違うよ、とは決して言いもしないから、どんな風に受け入れても構わないという絶対自由の幸福があるからである。さらに加えて言えば、教師や学者・役人なんどというそれの物申すことを糧とする下劣な輩は、実はその個人の感懐やそれに伴う行動には、実は何の意味も価値も権威も持たない無力な無効な存在だからである。

 

ここで龍之介が言いたい点はなんであるか? それはこれらを対偶すれば分かる。そしてそのヒントは「我々」と言いながら「或いは読者諸君」と――敢えてする――ところにある。

 

△ここで私芥川龍之介は、かのヒットした「古典」を素材とした「羅生門」(こちらは後にヒットした)やら「鼻」やらの作者であるが、自分は「今昔物語集」の作者のようには死んでいないから、書いたものに責任を持たねばならぬ。それはそれで自信を持っておれば、相応に泰然として居られるのであろうが、実際には私はどこか自信が無くって常時、びくついている。そうして、お門違いな絶賛礼讃或いは見当違いの誹謗中傷を波状的に生身に受け続けている。

▲翻って、私芥川龍之介の作品を娯楽として消費する大衆の中の殆んどの読者は、やれ「暗い」だの「甘い」だのと私の作品の隅をほじくっては論(あげつら)い、エンディングの絶望感に思想がないとか、ただの古典の剽窃じゃないかとか、鬼の首を獲ったような言いたい放題に終始している。そうした勝手な物言いが彼らの絶対的幸福であるための権利ででもあるかのように、である。しかしそれは、ただ作者芥川龍之介が今に「生きている」という事実のみに依拠する幸福に過ぎない。

 

そうしてまた――そうした馬鹿げた問いや批判に、また、いちいち私は神経症的に誠実に答えねばならないという、実に針の筵の地獄――不幸――の中に生きている――と芥川龍之介は言っているのではあるまいか?

 

――とすれば――それを終わらせる方法は――一つしか――ない。

――自身自ら「死ぬ」こと――しか――ない

 

詳述は省くが、私はこの時期に既に芥川龍之介の意識の中で、自殺念慮がはっきりと動いていたと考えている。それは例えば、この年(大正一二(一九二三)年)の二ヶ月後の八月に龍之介が避暑のために訪れていた鎌倉平野屋別荘での様子描いた岡本かの子の「鶴は病みき」の龍之介(作中では「麻川荘之介」)の無惨な姿を読めば自ずと実感出来るものと存ずる。青空文庫をリンクしておく。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 鑑賞

 

       鑑賞

 

 藝術の鑑賞は藝術家自身と鑑賞家との協力である。云はば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身の創作を試みるのに過ぎない。この故に如何なる時代にも名聲を失はない作品は必ず種々の鑑賞を可能にする特色を具へてゐる。しかし種々の鑑賞を可能にすると云ふ意味はアナトオル・フランスの云ふやうに、何處か曖昧に出來てゐる爲、どう云ふ解釋を加へるのもたやすいと云ふ意味ではあるまい。寧ろ廬山の峯々のやうに、種々の立ち場から鑑賞され得る多面性を具へてゐるのであらう。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年六月号『文藝春秋』巻頭に前の「創作」及び後の「古典」「又」(「古典」の再標題の意)「幻滅した藝術家」と計五章で初出する。

 

・「アナトオル・フランスの云ふやうに」「アナトオル・フランス」は既に少し注した通り、芥川龍之介が傾倒したフランスの作家アナトール・フランス(Anatole France 一八四四年~一九二四年)のこと(本名はジャック・アナトール・フランソワ・ティボー(Jacques Anatole François Thibault)。セーヌ河畔の古本屋の息子として生まれ、若年から古書を通じて古典の世界に、また、河畔からのパリ風景を通じて古都の美に眼を開いていった。高踏派詩人ルコント・ド・リール(本名シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リール Charles-Marie-René Leconte de Lisle 一八一八年~一八九四年)の知遇を得て、高踏派の詩人として「黄金詩集」(Les Poèmes dorés (1873))を発表するが、やがて関心は小説の方に向いていく。小説家としての名声が高まったのは、「シルベストル・ボナールの罪」(Le Crime de Sylvestre Bonnard, membre de l’Institut (1881))によってである。続いて「バルタザール》(Balthasar (1889):英語からの重訳ながら、初期の龍之介に翻訳がある)・「タイス」(Thaïs(1890))・「鳥料理レーヌ・ペドーク亭」(La Rôtisserie de la reine Pédauque (1893))などが、懐疑主義と厭世主義を典雅な教養で包んだ独特な味わいによって好評を博した。彼はまた『ル・タン』誌の文芸時評を担当し、ブリュンティエール流の〈独断批評〉に対立する〈印象批評〉を世にひろめた。こうして一八九六年にアカデミー・フランセーズ会員に選ばれるが、ドレフュス事件に際してはゾラらのドレフュス擁護派に組した。これを契機として「ジェローム・コアニャール氏の意見」(Les Opinions de Jérôme Coignard (1893))・「赤い百合」(Le Lys rouge (1894))の作家は、徐々に政治や社会への関心を深め、四部作長編小説「現代史」(Histoire contemporaine (18971901))を発表、さらには社会主義へと傾斜していく。しかし、小説「神々は渇く」(Les Dieux ont soif (1912))にもみられるように、革命家の狂信もまた彼の排するところであった。一九二一年のノーベル文学賞を受けた彼は、その微温的な教養主義のゆえに、後にブルトンらの新世代の前衛たちの激しい攻撃の的となった(以上は平凡社の「世界大百科事典」の若林真氏の記載をもとに、一部に原題などを挿入した)。ここで龍之介が言っているのはまさに本「侏儒の言葉」が確信犯でインスパイアしたところのアフォリズム集「エピクロスの園」(Le Jardin d'Épicure1895)の中の一章を指す。これは私の所持する一九七四年岩波文庫刊大塚幸男訳のそれでは「傑作」と標題される(前に述べた通り、原典には実は標題はない)一章と思われ、そこでフランスは『人は何らかの幻想なくしては感嘆しない』と規定し、さすれば『一つの傑作を理解する』ということはとりもなおさず、『その傑作を自己の裡』(うち)『おいて新たに創造すること』に他ならないとする。さらに『同一の作品もそれを眺める人々次第で、人々の魂の中に多種多様に映る。人間の各世代は古い巨匠たちの作品を前にして何かの新しい感動を探すものなのである。最もめぐまれた観客は、何らかの幸いな』意味の解(と)り違い『という代償を払って、最も甘美な最も強い感動をおぼえる人である』。されば人類が情熱的に愛着を感じる芸術作品や詩作品は、そのいくつかの部分が晦渋(かいじゅう)でいろいろに異なった解釈ができるものだけであると見てよい。』(大塚訳。下線を引いた「意味の解(と)り違い」の箇所は、底本では「と」が「解」のルビでそれ以外の箇所には傍点「ヽ」が振られてある)とある部分を指すように思われる(新潮文庫の神田由美子氏も私と同じ大塚訳の後半部分を引いておられる)。これは龍之介が疑義を出して否定している「何處か曖昧に出來てゐる爲、どう云ふ解釋を加へるのもたやすいと云ふ意味」に一致するからである。ただ、岩波新全集の山田俊治氏の注は「エピクロスの園」の一節として、『「人間といふものは、美術或いは文芸の作品にして、それに幾らか朦朧としたところがあり、多様な解釈をあたへ得る余地があるものでなければ、情熱的には殆ど惹きつけられないのである」(草野貞之訳)』と引いており、かなり異なる。しかし、その言っているところの核心は一致しており、同じ箇所の訳と思われる(管見したが、大塚訳の他の箇所にはこのような部分は見当たらない)。

・「廬山」「ろざん」。現在の中華人民共和国の江西省九江市南部にある名山。峰々が形成する風景の雄大にして奇絶、峻嶮にして秀麗なさまで古くから知られ、ここが天候や観る場所によって多種多様な美観を呈するとされることに擬えたのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 創作

 

       創作

 

 藝術家は何時も意識的に彼の作品を作るのかも知れない。しかし作品そのものを見れば、作品の美醜の一半は藝術家の意識を超越した神祕の世界に存してゐる。一半? 或は大半と云つても好い。

 我我は妙に問ふに落ちず、語るに落ちるものである。我我の魂はをのづから作品に露るることを免れない。一刀一拜した古人の用意はこの無意識の境に對する畏怖を語つてはゐないであらうか?

 創作は常に冐險である。所詮は人力を盡した後、天命に委かせるより仕方はない。

  少時學語苦難圓 唯道工夫半未全 到老始知非力取 三分人事七分天

 趙甌北の「論詩」の七絶はこの間の消息を傳へたものであらう。藝術は妙に底の知れない凄みを帶びてゐるものである。我我も金を欲しがらなければ、又名聞を好まなければ、最後に殆ど病的な創作熱に苦しまなければ、この無氣味な藝術などと格鬪する勇氣は起らなかつたかも知れない。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年六月号『文藝春秋』巻頭に後の「鑑賞」「古典」「又」(「古典」の再標題の意)「幻滅した藝術家」と計五章で初出する。底本の「後記」によれば、初出では以上で終らずに最後に一文が加わっている(龍之介は切り抜き帖でここを削除しているということになる)。短いのでこの段落全体を含めて復元しておく。

   *

 趙甌北の「論詩」の七絶はこの間の消息を傳へたものであらう。藝術は妙に底の知れない凄みを帶びてゐるものである。我我も金を欲しがらなければ、又名聞を好まなければ、最後に殆ど病的な創作熱に苦しまなければ、この無氣味な藝術などと格鬪する勇氣は起らなかつたかも知れない。私は正直に創作だけは少なくともこの二三年來、菲才その任には非ずとあきらめてゐる。

   *

 

「菲才」「非才」に同じい。才能がないこと・才能の乏しいことを指す。しかし、これは謙辞としても事実にそぐわない。例えば、機械的に三年前の大正九(一九二一)年の六月まで遡って目ぼしい純粋小説だけを見ても、七月に南京基督」杜子春」、九月「影」、十月「お律と子等」、翌大正十年一月「秋山図」・「山鴫」・「妙な話」・「奇怪な再会」、四月「往生絵巻」、九月「母」、十月「好色」、大正十一年一月中」俊寛」・「将軍」・神々微笑」・「三つの宝」(童話劇)、三月トロツコ」、七月庭」、八月姫君」、九月「お富の貞操」「おぎん」、十月「百合」、大正十二年三月「猿蟹合戦」「雛」「二人小町」(戯曲)、四月「おしの」、この前月の五月には手帳」(後に「保吉の手帳から」に改題)を書いている(リンク先は私の電子テクスト)。龍之介のストーリー・テラーとしてのスランプや小説観の転換期には当たり、保吉物が登場する辺りには私小説的素材を用いた実験の試みなど、確かにやや模索的苦悩は見られるものの、凡そ創作の無才というのは相応しくなく、この謙遜は寧ろ、他の凡愚の作家への厭味のようにしか聴こえてこない(少なくとも他の作家は概ねそう思うことは請け合える)から、さればこそカットしたものであろうと私は思う。

 

・「何時も」筑摩全集類聚版は「何時」に「いつ」とルビする。

・「我我は問ふに落ちず、語るに落ちる」我々人間(芸術家と限定する必要はさらさらない)というものは他者から何かを訊ねられたり、穿鑿されたり、或いは厳しく問い詰められても、これ、頗る警戒して容易に本当に思っている真実を話さぬものであるが、逆に勝手に喋らせる(自分から自律的に語ろうとする)場合には、全く以って安易にして不注意に、語るべきでないような下らない赤裸々なる内実やら秘密やら本心まで、うかうかとべらべら語ってしまい、自己の評価や価値を致命的に貶めてしまうものである、といった謂いである。
 
・「をのづから」はママ。

・「一刀一拜」「いつたう(いっとう)さんぱい」であるが、これは通常、「一刀三拜」或いは「一刀三禮(礼:らい)」が正しく、これは仏の尊像を彫刻する際、一刻みする毎に三度礼拝を成して像に仏の魂がこもるように彫琢することを指す。

・「委かせるより」「まかせるより」。

・「少時學語苦難圓 唯道工夫半未全 到老始知非力取 三分人事七分天」以下にある通り、「趙甌北」(てうおうぼく(ちょうおうぼく))の「論詩」と題する七言絶句である。清朝の知られた考証学者の一人である趙甌北(一七二七年~一八一二年:「甌北」は号で本名は「翼」)は江蘇省武進県の出身で、商家の生まれであったが、乾隆帝に認められて軍機処(ぐんきしょ:清の皇帝の最高諮問機関)の章京(しょうけい:書記官)を務めた。その後、一七六一年に進士に登第し、一七六六年には広西省鎮安府の知府となった。ウィキの「趙翼によれば、本来は殿試一甲第一(状元:当時の科挙制度に於ける最終試験である皇帝の口頭試問である殿試で第一等の成績を修めた者に与えられる称号)であったが、たまたま一緒に受験した者の中に当時の災害被災地域出身者がいたため、その人物が恩賜によって特別に一甲第一待遇を受けることになった。その一方で、趙翼は辺遠の地方官を遍歴することになって、それに憤ったものか、彼は一時期、官途を去って郷里に戻っている。一七八七年、旧知の仲で当時、閩浙(びんせつ)総督(清朝の地方長官の官職で浙江省・福建省両省の総督として軍政・民政の両方を統括した)であった李侍尭(り じぎょう)の幕僚の一員となった。その後は、安定書院の主講として著述に専心した、とある。本詩は岩波新全集の山田俊治氏の注に拠るなら、『一七八四年刊』とする(刊行年なら甌北満五十七歳)。題の「論詩」は「詩を論ず」で――詩文について考察する――の謂いである(趙甌北にはこの同で四首があるがそれらを読むに、唐詩を絶対的軌範とするような十年一日変わらぬ中国詩壇の価値観に対しては実は疑義を持っていたらしく思われる)。我流で訓じて訳しておく。

   *

 

   詩を論ず    趙甌北

 

少時(せうじ) 語を學びて 圓(ゑん)なり難きを苦しむ

唯だ道(い)ふ 工夫(くふう)半ばにして 未だ全(まつた)たからずと

老(らう)に到りて 始めて知る 力取(りよくしゆ)に非ざることを

三分(ぶ)の人事 七分の天

 

   詩を論ずる   趙甌北

 

若い頃、詩を幾ら学んでみたとて、一向に会心の一篇も出来ず、それにひどく苦しんだものだものだった。

私はただそれを――「これは己れの工夫が半ばまでしか至らずに結局、巧緻が十全でないからだ。」――と思うておった。……たかだか自己修練の未熟――いやさ――それだけのことに過ぎぬ――と信じておった。……

しかし、年老いてみて、初めて知ったのだ。――詩作というものは――これ本質的に――人の成し得る修学や技量といった、下らぬちっぽけな糞努力なんぞによっては――創造され得るものなんぞではない、ということを――

……詩……それは……三分(ぶ)は人の「才(ざえ)」……されど……過半の七分は――天命による――のである……と、ね……

 

   *]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 尊王

 

       尊王

 

 十七世紀の佛蘭西の話である。或日 Duc de Bourgogne Abbé Choisy にこんなことを尋ねた。シヤルル六世は氣違ひだつた。その意味を婉曲に傳へる爲には、何と云へば好いのであらう? アベは言下に返答した。「わたしならば唯かう申します。シヤルル六世は氣違ひだつたと。」アベ・シヨアズイはこの答を一生の冐險の中に數へ、後のちまでも自慢にしてゐたさうである。

 十七世紀の佛蘭西はかう云ふ逸話の殘つてゐる程、尊王の精神に富んでゐたと云ふ。しかし二十世紀の日本も尊王の精神に富んでゐることは當時の佛蘭西に劣らなさうである。まことに、――欣幸の至りに堪へない。

 

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集の後記によれば、大正一二(一九二三)年六月号『文藝春秋』(巻頭に前の「小兒」と「武器」を併載)を初出とするものの、この一章は巻頭の二つとは別に当該誌の三十頁に単独で掲載されており、本文章末に『侏儒の言葉』『川龍之介』(姓の部分はママ)と記されてあるとする。この別置理由については誰も問題としていない単に前の二つを合わせて巻頭配置した場合のページ余白が本文内の最初の作品配置と上手くいかなかっただけのことかも知れない(これはだったら初出誌を見れば、一発で分かると思う)。いや、もしかすると、編集者の誰かが(中心は菊池寛であるがこの仮定が事実とすれば彼ではあるまい)、本章の内容を巻頭に配して誰にも読まれた場合、不敬の謗りを受けるのを危ぶみ、本文内へずらしたのかも知れない(という仕儀も如何にもしょぼくさい話ではある)。しかし、それを研究者の誰も問題にしていないというのも、これまた、不思議なことではあると私は思うのである。或いは、芥川龍之介が「侏儒の言葉」が常に巻頭に載せられ、それが『文藝春秋』の「デマゴウグ」(まさに本号の「武器」の中の文句である)の旗振り役のようになっていることを、内心では幾分かはこそばゆく感じていたことから、こうした不敬染みた内容の一章をわざと拵え、これは本文内に別置した方がよいと自らが提案して菊池寛にそれとなく思いを暗示したものかも知れぬ。今や、理由は藪の中ではある。但し、既に述べた通り、「侏儒の言葉」は巻頭であり続ける。

 なお実は、実際の『文藝春秋』巻頭には、狭義の「侏儒の言葉」(現在の書誌上で標題を「侏儒の言葉」とする生前発表のアフォリズム群)とは別に、芥川龍之介の短章が大正一四(一九二五)年十二月以降も巻頭に掲載され続け、それは龍之介が自死した翌月、昭和二(一九二七)年八月号まで続けられている。さらに、翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の鳥居邦朗氏の「侏儒の言葉」の解説と底本書誌を勘案すると、すこぶる興味深い事実がある。それは、

『文藝春秋』の目次は「侏儒の言葉」が巻頭となった創刊号から大正一五(一九二六)年八月号までは「目次」が表紙に配されてあった

のであるが、

その大正十五年七月号までの「目次」の第一行は常に「侏儒の言葉」で、翌八月号から「追憶」に変わる

のである。ところが、実は本文巻頭内の柱標題は既に

その前年の大正一四(一九二五)年十二月号及び翌年一月号の本文内標題は澄江堂雜記――「侏儒の言葉」の代りに――

で、続く、

大正一五(一九二六)年二月号及び三月号の本文内標題は『病中雜記――「侏儒の言葉」の代りに――

で、

四月号からは「追憶」(十一回分)となっている

のである。即ち、鳥居氏曰く、雑誌本文内の題名が変わったにも拘わらず、大正一四(一九二五)年十二月号以後、実に八回分もが、『目次と本文標題が食い違ったままだったのである。そこには「侏儒の言葉」というタイトルにこだわる編集者菊池寛の意志が感じられる。芥川にもそれは分かっていながら、「侏儒の言葉」のスタイルで書きつづけられなかったのであろう。その事情を物語るのが変わったばかりの本文標題で』(上記で示した通り)、『「澄江堂雜記」に副題「「侏儒の言葉」の代りに」がついているのである、菊池への友情を守りながらみずからの意志をとおそうとする芥川の姿が見える』、なのである(下線やぶちゃん)。なお、これらは総てが、死後の単行本「侏儒の言葉」には所収されてはある(上記リンクは総て「侏儒の言葉」とは別立として作成した私の電子テクストである)。「侏儒の言葉」という迷宮(ラビリンス)がそう簡単には抜けられぬということが、この事実を見ても分かるのである。

 なお、本章発表当時の天皇である大正天皇には例の遠眼鏡事件などの噂がある。この流言は主に第二次世界大戦後の一九五〇年代後半に流布したものとされるが、ウィキの「大正天皇」の「遠眼鏡事件」によれば、『政治学者の丸山眞男は、大正天皇の在位中からこの手の風説はあったとしている。丸山眞男は著作「昭和天皇を廻るきれぎれの回想」において、以下のように記している』。『私は四谷第一小学校の二年生であった。大正天皇が脳を患っていることはそれ以前に民間に漠然と伝わっていた。それも甚だ週刊誌的噂話を伴っていて、天皇が詔書を読むときに丸めてのぞきめがねにして見た、というような真偽定かでないエピソードは小学生の間でも話題になっていたのである』。『この事件について、近年、大正天皇付きの女官による証言が報じられて』おり、それによれば、大正天皇から直接聞いた話として、「ある時、議会で勅語が天地逆さまに巻きつけてあったので、ひっくり返して読み上げ、随分恥ずかしい思いをした。このようなことがないよう、詔書を筒のように持って中を覗いて間違っていないことを確かめて読み上げようとしたものだ」(『朝日新聞』二〇〇一年三月十四日附記事に拠る。ここは引用元の注から引いた)というのが真相だという。『また、大正天皇は脳膜炎を患って以来、手先が不自由であり、上手く巻けたかどうかを調べていたのが、議員からは遠眼鏡のように使っていたように見えたという説』もあると記す。丸山眞男は大正三(一九一四)年三月生れであるから、尋常小学校二年生ならば大正十年か十一年である。本章は大正十二年六月発表である。当時の小学生低学年にさえ蔓延していた大正天皇のアブナい話を龍之介が知らなかったはずはないそれが根も葉もない噂であるのか、何らかの所作の見間違いであったのか、それとも実際に何らかの精神疾患や脳障害があったか否かは、私には実のところ全く以って興味ない。私が言いたいのは、本章の内容は公開された当時の状況から考えて、明らかに確信犯的な危ない内容であり、不敬と指弾されかねないぎりぎりのアイロニーであったと私は読む、という事実である。これは私がこう書かない限りに於いて、若い読者は思い至らないのではないかと危惧して敢えて記すものである。因みに、新潮文庫の注で神田由美子氏は「欣幸の至りに堪へない」の箇所に注して、『誠に喜ばしいと皮肉を言っている。大正天皇は病弱のため、大正十月二十五日に皇太子裕仁親王(昭和天皇)うを摂政(せっしょう)に任じ』、『療養生活に入ったが、当時その理由を狂気とする噂(うわさ)があった』とはっきりと注しておられる。これぞ正にあってしかるべき注と言えると私は思うのである。

 

・「尊王」この場合、本文で分かる通り、中国や本邦で限定的に異様な形で特殊化した儒教思想に基づく「尊王思想」を指すのではなく、洋の東西を問わず、心の底から(或いは全くの表面上)、皇帝や国王の権威を重じ(るかのように振る舞い)それを発揚し、それを頂点とした(或いはそういう妄想やそれを形式主義的に遵守するかの如くに構成した)身分秩序社会を守ろうとする思想を指す。

・「 Duc de Bourgogne 」「ブルゴーニュ公」の謂いであるが、新全集の山田俊治氏の注に、『一七世紀のブルゴーニュ公にはルイ・ド・フランスがいるが、この逸話の出典とともに未詳。但し、フランス王シャルル六世の摂政を勤めたブルゴーニュ公として、フィリップ二世(一三二四一一四〇四)がいる』と注されておられる。しかし最後のフィリップ二世では以下のショワジと同時代人ではないから違う。他の注釈者に至っては、分からないことを分からないとさえ書かずに、ただ「ブルゴーニュ公」で済ませているが、そんな注なら附けぬがマシと断じておく。

・「 Abbé Choisy 」フランスの著述家で聖職者フランソワ=ティモレオン・アベ・ド・ショワジ(François-Timoléon de Choisy一六四四年~一七二四年)。ウィキの「フランソワ=ティモレオン・ド・ショワジより引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『パリ生まれ。彼の父はオルレアン公ガストンの元、尚書(シャンスリエ)として働く。アンヌ・ドートリッシュと親密な関係にあった彼の母はルイ十四世を喜ばせるために定期的に呼び出された。彼の母は彼が十八歳になるまで女性の様な服装を着せた。その後、短い期間の男性の格好を経験し、彼はラファイエット夫人の間違いない風刺的な助言により再び女装を始める。彼はモントジエ公シャルルに公的に叱咤されるまで贅沢な身なりを楽しんだ』。『彼は幼少期にアベ』(Abbé:フランスのカトリック教会の聖職者の称号)『となり、彼の贅沢によって引き起こされた貧困は彼をブルゴーニュのセント=セーンでの聖職禄つきの聖職の地位におくことになる。そこで彼はビュシー=ラビュタンという気の合う友人を見つけた。かれは一六七六年、ブイヨン枢機卿とともにローマへ行くがそのすぐ直後、大病にかかり信仰への傾倒が始まった』。一六八五年、『ショワジはシュヴァリエ・ド・ショーモン率いる、シャムへの大使に同行する。彼は聖職者となり』、『教会制度中で昇進する。一六八七年、ショワジはアカデミー・フランセーズ入りを果たし、数々の歴史や宗教の著述を行った』。『ショワジはこの他にもゴシップ的要素の強い Mémoires1737)で記憶されている人物である。この著作には彼が正確性には自負していないにもかかわらず、彼の時代の著しい正確な描写を含んで』おり、よく版を重ねた』。『ショワジは自分の気に入らない書き物を燃やしたとされるが、一方で大量の刊行されていない手稿も残し』ており、その一部では、『彼の女性としての冒険を描』いてもいるという。新潮文庫の神田由美子氏の注にも『長じてもデ・パール伯爵(はくしゃく)夫人の仮名のもとに女装し、さまざまのゴシップに満ちた奇怪な青春を送っ』たが、後に『死病を得て回心し、「教会史」』(Histoire de l'Eglise (1703-1723))『などの教化的著作の他、青壮年時代の思い出をつづった「ルイ14世伝資料のための回想録」』(Mémoires pour servir à l'histoire de Louis XIV(1727))『を残した』とある。龍之介の本文からは想像もつかない、なかなかに興味深い人物ではないか。なお、彼の生存時のフランス王は太陽王ルイ十四世 Louis XIV le Grand, le Roi Soleil 一六三八年~一七一五年)は在位:一六四三年~一七一五年)である。

・「シヤルル六世」シャルル六世(Charles VI 一三六八年~一四二二年)はフランスのヴァロワ朝第四代国王(在位:一三八〇年~一四二二年)。ウィキの「シャルル6世(フランス王)」より引く。百科事典類も見たが、精神疾患の記載が乏しく、どうもここの引用にするには不満な優等生記載ばかりで面白くなかった(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『第三代国王シャルル五世と王妃ジャンヌ・ド・ブルボンの長男。親愛王(le Bienaimé)・狂気王(le Fol, le Fou)と呼ばれた。一三八五年にイザボー・ド・バヴィエールを王妃に迎えている』。『一三八〇年、父シャルル五世が食中毒で急死したため、王位を継承した。若年のため、初めは叔父であるアンジュー公ルイ一世、ベリー公ジャン一世、ブルゴーニュ公フィリップ二世(豪胆公)らが摂政となったが、一三八八年から親政を開始した。しかし母ジャンヌの家系ブルボン家には精神異常の遺伝があり、シャルル六世も早くから精神的な不安定性を示していた』。『一三九二年に寵臣であったフランス王軍司令官オリヴィエ・ド・クリッソンの暗殺未遂事件が起こると、シャルル六世は興奮して首謀者と見られたブルターニュ公ジャン四世の討伐軍を自ら率いた。しかし、ブルターニュ遠征の途中で出会った狂人に「裏切り者がいる」との暗示を受け、ある兵士が槍を取り落とした音に驚いて発狂し、周りの者に斬りかかった。この時、同行していた叔父のフィリップ豪胆公は、後に対立することになる王弟オルレアン公ルイ・ド・ヴァロワに「逃げろ、甥よ」と声をかけたといわれる。その後一旦回復したが、不安定な精神状態が続いた』。『翌一三九三年一月二十八日には「燃える人の舞踏会」(Le Bal des ardents)という事件が起こっている。王妃イザボー・ド・バヴィエールは侍女の一人の婚礼を祝して、大規模な仮装舞踏会(モレスコ、morisco)を開催した。シャルル六世と五人の貴族は亜麻と松脂で体を覆い、毛むくじゃらの森の野蛮人(ウッドウォード)に扮して互いを鎖で繋いで踊る「野蛮人の踊り」(Bal des sauvages)をしようとしたが、たいまつに近づきすぎて衣裳が燃え上がり、シャルル六世はベリー公夫人ジャンヌ・ド・ブローニュのとっさの機転で助かったものの、四人が焼死するという事件になった。シャルル六世はその後、急速に精神を病むようになった』。『精神異常のため、シャルル六世は事実上政務を執ることが不可能となり、豪胆公や息子のジャン1世(無怖公)を中心とするブルゴーニュ派と、王弟オルレアン公と息子シャルル・ド・ヴァロワを中心としシャルル六世を支持するアルマニャック派に宮廷内部が分裂し、主導権を巡って争うことになった』。『このようなフランスの状勢を見て、イングランド王ヘンリー五世は、アルマニャック派を支援しながらその裏でブルゴーニュ派と提携するなど、両派の争いに巧みに介入した。そして一四一五年、ヘンリー五世はシャルル六世に対し、支援の見返りとしてフランス王位の継承権譲渡とフランス領土の割譲、さらに多額の賠償金を要求した。あまりのことにアルマニャック派がこれを拒絶すると、ヘンリー五世はすかさずイングランド軍を率いてフランス北部に侵攻する。ヘンリー五世の勢いは凄まじくフランス軍は各地で連戦連敗、十月二十五日のアジャンクールの戦いで大敗したアルマニャック派はオルレアン公らが捕虜となる大打撃を受けた』。『その間、王太子ルイが一四一五年に、ルイに代わる王太子ジャンが一四一七年に、と二人の嗣子が相次いで没するなどの不幸もあった』。『このため両派に和解の動きが起こったが、一四一九年にアルマニャック派を代表する王太子シャルル(後のシャルル七世)が和解交渉の会見においてジャン無怖公を殺害したため、その跡を継いだフィリップ三世(善良公)はイングランドと同盟して王太子シャルルと全面的に対立し、一四二〇年四月にトロワ条約を結んでヘンリー五世のフランス王位継承を支持した。これにより、ヘンリー五世とシャルル六世の娘カトリーヌ(キャサリン)との結婚と、シャルル六世の死後は王太子シャルルではなくヘンリー五世がフランス王位を継承することなどが定められた。ヘンリー五世は現実に王位を継承することなく一四二二年八月に没したが、シャルル六世も同年十月二十一日、ヘンリー五世の後を追うように病死した』。『シャルル六世の治世は四十二年の長きにわたったが、精神障害によってその治世のほとんどは家臣団やイングランドに左右される時代となった』とある。

・「婉曲」「ゑんきよく(えんきょく)」。言い回しが穏やかで角が立たないさま。露骨を避けて遠廻しに言うさま。「婉」という字は穏やかで角がないの意であり、曲は文字通り、「まげる」でストレートではないさまを謂う。因みに外国人にはこの意味を伝えることは非常に難しく、私は高等学校の古文の文法でも「婉曲」の意味を十全に理解させることは遂に出来なかったのではないか、と内心忸怩たるものがあるぐらいである。それほど、文法上の「婉曲」というのは実は日本独自の感性的修辞法であり、論理的であるべき文法用語としてはすこぶる怪しいものであると私は実は思っているのである。

・「欣幸」「きんかう(きんこう)」は幸せに思って喜ぶこと。]

2016/05/20

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 武器

 

       武器

 

 正義は武器に似たものである。武器は金を出しさへすれば、敵にも味方にも買はれるであらう。正義も理窟をつけさへすれば、敵にも味方にも買はれるものである。古來「正義の敵」と云ふ名は砲彈のやうに投げかはされた。しかし修辭につりこまれなければ、どちらがほんとうの「正義の敵」だか、滅多に判然したためしはない。

 日本人の勞働者は單に日本人と生まれたが故に、パナマから退去を命ぜられた。これは正義に反してゐる。亞米利加は新聞紙の傳へる通り、「正義の敵」と云はなければならぬ。しかし支那人の勞働者も單に支那人と生まれたが故に、千住から退去を命ぜられた。これも正義に反してゐる。日本は新聞紙の傳へる通り、――いや、日本は二千年來、常に「正義の味方」である。正義はまだ日本の利害と一度も矛盾はしなかつたらしい。

 武器それ自身は恐れるに足りない。恐れるのは武人の技倆である。正義それ自身も恐れるに足りない。恐れるのは煽動家の雄辯である。武后は人天を顧みず、冷然と正義を蹂躙した。しかし李敬業の亂に當り、駱賓王の檄を讀んだ時には色を失ふことを免れなかつた。「一抔土未乾 六尺孤安在」の雙句は天成のデマゴオクを待たない限り、發し得ない名言だつたからである。

 わたしは歷史を飜へす度に、遊就館を想ふことを禁じ得ない。過去の廊下には薄暗い中にさまざまの正義が陳列してある。靑龍刀に似てゐるのは儒教の教へる正義であらう。騎士の槍に似てゐるのは基督教の教へる正義であらう。此處に太い棍棒がある。これは社會主義者の正義であらう。彼處に房のついた長劍がある。あれは國家主義者の正義であらう。わたしはさう云ふ武器を見ながら、幾多の戰ひを想像し、をのづから心悸の高まることがある、しかしまだ幸か不幸か、わたし自身その武器の一つを執りたいと思つた記憶はない。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年六月号『文藝春秋』巻頭に前の「小兒」と併載。第一段落の「ほんとう」はママ(なお、私の『「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版)』では注を附さない原則であったために、正しい歴史的仮名遣の「ほんたう」に訂しておいた)。

 

・「日本人の勞働者は單に日本人と生まれたが故に、パナマから退去を命ぜられた」新潮文庫の神田由美子氏の注に、先立つ十年前の一九一三(大正二)年頃、アメリカ『カリフォルニア州議会が中国人移民排斥法を日本移民にも適応し、日本人労働者は、パナマから退去を命ぜられた』(一九〇三年にパナマ地域はコロンビアから独立を果たし、初代大統領にマヌエル・アマドールが就任したが、新たに制定された憲法ではパナマ運河地帯の幅十六キメートルの主権は永久にアメリカ合衆国のものと認めるという規定があったため、以降、パナマは長くアメリカ合衆国によって事実上支配され、運河地帯の主権を獲得したアメリカ合衆国によって運河建設は進められ、一九一四(大正三年相当)年にパナマ運河は開通している。ここはウィキの「パナマ」に拠った)。アメリカでの『排日の機運は一九〇六年』(明治三十九年相当)の『サンフランシスコでの日本学童隔離問題あたりから高ま』っており、一九〇八年(明治四十一年相当)には『日米紳士協定で、日本人移民労働者に厳しい制限が加えられ、』本章発表の翌一九二四年(大正一三年相当)には『排日移民法成立によって、日本人は米国から完全にしめだされた』とある(最後の部分は新たな日本人のアメリカ移民が実質上、出来なくなったことを指す)。但し、この「排日移民法」というのは日本での通称であって、「一九二四年移民法」(Immigration Act of 1924)又は「ジョンソン=リード法」(Johnson–Reed Act)と呼ぶのが正しく、しかも独立した法律なのではなく、既存の移民・帰化法に第十三条C項(移民制限規定)を修正・追加するために制定された「移民法の一部改正法」のことを指す。日本人移民のみを排除した法律ではなく、各国からの移民の年間受け入れ上限数を一八九〇年の国勢調査時にアメリカに住んでいた各国出身者数を基準に、その二%以下に抑えるというもので、一八九〇年以後に大規模な移民の始まった東ヨーロッパ出身者・南ヨーロッパ出身者・アジア出身者を厳しく制限することを目的としたものであるので注意が必要である(ここはウィキの「排日移民法に拠った)。

・「支那人の勞働者も單に支那人と生まれたが故に、千住から退去を命ぜられた」岩波新全集の山田俊治氏の注に、この前年の大正一一(一九二二)年三月十四日附『「東京新聞」は、内地労働者の失業問題に悩む折から、中国人労働者に対して、』二十三年も前の明治三二(一八九九)年に出された『外国人労働者に関する勅令によって退去を命じたと報じている』とし、神田氏の注では、はっきりと『千住(東京都の荒川区及び足立区の地名)に住む中国人労働者を退去させた』と注してある。

・「日本は二千年來」本章が発表された大正一二(一九二三)年を百の桁で切り上げたに過ぎないものと思われる。因みに神武天皇即位紀元の皇紀では二五八四年であるが、実際に皇紀が多用されるようになるのは、軍国主義化が進んだ昭和に入ってからで、当時の一般認識であったとは言えない。ここを龍之介が「二千五百年來」としていたら、もっとアイロニーは強くなったろうにと、寧ろ、少し残念な気はする。

・「武后」中国、唐朝第三代高宗の皇后であった則天武后(六三〇年頃或いは六二四年頃~七〇五年)。後に自ら「周」朝を建て、危うく唐が滅びかけた。山西省の大きな材木商で唐朝の創業に貢献して栄進した男の娘で、美貌で十四歳の時に太宗の後宮に入り、帝の死後、尼となっていたところを高宗に見出され、寵を得たと伝えられる。姦計を用いて皇后王氏らを陥れ、六五五年、皇后となった。この立后には元勲長孫無忌(ちょうそんむき)一派とそれに対抗する官僚グループの対立が絡んでいたが、彼女は文芸と吏務に長じた新興官僚を巧みに登用操縦し、旧貴族層を排斥した。数年の後に高宗が健康を害するや、自ら政務を親裁し、独裁権力を振るうに至り、六八三年に高宗が病没すると、自分の子中宗・睿(えい)宗を次々と帝位につけ、彼女に反抗して挙兵した李敬業(後注参照)や唐の皇族らを武力で打倒、同族を重用した。さらに御史(ぎょし)や隠密を使って大規模な弾圧を行って政権強化に努めた。一方、女徳をたたえる仏経を偽作、遂には六九〇年、国号を「周」と改め、自ら皇帝を称して中国史上唯一の女帝となり、約十五年に亙って全国を支配した。周の伝統に従って暦法・官名などを改正し、また十数個の新字(則天文字)を使わせるなどの人心一新を図り、狄(てき)仁傑・魏元忠といった名臣をよく用いはしたものの、末期には張易之(えきし)兄弟ら寵臣が政治を乱し、七〇五年、張柬之(かんし)らのクーデターによって中宗の復位と唐の再興が成され、その後、間もなく高齢で病死している。彼女は悪辣な策略や残酷な弾圧に加えて、陽道壮偉(巨根)の男を求め、妖僧薛(せつ)懐義や張易之兄弟との醜聞を残すなど、非難の的となる反面、自ら書をよくし、学芸を庇護するとともに、有能な人材を抜擢して新興階層を受け入れ、政治・社会・文化の各方面に亙って新機運を齎した点は高く評価される。死後、夫高宗と長安の北西の乾(けん)県にある梁山の乾陵に合葬されている(小学館「日本大百科全書」の池田温氏の解説に拠った)。

・「人天」「じんてん」でよかろう(類聚版は「じんてん」とルビする)。人間界の人と天上界の神、転じて、人間界と天上界を指し、全世界全宇宙という謂い。仏教用語では「にんでん」或いは「にんてん」などと読むが、如何にも辛気臭い読みで私は採らない。

・「李敬業の亂」六八四年に眉州刺史英公であった李敬業(六三六年~六八四年)が賄賂事件に連座させられて柳州司馬に左遷されたのを恨み、中宗の復位を名目として則天武后に反旗を翻して失敗、殺された事件。

・「駱賓王」(六四〇年?~六八四年?)「らくひんわう(おう)」。我々は概ね、高等学校の漢文の文学史で覚えさせられた「初唐の四傑」の一人。ウィキの「駱賓王」によれば、『婺州義烏(浙江省義烏市)の出身。初めから落魄し、好んで博徒と交わり、性格は傲慢・剛直。高宗の末年に長安主簿となり、ついで武后の時に数々の上疏をしたが浙江の臨海丞に左遷される。出世の望みを失い、官職を棄てて去った』。六八四年に『李敬業が兵を起こすと、その府属となり』、『敬業のために檄文を起草して武后を誹謗、その罪を天下に伝えた。武后はその』檄(げき:敵の罪悪などを挙げて、自分の信義・意見を述べ、公衆に呼び掛けて決起を促すために作成した文書のこと)を手に入れて読ませ、『「蛾眉敢えて人に譲らず 孤眉偏に能く主を惑わす」のあたりでは笑っていたが』、「一抔土未乾、六尺孤安在」(後注参照)の句に至って、『愕然としてその作者の名を問い、駱賓王であることを知ると「このような才ある者を流落不遇にしたのは宰相の過ちである」と言ったという。敬業の乱が平定された後は、亡命して行方が知れなくなった(一説には誅殺されたとも)。銭塘の霊隠寺に住んでいたという伝説もあり、霊隠寺と題する詩もある』。僅か七歳から『良く詩を賦し、成長してからは五言律詩にその妙を得た。ことにその「帝京篇」は古今の絶唱とされる。好んで数字を用いて対句をつくるので「算博士」の俗称がある。武后は駱賓王の文を重んじ、詔してその文章の数百編を集めて郄雲卿に命じ編纂させたのが』、「駱丞集」で、『頌・賦・五七言古・五律・排律・絶句・七言絶句・啓・書・叙・雑著の』十一項目に『分かれて、作品が収められている』とある。

・「一抔土未乾 六尺孤安在」駱賓王の檄は邦文サイトでは見出せない。中文サイトのそれらしいものを加工したものが、以下の通り。

   *

僞臨朝武氏者、人非溫順、地實寒微。昔充太宗下陳、嘗以更衣入侍、洎乎晩節、穢亂春宮、密隱先帝之私、陰圖後庭之嬖。入門見嫉、蛾眉不肯讓人、掩袖工讒、狐媚偏能惑主。踐元后於翬翟、陷吾君於聚麀。加以虺蜴爲心、豺狼成性、近狎邪僻、殘害忠良、殺姊屠兄、君鴆母。人神之所同嫉、天地之所不容。猶復包藏禍心、窺竊神器。君之愛子、幽之於別宮、賊之宗盟、委之以重任、嗚呼、霍子孟之不作、朱虛侯之已亡。鷰啄皇孫、知漢祚之將盡、龍漦帝后、識夏廷之遽衰。

敬業、皇唐舊臣、公侯種胤、奉先君之成業、荷本朝之舊恩。宋微子之興悲、良有以也、袁君山之流涕、豈徒然哉、是用氣憤風雲、志安社稷、因天下之失望、順宇之推心、爰舉義旗、誓淸妖孽。

南連百越、北盡三河、鐵騎成群、玉舳相接。海陵紅粟、倉儲之積靡窮、江浦黃旗、匡復之功何遠。班聲動而北風起、劍氣衝而南斗平。喑嗚則山嶽崩、叱吒則風雲變色。以此制敵、何敵不摧、以此圖功。何功不克。

公等或家傳漢爵、或地協周親、或膺重寄於爪牙、或受顧命於宣室。言猶在耳、忠豈忘心、一抔之土未乾、六尺之孤何託。倘能轉禍爲福、送往事居、共立勤王之師、無廢舊君之命、凡諸爵賞、同裂山河。請看今日之域中、竟是誰家之天下。

   *

この「一抔土未乾 六尺孤安在」は「一抔(いつぽう)の土(つち)未だ乾かず 六尺(りくせき)の孤(こ)安(いづ)くにか在(あ)る」と読む。「一抔」は死者の墳墓にかけた一掬いの土の意。高宗を葬った乾陵におかけ申し上げた土のこと。「六尺の孤」は未成年の孤児の謂い。「六尺」は一・四メートル相当で、これを十四、五歳の身長とし、転じて年齢とする説、或いは一尺は二歳半の謂いでもあることから、十五歳とする説などがあるが、ここは単に「子」の謂いでよかろう。孰れにせよ、ここは高宗の子で実子である中宗や睿宗のことであり(「子」としたのは二人とも李敬業の乱当時は二十を有に越しているからである)、広義には皇帝の「赤子」たる当の詩人に代表される路頭に迷っている国民総ての含みであろう。即ち――亡き帝の土はいまだに乾いてはいない。……残された孤児は一体どこにどうして居られるというのか?――の謂いである。

・「雙句」「さうく(そうく)」。対句。

・「天成」「てんせい」。ここは「生まれつき」の意。

・「デマゴオク」デマゴーグ(ドイツ語:Demagog)は、ウィキの「デマゴーグ」によれば、古くは古代ギリシアに於ける煽動的な民衆指導者のことを指す。『英語ではdemagogueであり、rabble-rouser(大衆扇動者)とも呼ばれ』、『民主主義社会に於いて社会経済的に低い階層の民衆の感情』・恐れ・偏見・無知に『訴える事により』、権力を得』、且つ、『政治的目的を達成しようとする政治的指導者を言う。デマゴーグは普通、国家的危機に際し慎重な考えや行いに反対し、代わりに至急』且つ『暴力的な対応を提唱し』、『穏健派や思慮を求める政敵を弱腰と非難する。デマゴーグは古代アテネの時代より民主主義社会に度々現れ、民主主義の基本・原理的な弱点、則ち究極的な権限は民衆にありその中でより大きな割合を占める人々の共通の願望や恐れに答えさえすれば(それらがどの様なものでも)政治的権力を得られるという点を利用した』とするが、筑摩全集類聚版では、『古代ギリシャの民主政治の指導者 Demagogos から出た言葉で本来は悪い意味ではなかった』と結ぶ。ここは確かにそう附したくなる心情が分かる。

・「飜へす」「ひるがへす」。書物をつま開いては再度、見直す、というニュアンス乍ら、「飜」にはそうした意味はない。されば、いい加減に書物を「ひっくり返す」ように歴史をいい加減に見てみると、という謂いであろうと私は解釈する。

・「遊就館」「いふしうくわん(ゆうしゅうかん)」は現在の東京都千代田区九段北にある靖国神社(明治二(一八六九)年創建)境内に併設された同社の祭神ゆかりの資料を集めた宝物館。明治一五(一八八二)年に開館している。ウィキの「遊就館によれば、『幕末維新期の動乱から大東亜戦争(太平洋戦争)に至る戦没者、国事殉難者を祭神とする靖国神社の施設として、戦没者や軍事関係の資料を収蔵・展示している』。『日本における「最初で最古の軍事博物館」』で、『「遊就館」という名称は、『荀子』勧学篇の「君子居必択郷遊必就士」(くんしはおるにかならずきょうをえらびあそぶにかならずしにつく)に拠る』。『靖国神社の祭神の霊を慰め、その徳を頌するため絵馬堂を兼ねて祭神の遺物を陳列する所とし』て、明治一一(一八七八)年に『陸軍卿・山県有朋その他の主唱によって西南戦争の際に献納された華族の恤兵金の一部で建築に着手』、四年後に『幕末維新の新政府軍(官軍)戦没者ゆかりの品を展示する目的で開館』した。『日清戦争や日露戦争を経て』、明治四三(一九一〇)年には『明治天皇の勅令「武器ノ沿革ヲ知ルヘキ物件ヲ蒐集保存シ軍事上ノ参考ニ供スル所トス」』が発布されて、『第一次世界大戦を経て』、『展示資料は増加し、施設も逐次増築されたが』、本章発表の大正一二(一九二三)年の九月の『関東大震災で損壊。翌年に仮館を建設し』、昭和七(一九三二)年に再建されたとある。龍之介がここで描いたものが今も展示されているなら、何時か見に行ってもよい気はしている。
 
・「をのづから」はママ。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 小兒

 

       小兒

 軍人は小兒に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、所謂光榮を好んだりするのは今更此處に云ふ必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇氣を重んじたりするのも小學校にのみ見得る現象である。殺戮を何とも思はぬなどは一層小兒と選ぶところはない。殊に小兒と似てゐるのは喇叭や軍歌に皷舞されれば、何の爲に戰ふかも問はず、欣然と敵に當ることである。

 この故に軍人の誇りとするものは必ず小兒の玩具に似てゐる。緋縅の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなつた者ではない。勳章も――わたしには實際不思議である。なぜ軍人は酒にも醉はずに、勳章を下げて步かれるのであらう? 

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年六月号『文藝春秋』巻頭に以下の「武器」と併載。標題の「小兒」であるが、筑摩全集類聚版には本文中の三箇所(「一層小兒と」には振らない)に「せうに」(しょうに)とルビする。但し、言っておくが、筑摩版の本篇(「侏儒の言葉」)のルビは編者によるものであって、芥川龍之介の感知するところではないので注意されたい。一応、「せうに」と読んでおいて問題はないのであるが。

 芥川龍之介の軍隊批判は生涯一貫しており、この前年には、現存する芥川龍之介の作品の中で十六ヶ所に及ぶ伏字のまま復元されていない(現行紛失のため)大正一一(一九二二)年一月『改造』発表の「将軍」や、本「侏儒の言葉」の中には痛烈な揶揄である「兵卒」「軍事教育」などもある。しかし、切抜きからこの章が除かれておらず、単行本では丸々採られていることから見ても、龍之介の反戦意識や軍隊嫌悪は確信犯の生理であったことが判る。しかしそれが彼の死後、彼の子息たちが教練の教官や軍隊内(長男比呂志・次男多加志・三男也寸志ともに軍隊に入っている)で陰に陽に嫌がらせを受けることともなった。凡愚のレベルの軍人にとっても、例えばこの一章はすこぶる嫌悪の対象物であったろうことは想像に難くない。

・「所謂」「いはゆる(いわゆる)」。後に読点がないと、今の若い諸君はここで足踏みしそうな気がするので、老婆心乍ら、注しておく。

・「喇叭」「らつぱ(らっぱ)」。因みにこの「らっぱ」という音はオランダ語の「呼ぶ(叫ぶ)人」「メガフォン」の意の「roeper」説、中国語表記の「喇叭」説(ネイティヴの発音では「ラァバァ」と聴こえる)、サンスクリット語の「叫ぶ」の意の「rava」説など諸説があるが未詳。但し、「語源由来辞典」によれば、『中国語の「喇叭」はサンスクリット語「rava」に由来するともいわれることから、サンスクリット語の「rava」が中国語で「喇叭」となり、日本に入ったと考えられ』、慶応二(一八六六)年に『幕府軍の歩兵が、フランス人教官から信号ラッパの教習を受けているため、フランス語で「記憶力」のほか「呼び戻す」という意味もある「rappelle」を語源とする説もあるが、それ以前から見られる語なのでフランス語説は考え難い』とある。

・「皷舞」「こぶ」。鼓舞に同じい。「皷」は正字「鼓」の異体字(俗字)である。

・「欣然」「きんぜん」喜んで物事を成すさま。

・「緋縅」「ひをどし(ひおどし)」。「おどし」(「緒(を(お))を通す」の意で「縅」は国字)は鎧の札(さね:甲冑の部分材とする鉄や革製の小さない板)を革や糸で綴り合わせることで、梔子(くちなし:リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ Gardenia jasminoides:果実から黄色(発酵させたものからは青色)の染料が採れる)や黄檗(きはだ:落葉高木のムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense:樹皮から鮮やかな黄色の染料が採れる)で下染めした上から、「緋」=紅で染めた紐・革緒(かわお)などで縅(おど)すもの。「緋威」「火縅」 などとも書く。

・「鍬形」「くはがた(くわがた)」。兜(かぶと)の前立物(まえだてもの:兜 の前部に附ける飾りの立物 (たてもの) で鍬形 の他、半月(三日月を模したもの。一般に刀を振り上げた際に邪魔にならないように左側の方が長くなっている)・天衝 (てんつき:刺股 (さすまた) 状を成して先端を尖らせたもの) ・高角(たかづの:角の先端部を左右に開かずに高く尖らせたもの)などがある)の最古のもの(即ち、原型)の一つ。眉庇(まびさし)につけた台に金銅(こんどう)・銀銅・練り革などで作った二枚の板を挿し、角(つの)状に立てたもの。平安時代(藤原期時代まで遡れる)から使用された威し飾りである。語源は古代の鍬の形に似ているからとも、先端の形状が慈姑(くわい:単子葉植物綱オモダカ目オモダカ科オモダカ属オモダカ品種クワイ Sagittaria trifolia 'Caerulea')の葉に似ているからとも言われる。

・「勳章も――わたしには實際不思議である。なぜ軍人は酒にも醉はずに、勳章を下げて步かれるのであらう?」激しく共感する。小さな頃から、諸国の軍人高官が胸につけているつぎはぎみたようにペタペタした略章やベロベロ垂れ下がった略綬やを見ただけで、こんな馬鹿どもが指揮している軍隊は何をするか分からん、と子どもながらに思うておったのを思い出すのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 自由意志と宿命と

 

       自由意志と宿命と

 

 兎に角宿命を信ずれば、罪惡なるものの存在しない爲に懲罰と云ふ意味も失はれるから、罪人に對する我我の態度は寛大になるのに相違ない。同時に又自由意志を信ずれば責任の觀念を生ずる爲に、良心の麻痺を免れるから、我我自身に對する我我の態度は嚴肅になるのに相違ない。ではいづれに從はうとするのか?

 わたしは恬然と答へたい。半ばは自由意志を信じ、半ばは宿命を信ずべきである。或は半ばは自由意志を疑ひ、半ばは宿命を疑ふべきである。なぜと云へば我我は我我に負はされた宿命により、我我の妻を娶つたではないか? 同時に又我我は我我に惠まれた自由意志により、必ずしも妻の注文通り、羽織や帶を買つてやらぬではないか?

 自由意志と宿命とに關らず、神と惡魔、美と醜、勇敢と怯懦、理性と信仰、――その他あらゆる天秤の兩端にはかう云ふ態度をとるべきである。古人はこの態度を中庸と呼んだ。中庸とは英吉利語の good sense である。わたしの信ずるところによれば、グツドセンスを待たない限り、如何なる幸福も得ることは出來ない。もしそれでも得られるとすれば、炎天に炭火を擁したり、大寒に團扇を揮つたりする瘦せ我慢の幸福ばかりである。

 

[やぶちゃん注:初出は大正一二(一九二三)年五月号『文藝春秋』巻頭であるが、前の「神祕主義」が一緒に掲載されている。なお、底本(岩波旧全集)の後記によれば、最後の一文、

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もしそれでも得られるとすれば、炎天に炭火を擁したり、大寒に團扇を揮つたりする瘦せ我慢の幸福ばかりである。

   *

は、初出では、

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もしそれでも得られるとすれば、炎天に炭火を擁したり、大寒に團扇を揮つたりする我慢の幸福ばかりである。

   *

と、「瘦せ」が、ない。

 標題中にある「自由意志」という訳語は近代以降に齎された西欧の倫理哲学に於ける英語の「free will」やドイツ語「freier Wille」の訳語に過ぎず、日本語として定着しているものの、本来の日本語には存在しないし、正規の学術用語でもないと私は思う。因みに、私は「宿命」も全く以って信じぬ代わりに「自由意志」も存在しない、幻想に過ぎぬ、という立場を採るものである。とすれば、私は龍之介の言うところの極端たる「寛大」も、その対極たる「嚴肅」をも自らのものとしないことになる。とすれば、私は「中庸」か? ところがまことに残念なことに、私は「中庸」というでぶでぶした文字も生理的に嫌いだし、その意味するところの欺瞞的妄想をもさらさら信を置かぬ人間なのである。

 

・「宿命を信ずれば、罪惡なるものの存在しない爲に懲罰と云ふ意味も失はれる」仏教の因果応報思想の絶対倫理観の基底はまさにここにある。それを鮮やかに高らかにズバリと語ったのが、親鸞の(厳密にはそれを録した唯円の)「歎異抄」の悪人正気機の言説(ディスクール)たる「善人尚ほもて往生をとぐ。況や惡人をや」である。我々の悪心悪行は自身の心によるものではなく、前世の「業(ごう)」に基づくのである。私はこの仏教に於ける当たり前のことが、現代に於いて十全に理解されているとは実は思っていない。といって、私は仏教徒ではないが。

・「恬然」「てんぜん」。物事に拘(こだわ)らず平然としているさま。「恬」自体が「気にかけないで平然としているさま」を意味する漢語である。

・「怯懦」「けふだ(きょうだ)」。臆病で気が弱いこと。意気地(いくじ)のないこと。

・「古人は中庸と呼んだ」「中庸」という漢語は「論語」の「雍也第六」に、

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子曰、中庸之爲德也、其至矣乎。民鮮久矣。

(子曰く「中庸の德たるや、其れ、到れるかな。民、鮮(すく)きこと、久し。」

   *

を初出とするとされるが、龍之介は直後に英語の「good sense」(良識)を並置しており、さすればこれは、儒家思想の根本理念たるしいそればかりではなく、古代ギリシャのアリストテレスが「ニコマコス倫理学」(ラテン語:Ēthica NicomachēaMoribus ad Nicomachum)の中で倫理学上の徳目の一つとして掲げたところの、行為や感情の過剰と不足を制御する「メソテース」(ラテン語:Mesotes:「中間にあること」の意。これを邦語訳ではまさに儒教用語である「中庸」を当てている。例えば、アリストテレスは龍之介の例示した「勇敢と怯懦」に酷似した形で、「勇気」とは「蛮勇」と「臆病」の両極の中間的状態であり、それの中間の様態を認識する徳性が思慮(phronesis:フロネーシス。実践知)であるとする)も含まれる。されば、この「古人」とは孔子だけでなく、アリストテレスをも含み、洋の東西を問わぬ古代の哲人を指すと考えねば不十分である。

・「擁したり」老婆心乍ら、「ようしたり」と読む。抱きかかえたり。

・「大寒」読みは「だいかん」であろうが(筑摩全集類聚版など)、「炎天」との対から考えれば、これは二十四気の一つのそれ(現在の陽暦一月二十一日頃)の謂いではなく、単に厳しい寒さの中の意である。

・「團扇」老婆心乍ら、「うちは(うちわ)」と読む。「うちわ」という当て読みは「打ち羽」が元という。「團」(団)は、主たる形状の「円(まる)い」ことによる。

・「揮つたり」老婆心乍ら、「ふるつたり(ふるったり)」と読む。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 神祕主義

   神祕主義

 

 神祕主義は文明の爲に衰退し去るものではない。寧ろ文明は神祕主義に長足の進步を與へるものである。

 古人は我々人間の先祖はアダムであると信じてゐた。と云ふ意味は創世記を信じてゐたと云ふことである。今人は既に中學生さへ、猿であると信じてゐる。と云ふ意味はダアウインの著書を信じてゐると云ふことである。つまり書物を信ずることは今人も古人も變りはない。その上古人は少くとも創世記に目を曝らしてゐた。今人は少數の專門家を除き、ダアウインの著書も讀まぬ癖に、恬然とその説を信じてゐる。猿を先祖とすることはエホバの息吹きのかかつた土、――アダムを先祖とすることよりも、光彩に富んだ信念ではない。しかも今人は悉かう云ふ信念に安んじてゐる。

 これは進化論ばかりではない。地球は圓いと云ふことさへ、ほんたうに知つてゐるものは少數である。大多數は何時か教へられたやうに、圓いと一圖に信じてゐるのに過ぎない。なぜ圓いかと問ひつめて見れば、上愚は總理大臣から下愚は腰辨に至る迄、説明の出來ないことは事實である。

 次ぎにもう一つ例を擧げれば、今人は誰も古人のやうに幽靈の實在を信ずるものはない。しかし幽靈を見たと云ふ話は未に時々傳へられる。ではなぜその話を信じないのか? 幽靈などを見る者は迷信に囚はれて居るからである。ではなぜ迷信に捉はれてゐるのか? 幽靈などを見るからである。かう云ふ今人の論法は勿論所謂循環論法に過ぎない。

 況や更にこみ入つた問題は全然信念の上に立脚してゐる。我々は理性に耳を借さない。いや、理性を超越した何物かのみに耳を借すのである。何物かに、――わたしは「何物か」と云ふ以前に、ふさはしい名前さへ發見出來ない。もし強いて名づけるとすれば、薔薇とか魚とか蠟燭とか、象徴を用ふるばかりである。たとへば我々の帽子でも好い。我々は羽根のついた帽子をかぶらず、ソフトや中折をかぶるやうに、祖先の猿だつたことを信じ、幽靈の實在しないことを信じ、地球の圓いことを信じてゐる。もし噓と思ふ人は日本に於けるアインシユタイン博士、或はその相對性原理の歡迎されたことを考へるが好い。あれは神祕主義の祭である。不可解なる莊嚴の儀式である。何の爲に熱狂したのかは「改造」社主の山本氏さへ知らない。

 すると偉大なる神祕主義者はスウエデンボルグだのベエメだのではない。實は我々文明の民である。同時に又我々の信念も三越の飾り窓と選ぶところはない。我々の信念を支配するものは常に捉へ難い流行である。或は神意に似た好惡である。實際又西施や龍陽君の祖先もやはり猿だつたと考へることは多少の滿足を與へないでもない。

 

[やぶちゃん注::初出は大正一二(一九二三)年五月号『文藝春秋』巻頭であるが、次の「自由意志と宿命と」が一緒に掲載されている。しかも没後の昭和二(一九二七)年十二月六日に文藝春秋出版部より出版された単行本「侏儒の言葉」には所収されていない。これについては底本の岩波旧全集注記に引用された単行本「侏儒の言葉」の後記に、『「侏儒の言葉」本文は』『雜誌「文藝春秋」の切り拔きに著者自身が手を加へたものに據つた。その爲――「神祕主義」他、二、三のものが省かれることとなったのである』とあう。但し、ここで『他、二、三のもの』とあるものの、具体的にはこの「神祕主義」の他に「或自警團員の言葉」「森鷗外」「若楓」「蟇」「鴉」で全六篇が除去されている。この除去について、諸解説は、上記の単行本後記の事実を鸚鵡返しするばかりで、除去はあくまで切り抜きがなかったという物理的事実に純粋に拠るものと理解して、何ら、問題視していない。私はこれには非常に違和感を持つものである。例えば、この「神祕主義」は最初に述べた通り、次の「自由意志と宿命と」とペアで掲載されたものであり、「若楓」「蟇」「鴉」の三つはその前に「幼兒」「又」(「幼兒」の再同題)「池大雅」「荻生徂徠」の七篇一挙掲載の最後の三篇で、切り抜き忘れたなどということは私には全く以って考えられないのである。しかも、少なくとも「森鷗外」はその内容から(極めて短いので引いておくと「畢竟鷗外先生は軍服に劍を下げた希臘人である。」である)意識的に抜き去った可能性が高いようにさえ私には思われるのである。それはまた、各個に考察する。

 なお、標題の「神祕主義」は英語の「ミスティシズム」(mysticism)の訳語で、『超越的実在(神・絶対者)を、日常的感覚世界を脱した内的直観によって直接に体験しようとする宗教・哲学の立場をいう。東洋では、インドのヨーガ、中国の道教・密教、イスラム教のスーフィズム、西洋ではプロティノスに始まり、新プラトン学派、エックハルト・ベーメらのドイツ神秘主義、現代ではハイデッガーなどが代表的』。『語源は〈目や口を閉じる〉という意味のギリシア語myeinにあり、通常的でないことが示されている』と中経出版「世界宗教用語大事典」にはある。

 

・「ダアウインの著書」イギリスの地質学者(存命中、一貫した自称でもあった)で生物学者でもあったチャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin 一八〇九年二月十二日(文化五年十二月二十七日相当)~一八八二年(明治十五年)四月十九日)が、かのサルがヒトとなったという当時の文化にあってトンデモないスキャンダラスな「種の起源」(On the Origin of Species)を発表したのは一八五九年(安政六年十一月一日相当)で本章発表の六十五年前であるが、本邦での学術的に本格的な紹介は明治一〇(一八七七)年の東京大学に於ける同大学生物学教授エドワード・S・モースによる講義や一般向けの講演会がその濫觴であったが、一般国民がこれを正しい定説として主体的に受け入れるようになったのは明治も後半になってからであり、学術的にはヨーロッパ留学から帰朝した生物学研究者らを通してであった。その中でも、大きな功績を果たしたのは東京帝国大学生物学教授丘浅次郎で、中でも彼が進化論の普及を目指して一般教養向けとして分かり易く解説した「進化論講話」初版刊行は明治 三七(一九〇四)年のことであるから、ダーウィンの、自然選択と突然変異の二つの柱を骨子とする進化論の汎日本的大衆理解はそれ以降と考えてよい。とすれば、実にたかだか僅かに二十年前のことであるとも言えるのである。因みに、私は既にE.S.モース著石川欣一訳「日本その日その日」の全電子化注をブログで終えており、また、その丘淺次郎の「進化論講話」の電子化注もブログで実行中である。

・「エホバ」(Jehovah)「旧約聖書」に於いて神聖にして口にしてはならない神の名。「YHWH」の伝統的な読み方。最近では、近代の研究によって復元された原音に基づいて「ヤハウェ」(Yahweh)と表記することの方が多い。原義は「在りて在るもの」の意とされ(「旧約聖書」の「出エジプト記」第三章第十四節に於いて、『神、モーセにいひたまひけるは、「我は有て在る者なり」。又、いひたまひけるは。「汝、かくイスラエルの子孫にいふべし我有といふ者我を汝らに遣したまふ」と』と名乗った事に由来する)、この唯一神がイスラエル民族とともに永遠に「在る」ことを示すものとされる。

・「腰辨」江戸時代に勤番の下侍(しもざむらい)が腰に弁当をぶら下げて出仕したところから、毎日、弁当を持って出勤する、特に下級官吏或いは広く安月給取りのことを指した。今は既に死語と言ってよかろう。

・「日本に於けるアインシユタイン博士、或はその相對性原理の歡迎されたこと」ドイツ生まれのユダヤ人であった理論物理学者アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein 一八七九年~一九五五年)が「特殊相対性理論」を発表したのは一九〇五年(当時のアインシュタインは二十六歳)で、

有名な式 E=mc² の発表は一九〇七年であるが、それから十五年後の大正一一(一九二二)年になって、ここに出る出版業界きっての立役者として知られた「改造社」(当社は御存じの通り、龍之介の諸作品の発表や出版企画をも手掛けた)創業者山本実彦(さねひこ:後注参照)が博士をエルザ夫人とともに日本に招待した(アインシュタイン満四十三歳)。アインシュタインは同年十一月十七日に神戸港に着き、十二月二十九日に門司港よりパレスチナに向けて出航離日している。その間の日程や講演はウィキの「アルベルト・アインシュタイン」の「アインシュタインと日本」に詳しい。本篇の発表は大正一二(一九二三)年五月であり、未だ四ヶ月前という新しい出来事でもあり、アインシュタインの来日とその熱狂的歓迎、時間の相対化というSFが事実となる驚くべき不可解極まりない理論は、まさに「神祕主義」的科学理論との遭遇であったのである。その十一年後には彼の一声で造られた悪魔の兵器が二つも日本に落されるとは誰一人考えてもいなかったことを考えると、まさにそれは神のみぞ知る、確かなおぞましき「神祕」であったと言える。因みに、本執筆時の龍之介は三十一歳であった。

・『「改造」社主の山本氏』改造社社長山本実彦(明治一八(一八八五)年~昭和二七(一九五二)年)。ウィキの「山本実彦」によれば、現在の鹿児島県薩摩川内市出身。日本大学卒。『門司新報』『やまと新聞』記者を経て、大正四(一九一五)年に『東京毎日新聞社(現在の毎日新聞とは資本関係はない)社長に就任』。大正八(一九一九)年には『改造社を創業し、総合雑誌『改造』を創刊。大正期最大のベストセラーとなった賀川豊彦の「死線を越えて」、志賀直哉の「暗夜行路」や林芙美子の「放浪記」、火野葦平の「麦と兵隊」など堂々たる作家人達がこぞって執筆し『中央公論』と併称される知識人に圧倒的に支持され、必読の総合雑誌とな』った。また昭和二(一九二七)年、『世間を一世風靡した「円本」の先駆けとなった』「現代日本文学全集」全六十三巻を刊行(死を目前に控えていた芥川龍之介も宣伝講演に駆り出されている)、『それまで経済的に困窮していた作家たちの生活は、それによって大いに潤うこととなった』。昭和五(一九三〇)年、『立憲民政党から衆議院選挙に当選し、戦後は中道主義を掲げた協同民主党を結成し委員長となった。しかし山本亡きあと』、三年で雑誌『改造』は労働争議の末に廃刊となっている。『アルベルト・アインシュタインやバートランド・ラッセルの来日招聘にも尽力し、日本の科学界や思想界にも貢献した』とある。本篇発表当時で実彦は満三十九歳であった(芥川より八つ上)。龍之介の作品もよく載った雑誌『改造』についてもウィキの「改造(雑誌)」から引いておく。『社会主義的な評論を多く掲げた日本の総合雑誌』(大正八(一九一九)創刊・昭和三〇(一九五五)年廃刊)。『主に労働問題、社会問題の記事で売れ行きを伸ばした。当時はロシア革命が起こり、日本の知識人も社会問題や社会主義的な思想に関心を寄せるようになった時期であり、初期アナキストの佐藤春夫、キリスト教社会主義者の賀川豊彦、マルクス主義者の河上肇、山川均などの論文を掲載した』。『小説では幸田露伴『運命』、谷崎潤一郎『卍』、志賀直哉『暗夜行路』の連載などがある。また改造誌上にて当代を代表する谷崎潤一郎と芥川龍之介の文豪同士の「小説の筋の芸術性」をめぐる文学論争が繰り広げられることになり』、文壇を越えて、『注目される展開となった。文学面でも単なる文芸誌以上の内容の重厚さを見せる『改造』が支持され、より売上を伸ばす結果となった』とある。岩波新全集の山田俊治氏の注によると、まさに直近の大正一一(一九二二)年『十二月号は「アインスタイン号」として「歓迎辞」に始まる全面的特集を組んでいる』とあり、仮に実彦がこの龍之介の一文を目にしていたとすれば、正直、あまりいい気持ちはしなかったのではるまいか? さても。そこである。私は秘かに、本篇が龍之介の切り抜き帖から除去されているのは、山本の名を出したこの箇所を慮ったからではないかと踏んでいる(山本に限らず、当時や現今に於いてもアインシュタインの相対性理論(同僚だった物理教師によれば特殊相対性理論よりも一般相対性理論(但し、こちらは一九一五年から翌年にかけて完成された論文)の方が遙かに難解とのことである)の意味は私も含めて一般大衆の殆んどは理解していないし、況や当時の山本がそれを理解して「熱狂した」のでないことは明白ではある。が、やはり『何の爲に熱狂したのかは「改造」社主の山本氏さへ知らない』という文章は、ダンディスト龍之介にしてみれば、余りに傲慢なる謂いであり、単行本では失礼に当たるからカットしようと考えていた(仮にそれが死後の刊行になると分かっていたとしても、である)可能性が大であると考えている。或いはこの掲載後に、誰かが龍之介に、山本の記載部分について何らかの揶揄を述べた可能性も高い。人によっては最後の一文を省略すればよいと考えるかも知れぬが、それでは不十分である。アインシュタインを招待したのが山本である以上、最後のカットだけでも山本への皮肉が消えるとは言えない。削除するなら、「もし噓と思ふ人は日本に於けるアインシユタイン博士、或はその相對性原理の歡迎されたことを考へるが好い。あれは神祕主義の祭である。不可解なる莊嚴の儀式である。何の爲に熱狂したのかは「改造」社主の山本氏さへ知らない。」の箇所全文を取り除く必要がある。ところがそうすると、「神祕主義」が最先端の科学認識にさえ色濃く影を落としているという本章のキモの部分が失われて、アフォリズムが如何にも卑小となり、腰砕けにさえなってしまう。さればこそ、龍之介はこれを切抜きから敢えて外したのではあるまいか?

・「スウエデンボルグ」(Emanuel Swedenborg  エマヌエル・スヴェーデンボリ 一六八八年~一七七二年)はスウェーデンのバルト帝国出身の博物学者・神学者で、現在、本邦ではその心霊学や神智学関連の実録や著述(主要なものは大英博物館が保管)から、専ら霊界関係者に取り沙汰される傾向があるが、その守備範囲は広範で魅力的である。以下、ウィキの「エマヌエル・スヴェーデンボリ」より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。父は『ルーテル教会の牧師であり、スウェーデン語訳の聖書を最初に刊行した』人物で、エマヌエルは『その次男としてストックホルムで生まれ』た。『十一歳のときウプサラ大学入学。二十二歳で大学卒業後イギリス、フランス、オランダへ遊学。二十八歳のときカール十二世により王立鉱山局の監督官になる。三十一歳のとき貴族に叙され、スヴェーデンボリと改姓。数々の発明、研究を行ないイギリス、オランダなど頻繁にでかける』。『一七四五年、イエス・キリストにかかわる霊的体験が始まり、以後神秘主義的な重要な著作物を当初匿名で、続いて本名で多量に出版した。ただし、スウェーデン・ルーテル派教会をはじめ、当時のキリスト教会からは異端視され、異端宣告を受ける直前にまで事態は発展するが、スヴェーデンボリという人材を重視した王室の庇護により、回避された。 神秘主義者への転向はあったものの、スウェーデン国民及び王室からの信用は厚く、その後国会議員にまでなった。国民から敬愛されたという事実は彼について書かれた伝記に詳しい。スヴェーデンボリは神学の書籍の発刊をはじめてからほぼイギリスに滞在を続け、母国スウェーデンに戻ることはなかった』。『スヴェーデンボリは当時 ヨーロッパ最大の学者であり、彼が精通した学問は、数学・物理学・天文学・宇宙科学・鉱物学・化学・冶金学・解剖学・生理学・地質学・自然史学・結晶学などで、結晶学についてはスヴェーデンボリが創始者である。 動力さえあれば実際に飛行可能と思えるような飛行機械の設計図を歴史上はじめて書いたのはスヴェーデンボリが二十六歳の時であり、現在アメリカ合衆国のスミソニアン博物館に、この設計図が展示保管されている』。『その神概念は伝統的な三位一体を三神論として退け、サベリウス派に近い、父が子なる神イエス・キリストとなり受難したというものである。ただし聖霊を非人格的に解釈する点でサベリウス派と異なる。聖書の範囲に関しても、正統信仰と大幅に異なる独自の解釈で知られる。 またスヴェーデンボリはルーテル教会に対する批判を行い、異端宣告を受けそうになった。国王の庇護によって異端宣告は回避されたが、スヴェーデンボリはイギリスに在住し生涯スウェーデンには戻らなかった。 彼の死後、彼の思想への共鳴者が集まり、新エルサレム教会(新教会 New Church とも)を創設した』。『スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも若干散見され、例えばイマヌエル・カントは「視霊者の夢」中で彼について多数の批判を試みている。だがその批判は全て無効だと本人が後年認めた事は後述する。フリードリヒ・シェリングの「クラーラ」など、スヴェーデンボリの霊的体験を扱った思想書も存在する。三重苦の偉人、ヘレン・ケラーは「私にとってスヴェーデンボリの神学教義がない人生など考えられない。もしそれが可能であるとすれば、心臓がなくても生きていられる人間の肉体を想像する事ができよう。」と発言している』。『彼の神秘思想は日本では、オカルト愛好者がその神学を読む事があるが、内容は黒魔術を扱うようなものではないため自然にその著作物から離れていく。その他、ニューエイジ運動関係者、神道系の信者ら』『の中にある程度の支持者層があり、その経典中で言及されることも多い。新エルサレム教会は日本においては東京の世田谷区にあり、イギリスやアメリカにも存在する』。『内村鑑三もその著作物を読んでいる』が、彼及びその支持者の思想を『異端視する向きが』あることも事実で、『一例として、日本キリスト教団の沖縄における前身である沖縄キリスト教団では、スウェーデンボルグ派牧師(戦時中の日本政府のキリスト教諸教会統合政策の影響からこの時期には少数名いた)が、戦後になって教団統一の信仰告白文を作ろうとしたところ、米国派遣のメソジスト派監督牧師から異端として削除を命じられ、実際削除されるような事件も起きている』と記す。スヴェーデンボリは『神の汎神論性を唱え、その神は唯一の神である主イエスとしたのでその人格性を大幅に前進させており、旧来のキリスト教とは性格的・構造的に相違がある。スヴェーデンボリが生前公開しなかった「霊界日記」において、聖書中の主要な登場人物使徒パウロが地獄に堕ちていると主張したり』、『同様にプロテスタントの著名な創始者の一人フィリップ・メランヒトンが地獄に堕ちたと主張はした。だが、非公開の日記であるので、スヴェーデンボリが自身で刊行した本の内容との相違点も多い。この日記はスヴェーデンボリがこの世にいながら霊界に出入りするようになった最初の時期の日記であるため、この日記には、文章の乱れや、思考の混乱なども見られる。なお、主イエスの母マリアはその日記』『に白衣を着た天国の天使としてあらわれており、「現在、私は彼(イエス)を神として礼拝している。」と発言している』。『なお、スヴェーデンボリが霊能力を発揮した事件は公式に二件程存在し、一つは、ストックホルム大火事件、もう一つはスウェーデン王室のユルリカ王妃に関する事件で』、これは心霊学の遠隔感応として、よく引き合いに出されるエピソードである。『また、教義内の問題として、例えば、霊界では地球人の他に火星人や、金星人、土星人や月人が存在し、月人は月の大気が薄いため、胸部では無く腹腔部に溜めた空気によって言葉を発するなどといった、現代人からすれば奇怪でナンセンスな部分もあり、こうした点からキリスト教徒でなくても彼の著作に不信感も持ってみる人もいる』。『彼の生前の生き方が聖人的ではない、という批判もある。例えば、彼より十五歳年下の十五歳の少女に対して求婚して、父親の発明家ポルヘムを通して婚姻届まで取り付けておきながら少女に拒絶された。また、生涯独身であったわけだが、若い頃ロンドンで愛人と暮らしていた時期がある、とされている。しかし主イエスから啓示を受けた後、女性と関係したという歴史的な事実は全くない。次にスヴェーデンボリは著作「結婚愛」の中で未婚の男性に対する売春を消極的に認める記述をしている。倫理的にベストとはいえないかもしれないが、基本的にスヴェーデンボリは「姦淫」を一切認めていない。一夫多妻制などは言語道断であり、キリスト教徒の間では絶対に許されないとその著述に書いている』。『スヴェーデンボリは聖書中に予言された「最後の審判」を一七五七年に目撃した、と主張した。しかし現実世界の政治・宗教・神学上で、その年を境になんらかの変化が起こったとは言えないため、「安直である」と彼を批判する声もある』。『哲学者イマヌエル・カントは、エマヌエル・スヴェーデンボリについて最終的にこう述べている。『スヴェーデンボリの思想は崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である、と。』(K・ ペーリツ編「カントの形而上学講義」から)。哲学者ラルフ・ワルド・エマソンも、エマヌエル・スヴェーデンボリの霊的巨大性に接し、カントと同様、その思想を最大限の畏敬の念を込めて称えている』。以下、スヴェーデンボリから影響を受けた著名人として、ゲーテ・バルザック・ドストエフスキイ・ユーゴー・ポー・ストリンドベリ・ボルヘスなどの名を挙げてある。『バルザックについては、その母親ともに熱心なスヴェーデンボリ神学の読者であった。 日本においては、仏教学者、禅学者の鈴木大拙がスヴェーデンボリから影響を受け、明治四十二年から大正四年まで数年の間、スヴェーデンボリの主著「天国と地獄」などの主要な著作を日本語に翻訳出版しているが、その後はスヴェーデンボリに対して言及することはほとんどなくなった。しかし彼の岩波書店の全集には、その中核としてスヴェーデンボリの著作(日本語翻訳文)がしっかり入っている』とある(国立国会図書館近代デジタルライブラリーでエマヌエル・スヴェーデンボリ鈴木大拙訳「天界と地獄」が画像で読める)。因みに、夏目漱石「こゝろ」には彼の名がKの口から洩れる名として登場する(リンク先は私の初出復元版のブログ版)。

・「ベエメ」ドイツの神秘主義(神秘神学)者ヤーコプ・ベーメ(Jakob Böhme 一五七五年~一六二四年)。私は彼について今日まで全く知らず、著作も読んだことがないので(言っておくが、私の注は先ず私のためにこそある。無学な私自身の疑問を氷解し得ずして如何して他者に供する注たらんや、である)、やや長くなるが、ウィキの「ヤーコプ・ベーメ」より大々的に引くことを許されたい(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『ルター派教義を背景とし、パラケルススら新プラトン主義に影響を受けた独特の自然把握と「神の自己産出」という哲学史上稀な概念の展開は、敬虔主義やドイツ観念論といった近世のドイツ思想だけでなく、近代の神秘学にも影響を与えている』。主著に「アウローラ」「シグナトゥーラ・レールム」「大いなる神秘」「キリストへの道」などがある。『一五七五年、北ドイツ・オーバーラウジッツのナイセ川流域の都市ゲルリッツの近郊、アルト・ザイデンベルク(Alt Seidenberg)に生まれ』、『靴職人としての修養を終えたベーメは、一五九九年以降』、『ゲルリッツで靴職人として働き、家庭を設ける』。『ベーメが著述を始めた時期は確定できないが、一六一二年最初の著作「アウローラ』」が完成する。ベーメはのちに書簡中で、この著述の根底にそれ以前の神秘体験があり、「十二年もの間それ(=神秘体験)に関わった」と述べる。正規の哲学教育のみならずギムナジウムでの中等教育をも受けていない靴職人にとってこの作業が困難を極めたことは容易に想像される。ベーメ自身もまた、この最初の著作が文体と内容の両方に渡って晦渋であることを認めているほどである』。『しかし同時に』、『この著作にはベーメの根本的思想の萌芽が現れていることも広く認められている。ベーメは上掲の書簡において「アウローラ」について「一冊より多くの書物、一つ以上の哲学が、しかもつねにより深められて生み出される」とも語っている。自己の神秘体験をつづった「アウローラ」によって一度は異端として非難され、休筆するものの、その後著述を再開する』。『ベーメははじめ己の体験の覚書として「アウローラ」を著し、公開する意図はなかった。しかし友人に乞われ』、『その手稿を貸し出すうちに、これを筆耕するものも出始め、「アウローラ」はベーメの交友範囲を越えて、ゲルリッツ市民に知られるようになった。神秘体験という個人的な幻視と、素朴なキリスト教信仰の合致から生まれた自然と人間の関係についてのこの著述は、しかし当時ゲルリッツの監督牧師であったグレゴール・リヒターにはルター派正統教義をおびやかすものとして認識された。リヒターは説教壇からベーメを異端思想の持ち主として非難し、これに呼応する市民は公然とベーメの自邸に攻撃をするなどし、ベーメの平穏な生活は脅かされた。この結果、ベーメが著述を以後しないこと、リヒターは教会においてベーメを非難することをやめるとの妥協が市の当局の仲裁によって定まり、ベーメは著述を控えることとなった』。『一方でベーメの「アウローラ」を好意的に受容する者も一定数存在した。その中には貴族階級の読書人もあり、ベーメの精神的支援者となるばかりでなく、ベーメに錬金術など当時の新プラトン主義的自然哲学思想を媒介するとともに、読書の機会を与えた。ベーメの著作に散見するラテン語はこのような友人たちからベーメが学んだものがほとんどであるが、パラケルススの著述については、これを直接読んだとベーメは証言しており、錬金術用語を「シグナトゥーラ・レールム」・「大いなる神秘」をはじめとする後の著作では大いに用いている。またこの読書はベーメに遅い年齢に達してではあるが、自己の著述を反省し』、『言葉を練る助けとなった』。『ベーメは和解の協約を守り新たな著述を行うことはなかったが、その後もリヒターは教会での攻撃をやめず、市民を扇動してベーメを悩ませた。また友人たちもベーメに「アウローラ」に続く著作を所望した。ベーメは自らの沈黙が平和をもたらさぬことを知るばかりでなく、この期間に熟成していった自己の思想をむしろ積極的に表明することが自己の使命であると確信するに到る。一六一八年』になって『ベーメは著述を再開し、一六二四年の死に至るまでの六年間に「シグナトゥーラ・レールム」を始めとする幾つかの大著、および付随する小論文、信奉者宛の書簡などで、精力的にその思想を語りだしていく』。『幾つかの小論を集めて出版を勧めるものがあり』、『一六二三年に「キリストへの道」を出版する。この著作は「アウローラ」同様、激しい議論と敵意の的となり、ベーメはその対応に追われて本格的な著述をする暇を取れないばかりか、ゲルリッツに家族を残してひとり退去し、ドレスデンに一時滞在することになる。しばらくドレスデンに滞在した後、ゲルリッツに戻ったベーメは病を得て没した』。『ベーメは生涯、自身の自覚としてはルター派の信仰に忠実でありつづけた。ベーメの思想の第一の背景としてはベーメが教会を通して受けた宗教教育が挙げられる。しばしば自然哲学として解釈されるその思想も、ベーメの意図としては晩年の著作の題名が示すように「キリストへの道」として語りだされている。しかしその思想はベーメが正規の教育を受けなかったがゆえに、伝統的なキリスト教の形而上学の神概念を超出している』。『ベーメの見たヴィジョンは万物の神的な実相とでもいうべきものであった。ベーメはあらゆる存在の中に神のドラマを見て、わたしたち人間すべては神の歓びの調べをかなでる楽器の弦であるという。「すべてのものは神である。」と言ってしまえばそれは単純な汎神論になる。しかしベーメの汎神論は決して単純ではない。名状しがたきヴィジョンをどうにか捉えようと特殊な用語を駆使し、神の現われをダイナミックに描写しようとする彼の思想は複雑難解なものである。その記述は神の起源にまでさかのぼる。神の奥の奥、三位一体の神の根源をベーメは無底と呼ぶ。無底とは底なきもの、他の何かによって根拠づけられることがなく、また底がないのであるから何かを根拠づけることもない』。『このどこまで行っても何もない無の中には他の「あるもの」を求めるあこがれがあるという。ただし、あこがれは無限に広がっており、中心もなければ形もない。あこがれの海、そこには何もないのだから何も見ず、何も映さない。いわばこれは目でない目、鏡でない鏡である。あこがれから外に向かっていこうとする運動を意志というが、この意志が無底の内に向かって収斂し、自分自身である無をつかむとき、無底のうちにかすかな底ができ、ここからすべてが始まる。意志は本質の駆動力であり、いかなる本質も意志なくしては生じないという』。『意志は底に立つことで外に向かうことができるようになる。底ができることによって無底が無底となり、目が目となり、鏡が鏡となる。あるものがあるものとして認識されるためには区別が必要なのである。ベーメによれば神ですら自己を認識するには神以外のものを必要とする。さて、中心と円周が明確となることによって智慧の鏡と呼ばれるものが生じる。鏡は精神(ガイスト)を受けとめ、すべてを映すが、それ自体は何かを産むことのない受動的なものである。智慧の鏡は別名ソフィアという。ソフィアは「受け入れるが産まない」という処女の性質をもつ無である。無であるというのはソフィアが存在から自由なものだからだ。この自由なるソフィアを見ようと意志は鏡をのぞきこみ、鏡に自分自身の姿を映す。ここで意志は欲望をおこし、イマギナチオ(想像)する。イマギナチオによって意志は孕み、精神としての神と被造物の原形が鏡において直観されるのである』。『これから神の欲求が外へと向かうことで世界が形成されるのだが、この後直接に我々が目にするような自然が創造されるというのではない。次いでベーメが語るのは、可視的自然の根源たる永遠の自然である。彼は七つの霊もしくは性質によって万物が形成されるという。性質(Qual)とは苦(Qual)であり源泉(Quelle)である。これは単なる語呂合にも思われるかもしれないが、これから述べるようにベーメにとって言葉やひびきは存在の本質と深く関わったものである。内容からすれば、存在がさまざまなかたちに分かれ、性質をもつということは始元の融合からの乖離として苦であるという意味にとれる』。『まず第一の性質、それは欲望であり、内側に引きこもる働きを持っている。渋さ、堅さとも表現される欲望は、自分自身を引きずり込み、濃縮して闇となる。既に無底の内で働いていたこの原理は自然の第一の原理である』。『第二の性質は第一のものと逆に外へ向かう運動、流動性。これはつきさして暴れ、引きこもる力に抗して上昇、逃走しようとする。この性質は「アウローラ」では』「甘さ」と呼ばれ、他では「苦さ」と呼ばれる。『第三は上の二つの力の張り合いである不安。内へ向かう力と外へ向かう力は互いに反発しあい、一方が強くなれば他方も強まるので安定することがない。それは相反する面が互いに運動する車輪の回転のようでもある。不安の輪の回転は限りなくエセンチア(存在物、本性)を生み出す。以上の三つの原理は第一原理、万物の質料の源である』。『さて、第四の性質は熱とか火花と呼ばれ、闇を焼き尽くして光を生じさせる。この原理によって前の第一原理の三性質、暗い火が明るい火へと転じ、死のうちから生命が現れる。不安の輪の残酷な回転が結果的に火の鋭さ、そして輝かしい生命を生む』。『第五の性質は光であり、熱から出たものでありながらも焼き尽くす破壊的な熱とは反対にやわらかく、優しい。この性質は歓びと恵みの原理であって、ここから五感(見、聞、感、味、嗅)が誕生する。愛に抱かれ、ここで統一された多様な力は再び外へ向かって広がりゆく』。『この広がり、すなわち第六の性質はひびき、音、そしてことばである。内にあったものがこの性質によって外へ顕わになり、語られるのである。ひびきは認識を可能にし、自然の理を明らかにして知と関係する。精神はここまで細分化しつつ展開してきたわけだが、理に至って自らの展開を十分に認識する』。『そして最後の第七性質においてこれまで展開してきたものに形が与えられる。このようにベーメにとっての世界の創造とは、神が一気に制作することではなく、神の想像の働きが自己を展開してゆくことである。その際否定的な要素が大きな役割を果たしているのに注目すべきである。世界が生き生きとしたものになるためには障害が不可欠なのである』。『ドイツ観念論の完成者ヘーゲルはベーメを「ドイツ最初の哲学者」と呼んだ。対立する力の働き合いの内に絶対者が自己を実現してゆくという彼の哲学はベーメの内にその原形を有していると言える。ただしヘーゲルはベーメの「混乱したドイツ語」には辟易していた。この項では概略を見てきたが実際にはベーメの思想はさらに複雑で、錬金術の特殊な用語や記号との対応があり、言葉の使用法は通常のものとは大きく離れている』。世界の内に「甘さ」や「苦さ」が働いていると言われても、『普通の人間は奇妙な印象を受けるだろう。彼が神秘学にかぶれた「無学な靴職人」とそしられるとしても、その晦渋な文章を考えれば理由がないわけではない』。『ところで現実の世界を見渡すとき、そこには悪があふれている。ベーメはこの悪の起源についても語る。伝統的な神学上の問題として、完全な善である神が世界を創造したというならなぜ』、『世界には悪が存在するのかというものがある』。『ベーメの神観では、神は純粋な善であるわけではなく、暗い面をも持っているわけだが、それが直接にこの世の悪の原因となっているわけではない。可視的自然の創造以前に創造された天使の世界に悪の起源があるというのである。天使は怒りの暗い火と愛の明るい火を精神の原理とするものとして創造された。怒りを愛に従わせることが善なのであるが、自由な意志にとっては逆も可能である。そして天使は自由な意志を持っていた。大天使のひとり、ルシファーは自由をマイナス方向に向けて用いた』。『第一性質と第二性質には悪が潜在的に存在していたが、ルシファーはこの二つの性質に対し自らが神たらんとするイマギナチオを向けたのである。ルシファーの神への反逆はマイナスの創造として自由のエネルギーを逆流させ、闇の鏡をつくりだす。闇の鏡はソフィアの鏡と異なって多様な虚像を映し出す。これが空想である。ルシファーは闇の鏡をのぞきこんで空想に踊らされ、ますますエゴを肥大化させる。かくして天使の国は怒りの暗い火が燃える地獄と明るい光の天国に分裂してしまう』。『しかし神は世界の混乱をそのままにしておかない。ルシファーの闇の創造に対して再び光の創造が発動する。創世紀第一章で神が「光あれ」と言ったところがこの創造である。ここで時間と空間、可視的自然、そして人間が創造される。最初の人間アダムは神が自己を実現してきた最後の到達点であって、その中にはすべてが見出され、天使にも勝るというまさに至高の存在である。当初のアダムは男と女の両方の性質を合わせ持つ完全な統一体であった。だが、アダムもやがて堕落する。神から愛され、自らも自らを愛する素晴らしきアダムを悪魔は手に入れたいと思った。悪魔はアダムを誘惑し、不完全なる多の世界にアダムの心を向かわせる』。『この堕落によりアダムの中の女性の部分である乙女ソフィアは天に帰ってしまった。それとともにアダムを中心として調和していた宇宙は統一を失って複雑な多の世界と化す。アダムは孤独となり、神はそれを憐れんで新たなる女性、エヴァを創造した。しかしエヴァはソフィアの完全な代理とはなりえない。アダムはエヴァの中にソフィアを求め、男女はこうして惹かれ合うようになるものの、性によって苦しみもするのである。

だが、アダムの堕落はルシファーのそれと違う点がある。ルシファーが自らの自由意志で神に反逆したのに対し、アダムはそそのかされて罠に落ちたに過ぎない。そして人間は時間の中の存在である。時間には対立するものを調停する働きがあるので、人間の罪は許される可能性があるのだ。それに対しルシファーは永遠の存在であるため、罪が贖われるということがない。神は堕落した人間を救うため、救世主キリストを遣わす。キリストはエヴァのソフィア化である処女マリアから生まれたので、アダムが喪失した男性-女性の両極性を持っている。いわばキリストとは第二のアダムである。キリストは堕落のそもそもの原因である自由意志を放棄し、完全な受動性のもとに十字架にかけられる。この第二のアダムたるキリストに倣うことで我々は救われるとベーメは述べている。キリストの十字架を背負い、すすんで迫害や嘲笑に会い殺されることで、火も焼き尽くすことができない新しい人間として生まれることができるという』とある。

・「三越の飾り窓」東京日本橋室町にある三越本店のショー・ウィンドゥは、岩波新全集の山田俊治氏の注によれば、明治三五(一九〇二)年に『土蔵造りの店頭を飾窓に改造して以降、店頭にショー・ウィンドーを常設した』とある。「同時に又我々の信念も三越の飾り窓と選ぶところはない。我々の信念を支配するものは常に捉へ難い流行である」とは、まさに販売促進及び季節や流行によって一夜にして変貌することを文化知識のそれに揶揄したものである。

・「西施」現在の浙江省諸曁(しょき)の田舎娘であったが、会稽の恥を雪がんとする越王句践(こうせん)によって籠絡の道具として仇敵呉王夫差のもとへ送り込まれた悲劇の美女。文字通り傾国の美女である。

・「龍陽君」「ろうようくん」或いは「りゆう(りゅう)ようくん」と読む。中国の戦国時代、紀元前四世紀末頃の魏の公子。ウィキの「竜陽君」によれば、「戦国策」の「魏策」に出る『話では、竜陽君が哀王とともに釣りをしていた際、より大きい魚を釣って喜ぶ王に対して、竜陽君が涙を流した。王が涙の理由を尋ねると、竜陽君が答えて言うことに、「今、ご寵愛を受けている私も、より美しい者が現れると、王のご寵愛を失ってしまう。そのことを思うと悲しくて涙が出るのです」と。これを聞いた王の竜陽君への寵愛はさらに強まったという』とあり、『後代では男性同性愛(男色)を表す言葉の』一つとして『この人名が用いられた』と記し、皓星社「隠語大辞典」には、「男色」の漢語で、龍陽君(りゅうようくん)が魏王に君寵の長からんことを乞うたところが、魏王は誓つて美人を近づけるなと答えたという故事から出たとある。西施と並んでいるから、美女と思い込んでいた人も実は多いのではあるまいか。芥川龍之介にはしっかり、その手の手稿(「VITA SODMITICUS」(やぶちゃん仮題))も存在するのである。]

2016/05/19

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 侏儒の祈り

 

   侏儒の祈り

 

 わたしはこの綵衣を纏ひ、この筋斗の戲を獻じ、この太平を樂しんでゐれば不足のない侏儒でございます。どうかわたしの願ひをおかなへ下さいまし。

 どうか一粒の米すらない程、貧乏にして下さいますな。どうか又熊掌にさへ飽き足りる程、富裕にもして下さいますな。

 どうか採桑の農婦すら嫌ふやうにして下さいますな。どうか又後宮の麗人さへ愛するやうにもして下さいますな。

 どうか菽麥すら辨ぜぬ程、愚昧にして下さいますな。どうか又雲氣さへ察する程、聰明にもして下さいますな。

 とりわけどうか勇ましい英雄にして下さいますな。わたしは現に時とすると、攀ぢ難い峯の頂を窮め、越え難い海の浪を渡り――云はば不可能を可能にする夢を見ることがございます。さう云ふ夢を見てゐる時程、空恐しいことはございません。わたしは龍と鬪ふやうに、この夢と鬪ふのに苦しんで居ります。どうか英雄とならぬやうに――英雄の志を起さぬやうに力のないわたしをお守り下さいまし。

 わたしはこの春酒に醉ひ、この金鏤の歌を誦し、この好日を喜んでゐれば不足のない侏儒でございます。

 

[やぶちゃん注:初出は大正一二(一九二三)年四月号『文藝春秋』巻頭であるが、前の「好惡」が一緒に掲載されている。翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の鳥居邦朗氏の「侏儒の言葉」の解説では本章について、『みずからを「侏儒」に見立てることはすでに定まっていた』が、それを『ここに至って、何故「侏儒」なのかを言いたい思いが湧いたのであろう。単なるポーズと読むことはたやすいが、やはり時に「英雄の志」に駆られる「わたし」の、それゆえに背負う苦悩から身を守ろうとする姿勢は明瞭である』と評されておられる。

 

・「綵衣」「さいい」。色様々な糸で繡って模様を浮かばせた豪奢な衣服。

・「筋斗の戲を獻じ」「きんとのぎをけんじ」と読む。「筋斗」(「筋」とは木を切る道具のことで、柄が軽く頭が重いために、振った際によく「斗」転(回転)するところから)は「蜻蛉(トンボ)返り」のこと。それを高貴な者の膝下でうって見せること。まさに役者としての小人(こびと)たる「侏儒」の者の軽業芸の一つである。「侏儒の言葉」の「侏儒」がそうしたフリークスの俳優・役者の意を含ませていることがこの章で明らかとなるのである。

・「熊掌」「いうしやう(ゆうしょう)」。熊の手。御存じの通り、古来、その右手(左手で蜂を払い、右手で蜂蜜を掬うとされることから右手を最上とする)は中国料理最高の珍味とされる。

・「採桑の農婦」「採桑」は「さうさう(さいそう)」で桑の葉を摘むことであるが、これは西晋の楽府「陌上桑」や李白の詩「陌上桑」に出るような(筑摩書房全集類聚版には『続列女伝、陳弁女伝、弁女者陳国採桑の女也』と注する)、貴人が惚れ込んで妻とする美女を意識した表現である。近代文学者の中でも最後の漢籍通と言える、単なる「後宮の麗人」との対表現ではない、芥川龍之介ならではの行間に潜ませた逆説の仕掛けと私は読む。

・「菽麥すら辨ぜぬ」「菽麥」は「しゆくばく(しゅくばく)」と読み、豆と麦。豆と麦の区別さえつかないの意であるが、これは「春秋左氏伝」の成公(せいこう)十八年の条の、

   *

周子有兄而無慧。不能辨菽麥。故不可立。菽、大豆也。豆麥、殊形易別。故以爲癡者之候。不慧、蓋世所謂白癡。

(周子、兄、有れども無慧なり。菽・麥を辨ずること能はず。故に立つべからず。菽は、大豆なり。豆・麥は、形を殊(こと)にして別ち易し。故に以つて癡者(ちしや)の候(こう)と爲す。不慧は、蓋(けだ)し世の所謂、「白癡」なり。)

   *

に基づく。「候」は様態の意。

・「雲氣」空中に立ち上る異様の妖しい気。古来、天文家や兵術家が天候・吉凶などを判断する根拠にしたもので、気象学上のそれよりも遙かに呪術的予兆的なものを指す。

さへ察する程、聰明にもして下さいますな。

・「春酒」「しゆんしゆ(しゅんしゅ)」。前年に醸した新酒の初酒。

・「金鏤の歌」「金鏤」は「きんる」と読み、金で出来た細い糸で、ここは美「歌」の形容として金線の如き静かでかつ妖しく美しい歌の謂いであるが、やはりこれも、新潮文庫の神田氏の注に、『中国の古代歌謡に「金鏤曲」または「金鏤衣」があ』るとある。優れた漢詩サイトで昔からよく参考にさせて頂いている碇豊長の「詩詞世界の「金縷曲によれば、唐代の杜秋娘の作で(訓読もリンク先のものをほぼそのまま(句読点を除去し字空けを変更)引用させて戴いた)、

   *

 勸君莫惜金縷衣

 勸君惜取少年時

 花開堪折直須折

 莫待無花空折枝

  君に勸む 惜しむ莫(なか)れ 金縷の衣

  君に勸む 惜しみ取れ 少年の時

  花 開き 折るに堪へなば 直ちに 須(すべから)く 折るべく

  花 無きを待ちて 空しく 枝を折ること莫(なか)れ

   *

とある。語釈や歌意を是非、リンク先で精読して貰いたい。実にこの歌詞こそ、実は本篇の通奏低音なのではあるまいか? この歌を脳内に流しながら、本章は読むに若くはないと私はしみじみ感ずるのである。

・「誦し」「じゆし(じゅし)」。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 好惡

       好惡

 

 わたしは古い酒を愛するやうに、古い快樂説を愛するものである。我我の行爲を決するものは善でもなければ惡でもない。唯我我の好惡である。或は我我の快不快である。さうとしかわたしには考へられない。

 ではなぜ我我は極寒の天にも、將に溺れんとする幼兒を見る時、進んで水に入るのであるか? 救ふことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼兒を救ふ快を取るのは何の尺度に依つたのであらう? より大きい快を選んだのである。しかし肉體的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬ筈である。いや、この二つの快不快は全然相容れぬものではない。寧ろ鹹水と淡水とのやうに、一つに融け合つてゐるものである。現に精神的教養を受けない京阪邊の紳士諸君はすつぽんの汁を啜つた後、鰻を菜に飯を食ふさへ、無上の快に數へてゐるではないか? 且又水や寒氣などにも肉體的享樂の存することは寒中水泳の示すところである。なほこの間の消息を疑ふものはマソヒズムの場合を考へるが好い。あの呪ふべきマソヒズムはかう云ふ肉體的快不快の外見上の倒錯に常習的傾向の加はつたものである。わたしの信ずるところによれば、或は柱頭の苦行を喜び、或は火裏の殉教を愛した基督教の聖人たちは大抵マソヒズムに罹つてゐたらしい。

 我我の行爲を決するものは昔の希臘人の云つた通り、好惡の外にないのである。我我は人生の泉から、最大の味を汲み取らねばならぬ。『パリサイの徒の如く、悲しき面もちをなすこと勿れ。』耶蘇さへ既にさう云つたではないか。賢人とは畢竟荊蕀の路にも、薔薇の花を咲かせるもののことである。

 

[やぶちゃん注:初出は大正一二(一九二三)年四月号『文藝春秋』巻頭であるが、次の「侏儒の祈り」が一緒に掲載されている。「マソヒズム」はママ。

 

・「古い快樂説」岩波新全集の注で山田俊治氏は、『古代ギリシアの、快楽を道徳より真理とする哲学倫理学上の学説。アリスティッポス』(英語:Aristippus 紀元前四三五年頃~紀元前三五五年頃:ソクラテスの弟子で快楽主義を主張する極端な肉体的快楽主義を標榜したキュレネ派の祖とされる)『は人生の目的を精神的な快楽の追求にあるとし、エピクロス』(英語:Epikouros 紀元前三四一年~紀元前二七〇年:快楽主義などで知られる古代ギリシアのヘレニズム期の哲学者。 エピクロス派の始祖)『はさらに精神性を加えて魂の平静を重んじた』と記される。龍之介が念頭においているのは後者と考えてよいと私は思うが(新潮文庫の神田由美子氏は前者のみを注する)、ウィキの「エピクロス」によれば、彼は、『現実の煩わしさから解放された状態を「快」として、人生をその追求のみに費やすことを主張した。後世、エピキュリアン=快楽主義者という意味に転化してしまうが、エピクロス自身は肉体的な快楽とは異なる精神的快楽を重視しており、肉体的快楽をむしろ「苦」と考え』、『幸福を人生の目的とした。これは人生の目的を徳として、幸福はその結果に過ぎないとしたストア派の反対である』。『倫理に関してエピクロスは「快楽こそが善であり人生の目的だ」という考えを中心に置いた主張を行っており、彼の立場は一般的に快楽主義という名前で呼ばれている。ここで注意すべきは、彼の快楽主義は帰結主義的なそれであって、快楽のみを追い求めることが無条件に是とされるものではない点が重要である。すなわち、ある行為によって生じる快楽に比して、その後に生じる不快が大きくなる場合には、その行為は選択すべきでない、と彼は主張したのである』。『より詳しく彼の主張を追うと、彼は欲求を、自然で必要な欲求(たとえば友情、健康、食事、衣服、住居を求める欲求)、自然だが不必要な欲求(たとえば大邸宅、豪華な食事、贅沢な生活)、自然でもなく必要でもない欲求(たとえば名声、権力)、の三つに分類し、このうち自然で必要な欲求だけを追求し、苦痛や恐怖から自由な生活を送ることが良いと主張し、こうして生じる「平静な心(アタラクシア)」を追求することが善だと規定した。こうした理想を実現しようとして開いたのが「庭園」とよばれる共同生活の場を兼ねた学園であったが、そこでの自足的生活は一般社会との関わりを忌避することによって成立していたため、その自己充足的、閉鎖的な特性についてストア派から激しく批判されることになった』。『このようにエピクロスによる快楽主義は、自然で必要な欲望のみが満たされる生活を是とする思想であったが、しばしば欲望充足のみを追求するような放埒な生活を肯定する思想だと誤解されるようになった。しかしこうした生活については、エピクロス自身によって「メノイケウス宛の手紙」の中で、放埒あるいは性的放縦な享楽的生活では快がもたらされないとして否定的な評価が与えられている』とあるのを注視する必要があると私は思う。

・「將に溺れんとする幼兒を見る時、進んで水に入る」これは我々が高校の漢文で習った、かの「孟子」の、性善説を語った「公孫丑(こうそんちゅう)篇上」の知られた譬えに基づく。

原文(読み易くするために段落分けした)

 孟子曰、人皆有不忍人之心。

 先王有不忍人之心、斯有不忍人之政矣。以不忍人之心、行不忍人之政、治天下可運之掌上。

 所以謂人皆有不忍人之心者、今人乍見孺子將入於井、皆有怵惕惻隱之心。非所以内交於孺子之父母也、非所以要譽於黨朋友也、非惡其聲而然也。

 由是觀之、無惻隱之心、非人也、無羞惡之心、非人也、無辭讓之心、非人也、無是非之心、非人也。

 惻隱之心、仁之端也、羞惡之心、義之端也、辭讓之心、禮之端也、是非之心、智之端也。

 人之有是四端也、猶其有四體也。有是四端而自謂不能者、自賊者也、謂其君不能者、賊其君者也。

 凡有四端於我者、知皆擴而充之矣、若火之始然、泉之始達。

 苟能充之、足以保四海、苟不充之、不足以事父母。

やぶちゃんの書き下し文

 孟子曰く、

「人、皆、人に忍びざるの心、有り。

 先王、人に忍びざるの心、有れば、斯(すなは)ち、人に忍びざるの政(まつりごと)、有り。人に忍びざるの心を以つて、人に忍びざるの政を行はば、天下を治むること、之れを掌上に運(めぐ)らすべし。

 人、皆、人に忍びざるの心有りと謂ふ所以(ゆゑん)の者は、今人(こんじん)、乍(たちま)ち孺子(じゆし)の將に井(せい)に入らんとするを見れば、皆、怵惕(じゆつてき)たる惻隱(そくいん)の心、有り。交はりを孺子の父母に内(い)るる所以には非ず、譽(ほま)れを郷黨(きやうたう)・朋友に要 (もと)むる所以にも非ず、其の聲(な)を惡(にく)みて然(し)かするにも非ざるなり。

 是れに由りて之れを觀れば、惻隱の心無きは、人に非ず、羞惡(しふを)の心無きは、人に非ず、辭讓(じじやう)の心無きは、人に非ず、是非の心無きは、人に非ざるなり。

 惻隱の心は、仁の端(たん)なり、羞惡の心は、義の端なり、辭讓の心は、禮の端なり、是非の心は、智の端なり。

 人の、是れ、四端、有るは、猶ほ、其の四體、有るがごときなり。是れ、四端、有りて、自ら能はずと謂ふ者は、自ら賊(そこな)ふ者なり。其の君(くん)、能はずと謂ふ者は、其の君を賊ふ者なり。

 凡そ、我れに四端有る者、皆、擴(ひろ)めて之れを充たすことを知るは、火の始めて然え、泉の始めて達するがごとし。

 苟(いやし)くも、能く之れを充たさば、以つて四海を保(やす)んずるに足れり。苟くも之れを充たさざれば、以つて父母に事(つか)ふるに足らず。」

と。

   *

を念頭に置いている。昔をお思い出しになられれば、意味は概ねお分かり戴けると思うが、教師時代を思い出してやぶちゃん流のやや偏奇なる語釈を施しおくこととする。

「人に忍びざるの心」人の不幸や悲傷を見過ごすことが出来ぬ心。人の苦悩を思いやる心情。

「先王」儒家に於ける伝説の理想的聖王ら。

「之れを掌上に運(めぐ)らすべし」天下を治めること、これ、その天下を自分の掌(てのひら)の上に転がすかの如く容易なこととなる。

「今人(きんじん)」今の世の人間。孟子(紀元前三七二年?~紀元前二八九年)が生きた戦国時代の「現代人」。

「孺子」ここはフィラットな意の、子どもや童子のこと。

「乍(たちま)ち」ふっと。不意に。突如。

「怵惕」恐れ危ぶむこと(「怵」が物怖(お)じする・おじける・臆する、「惕」が慎重で注意深いの意)。ここはその状況に対する危険危急的感懐を指す。

「惻隱の心」他者の不幸・苦悩・苦痛に対するごく共時的感懐。同情と憐憫。

「交はりを孺子の父母に内(むす)ぶ所以には非ず」子を救助する見返りにその父母に取り入って美味い汁を吸おうなどという目的など毛頭ない。

「郷黨」厳密には、張り合うに値する故郷(ここは「その土地」でよかろう)の同年輩の連中であるが、ここは広く「村人」としてよかろう。

「其の聲(な)を惡(にく)みて」救助せずに子が溺死した場合に薄情者・人非人といった非難を浴びて自分の名が傷つくことを嫌って。

「是れに由りて之れを觀れば」以上の個別的事実を敷衍的に考察してその原理を帰納するならば。

「羞惡(しふを)」現代仮名遣は「しゅうお」で、これは己れと他者の不善を見逃すことなく強く恥じ、同時にそれを強く憎む心の意であり、その比率は等価であるから、単に「羞恥」(と訳す訳が多い)では不十分である。

「辭讓」何事も他者を慮って、遜(へりくだ)って自身のことを後にし、人に譲る(人のことを先にする)こと。

「是非の心」やるべきこととやってはならないこと(先の井戸の例の場合は「助けずに行き過ぎる」という行為が不作為犯、やらないことが「非」となる事例である点でこの比喩はやや応用的で、初等教育的には十全な理解をさせるには思いの外、難度が高い寓話ではあると私は思う)を正しく見分ける心。真の善悪の実体を見分ける能力。しかしこれではその善悪の原型が既にしてア・プリオリな絶対的基本原理として突如、普遍前提されてしまうことになり、私は厳密な論議に於いては疑義を感ずる箇所であると言い添えておく。

「仁」己に克(か)つと同時に他者に労わりを遍く及ぼす心の在り方。儒家思想の核心であり、「仁」は「人」であり、「仁」無き存在は「人」ではない。以下によって、孟子は人間の人間たる必要条件として「仁・義・礼・智」の四つを名指していることが判る。即ちこれが、孟子の言うところの「人の人として当然持つべき守るべき徳」、道徳であると規定していることになる。

「端」端緒(たんしょ)。芽生え。人としての在り方の実相に到達するための最初の糸口。

「四體」通常の人体に存在する両手足。現行の差別用語観念からすれば、これは四肢を持ってこそ「人」であるという差別内容を持つ差別表現ということになり、「孟子」も何時か伏字にすべきということになるやも知れぬな。

「四端、有りて、自ら能はずと謂ふ者」その四つの端緒を既に持っているにも拘わらず、自分にはそれを正しく鮮やかに起動させることなどとても出来ない、などとほざく者。

「自ら賊(そこな)ふ」自分で自分を傷つける。

「其の君、能はずと謂ふ者は、其の君を賊ふ者なり」自分の主君が仁義礼智の徳を実行し得ていないという状態にあると主張する者は、逆に主君を損なう者であるの謂で採るが、これは結局、その愚かな君主に対し、敢然と、徳を鮮やかに行われるように諫言せねば「人」たりえない、ということになる。それによって一族郎党、誅されたとしても、である。これはしかし、論理矛盾というものであろう。何の咎もなく処刑されてゆく何千もの親族や郎等に惻隠の情を持たない奴というのは人非人ではないのか? と私は高校時代から感じ続けているのである。そうした疑問を抱えながら、素知らぬふりで平然と漢文で「孟子」のここを教授していた私もまた、たいした人非人である。

「擴(ひろ)めて之れを充たすことを知る」その四種の德を我身の充実させるに留まらず、それを世界に拡充して、さらに宇宙そのものを鞏固にして不易なる「徳」で満たすることこそが、人の人としてなすべき唯一の行いであることを知る。

「火の始めて然え、泉の始めて達するがごとし」しかし乍ら、その端緒は、燎原の火の最初の火がしょぼしょぼとしたものであり、大河の濫觴の泉水がわずかにちょろちょろとしか滴らぬのと同様である。即ち、それを正しく拡充しない(具体には学問修養を指すのであろうが、私は徳義とはそうした教育によって正常に成長するとは実はさらさら思ってはいないことを言い添えておく)ならば、とろ火は一瞬にして消え、源泉の水は瞬く間に涸れてしまう、という字背に言うのである。この辺りの危険性を暗に語っている(と私は思う)直喩部分はなかなかよいと思う。

「四海」全世界。宇宙。

「保(やす)んずるに足れり」十全に絶対幸福なる定常世界にすることさえ容易である。

「以つて父母に事(つか)ふるに足らず」一人の子としてその父母にさえ、孝たることすらも出来ぬ。

   *

 最後に述べておくと、私は中国伝統の比喩、特に儒家の寓言のそれは概してつまらぬと思う。それは儒家の現実に対する理論主張の核心で、突然、提出し、この孟子の井戸に落ちた子のような如何にもな偏った条件設定や、またそれへの対応の選択肢が一つしかないような錯覚を起こさせることで、論理的帰結をすこぶる強引に都合のいい自己解釈に誘引する手法がおぞましいからである。これは道家のそれが、比喩という形式をかりながら、それが別な対象に少しも変換されないか、或いは変化された対象が現実を全的に無化させる方向へ働くのとは全く対照的である。

   *

・「鹹水」「かんすい」。海水。後に「淡水」と対句するから、これを「しほみづ(しおみず)」とは訓じ得ない。

・「現に精神的教養を受けない京阪邊の紳士諸君はすつぽんの汁を啜つた後、鰻を菜に飯を食ふさへ、無上の快に數へてゐるではないか?」誰もここに注を附さないが、みんな分かって怒りもなく呑み込んでるということなんだろうか? まず、これは芥川龍之介の食に対する強烈な不快表明であり、それに基づく関西の食文化への蔑視でもある。その地では、かの奇体な精力剤たるスッポン汁をうまうまと吸った直後、さらに脂ぎった夜のための媚薬たるウナギを肴に飯を喰らうことを至上の快楽におぞましくも数え挙げているではないか、というのである。芥川龍之介のこの一文を批判しないと、関西人は何時まで経っても龍之介に「精神的教養を受けない」人種とされ続ける訳だが、それで、ええんかいな? と私はツッコミたくなるやが? 如何?

・「柱頭の苦行を喜び」新潮文庫の神田氏の注には、『柱の上の台に造られた小さな小屋で生活する修行。世間の人々の極端な肉欲に対する償いの意味』合いを持ったもので、『創始者はキリキア人』(Cilicia:トルコ南部の地中海に面した地域名。地中海を隔ててキプロスと向き合い、南東部にはシリアが位置する。北はかのカッパドキアと接する)『シメオン』(正教会やカトリック教会などで聖人とされる登塔者(とうとうしゃ)聖シメオン(英語:Simeon Stylites) 三九〇年頃~四五九年)『で、東方では十世紀、シリアでは十四世紀まで存在した』とある。なお、「登塔者」(ラテン語:stylita/英語:Stylites)とは『正教会で塔に登る苦行を行う修道士のこと。聖人に付される称号でもある』。『キリスト教における隠遁修道は』四世紀頃から盛んになったが、五世紀に入ると、「塔」とも呼ばわる柱に登って、『その上で生活し苦行を行うという特異な修道の形態が始まった。この苦行の実行者を登塔者と呼ぶ。天の神に近付く事を目指した結果生み出された修道の形態であったが、最初の登塔者と伝えられている登塔者聖シメオンのあと若干の後継者があったものの、時を経てこの修道形態はすたれた』。『高徳の登塔者の下には多くの巡礼者達が集まり、病を癒してもらったり、教えを聞いたりしたと伝えられている』(ここの引用はウィキの「登塔者)。

・「火裏の殉教」「火裏」は「くわり(かり)」で火中のこと。迫害されて磔(はりつけ)にされたキリスト教信者が火炙りの刑に処せられて信仰に殉じたことを指す。

・「希臘人」「ギリシアじん」と読んでおく。

・「パリサイの徒の如く、悲しき面もちをなすこと勿れ。」「新約聖書」の「マタイによる福音書」の第六章第十六節にある章句。明治訳を示す(私が引いた下線が当該箇所。「僞善者」は「パリサイの徒」(後述)を指す)。

   *

なんぢら斷食(だんじき)するとき僞善者の如き憂き容(さま)をする勿れ。彼等は斷食を人に見せん爲に、顏色を損ふ。我まことに爾曹(なんぢら)に告げん、彼等は既に其の報賞(むくひ)を得たり。

   *

「パリサイ」(Pharisaioi)「ファリサイ」とも音写する。紀元前二世紀のマカベア戦争(紀元前一六八年から同一四一年にかけて、セレウコス朝シリア王国の支配下にあったユダヤが政治的・宗教的独立を勝ち得た戦争)直後から紀元一世紀頃にかけて存在したユダヤ教の一派。語義は「分離した者」で、新潮文庫の神田氏の注には、『モーゼの律法を厳格に守る一方、その法を新時代に適応させようとする合理主義』的一派でもあったが、『エルサレム陥落直前には、ブルジョワ階級に占められ、民衆との間に溝(みぞ)があり、イエスは、その偽善ぶりを常に批判した』とある。福音書では終始、イエスの論敵として描かれ、後世、このイエスの「偽善者」という名ざしから、「偽善者」や「形式主義者」の代名詞とされてしまう。

・「荊蕀」音なら「けいきよく(けいきょく)」である。荊(いばら)。私はこれで「うばら」と訓じたくなるものの、寧ろ、後の「薔薇」(ばら)とよく響き合わせるためには音の方が効果的とは思うし、龍之介が敢えてルビを振らないとすれば、「けいきよく」が正しいと信ずる。]

「笈の小文」の旅シンクロニティ――須磨~最終回 / 「笈の小文」の旅シンクロニティ~了

本日  2016年5月19日

     貞享5年4月20日

はグレゴリオ暦で

    1688年5月19日

   須磨

月はあれど留守のやうなり須磨の夏

月見ても物たらはずや須磨の夏

卯月中比(なかごろ)の空も朧ろに殘りて、はかなき短夜(みじかよ)の月もいとど艶(えん)なるに、山は若葉にくろみかかりて、時鳥鳴き出づべき東雲(しののめ)も、海の方より白み初(そ)めたるに、上野(うへの)とおぼしき所は麥の穗並(ほなみ)赤らみ合ひて、漁人(あま)の軒近き罌粟(けし)の花の斷(た)え斷えに見渡さる。

海士(あま)の顏先づ見らるるやけしの花

東須磨、西須磨、濱須磨と三處(みところ)に分れて、あながちに何わざするとも見えず。藻鹽(もしほ)たれつゝなど歌にも聞え侍るも、今は斯(か)かるわざするなども見えず。鱚子(きすご)と云ふ魚を網して眞砂(まさご)の上に干し散らしけるを、鴉の飛び來りて摑(つか)みたる、是れを憎(にく)みて弓をもて威(おど)すぞ海士(あま)のわざとも見えず。
若し古戰場の餘殘(なごり)を留(とど)めて、斯かる事を爲すにやと、いとど罪深く、猶昔の戀しきままに、鐡蓋(てつがい)が峰に登らんとする、導引きする子の苦しがりて、とかく云ひまぎらはすを、さまざまに賺(すか)して、麓の茶店(ちやみせ)にて物をくらはすべきなど云ひて、わりなき體(てい)に見えたり。彼れは十六と云ひけん、里の童子よりは四つばかりも弟なるべきを、數百丈の先達(せんだつ)として、羊腸嶮岨(やうちやうけんそ)の岩根(いはね)を這ひ登れば、滑り落ちぬべき事あまた度(たび)なりけるを、躑躅(つつじ)根笹(ねざさ)に取付き、息を切らし汗を浸(ひた)して、漸く雲門に入るこそ心もとなき導師の力なりけらし。

   *

 以上、「笈の小文」。以下の前書と一句は、「猿蓑」にあるものを敢えてここに挿入した。「笈の小文」には不載乍ら、「鐡蓋」=鉄拐ヶ峰での面白い詠である。続けて、「*」の後が前に続く「笈の小文」の掉尾となる。

   此境はひわたるほどゝいへるも、
   こゝの事にや

かたつぶり角(つの)ふりわけよ須磨明石

   *

須磨の海士の矢先(やさき)に啼くやほととぎす

時鳥消えゆく方(かた)や島一つ

須磨寺や吹かぬ笛きく木下闇(こしたやみ)

   明石夜泊(あかしやはく)

蛸壺やはかなき夢を夏の月

斯かる所の秋なりけりとかや、此浦の實は秋を宗(むね)とするなるべし。悲しさ寂しさ云はむ方無く、秋なりせば、聊か心の端(はし)をも云ひ出づべきものをと思ふぞ、我が心匠(しんしやう)の拙(つた)なきを知らぬに似たり。淡路島(あはぢしま)手に取るやうに見えて、須磨、明石の海左右に分る。呉楚東南の眺めも斯かる處にや、物知れる人の見侍らば、さまざまの境(さかひ)にも思ひ準(なぞ)らふるべし。また後ろの方に山を隔てて、田井(たゐ)の畑(はた)といふ處、松風(まつかぜ)村雨(むらさめ)のふるさとと云へり。尾上(をのへ)つづき丹波路(たんばぢ)へ通ふ道あり。鉢伏覗(はちふせのぞ)き、逆落(さかおと)しなど、怖ろしき名のみ殘りて、鐘懸松(かねかけまつ)より見下ろすに、一(いち)の谷(たに)内裡屋敷(だいりやしき)目の下に見ゆ。其代の亂れ、其時の騷ぎ、然(さ)ながら心に浮び、俤(おもかげ)に集(つど)ひて、二位の尼君、皇子(みこ)を抱(いだ)き奉り、女院(によゐん)の御裳(おんも)に御足(みあし)もたれ、船屋形(ふなやかた)に轉(まろ)び入らせ給ふ御有樣(おんありさま)、内侍(ないし)、局(つぼね)、女嬬(によじゆ)、曹子(ざうし)の類(たぐ)ひ、さまざまの御調度(おんてうど)もてあつかひ、琵琶、琴(きん)なんど、茵(しとね)、蒲團(ふとん)にくるみて船中に投げ入れ、供御(くご)はこぼれて魚(うろくづ)の餌(ゑ)となり、櫛笥(くしげ)は亂れて、海人(あま)の捨草(すてぐさ)となりつつ、千歳(ちとせ)の悲しび此浦に留(とど)まり、素波(すなみ)の音にさへ愁(うれひ)多く侍るなり。

 

 まず、「笈の小文」の前段部分を注する。冒頭の二句は古来、月の名所とされ、「源氏物語」所縁の白砂青松の須磨を詠んだものだが、極度の同工にして駄句である。最初の句「月はあれど留守のやうなり須磨の夏」の初案は、真蹟詠草にある、

夏はあれど留主(るす)のやうなり須磨の月

である。二句目「月見ても物たらはずや須磨の夏」は「芭蕉庵小文庫」(史邦編・元禄九(一六九六)年刊)その他に、

月を見ても物たらはずや須磨の夏

の句形でも載る。どっちでもよろしい。王朝趣味をまず「採って」而して「いなす」にしても、選んだ言辞も詰まらもので、それもかくも二つも並べてしまってはとりえの一つも残らぬ。折角の最後の最後に背後に漾ようところの「源氏物語」の残り香がこれで全く香らなくなってだいなし、という気さえ私はする。さればこそ、本「笈の小文」が芭蕉によって組み立てられたものでない乙州のデッチアゲの明石、基、証しと言える。

・「上野」現在の兵庫県神戸市須磨区須磨寺町にある真言宗上野山(じょうやさん)須磨寺(すまでら)附近の台地の通称。

・「海士(あま)の顏先づ見らるるやけしの花」これは句自体よりも、前に描写される暁から曙の景に浮かぶ麦の色、侘び住まいの海士人(あまびと)の営み(庶民の視点を忘れぬ芭蕉はここにこそ「まことの侘び」はあると考えているであろう点に着目されたい)の始まりを描出しながら、芥子の花の鮮やかな色を点ずることを忘れない、映像詩人芭蕉のスカルプティング・イン・タイムがとてもよい。

・「東須磨、西須磨、濱須磨と三處に分れて」いるけれど(御大層にも、である)、何か、古来の名勝名跡だからといって、想起するような「あながち」、即ち、何か特別に他の地方とは異なった漁法や海産物の加工海産物を製しているようにも全く以って見えぬ、というのである。「須磨の侘び」を庶民レベルからリアルに描出する確信犯である。

・「藻鹽(もしほ)たれつゝ」これは「古今和歌集」の在原行平の一首(第九六二番歌)、

   田村の御時に、事にあたりてつの
   國の須磨といふ所にこもり侍りけ
   るに、宮のうちに侍りける人につ
   かはしける

わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻鹽たれつつわぶと答へよ

の引用。「田村」文徳天皇。「事にあたりて」ある事件に連座して。「つの國」摂津国。「わくらばに」は偶然に・たまたまの意。「藻鹽たる」は海藻に海水をかけてはそれを煮、そこから塩を採る古式の造塩法の、その最初の「海藻に潮水を盛んにかけ滴らせて、含ませ、びしょびしょにする」行程部分を指すが、ここはそれが「潮垂(しほた)る」、潮水で袖が濡れて雫が垂れるから転じた、不運によりかくなる境遇に堕ちて絶望し、「涙が袖から滴り落ちる」「涙を流す」「泣く」の意が掛けられてある。「わぶ」侘びしく暮らしている。

・「斯かるわざ」藻塩焼きによる造塩。

・「鱚子(きすご)」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae に属するキス類を指すが、狭義には本邦では現行、単に「キス」と呼んだ場合、キス属シロギス Sillago japonica を限定的に指すことが多い。

・「摑(つか)みたる」諸本は多く「摑み去る」とする。

・「古戰場」源平の合戦が繰り広げられたことを指す。

・「鐡蓋(てつがい)が峰」諸本は「鐡拐が峰」とする。現在の兵庫県神戸市須磨区の山手にある鉄拐山(てっかいやま)で標高は二百三十六メートル。六甲山地の西端が明石海峡に水没する箇所に位置し、北に「鵯越(ひよどりごえ)」、南西に「鉢伏山」、南東麓に「一の谷」がある。本山腹の急斜面は源平合戦での「鵯越(ひよどりごえ)の逆落(さかおと)し」で知られる。

・「苦しがりて」(登り始めて直に)嫌がり始めて。

・「云ひまぎらはす」なんだかんだと口実や誤魔化しを口にしては麓へ戻ろうとするのを。

・「わりなき體に見えたり」いや! 全く以って! まっこと、困り果ててしまもうた! の意。芭蕉は「わりなき」という語を、しばしば自己が心底思い感じ入った、という対象・感懐に用いる傾向がある。

・「十六と云ひけん、里の童子よりは四つばかりも弟なるべきを」「平家物語」の「卷第九」の一部の本に出る「老馬」の中に登場する、義経の鵯越えの道案内をしたとする熊王(くまおう)」という名の男子。但し、彼は、「熊王(くまわう)とて生年(しやうねん)十八歳になりける」とある。芭蕉の記憶違いか。

・「數百丈」三百三メートル。誇張表現。そもそもが鉄拐山の標高自体が二百三十六メートルしかない。

・「羊腸嶮岨」草食動物の羊の長々しい腸のようにうねうねと曲がりくねった険しく断崖絶壁の山径。

・「心もとなき導師」無論、先のいやいやながらに案内してくれた少年のことである。芭蕉の優しさが出る。

 次に「猿蓑」の鉄拐ヶ峰での「此境はひわたるほどゝいへるも、こゝの事にや」と前書する「かたつぶり角(つの)ふりわけよ須磨明石」について。
 支考編になる「笈の小文」の別稿ともいうべき「庚午紀行」には、

   *

誠に須磨あかしのそのさかひは、はひわたるほどゝいへりける源氏のありさまも思ひやるにぞ、今はまぼろしの中に夢をかさねて人の世の榮花もはかなしや。

かたつぶり角ふりわけよ須磨明石

   *

と出ると、山本健吉氏の「芭蕉全句」にはある。山本氏は、『「はひわたるほど」とあるのは、源氏物語須磨の巻に「明石の浦はただはひわたる程なれば」云々とあるのによたもの。須磨と明石はきわめて接近しているが』(但し、地図上で須磨寺から現在の明石市の海岸線までは直線で八・七キロメートルはある)『蝸牛(かたつむり)に左右の須磨明石を振り分けて示してくれよ、と戯れたもの。両方の美しい景色をとくと差し示してくれよといった気持である』と評されておられる。「芭蕉DB」の同句の鑑賞で伊藤洋氏は『テンポのよい間然するものの無い名句』と絶賛されておられるが、私もすこぶる同感である。

 

 以下、「笈の小文」掉尾について。

・「須磨の海士の矢先(やさき)に啼くやほととぎす」「泊船集」では、

須磨の蜑(あま)の矢さきに啼くか郭公(ほととぎす)

とする。歌枕名勝の虚像と殺伐とした現実の虚実皮膜の不思議なシュルールレアリスムの、しかし眼前の強烈なリアリズムの衝突である。――あの「源氏物語」で人口に膾炙せる須磨に於いて一人の賤しくして貧しき漁夫の鋭き矢を番へて今しも啼ける不如帰を射殺さんとするの図」――というサルバドール・ダリ風の絵を私は想起するのである。

・「時鳥消えゆく方(かた)や島一つ」ロケーションから見て、先に出た鉄拐山山頂からの遠望であろう。これは、「小倉百人一首」の第八十一番歌として知られる後徳大寺左大臣藤原実定の歌(「千載和歌集」巻三・夏・第一六一番歌)の、

ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ殘れる

のインスパイア。島は無論、淡路島である。啼き声だけを聴かせて実体の消失した不如帰を追った詩人の眼に映る、遠いその島影は、まさにその不如帰の声が化したものとして認識されている、象徴主義的な一句と言える。

・「須磨寺や吹かぬ笛きく木下闇(こしたやみ)」「続有磯海」(浪化編・元一一(一六九八)年刊)には、

須磨寺に吹(ふか)ぬ笛きく木下やみ

で載る。須磨寺には、かの笛の名手にして悲劇の少年平敦盛遺愛の「青葉の笛」(直径二・五センチメートル・長さ三十七センチメートル)がある(「須磨寺」公式サイト内の「源平ゆかりの宝物」を参照されたい)。この笛は祖父平忠盛が鳥羽院より賜ったものとされる(笛の名は前名を「小枝(さえだ)」と呼ぶ)。但し、芭蕉の幻想を誘ったのはあくまでイメージであって、この五日後のクレジット四月二十五日附猿雖(惣七)宛書簡では、『あはれなる中に、敦盛の石塔にて泪をとどめ兼候。磯ちかき道のはた、松風のさびしき陰に物ふりたるありさま、生年十六歳にして戰場に望み、熊谷に組(くみ)ていかめしき名を殘しはべる。その哀、其時のかなしさ、生死事大無常迅速、君忘るる事なかれ』と記しつつも、一方で『すま寺の淋しさ、口を閉ぢたる斗(ばかり)に候。蟬折、こま笛、料足十疋、見る迄もなし。この海見たらんこそ物にはかへられじと、あかしより須磨に歸りて泊る』と綴る一文もあって、須磨寺のB級スポット化はこの頃にさえ既にして始まっていたことが判る。ともかくもこの句で芭蕉は、まず間違いなく、敦盛を止むを得ず討ち取って世の無常を感じて遂には出家してしまう熊谷直実を自ら演じているように私には思われる。

・「明石夜泊」虚構。実際には芭蕉と杜国は明石には泊まっていない(前の注に示した猿雖宛て書簡の引用末を見よ)。「源氏物語」との共時感覚を効果的に導くための文学的操作と考えられる。

・「蛸壺やはかなき夢を夏の月」この句に就いて、私は諸家の評釈の殆んどに対して大いに不満を持っている。されば、私が最も適切な解と存ずる安東次男氏の評(一九八九年文春文庫刊「芭蕉百五十句」所収)を例外的に総て示して本注に代えたい(踊り字「〲」は正字化した)。

   《引用開始》

 「明石夜泊」として『笈の小文』に収めるが、実は明石に泊っていない。四月二十書付、伊賀の猿雖(えんすい)あて報告に、「あかしより須磨に帰りて泊る」と書いている。杜国を連れて四月十九日尼崎を出船、その夜は兵庫泊、翌二十日須磨・明石に遊んだ。泊がそのどちらであろうといっこうに構わぬ、いっそ前書などない方がよいと思わせるような句作りを、何故また、わざわざ虚構などに仕立たのだろう、と思う。

 拠りどころは『源氏物語』だ。「ひとり寝は君も知りぬやつれづれと思ひあかしの浦淋しさを」、「たび衣うら悲しさにあかし侘び草の枕は夢も結ばず」(明石の巻)。前は明石入道が娘の心をそれとなく源氏に伝える歌、後は源氏の返しで、物語の候も同じ卯月の一夜である。思い明し、明し侘び、夢も結ばぬ、とこれだけ所の情を向けられて、句の一つも詠まねば俳語師の名がすたる。「はかなき夢」のあはれを語るなら、明石の浦の蛸壺ほど似つかわしいものはない、と読めば前書はわかる。

 二十日の月は下弦に近い月である。夜に入って須磨に帰ったとしても、芭蕉が明石で月を見た可能性はまずない。ろすれば「夏の月」は、短夜の印象によって「(蛸の)はかなき夢」を強調せんがための、一種、投込の技法である。季語に実体がなければ、「蛸壺や」を眼前と解するしかなく、じじつ、昼間浜辺でそれを見た感興が、おのずと「(かりに)夜泊(すれば)」の題に思至らせたか。それとも、須磨に戻ってから、明石の浜を思遣った句か。いまごろ蛸は、月夜の海底ではかない夢を結んでいることだろう。「明石夜泊」の心は、拒離をもたせてそう読む方が面白いかもしれない。ならば句もまた、須磨の宿での興だ。いずれにせよほかに「夏の月」の治めようはあるまいが、じつはこの句は『笈の小文』に入れた諸句の留(とめ)である。「千歳(ちとせ)のかなしび此浦にとゞまり、素波(しらなみ)の音にさへ愁おほく侍るぞや」と、軍記好の涙で紀行文を結んだ俳諧師の、「明石夜泊」は釣合の工夫だったのだろう。そうとでも前書をつけなければ、「蛸壺や」の句は平家滅亡の怨に呑まれてしまう。

 諸注は、「夏の月」を当夜その場で出会った事実として、海底の蛸壺に情を寄せる式にたわいもなく読んでいる。こういうのは解釈とは云えない。

   《引用終了》

私は本句について、これ以上に腑に落ちる解釈に出逢ったことは、まだ、ない。

・「斯かる所の秋なりけり」「源氏物語」の源氏最大の危機状況の侘び住まいの描かれる「須磨」の帖の第三パートの冒頭である。

   *

 須磨には、いとど心盡くしの秋風に、海はすこし遠けれど、 行平中納言の、「關吹き越ゆる」と言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。

 御前にいと人少なにて、うち休みわたれるに、一人目を覺まして、枕をそばだてて四方の嵐を聞きたまふに、波ただここもとに立ちくる心地して、淚落つともおぼえぬに、枕浮くばかりになりにけり。琴をすこしかき鳴らしたまへるが、我ながらいとすごう聞こゆれば、彈きさしたまひて、

   戀ひわびて泣く音にまがふ浦波は思ふ方より風や吹くらむ

   *

をまず受け、さらにまた、それを素材の一部としつつ、メインに、後に出る松風・村雨姉妹の行平との儚い恋愛悲劇を据えた夢幻能「松風」(観阿弥の原型を世阿弥が改修したものと考えられている)の、

   *

「沖にちひさきいさり舟の。影幽なる月の顏。雁の姿や友千鳥。野分汐風いづれも實に。かかる所の秋なりけり。あら心すごの夜すがらやな。」

   *

という謠をも多重させて受けている。

・「心匠(しんしやう)」心の中で思い巡らすこと。心中に於ける工夫。

・「呉楚東南の眺め」杜甫の五律の名詩「登岳陽樓」の第三句を受ける。

 

 登岳陽樓

昔聞洞庭水

今上岳陽楼

吳楚東南坼

乾坤日夜浮

親朋無一字

老病有孤舟

戎馬關山北

憑軒涕泗流

  岳陽樓に登る

 昔 聞く 洞庭の水

 今 上る 岳陽樓

 吳楚 東南に坼(さ)け

 乾坤(けんこん) 日夜浮かぶ

 親朋(しんほう) 一字無く

 老病 孤舟(こしう)有り

 戎馬(じゆうば) 關山の北

 軒(けん)に憑(よ)りて 涕泗(ていし)流る

 

洞庭の水によって呉の国と楚の国は東と南にざっと裂き隔てられているの謂いだが、それはそのまま眺望絶佳の意と転ずる。私の好きな詩である。

・「田井(たゐ)の畑(はた)」新潮日本古典集成「芭蕉文集」の富田奏氏の注によれば、鉄拐が峰の北側にある部落、とある。「畑」は「里」ほどの謂いらしい。なお、これ以下は、先に示した四月二十五日附猿雖宛書簡の十九日の叙述と強い親和性が見られる。重複を厭わず以下に示す。

   *

十九日あまが崎出舩。兵庫に夜泊。相國入道の心を盡されたる經の嶋、わだの御崎、わだの笠松、だいり屋敷、本間が遠矢を射て名をほこりたる跡などききて、行平の松風、村雨の旧跡、さつまの守の六彌太と勝負し玉ふ旧跡かなしげに過て、西須磨に入て、幾夜寢覺ぬとかや關屋のあとも心とまり、一ノ谷逆落し、鐘掛松、義經の武功おどろかれて、てつかひが峰にのぼれば、すま、あかし左右に分れ、あはぢ嶋、丹波山、かの海士が古里田井の畑村など、めの下に見おろし、天皇の皇居はすまの上野と云り、其代のありさま心に移りて、女院おひかかえて舟に移し、天皇を二位殿の御袖によこだきにいだき奉りて、寶劍、内侍所あはただしくはこび入、あるは下々の女官は、くし箱・油壺をかかへて、指櫛、根卷を落しながら、緋の袴にけつまづき、ふしまろびたるらん面影、さすがにみるここ地して、あはれなる中に、敦盛の石塔にて泪をとどめ兼候。磯ちかき道のはた、松風のさびしき陰に物ふりたるありさま、生年十六歳にして戰場に望み、熊谷に組ていかめしき名を殘しはべる。その哀、其時のかなしさ、生死事大無常迅速、君忘るる事なかれ。此一言梅軒子へも傳度候。すま寺の淋しさ、口を閉ぢたる斗に候。蟬折、こま笛、料足十疋、見る迄もなし。この海見たらんこそ物にはかへられじと、あかしより須磨に歸りて泊る。

   *

・「松風(まつかぜ)村雨(むらさめ)」前に注したように、在原行平(弘仁九(八一八)年~寛平五(八九三)年:業平の兄)が須磨に蟄居(理由不祥)を余儀なくされた際、寵愛したとされる美貌の姉妹の海女の名。謡曲「松風」には二人の霊が登場する。

・「尾上(をのへ)」山の頂き(から尾根伝いに続く稜線沿い)。

・「鉢伏覗(はちふせのぞ)き」「逆落(さかおと)し」源平合戦の鵯越の逆落としに纏わる呼称であろう。

・「鐘懸松(かねかけまつ)」「芭蕉文集」の富田奏氏の注に、義経が『陣鐘(じんがね)を掛けたとの伝説のある松』とある。

・「一(いち)の谷(たに)内裡屋敷(だいりやしき)」一の谷に臨時に設けられた内裏の屋敷(行宮(あんぐう))跡。

・「二位の尼君」平清盛の妻時子(建礼門院徳子母・安徳帝祖母)。後に壇ノ浦にて安徳帝を抱いて入水した。

・「皇子(みこ)」安徳天皇(治承二(一一七八)年十一月十二日~寿永四年三月二十四日(一一八五年四月二十五日))は既に天皇(即位は治承四(一一八〇)年四月二十二日)であるが、この時満五歳で幼児あったことから、かく呼称したものか。一ノ谷の戦いは寿永三年/治承八年二月七日(一一八四年三月二十日)のことであった。

・「女院(によゐん)」高倉天皇中宮で安徳天皇生母であった建礼門院徳子。

・「船屋形(ふなやかた)」大型の船の船上に拵えた地上の御殿状の屋舎。

・「内侍(ないし)」内侍司(ないしのつかさ)の女官。天皇に常時、伺候し、奏請。伝宣の諸礼式を掌る(以下、「供御(くご)」までは「芭蕉文集」の富田奏氏の注を概ね参照した)。

・「局(つぼね)」宮中に自分専用の部屋(局)を持つことの出来た高級女官。

・「女嬬(によじゆ)」宮中に於いて掃除や点燈などの雑務を担当した下級女官。

・「曹子(ざうし)」宮中の女官の用部屋の雑役に従事した下級の女性。

・「御調度(おんてうど)」天皇らが室内で用いる手回り道具の類い。

・「茵(しとね)」天皇らが座る際などに用いた敷物類のこと。

・「供御(くご)」天皇の御飲食物。

・「魚(うろくづ)」古称は「鱗(いろくづ)」狭義には、魚などのうろこ(更に古くは「いろこ」と呼称)を指し、そこから鱗のある魚・竜などの仮想を含む、主に水棲性動物を指す語となった。ここは単に魚類の意。

・「櫛笥(くしげ)」櫛や簡単な化粧道具を入れておくための箱の呼び名。

・「海人(あま)の捨草(すてぐさ)となりつつ」先に引いた謡曲「松風」にも、

   *

「かげはづかしき我が姿。かげはづかしき我が姿。忍車を引く汐の跡に殘れる。溜水いつまで澄みは果つべき。野中の草の露ならば。日影に消えも失すべきにこれは磯邊に寄藻かく。海人の捨草いたづらに朽ち增りゆく。袂かな朽ちまさりゆく袂かな。」

   *

と出る。貧しい漁師でさえも捨てて顧みることもないような海藻の屑や芥(ごみ)同様になり果ててしまい。

・「素波(すなみ)」諸本は「白波」とする。

・「千歳(ちとせ)の悲しび」貞享五(一六八八)年から計算すると一ノ谷の戦い(一一八四年)は五百四年前にしか当たらないが、ここは千年経っても変わることのない哀切々たる悲しみの謂いであるから問題ないのである。

 

 これを以って「笈の小文」上での「旅」は終わっている。

 昨年の十一月二十九日より、今日までお付き合い戴いた数少ない読者の方々……孰れ又……どこかの芭蕉の旅で……お逢い致しましょうぞ…………

2016/05/18

偶感

耳元でその寝息は聴こえた……私はそれを秘密の囁きと悟ったのは誤りである……そうして山を下った……遠い昔……少年は丘を走り下ってゆく……聴こえるのは幽かな鹿の声……僕は少年である僕の遺体を――怒りを込めて……愛撫する……

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(6) 神人目を奉る

       神人目を奉る

 

 九州の一つ目信仰には、まだ色々と考へて見るべき點が殘つて居る。薩摩では日置郡吉利(よしとし)村の御靈神社、神體は木の坐像が八幡であつて、尚權五部景政を祭ると傳へて居る。當村鳩野門(はとのもん)に居住する農民某、之を鎌倉より奉じ下る者の苗裔と稱して、今でも此神社の祭典に與かつて居るが、其家の主人は代々片目である(一)代々片目といふことは餘程想像しにくい話だが、斯んなことに迄遠方の一致があつた。甲州では古府中(こふちう)の奧村氏、山本勘助の子孫と稱して、代々の主人が片目であつた(二)山本勘助は果して實在の人物か否かさヘ問題となつて居るが、その生地と稱する三州の牛窪では、左甚五郎も玆から出たと傳へて居る。是が同國橫山の白鳥六所大明神に於て、此神片目なる故に村に片目の者が多いといふ話(三)若くは前に擧げた自分の郷里の隣村などの例と、源頭一つであることは想像してよからう。

[やぶちゃん注:「日置郡吉利村の御靈神社」現在の鹿児島県日置市日吉町吉利の吉利神社。鹿児島県神社庁公式サイトの同神社の記載によれば、祭神は鎌倉権五郎景政で、『相州鎌倉から奉護し』、『勧請したといい、御神体の御鏡には、裏に文禄七年甲戌八月吉日角内蔵左衛門清英の刻銘があって、この年に勧請されたと伝えられる』(この記載が正しいとすると、この刻銘は怪しい。文禄は五年に慶長に改元されており、「文禄七年」は存在しないからである。但し、干支は合っている。西暦一五九六年相当)。『景政公は、相州鎌倉権ノ頭景成の子で、源義家に従い後三年の役に出陣し、敵兵鳥海弥三郎に眼を射られたが、その矢を抜かぬまま弥三郎を追送し、遂にこれを射殺したという武勇が伝えられる。この神を相州より奉じて来た鳩野門は、代々当社の祭祀に与ったとされる』。『また、文禄七年に景政公を祀る以前は、古来より山城国の御霊社を勧請して、御霊八社大明神と称されたともいう。吉利の総鎮守である』とある。

「鳩野門」は本文では明らかに吉利村内の地名であるが、前注の引用ではどうも家名のようにしか読めない。地名と土地の有力者が一致するのはよくあることで、別段、おかしくはない。但し、現在の吉利地区にはこの地名は現存しない模様である。

「苗裔」「べうえい(びょうえい)」で、遠い子孫の意。「末裔」と同じい。

「古府中」現在の山梨県甲府市古府中町。戦国大名で甲斐国守護であった武田氏の居館であった躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)があったことで知られる。

「山本勘助」(明応二(一四九三)年~永禄四(一五六一)年)戦国時代の武将として「甲陽軍鑑」などには武田信玄に仕えた独眼で片足が不自由な天才的軍師として記されている。同書によれば、幼名は貞幸、後に勘助・晴幸としたとする。しかし、武田晴信(信玄)の「晴」の字は、将軍足利義晴の諱の一字を与えられたものであって、それを家臣に与えることは通常、考えられない。ここに出るように三河牛窪(現在の愛知県豊川市牛久保町)の出身とされ、天文一二(一五四三)年に板垣信方の推挙により、信玄に仕えるようになって、次第に認められ、「足軽大将五人衆」の一人に称されるに至った。信玄と上杉謙信が一騎打ちをしたことで知られる永禄四(一五六一)年の川中島合戦に於いて作戦を指揮、失敗したその責任を取って討ち死にしたと伝える。「甲陽軍鑑」が広く読まれたことに加え、近松門左衛門の浄瑠璃及びそれを歌舞伎化した「信州川中島合戦」などで取り上げられることで広く世に知られるようになったものの、その実在については長い間、疑問視されてきた。しかし、弘治三(一五五七)年と推定される六月二十三日附文書中に、信玄が奥信濃の土豪市河藤若に宛てた書状があり、そこに「山本菅助」という名前があることから、近年、実在説が有力になってはきた。しかし、この人物が「甲陽軍鑑」の山本勘助と同一人であるという証拠はなく、実在の人物とするにはなお疑問が多い(以上は「朝日日本歴史人物事典」の笹本正治氏の記載に拠った)。

「左甚五郎」江戸初期の建築・彫刻の知られた名工。出生地は一説に播磨とされるが、紀伊・讃岐説などもあり、一定しない。本姓は伊丹或いは河合。「左」は左ききだったためとも、また、右腕をなくして左手で仕事をしたため、とも伝えられるものの、生涯は未詳で、伝説的要素が強く実在説自体が疑われる人物でもある(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「橫山の白鳥六所大明神」愛知県新城(しんしろ市横川宮ノ前にある白鳥神社か。

「前に擧げた自分の郷里の隣村などの例」前項の「目一つ五郎考(5) 御靈の後裔」を参照。

「源頭一つ」「みなもと/あたまひとつ」と訓じておく。]

 さうすると次に間題になるのは、何故に神に其樣な思召があるかといふことであるが、是は單に古くからさうであつたからと、一應は答へて置くの他はあるまい。自分は以前片目の魚の奇瑞に關して、二つ三つの小發見をしたことがあるが、其一つは此魚の住むのは必ず神泉神池であつて、魚の放養が生牲の別置に基いたらしいこと、第二には神が特に魚の片目を要求したまふらしきことであつた。例へば魚釣の歸路にあやかしに逢ひ、還つて魚籠を開いて見たら悉く眼を拔いてあつたといふ話があつて、遠州の南部などでは深夜天狗が殺生に出ると稱して、神火の平野水邊を來往するを見ることがあるが、其當座には水田に泥鰌の片目なるものを多く見かけると謂つて居た(四)東京の近くでは上高井戸村醫王寺の藥師の池に、眼を患ふる者一尾の川魚を放して祈願を籠めるが、其魚類は何時となく皆片目になつて居る、夏の出水の時などに下流で片目の魚を撈ひ得たときは、是は藥師の魚だといつて必ず右の池に放すといふことである(五)即ち數限りも無い同種の言ひ傳へは、大抵は神が其方を喜ばるゝ故と、説明することが出來るのである。

[やぶちゃん注:「遠州」遠江(とうとうみの)国。現在の静岡県西部地区に当たる。この話、私は酷似したものを以前に全く別な近世随筆で読み、注も附したようにも思うのだが、思い出せず、出て来ぬ。後で追加するかもしれない。

「上高井戸村醫王寺」現在の杉並区上高井戸にある真言宗明星山遍照院医王寺。同寺については、いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」のこちらに詳しいが、それによると『江戸時代以後、この寺が「おめだま薬師」「眼病にきく薬師様」といわれ、寺の境内に毎月十二日、「おめだま薬師大護摩供」が修行されて参詣者でにぎわ』い、『旧境内の薬師の池は湧水であったので渇水することがなく、また眼病平癒のため放した魚が一眼になるという伝説があ』るとする。明治初めに廃仏毀釈のために廃寺となったものの、『薬師堂だけは関東大震災の大正十二年(一九二三)まで、現在地より南側の甲州街道に面したところに残ってい』たとあり、その翌年、現在の場所に再興が叶ったとある。「杉並区の寺院」よれば、『江戸時代の当寺は、本堂は南面し、本尊は「大日如来」で、薬師堂が西面して「薬師如来」が安置されていた。このお薬師様は眼病に大変霊験があらたかだった為、近隣・近郷の人々から信仰を集めた。ところが、明治初年廃仏毀釈令により廃寺となり、本寺「三宝寺」に合併された。本堂は高泉小学校の仮校舎となり、近隣住民の強い要望で「薬師堂」を残し、毎月十二日の縁日には「おめだま」「おめだま薬師」といわれた行事が昭和二〇年終戦の年まで毎月続けられた。大正一二年の震災後「薬師堂」は倒壊したが、無事であった薬師像を奉じた檀徒が再興を企てて三宝寺三三世融憲を招請し、大正一四年に伽藍が再興され、昭和一七年には寺名も復した(大正一四年当時は寺院新設禁止中のため別名を用いた)。そして「おめだま薬師」法会も復活し、現在も毎年一〇月一二日に行われている。また、眼病平癒祈願のために、この池に魚を放生すると魚が片目になるという「薬師の池」も残されている』とある。

「撈ひ」「すくひ」と訓ずる。網ですくう。]

 しかも生牲が魚である場合には説明は寧ろ容易で、斯くして神の食物を常用と區別し、其淸淨を確保したと言へるのだが、其理論は推して他の生物には及ぼし難い。加賀の大杉谷では、那谷(なた)の奥の院と稱する赤瀨の岩屋谷の觀昔堂附近に於て、大小の蛇悉く片目なりといふこと、恰も佐渡金北山の御蛇河内の如くであつた。現在は物語風にやすと稱する片目の女、旅商人に欺かれて、恨を含んで身を投げて死んだなどゝいふが、今でも小松の本蓮寺の報恩講には、必ず人知れず參詣すると稱して、本來は信仰に基いたらしい言ひ傳ヘであつた(六)越後頸械郡靑柳の池の主なども、附近の某大寺の法會の折に人知れず參拜して、後に心付くと一つの席が濡れて居るなどゝ謂つたが、是はもと安塚の械主の杢太といふ武士で、美しい蛇神と緣を結んで池に入つて主になつた。それで此池の魚も片目になつたといふ(七)野州上三川(かみのかは)城址の濠の魚も皆片目だが、是は慶長二年五月の落城のとき、城主今泉氏の愛娘が身を投げて死んだ因緣からといふ(八)其際匕首を以て一眼を刺して飛込んだといふからには、是も亦同系の話である。作州白壁の池にも片目の鰻住み、玆にも曾て片目の馬方が、茶臼を馬に負はせて來て引込まれたといふ話があつた(九)同じ例は尚多からうと思ふが、何れも水の神が魚のみかの片目なる者をも愛し選んだといふ證據であつて、それは勿論食物としてゞは無く、多分は配偶者、少なくとも眷屬の一人に加へる場合の、一つの要件の如きものであつたのである(二〇)

[やぶちゃん注:「大杉谷では、那谷(なた)の奥の院と稱する赤瀨の岩屋谷の觀昔堂」現在の石川県小松市赤瀬町(まち)にある小松市那谷町那谷寺奥の院である、観世音菩薩を祀った赤瀬那殿。

「佐渡金北山の御蛇河内」既出既注。「神蛇一目の由來」参照。

「本蓮寺」現在の石川県小松市細工町にある浄土真宗本蓮寺。この話(この話は柳田國男の「日本の傳説」(昭和五(一九三〇)年アルス刊)ではもう少し丁寧に(子供向けであるから当然)書いていある(ルビは概ね省略した。傍点は下線とした)。

   *

 昔赤瀨の村に住んでいたやす女(な)といふ者は、すがめのみにくい女であつて男に見捨てられ、うらんでこの淵に身を投げて主(ぬし)になつた。それが時折(ときを)り川下の方へ降りて來ると、必ず天氣が荒れ、大水が出るといつて恐れました。やす女(な)の家は、もと小松の町の、本蓮寺(ほんれんじ)といふ寺の門徒であつたので、この寺の報恩講(ほうおんかう)には今でも人に氣付かれずに、やす女(な)が參詣して聽聞(ちやうもん)のむれの中(なか)にまじつてゐる。それだから冬の大雪の中でも、毎年この頃(ごろ)には水が出るのだといひ、また雨風の強い日があると、今日は赤瀨のやすなが來さうな日だともいつたさうであります。(三州奇談等。石川縣能美郡大杉谷村赤瀨)

   *

「越後頸械郡靑柳の池の主なども……」以下の話は既出既注。「一目小僧(十二)」を参照のこと。

「野州上三川(かみのかは)城址」全集版では『上川(かみのかわ)』とするが誤り。これで正しい。講談社の「日本の城がわかる事典」には「上三川城」で「かみのかわじょう」と読みを振る。それによれば、現在の栃木県河内郡上三川町にあった平城で、『同町市街地の中心部に位置し、鎌倉時代から安土桃山時代まで』三百八十四年間、続いた城である。建長元(一二四九)年、『宇都宮頼綱の二男の頼業が横田城を築城したが、その後上三川城を築いて居城とした。頼業の家系はこれ以降、横田氏を名乗ったが』、第十二代の元明の時に、『今泉姓に変えている。上三川城は多功城とともに宇都宮氏の本城である宇都宮城の南を守る重要な拠点となった。この城は上杉謙信や武田信玄、北条、水谷などの軍勢の攻撃をたびたび受けたが、これを撃退したことから武勲の城として知られるようになった。しかし』、慶長二(一五九七)年、『主家の宇都宮家の嗣子問題がこじれて芳賀高武の夜襲を受け、城主の今泉高光は城を逃れて菩提寺の長泉寺で自害し、上三川城は落城して今泉氏も断絶した。現在、城跡は市街地化が進んで、本丸のみを残すだけになっているが、土塁などが残り、上三川城址公園として整備されている』とある。

「匕首」「あいくち」。

「作州白壁」前の「一目小僧(十二)で「岡山縣勝田郡吉野村大字美野の白壁の池」と出るものである。]

 自分は力めて根據の乏しい想像を避けようとして居るが、尚一言を費さゞるを得ないのは、夙く古淨瑠璃の中に影を潛めた權五郎雷論(いかづちろん)である。或は「景政いかづち問答」と題する曲もあつて、現存のものは終始金平式武勇を演じ、雷は單に名刀の名に過ぎぬが之を若君誕生の祝に獻上したといふのを見ると、何か上代の天目一神神話から筋を引いたものがあるのでは無いか、尚本文に就て考究して見たいと思ふ(一一)眇をカンチといふのは鍛冶の義であつて、元此職の者が一眼を閉ぢて、刀の曲直をためす習ひから出たといふことは、古來の説であるが自分には疑はしくたつた。秋田縣の北部では、カヂといふのは跛者のことである(一二)恐らく足の不具たる者の此業に携はつた結果であつて、別に作業の爲にそんな形を眞似たからではあるまい。作金者天目一箇の名から判ずれば、事實片目の者のみが鍛冶であつた故に、眇者を金打(かぬち)と名けたと解するのが自然である。本來鍛冶は火の效用を人類の間に顯はすべき最貴重の工藝であつた。同時に又水の德を仰ぐべき職業でもあつた。日木では火の根源を天つ日と想像し、雷を其運搬者と見たが故に、乃ち別雷系の神話は存するのである(一三)之を語り繼ぎ述べ傳へた忌部の一派が、代々目一つであつたにしても怪むに足らぬ。たゞそれが一轉して猛く怒り易い御靈神となり、又多くの五郎傳説を派生するに至つた事由のみは、上代史の記錄方面からは説き盡すことが六つかしいのである。

[やぶちゃん注:「古淨瑠璃」人形浄瑠璃の義太夫節以前に存在した諸流派。十五世紀に語り始められた「浄瑠璃十二段草子」が語り物の一ジャンルを形成して十六世紀末から十七世紀初めにかけて三味線・人形と結んで人形浄瑠璃芝居が確立した、その初期のものを指す。

「權五郎雷論」「景政いかづち問答」私は不学にして聴いたことも見たことも読んだこともない。注(一一)の私の注のリンク先を参照されたい。

「金平式」「こんぴらしき」と読み、「金平」は金毘羅権現のことを指す。金毘羅権現とは香川県西部の琴平山(象頭山)の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合神(本地仏は不動明王・毘沙門天・十一面観音など諸説あるが、祭神の方は本来は不詳で、大物主(三輪大明神)・素戔嗚尊説などがあったが、現在は大物主とする)。ウィキの「金毘羅権現」によれば、象頭山松尾寺の『縁起によれば、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅(宮比羅、クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の由来との伝承から、これが象頭山金毘羅大権現になったとされる。象頭山金毘羅大権現は、不動明王を本地仏とした』。『クンビーラ(マカラ)は元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。クンビーラ(マカラ)はガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもあることから、金毘羅権現は海上交通の守り神として信仰されてきた。特に舟乗りから信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上で金毘羅宮、金毘羅権現社が全国各地に建てられ、金毘羅権現は祀られていた』。長寛元(一一六三)年には『崇徳天皇が象頭山松尾寺金光院に参籠した』ことから、『御霊信仰の影響で』永万元(一一六五)年からは崇徳天皇も『象頭山松尾寺金光院に合祀された』とある。『修験道が盛んになると金毘羅権現の眷属は天狗とされた。『和漢三才図会』には「当山ノ天狗ヲ金比羅坊ト名ヅク」と記された。また、戦国時代末に金毘羅信仰を中興した象頭山松尾寺金光院』第四代別当で『修験者でもあった金剛坊宥盛は、死の直前に神体を守り抜くと誓って天狗になったとの伝説も生まれた』とあり、この最後の辺りが、柳田の言う荒事の謂いと関係があろうか。

「恐らく足の不具たる者の此業に携はつた結果であつて、別に作業の爲にそんな形を眞似たからではあるまい」ここ以降の柳田の推理には私は賛同出来ない。例えば、鍛冶・冶金師は鞴を踏み続ける必要があり、足の不自由な者が選ばれてそれをしたとは私には考えられないからである(彫金師ならばその可能性はある。例えば、嘗ての鼈甲細工師の中には有意に多く、下肢に障碍を持っておられた方が含まれていた)。

「事實片目の者のみが鍛冶であつた故に、眇者を金打(かぬち)と名けたと解するのが自然である」何故、柳田は職業病が素のその職の呼称と成ることはないと考えるのであろう? 冶金には高熱が必要であり、その温度は視認による焰の色によって知るしかなかったから、彼らは長い時間、炉に空けた小さな穴から灼熱の火を見つめ続けねばならなかった。彼らの片目に障碍が発生するのは確かな職業病であったと考えて、私は何ら、不自然とは思わない。

「火の根源を天つ日と想像し、雷を其運搬者と見た」非常に納得出来る。ホモ・サピエンスが火を手に入れるというシークエンスを考える時、火山の噴火口から火を採るよりも、落雷による自然発火の火の採取の方がずっと日常的であり、納得も出来るからである。

「別雷系の神話」「別雷」は「わけいかづち」と訓ずる。賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)などの雷神系神話である。賀茂別雷命は賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神。記紀神話には登場しない。ウィキの「賀茂別雷命」によれば、「山城国風土記」逸文には、『賀茂建角身命の娘の玉依姫が石川の瀬見の小川(鴨川)で遊んでいたところ、川上から丹塗矢が流れてきた』ので、『それを持ち帰って寝床の近くに置いたところ玉依日売は懐妊し、男の子が生まれた。これが賀茂別雷命である。賀茂別雷命が成人し、その祝宴の席で賀茂建角身命が「お前のお父さんにもこの酒をあげなさい」と言ったところ、賀茂別雷命は屋根を突き抜け天に昇っていったので、この子の父が神であることがわかったという。丹塗矢の正体は乙訓神社の火雷神であったという』。但し、『神名の「ワケ」は「分ける」の意であり、「雷を別けるほどの力を持つ神」という意味であり、「雷神」ではない』ともある。

「たゞそれが一轉して猛く怒り易い御靈神となり、又多くの五郎傳説を派生するに至つた事由のみは、上代史の記錄方面からは説き盡すことが六つかしいのである」こんなことは当然である。彼らは大和朝廷によって統御された天孫降臨系の神話体系とは全く異なる、土着の自然崇拝の中にある、本邦の真の神の「系」に属する神々の一人だからである。当時の官学の権威者であった柳田精一杯のしょぼい誠意の一言である。]

(一) 薩隅日地理纂考卷四。

[やぶちゃん注:明治四(一八七一)年に刊行された鹿児島県私立教育会編「薩隅日地理纂考」(さつぐうにちちりさんこう)。本格的な最初の鹿児島県地誌である。]

(二) 山中翁共古日錄卷七。此古城の堀の泥鰌も皆片目といふ。

[やぶちゃん注:「共古日錄」既出既注であるが、改めて詳注する。山中共古(嘉永三(一八五〇)年~昭和三(一九二八)年 本名・笑(えむ))の日記。幕臣の子として生まれる。御家人として江戸城に出仕し、十五歳で皇女和宮の広敷添番に任ぜられた。維新後は徳川家に従って静岡に移り、静岡藩英学校教授となるが、明治七(一九七四)年に宣教師マクドナルドの洗礼を受けてメソジスト派に入信、同十一年には日本メソジスト教職試補となって伝道活動を始めて静岡に講義所(後に静岡教会)を設立、帰国中のマクドナルドの代理を務めた。明治一四(一九八一)年には東洋英和学校神学科を卒業、以後、浜松・東京(下谷)・山梨・静岡の各教会の牧師を歴任したが、教派内の軋轢が遠因で牧師を辞した。その後、大正八(一九一九)年から青山学院の図書館に勤務、館長に就任した。その傍ら、独自に考古学・民俗学の研究を進め、各地の習俗や民俗資料・古器古物などを収集、民俗学者の柳田國男とも書簡を交わしてその学問に大きな影響を与えるなど、日本の考古学・民俗学の草分け的存在として知られる。江戸時代の文学や風俗にも精通した。日記「共古日録」は正続六十六冊に及ぶ彼の蒐集資料集ともいうべきものである。(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。]

(三) 早川孝太郎君「三州橫山話」。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎」(明治二二(一八八九)年~昭和三一(一九五六)年)は民俗学者で画家。ウィキの「早川孝太郎によれば、愛知県出身で、『画家を志して松岡映丘に師事、映丘の兄柳田國男を知り、民俗学者となる。愛知県奥三河の花祭と呼ばれる神楽を調査し』、昭和一九三〇五年には「花祭」を『刊行。農山村民俗の実地調査を行った』とある。「三州橫山話」は大正九(一九二一)年郷土研究社刊。]

(四) 郷土研究四卷参〇九頁、渡邊三平君。

[やぶちゃん注:「渡邊三平」『郷土研究』の投稿記事に複数出るが事蹟は不詳。]

(五) 豐多摩郡誌。俗名所坐知抄卷下に、陸奧の三日月石。眼の祈願の禮物に鮒泥鰌を此邊の溝川に放てば、一夜にして其魚片目を塞ぐとある。

[やぶちゃん注:「豐多摩郡誌」東京府豊多摩郡編「東京府豊多摩郡誌」(大正五(一九一六)年刊)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で当該箇所を視認出来る。

「俗名所坐知抄」保宋斎槃雅(ほそうさいはんが)著「狂歌俗名所坐知抄」のこと。寛政七(一七九五)刊。]

(六) 石川縣能美郡誌九一三頁。

[やぶちゃん注:「石川縣能美郡誌」石川県能美(のみ)郡編。大正一二(一九二三)年刊。]

(七) 越後國式内神社案内。

[やぶちゃん注:藤原武重著天明二(一七八二)年刊。]

(八)「日本及日本人」の郷土光華號。

[やぶちゃん注:「日本及日本人」明治四〇(一九〇七)年から昭和二〇(一九四五)年二月まで政教社から発行された言論雑誌。大正一二(一九二三)年秋まで国粋主義者三宅雪嶺が主宰した。「郷土光華號」は、その大正四(一九一五)年刊行の臨時増刊号の。]

(九) 東作誌。

[やぶちゃん注:津山藩軍学師正木輝雄(まさきてるお ?~文政六(一八二四)年)が個人的に調査・著述・編集を行った、先行する森家津山藩の公的地誌「作陽誌」が扱わなかった美作国の東部六郡(東南条郡・東北条郡・勝南(しょうなん)郡・勝北(しょうぼく)郡(この二郡は後の明治三三(一九〇〇)年の郡制の施行で勝田郡となった)・英田(あいだ)郡・吉野郡)を対象とした地誌。ウィキの「東作誌」によれば、原型は文化一二(一八一五)年に出来たが、文政六(一八二三)年の死の直前まで編著を行っていたと推定される。正木の死後、『津山藩に献上されたが、複写・活用されることなく死蔵されてしまう』。嘉永四(一八五一)年、『江戸藩邸で儒官昌谷精渓(さかや せいけい)が死蔵されていた『東作誌』を発見。欠本散佚があったため修復して編集し直し、これが現在伝わる『東作誌』の元となっている』。『当時の津山藩は正木の活動に御内用として補助金を支給していたが、あくまで『東作誌』は正木の個人事業であり、費用の多くは自弁で公的許可もなかった。その為、正木は廻村時の他領調査を「潜行」と称している』とある。]

(一〇) 及川氏の筑紫野民譚集一四一頁には、人蛇婚姻の一話に伴なうて、蛇神が眼を拔いて人間の幼兒に贈つたといふ珍しい一例がある、詳しく考へて見たら所謂三輪式説話の新生面を開くであらう。

[やぶちゃん注:「筑紫野民譚集」及川儀右衛門著。大正一三(一九二四)年郷土研究社刊。福岡県中西部の現在の筑紫野市(ちくしのし)一帯の民話集と思われる。]

(一一) 繪入淨瑠璃史中卷五〇頁。今あるものは爲義産宮詣と稱する。自分はまだ親しく見たのでは無い。

[やぶちゃん注:「繪入淨瑠璃史」水谷弓彦著大正五年(一九一六)刊。

「爲義産宮詣」「ためよしうぶすなまうで」と訓ずる。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で前記の当該箇所を読むことが出来る。]

(一二) 東北方言集に依る。

[やぶちゃん注:「東北方言集」大正九(一九二〇)年仙台税務監督局編のそれか。]

(一三) 此間題は海南小記「炭燒小五郎が事」に幽かながら述べて置いた。八幡神はもと水火婚姻の神話の中心であつたことは、他にも推測の根據がある。

[やぶちゃん注:『海南小記「炭燒小五郎が事」』「海南小記」は大正一四(一九二五)年四月大岡山書店刊。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 修身

 

       修身

 

 道德は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。

         *

 道德の與へたる恩惠は時間と勞力との節約である。道德の與へる損害は完全なる良心の麻痺である。

         *

 妄に道德に反するものは經濟の念に乏しいものである。妄に道德に屈するものは臆病ものか怠けものである。

         *

 我我を支配する道德は資本主義に毒された封建時代の道德である。我我は殆ど損害の外に、何の恩惠にも浴してゐない。

         *

 強者は道德を蹂躙するであらう。弱者は又道德に愛撫されるであらう。道德の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。

         *

 道德は常に古着である。

         *

 良心は我我の口髭のやうに年齡と共に生ずるものではない。我我は良心を得る爲にも若干の訓練を要するのである。

         *

 一國民の九割強は一生良心を持たぬものである。

         *

 我我の悲劇は年少の爲、或は訓練の足りない爲、まだ良心を捉へ得ぬ前に、破廉恥漢の非難を受けることである。

 我我の喜劇は年少の爲、或は訓練の足りない爲、破廉恥漢の非難を受けた後に、やつと良心を捉へることである。

         *

 良心とは嚴肅なる趣味である。

         *

 良心は道德を造るかも知れぬ。しかし道德は未だ甞て、良心の良の字も造つたことはない。

         *

 良心もあらゆる趣味のやうに、病的なる愛好者を持つてゐる。さう云ふ愛好者は十中八九、聰明なる貴族か富豪かである。

 

[やぶちゃん注:初出は大正一二(一九二三)年三月号『文藝春秋』巻頭。標題は「修身」であるが、龍之介は本篇本文の中でこの語を一度も用いていない(どころか、私の『「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版)』全篇、他にこの「修身」という語は用いられていない。「修身」(しうしん(しゅうしん))という語は、四書五経の一つである「大學」の冒頭「經(けい)一章」は以下で始まる(最後の部分は伝本によって異なるが、私の理解出来るそれを採った。下線やぶちゃん)。

原文

大學之道、在明明德、在親民、在止於至善。知止而后有定、定而后能靜、靜而后能安、安而后能慮、慮而后能得。物有本末、事有終始、知所先後、則近道矣。

古之欲明明德於天下者、先治其國。欲治其國者、先齊其家。欲齊其家者、先修其身。欲修其身者、先正其心。欲正其心者、先誠其意。欲誠其意者、先致其知。致知在格物。物格而後知至、知至而後意誠。意誠而後心正。心正而後身修、身修而後家齊、家齊而後國治、國治而後天下平。自天子以至於庶人、壹是皆以修身爲本。其本亂而末治者否矣。其所厚者薄、而其所薄者厚、未之有也。

やぶちゃんの書き下し文

大學の道は、明德を明らむに在り、民を親(あら)たにするに在り、至善に止(とど)まるに在り。止まるを知りて后(のち)、定まり、定まりて后、能く靜たり、静にして后、能く安んじ、安んじて后、能く慮(おもんぱか)り、慮りて后、能く得(う)。物に本末有り、事(こと)に終始有り。先後(せんこう)する所を知れば、則ち、道に近し。

古への明德を天下に明らめんと欲する者は、先づ、其の國を治む。其の國を治めんと欲する者は、先づ、其の家を齊(ととの)ふ。其の家を齊へんと欲する者は、先づ、其の身を修む。其の身を修めんと欲する者は、先づ、其の心を正しうす。其の心を正しうせんと欲する者は、先づ、其の意を誠(まこと)にす。其の意を誠にせんと欲する者は、先づ、其の知を致(いた)す。知を致すは、物に格(いた)るに在り。物、格(いた)りて後、知、至る。知、至りて後、意誠(いせい)たり。

意誠にして後、心、正し。心、正しうして后、身、修まり、身、修りて后、家、斉ひ、家、斉ひて后、國、治まり、国、治まりて后、天下、平らかたり。天子より以つて庶人に至るまで、壱是(いうし)に皆、身を修むるを以つて本(ほん)と爲す。其の本、亂れて末(すゑ)治まる者は否(あら)ず。其の厚くすべき所の者の薄くし、その薄くすべき所の者の厚きは、未だ之れ、有らざるなり。

ここで言う「明德」とは天賦の間本来の徳性を指す。「致す」とは十全に行き届くように心がけることであろう(実際にそうなるかどうかは次の段階である)。「意誠」は、誠意に満ちた状態、即ち、「まこと」の思いが心に満ちることであろう。「壱是」は一切に同じい。

 即ち、本来の「修身」は個人の中にもともとあるところの、即ち、ア・プリオリな真に人間的な、個人の本性が正しくゾルレン(当為)と認識しているはずところのものをひたすら求め、知によってそれを十全に支えることで、完成し、それが結果として家を国家を世界を宇宙を安んずることになるという様態を表わしていると私は認識する。本来の「修身」とは則ち、「自分の行いを正しくするようにつとめること」が、共時的に結果的に国家を正しく治めることと等価になるというのである。「大學」の述べる本質は禅的な超個人主義をメビウスの帯のように現実の政治思想と結んでいるところに面白さがあると私は思う。そこでは「修身」の起点は既にして消失しているからである。さすれば、本篇「の良心とは嚴肅なる趣味である。」というのは個人主義の原理から第十条「大學」原義に回帰するものであると言えよう。

 しかしながら、我々はこのような深遠で逆説的な哲学として龍之介の提示した「修身」という単語を捉えはしない。即ち、「修身」という括弧附きのそれは、まさに旧制小・中学校の教科目の一つとして敗戦以前に行われていた道徳教育を中心とした、大日本帝国という国家の行った国家のための道徳観念の強制注入授業を多くの人間が認識する(若い読者の場合は、「修身」を辞書で引き、その意味の中に馴染みのある「道徳」という授業名を見、それと同義と認識する点に於いて、大きな認識スタートの差異はないと私は考える)ものを確信犯で限定的に狙撃するものである。それがターゲットであることは、第四条「我我を支配する道德は資本主義に毒された封建時代の道德である。我我は殆ど損害の外に、何の恩惠にも浴してゐない。」や、第十一条「良心は道德を造るかも知れぬ。しかし道德は未だ甞て、良心の良の字も造つたことはない。によってはっきりと示されているのである。」によってはっきりと指弾されているのである。

 芥川龍之介は明らかに「修身」の授業にシンボライズされるように、国家が絶対強制してくる「道德」として「修身」、当時の教育の「修身」が強迫してくるところの「大日本帝国の日本人の良心」としての第二条にある如く「『麻痺』した『良心』に基づく良心なき修身」=「忌まわしき道德」を銀のピンセットで解剖しているのである。本篇をフラットな普遍的「修身」=「道德」の哲学的考察などと読む者はまさに龍之介の術数に嵌ったも同然、と言わねばならぬのである。さればこそ、この十二条の塊りは是非とも、脳内で綜合的に繫ぎ合わされて読まれねばならないのである(後述)。

 なお、近代史的に現代語の「修身」という語の濫觴はウィキの「修身」によれば、『明治期に、モラルサイヤンス(moral science)を修身論と翻訳したのは福澤諭吉・小幡篤次郎などの慶應義塾関係者である』。とあって、「福沢全集」巻一の「緒言」から以下のように引用されてある(一部の漢字を正字化し、一部の読みを省略し、句読点を附加した)。

   *

明治元年の事と覺ゆ。或日、小幡篤次郎氏が散步の途中、書物屋の店頭(みせさき)に一册の古本(ふるほん)を得たり。とて塾に持歸(もちかへ)りて之を見れば、米國出版ウェーランド編纂のモラルサイヤンスと題したる原書にして、表題は道徳論に相違なし。同志打寄(うちよ)り、先づ其目錄に從て、書中の此處彼處(こゝかしこ)を二三枚づゝ熟讀するに、如何(いか)にも德義一偏(いつぺん)を論じたるものにして、甚だ面白し。斯る出版書が米國にあると云へば、一日も捨置(すてお)き難し、早速、購求(こうきう)せんとて横濱の洋書店(やうしよてん)丸屋に託して、同本六十部ばかりを取寄(とりよ)せ、モラルサイヤンスの譯字(やくじ)に就ても、樣々討議し、遂に之を、修身論(しうしんろん)と譯(やく)して、直に塾の教塲(けうぢやう)に用ひたり。

   *

 短章十二篇を一つの標題の中に詰め込んだこの形式のアフォリズムは「侏儒の言葉」の中では例を見ない特異点であることに気づかねばならぬ(後に「侏儒の言葉」を意図的に模した単発のものでは同様の形式を持つものはあるにはある)。龍之介にはこの時まだ、こうしたミクロとマクロを自在に行き交って相互変換の言説(ディスクール)に遊ぶ余裕が未だあったことを示していると私は考えるからである。後期以降の「侏儒の言葉」なら、これらは短章連続の「私」のように「又」で神経症的に繋げられつつ、しかも途中(十二篇全部を「又」にするのは、とても龍之介のダンディズムから考えられぬのは言うまでもない)適宜、別な標題に変えられてしまい、さらに「又」とされ、しかもいくつかはすかれて除去されてしまったに相違なく、そうだったすると、龍之介のこの強いアイロニーのメッセージ性は半減してしまっていたとも言えるのである。

 

・「左側通行」諸本を見ると、ここに何の注も示していないものを多く見かける(以前に曳いた新潮文庫の神田氏は正しくちゃんと注している)。ここは人の「修身」「道德」について述べているのであるから、これが――自動車等の現行の車道に於ける「左側通行」であろうはずがない――のである。この当時まで日本では相当古くから(少なくとも武士が台頭する平安末から鎌倉時代までは確実に遡れると私は考えている。鎌倉時代のそれを明記する記載例は、私の「北條九代記 卷之八 伊具入道射殺さる 付 諏訪刑部入道斬罪」を参照されたい)――人は左側通行が定められていた――のである(これは武士が左腰に刀を差していたことから、自然、相互に左側を通行する習慣が行われ、それが武士以下の階層にも遠慮として普及していたと考えられる。右側を行った場合、相手からすれ違いざま、不意に攻撃をかけられた場合、刀を差した左側から攻撃を受けることになり初動体勢が劣勢となり、そうでなくても狭い道では互いの刀の鞘が触れ合って無駄な諍いともなるからである)現在のように安全性を配慮した人と車の対面交通制度(車が左側通行で人は右側通行)となったのは昭和二五(一九五〇)年頃からで、それまでは人も車も左側通行であったのである。私でさえそうし記憶を持たない(私は昭和三二(一九五七)年生まれである)である。何の注釈もここに附けない編者というのは、これを車の「左側通行」ととんでもない勘違いをしているか(しかし学者先生にはそんな馬鹿はいないだろう)、そう誤読しても大した問題はないと考えているかのであろう。しかしだとすると、そうした一般読者を馬鹿にした編者は、編者、いやさ、学者の風上にも置けない救いようのない凡愚であり、研究者という看板を下ろすべきと斬り捨てておくものである。

 

・「妄に」「みだりに」。「濫りに」とも書く。形容動詞「みだりだ」の連用形が副詞化したもの。無闇矢鱈(むやみやたら)。これと言った理由もなく矢鱈に。筋が立っていない。出鱈目なさま。

・「蹂躙」「じうりん(じゅうりん)」。踏(ふ)み躙(にじ)ること。暴力的に侵犯すること。「蹂」は、踏む・足で踏みつけるの意で、「躙」は。押しつけて擦り動かすの意。

・「九割強」「強」とするところに数値推定のリアリズムを出そうとしていることに着目されたい。これはまさに芥川龍之介の肌身に感じていたものであったからこそ「強」なのである。これはまさに彼の家庭や身内や私的関係者にも感じていた実感だということである。龍之介を考える時、「強」の一字をさえ、我々は疎かにしてはならぬのである、と私は思う。

・「破廉恥漢の非難を受ける」自分が「破廉恥漢」という「非難を受ける」の謂いである。

・「良心もあらゆる趣味のやうに、病的なる愛好者を持つてゐる。さう云ふ愛好者は十中八九、聰明なる貴族か富豪かである」誤読してはいけない。「聰明なる貴族か富豪」は悍ましい「良心」の「病的なる愛好者」なのであって、「良心」の真の理解者である訳ではない。念のため。]

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 小人國(6) 五章 大てがら (その二)

六章

 

 さて、〔私は〕これからこれでこれから、→ここで、〕リリハット國の風俗を〔、〕少し〔みんさんへお話し致しませう。みなさんに傳へて見■■■→説明しておきたいと思ひます。〕話して 述べておきます。

[やぶちゃん注:現行版は前の段落との間に一行空きがあるだけで、「六章」の章表示はない。また「述べておきます。」はママ。現行版は『さて、私はこゝで、リリパット国の風俗を少し説明しておきたいと思います。』である。]

 この國の住民の身長は、平均して、まづ六吋以下ですが、その他の動物の大きさも、これと〔、〕正比例して出來ています。ま〔づ〕一番大きい牛や馬でも〔、〕せいぜい四吋か五吋ぐらゐ、羊なら〔、〕一吋半ぐらい、鵞〔鳥〕なんか、殆ど雀ぐらゐの大きさです。だんだんこんな風に小さくなつてゆきますが、一番小さな動物など〔、〕私の眼では殆ど見えません。

[やぶちゃん注:「六吋以下」凡そ一五センチメートル以下。

「四吋か五吋ぐらゐ」一〇・二~一二・七センチメートル程。

「一吋半」三・八センチメートル。]

 ところが、リリバット人の眼には〔、〕〔非常に〕小さなものでも、ちやんと見えるのです。彼等〔の眼〕は、細かいもの る〔なら〔、〕〕精確よく見ることができます〔えますが、〕あまり遠いところは見えません。私が感心したのは、〔リリバットの〕料理人は〔普通の蠅ほどもない大きさ〕雲雀の毛をむしつてゐ〔雲雀は普通の蠅ほどもない大きさですが、〕リリバットの料理人は、ちやんと、その毛をむしることができます。それから〔私が〕感心したのは、若い娘が〔、〕見えない針に〔、〕見えない絲を通してゐるのです。この國で一番高い木は七呎ぐらいで、その木は國立公園の中にありますが〔、〕私が握りこぶしを固めても〔、〕屆く〔すぐ、〕てつぺんにとどくのです〔きます〕。

[やぶちゃん注:「七呎」二・一三メートル。私が実際にやってみた高さから試算すると、ガリヴァーの身長は一メートル八十センチ強というところである。]

 〔ところで、〕この國では〔、〕學問も古くから〔非常に〕發達してゐますが、ただ〔文〕字の書き方が〔、〕実に風變りなのです〔でした。→なのです〕。ヨーロッパ人のやうに〔、〕左から右へ書くのでもなく、アラビア人のやうに〔、〕右から左へ書くのでもなく、シナ人のやうに〔、〕上から下へ書くのでもなく、かといつて〔、〕下から上へ書くのでもないのです〔ありません〕。リリバット人は〔、〕紙の隅から隅へ〔、〕斜めに字を書いてゆくのです。

 リリバットでは、人が死ぬと〔、〕頭〔の〕方を下にして、逆さまに土に〔う〕めます。死人は〔、〕一萬一千月たつといきかへる、その時、世界はひつくりかえつてゐるから、〔逆さま〕にしておけば、ちやんと立てる、と彼等は考へてゐるのです。もつとも、そんな馬鹿なことはないと、學者〔た〕ちは 〔笑〕つています。

[やぶちゃん注:字の空隙はママ。「學者」の前には何かを挿入しようとした線の痕跡があるが、字は書かれていない。

「一萬一千月」試みにグレゴリオ暦一年十二ヶ月に換算すると、九百十六年半になる。]

 この國では、盜みよりも〔、〕詐僞の方がいけな〔わる〕いことになつてゐます。〔ゐて、〕詐僞をすれば死刑にされるのです。リリバット人の者によれば、なぜかといふに、→盗みは、〕こちらが馬鹿でなく用心さへしてゐれば、〔まづ〕物を盗まれるといふことはありません。ところが、こちらが正直〔のために〕〔不正直なものに〕だまされるといことは〔これはどうも〕防ぎやうがない、だから詐僞が一番いけない罪とされてゐます。〔のだとリリバットの人〔たち〕は考〕へています。それから、忘恩も死刑にされます。〔人が〕恩に仇をもつてむくゐるといふことは〔やうな〕ことをする人は、生きる資格がないとされてゐます。

[やぶちゃん注:「詐僞」はママ。現行版は、『この国では、盗みよりも詐欺の方が悪いことになっています。詐欺をすれば死刑です。盗みは、こちらが馬鹿でなく用心さえしていれば、まず物を盗まれるということはありません。ところが、こちらが正直のために、不正直なものに、騙されるのはこれはどうも防ぎようがない、だから、詐欺が一番いけないのだ、リリパットの人たちは考えています。それから、忘恩も死刑にされます。恩に仇をもってむくいるというようなことをする人は、生きる資格がないとされています。』で、「詐欺」だけでなく、各部の表記表現に微妙な違いがある。]

 〔人を〕この國でで人をの官 つくには、〔官職にえらぶ場合、〕〔その人の→この國では〕才能より德〔義〕の方を大切にします。重く見ます。政治といふものは〔、〕誰にも必要なのだから、普通の才能があればいいとされています。しかし、〔けれども、〕德義のない人は、いくら才能があつても、危險だから、〔そんな人に〕官職は〔政治〕つか〔まか〕せ〔られ〕ないといふのです。

[やぶちゃん注:どこか国の、憲法をあってなきが如くに振る舞う総理大臣や血税を湯水のように使って恥じない都知事はリリパット国でも政治家にはなれないということである。]

 私はこのリリバット國に九ヶ月と十三日間滯在してゐたのですが、こゝで、一つ私がその間どんな風にして〔どんなぐあいに〕暮したか、それを〔これから〕お話ししてみませう。

[やぶちゃん注:「どんな風にして〔どんなぐあいに〕」の併存はママ。現行版は『ひとつ私がその間どんなふうにして暮したか、』である。]

 私は生れつき手先は器用でしたが、どうしてもテーブルが一つ欲しかつたので、帝室庭園の一番大きな木を何本か切つて、手ごろなテーブルと椅子をこしらへました。

 それから、二百人の女裁縫師が〔、〕私のために、シヤツとシイツとテーブル掛けを作つてくれました。そ〔れ〕には出來るだけ丈夫な布を使つてくれたのですが、それでも、一番厚いのが紗(さ)よりまだ薄いのです。だから、何枚も重ねて縫ひ合さねばなりませんでした。

[やぶちゃん注:「紗」のルビの「さ」はママ。]

 女裁縫師たちは〔、〕私を寢ころばしておいて、寸法をはかりました。一人が私の頭のところに立ち、もう一人は〔、〕私のふくら脛〔足のところ〕に立ち、そして丈夫な綱を兩方から〔、〕二人が持つてピンと張ります。すると、さらにもう一人の裁縫師が〔、〕一吋ざしの物さしで、この綱の長さを〔かな〕つてゆくのです。私は自分の古シヤツを地面に拡げて雛形〔見せ〕てやつたので、仕立〔シヤツ〕はピツタリ私の身躰に合ふのができ上りました。

[やぶちゃん注:現行版では「頭」ではなく『首』となっている。次の段も同じ。]

 〔私の〕服をこしらへるにはまた、三百人の洋服屋が、かかり〔つき〕きりでやつてくれました。今度もその寸法のとりかたが、また振(ふる)つてゐました。私が膝(ひざ)まづいてゐると、地面から頭のところへ梯子をかけ、一人がこの梯子にのぼつて、私の襟首から地面まで、錘のついた綱をおろすのです、それが丁度、上衣の丈になるのでした。腕と腰の寸法は〔、〕私が自分で計りました。いよいよ、〔それが〕出來上つてみると、それは、寄片〔よせぎれ〕細工のやうに妙な服でした。

[やぶちゃん注:「かかり〔つき〕きりで」の併存はママ。現行版は『つききりで』。「寄片〔よせぎれ〕細工」は現行では『寄切細工』である。これは所謂、パッチ・ワークのことであろう。]

 〔私の〕食事の世話をする〔は、私の〕ために、三百人の料理人が〔ついていました。彼等は〕それぞれ、私の近所に小さな家を建ててもらつて、家族もろとも〔、〕そこ〔で〕暮してゐました。〔そして、〕一人が二皿づつ、こしらへてくれることになつてゐました。私はまづ〔、〕二十人の給仕人をつまみ上げて、食卓〔テーブル〕の上にのせてやります。すると下には百人の給仕が控へてゐて、肉の皿や葡萄酒や樽詰などを、それぞれ肩にかついで待つてゐます。私がほしいといふ品を、テーブルの上にゐる給仕人がテイブルから綱をおろして、上手く〔うまく〕引き上げてくれるのです。肉の皿は一皿が一口になり、酒一樽が〔私にはまづ〕一息にのめます。〔ここ〕の羊の肉はあまり上等でないが、牛肉はなかなかおいしいのでくあります〔す〕。→かつたので、〕三口ぐらゐの大きさの肉は滅多にありません。

[やぶちゃん注:現行版では「こしらへてくれることになつてゐました。」と「私はまづ」の間で改行されてある。なお、最後の部分の読点繋がりはおかしい。現行版では『こゝの羊の肉はあまり上等でないが、牛肉はなかなかおいしかったのです。三口ぐらいの大きさの肉はめったにありません。』となっている。]

 召使たちは〔、〕私が骨もろともポリポリ食べてしまふのを見て、ひどく驚いてゐました。それから、鵞鳥や七面鳥も〔、〕大がい一口で食べられますが、これはイギリスのよりずつとおいしいのでした。〔いい味です。〕小鳥なんかは、一度に二十羽や三十羽は、ナイフの先ですくいあげて食べました〔るのでした〕。

 ある日、皇帝は私の食事振りをきかれて、それでは〔では〕自分〔たち〕も〔皇后、皇子、皇女たちと、〕一緒に、私と會食がしてみたいと望まれました。そこで彼等が來ると、私はみんな〔彼→みんな〕テイブルの上の椅子に乘せて、〔丁度〕私とむき合ひになるやうに坐らせました。そのまはりには〔、〕見張りの兵もついてゐました。

[やぶちゃん注:現行版では『ある日、皇帝は私の食事振りを聞かれて、では自分も皇后、皇子、皇女たちと一しょに、私と会食がしてみたいと望まれました。そこで彼等が来ると、私はみんなテーブルの上の椅子に乗せて、ちょうど私と向き合うように坐らせました。そのまわりには、見張りの兵もついていました。』である。]

【第一次稿】

大藏大臣のフリムナプも〔、〕この〔食事の〕席に一緒に來てゐましたが、どういふものか、彼は時々〔、〕私の方を見ては、苦い顏をします。しかし私はそんなことは氣にしないで、ひとつみんなを驚かしてやらうと〔れと〕思つて、思ひきり澤山食べてやりました。これは後で氣づいたのですが、大藏大臣はかねてから私に反感を持つてゐました〔たのです〕。で、私のやうな大食を養つてゐては入費が大變だからできるだけ早くいい折を見て追放なさつた方が得でございませう」と、こんな風なことを陛下に言つたらしいのです。

【第二次稿】

大藏大臣のフリムナプも、この席に一緒に來てゐましたが、どういふものか、彼は時々、私の方を見ては、苦い顏をします。しかし私はそんなことは氣にしないで、ひとつみんなを驚かしてやれと思つて、思ひきり澤山食べてやりました。これは後で氣づいたのですが、大藏大臣はかねてから私に反感を持つてゐたのです。それで〔彼は〕、この会食の後で陛下訴へたらしいのです。「あんなものを國家が〔陛下が〕養つてをられては、お金がかかつて大變です、できるだけ早くいい折を見て追放なさつた方が、國家の利益でございませう。」と、こんなことを言つたものとみえます。

【決定稿】

大藏大臣のフリムナプも、この席に一緒に來てゐましたが、どういふものか、彼は時々、私の方を見ては、苦い顏をします。しかし私はそんなことは氣にしないで、ひとつみんなを驚かしてやれと思つて、思ひきり澤山食べてやりました。これは後で氣づいたのですが、大藏大臣はかねてから私に反感を持つてゐたのです。彼は、この会食の後で陛下に訴へたらしいのです。「あんなものを陛下が養つてをられては、お金がかかつて大變です、できるだけ早くいい折を見て追放なさつた方が、國家の利益でございませう。」と、こんなことを言つたものとみえます。

[やぶちゃん注:以上の段落は例外的に推敲過程を全体で三回に分けて再現してみた。現行のそれを以下に示す。

   *

【現行版】

 大蔵大臣のフリムナップもこの席に一しょに来ていましたが、どういうものか、彼はときどき、私の方を見ては、苦い顔をします。しかし私はそんなことは気にしないで、ひとつみんなを驚かしてやれと思って、思いきりたくさん食べてやりました。これはあとで気づいたのですが、大蔵大臣はかねてから私に反感を持っていたので、この会食のあとで陛下に言ったらしいのです。

「あんなものを陛下が養っておられては、お金がかゝって大へんです。できるだけ早くいゝ折を見て追放なさった方が、国家の利益でございましょう。」

 と、こんなことを言ったものとみえます。

   *

下線は私が引いたもので、自筆原稿決定稿との相違箇所を示す(それ以外にフリナップの台詞が改行表示されている点も相違点である)。]

2016/05/17

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 鼻

       鼻

 

 クレオパトラの鼻が曲つてゐたとすれば、世界の歷史はその爲に一變してゐたかも知れないとは名高いパスカルの警句である。しかし戀人と云ふものは滅多に實相を見るものではない。いや、我我の自己欺瞞は一たび戀愛に陷つたが最後、最も完全に行はれるのである。

 アントニイもさう云ふ例に洩れず、クレオパトラの鼻が曲つてゐたとすれば、努めてそれを見まいとしたであらう。又見ずにはゐられない場合もその短所を補ふべき何か他の長所を探したであらう。何か他の長所と云へば、天下に我我の戀人位、無數の長所を具へた女性は一人もゐないのに相違ない。アントニイもきつと我我同樣、クレオパトラの眼とか唇とかに、あり餘る償ひを見出したであらう。その上又例の「彼女の心」! 實際我我の愛する女性は古往今來飽き飽きする程、素ばらしい心の持ち主である。のみならず彼女の服裝とか、或は彼女の財産とか、或は又彼女の社會的地位とか、――それらも長所にならないことはない。更に甚しい場合を擧げれば、以前或名士に愛されたと云ふ事實乃至風評さへ、長所の一つに數へられるのである。しかもあのクレオパトラは豪奢と神祕とに充ち滿ちたエヂプトの最後の女王ではないか? 香の煙の立ち昇る中に、冠の珠玉でも光らせながら、蓮の花か何か弄んでゐれば、多少の鼻の曲りなどは何人の眼にも觸れなかつたであらう。況やアントニイの眼をやである。

 かう云ふ我我の自己欺瞞はひとり戀愛に限つたことではない。我々は多少の相違さへ除けば、大抵我我の欲するままに、いろいろ實相を塗り變へてゐる。たとへば齒科醫の看板にしても、それが我我の眼にはひるのは看板の存在そのものよりも、看板のあることを欲する心、――牽いては我々の齒痛ではないか? 勿論我我の齒痛などは世界の歷史には沒交渉であらう。しかしかう云ふ自己欺瞞は民心を知りたがる政治家にも、敵狀を知りたがる軍人にも、或は又財況を知りたがる實業家にも同じやうにきつと起るのである。わたしはこれを修正すべき理智の存在を否みはしない。同時に又百般の人事を統べる「偶然」の存在も認めるものである。が、あらゆる熱情は理性の存在を忘れ易い。「偶然」は云はば神意である。すると我我の自己欺瞞は世界の歷史を左右すべき、最も永久な力かも知れない。

 つまり二千餘年の歷史は眇たる一クレオパトラの鼻の如何に依つたのではない。寧ろ地上に遍滿した我我の愚昧に依つたのである。哂ふべき、――しかし壯嚴な我我の愚昧に依つたのである。

 

[やぶちゃん注:初出は大正一二(一九二三)年二月号『文藝春秋』巻頭。「鼻」という字は多くの読者に実質上の文壇デビュー(七年前の当時の彼は未だ満二十三歳で東京帝国大学文科大学英文学科三年在学中(旧制大学は三年制)の学生であった)を果たしたかの「鼻」(大正五(一九一六)年の第四次『新思潮』創刊号掲載され、同作を含む第一作品集「羅生門」の刊行は翌年五月のことであった)を直ちに想起させる。さればこそ、雑誌巻頭のこれを飛ばして読む読者はまずいないであろう。龍之介は連載二回目からして、読者を絡め獲る巧妙な罠を仕掛けている。

 

・「クレオパトラ」「クレオパトラ」という名はギリシア語で「父の栄光」を意味し、古代エジプトのプトレマイオス王家では女王名としてしばしば用いられたが、現在、単にこう呼ぶ場合はプレマイオス朝最後のファラオであるクレオパトラ七世フィロパトル(ラテン語:Cleopatra VII Philopator 紀元前六九年~紀元前三〇年八月十二日)を指す。父はプトレマイオス十二世(アウレテス)、母はクレオパトラ五世で、アウレテスの次女であった。ここで参照したウィキの「クレオパトラ」によれば(下線やぶちゃん)、『「絶世の美女」として知られ、人をそらさない魅力的な話術と、小鳥のような美しい声であったと伝えられる』ものの、『クレオパトラの肖像は治世当時、アントニウス』(次注)『が発行したとされている硬貨に横顔が残されているのみであり、この評価は後世の作り話だとの説がある』一方、妹のアルシノエ四世の『復元図から姉のクレオパトラも美しかったとする説もある』と記す。また、『歴史家プルタルコスは、クレオパトラを、複数の外国語(エジプト語・メディア語・エチオピア語・シリア語・パルティア語・アラビア語・ヘブライ語など)に通じた知的な女性と伝えている。ちなみにその容貌については、「彼女の美貌そのものはけっして比類なきものではなく、見る人をはっとさせるものでもないと言われていた」と評している。彼女はたしかに魅力的な女性ではあったが、それは容姿ではなく雰囲気や優雅で穏やかな話し方からくるものであったといわれる。美の基準は人・地域・時代などによって異なるので注意が必要だが、少なくともプルタルコスの評価では、あるいは当時の世間一般の見方では、特段美しいというわけではなかったようである。クレオパトラに惚れ込んだカエサルも、彼女の頭の良さと声の良さを讃えているが、容姿については語っていない。彼女の声の良さについては「まるで楽器のようだ」と絶賛している』(私はこのクレオパトラの特徴を、龍之介がこの翌年に再邂逅して強く惹かれてゆくことになる片山廣子と強く重なるように思われてならないのはまさに「偶然」であろうか)。『エジプトの女王だったということで、映画や挿絵などでは肌の色の濃いエキゾチックな美女といった容姿で描かれることが多いが、プトレマイオス朝はギリシア人の家系であったので彼女の容貌はギリシャ的であり、同時代のクレオパトラの肖像としては、ギリシア風の巻き毛スタイルとエジプト風のオカッパスタイルの両方が残っている』とある。歴史的事蹟は小学館「日本大百科全書」の秀村欣二氏の記載を引く(アラビア数字を漢数字に代え、ルビを省略した)。『マケドニア・ギリシア系の才色兼備の婦人で、高い教養をもち、ギリシア語しか話さなかった王家の人々のなかで、エジプト語はもちろん、近隣諸国の言語を解し、外交使節とも通訳なしに応対したといわれる。十七歳のとき、プトレマイオス家の慣例に従って九歳の弟プトレマイオス十三世と結婚し、共同統治者となったが、まもなく二人は反目し、宮廷内も二派に分かれて争い、クレオパトラのほうが劣勢で、一時シリアに退いた。ところが、紀元前四八年ポンペイウスを追ってエジプトにきたユリウス・カエサルに一人で会ってその支持を取り付けた。その結果生じたアレクサンドリア戦争で、カエサルは初め苦戦したが、ついにプトレマイオス十三世を敗走、溺死させた。カエサルは、クレオパトラと五歳の末弟プトレマイオス十四世をエジプトの共同統治者としたが、彼女は事実上カエサルの愛人となり、男児カエサリオンを生んだ。カエサルのローマ凱旋後、クレオパトラは幼王をも伴ってローマを公式訪問し、カエサルの邸宅に迎えられた。しかし前四四年三月十五日カエサルが暗殺されると、急いでエジプトに帰り、プトレマイオス十四世を殺し、カエサリオンを共同統治者としてカエサル亡きあとの政治情勢を静観した』。『その後、前四二年オクタウィアヌスとともにカエサル暗殺者たちを撃滅したアントニウスは、翌年小アジアのタルソスでクレオパトラと会見、その美貌と才知のとりことなり、アレクサンドリアに同道し、交情を結んだ。前四〇年アントニウスはローマに帰り、オクタウィアヌスの姉オクタウィアと政略結婚し、クレオパトラとの関係は解消したかにみえた。しかし前三七年、パルティア遠征のため東方にきたアントニウスは、クレオパトラとの愛情を復活するとともに、彼女から軍事的支援を得た。二人の間には男女の双生児が生まれた。前三六年のパルティア遠征は惨敗に終わったが、クレオパトラはフェニキアまで救援に駆けつけた。前三四年アントニウスはアルメニアで勝利を収めると、凱旋式を慣例に反してローマでなくアレクサンドリアで挙行した。クレオパトラはイシス女神の扮装をし、藩属国諸王を従え、東方ヘレニズム世界の女王としてふるまった。この知らせはやがてローマに達し、前三五~前三四年にかけてオクタウィアヌスとアントニウスとの間に活発な宣伝と非難の文書合戦が開始され、それは政治問題から女性関係のスキャンダルの暴露にまで及んだ』。『前三三年、アントニウスはエフェソスに東方のローマ軍団と藩属国の軍隊を集結、クレオパトラも軍船と軍資金を提供した。前三二年、アントニウスはついにオクタウィアに離縁状を送り、オクタウィアヌスは内乱の形式を避けるため、クレオパトラに対してのみ宣戦を布告した。前三一年、アクティウムの海戦に双方は天下を賭したが、戦いなかばにしてクレオパトラは艦隊を率いて逃走しアントニウスもこれを追ったので、戦いはあっけない結末に終わった。前三〇年、アレクサンドリアでアントニウスが自殺し、クレオパトラもローマの凱旋式に引き回されることを拒否して、毒蛇に身をかませて死んだと伝えられる』。『カエサル、アントニウスと二人のローマの代表的将軍を魅惑したクレオパトラは、ローマ人から「ナイルの魔女」と悪罵されたが、その最後の潔い死は評価された。「クレオパトラの鼻」で知られるパスカルの警句、プルタルコスに拠ったシェークスピアの『アントニーとクレオパトラ』やバーナード・ショーの『シーザーとクレオパトラ』とそれらの映画化など、このヘレニズムの最後の女王への関心は今日まで続いている』とある(私が大学の英語購読で唯一、原文の抄録を読んだものの数少ない一つが、まさにこのWilliam Shakespeare“Antony and Cleopatra16061607)であった。引かれる台詞の辞書に載らない中世英語にえらく悩まされたのを思い出す)。なお、先のウィキの記載によれば、『トルコのエフェソスにおいて、妹』アルシノエ四世の『ものと考えられる墓所と遺骨が発見されたとの説もあるが、クレオパトラ自身の墓はまだ発見されていない』とある。

・「クレオパトラの鼻が曲つてゐたとすれば、世界の歷史はその爲に一變してゐたかも知れないとは名高いパスカルの警句である」中世フランスの哲学者・物理学者・数学者にしてキリスト教神学者であったブレーズ・パスカル(Blaise Pascal 一六二三年~一六六二年)の遺稿集「パンセ」(Pensées1669:「思索」の意であるが、本邦では「瞑想録」などと訳される)の第百六十二節に出る、知られた一句であるが、一般に日本語では――「曲がつてゐ」たら――ではなく――低かったら――或いは――短かったら――である。岩波新全集第十三巻の山田俊治氏の同注には氏の訳と思われるが、「クレオパトラの鼻がもし低かったら世界の顔 Le face de la terre は変わっていた」とし、『「鼻が曲がつてゐた」は芥川の記憶違い』と一刀両断する。一方で、先に引いた新潮文庫の神田氏の注では、『「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら地球の全表面は変わっていたであろう」(前田陽一訳)「クレオパトラの鼻。それがもっと短かったなら、大地の全表面は変わっていただろう」(由木康訳)など様々な訳がある』と記す(「由木康」「ゆうき こう」と読む)。先に引いたウィキの「クレオパトラ」には、『フランスの哲学者ブレーズ・パスカルは、クレオパトラがその美貌と色香でカエサルやアントニウスを翻弄したとして、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら』『歴史が変わっていた」と評した。前述の通り、同時代人にとってクレオパトラが特段の美人では無かった事から、この評価は誤解に基づくものともされる。もっとも、パスカルはこの話を単に例えとして記述しているに過ぎない』とあり、「低かったら」の箇所には『逐語訳すれば『短かったら』』としてウィキの「鼻」を参照するように指示がある。さてもそのウィキの「鼻」には、この龍之介の表現について(下線やぶちゃん)、『日本語・中国語では鼻は「高い/低い」で表現するが、他の多くの言語では「長い/短い」で表現する。「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、歴史は変わっていただろう」というパスカルの『パンセ』における言葉は、実際には「court(短い)」であり、芥川龍之介の『侏儒の言葉』で「〜鼻が曲がっていたら」となっているのは、これを「courbe (曲がった)」と誤解したためと言われ、鼻と「長い/短い」という表現との間の連想が働かなかったためではないかと考えられる』という実に眼から鱗の解釈が載るのである。これこそ私はここの注に最も相応しい注と心得る。ウィキを非学術的と馬鹿にする諸君、もう、いい加減、心改めたが、よろしい。既に正規の学術論文の注にはウィキペディアが引かれもしているのを、御存じないかね?

・「自己欺瞞」「じこぎまん」(「瞞」は他に「瞞着」ぐらいでしかお目にかかることがないが、「事実を蔽い隠して騙(だま)す」の意。自分で自分の心を欺(あざむ)くこと。己れの良心や本心に反しているのを知りつつ、それを自分に対して無理に正当化、強引な自己合理化をする心理状況を指す。

・「アントニイ」共和政ローマの軍人政治家マルクス・アントニウス(ラテン語:Marcus Antonius 紀元前八三年~紀元前三〇年八月一日)。第二回三頭政治の一頭として権力を握ったが、その後はガイウス・ユリウス・カエサルの姪の息子オクタウィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)に敗北した。以下、参照したウィキの「マルクス・アントニウス」より引く(アラビア数字を漢数字に代えた。下線やぶちゃん)。彼の『祖父マルクス・アントニウス・オラトルは執政官や監察官を歴任した実力者であったが、ルキウス・コルネリウス・スッラの党派(オプティマテス)へ属したとしてアントニウスの生まれる前の紀元前八七年にガイウス・マリウス派に殺害された。父マルクス・アントニウス・クレティクスは紀元前七四年に法務官を務めたが、地中海での海賊征討の任務で失態を犯し、挽回が叶わないまま失意の内に死去した(紀元前七二年頃)』。『母はルキウス・ユリウス・カエサルの娘で、後に独裁官となるガイウス・ユリウス・カエサル』(後に彼が部下となるかのカエサルである)『の従姉にあたるユリア・アントニアであったが、ユリアは夫アントニウスの死去した後、プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スラと再婚した。レントゥルスは紀元前七一年に執政官となったが、ルキウス・セルギウス・カティリナ一派による国家転覆の陰謀へ加担したとして、紀元前六三年にマルクス・トゥッリウス・キケロらの主導で処刑された』。『多難な青年期を過ごしたアントニウスであったが、彼がどの時点から政界へ登場したかははっきりしない』が後に『ギリシアへ渡り、紀元前五七年よりグナエウス・ポンペイウスの党派でシュリア属州総督であったアウルス・ガビニウスの配下へ入り、騎兵隊長となった。紀元前五五年、ファラオの座を追われていたプトレマイオス十二世の復位の為にエジプトへ侵攻した。この時にアントニウスは当時十八歳のクレオパトラ七世に魅了されたと、アッピアノスが『ローマ史』の中で記している『その後、ガリア総督ユリウス・カエサルのレガトゥス(総督代理)としてガリア戦争に従軍。アレシアの戦い(紀元前五二年やコンミウス相手の戦い(紀元前五一年)で活躍し』、『紀元前四九年、カエサルがルビコン川を渡った際には護民官の職にあった。ローマ内戦でカエサルがギリシアへ先行した際には、後続隊を率いて困難な情勢下で合流、紀元前四八年のファルサルスの戦い』でも善戦した。『カエサルが東方へ遠征している間、イタリア本国での政務を託されたが、十分な働きが出来なかった。紀元前四六年にカエサルが独裁官に就任した際には、マギステル・エクィトゥム(騎兵長官)に指名された。キケロはアントニウスを「肉体が頑丈なだけが取り柄の無教養人で、酒に酔いしれ下品な娼婦と馬鹿騒ぎするしか能のない、剣闘士並みの男」と評した』。『カエサル暗殺の年には、その同僚コンスル(執政官)であった(カエサルは終身独裁官とこの年の執政官を兼任)。暗殺後はその有力な後継者と目されていたが、カエサルは遺言状でカエサルの姪の息子オクタウィアヌスを後継者に指名した。オクタウィアヌスが元老院と結ぶと、アントニウスはガリアにいたカエサルの副官であったマルクス・アエミリウス・レピドゥスらと同盟しオクタウィアヌスに対抗した』。『当初は対立した両派であったが反共和派、反元老院で一致しアントニウス、オクタウィアヌス、レピドゥスの三者による同盟が成立。その勢力によってローマの支配権を掌握した。三人は国家再建三人委員に就任しローマを支配した(第二回三頭政治)。このとき三人委員会によるプロスクリプティオで、アントニウスの長年の政敵であったキケロが殺害された』。『その後、マケドニア属州へ逃れていたマルクス・ユニウス・ブルトゥス、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスら共和派をオクタウィアヌスと共にフィリッピの戦いで破った。三頭政治はもともと権力争いの一時的な妥協として成立していたため、各人は同盟関係にありながらも自らの勢力強化に努めた。アントニウスはローマを離れ、共和派に』組みしていた『東方の保護国王らと会見し関係を強化した。このときブルトゥスらを支援したプトレマイオス朝(エジプト)の女王クレオパトラ七世をタルソスへ出頭させ、出会った。クレオパトラ七世はアントニウスに頼んでエフェソスにいたアルシノエ四世を殺害させた』。『こうしたなか』、『紀元前四一年の冬にアントニウスの弟ルキウス・アントニウス』とマルクス・アントニウスの妻フルウィアは『イタリアでオクタウィアヌスに反抗しペルシア(現:ペルージャ)で蜂起』、『この戦争にはオクタウィアヌスが勝利したが、ここで改めて三人の同盟の確認が行なわれた。アントニウスは死亡した妻フルウィアの後妻にオクタウィアヌスの姉オクタウィアを迎え、婚姻関係によって同盟は強化された。同時に三頭官はイタリア以外の帝国の領土を三分割し、東方はアントニウス、西方はオクタウィアヌス、アフリカはレピドゥスとそれぞれの勢力圏に分割した』。『カエサルの果たせなかったパルティア征服を成し遂げることで、競争者であるオクタウィアヌスを圧倒することを目論んだアントニウスは、紀元前三六年にパルティアに遠征した。この遠征の後背地としてアントニウスは豊かなエジプトを欲し、女王クレオパトラとの仲を再び密接にしていた。しかしこの遠征は失敗しローマ軍団のシンボルである鷲旗もパルティアに奪われ』ている。その後、『アントニウスは、パルティア遠征でローマを裏切ってパルティアへ味方したアルメニア王国を攻撃し、国王アルタウァスデス二世を捕虜とした。そしてその凱旋式をローマではなくアレクサンドリアで挙行した。その際に自らの支配領土をクレオパトラや息子らへ無断で分割したことやオクタウィアヌスが公開させた遺言状の内容、貞淑な妻オクタウィアへの一方的離縁などでローマ人の神経を逆撫でした。ローマ市民の中に「エジプト女、しかも女王に骨抜きにされ、ローマ人の自覚を失った男」といったイメージができた』。『こうしたアントニウスの失策を見たオクタウィアヌスは、アントニウスとの対決を決断し、プトレマイオス朝に対して宣戦布告した。オクタウィアヌスの軍とアントニウス派およびプトレマイオス朝などとの連合軍はギリシアのアクティウム沖で激突。このアクティウムの海戦で敗北したアントニウスとクレオパトラはエジプトへ敗走した』。『この敗戦により趨勢は決し、オクタウィアヌスはエジプトの首都アレクサンドリアへ軍を進めた。アントニウスはクレオパトラが自殺したとの報を聞き、自らも自刃した。クレオパトラ自殺は誤報であったので、アントニウスはクレオパトラの命で彼女のもとに連れて行かれ、彼女の腕の中で息絶えたとされる』。『アントニウスの死から約十日後にクレオパトラも自殺した。クレオパトラは生前にアントニウスと同じ墓に入れるよう遺言していたが、オクタウィアヌスはそれを認めた』とある。

・「牽いては」「ひいては」で副詞「ひいて」に取り立ての係助詞「は」が附いた強調形。一般には「引いては」「延いては」などと漢字表記するが、字義からはこれで問題ない。「ひいて」は動詞「引く」の連用形に接続助詞「て」の付いた「ひきて」の音変化したもので、前文を受けて接続詞的に用い、事柄の範囲がさらに広がることを意味する。「ある事柄だけに留まることなく、さらに進んで」或いは「前の事態がその原因となって生じた、その結果」という謂いである。

・「沒交渉」「ぼつこうせふ(ぼつこうしょう)」(拗音化して「ぼっこうしょう」とも読む)。交渉がないこと。係わりを持たないこと。無関係なさま。私は根拠もなく、森鷗外辺りから用いられるようになった訳語系の熟語と勝手に思い込んでいたが、小学館「日本国語大辞典」では鷗外の例の前後に、「徂徠集」やら、孫引き乍ら、「伝燈録」の使用例を出してあった。

・「二千餘年の歷史」本篇が一九二四年の発表で、クレオパトラの生年は紀元前六九年であるから、単純に足すしてみても合理的な数値であることが判る。

・「眇たる」「べう(びょう)たる」と読み、ここでは「僅かなさま・採るに足らないさま・対象が些末で下らないさま」の謂いである。なまじっか「渺茫」などという語を知っていると、これを遠くはるかな、などという意と思い込んで平然としてる「愚昧」なる輩どもいるかと存ずるによって特に注しておく。

・「哂ふ」老婆心乍ら、「わらふ(わらう)」(笑う)と訓ずる。

・「壯嚴」ここは「さうごん(そうごん)」と読み、重々しく威厳があって気高いさまを謂う。龍之介の強烈なアイロニー形容である。]

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 燕子花かたるも旅のひとつかな 芭蕉

本日  2016年 5月17日

     貞享5年 4月18日

はグレゴリオ暦で

    1688年 5月17日

 

大坂にて或人の許にて、

 

燕子花(かきつばた)かたるも旅のひとつかな

 

「笈の小文」。杜国を伴った芭蕉は四月十三日に大坂大江の岸の八軒家(はちけんや:現在の大阪府大阪市中央区にあった船着場)の宿に着いている(この前日の十二日には「一つ脱ひで後ろに負ひぬころもがへ」のところで示した孝女伊麻(いま)の家も訪ねている)。サイト「俳諧」の「笈の小文」によれば、この日、「或人」、当時、大坂に住んでいた伊賀の在郷時代からの旧友であった通称、紙屋弥右衛門、保川(やすかわ)一笑(いっしょう)の屋敷を訪ね、杜国と三人でこの句を発句として二十四句を詠じている(猿雖宛書簡に拠る)。

 

杜若語るも旅のひとつ哉   芭蕉

  山路の花の殘る笠の香  一笑

朝月夜紙干板に明初て    萬菊

 

萬菊丸杜国の第三は「朝月夜(あさづくよ)紙干(かみほす)板に明初(あけそめ)て」と読む。実景として一笑亭の庭先に折りから杜若の花が咲いていたものであろう。漂泊の旅なればこそ自ずと「伊勢物語」(九段)で知られる折り句「唐衣きつゝ馴れにしつましあればはるばる來ぬる旅をしぞ思ふ」と響き合っての挨拶句となった。

 この翌日、一笑に送られつつ、舟に乗って神戸へと発ち、遂に「笈の小文」最後の地たる、須磨へと向かうこととなるのである。

2016/05/16

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 星

       星

 

 太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは獨り太陽の下ばかりではない。

 天文學者の説によれば、ヘラクレス星群を發した光は我我の地球へ達するのに三萬六千年を要するさうである。が、ヘラクレス星群と雖も、永久に輝いてゐることは出來ない。何時か一度は冷灰のやうに、美しい光を失つてしまふ。のみならず死は何處へ行つても常に生を孕んでゐる。光を失つたヘラクレス星群も無邊の天をさまよふ内に、都合の好い機會を得さへすれば、一團の星雲と變化するであらう。さうすれば又新しい星は續々と其處に生まれるのである。

 宇宙の大に比べれば、太陽も一點の燐火に過ぎない。況や我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起つてゐることも、實はこの泥團の上に起つてゐることと變りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環してゐるのである。さう云ふことを考へると、天上に散在する無數の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表はしてゐるやうにも思はれるのである。この點でも詩人は何ものよりも先に高々と眞理をうたひ上げた。

   眞砂なす數なき星のその中に吾に向ひて光る星あり

 しかし星も我我のやうに流轉を閲すると云ふことは――兎に角退屈でないことはあるまい。

 

[やぶちゃん注:記念すべき「侏儒の言葉」第一条である。初出は大正一二(一九二三)年一月に盟友菊池寛によって創刊された『文藝春秋』巻頭を飾った。これ以降、大正一四(一九二五)年十一月発行の同誌まで三十回、ほぼ毎号の巻頭に配され続けた(大正十二年九月号・十月号(記載はないが関東大震災による欠号か)と大正十四年十月号には不載で(但し、同号には侏儒の言葉――病牀雜記――を掲載している。リンク先は私の「侏儒の言葉」とは別立ての電子テクスト)、大正十三年五月号は休刊)。

 

・「太陽の下に新しきことなし」「旧約聖書」の「伝道の書」第一章第九節の句(ダビデの子であるエルサレムの王である伝道者ソロモンの著作とされるが、実際にはギリシア哲学、特にエピクロス哲学の影響を受けた者によって紀元前前二百五十年から同百五十年の間に書かれたと推定される)。明治訳を見ると、同第一章は(こちらの電子データを参考に、一部を私が勝手に訓じて読みや句読点等を補い、節番号を除去した。龍之介が引いたのと同じ相当箇所に下線を施した。訓読に誤りがあれば、御教授願いたい)、

   *

ダビデの子、ヱルサレムの王、傳道者の言。傳道者言はく、空(くう)の空、空の空なる哉、都(すべ)て空なり。日の下に人の勞して爲(なす)ところの諸々の動作はその身に何の益かあらん。世は去り、世は來る。地は永久に長存なり。日は出で、日は入り、また、その出し處に喘(あえ)ぎゆくなり。風は南に行き、又、轉(めぐ)りて北にむかひ、旋轉に旋(めぐ)りて行き、風、復た、その旋(めぐ)り轉(めぐ)る處にかへる。河はみな海に流れ入る。海は盈(みち)ること無し。河はその出きたれる處に復た還りゆくなり。萬(よろづ)の物は勞苦す。人、これを言ひつくすことあたはず。目は見るに飽くことなく耳は聞くに充(み)てること無し。曩(あした)に有りし者はまた後にあるべし。曩に成りし事はまた後に成るべし。日(ひ)の下(もと)には新しき者あらざるなり。見よ、是れは新しき者なりと指して言ふべき物あるや。其(そ)は我等の前にありし、世々にに久しくありたる者なり。己、前のものの事は、これを記憶(おぼ)ゆることなし。以後のものの事もまた、後に出る者、これをおぼゆることあらじ。われ、傳道者は、ヱルサレムにありてイスラエルの王たりき。我、心を盡し、智慧をもちひて天(あめ)が下に行はるる諸々の事を尋ね、かつ考へ覈(しら)べたり。此の苦しき事件は神が世の人にさづけて、之に身を勞せしめたまふ者なり。我、日の下に作(な)せるところの諸々の行爲を見たり。嗚呼、皆、空(くう)にして風を捕ふるがごとし。曲れる者は直(なほ)からしむるあたはず、缺けたる者は數をあはするあたはず。我、心の中に語りて言ふ、嗚呼、我は大なる者となれり。我より先にヱルサレムにをりしすべての者よりも、我は多くの智慧を得たり。我が心は智慧と知識を多く得たり。我、心を盡して智慧を知んとし、狂妄と愚癡を知らんとしたりしが、是れも亦、風を捕ふるがごとくなるを曉(さと)れり。夫れ、智慧多ければ憤激多し。知識を增す者は憂患を增す。

   *

これは前後を読めば一目瞭然、以前に在ったこと、起ったことは、また、後にも全く同じく、在り、起こる。昔成し遂げられた事象は、また、後世にも全く同じく成し遂げられる。違って見えるのは形だけで、本質的に全く同じものであって、太陽の下(もと)にあっては新しいもの何も在りはしない、という強力な斉一論である。さても、芥川龍之介が傾倒したフランスの作家アナトール・フランス(Anatole France 一八四四年~一九二四年)の優れたアフォリズム集「エピクロスの園」(Le Jardin d'Épicure1895)にはまさに聖書のこの言葉を言及した一章がある。私の所持する一九七四年岩波文庫刊大塚幸男訳のそれでは「太陽の下に新しいものはない」と標題が附されてある(原典には標題はない)。実は同文庫解説の最後で大塚氏はまさにこの芥川龍之介の「侏儒の言葉」に「エピクロスの園」の圧倒的な影響を指摘され、『影響というより、率直にいえば、引き写しといってもいいくらいである』と述べられ、「侏儒の言葉」について、この「星」以下、「鑑賞」「告白」「S・Mの智慧」(の最後の行)「瑣事」「批評學」「藝術」(の三番目の「又」)「賭博」八章の「エピクロスの園」との酷似性を名指しておられる。但し、大塚氏は芥川龍之介を『剽窃呼ばわりするつもりは毛頭ない』と述べられた上、この二つの書『との風土は根本的に異なる。細部の点では他に借りていても。出来上がった作品はその作家独自のものであるということ――これは今日までもまだ誰も提起したことのない比較文学上の大きな問題ではあるまいか』と擱筆なさっておられる。仏文学の大家であり、アナトール・フランスの専門家でもあられた大塚氏にして、かく述べておられるのである。芥川龍之介の「侏儒の言葉」は未だに我々にとって未開の秘密の園であるということではあるまいか? 因みに、大塚氏の「エピクロスの園」の断章の冒頭の第一章は実に――「星」――と題されてあるのである。

・「道破」「道」は「道(い)ふ」(言う)の意で、対象の核心をズバリと言ってのけること。言い切ること。

・「ヘラクレス星群」ヘルクレス座(Hercules)は、紀元前四千年頃には既に知られていた古い星座でトレミーの四十八星座(プトレマイオス星座(Ptolemaic constellations):二世紀の天文学者クラウディオス・プトレマイオスが作成した星表)の一つ。全天では五番目に大きい星座であるが、あまり明るい星はない。本邦では八月初旬の夕方、頭上に見える。ここで言う「星群」はその星座中にある球状星団M13NGC 6205)を指しているようである。星座名はギリシア神話の勇者ヘラクレス(ギリシャ語の音写:Hēraklēs)に因むが、ローマ神話名(ラテン語:Hercules)で綴るため、星座名は現行、学術上では「ヘルクレス座」と称する決まりとなっている。龍之介は「發した光は我我の地球へ達するのに三萬六千年を要する」としているが、信頼出来る天文サイトを調べると、地球からの距離は二万五千光年と記されてある。
 
・「好い」筑摩書房全集版ではこれに『好(い)い』というルビを振っているが私は採らない。私は基本、芥川龍之介は「好い」を「よい」と訓じていると考えている。なお、「いい」としか読めない場合以外は、向後、この読みの注は附さない。

・「冷灰」「れいくわい(れいかい)」と読む。火の気が無くなって冷たくなった灰のこと。

・「燐火」「りんくわ(りんか)」墓地や湿地で発生する青白い火。人魂。鬼火。狐火(きつねび)。現実のものでない、龍之介は相対的に見れば「ちっぽけな儚い冷たい火」といった文学的香気を含ませて用いていると言える。

・「極」「きはみ」。

・「泥團」「でいだん」。泥の塊り。何の役にも立たないもの、無意味なものの譬えとして使われた語でもある。

・「方則」法則に同じい。

・「眞砂なす數なき星のその中に吾に向ひて光る星あり」私の所持する歌集では表記が、

 眞砂(まさご)なす數なき星の其(そ)の中に吾に向ひて光る星あり

となっている。正岡子規の明治三三(一九〇〇)年作の一首。まさに「星」と前書する連作の巻頭歌。子規が没した二年後に出た「竹の里歌」(明治三七(一九〇四)年)に「星錄九首」に所収されているので、よく知られる。

・「閲する」老婆心乍ら、「けみする」と読み、ここでは「年月を過ごす・経る」の意である。]

 

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)始動/ 「侏儒の言葉」の序

[やぶちゃん注:私の古い電子テクストである『「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版)』(最初期形公開2005年12月4日/「やぶちゃん合成完全版」呼称化2006年7月15日/最終追補2007年2月11日)の注釈を同名のブログ・カテゴリで始動することとする。「やぶちゃん合成完全版」の内容は上記リンク先を参照されたい。実に凡そ十年振りに私の中のライフ・ワークに再び手を染めることとなる。【始動2016年5月16日】]

  

 「侏儒の言葉」の序

 

 「侏儒の言葉」は必しもわたしの思想を傳へるものではない。唯わたしの思想の變化を時々窺はせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すぢの蔓草(つるくさ)、――しかもその蔓草は幾すぢも蔓を伸ばしてゐるかも知れない。

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介自死の凡そ四ヶ月後の昭和二(一九二七)年十二月六日に文芸春秋社出版部より刊行された「侏儒の言葉」巻頭に掲げられた序(なお底本の岩波旧全集第九巻では、最後に改行して下インデント三字空きで「芥川龍之介」の署名を附すが、ここでは省略した)。

 この序は何時書かれたかは特定されていないが、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の鳥居邦朗氏の「侏儒の言葉」の解説には後の遺稿「侏儒の言葉」の『末尾に書かれた昭和元年のころと一応仮定してみることもできようか。いずれにせよ、1924年』(大正十二年:この年の一月に盟友菊池寛によって創刊された『文藝春秋』巻頭を飾ったのが事項に掲げる「星」であった)『ころから活字にしてきたものを3、4年経った時点でまとめて振り返ったときにこの感想を抱いたものであろう。言い方は率直でない。「思想」を表現していない、と言いながら、時々「思想の変化」が現れていると言っている。ここに何が表現されているかということになると、やはりそれは「思想」というほかはない。「思想」とも呼べないような「思想」に「過ぎぬもの」を読みとれというのであろう。さらにこれに続く題3の文がまた厄介である』とされ、「一本の草よりも一すぢの蔓草(つるくさ)、――しかもその蔓草は幾すぢも蔓を伸ばしてゐるかも知れない」を引いた上、『この「序」の要請するところに従って、「侏儒の言葉」の断章の間につながりを求め、幾すじにも枝分かれしている蔓草の枝の1本1本を引き出してその全体像を確かめることははたして可能であろうか。有効であろうか。少なくとも尋常な読み方では「序」の期待に応えることはできそうにない』と述べておられる。ここで鳥居氏が言っている遺稿「侏儒の言葉」の末尾というのは、昭和二(一九二七)年十二月一日発行の『文藝春秋』に「侏儒の言葉(遺稿)」の掉尾として初出する、

   *

       或夜の感想

 眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違ひあるまい。 (昭和改元の第二日)

   *

のクレジットを指す(これは五日後に刊行された上記単行本にも収録されている)。

 この「序」執筆時期の推定は私もその通りであると思し、鳥居氏の、このまさに厄介な本篇への見解も一応、芥川龍之介が仕掛けた「侏儒の言葉」という存在の多層性と逆説性を確かに言い得てはいるように思われる(なお、同項で鳥居氏は最初に『文藝春秋』に掲載された「侏儒の言葉」を『一 昔』としておられるが、これは「一 星」の誤植と思われる(「侏儒の言葉」の中に「昔」という小見出しの条は存在しない。なお、かく、初出では「一」と通し番号を振って標題とされていたことが判る。このことは旧全集後記には記されていないので特に記しおくこととする)。

 

・「侏儒」本篇総標題のそれは和訓では「ひきひと/ひきびと/ひきうど」(漢字表記「低人」「矬」)などと読み、①通常の人よりも著しく背がより低い人を指す(これらの訓の方はすでに本邦でも上代に用例がある)語で、所謂、差別的な謂いでの「小人(こびと)」、矮小奇形疾患としてのそれや、伝承や昔話に出る妖怪「一寸法師」を指すが、他に、②主に中国の古代の劇(主に滑稽な戯曲)に於いて、そうした実際の奇形疾患を持った者が所謂、道化として芝居の重要な役を担ったところから「俳優・役者」の意味を持つ(他に大修館書店「廣漢和辭典」に拠れば、③「棟木を支えるために梁の上に立てる短い「うだつ」の意や、④蜘蛛の意も持つ)。さらに本邦では、そうした差別的内実から転じて、⑤「見識のない愚かな人間」を罵って言う蔑称としても用いられた(この意は「廣漢和辭典」には載らない)。龍之介は自嘲的に最後の⑤「見識のない愚かな人間」という意味で用いていると考えられるが、平成七(一九九五)年新潮文庫刊「侏儒の言葉・西方の人」の神田由美子氏の注解では、『筆者の様々な思想の変化を示すという内容から、』私が②に出した「俳優・役者」『の意味合も含ませている』と述べておられ、これは芥川龍之介という一種「トリック・スター」とも言える存在から私は大いに首肯出来る見解と考えている

・「思想」例えば、本「侏儒の言葉」には芥川龍之介の言う「思想」というキー・ワードを解き明かし得る幾つかの断章があるにはある。例えば、

   *

       危險思想

 危險思想とは常識を實行に移さうとする思想である。

   *

       機智

 機智とは三段論法を缺いた思想であり、彼等の所謂「思想」とは思想を缺いた三段論法である。

   *

       自由思想家

 自由思想家の弱點は自由思想家であることである。彼は到底狂信者のやうに獰猛に戰ふことは出來ない。

   *

       「いろは」短歌

 我我の生活に缺くべからざる思想は或は「いろは」短歌に盡きてゐるかも知れない。

   *

これらはおいおい考察せざるを得ないものであり、ここでは掲げるにとどめおくこととする。

・「一本の草よりも一すぢの蔓草」これは意味深長である。単体として地面に生えている種から伸びた「一本」きり「の草」、立ち枯れてしまうかも知れぬ「一本の草」ではない。触手のように隙間に巧妙に入り込み、凡そ思いもよらないところから、その姿を覗かせて蔓延(はびこ)る「一すぢの蔓草」の先であり、まさに「しかもその蔓草は」枯れちまったと思わせながら、突如、驚くべき時と場所に「幾すぢも蔓を伸ばして」出現し、己れの存在を顕現させて甦ってくるように見「るかも知れない」「蔓草」なのである。而して私はこの「序」のこの箇所は、「侏儒の言葉」(遺稿)の先に示した掉尾の一つ前にある、「民衆」の三番目(標題は「又」であるが正文に換え、末尾の『(同上)』も正文とした)、

   *

       民衆

 わたしは勿論失敗だつた。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであらう。一本の木の枯れることは極めて區々たる問題に過ぎない。無數の種子を宿してゐる、大きい地面が存在する限りは。 (昭和改元の第一日)

   *

と美事に響き合うように書かれていることに気づくのである。]

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 小人國(5) 五章 大てがら (その一)

 五章 大てがら

 

 ブレフスキュ帝國といふのは〔、〕リリパットの北東にあたる島ですが、この國とは僅かに八百ヤードの海峽で隔たつてゐるのですます。私はまだ一度もその島を見たことはなかつたかつた〕のですが、こんどの話を聞いてからは、敵の船に見つけられるといけないので、そちら側の海岸へは、出〔てゆ〕かないやうに〔努め〕ました。戰爭になつて以來、兩國の交通は〔人人はゆきき〕しない〔ては〕いけないことになつており、船〔の出入りが港に出入りすることも〕皇帝から〔の命令で〕きびしくと〕とめられてゐました。たのですから、〕敵は私のことは、敵側には〔まだ〕知られ〔て〕いないはずでした。〔す。〕

[やぶちゃん注:「八百ヤード」七百三十一・五二メートル]

 私は一つの計略を皇帝に申し上げました。

「なんでも斥候の報告では、敵の全艦隊は〔、〕〔順風になつ〔を待つ〕て出動しようとして〔、〕〕今港に錨を下してゐるさうですから、これを一つ全部とつつ〔か〕まへて御覽にいれませう」 これ私の

 そこで〔、〕私は最も經驗のある〔水〕夫たちに〔、〕海峽の深さを聞いてみました。彼等は何度も錘を投げい〔入〕れた〔測つてみた〕ことがあるので〔、〕よく知つてゐましたが、それによると、滿潮のときが眞中の深さが七十グラムグラム(これはヨーロッパ流さ〔の〕尺度で約六呎〔に當ります〕)その〔他の〕場所なら〔、〕まづ五十グラムグラムだといふことです。

[やぶちゃん注:現行版では頭の部分が、『そこで、私は水夫たちに、海峡の深さを聞いてみました。』となっている。

「六呎」一メートル八十二センチメートル強。

「五十グラムグラム」前の比率から一メートル三十センチメートルとなる。]

 私はちようど正面にブレフスキュ島が見える北東海岸に行きました。小山の陰に腹這はらばいになりながら、望遠鏡を取り出して見ると、敵の艦隊は約五十隻の軍艦と、多數の運送船が碇泊してゐるのです。

 そこで、私は家に引〔かへ〕すと、リリパットの人民に、丈夫な綱と鐵の棒を〔、〕できるだけ澤山〔持〕って來るやうに言いつけました。綱はおよそ〔まづ〕荷造り糸ぐらゐの太さ、鐵棒はおよそ編もの針ぐらゐの長さでしたから〔。だから、これを〕もつと丈夫にするために、綱は三本を一つにも鐡棒も三つ合せて一つ三つより合せて一つにしました。〕鐵棒も〔、〕やはり三本をより合せて一本にし、〔その〕端を〔、〕折ま形に折りまげました。かうして出來た五十の鈎を、一つ一つ〔、〕五十本の綱に〔むす〕びつけます。

 それから〔、〕私はまた海岸へ引かへすと、滿潮になる一時間〔ばかり〕前から 〔私は〕上衣と靴と靴下を〔ぬ〕いで、革チヨツキのまま〔、〕ジヤジヤブ〔水〕の中にはいつて行きました。大急ぎで海の中を步き、眞中の深いところを三十ヤードばかり泳ぐと、あとは背が立ちました。〔私はとつ大急ぎで〔水の中を〕步いて 行き進んで海のなかを步き、〕、 まんなかでまんなかを約三十の深いところを三十〕ヤードばかり泳ぐと、〔あとは〕背が立ちました。三十分もたたないうちに、もう〔私は〕敵の艦隊の正面〔前〕前に〔あらは〕れました〔たのです〕。

[やぶちゃん注:現行版は、『それから、また海岸へ引っ返すと、満潮になる一時間ばかり前から、私は上衣と靴と靴下を脱いで、革チョッキのまま、ジャブジャブの中に入って行きました。大急ぎで海の中を歩き、真中の深いところを三十ヤードばかり泳ぐと、あとは背が立ちました。三十分もたゝないうちに、もう私は敵の艦隊の前に現れたのです。』である。原稿には原稿用紙が改頁になっているせいであろう、重複が見られる。

「三十ヤード」二十七・四三メートル。]

 私の姿にびつくりした仰天した三万私の姿にびつくり仰天し敵はすつかり、あわて〔て〕ふためきました。私の姿にびつくり仰天しました。た敵は、〕私の姿を見ると我がちに みんなわれがちに〔、〕海〔に〕とびこんで〔は〕、岸〔の方へ〕〔の方〕〔へ〕泳いで行きます。〔した。す。〕逃げた〔その〕人數は、三万人をくだらなかつたでせう。そこで〔、〕私は用意〔あ〕の綱をとりだすと、軍〕艦の  前についてゐる〔舳(へさき)〕の穴に〔、〕一つ一つ鈎を〔ひつ〕かけ、〔全部の〕綱の端を一〔つに〕〔むす〕びあせました。かうしてゐるうちにも、敵は〔、〕何千本といふ矢を〔、〕私めがけて一せいに射かけてきます。

[やぶちゃん注:「岸〔の方へ〕〔の方〕〔へ〕」の併存はママ。改行部なのでうっかりダブったものと推測出来る。

現行版は、『私の姿にびっくりした敵は、すっかりあわてゝ、われがちに海に跳び込んでは、岸の方へ泳いで行きます。その人数は、三万人をくだらなかったでしょう。そこで、私は綱を取り出すと、軍艦の舳へさきの穴に、一つ/\鈎を引っかけ、全部の綱の端を一つに結び合せました。こうしているうちにも、敵は、何千本という矢を、一せいに射かけてきます。』である。ここでは抹消された「すつかり、あわてて」が生かされている。]

 矢は〔、〕私の兩手や顏〕〔パラパラあたります。チクチクあたります。〕〔に〕降りそそぎ、痛いのも痛いのですが、これでは〔全く〔、〕〕邪魔〔仕事〕になつて仕方がありません。私は目をやられさうで心配でした。私は目それに一番心配したのは眼をやられる〕ことです。〔今につぶされはすまいかと気が気ではすまいかと、ハラハラいたいらしました。ところが、〕ふと、私はいいことを思ひついたので、やつと助かりました。私〔にはあの〕身躰檢査のとき〔、〕出さ〔見せ〕ないで、そつと〔ポケツトに〕隱しておゐた〔、〕眼鏡があります。〔早速〕それを〔の眼鏡〕をとり出すと、しつかり〔、〕鼻にかけました。これさえあれば〔、〕もう大丈夫でした。私は敵の矢など氣にかけず、平気で仕事をつづけました。眼鏡のガラスにあたる矢もだいぶありますが、これは〔、〕眼鏡をちよつとグラつかせるだけで〔、〕大したことはありません。

 私は私はどの船にも〕鈎をみんなかけてしまふと、今度は〔私は〕綱の結び目を〔つかん〕〔、〕で〔ぐぐとひと〕引ぱりました。〔ところ〕が、どうしたことか〔、〕船は一隻も動きません。〔見〕ると〔〔、〕船は〕みんな錨で〔、〕しつかりとめてあるのです。そこで、また、やつかいな、骨のをれる仕事がはじまりました。〔私は〕鈎のかかつた船の綱 を手から離引つぱらうとしてゐた綱鈎のかかつたままの綱を、〔一たん〕手から離すとし、〕〔ました。〕それから、小刀をとりだして、錨の綱をズンズン切つて行きました。〔やはり〔こ〕の時も〔、〕矢は顏や手に〔、〕二百本以上も飛んで來ました。〔の矢が飛んで來たのです。た。飛んで來たのです。は來ました。來ました。〕〔錨綱を切つてそれが、すむと錨綱を切つてしまふと、しかしやがて〕、それから〕私は〔私は〕鈎をかけた綱を手に取上げると、今度はもう〔すぐ〕簡單に〕〔〕動き出しました。〔かうして〔、〕〕私は敵の軍艦五十隻を引つぱつて歸りました。

[やぶちゃん注:推敲が複雑で再現しきれないのであるが、それでも一応、好意的に整序してみると、

   *

【自筆原稿整序版】

 どの船にも鈎をみんなかけてしまふと、今度は綱の結び目をつかんで、ぐひと引ぱりました。ところが、どうしたことか、船は一隻も動きません。見ると、船はみんな錨で、しつかりとめてあるのです。そこで、また、やつかいな、骨のをれる仕事がはじまりました。私は鈎のかかつたままの綱を、一たん手から離し、それから、小刀をとりだして、錨の綱をズンズン切つて行きました。この時も、顏や手に、二百本以上の矢が飛んで來ました。それから私は鈎をかけた綱を手に取上げると、今度はすぐ簡單に動き出しました。かうして、私は敵の軍艦五十隻を引つぱつて歸りました。

   *

となり、これは、

   *

【現行版】

 どの船にもみんな鈎をかけてしまうと、私は綱の結び目をつかんで、ぐいと引っ張りました。ところが、どうしたことか、船は一隻も動きません。見ると、船はみんな錨で、しっかりとめてあるのです。そこで、また、やっかいな、骨の折れる仕事がはじまりました。鈎のかゝったまゝの綱を、一たん手から放し、それから、小刀を取り出して、錨の綱をズンズン切ってゆきました。このときも、顔や手に二百本以上の矢が飛んで来ました。さて、私は鈎をかけた綱を手に取り上げると、今度はすぐ簡単に動き出しました。こうして、私は敵の軍艦五十隻を引っ張って帰りました。

   *

と現行とあまり変わらないことが分かる(下線やぶちゃん)。]

 〔はじめ〕ブレフスキュの人たちは、私が何をしようとしてゐるのか〔、〕見當がつかなかつたので、ただ驚〔はじめのうち〕は〔、〕驚き〔ただ〕呆れてゐるやうでした。私が錨の綱を切るのを見て、船を流してすの〔して〕しまふのか、それとも〔、〕互に衝突させるのかしら、と思つてゐましたが、いよいよ全艦隊が私の綱に引つぱられて、ずんずんみごとうまく〕動きだし進みはじめ動きだし〕たのに氣づくと、たちまち泣きわめく声で〕〔にわかに、泣き叫びだしました。〕その泣きわめくいたり叫んだりする〕〔彼等の嘆きかなしむ〕〔なしむ〕有樣といつたら、とても文章では〕〔どんな言葉説明ができませんあらは〕〔云へないほどでした。〕まあなんといつていひのかわからないほどでした。

 さて、私は一休やすみするために、立ちどまつて、手からや〕顏に一ぱい刺さつ〔てゐる〕矢を引き〔拔〕きました。そして〔、〕 私は前に貰つたこの島で〕〔小人から〕〔つけ〕もらつた、あの 列傷の〔矢の〕妙薬を〔、〕〔その疵あとに〕塗りこみました。それから〔、〕眼鏡をはづして、潮が〔少し〕退くのを暫く待ち、荷物を引いて〔きながら〔、〕〕海峽の眞中を渡りながら、〔、〕無事に〔、〕リリパットの港へかへりついたのです。

[やぶちゃん注:「〔つけ〕もらつた」及び抹消部の「列傷」はママ。現行版は以下の通り。『さて、私は一休みするために、立ち停って、手や顔に一ぱい刺さっている矢を引き抜きました。前に小人からつけてもらった、矢の妙薬を、その疵あとに塗り込みました。それから、眼鏡をはずして、潮が退くのをしばらく待ち、やがて荷物を引きながら、海峡の真中を渡り、無事に、リリパットの港へ帰り着いたのです。』(下線やぶちゃん)。]

 海岸では、皇帝も廷臣も〔、〕みんなが、私の帰る〔もど〕つて來るのを〔、〕今か今か〔、〕と待つてゐました。敵の艦隊が大きな半月形〔を〕つくつて進んで來るのは〔、〕〔すぐ〕見えてゐましたが、私の姿は〔、〕胸のところまで水に浸つてゐたので〔、〕見わけがつかなかつたのです。私が海峽の〔ま〕ん中まで來ても〔ると〕、まだ分からなかつたのです。〔しきりに彼等は気をもんでゐました。〕首だけしか水の上には出て〔ゐ〕なかつたので、わからなかつたのです。皇帝などは〔、〕もう私は溺れ死んだ〔ものものと思ひこみ、ときめ思ひのだらう、〕そして〔、〕あれは敵の艦隊が〔い〕ま〔攻〕よせて來るのだと〔ばかりばかり〕思ひ込まれて〔んで〕いました。けれども〔、〕すぐ そのみんなすぐ、そ〕んな心配は無用になりました。すぐ無用に消え〔ま去り〕消えました。すぐ無用になりました。〕〔步いて行くうちに〔、〕〕だんだんと海は淺くなり、やがて〔、〕人声のきこえるところまで〔近づいて〕來たので、私は〔、〕艦隊をくくりつけてゐる綱の端を〔よく見えるやうに〕高く持ち〔上〕げ、

 「リリパット皇帝万才!」

 と叫びました。皇帝は大喜びで私を迎へてくれました。すぐ、その場で、私はナーダック(これはこの國の最高の位です)の位を私にくれました。

[やぶちゃん注:現行版ではここで改行せず、「ところが、皇帝は」(以下に見る通り、原稿は「陛下は」で逆接の接続詞「ところが、」も存在しない)と続いて、「またそのうち……」以下の陛下(皇帝)の台詞が改行表示されている。以下、以上の段落を整序すると、

   *

【自筆原稿整序版】

 海岸では、皇帝も廷臣も、みんなが、私のもどつて來るのを、今か今か、と待つてゐました。敵の艦隊が大きな半月形をつくつて進んで來るのは、すぐ見えてゐましたが、私の姿は、胸のところまで水に浸つてゐたので、見わけがつかなかつたのです。私が海峽のまん中まで來ると、しきりに彼等は気をもんでゐました。首だけしか水の上には出てゐなかつたので、皇帝などは、もう私は溺れ死んだのだらう、そして、あれは敵の艦隊がいま攻よせて來るのだとばかり思ひ込んでいました。けれども、そんな心配はすぐ無用になりました。步いて行くうちに、だんだんと海は淺くなり、やがて、人声のきこえるところまで近づいて來たので、私は、艦隊をくくりつけてゐる綱の端を高く持ち上げ、

 「リリパット皇帝万才!」

 と叫びました。皇帝は大喜びで私を迎へてくれました。すぐ、その場で、ナーダック(これはこの國の最高の位です)の位を私にくれました

   *

であるが、現行は、「と叫びました。」と「皇帝は大喜びで私を迎へてくれました。」の間で改行され、

   *

【現行版】

 海岸では、皇帝も廷臣も、みんなが、私の戻って来るのを、今か今かと待っていました。敵の艦隊が大きな半月形を作って進んで来るのは、すぐ見えましたが、私の姿は、胸のところまで水につかっていたので、見分けがつかなかったのです。私が海峡の真中まで来ると、首だけしか水の上には出ていなかったので、彼等はしきりに気をもんでいました。皇帝などは、もう私は溺れて死んだのだろう、そして、あれは敵の艦隊がいま押し寄せて来るところだ、と思い込んでいました。けれども、そんな心配はすぐ無用になりました。歩いて行くうちに、だんだんと海は浅くなり、やがて、人声の聞えるところまで近づいて来たので、私は、艦隊をくゝりつけている綱の端を高く持ち上げ、

「リリパット皇帝万歳!」

 と叫びました。

 皇帝は大喜びで私を迎えてくれました。すぐ、その場で、ナーダックの位を私にくれました。これはこの国で最高の位なのですところが、皇帝は、[やぶちゃん注:現行版改行部前まで出した。]

   *

と、かなり異なる(下線やぶちゃん。「しきりに彼等は気をもんでゐました。」は自筆原稿版と現行版では語順と位置が異なる)。]

 陛下は、

 「またそのうち敵の艦隊の殘りも全部持つて帰つてほしい」と云〔ひださ〕れました。 王樣の野心といふものは限〔かぎ〕りのないものです。皇帝陛下の考へでは陛下ののぞみは陛下には〕、ブレフスキ帝國をリリパットの属國にしてしまひ、反對派を〔みな〕滅ぼし、人民どもには〔、〕すべて卵の小さい〔方の〕端 を割らせ、そして〔、〕自分は全世界のたゞ一人の王樣になろう〔、〕〔と、〕といふ 考へ  なつ やう〔いふ、お気持だつたらしいの〕です。しかし、私は、

「〔どうも〕それは正しいことではありません、それにきつと失敗します」と、いろいろ説いて、皇帝の考へをいさめこみました。そして、

 「自由で勇敢な國民を奴隷にしてしまふやうなやり方なら、〔私は〕お手傳ひできません」と、はつきりお断りしました。そして、この問題が議會に出された時も、政府の中で最も賢い人たちは、私の考へと同じ考へでした。

[やぶちゃん注:現行ではここに改行はなく、後が続いている。

 冒頭の「陛下」原文は“his majesty”。民喜が、原稿のここで突然、「皇帝」を「陛下」という訳語に変えようと試みたのは、直前でガリヴァーリリパット国の最高位「ナーダック」の称号を受けたことを境に、その呼び方も民喜が訳文で変化(差別化)させようとしたもののようにも私には思われるのである。実は原文を見ると、ここまででも、“the emperor”(皇帝)と“his majesty”(陛下)は混用されていることが分かるからである。

 また、「〔どうも〕それは正しいことではありません、それにきつと失敗します」が行冒頭からなのはママで、「ブレフスキ帝國」もママである。

 さらに、原稿の上部罫外には、上部画像が欠けているために判読がしにくいものの、読もうなら、

   *

お手傳ひ

なら私は

ごめんこう

むります

   *

という、本文で使用されているインクとは異なる、かなり濃い色で記されてあるのがはっきりと分かる。これは皇帝の要請に対する本文のガリヴァのそれよりも、より強い拒絶であり、寧ろ、こちらを私なら生かしたいところでは、ある。

 以下、現行版を示す(既に述べた通り、頭と後は改行なしで前と後ろに繋がっているのでそこを少し附加した。特に後部は次の段落末まで大きく引用しておいたので、次段落とも比較されたい)。

   *

 皇帝は大喜びで私を迎えてくれました。すぐ、その場で、ナーダックの位を私にくれました。これはこの国で最高の位なのです。ところが、皇帝は、

「またそのうち、敵の艦隊の残りも全部持って帰ってほしい。」

 と言いだされました。

 王様の野心というものは、かぎりのないもので、陛下は、ブレフスキュ帝国を、リリパットの属国にしてしまい、反対派をみな滅し、人民どもには、すべて卵の小さい方の端を割らせる、そして、自分は全世界のたゞ一人の王様になろう、というお考えだったのです。しかし、私は、

「どうもそれは正しいことではありません。それにきっと失敗します。」

 と、いろいろ説いて、皇帝をいさめました。そして、私は、

「自由で勇敢な国民を奴隷にしてしまうようなやり方なら、私はお手伝いできません。」

 と、はっきりお断りしました。

 そして、この問題が議会に出されたときも、政府の中で最も賢い人たちは、私と同じ考えでした。ところが、私があまりあけすけに、陛下に申し上げたので、それが、皇帝のお気にさわったらしいのです。陛下は議会で、私の考えを、それとなく非難されました。賢い人たちは、たゞ黙っていました。けれども、ひそかに私をねたんでいる人たちは、このときから、私にケチをつけだしました。そして、私を快く思っていない連中が、何かたくらみをはじめたようです。そのため、二ヵ月とたゝないうちに、私はもう少しで殺されるところでした。

   *]

 〔しかところが〕私があまり〔〕あけすけに〔、〕陛下に申し上げたので、〔それが〔、〕〕皇帝〔の〕お氣にさわつたらしいのです。陛下は議會で〔、〕私の考へを、それとなく批難されました。賢い人たちは、ただ默つてゐましたが、。けれども、ひそかに私をねたんでゐる人たちは、〔このときから、〕私にケチをつけだしました。そして、皇帝を、私を快くおつていない連中が、何かたくらみを始めたやうです。そのため、二ケ月とたたないうちに、私はもう少しで殺されるところでした。

 さて、私が敵の艦隊を引ぱつて戾つてから、二週間ばかりたつと、ブレフスキュ國から、和睦を求めて〔、〕使がやつて來ました。〔この〕講和は、わが皇帝側に〔、〕非常に都合のよい條約で〔、〕結ばれました。使節は六人で、それに〔、〕約五百人の〔お〕者が隨ひました。彼等が道都に入つて來るとき〔時〕の有樣は、いかにも〔、〕君主の〔大切な〕なお使らしく、ほんとに〔実〕に壯觀でした。  盛大

[やぶちゃん注:「〔お〕者」は「お使」と直した積りであろう。「盛大」の捨て字はママ。恐らく「壯觀」とするか「盛大」とするかに迷ったのであろうが、現行は「壮観」である。]

 私も彼等使節のためには、何かと〔宮中で〕面倒をみてやりました。條約の調印が終ると、彼等は〔、〕私のところへもお禮■■■〕に訪ねて來ました。私が彼等に好意を持つてゐたことは、〔それとなく〕彼等も聞いてわかつゐたのでせう。彼等はまづ私の〔勇〕気と優しさを口をきはめて褒〔ほ〕め、それから〔、〕

 〔「〕ブレスキュのわれわれの〕皇帝も、一度是非お目にかかつて、〔かねてから〕噂〔であなたのことをので、〕きいてゐますので〔ます〕〔あなた〕の力業を〔一つ〕実地に見せてせてもらひたいと云せていただきたいと云もらひたいと云つてゐます、〕一度御來遊〔是非〕あなたを 招待 したい〔來下さい」〕と申しま〔云ふので〕した。私も、すぐ承諾〔承知〕しました。

[やぶちゃん注:以下、現行では改行なく続く。原稿で以下の通り、一行(原稿用紙最終行)が空けてある。恐らく、改行して場面を変えるために、新たな原稿用紙を使用したかっただけのことで、一行空けを示すものとはシークエンス上からも思われない。なお、老婆心乍ら、「力業」は「ちからわざ」と訓ずる。現代の小学生レベルではルビなしではかなり難しい読みであると思う。

 以下、現行版を示す。

   *

 私も彼等使節のためには、何かと宮中で面倒をみてやりました。条約の調印が終ると、彼等は私のところへも訪ねて来ました。私が彼等に好意を持っていたことは、それとなく彼等も聞いてわかったのでしょう。彼等はまず、私の勇気とやさしさをほめ、それから、

「われわれの皇帝も、かねてから噂であなたのことを聞いています。あなたの力業を、ひとつ実地に見せてもらいたいと言っています。どうかぜひ一度お出かけください。」

 と言うのでした。

 私も、すぐ承知しました。

   *]

 

 しばらくの間、私は使節たちを、いろいろと〔、〕もてなし〔ま〕したが、彼等もすつかり〔滿〕足し、〔私に〕驚いたやうでした。そして〔こで〕、私は彼等に、

 「〔あなた方が〕お國へ帰られたら〔〕、陛下によろしくお傳へください。陛下の譽れは〔、〕世界中に知れわたつてゐますから、私もイギリスに帰る前に〔、〕是非一度お目にかかりたいと存じます」

 と云つておきました。そんなわけで、私はリリバット皇帝にお目にかかると、〔早速こんなお願ひをしました。〕

 「〔そのうち私は〕ブレフスキュ皇帝に逢ひに行つてもいいでせうか〔きたいと〕〔存じます思つてゐるのです〕が、お許し下さいませんか下さいまん頂きたいとおもひますどうか行かせて〔頂けないでせうか下さいませ〕許可して頂けないでせうか」とお願ひ

[やぶちゃん注:この部分も推敲も神経症的であるが、現行版は実は、この、

「そのうち私はブレフスキュ皇帝に逢ひに行きたいと思つてゐるのですが、許可して頂けないでせうか」

ではなく、途中の案を採用した、

「そのうち私はブレフスキュ皇帝に会いに行きたいと思っているのですが、どうか行かせてくださいませ。」

となっているのである。]

 皇帝は許してくれましたが、ひどく氣の乘らない御樣子でした。これは一たいどうしたわけかしらなのか、私〔に〕はその頃〔〕わからなかつたのですが、間もなく〔、〕ある人から〔、〕こんなことを聞かされました。

 私が使節たちと仲よくするのを見て、「あれはああして、〔いまに〕ブレフスキュの味方になるつもりです」と、皇帝につげ口した者がゐたのです。大藏大臣のフリムナツプとボル海軍提督のボルゴラムの二人が〔、〕それです。

 ここで一寸つけ加へて〔ことはつて〕おきますが、私と使節たちとの面會〔は〕通譯いて〔き〕で行はれたのです。なにしろ〔リリバットとブレフスキュ〕兩國の言葉はひどく違つてゐるのでしたが、リリバットの方でもブレフスキュの方でも、自分の國の言葉〔こそ〕一番、古くからあつて、美しく、立派な〔、〕力強い〔、〕言葉だ〔、〕と誇つ〔自慢し〕てゐるのです、そして、〔お互に〕相手の國の言葉は野バンだと〔、〕輕蔑してゐるので〔した〕。

 しかし、リリバット〔の〕皇帝は、敵の艦隊を捕虜にしたのだから〔、〕と鼻いき〔ぱし〕が強〔か〕つたわけです。使節團には書類も談判も、みんなリリバット語を使はせました。もつとも、この兩國は、貿易のための交通や、たえず追放人が〔互ひ〕行つたりきたりしてゐるので、兩〔方の〕國語で話〔しができる〕人も多いのです。〔どちら國も〕世間を見たり人情風俗を理解したりしてゐましたので〔するために〕、靑年貴族の靑年や、お金持たち〔が〕、互に旅行し〔行來し〕てゐましたから、貴族でも〔、〕商人でも〔、〕人夫でも、海岸に住んでゐる人人なら、大概〔、〕兩國語を知つてゐました。

[やぶちゃん注:現行版を示す(異なる部分に私が下線を引いた)。

   *

 しかし、リリパットの皇帝は、敵の艦隊を捕虜にしたのですから、鼻っぱしが強かったわけです。使節団には書類も談判も、みんなリリパット語を使わせました。もっとも、この両国は、絶えずお互に行ったり来たりしているので、両方の国語で話ができる人もたくさんいます。世間を見たり、人情風俗を理解するために、貴族の青年や、お金持たちが、互に行き来していましたから、貴族でも、商人でも、人夫でも、海岸に住んでいる人々なら、大がい両方の言葉を知っていました。

   *]

 〔ところで〔前に〕私が〕釋放してもらう時〔には〕、あの誓約書に〔、〕いろいろ雜役卑らと情けない〔やうな役目〕〕をひきうけてゐました。〔がきめてありました〔のたのを、みなさんも憶えてをられるでせう。〕がきめられてゐたものです。ところが、私は今この國の一番えらい〔高い〕位のナーダックになつたのですから、〔もう〕あんな仕事は〔どうも私に〕似あひません。皇帝も私に〔もう〕そんなことは一度もお命じにならなかつたのです。ところが〔、〕間もなく、陛下にたいして、大變な働きをする機會〔しなけれ〕ばならない事件が起き〔〕たのです。

[やぶちゃん注:原稿に以下に一行空ける指示有り。現行版には一行空けはない。]

 

 ある眞夜中のこと、私は〔すぐ〕門口で、何〔数〕百人の人人が〔、〕大声で何か叫んでゐるのをききました。はつとして眼をさましたましし、〕私は〕が、私もかなり驚きました。〔多少こわく〔なりました。つたのです〕。びつくりしました。外では

  バーラム

  バーラム

 といふ言葉が絶えずきこえてきます。と思ふと、群衆を押しわけながら、宮廷の人たちが私のところへやつて來ました。て、云ひます。した。〕

 「〔すぐ、宮殿へ〔〔火事です。〔宮殿が〕火事です。〕〔早く〕來てください」

 きけば、皇后の御殿で〔、〕一人の女官が本を讀みながらうたたねしてゐると、〔いつのまにか〕火がついたといふのです。て大ごとになつたといふのです。

 私はすぐ〔、〕〔跳〕ね起きました。私の通り路を 邪魔するな〔あけろ〕といふ命令は前もつて出てゐ〔ま〕したし、。月〔夜〕で〔路は〕あかるかつたし、私は一人も人を踏みつけないで、宮〔殿〕まで來ました。見ると、宮殿の壁には〔、〕もう〔、〕いくつも梯子がかけられ、手桶〔バケツ〕が運ばれてゐます。

 でも、水のなにぶん〔、〕水は遠くから運ばれてゐるらしいのです。人人はどんどんバケツを私のところへ持つて來ますが、バケツといつても〔、〕大きさは指袋ぐらゐですから、これでは〔これでは〕、とても〔ちよつと〕あの火は消せさうもありません。私は上衣さへあれば、すぐ消してしまふのですが、〔急いだので、つい〕生憎着てくるのを忘れました〔たのです〕。〔今、〕着てゐるのは革チヨツキだけでした。これでは、もう駄目〔だら〕かなあ、ああ、〔あの〕立派な御殿が〔、〕みすみす燒ける、と私はがつかりしさうでしたあきらめかけてゐました悲觀しかけてゐました〕。

 ところが、ふと、〔この時、〕私にはすばらしい、考へが浮んで來ました。その晩〔、〕私はグリミグリムといふ非常においしお酒をたんと呑んでゐました。今、火事さふぎで動きまはつてゐると、私の身體はカつ〔カ〕とほてつて、お酒のききめが〔すぐ〕あらはれました。〔てきました。今、〕私は〔今にも〔、〕〕おしつこが出さうになりました〔つたのです。そこで、〕私は思ひきつて、火の上におしつこを振〔り〕かけ〔てゆき〕ました。三分間〔と〕しないうちに〔、〕火事はすつかり消えてしまひました。何代もかかつ建てたこのすばこの〕奇麗な宮殿はこれで漸く助かつたのでした。〔全燒しないですみました。まる燒けにならないで助かつたのです。これでまづ無事に助かつたの〔した。です。〕〕

[やぶちゃん注:「おいしお酒」及び「まる燒けにならないで助かつたのです。これでまづ無事に助かつたの〔した。です。〕」の併存はママ。現行版を示す。

   *

 ところが、ふとこのとき、私には、素晴しい考えが浮んできました。その晩、私はグリミグリムという、非常においしい、お酒をたんと飲んでいました。火事騒ぎで、動きまわっていると、身体はカッカとほてって、お酒のきゝめがあらわれてきました。私は今にも、おしっこが出そうになったのです。そこで、私は思いきって、火の上に、おしっこを振りかけてゆきました。三分間もしないうちに火事はすっかり消えてしまいました。これでまず、綺麗な宮殿は、丸焼けにならないで助かったのです。

   *

現行版の太字で示した「おしっこ」は底本では傍点「ヽ」。原稿には、ない。]

 火事が消えたとき、もう夜は明けてゐました。私は皇帝に、よろこびの挨拶もし〔申し上げ〕ないで〔、〕家にもどりました。というのは、私は〔消防夫として〕非常な手柄をたてたのですが、しかし皇帝が私のやり方をどう思はれるか、心配でなりませんでした〔ならなかつたのです。〕この國の法律では、たとへどんな場合でも、宮城の内で〔、〕立小便をするやうな者は〔、〕死刑にされることになつてゐました。しかし私は〔その後、〕皇帝から、お手紙特べつとくべつ特別〕に罪を許すやうとりはからつてやると、お手紙をいただいたので〔、〕〔これで〕少しホツとしてゐました。けれども、それもやはり駄目でした。

[やぶちゃん注:現行版はここに改行なし。]

 皇后は私のしたことを〔、〕大そう〔へん〕御立腹になり、〔そして〕宮中の一番遠い端へ引つ越されました。元の建物はもう皇后は〔使ひた〕くないから〔、〕修繕ささない〔ことにされて、〕堅く御決心になり、「今にきつと思ひ知らせてやる」と腹心おそばの者に云はれたそうです。

[やぶちゃん注:この部分は見た目の現行通りに復元したのであるが、実際には移動校正指示が含まれている。それに従うとしかし、

   *

【校正移動指示による整序移動原稿(一部、意味が通るように恣意的に変更した)】

 皇后は私のしたことを、大へん御立腹になり、「今にきつと思ひ知らせてやる」とおそばの者に云はれたそうです。そして宮中の一番遠い端へ引つ越されました。元の建物はもう皇后は使ひたくないから、修繕ささないことにされて、堅く御決心になり、

   *

となって、文章が完結しなくなるのである。以下に、現行版を示しておく(改行はないので、前段部も引いておく)。

   *

 火事が消えたとき、もう夜は明けていました。私は皇帝に、よろこびの挨拶も申し上げないで、家に戻りました。私は消防夫として、非常な手柄をたてたのですが、しかし、皇帝が私のやり方をどう思われるか、心配でたまらなかったのです。この国の法律では、たとえどんな場合でも、宮城の中で、立小便をするような者は、死刑にされることになっていました。

 しかし私はその後、皇帝から、特別に罪を許すよう取りはからってやる、と、お手紙をいたゞいたので、これで少し安心していました。けれども、それもやはり駄目でした。皇后は私のしたことを、大へん御立腹になり、

「今にきっと思いしらせてやる。」

 と、おそばの者に言われたそうです。そして、もとの建物はもう厭だから、修繕させないことにされて、宮中の一番遠い端へ引っ越されました。

   *

2016/05/15

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 狗蠅

Inubae

いぬはへ   【以沼波閉】

狗蠅

 

ウ イン

 

本綱生狗身上蟲也狀如蠅黃色能飛堅皮利喙噉

血冬月則藏狗耳中

按狗蠅多着老狗羣頸潜行血故難避用煙草脂塗

 稈心如輪而毎宣掛于狗頸

 

 

いぬばへ   【以沼波閉。】

狗蠅

 

ウ イン

 

「本綱」、狗の身の上に生ずる蟲なり。狀、蠅のごとく、黃色にして能く飛ぶ。堅き皮、利き喙〔(くちばし)〕ありて狗の血を噉〔(たんさふ)〕す。冬月は則ち、狗の耳の中に藏〔(かく)〕る。

按ずるに、狗蠅、多く老狗〔(ろうく)〕に着く。頸に羣れて潜行して、血を〔(す)〕ふ。故に避け難し。煙草(たばこ)の脂(やに)を用ひ、稈心(わら〔の〕しん)に塗り、輪のごとくにして毎〔(つね)〕に宣しく狗の頸に掛くべし。

 

[やぶちゃん注:これはなかなか難しい。挿絵は明らかに翅を持っており、本文も「蠅のごとく」とあって、「能く飛ぶ」(「跳ぶ」ではなく「飛ぶ」である)とし、「黃色」(ウシアブの腹部各節の中央には黄色い模様が有意にある)さらに吸血(「噉」は現代仮名遣では「タンソウ」で、「噉」は「食らう」、「」は「吸う」の意)するとなれば、これはもう、前項の末に出た、

 

双翅目アブ科ウシアブTabanus trigonus

 

が相応しい。中文サイトで「狗蠅」を検索すると複数のサイトで、「gadfly」とする記載を見出せるが、これはまさに「ウシアブ」の英名である。

 ところがしかし、どうも本文を読み進めると、だんだん怪しくなってくるんである。

 特に「堅き皮」を有し、著しく「利き喙〔(くちばし)〕」を持つというのはウシアブの解説としておかしいウシアブは蠅叩きの一撃で容易に殲滅出来る(私の実践体験)程度に体は柔らかく、彼等は厳密に言えば「刺す」のではなく、大根おろしのような構造の吻で擂りこいで吸血するのであり、鋭い吻を所持はしていない。これは実際に顕微鏡などを用いなくても、肉眼で観察出来る。されば、これは明らかに、その「狗蠅」と呼称している生物は、

異様に固い堅牢な外皮構造を有していて叩いたぐらいでは平気の平左であること

彼等は吸血するためにその頭部に明らかにそれと分かる鋭い吻を所持していること

が必須条件として挙がってくるのである。さらに、彼らは

ほぼ一年を通じて犬を主宿主としていること

冬になると同時にその宿主である犬「の耳の中に」入り込んで隠れてしまうこと

も特異的な特徴として確認出来る。さらに良安は本邦の「狗蠅」の特徴として、

免疫力が低下した皮膚が弱い老犬に多く寄生すること

そうした老犬の首の部分の毛の奥に群れ潜み隠れて駆除が難しいこと

を挙げている。耳の中に入り込むというと、ヒトを刺すことを記載しない点では、これは、

 

昆虫綱隠翅(ノミ)目ヒトノミ科ヒトノミ科Ctenocephalides属イヌノミCtenocephalides canis

 

と思えてくるのであるが(私は永年犬を飼っているが、イヌノミはしばしば犬の耳の中に隠れる。但し、彼らがヒトを吸血しないかというと、実際には吸血するので要注意)、ただ、どうもそれでは小さ過ぎて(イヌノミはで約二ミリメートル、で約三ミリメートルしかない)、絶対的な特異条件たるをクリアー出来ない嫌いがあるようにも思えるのである。ではそれを満たす生物となると、所謂、ナンキンムシ、

 

半翅目異翅亜目トコジラミ科トコジラミ属トコジラミ Cimex lectularius

 

が真っ先に浮かぶのである。彼らの大きさはイヌノミの倍はあって、成虫で五~七ミリメートルで、体色も吸血するとその血液が透けて見えることから濃い茶色を呈するものの、吸血していない個体では薄黄色からやや赤褐色を呈する、とウィキの「トコジラミ」にあるのである。

 但し、そう同定した場合、ヒトをも吸血することを記載しないというのは大いに不審であると言わざるを得ない。犬の頸のそれを観察している最中や、愛犬から煙草の脂で追い出そうとすれば、逆にそうしている人間の方に移ろうとするはずである。さらにこの比定が厳しいのは、彼等は一般には陽光下に出るような犬の、その首やその耳の中には日常的に巣食うことはないと思うからでもある(彼らは夜行性で明かりを嫌い、通常は建物の壁の割れ目や畳の隙間などにぎっしりと潜んでいることが多い)

 さても、ちょいとここで途方に暮れてしまったところで、こういう時は荒俣宏氏の「世界博物大図鑑」を見るに若くはないと、その第一巻「蟲類」(一九九一年平凡社刊)の「トコジラミ・ナンキンムシ」を開いて見た。開いて見るもんだ! そこで「目から狗蠅」だ! 何と! 犬に寄生する「狗蠅」が実際にいることが判明したのであった!

 それによれば「本草綱目」の「狗蠅」とは『イヌに寄生するシラミバエ科』という正真正銘の蠅、

 

双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目シラミバエ上科シラミバエ科 Hippoboscidae の一種

 

を指すと明記されてあるのであった。ウィキの「シラミバエより引いておく。『哺乳類や鳥類の絶対寄生者として知られる。世界に』三亜科二十一属二百十三種が知られ、『成虫の体型は扁平。シラミバエは様々な哺乳類や鳥類を寄主として利用する。例えば翅をもたない赤茶色の種である Melophagus ovinus は、ヒツジに寄生することが知られている。また、同じく翅をもたない Lipoptena mazamae は、オジロジカ』(哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科オジロジカ族オジロジカ属 Odocoileus )『の外部寄生者としてアメリカ南東部で普通に見られる。一方、翅のあるウマジラミバエ Hippobosca equina はウマに寄生するほか、Ornithoica podargi Ornithomya fuscipennis はオーストラリアガマグチヨタカ』(鳥綱フクロウ目オーストラリアガマグチヨタカ科オーストラリアガマグチヨタカ属オーストラリアガマグチヨタカPodargus strigoides)『の外部寄生者としてオーストラリアで普通に見られる。このようにシラミバエは哺乳類や鳥類などに寄生するため、感染症の媒介者』(ベクター:Vector)『となることがある。例えば Pseudolynchia canariensis はハトの仲間に寄生し、ハトに感染するマラリアの媒介者となる』。『他のシラミバエ上科』(Hippoboscoidea)『の種と同様に、ほとんどのシラミバエの幼虫は母親の体内で成長し、体外に出てすぐに蛹化する』とある。さらに調べてみると、引用に出たHippoboscinae亜科Hippobosca属ウマシラミバエHippobosca equina はウマ・ウシ・イヌ・ウサギに寄生することが分かった。さらにかなり強烈なのでリンクは控えるが、画像検索で見ると、彼等は寄生生活に特化しているため、体がダニかシラミのような扁平な(しかし成虫は翅があって確かに蠅)形状に変化していて、それが牛の頸部などにおぞましいほどびっしりと吸着している状態を現認出来、老犬の首というのも、さもありなんと、想起出来た。

 さらに言うと、荒俣氏もその箇所で述べておられるのであるが、実は「本草綱目」の「狗蠅」には、最後に時珍が附説を施しており、そこには実に! トコジラミの記載があるのである!(引用立国会図書館デジタルコレクションの明代一五九〇胡承竜本草目」画像を視認した。一部、破損による判読不能の箇所はで示した)

   *

附錄 壁蝨【時珍曰、即臭蟲也。狀如酸棗仁、人血食、與蚤皆爲牀榻之害古人多於席下置麝香、雄黃、或菖蒲末、或蒴藋末,或楝花末、或蓼末、或燒木瓜煙、黃蘗煙、牛角煙、馬蹄煙,以辟之也。

   *

「臭蟲」とあるが、現在でも中国語でトコジラミを「臭虫」と呼ぶ。これは彼らがその後脚の基部にある臭腺から油臭い悪臭を出すことに拠る。「酸棗仁」は「さんそうにん」でクロウメモドキ目クロウメモドキ科ハマナツメ連ナツメ属サネブトナツメZizyphus jujuba var. spinosaの種子(生薬)。「蒴藋」(そくず(但し、他にも多様の読みがある))はスイカズラ科ニワトコ属ソクズ Sambucus chinensis で、現在は入浴剤などに用いられる。「楝花」(れんか)はムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach の花で配糖体の一種を多く含む。「黃蘗」(おうばく)は双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense のこと。これで「きはだ」とも読む。

 さても! これは間違いなくトコジラミの記載であるそうしてこれは、まさに時珍自身が「狗蠅」を私が強く同定候補として押したところの、「壁蝨」=「トコジラミ」と同一か、その近似種ではないかと深く疑っていたことを示す証左ではあるまいか?……とここまで書いて、実は「和漢三才圖會」の次の項が「壁蝨」だったことに気づいた。ダブるけれども私の考証のプロセスの跡として残すこととする。

 

・「稈心(わら〔の〕しん)」藁の芯。]

2016/05/14

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蠅

Hae

はへ

      【和名波閉】

【音膺】

 

イン

 

本綱蠅飛營營其聲自呼故名夏出冬蟄喜暖惡寒其蒼

者聲雄壯負金者聲清括青者糞能敗物巨者首如火麻

者茅根所化也

蠅聲有鼻而足喜交其蛆胎生蛆入灰中蛻化爲蠅如蠺

蝎之化蛾也蠅溺水死得灰復活也陸佃云蠅好交其前

足有絞繩之象故字从繩省亦好交其後足揺翅自扇也

五雜組云蠅雌者循行求食雄者常立不移足交則雄負

雌其勢在尾近背上最癡頑無毒牙利嘴而其攪人尤甚

至于無處可避無物可避且變芳馨爲臭腐涴浄素爲緇

穢驅而復來死而復生比之讒人不亦宜乎

按形大蒼者及白黒縱班者共生糞土中俗稱屎蠅

 又有蠅夭 日本紀推古天皇三十五年五月蠅集浮

 虛十丈鳴音如雷齋明天皇六年亦有此恠

牛蠅 形似蠅而小背帶白色嘴尖着牛肌噉血人亦所

 噉腫

 

 

はへ

      【和名、「波閉」。】

【音、「膺〔(やう)〕」。】

 

イン

 

「本綱」、蠅の飛ぶ、營營たり。其の聲、自ら呼ぶ、故に名づく。夏、出でて、冬、蟄す。暖を喜び、寒を惡〔(にく)〕む。其の蒼き者は、聲、雄壯なり。金を負ふ者は、聲、清括なり。青き者は、糞、能く物を敗す。巨なる者、首、火麻のごとくなる者は茅(かや)の根の化する所なり。

蠅の聲は、鼻に有りて、足、交ることを喜(この)む。其れ、蛆(うじ)は胎生し、蛆、灰の中に入りて蛻化して蠅と爲る。蠺・蝎の蛾に化するがごとし。蠅、水に溺(をぼ)れて死し、灰を得れば、復た活すなり。陸佃〔(りくでん)〕が云ふ、蠅、好みて其の前足を交へ、繩を絞(な)ふの象(かたち)有り。故、字、繩を省(はぶ)くに从ふ。亦、好く其の後(うしろ)足を交へ、翅を揺(うごか)し、自ら扇(あふ)ぐなり。

「五雜組」に云ふ、蠅の雌なる者は循行して食を求む。雄なる者、常に立ちて足を移さず。交(つる)む時は、則ち、雄、雌を負ふ。其の勢、尾に在りて背上に近し。最も癡頑〔(ちぐわん)〕にして毒の牙・利〔(と)〕き嘴〔(くちばし)〕無くして、其の人を攪〔(かく)すこと〕、尤も甚しく、處として避くべき無く、物として避くべき無きに至る。且つ、芳馨〔(はうけい)〕を變じて臭腐〔(しうふ)〕と爲し、浄素を涴(よご)して緇穢(しゑ)と爲す。驅(か)けて復た來たり、死して復た生〔(しやう)〕ず。之を讒人〔(ざんにん)〕に比す、亦、宜(むべ)ならずや。

按ずるに、形ち、大きに〔して〕蒼〔き〕者、及び、白・黒、縱(たつ)に班〔(まだら)〕する者、共に糞土の中に生ず。俗に「屎(くそ)蠅」と稱す。

 又、蠅夭(やうやう)、有り。「日本紀」推古天皇三十五年五月、蠅、集まりて虛(そら)に浮かぶ〔こと〕、十丈、鳴る音、雷のごとし。齋明天皇六年にも亦、此の恠〔(かい)〕、有り。

牛蠅(うしばへ) 形ち、蠅に似て小さく、背に白色を帶ぶ。嘴、尖り、牛の肌に着く。血を噉(す)ふ。人、亦、噉はれて、腫〔(は)〕る。

 

[やぶちゃん注:これは最後の「牛蠅」から、やはり、吸血性のアブのを含むところの

有翅昆虫亜綱 Pterygota双翅(ハエ)目 Diptera

を指す。にしても、この叙述は殆んど生物学(昆虫学)的というよりも古典的博物学のトンデモ記載に富む。だからこそ、面白い、とも言える。

 

・「營營たり」せっせと休みなく励むさまであるから、ひたすら、飛び廻ることを言う。

・「其の聲」羽音を「聲」と採っている。少しもおかしくはない。蟬の鳴き声は翅を擦ることによって生ずる。蠅の羽の唸りは立派な「蠅の聲」である。

・「自ら呼ぶ」自然に呼称する名が「蠅」である、という自発の意である。中国語の音の「イン」がオノマトペイアだということであろう。

・「惡〔(にく)〕む」東洋文庫版現代語訳は『いむ』(忌む)と訓ずる。採らない。

・「蒼き者」「青蠅」は双翅(ハエ)目ヒツジバエ上科クロバエ科 Calliphoridaeのうち、緑色や青色のハエの俗称。

・「金を負ふ者」和名で名にし負うのはキンバエLucilia Caesar であるが、この「金」とはゴールドの意味ではなく、「金」属光沢の蠅の謂いであるので注意されたい。同種の体色は一般には金緑色の個体が多いものの、青緑色や銅赤色などの個体差が見られる。

・「清括」東洋文庫版現代語訳は『きよらかでひきしまる』とルビする。

・「青き者は、糞、能く物を敗す」東洋文庫版現代語訳はこの「糞」を蠅の種の固有名詞として「糞蠅」とし、後半をそれは『よく物を腐敗させる』と訳す。それが原義ではあろうが、無論、現象は逆であって、腐敗した対象を餌とし、そこに卵を産みつけるために、そこにたかるのである。後の「屎(くそ)蠅」の注を参照されたい。

・「巨なる者」首が「火麻」(中文ではこれはバラ目アサ科アサ属 Cannabis の大麻のことを指す)のようだというのであるが、不詳。

・「茅(かや)の根の化する所なり」トンデモ化生説である。

・「蠅の聲は、鼻に有りて」鼻から発生する。う~ん! 凄い解説! 蠅の嗅覚触角は無論、あっても、それは発声器官ではない。

・「足、交ることを喜(この)む」足を交差させることを好む。一茶の「やれ打つな蠅が手をすり足をする」で、直ぐ後の「蠅、好みて其の前足を交へ、繩を絞(な)ふの象(かたち)有り」もそれを観察した謂いである。「其の後(うしろ)足を交へ翅を揺(うごか)し」、また「自ら扇(あふ)ぐ」のも総ては、体表についた病原体や有毒物質を清拭し、さらに過剰に体温が上昇することを防ぐためであると私は思っている。

・「蛆(うじ)は胎生し」何で、ここで突然、「胎生」? 茅の根が蠅になるんやろ?!

・「蛻化」蛹となって脱皮し成虫となること。

・「蠺・蝎の蛾に化するがごとし」カイコはええが、しかしサソリが蛾に、なるカイ! あほんだら!

・「蠅、水に溺(をぼ)れて死し、灰を得れば、復た活すなり」またまたキタ! 灰で蘇生するんやて!!!

・「陸佃〔(りくでん)〕が云ふ」これは北宋の陸佃によって編集された主に動植物について記述した博物書「埤雅(ひが)」(全二十巻)のこと。

・「繩を省(はぶ)く」「繩」という字の「糸」を省いて「虫」に換えたのだという字解である。思わず、納得してしまうが、本当にそうなんかどうかは、ちょっと疑問やな。

・「五雜組」既出既注。

・「循行」東洋文庫版現代語訳は『あるき廻って』と訳す。

・「常に立ちて足を移さず」東洋文庫版現代語訳は『いつも立ったままで足を移さない』と訳すが、意味が分からない。は飛翔もせず、じっと立ち竦んだまま、を待つちゅうカイ! そげなことしとったら、たちまち捕食されてしまうで?!

・「交(つる)む」交尾する。

・「雄、雌を負ふ」これは私は逆の誤りだと思うのだが、如何?

・「勢」この前後の叙述からこれはの生殖器のことである。のペニスが「尾の方に「在」ってそれは実は「背」の「上」の方「に近」い、だからがバックで責めるということ? ホンマかいな?! あり得ヘンとしか私には思われヘンのやが? 識者の御教授を乞う。

・「癡頑〔(ちぐわん)〕にして」東洋文庫版現代語訳は『おそかでかたくなで』と訳す。

・「毒の牙・利〔(と)〕き嘴〔(くちばし)〕無くして、其の人を攪〔(かく)すこと〕、尤も甚しく」「にして」は原文の訓点であるが、ここは意味上では「なるも」と逆接で訓ずるべきところである。「攪」は攪乱で、苛立たせることの謂いであろう。

・「處として避くべき無く、物として避くべき無きに至る」やけに難しい表現だが、要は、どんな場所であってもいらつく蠅を避け得るべき場所はどこにもなく、蠅を寄せつけるずにいられるような物体や生物はこの世に全く存在しない、という謂いらしい。

・「芳馨〔(はうけい)〕」芳しくよい香り。

・「浄素」東洋文庫版現代語訳は『きよらかなもの』とルビする。

・「涴(よご)して」汚損させて。

・「緇穢(しゑ)」東洋文庫版現代語訳は『きたないもの』とルビする。「緇」は黒い色の謂い。くどいが、実際には蠅が対象を腐敗させる主因ではない(無論、腐敗作用のある菌を運ぶとは言えるから、冤罪ではないが)。

・「驅(か)けて復た來たり」かれやれ! やっと飛んで去ったと思ったら、あっという間に戻ってくる。

・「死して復た生〔(しやう)〕ず」さっきの化生説! 死んだと思ったら、もう! すぐに活きかえっちゃうんだぞ! ハエエルゲ! なお、これって、産卵から蛆になって成虫になるまでが短期間であることからの誤認とも読める気が私にはする。

・「之を讒人〔(ざんにん)〕に比す、亦、宜(むべ)ならずや」東洋文庫版現代語訳は蠅が『(いつの世にもいる悪賢い、うまく立ち廻ってどうしようもない)讒人』『(人の悪口をいい、人をおとしいれる悪者)に比せられるのもまた当然ではなかろうか』と訳す。……う~ん、そうかな……どうもこれって蠅を讒訴しているようにしか、私には読めんのだがなぁ……

・「白・黒、縱(たつ)に班〔(まだら)〕する者」白と黒が体部背側の胸部背板に縦に斑(まだら)状に配されている種。これは、

短角(ハエ)亜目ハエ下目ヒツジバエ上科ニクバエ(肉蠅)科 Sarcophagidae(汲み取り式便所ではセンチニクバエ属センチニクバエ Sarcophaga peregrina を多く見かけたが、水洗化によって著しく個体数が減ったとウィキの「ニクバエ」にはある)

に属する殆んどの種と、日常的に見ることの多い、

ハエ下目イエバエ上科イエバエ科 Muscidae  (代表種はイエバエ亜科イエバエ属イエバエ(家蠅)Musca domestica で、本邦のハエ類では優先種群。イエバエ類は世界では約百七十属四千種が、本邦では二百五十種以上が記録されてある。ここはウィキの「イエバエ科」に拠った)

 

の一群に共通する特徴である。ウィキの「ニクバエ」によれば、『イエバエより幾分』、『大型で、またイエバエ科やヤドリバエ科の縦縞を持つものの縞がたいてい偶数の』四本で『あるのに対し、ニクバエの縞は奇数の』三本で『あることから、慣れれば一目で区別できる』とある。ニクバエ類もイエバエ類も孰れも動物の糞にたかるので、我々(水洗便所以前を体験した時代が長い世代)には馴染み深い。またウィキの「ニクバエ」にもある通り、かなり有名な事実として、以下の特異な利用法がある。『ニクバエの生活史は』よく研究されており、時間単位で『予測可能である。この事を用いて、遺体上のニクバエは警察の捜査に用いられる。ニクバエは、膨張するまで腐敗の進んだヒトや動物の死体に幼虫を好んで産みつける。 法医昆虫学者はニクバエが食べている死体がいつ死んだかを決定するために、老熟幼虫を採集して死んだ可能性の最も早い日付を逆算して推定するのである。そうやって、おおよその死亡日時がわかる。この事は、法医昆虫学者が遺体の条件と一致する人物が死亡日時近辺で失踪していたかどうか確かめることができるので、その遺体の身元が誰かを決定するのに有効である』。『特定の昆虫は特定の状態の死体を好む。あるものはかなり分解の進んだ死体、さらには乾燥した死体ですら好む。このことによって法医昆虫学者の死亡日時推定が可能になる。全ての昆虫の生活史は予測可能なので、実際法医昆虫学者は全ての異なるタイプの昆虫の平均齢を逆算して死亡推定日時を得ているのである』。

・「屎(くそ)蠅」通常は先に注したキンバエの別名である。

・「蠅夭(やうやう)」東洋文庫版現代語訳は『蠅による災害』と訳す。

・「日本紀」「日本書紀」。

・「推古天皇三十五年五月、蠅、集まりて虛(そら)に浮かぶ〔こと〕、十丈、鳴る音、雷のごとし」比定西暦六二七年。同条に、

   *

原文

卅五年春二月、陸奧國有狢、化人以歌之。夏五月、有蠅聚集、其凝累十丈之、浮虛以越信濃坂、鳴音如雷、則東至上野國而自散。

やぶちゃんの書き下し文

卅五年の春二月、陸奧國に狢(むじな)有りて、人に化して歌ふ。夏五月、蠅、有りて、聚れ集へる。其の凝(こ)り累なること、十丈ばかり、虛(そら)に浮びて信濃坂を越ゆ。鳴る音、雷のごとし。則ち、東のかた、上野国に至りて、自づから散せぬ。

   *

とある。「虛(そら)」は虚空で「空」の意。「十丈」は三〇メートル強。

・「齋明天皇六年にも亦、此の恠〔(かい)〕、有り」比定西暦六六〇年。同年十二月の条に、

  *

原文

十二月丁卯朔庚寅、天皇幸于難波宮。天皇、方隨福信所乞之意、思幸筑紫、將遣救軍。而初幸斯、備諸軍器。是、欲爲百濟將伐新羅、乃勅駿河國造船。已訖、挽至績麻郊之時、其船夜中無故艫舳相反。衆知終敗。科野國言「蠅群向西、飛踰巨坂。大十圍許、高至蒼天。」或知救軍敗績之怪。

やぶちゃんの書き下し文

十二月丁卯(ひのとう)、朔(つひたち)庚寅(かのえとら)、天皇(すめらみこと)、難波宮(なにはのみや)に幸(おはしま)す。天皇、方(まさ)に福信が乞(まう)す意に隨ひて、筑紫に幸して、救軍を遣(や)らむと思ひて、初づ斯(ここ)に幸して、諸々の軍器を備ふ。是の歳、百済の爲に新羅を伐たむと欲して、乃ち駿河國に勅して船を造らしむ。已に訖(をは)りて、績麻郊(をみの)に挽き至る時に、其の船、夜中に故も無くして、艫(へ)・舳(とも)相ひ反れり。衆、終に敗れむことを知りぬ。科野國(しなののくに)言(まう)さく、「蠅、群れて西に向ひて、巨坂(おほさか)を飛び踰(こ)ゆ。大いさ、十囲(とほかかへ)許(ばか)り。高さ、蒼天に至れり。」と。或いは救軍の敗績(やぶ)れむの怪と知れり。

   *

とある。

・「牛蠅(うしばへ)」双翅目アブ科ウシアブTabanus trigonus。体長二・五センチメートル内外の大型種で全体に黒灰色を呈し、腹部の各背板中央に黄白色の大きな三角斑を持つ。単眼を欠き、翅には斑紋がない。成虫は七~九月に出現し、は好んでウシ・ウマを襲って吸血、人をも刺す。私は十数年前、奥日光沢の露天の温泉の露台にて、群来る四十匹以上をテツテ的に叩き殺し、湯守の老人から酒を献杯された思い出がある。]

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 小人國(4) 四章 宮殿見物

 

四章 大てがら 宮殿見物

 

 鎖を解かれると〔たので、〕私はまづ第一まづ、〕〔この國の〕首府ミレンドウを見物させて頂けないでせうか〔、〕と〔皇帝に〕お願ひしました。皇帝はすぐ承知されましたが、。ただ〔、〕住民や家屋を傷つけないようにせよ〔、〕特に〕注意れました。〔せよ、と云はれました。〕ました。私が首都を訪問するといふことは〔、〕前もつて〔、〕市民に知らされてゐました。街を圍んでゐる城壁は〔、〕高さ二呎半、幅は少くとも十一吋ありますから、その上を馬車で走つても〔安〕全です。さ〔そ〕して城壁は〔城壁には〕十呎おきに〔、〕丈夫堅固丈夫〕な塔が築かれてゐます。

[やぶちゃん注:「特に〕注意れました。〔せよ、と云はれました。〕ました。」の併存はママ。現行版では以下の通り(下線やぶちゃん)。

   *

 鎖を解かれたので、私は、この国の首府ミレンドウを見物させていたゞけないでしょうか、と皇帝にお願いしました。皇帝はすぐ承知されました。たゞ、住民や家屋を傷つけないよう、注意せよ、とわれました。

 私が首都を訪問することは、前もって、市民に知らされていました。街を囲んでいる城壁は、高さ二フィート半、幅は少くとも十一インチありますから、その上を馬車で走っても安全です。城壁には十フィートおきに、丈夫な塔が築いてあります

   *

二段落に分離されており、以上のように細部の違いがある。

「二呎半」一メートル五十七・五センチメートル。

「十一吋」二十八センチメートル弱。

「十呎」]三メートル五センチ弱。

 私は西の大門を〔、〕一跨ぎで越えると、〔私は〕そ〔ろ〕つと橫向きになつて〔、〕靜かに步きました。〔だしました。〕上衣の〔上衣の〕裾が、〔人〕家の屋根や軒にあたるといけないので、上衣は〔それは〕脱いで、手に持ち〔かかへ〕、チヨツキだけで〔の〕姿に〔一つに〕なつて、步きました〔いて行きます〕。市民は危險だから〔一切〕外に出てゐてはいけないといふ前からきびしいお達し〔は〕ありま〔前から出てゐま〕したが、それでも〔、〕まだ街中をウロウロしてゐる人間も〔が〕少しゐました。〔もいます。〕踏みつぶしでもすると大変ですから〔なので〕、私はとても氣をくばつて步きました。

[やぶちゃん注:現行版とはかなり異なる。整序すると、

【自筆原稿版】

 西の大門を、一跨ぎで越えると、私はそろつと橫向きになつて、靜かに步きだしました。上衣の裾が、人家の屋根や軒にあたるといけないので、それは脱いで、手にかかへ、チヨツキ一つになつて、步いて行きます。市民は危險だから一切外に出てゐてはいけないといふ前からきびしいお達しは前から出てゐましたが、それでも、まだ街中をウロウロしてゐる人間もいます。踏みつぶしでもすると大変なので、私はとても氣をくばつて步きました。

であるが、

【現行版】

 西の大門を、一またぎで越えると、私はそろっと横向きになって、静かに歩きだしました。上衣の裾が、人家の屋根や軒にあたるといけないので、それは脱いで、手にかゝえ、チョッキ一つになって、歩いて行きます。市民は危険だから外に出ていてはいけない、という命令は前から出ていたのですが、それでも、まだ街中をうろうろしている人もいます。踏みつぶしでもすると大へんですから、私はとても気をくばって歩きました。

である(下線やぶちゃん)。]

 屋根の上からもにもからもも〕、屋根〔家家〕の窓からもにもからもも〕、〔大ぜいの〕見物人の顏が一杯は蟻のやうにで一杯での顏がこちらを覗き込んではの顏がこちらを覗き込んででは〔、〕〕ワイワイ云つてゐます。私も隨分あちこちと旅行したことがありますが、〔私は〕これほどは大勢の人間を見たことはなかつたのです。《》[やぶちゃん割注実は以上の神経症的な改稿が実はここで一挙に無化されて、新たに原稿用紙の右罫外に、以下のように全文改稿(但し、不完全で非常に判読しづらい)なされてある「家々」の「々」はママで特異点である。一部、画像が切れている部分があるが、微かな字の断片と原稿から推定した(下線部分)前の部分を無効化しているので(但し、現行には全部を削除するような記号は一切ない)、敢えて太字で示した

 §

屋根の上からも、家々の窓からも、見物人の顏が一杯覘いてゐます。私も隨分あちこちと旅行はしましたがこんなに大勢人のゐるところ大勢〔の〕人〔のゐるところ〕見たのははじめてでした。

 §

 以下、現行版を示す。

 §

屋根の上からも、家々の窓からも、見物人の顔が一ぱいのぞいています。私もずいぶん旅行はしましたが、こんなに大勢、人の集っているところは見たことがありません。

 §

非常によく似ているものの、同一ではない。たった七十七文字(決定稿版)、元の原稿用紙にして四行分しかないこの箇所の産みの苦しみは強烈である。是非、原稿を御覧になられたい(同リンク先で「ブラウザに合わせる」を選択(後から選択すると最初の頁に戻ってしまうため)、原稿用紙の外の右上「40」頁まで「次へ」をクリックされたい)。以下は前の文に続いているので注意されたい(《》で連続箇所を示しておいた)。]《》市街は正方形の形になつてゐて、城壁の四邊はそれぞれ五百呎です。全市を四つに分けてゐる、十文字の大通りの幅は五呎。私は小路や橫町にははいれないので、ただ〔上から〕見て通りすぎましたが、。街の人口は五十萬。〔人〕家は四階建から六階建まであり、商店や市場には、なかなか、いろんな品物がありました〔す〕。

[やぶちゃん注:「五百呎」百五十二メートル四十センチ。

「五呎」一メートル五十二センチ強。]

 皇帝の宮殿は、街の中央の、二つの大通りが交叉するところにあります。高さ二呎の壁で圍まれ、他の建物から、二十呎離(はな)れています。私は皇帝の〔お〕許しを得て、この壁を跨いで越えました。壁と宮殿との間には、廣い場所がありますから〔るので〕、私はそこで、あたりをよく見𢌞すことができました。外苑は方四十呎、その他に〔、〕二つの内苑があります。一番奧の庭に御座所があるのです。

[やぶちゃん注:「二呎」六〇・九六センチメートル。

「二十呎」六メートル強。

「方四十呎」四辺が一二・二メートル弱。]

 私はそ■■へ行つて〕見〔たくてたまら〕なかつたのですが、どうも〔これは〕無理のやうでした。〔す。〕なにぶん、廣場から廣場へ通じる大門といふのが、〔高さは〕たつた十八吋の高さ、幅はわづかに七吋です。それに、外苑の建物といふのはみな高さ五呎以上あ〔り〕るのですが〔で、〕壁は厚さ四吋もあつて〔、〕丈夫な石で出來てはゐますが、それを〔私が〕跨いで 〔え〕行つたら、建物〔が〕壞すことになます。〔れてしまひさう〔なの〕です。〕

[やぶちゃん注:「十八吋」四十五センチメートル七ミリほど。

「七吋」十七センチメートル八ミリほど。

「五呎」1メートル五十二センチメートル強。

「四吋」十センチメートル二ミリ弱。

 ここも試みに整序して比較すると、

【自筆原稿版】

 私はそこへ行つて見たくてたまらなかつたのですが、どうもこれは無理のやうです。なにぶん、廣場から廣場へ通じる大門といふのが、高さはたつた十八吋、幅はわづかに七です。それに、外苑の建物といふのはみな高さ五以上で、壁は厚さ四吋もあつて、丈夫な石で出來てはゐますが、それを私が跨いで行つたら、建物が壞れてしまひさうなのです。

【現行版】

 私はそこへ行ってみたくてたまらなかったのですが、どうもこれは無理でした。なにぶん、広場から広場へ通じる大門というのが、たった十八インチの高さ、幅はわずかに七インチです。それに、外苑の建物というのはみな高さ五フィート以上で、壁は厚さ四インチもあり、丈夫な石で出来ていますが、それを私がまたいで行ったら、建物がこわれてしまいそうなのです。

   *

で、今まで同様、修正を施した箇所が逆に戻っていたりするのが分かる。]

 ところが、皇帝の方では、御殿の美しさを見せてやらうと、頻りに仰せになります。

[やぶちゃん注:ここは現行では改行せず、次に続いている。しかも現行ではわざわざ移動して挿入してある「頻りに」が現行では元の位置に戻され、『ところが、皇帝の方ではしきりに、御殿の美しさを見せてやろう、と仰せになります。』となっている。「頻りに」の位置は、私はこの原稿版の方が日本語として自然であると思う。]

 〔その日は御殿を見るのは、あきらめしたがて、帰りましたが、何とか〕〔ふと〕〔私は踏台を作ることを〔いいことを〕思ひつきました。〕それで私は何とか〔いい〕工夫して〔なければなりませんでした。〕、御殿を拜見しようと思案しました。 私は三日がかりで、踏臺を作りました。〔翌日〕〔私は〕市街から百ヤードばかり隔つた〔離れた〕ところにある林に行つて、一番高さうな木を五六本、小刀で伐倒〔きりたほ〕しました。それで、高さ三呎の踏台を二つ〔、〕作りました。私が乘つても、グラつかないやうな、丈夫な踏台に〔→■〕しました。〔のを作りました。〕

[やぶちゃん注:「百ヤード」九十一・四四メートル。

 ここも実は推敲が錯雑している。原稿自体は最初、マスにきっちりと、

   *

【初筆】

 それで私は何とか工夫して、御殿を拜見しようと思案しました。 私は三日がかりで、踏臺を作りました。市街から百ヤードばかり隔つたところにある林に行つて、一番高さうな木を五六本、小刀で伐倒しました。それで、高さ三呎の踏台を二つ作りました。私が乘つても、グラつかないやうな、丈夫な踏台にしました。

   *

書かれたのであるが、前の部分に、原稿用紙の中央の柱部分を用いて、多量の挿入が行われた上、その後の前半部がかなり大きく書き換えられたである。

   *

【現行整序版】

 その日は御殿を見るのは、あきらめて、帰りましたが、何 ふと私はいいことを思ひつきました。何とかいい工夫して、翌日私は市街から百ヤードばかり離れたところにある林に行つて、一番高さうな木を五六本、小刀できりたほしました。それで、高さ三呎の踏台を二つ、私が乘つても、グラつかないやうなのを作りました。

   *

となったのである(但し、抹消に不完全な箇所がある)。しかし乍ら、これが今は、段落が改変され、

   *

【現行版】

 ところが、皇帝の方ではしきりに、御殿の美しさを見せてやろう、と仰せになります。その日は御殿を見るのは、あきらめて帰りましたが、ふと、私はいゝことを思いつきました。

 翌日、私は市街から百ヤードばかり離れたところの林に行って、一番高そうな木を、五六本、小刀で切り倒しました。それで、高さ三フィートの踏台を二つ、私が乗っても、グラつかないような、丈夫な踏台を作りました。

   *

となっている。くだくだしい説明箇所が思い切ってカットされているのはよいと言える。]

 これが出來上ると、私はまた市街見物を〔皇帝にお〕願 しました。〔すると〕市民〔に〕はまた家〔〕のうちに引込んでゐるやうお達しが出ました〔したす〕。すそこで、私は二つの踏台を抱〔かか〕へて市街を通つて行きました。外苑のほとりに來ると、私は一つの踏台の上に立ち〔あがり、もう一つの踏台は〕手に持ち〔つてゐち〕ました。そして手〔の〕持つてゐる〔の方〕の踏臺を屋根越しに高く持上げ、第一の内苑と第二の内苑の間にある幅八呎の空地へ、そつと〔、〕おろしました。

[やぶちゃん注:「〔皇帝にお〕願 しました」の空隙はママ、「お達しが出ました〔したす〕。すそこで」の併存と衍字もママ。なお、「そこで、私は二つの踏台を抱〔かか〕へて……」以下は、現行版では改行されている。]

 こんな風にして〔、〕私は建物を跨いで一方の踏台から〔、〕もう一方の踏臺へ〔、〕乘移つて行くことができました。乘捨てた方の踏台は、棒の先につけた鈎で〔、〕釣りよせて〔、〕拾ひ上げるのです。かういう工夫〔こと〕を繰返して、私は一番奧の内庭にやつて〔(まで)〕來ました。〔そこで〕私は橫むきに寢轉んで、二三階の窓に顏をあててみました。〔その〕窓はわざと開け放しになつてゐましたが、その室内の美しくて立派なことは、何に〔とおもふぐらいゐ美しいのです。〕たとへていいかわからないのです。〔だつたな〕〔。まるで夢かどの部屋も目がさめるばかりの美しいのです。〕

[やぶちゃん注:以上の改稿の後半には効率的に組み合わされた推敲跡をなるべく分かり易く再現するため、実際には重複が施してある。現行版は以下。

   *

 こんなふうにして、私は建物をまたいで、一方の踏台から、もう一方の踏台へ、乗り移って行くことができました。乗り捨てた方の踏台は、棒の先につけた鈎で、釣り寄せて、拾い上げるのです。こういうことを繰り返して、私は一番奥の内庭まで来ました。そこで、私は横向きに寝ころんで、二三階の窓に、顔をあてゝみました。窓はわざと開け放しにされていましたが、その室内の立派なこと、どの部屋も、目がさめるばかりの美しさです。

   *]

 皇后も皇子たちも〔、〕從者たちと一緒に〔、〕それぞれ〔、〕部屋に坐つてをられます。皇后は〔、〕私を御覽になると〔、〕優しく笑顏を向けられ、わざわざ窓から手をお出しになりました〔す〕。私はその手を恭しく頂いて接吻〔キス〕しました。

 

 私が自由な身になつてから、二週間ぐらゐたつた頃のことでした。ある朝、宮内大臣のレルドレザルがひよつこり〔、〕一人の從者をつれて〔、〕私を訪ねて來ました。彼は〔乘つて來た〕馬車〔は〕遠くへ待たしておき、彼は、

 「一時間ばかり〔、〕お話がしたいのです。」と〔私に面會を〕申込みました。

 私は〔がしきりに〕皇帝へ解放の嘆願〔書を出〕してゐた頃、彼にはいろいろ世話になつたこと〔つた〕のです。で、私はすぐ彼の申込を承知しました。

 「〔なん〕なら私は〔一つ〕橫になりませうか。さうすれば、あなたの口は〔、〕この耳〔許〕にとどいて、お互に話しいいいでせう。」

 「いや、それよりか、あなたの掌の上に乘せてください。その上で〔、〕私は話します。から

 私が彼を掌に乘せてやると、彼はまづ、私が自由釋放  自由にな釋放されたことのお祝いを〔述〕べました。

 「あなたを自由の身にするについては、私も〔、〕だいぶ骨折つたのです。だが、それも現在、宮廷にいろいろ混みいつた事情があつたから〔こそ〕うまくいつたのです。」 と、彼は宮廷の事情を〔、〕次のやうに話してくれました。

 「今、わが國の狀態は〔、〕〔何もしらぬ〕外國人の眼には〔平和で榮へてゐるやう〕隆盛に見えるかもしれませんが、内幕は大へん苦しい〔でな〕のです。一つは〔、〕國内に激しい黨派爭があり、もう一つは〔、〕ある極めて強い外敵から〔、〕わが國は〕ねらはれてゐて、この二つの國難〔大事件〕に惱まされてゐるのです。

[やぶちゃん注:民喜は最後の「二つの國難〔大事件〕に惱まされてゐるのです。」という部分を前の「大へんで」の後に移動する案を持っていたことが、校正書き込みらしき線によって推定出来る。また、「隆盛」の「隆」の字は「降」に酷似した字で、下方罫外に奇妙な「隆」の字に似たような嘘字を大きく書いていて、「隆」の正しい字が思い出せなかったことを物語っている。さらに「極めて」下方罫外には「きはめて」と大きな字で斜めに書き込みがあり、これも平仮名化することを検討していたことが窺われる。]

 〔まづ〕國内の爭いの方から〔申上げ〕説明しますが、この國では〔、〕ここ七十ケ月以上といふもの、トラメクサン党とスラメクサン党といふ二つの政党があつて〔、〕絶えず爭つてゐるのです。〔こ〕の党派の名前は〔、〕はいてゐる靴の踵かかとの高さからつけられたもので、踵の高い〔か〕〔、〕低い〔■■〔か〔、〕〕によつて區別されてゐます。〔一般に〕わが國では〔の〕〔昔〕から〔のしきたりでは〔、〕〕高い踵の方をいいとしてゐました。

 ところが、それなのに、皇帝陛下は〔、〕政府の方針として〔、〕低い踵の方〔ば〕かりを用ひ〔る〕ことに決められました。特に陛下の靴など〔、〕宮廷の誰の靴よりも踵が一ドルル(ドルルは一吋の約十四分の一)だけ踵が低いのです。この二つの黨派の爭ひは〔、〕大変〔猛烈な〕もので、反對党の者とは〔、〕一緒に飮食もしなければ、話もしません。数ではトラメクサン、即ち高党の方が多数なのですが、實際の勢力は〔、〕われわれ低の方にが握つてゐ〕あります。

[やぶちゃん注:「一吋の約十四分の一」一インチは二・五四センチメートルであるから、一・八ミリメートルとなる。]

 ただ心配なのは、皇太子が〔、〕どうも〔、〕高党の方に傾いてゐられるらしいのです。その證據〔に〕は、〔少し皇太子の靴は〔、〕一方の踵が他の一方の踵よりいのでく、步くたびに〔び〕つこをひいてゐられることは〔のです〕。

 ところが、こんな党派爭ひの最中に、われわれはまた、プレフスキユ島からの敵に〔ねらは〕脅かされてゐるのです。プレフスキユといふのは、丁度この國と同じぐらゐの強國で、國の大きさからいつても、國〕力からいつても〔、〕〔ほとん〕ど似たり〔よつ〕たりなのです。

[やぶちゃん注:「プレフスキユ島」はママ。現行は「ブレフスキュ島」。原文は「Blefuscu」である。次の段では「プレフスキュ」とある。]

 あなたのお話によると、なんでも、この世界には〔、〕まだやはまだ〕いろいろ國があつて、あなたと同じぐらいの大きな人間が住んでゐるさうですが、それはわが國の哲學者は〔、〕大いに疑つてゐます〔て、〕矢張り、あなたは月は星か〔の世界〕か〔、〕星の世界から落ちて來られたものだらうと考へてゐます。〔それ〕といふの〔も〕、あなたのやうな人間が百人もゐれば、わが國の果實も家畜も〔、〕食ひつくされてしまふではありませんか。それに、この國六千月の歷史〔を調べてみても、〕リリバットとプレフスキュ〔二大國の〕外に〔〕〔、〕國があること〔などと〕は〔本に〕書いてありません。

[やぶちゃん注:「六千月」リリパット国の暦がグレゴリオ暦と酷似した太陽暦方式の十二ヶ月一年とするのなら、このリリパット国は建国から五百年ということななる。]

 ところで、この二大國のお話〔こと〕ですが、この三十六ヵ月間といふもの、兩國と実に〔、〕しつこく、戰爭をつづけてゐるのです。ことの起りといふのは〔、〕かうなのです。もともと〔、〕われわれが〕卵を食べる時には、その大きい方の端を割るのが〔、〕昔からのしきたりだつたのです。

 ところが〔、〕今の皇帝の祖父君がまだ幼かつた頃子供の子供の頃、卵を食べよ〕うとして、習慣どほりの割り方をしたところ、小指に怪我をされました。さあ、そこで〔大変だといふので〕、〔時の〕皇帝は〔〔、〕こんな〕敕令を出して〔され〕ました。『卵は小さい方の端を割つて食べよ。これにそむくものは〔、〕〔きびしく〕刑す。』と、この命令〔こと〕をきびしく〔國〕民につたへられまし〔命令されまし〕た。だが、國民は〔、〕この命令をひどくいやがりました。歷史の傳へるところによると、このために、六囘も内亂が起り、ある皇帝は〔、〕命を落されるし、ある皇帝は〔、〕退位されました。

[やぶちゃん注:現行版は「きびしく罰す」となっている。]

 ところが、この内亂〔と〕いふのは、いつでもブレフスキ〔ュ〕島の皇帝が、おだててやせたのです。だから内亂が鎭まると、いつも謀反人はブレフスキ〔ュ〕に逃げて行きました。とにかく、卵の小さい端を割るぐらゐなら〔、〕死んだ方がましだといつて、死刑にされたものが一万一千人からゐます。この爭については、何百冊も書物が出てゐますが、大きい端の方がいゝと書ゐた〔本〕は 禁止  人人國民に讀むことを禁止されています。また、大きい端の方がいいと考へる人は〔、〕役人〔官職〕になる〔つく〕こと〔も〕できません。

 ところで、ブレフスキ〔ュ〕島の皇帝は〔、〕こちらから逃げて行つた〔謀反〕人たちを〔、〕非常に大切にする〔して〕よく待遇するし、おまけに、こちらの不平分子〔反対派〕反對派までも〕〔、〕こつそり〔これを〕應援するので、兩國〔二大〕國の間に激三十六ケ月にわたる戰爭がはじまつたのです。その間にわが國は〔、〕四十隻の大船と〔、〕多數の小船と〔、〕〔それから〔、〕〕三万人の海陸兵を失ひました。が、敵の損害は〔、〕それ以上だつたといはれてゐます。

 しかし〔、〕今また敵は新しく、大艦隊をととのへ、こちらに向つて攻め入らうとしてゐます。それで皇帝陛下は〔、〕あなたの勇氣と力を非常に信賴されてゐるの〔てゐるので〕、〔こ〕の國難〔こと〕を〔あなたと〕相談してみてくれ〔、〕と言はれ〔たので〕、私をさしむけられたのです」

 

 宮内大臣の話が終ると、私は彼に〔かう〕言ひました。

 「どうか陛下にさう傳へて下さい。私は〔外國人ですから〔どんな骨折で〕もいといません。しかし〔、〕私は外國人ですから〔、〕政党の爭のこと〔に〕は立ち入りたくありません。が、外敵に対して 國から〔外敵に対してなら、〕陛下とこの國を護るために命がけで戰ひませう。」

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第四章 人爲淘汰(4) 五 その結果 / 第四章~了

     五 その結果

Hitujitobuta

[羊と豚

(人爲淘汰の結果を示す)]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。

 上方の異様に毛の長く垂れた羊は、幾つかの品種羊の画像と改良史を比較してみた感じでは、私はイギリス東海岸のリンカーンシャー地方を原産として改良された「リンカーン種」(Lincoln)ではないかと判断する。在来種にイギリス・レスター地方原産の食肉種「レスター種」(Leicester)を交配してつくられた主目的は肉用種(羊毛採取は従)で、羊の中では最も体格が大きく、成体のの体重は一四〇~一六〇キログラムに達し、毛長は 三〇センチメートルにも及ぶ。毛質はメリノ種よりも劣るものの、白色の絹糸様の光沢を持っている(「リンカーン種」については「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。但し、本文の記載は明らかに羊毛用種例として掲げているようにしか読めないのがやや気になる。私の同定が誤っている可能性もあるので、識者の御教授を乞うものである。

 一方、下方の異様に肥えた豚は一見、「西遊記」の「猪八戒」のモデルとも言われている、中国の太湖豚(タイフウトン)系原種豚の一品種である「梅山豚(めいしゃんとん)」を想起させるが、あれほどに異形ではないし、上のリンカーン種(と仮定して)と並べて描かれたとすれば、それでは如何にもおかしい。そういう観点からネット上の画像を見てゆくと、英国最古のブタの品種の一種で、イングランド東南部のコーンウォールを原産とする「ラージ・ブラック種」(Large Black)ではないかと思い至った。サイト「サイボクぶた博物館」のラージブラック」によれば、南西部などで在来の品種を合成して十九世紀中期に作出され、以来百年余に渡って純粋繁殖が続けられてきた品種で、『被毛は黒く黒色を呈し、頭は長さ中等で、耳は大きく垂れ、目を覆っている。頬、顎は軽く、胴伸びと肋張りが良い。後躯は長く腿の発達も良い。体格は大型で体重は平均』でが三八〇キログラム、で三〇〇キログラムに達し、の中には五〇〇キログラムを越える個体もある、とある。『体質は強健で粗食に耐え、放牧に適している。性格はおとなしく、繁殖力、哺育能力に優れ、産子数は平均』で一〇・三頭、体が長く、『肉は精肉・加工いずれにも適しているが、厚脂になりやすい。ヨーロッパ各国、北米、南米、オーストリアに輸出されているが、特にドイツではコーンウォールの名でかなり飼われていた』。『我が国には』、昭和三八(一九六三)年頃に『若干数が輸入されたが、一般には普及』せず、『原産地のイギリスでも』現在は『希少品種に指定され、国民の浄財で運営されている農場で保存されるだけになっている』とある。]

 

 人爲淘汰を行ふに當つて、飼養者は何を標準とし、何を目的とするかといふに、大抵は價の高いものを造つて金を儲けようとかまたは珍奇なものを造つて他人に誇らうとかいふ二通りより外には無い。而して實用を主とする動物では如何なるものが最も多く世に需められるかといへば、之は勿論その動物の實用に適する點の最も發達したもので、乳牛ならば乳の最も多く出るもの、毛羊ならば毛の最も善いものである。また玩弄的動物ならば、普通のものとは違つた奇態な方面に變化したものが多く人に珍しがられ、價も自然高い。かの無暗に胸を脹らせる鳩の種類や、尾を扇子の如くに擴げる鳩の種類などは、この例である。代々かやうな點を淘汰の標準とし、かやうな點の最も發達したものを選み出し、之に子を生ませて飼養し來つたから、今日ヨーロッパで價の高い上等の家畜は執れもこれらの點が非常に發達して、恰も注文に應じて特別に製造した如き形狀・性質を備へて居る。例へば肉を食ふための豚は腹が地面に觸れぬばかりに身體が肥滿し、四足も短く、鼻も短く、丸で大きな腸詰肉が步き出した如くである。また毛を取るための綿羊は柔い毛が非常に澤山に生じて、恰も綿の塊に四足を附けた如くに見える。また乳を搾るための牝牛は乳房だけが無暗に大きく發達し、一日に二斗以上も乳を出して、殆ど乳汁製造器械と名づけてもよいやうな構造を持つて居る。

[やぶちゃん注:まず最初に述べておかねばならないが、実は底本では人名に下線、国名・地名等に二重下線が施されてある。今まで何のためらいもなく、そのようにワードで区別してきたのであるが、公開している私のブログでは二重下線はただの下線に自動的に変換されてしまうことを忘れていた。この度より、底本の「二重下線」は「太字下線」とするので御理解戴きたい。過去公開分はおいおい修正することとする。悪しからず。

「二斗」三十六リットル。]

 こゝに一つ注意すべきは、以上の如き性質は皆人間が自分の需要に應じて或る年月の間に造り上げたもの故、人間に取つては孰れも極めて便利有益なものであるが、その動物自身に取つては何の役にも立たず、寧ろ邪魔になることである。豚の肥えることは之を食ふ人間に取つては誠に結構であるが、豚自身に取つてはたゞ步行が困難になるだけで何の利益もない。羊の毛の多いことは之を剪つて毛布を織る人間に取つては誠に調法であるが、羊自身から見れば恰も夜具を被せて步かされたやうなもので迷惑至極な話である。また牝牛の乳の非常に多く出るのは之を搾つて飮む人間には誠に有難いが、自分の生んだ子が到底飮み盡せぬ程に澤山の乳が出ることは親牛に取つてはたゞうるさいばかりで何にもならぬ。その他金魚の尾の長いのは、之を見る人間には奇麗で宜しいが、金魚自身はそのため速く泳ぐことが出來ぬ。また八重咲の花や、種子無の蜜柑は、之を眺めたり食うたりする人間には悦ばれるが、その植物自身はそのため肝心の生殖作用が出來ぬ。

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第四章 人爲淘汰(3) 四 選擇のこと

     四 選擇のこと

 

 凡そ物を選擇するといふ以上は、多數の相異なつたものの中から或るものを選擇するに定まつて居る。なぜといふに、全く同じものばかりならば數は幾ら多くあつても彼と此との間に少しも相違がないから、孰れを選むといふことも出來ず、また數が少くて五個あるものの中から四個を選み出し、十個の中から九個を選むといふやうでは、勢ひ不合格のものまで採用せざるを得ぬから、十分の選擇は出來ないのである。

 我々の飼養する動植物に就いて考へて見るに、一對の動物が一生涯に僅に二疋だけより子を生まぬものも決してなく、一本の植物で一生涯にたゞ一個より種子を生ぜぬものも決してない。皆必ず親の後を繼ぐに足るだけの數よりは數倍・數十倍或は數百倍・數千倍も多くの子を生ずる。例へば一粒蒔いた麥の種子から數百粒の種子が出來、一對の蠶の蛾から數百粒の卵が生れる。牛馬の如き大きな獸類は繁殖の最も遲いものであるが之でも一對の牝牡からは一生涯の間には十疋以上の子が生れる。而して斯く多數に生れる子が變異性によつて皆多少相異なつて居るから、飼養者はこの中より自分の理想に最も近い性質を帶びたものを十分に選み出すことが出來るのである。

 兎の例は前に擧げたが、斯くの如く或る一定の標準に從つて一代每に最も優れたものを丁寧に選擇し、他のものは總べて繁殖せしめず、ただ當選したものだけに子を生ませて、益々或る一定の性質の發達を計ることは、素より兎に限ることでなく、今日農業の開けた國ではどこでも盛に行つて居ることで、この法を嚴重に行ふ處ほど比較的短い時期の聞に立派な變種が出來る。馬・牛・羊などは何處でも特に選擇を嚴重にするものであるが、各々その目的に隨ひ標準を立て、競馬用の馬ならば、足の最も速なものを選み、荷馬ならば最も力の強いものを選み、肉用の牛ならば最も肉の多くて生長の速なものを選み、また乳牛ならば最も多量に乳の出る牝牛、或はその牝牛を生んだ親の牡牛、或はその牝牛から生れた子の牡牛を選んで、繁殖の用に供する。羊にも毛を取るためのもの、肉を食うためのもの、兩用のものなどあるが、毛を取るための羊では選擇が極めて嚴重で、先づ多くある羊の中から最も毛の良かりさうなものを澤山に選み出し、その中から二疋だけを引き出して、選擇用として特別に設けた臺の上に竝び立たせ、丁寧に毛を比較し調べて見て、毛の優れる方を臺の上に殘し、毛の劣れる方を臺より下して、その代りに次の一疋を載せて再び調べ、優れる方を殘し劣れる方を退けて、順々にありだけの羊を皆比較し、總べての中で眞に第一等の毛を有するものを選み出して、之に子を生ませる。羊の毛の最も上等なものを二つ竝べてその間の微な優劣を識り別けるのは、なかなかの熟練の入ることで普通の人には到底出來ぬが、そのため牧羊の盛な土地には羊毛の鑑定を職業とし、種羊選擇の際に相當な報酬を取つて方々へ傭はれて行く人々がある。今日世界に有名なメリノ羊などは全く斯かる嚴重な淘汰を長い間勵行した結果出來たである。
 
[やぶちゃん注:「速な」「すみやかな」。]


 

Merino

[メリノ羊]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。

「メリノ羊」毛質が繊細で最も優れており、体質も強健で群居性に富むことから放牧にも適した羊毛用改良品種の一種であるメリノ種(Merino)のこと。ウィキの「ヒツジ」によれば、『野生タイプのヒツジの上毛(ケンプ)は黒色、赤褐色や褐色であったが、改良によってヘアーやウールタイプのヒツジからは淡色や白色の毛が得られ、染料技術と共にメソポタミアからエジプトに伝播し、彩色された絨毯は重要な交易品となった。紀元前』一五〇〇年頃から、『地中海に現れたフェニキア人によって白いウールタイプのヒツジがコーカサス地方やイベリア半島に持ち込まれた。コーカサス地方のヒツジは、のちにギリシア人によって再発見され、黄金羊伝説となった。このヒツジはローマ時代には柔らかく細く長く白いウールを生むタランティーネ種へ改良された。ローマ人が着用した衣服はウールの織物である。一方、イベリア半島では、すでに土着していたウールタイプのヒツジとタランティーネ種の交配による改良によって、更なる改良が続けられ』、紀元後一三〇〇年頃の『カスティーリャで現在のメリノ種』『が登場した』(但し、諸辞書の記載では起源は明らかでないとするものも多い)。『理想的なウールだけを産するメリノ種は毛織物産業を通じてスペインの黄金時代を支えた。メリノ種はスペイン王家が国費を投じて飼育し、数頭が海外の王家へ外交の手段として贈呈される以外は門外不出とされた。これを犯した者は死罪だった』。十八世紀になると『スペインの戦乱にヨーロッパの列国が介入し、メリノ種が戦利品として持ち去られて流出、羊毛生産におけるスペインの優位性が喪失された。イギリスでは羊毛の織物と蒸気機関を組み合わせた新産業が興った』。一七九六年、『南アフリカ経由で』十三頭の『メリノ種がオーストラリアに輸入された』この中の三頭が『現在のオーストラリアのメリノ種の始祖になったと伝えられている。この羊を買い取ったニュー・サウス・ウェールズ州のジョン・マッカーサーはヒツジの改良に努め、オーストラリアの羊毛産業の基礎を築いた』とある。]

 

 我々は前にも述べた如く、遺傳の理由・法則は一向詳しく知らぬが、親の性質が餘程まで子に傳はることは每日實際に見る所で、少しも疑ふべからざる事實である。また我々は變異の理由・法則は一向詳しく知らぬが、同一の親より生まれた子が皆多少互に相異なることは每日實際に見る所で、之また少しも疑ふことの出來ぬ事實である。この二通りの事實があつて、その上、子の生れる數は親の數に比して頗る多いことも事實であるから、たゞ一代每に之を淘汰する人さへあれば、その結果として必ず動植物ともに漸々形狀・性質が變化し、且種々の變種が生ずべき筈である。單に理論から言つても、斯くの通りであるが、現に今日西洋諸國で見る如き飼養動植物の著しい變種は、實際皆この方法によつて出來たものである。

 人爲淘汰の働き方を尚一層明瞭に理會するためには、前に掲げた矢で的を射る譬に比べて考へて見るが宜しい。的を狙つて矢を放つことは、生物の方でいへば、恰も遺傳性の働に比すべきもので、その放つた矢が殆ど悉く的の中心よりは何方かへ外づれることは、恰も變異性の働に匹敵する。また一囘に放つ矢の數は一對の親から生れる子の數と見て宜しかろう。そこで、先づ或る處に的を懸け、之を狙つて二十本なり三十本なり矢を放ち、次に矢の當つた孔の中で最も右へ寄つたものの處に的を懸け直し、更に之を狙つて二十本なり三十本なりの矢を放ち、またその矢の當つた孔の中で最も右へ寄つたものの處に的を移し、數囘或は數十囘も同樣なことを繰り返すと假定したらば、その結果は如何、的は必ず每囘多少右の方へ移り、終には最初在つた處とは餘程右の方へ遠ざかつた處に來るに違ひない。人爲淘汰によつて動植物の變化する有樣は簡單に言へば略々斯くの如き具合である。

 併し、一代每に動植物を規則正しく淘汰して最も優等なものだけを繁殖用とすることは、飼養者の貧富等の事情によつて出來る場合もあり、また出來ぬ場合もある。英國の如く大地主が數百乃至數千の家畜を養つて居る處では、代々十分の淘汰も出來て、比較的短い時の間に隨分立派な種類も生ずるが、貧乏人が一軒每に一二疋づゝを飼つて居る處では、到底そのやうな眞似は出來ず、隨つて何年過ぎても餘り進步する見込はない。現に驢馬の如きは西洋諸國で昔から人の飼つて居る獸であるが、多くは貧乏な百姓などの飼ふもの故、今日と雖もまだ一向に立派な變種も出來ない。また馬でも牛でも立派な變種のあるのは皆政府或は個人で廣い場所に多數を飼養し、學理に隨つて常に丁寧に淘汰を行ふ國だけである。我が國などに昔から馬も牛も大も鳩も皆たゞ一種類だけよりなかつたのは、今まで餘り人爲淘汰の行はれなかつた結果であらう。我が國では今日と雖も總べての家畜類に甚だしい變種がないから、人爲淘汰のこともたゞ話に聞くだけで餘り深くは感じないが、西洋では何の類にも著しい變種が多いから、人爲淘汰の效力を特に深く感ずる。而してこの點で最も進步した國は英國であることを考へると、英國人なるダーウィンが人爲淘汰のことから野生動植物のことに考へ及ぼし、自然淘汰の理に考へ當つたのは、決して偶然とはいはれぬ。

2016/05/13

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蛆


Uji

うじ    蛆   
【本字】

【音疽】 和名波閉乃古

      俗云宇之

ツイ

[やぶちゃん注:「」=「虫」+「且」。]

 

本綱蠅之子也凡物敗臭則生之其行趦趄故謂之蛆

治爛痘生疽以嫩柳葉鋪臥引出之治癰疽瘡瘍生蛆以

 木香梹榔散末傅之

糞蛆及蝦蟇肉蛆共治諸疳

按蛆字作蠅乳肉中故从肉

 素問類經云蛆性喜暖畏寒火運之年尤多也

 

 

うじ    蛆   【本字。】

【音、「疽」。】 和名、「波閉乃古〔(はへのこ)〕」。

      俗に云ふ、「宇之(うじ)」。

ツイ

[やぶちゃん注:「」=「虫」+「且」。]

 

「本綱」、蠅の子なり。凡そ、物、敗臭〔(やぶれくさ)れば〕、則ち、之れを生ず。其の行(あり)く、趦趄(うじうじ)とする故、之れを「蛆」と謂ふ。

爛れたる痘〔にして〕疽〔(そ)〕を生じたるを治するに、嫩(わか)き柳の葉を以て鋪〔(し)き〕臥〔(ふ)せしめ〕、之れを引き出ず。癰疽〔(ようそ)〕・瘡瘍〔(さうよう)にして〕蛆を生ずるを治するには木香・梹榔散〔(びんらうさん)〕の末を以て之れに傅〔(つ)〕く。

糞〔の〕蛆及び蝦蟇〔(かま)〕肉の蛆、共に諸疳を治す。

按ずるに、「蛆」の字、「」に作る。蠅、肉中に乳す、故に「肉」に从〔(したが)ふ〕。

 「素問類經(けい)」に云ふ、蛆、性、暖を喜び、寒を畏る。火運の年、尤も多し。

 

[やぶちゃん注:次項に出る「蠅」、

昆虫綱有翅昆虫亜綱双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目 Muscomorpha の幼虫

というのが分かりよいものの、もっと狭義のハエ類のそれとするなら、

短角亜目 Brachycera の内の環縫短角群(環縫群)Cyclorrhaphous の幼虫

と名指すのが現代生物学上の分類では正しいことになる。しかし逆に、蠅の蛆に似た、全く別種の幼虫も皆「蛆」と呼んでいた(現在も大衆は皆々そうである)と考えると、実際には、

双翅(ハエ)目 Diptera
或いはその上の、

有翅昆虫亜綱 Pterygota

の蛆状の幼生期を経る総ての種群が比定候補足り得るように私には思われる。

 

・「蛆」別名位置に見出しと全く同じ字が配されてあるのは特異点で、こんなケースは他では見られない。これは或いは別な字を書いたのを誤って刻したものの可能性が私には深く疑われるのだが、如何? 例えば「蛆蟲」の「蟲」の脱字である。「蛆蟲」は既に「後漢書」にも出るからである。

・「【本字。】」(「」=「虫」+「且」。)確かに「」は「蛆」の正字である。「」は肉の中に生ずる「うじ」で、この「」は本文の字解でも述べる通り、肉、即ち、基本、動物(生死を問わず)の体内に発生する「虫」の中でも、「且」(節が重なる意)である「虫」、つるんとしているのではなく、「節(ふし)を持った虫」を意味する字である。

・「宇之(うじ)」和語の「うじ」の語源は、ここで良安がアジなルビで解き明かしている。即ち、「本草綱目」を和訓して――其の歩く(様は)、趦趄(うじうじ)としている。故に、これを「蛆」と謂うのである(原文「時珍曰、蛆行趦趄、故謂之蛆。」)。蛆虫の語源は、一般に記紀歌謡に出る上代語の、沢山集まることを指す「うずすまる」の「うず」が訛ったたものとされる。これはなかなか肯んずることの出来る語源説と私は思う。

・「臭〔(やぶれくさ)れば〕」分かり易く恣意的に訓じた。

・「爛れたる痘」天然痘の豆粒状の丘疹発疹が化膿して膿疱となった状態を言う。

・「疽」これは「蛆」の誤記(音を示した字を良安が誤写したものであろう)。「本草綱目」でも「蛆」となっている。

・「鋪〔(し)き〕臥〔(ふ)せしめ〕」分かり易く恣意的に訓じた。

・「之れを引き出ず」現象自体は不詳であるが、柳の若葉に何らかの蛆を誘因する物質が含まれるか、含まれると信じられたのであろう。現実に柳の若葉の成分に蛆の誘引或いは忌避物質が含まれているかどうかは確認出来なかった。

・「癰疽〔(ようそ)〕」悪性の腫れ物。「癰」は浅く大きく、「疽」は深く狭いそれを指すと辞書にはあるが、医学事典を調べると、「癰」も「疽」も恐らくは、所謂、皮膚感染症の中でも化膿が進んでしまった重症の皮膚膿瘍(のうよう)のことで、最も一般的な原因菌は黄色ブドウ球菌及び連鎖球菌である。狭義には応急処置としては切開排膿をする以外にはない状態のものを指すと考えてもよい。

・「瘡瘍」漢方サイトの記載を見ると、急性の皮膚の化膿症を指し、潰ぶれ破れ易い代わりに病態の経過も比較的短い症状のものを言うようである。

・「木香」インド北部原産の多年生草本であるキク目キク科トウヒレン属モッコウ(Saussurea costus 又はSaussurea lappa の孰れかを指す和名)の根を原材料とする漢方生薬。芳香性で健胃作用を持つ。

・「梹榔散〔(びんらうさん)〕」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu の種子を原材料とした漢方薬剤。アルカロイドを含み、一般には「檳榔子(びんろうじ)」と呼ばれる。ウィキの「ビンロウによれば、『檳榔子の粉は単独では歯磨剤や虫下しに使用される。漢方方剤では、女神散(にょしんさん)、九味檳榔湯(くみびんろうとう)などに配合される。日本では薬局方にも記載されている』とある。

・「糞〔の〕蛆及び蝦蟇〔(かま)〕肉の蛆、共に諸疳を治す」前の二例の処方は「害虫」として人体の患部に蛆が巣食った場合の除去処置法であったが、ここはやっと「益虫」としての漢方生薬としての「蛆」である。「疳」は「癇の虫」と同じで「ひきつけ」などの多分に神経性由来の小児病を指す。この他にも、ウィキの「によれば、その他にも、蛆の持つ特異な食性を利用して病変による壊死組織の除去に用いる医療法として「マゴット・セラピー」(Maggot therapyMaggot は「蛆」のこと)がある。『戦争時や、傷の手当や治療が不十分で不潔な包帯を放置された場合など、傷口にウジがわく場合がある。けが人にとってその感触は極めて不快であるとのことだが、ウジが膿や腐敗した部分を食べることで傷口が清潔になり、むしろ傷の状態がよくなったり、患部を含めた周辺部位まで至る切断や切除を免れる場合がある。第一次世界大戦中、既に傷口にウジが発生した兵士の生存率が突出して高いことには注目が集まっていたという』。『ウジは、正常な組織や生きている組織を食べることはない上に、殺菌効果のある分泌液を出しながら腐敗した細胞や壊死細胞のみを食べるので、感染症の予防効果がある。また、分泌液は肉芽細胞や毛細血管の再生を促進させる働きもある』。『そのため、このことを潰瘍や末期の糖尿病における四肢の壊疽などの治療に積極的に利用する治療法(マゴットセラピー)がある。ただし、もちろんこれは専門医の指導のもと医療用に繁殖させた無菌ウジを使った場合に限る。言うまでもなく、外科治療に関する医学的な知識がないものがウジを用いた治療を試みるべきではない』とあり、また、『イタリアのサルデーニャ地方には発酵して蛆をわかせたカース・マルツゥと呼ばれるチーズが実在し、珍味とされている。蛆の外見ははちのこに似るが、はちのこ程の美味ではなく、ごく普通の(昆虫の)味であった、との報告がある』ともあり(このチーズ、永く喰いたい喰いたいと思いながら、いまだ実現していない)、私の記憶では中国に乾燥させた蛆を浮かせた茶が存在し(これは断じて「宇治茶」のパロディではなく、民放の番組で何度も実際に見た)、メキシコには蛆を漬け込んだテキーラがあるとも聴いたことがある。

・「从」「從(従)」に同じい。

・「素問類經」東洋文庫版現代語訳の「書名注」には、『三十二巻。明の張介賓撰。』漢方医学の基本図書である「黄帝素問・霊枢」を、『摂生・陰陽・蔵象』(ぞうしょう:身体の臓器の齎す現象)などの『十二目三百九十条に分類し、それに図翼十一巻・付翼四巻を付けたもの』で、やはり漢方の古典として知られる「内経(ないけい)」の元の形をばらばらに分類してしまってはいるものの、『条理整然としていて』、『知りたい事項は拾いやすく、また注も』非常に優れているとされる書であるとある。

・「火運の年」五行の「火」に相当する年ということであろうが、具体に熱暑旱魃の年という謂いであろう。]

ガリヴァの歌   原民喜

  ガリヴァの歌

 

必死で逃げてゆくガリヴァにとつて

巨大な雲は眞紅に灼けただれ

その雲の裂け目より

屍体はパラパラと轉がり墜つ

轟然と憫然と宇宙は沈默す

 

されど後より後より追まくつてくる

ヤーフどもの哄笑と脅迫の爪

いかなればかくも生の恥辱に耐へて

生きながらへん と叫ばんとすれど

その聲は馬のいななきとなりて悶絶す

 

[やぶちゃん注:私が私の「原民喜全詩集」で底本とした一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅲ」では総標題「魔のひととき」の五篇目に配されてある。同書書誌によれば、初出は原民喜自死から四ヶ月後に出た昭和二六(一九五一)年細川書店刊「原民喜詩集」である。私のポリシーにより正字化して示した。但し、現在進行中の私の「ガリヴァー旅行記」の原稿復元作業【2017年12月11日追記:本カテゴリ「原民喜」で、昨日、全電子化注を終了した。】では彼は旧字の「聲」を「声」と書く傾向は窺える。「憫然」は「あわれむべきさま」の意。本詩篇は「魔のひととき」詩群の順列から見ても戦後の創作であり、本篇のイメージには原子爆弾の惨状のイメージが意識的確信犯としてダブらせてあると考えてよい。]

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 小人國(3) 第三章 いろいろな曲藝

    第三章 〔いろいろな〕曲藝かくし

[やぶちゃん注:想像するに「かくし」は「かくしゆ」(各種)と書こうとして、子供向けでないからやめて、改めて上に「いろいろな」を挿入したものであろう。]

 

 私の性質がおとなしいといふことが、みんなに知れ〔わた〕り、皇帝も宮廷も軍隊〔も〕國民すべてが〔國民も、みんなが〕、私を信用してくれるやうになりました。で、私は近いうちに自由の身にしてもらへる〔の〕だらう〔、〕と思ふやうになりました。私はできるだけ、みんなから良く思われるやうに努めました。

[やぶちゃん注:「と思ふやうになりました。」と「私はできるだけ」の間には改行指示が一度書き込まれて、抹消されてある。]

 人々はもう私を見でも、だんだん怖がらなくなりました。私はねころんだまま、手の上〔で〕五六人の人間を〔おど〕らせたりしました。時には子供たちがやつて來て、私の髮の毛の間で、かくれんぼうをして遊ぶこともありました〔す〕。もう私は彼等の言葉を聞いたり〔、〕話したりすることに〔に〕〔も〕馴れてゐました。或る日、皇帝は、私を慰め 見世物を私にしてみせてく〔や〕れること一つこの國私を喜ばすために、この國〕〔と思れました。ひつかれました。〕〔私に一つこの國の見世物を見せて喜ばせてやらうと思はれたのです。→ました。私の慰めに、この國の見世物をやつて〔み〕せて〔くれることににありました。〕〔、私を〔大へん〕喜ばしてくれました。〕が、この見〔世〕物は實に巧みで華やかでした。それは實さい素晴らしい見世物でした。なかでも面白かつたのは綱渡で、これは地面から二呎十二吋ばかりに細い白糸を張つて、その上でやるのです。

[やぶちゃん注:「もう私は彼等の言葉を聞いたり〔、〕話したりすることに〔に〕〔も〕馴れてゐました。」は現行版では削除の方が生きていて、「もう私は彼等の言葉を聞いたり、話したりすることに馴れていました。」となっている。

「馴れてゐました。」と「ある日、皇帝は」の箇所は現行では改行されている。

「二呎十二吋」九十一・四四センチメートル。

 この「或る日、皇帝は」以下はかなり推敲している。現行版では改行された独立段落で、

   *

 ある日、皇帝は、この国の見世物をやって見せて、私を喜ばしてくれました。それは実際、素晴しい見世物でした。なかでも面白かったのは、綱渡りです。これは地面から二フィート十二インチばかりに、細い白糸を張って、その上でやります。

   *

となっている。]

 この曲藝は、宮廷の高い〔地〕位につきたいと望〔んでゐる〕人たちが、〔出て〕演じるのでした→した〕。選手たちは子供の時から〔、〕この藝を仕込まれるのです〔ます〕。かりにもし→かりに〕、宮廷の〔高〕官が死んで〔、〕その〔その〕椅子が一つ空いたとします。するとその椅子 に腰かけたいもの〔すると〕五六人の候補者が〔出て來て〕、綱渡りをして皇帝に御覽に入れます。〔そしてなかで〕一番高く飛び上つて〔、〕落ちない者が、その空いた椅子に坐れる〕〔腰かけさせてもらへる〕のです。時には皇帝の命令で、大臣たちが、この曲藝をして〔、〕〔皇帝に〕御覽に入れることもありますこんなに高く跳びます〔よ〕と 大藏大臣〔のフリムナム〕など実に巧み高く〕で〔みごと〕〔あざやかで上手高く〕〔跳び上ります。〕續けざまに宙還りするところを私は見ました。 この人は〔私は彼が〕細い糸の上へ皿をおいて、その上でトンボ返りをするところを見ました。

[やぶちゃん注:現行版では「〔腰かけさせてもらへる〕のです。」と「時には」の間で改行されており、後半部は大臣の固有名詞を含め、かなり異なる。まず削除に従って整序した自筆原稿版(句点落ちと助詞の異常や削除忘れは好意的に追加変更しておいた)、次に現行版を示す(下線やぶちゃん)。

   *

【自筆原稿版】

時には、大臣たちが、この曲藝をして、皇帝に御覽に入れることもあります。こんなに高く跳びますよと大藏大臣のフリムナムなど実にあざやかに跳び上ります。私は彼が細い糸の上へ皿をおいて、その上でトンボ返りをするところを見ました。

【現行版】

ときには大臣たちが、この曲芸をして、こんなに高く跳べますよと、皇帝に御覧にいれることもあります。大蔵大臣のフリムナップなど、実にあざやかで、高く跳び上ります。私は彼が細い糸の上に皿を置いて、その上でとんぼ返りをするところを見ました。

   *

太字にした「とんぼ」は底本では傍点「ヽ」である。]

 だが、この曲藝〔で〕は時時、死人や怪我人を出すことがあります。私も選手が手足を〔くじ〕いたのを二三回見ました。なかでも、一番あぶないのは〔、〕大臣たちの曲藝です。それはお互に仲間の者に負けまいとして、あんまり氣張つてやるので、よく綱から落こちます。大藏大臣のフリムナムでさへ、以前、一度なんか、〔頭の〕骨を、も少しで折るところだつたさうですが、〔のです。〕 たまたま下に國王のクシヨンがあつたので助かつたといひます。

[やぶちゃん注:ここも後半がかなり異なる(下線やぶちゃん)。

【自筆原稿版】

大藏大臣のフリムナムでさへ、一度なんか、頭の骨を、も少しで折るところだつたのです。下に國王のクシヨンあつたので助かつたいひます

【現行版】

大蔵大臣のフリムナップでさえ、一度なんか、も少しで頭の骨を折るところでしたが、下に国王のクッションあったので、助かったいうことです。]

 それから、もう一つ、ほかの見世物があります。これは皇帝と皇妃と總理大臣の前だけで演ぜら〔やらさ〕れる特別の餘興なのです。皇帝はテーブルの上に、長さ六吋の細い絹糸を三本置きます。一つは靑、一つは赤、もう一つは綠。この綠は〔の糸です。〕皇帝が〔は〔、〕〕とくに取り立ててヒイキ〔目をか〕けてやらうとする人たちに〔〔、〕このやる〕賞品なのです〔をやるの〕です。

 まづ宮廷の大廣間で、候補者たちは〔、〕皇帝からいろんな試驗をされます。皇帝が〔手に〕一本の棒を水平にしてゐるとぢつまつ→まつすぐ橫に構へ〕てゐると、候補者たちが一人ずつ進んで來て〔ます。〕棒が上下に動かされると、の指図に隨つて、人人は、その上を跳び越えたり潛つたりします。 候補前へ行つたり後へ行つたりします。そんなことを何度も繰返すのです。

 この藝を一番、身輕に〔、〕〔そして〕ねばり〔辛抱〕強くやつたもの〔に〕、〔優等〕賞として〔、〕〔靑〕色の絲が授けられます。二等賞は赤絲で、綠が三等賞です。もらつた絲は〔、〕みんな腰のまはりに卷いて飾ります。ですから、宮廷の大官は大概、この帶をしてゐます。

[やぶちゃん注:最初の一文は整序に従うなら、

   *

 この藝を一番、身輕に、そして辛抱強くやつたものに、優等賞として、靑色の絲が授けられます。

   *

となるはずであるが、現行版は、

   *

 この芸を一番うまく熱心にやった者に、優等賞として、青色の糸が授けられます。

   *

で有意に異なる(下線やぶちゃん)。]

 軍隊の馬も皇室の馬も、毎日、私の前を引き𢌞されまし〔たの〕で、もう私を怖がらなくなり、平氣で私の足許までやつて來るやうになりました。私が地面に手を〔差→さ〕し出すと、乘手が馬を躍らしてヒラリと飛越えます。主馬頭などはある男〕大きな馬に打乘つて、私の片足を靴ごと跳び超えます。〔るのも人も→のも〕ゐます。〕これは実にみぎとなものでした。

 ある日、私は非常にとても〕面白いこと〔餘興〕をして御覽入れて〔みせて〕、皇帝に喜ばれたことがあります。〔をひどく喜ばしました。〕先づ私は、〔皇帝に、〕高〔長〕さ二呎、太さ普通の杖ほどの棒を數本何本取寄せてゐたゞきたい〔、〕と願ひ〔出〕ました。〔すると〕皇帝は、すぐ山林官に命じられたので、翌朝、六人の樵夫が六台の荷車を、それぞれ八頭の馬に曳かせてやつて來ました。

[やぶちゃん注:冒頭の一文は現行版では、「ある日、私は非常に面白い余興をして見せて、皇帝にひどく喜ばれました。」で異なる。

「二呎」二〇・九六センチメートル。以下、先に示すが、次の「二呎半」は一メートル五十七・五センチメートル、「五吋」は十二・七センチメートル。]

 私は九本の棒をとつて、二呎半の正方形が出來るやうに〔、〕地面に打こみました。それから四本の棒を〔、〕二本づつ平行に並べて、地面から二呎ばかりのところで、四隅を結びつけました。そして今度は〔、〕ハンケチを九本の棒に縛りつけ、これを太鼓の皮のやうに〔、〕ピンと張りました。すると橫に渡した四本の棒は〔、〕ハンカチより五吋ばかり高くなつたので、これは丁度、欄干の代りになりました。これだけ用意が出來たので、私は皇帝にお願ひ〔申上げ〕ました。

 「騎兵の馬、二十四騎をこの上で〔野原の〕上で〔一つ〕走らせて〔〕御目にかけたいのです〔ませう〕」

 皇帝はこの申出〔に〕すぐ賛成なさい〔され〕ました。

 私は、武裝した乘馬兵を〔馬と一緒に〔、〕〕一人一人つまみ上げて〔、〕ハンケチの上におき、それから指揮官たちも〔、〕その上に載せました。整列が終ると、彼等は敵味方に分れ、襲擊のどつと〕模擬戰をやりはじめました。

 矢を射かけるやら、劔を拔いて追つかけつこするやら、進んだり退いたり、こんな見事な訓練は私も〔まだ〕はじめてるのでした〔たことがない〔の〕でした。〕橫棒が渡してあるので、馬も人も、舞台から落つこちる心配はありません。

 皇帝は〔、〕これがすつかりお気に召したので、何日も何日も〔、〕この餘興をやつてみせと仰せになります。一度などは〔、〕御自身〔で〕ハンケチの上が〔にお上りになつて〔、〕〕號令を〔お〕かけになりました。たうとう〔仕〕舞には〔、〕いやだと仰しやる皇后を無理にすすっめて、皇后にも上つてみよとおすすめになり、いやがる皇后を無理に説き〔すかして〕、椅子のまま私に持ち上げさせ〔ました。〕〔私はその椅子を〕〔私は〕訓練の有樣を十分に見物させ〔がよく見えるやうに〔、〕〕よく見えるやうに、舞臺〔から〕二ヤードばかりのところから→に〕〔、〕〔皇后の椅子をやりました。〕持上げたのです。

[やぶちゃん注:「二ヤード」一メートル八十三センチメートル弱。]

 幸ひに〔も〕この餘興の間〔中〕、故障は〔一つも〕出ませんでした。〔なかつたのです。〕〔もつとも、〕ただ一度だけ〔、〕こんなことがありました。

 ある隊長の乘つてゐたあばれ馬が蹄で〔、〕足掻きま〔は〕つて〔、〕ハンケチに穴をあけ〔、〕片足足をすべらしました。〔、〕乘手もろとも轉んだのですが、。すぐ私は助け起し〔ました。〕、片手でその穴をふさぎ、片手で一人づつ、兵隊を下しました。轉んだ馬は〔、〕左肩の筋を違へましたが、〔。〕乘手の方は怪我なしでした。〔無事でした。〕〔私は〕ハンケチの穴 出來→はよく〕繕ひましたが、〔私は〕もう心配→危〕ないので、こんな藝當をやる気はしませんでした。〔キケンな餘興はしないことにしました。〕

 私が自由の身にしてもらへる二三日前のことでした。宮廷の人たちを集めて、こんな〔ハンケチの〕餘興をしてゐる最中〔ところ〕へ、〔にはかに〕一人の使が到着しました。

 〔なん〕でも、數人の者が馬で、いつか私が捕つた場所を通りかかると、一つの大きな黒いものが落ちてゐるのを見つけました。たのです。→たといふのです。〕〔それは〕非常に奇妙な形のもので、緣が圓く拡がつてゐます。〔その〕廣さは〔、〕陛下の寢室ぐらゐあり、眞中のところは〔、〕人の背ほど高くなつてゐます。はじめ、みんなは、これは生きものからかしら→だらう〕と思つて、何度もその周りを步いてみましたが、〔それは〕草の上にぢつとしたきり動かないのです。そこで、お互に肩を踏台にして〔、〕頂上に〔のぼ〕つてみると、上は平べつたくなつてゐます。足で〔ふ〕んでみると、〔内側〕は〔どうも〕空つぽだといふことが〔わか〕りました。そこで、彼等〔みんな〕は〔、〕これはどうも人間山の物らしい→らしい〕と考へました。

[やぶちゃん注:下線「人間山」は原稿では傍点「ヽ」。現行版では傍点は、ない。]

 「馬五頭あればそれをすぐ運んで參ります」と使者は皇帝に申上げました。私にはすぐ〔、〕ははあ〔、〕さうか〔、〕とわかりました。そして、これはいい知らせを聞いたと喜びました。

 〔今から〕考えてみると、ボートを漕いでゐ〔た〕時に、〔私は〕紐で帽子をしつかり頭に〔むす〕びつけていました。それから、泳いでゐる時も〔、〕帽子〔それ〕は絶えず頭にかむつてゐました。ところが、難船後はじめて陸にたどりついた時には、なにしろ〔私は〕ひどく疲れてゐたので、何かの拍子に〔、〕紐が切れて落ちたのを〔を→を私は〕氣がづかなかつた〔らしいのです〕のです。〔も知らなかつたのです。〕帽子は海で失くした〔もの〕と思ひちがひをして〔ばかり思つて〕ゐました。

 私は皇帝に〔、〕それは帽子〔といふもの〕だといふことをよく説明して、どうか早速それを取寄せてください〔、〕とお願ひしました。すると翌日、馬車挽がそれを屆けてくれましたが、〔た。〕〔その〕帽子は〔、〕かなりひどいことになつ〔をされ〕てゐました。す。した→した。〕緣から一吋半ばかりのところに穴を二つ開け、〔こ〕これに鈎(かぎ)が二つ引掛けてあります。その鈎〔を〕長い綱で馬車にくくり、こんなふうにして一哩半以上も引きずつて來らた帽子→たの〕です。ただこの國は地面が非常に平らなので、それほど 帽子〔の〕傷ついてゐませんでした。〔もそれほどではなかつたのです。〕

[やぶちゃん注:「一吋半」三・八一センチメートル。

「一哩半以上」凡そ二キロ五百メートル以上。]

 それから二日たつと、皇帝は〔、〕首府の内外に滯在してゐ→る〕軍隊に出動を命じられ、させた。→て、〕また途方もない遊びを思ひつかれました。〔〔、〕ました。〕〔それから、〕私にはできるだけ大跨〔股〕を拡げて、巨人像(コロツサス)のやうに立つてゐよと仰せられます。それから今度は將軍(この人は何度も戰場に出たことのある老將軍で、私の恩人でもあります)に命じて、軍隊を集めて、 〔あ〕の跨の下を軍隊に行進させ〔てみ〕よと仰せになるのでした。

[やぶちゃん注:「跨〔股〕」の併存はママ。但し、「股」の方は実際には「股」ではなく、(「路」-「各」+「殳」)の字体である。民喜は漢字表記が気になったらしく、この段落の最後の空きマスには、この上の妙な字を一つ、その二マス下に「股」その一マス下に「胯」の字を少し大きめにメモのように書き並べている。]

 歩兵が二十四列、騎兵が十六列に並び、太鼓を鳴らし、旗をひるがへし、槍を橫たへ、步兵三千、騎兵一千〔、〕みごとに行進しました。陛下は各兵士にむかつて、行進中は私 自躰對してよく禮儀を守ること、背けば死刑に處すると申渡されてゐました。しかし、それでも若い士官などが、私の跨の下を通るとき〔など〕、ちよつと眼をあげて上を見るのは仕方がありませんでした。〔といふのは〕、その時、私のずぼんは〔もう〕ひどく破れ〔綻び〕てたので、下から見上げると〔たら〕、〔さぞ〕をかしいやらびつくりした■■■〕〔びつくりした〕ことでせう。

[やぶちゃん注:以上の段落は現行通りに整序すると、

   *

【自筆原稿版】

 歩兵が二十四列、騎兵が十六列に並び、太鼓を鳴らし、旗をひるがへし、槍を橫たへ、步兵三千、騎兵一千、みごとに行進しました。陛下は各兵士にむかつて、行進中は私によく禮儀を守ること、背けば死刑に處する申渡されてゐました。しかし、それでも若い士官などが、私のの下を通るとき、ちよつと眼をあげて上を見るのは仕方がありません。といふのは、その時、私のずぼんはもうひどく綻びてたので、下から見上げたら、さぞびつくりしたことでせう。

   *

であるが、現行版は二段構成にされて、

   *

【現行版】

 歩兵が二十四列、騎兵が十六列に並び、太鼓を鳴らし、旗をひるがえし、槍を横たえ、歩兵三千、騎兵一千、見事に私の股の下を行進しました

 陛下は各兵士に向って、行進中は私によく礼儀を守ること、背けば死刑にする申し渡されていました。しかし、それでも若い士官などが、私のの下を通るとき、ちょっと眼をあげて上を見るのは仕方がありません。私のズボンは、もうひどく綻びていたので、下から見上げると、さぞびっくりしたことでしょう。

   *

となっている(下線やぶちゃん)。]

 私は度度度度〕何回となく〔皇帝に〕書面を送つて、「自由な身にして下さい」とお願ひしてゐましたが、〔ついに〕皇帝もこのことについて〔を〕〔、〕を大臣と相談され〔たり〕、それから 評議員〔國會議員〕の意見〔も〕お求めになりました。なつたりされ→なりました。〕議会では〔、〕別に誰も反対する人はありませんでした〔なかつたのです〕が、ただ一人、スカイリッシュ・ボルゴラムだけが反対しました。ボルゴラムは〔、〕何か私を怨んでゐるらしく、どうしても〔絶対〕反対だ〔、〕と云張りました。しかし〔、〕儀会彼の反対〔状〕は通らなかつたので、〔私〔を〕〕〔釋放を〔自由にすることに〕決め、〕〔いよいよそれで更らに→ついに〕皇帝の許可も得られました。〔も出ました。〕

[やぶちゃん注:現行版を示す。

   *

 私は何回となく皇帝に書面を送って、「自由な身にしてください。」とお願いしていましたが、ついに皇帝もこの問題を大臣と相談され、議会の意見もお求めになりました。議会では誰も反対する者はなかったのですが、ただ一人、スカイリッシュ・ボルゴラムだけが反対しました。ボルゴラムは、何か私を怨んでいるらしく、どうしても絶対反対だ、と言い張りました。しかし、議会は私を自由にすることに決め、ついに皇帝の許可も出ました。

   *]

 このボルゴラムといふ男は、この國の海軍提督で、皇帝からも篤く信任されてゐて〔をり〕、海軍のことについ〔かけ〕ては〔〔、〕なかなか〕專門家なのですが、どうも〔、〕氣むつかし屋〔で〔、〕〕苦がむし顏のをした男でした。〔をつぶしたやうな顏をしています。〕

 けれども、とうたう〔、〕この人もみんなに説きふせられて〔、〕承知しました。それでも〔、〕私を自由にするには、私は〔いろんなことを〕誓はせなければならないのですが、その條件は彼が書いて私に誓はせるのだと云ひ讓り〔俺が書くのだ〔、〕とあくまで押とほし〕ました。その誓約書を私のところへ持つて來たのも〔この〕スカイレシユ・ボルゴラムでした。二人の次官と数人の名士を引つれてやつて來ましたが、誓約書を讀み上げると、私に、一々それを→の〕實行すると〔を〕誓はせませた。ました。→へと云はれひます。〕

 まづ初めに私の國のやり方によつて誓ひ、次にこの國のやり方で誓はされたのですが、そ〔れ〕は右の足先を左手で持ち、右手の中指を頭の上に、拇指〔を右の耳朶におくのでした。この〔その時の〕誓約書といふのは、次のやうなものでした〔す〕。

 この宇宙の歡喜恐怖にもあたるリリパト國大皇帝、ゴルバスー・モマレン・エヴレイム・ガルディロー・シェフィン・ムリ・ウリ・ギュー、領土は地球の端から端まで五千プラストラグ(周圍約十二マイル)に亙り、帝王中の帝王として、人の子より背が高く、足は地軸にとどき、頭は天をつき、一度首を振れば草木もなびき、その德は春、夏、秋、冬に通じる。ここにこの大皇帝は、この頃、わが神聖なる領土に到着した人間山に対し、次の條項を示し、嚴肅にその〔誓はせ、その〕實行を求める〔も〕のである。

[やぶちゃん注:下線を附した「人間山」は原稿では傍点「ヽ」である。以下同じ(現行版には総てに傍点はない)。この誓約書前文は、現行版では前の本文との間に一行空きが施されており、国名や皇帝の名前などに有意な変更がある。以下に示す(冒頭に鍵括弧がある。しかし終りの鉤括弧は現行版になく、これはおかしいと言える)。

   *

「この宇宙の歓喜恐怖にもあたる、リリパット国大皇帝、ゴルバストー・モマレン・エブレイム・ガーディロウ・シェフィン・ムリ・ギュー皇帝、領土は地球の端から端まで五千ブラストラグにわたり、帝王中の帝王として、人の子より背が高く、足は地軸にとゞき、頭は天を突き、一度首を振れば草木もなびき、その徳は春、夏、秋、冬に通じる。こゝにこの大皇帝は、この頃、わが神聖なる領土に到着した人間山に対し、次の条項を示し、厳粛に誓わせ、その実行を求めるものである。

   *

「十二マイル」「マイル」はママ(前では「哩」と漢字表記)。約十九・三キロメートル。

 次の一行空きは原稿のママ。]

 

 第一 人間山は朕が押し〔の許可〕狀なしに、この國土を離れることはできない。

 第二 人間山は朕が特に許した以外には〔場合でなくては、〕勝手に首都に入ることはできない。首都に入る時は、市民は二時間前に、家〔の中〕に 引込んでゐるやうに注意されることになつてゐる。

 第三 人間山の步いてもいい場所は〔主要〕國道   〔だけ〕に限られてゐる。牧場や畠地を步いたり、そこ〔で〕 はる〔寢ころんだりする〕ことは許されない。

[やぶちゃん注:三字分の空白はママ。私には何かを後から書き加えるために設けた意識的欠字のように見受けられる。]

 第四 人間山 許可されてゐる〔主要國道を步く〕際には、よく注意して、朕の良民、馬、車などを踏みつけないやう〔よく注意〕すること。また良民の承知なしに勝手〔矢鱈〕に〔人を〕つまみあげて掌に乘せてはいけない。〔ることはでき〕ない。

 第五 人間山は急用の使が要る際には、毎月一回、六日間のその傳令と馬を〔〔、〕人間山の〕ポケットに入れて運ぶこと。また場合によつては〔、〕更にこれを宮殿〔廷〕に送りかへさねばならない。

[やぶちゃん注:このカットされた「人間山」及び挿入されたそれには傍点が振られていない。]

 第六 人間山は朕〔と→の〕同盟して〔者となり〔、〕〕ブレスキュ島の敵を攻め、朕の國をねらつてゐる〔ふ〕敵艦隊を〔うち〕滅ぼせよ。〔す〕ことに努力しなければならない。

 第七 人間山時間〔閑〕の時には〔、〕朕の勞役者の手助をして、公園その他帝室用建ものの外壁に大きな石を運搬する〔の〕を手傳はねばならぬ。

 第八 人間山は二ケ月以内に〔、〕海岸を一周して〔て、〕步いて〔き〔、〕〕その距離を〔はか〕り、朕の領土の測量〔地〕圖をつくつて出すこと。

[やぶちゃん注:「人間山」に傍点なし。「て〔て、〕」の併存はママ。]

 第九 これまで述べた條項を人間山よく謹んで守るならば、人間山は毎日、朕の良民一七二四人分の食料と飮料を與へられ、自由に朕の近くに侍ることを許され、その他、いろいろ優遇されるであらう。

[やぶちゃん注:現行版では次に一行空けがあるが、原稿にはない。]

 聖代第九十一月十二日

 ベルファボラク皇宮にて

[やぶちゃん注:現行版では、宮殿名が違うだけでなく、以上の二行が、

   *

  ベルファボラック皇宮にて

  聖代第九十一月十二日

   *

と逆転している。原作原文ではこちらの方が正しいが、邦文のこの手の書式では原稿のような記載の方が一般的であるように思われる。また、現行版では次に一行空けがあるが、原稿にはない。]

 私は大喜びで滿足し、これらの條件をよく守ると誓ひのサインをしました。ただ、〔この〕條項のなかのある〔うちには〕全く提督ボルゴラムが惡意で押しつけたものがあり、それは〔あまり〕有難くもなかつたものですが〔いのもあります〕〔ものもあ〕りますが、それは〔どうも〕仕方のないことでした。

[やぶちゃん注:「〔いのもあります〕〔ものもあ〕りますが」の併存はママ。現行版は「たゞ、この条項の中には、提督ボルゴラムが悪意で押しつけたものあり、あまり有り難くないものもありましたが、それはどうも仕方のないことでした。」である(下線やぶちゃん)。]

 すぐに私の鎖は解れました。私は全く自由の身になつたのです。この儀式には〔、〕皇帝もわざわざ出席されました。私は陛下の足下にひれふして感謝しました。すると皇帝は私に「立て」と仰せになり、それから、いろいろと有難い言葉を賜た後〔りました。〕〔私が〕國家有用の人物となり〔、〕陛下の恩に〔そむ〕かないやうにして貰〔もら〕いたい〔、〕といふ御言葉でした。

2016/05/12

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 青腰蟲

Awokosimusi

あをごし

青腰蟲

 

ツインヤウ チヨン

 

本綱此蟲大如中蟻赤色腰中青黒似狗首猲一尾而尖

有短翅能飛春夏有之也有大毒着人皮肉腫起剝人靣

皮除印字食惡瘡瘜肉殺癬蟲

按青腰蟲俗訓飛蟲者非也飛蟲即鼠負蟲也【出濕生類之下】

 

 

あをごし

青腰蟲

 

ツインヤウ チヨン

 

「本綱」に、此の蟲、大いさ、中蟻のごとくにして、赤色。腰の中、青黒。狗首猲に似て、一尾にして尖り、短き翅、有り、能く飛ぶ。春・夏、之れ有り。大毒、有り、人の皮肉に着けば、腫れ起り、人の靣(つら)の皮を剝ぐ。印字を除き、惡瘡・瘜肉〔(しよくにく)〕を食ひ、癬蟲〔(ぜんちゆう)〕を殺す。

按ずるに、青腰蟲、俗に「飛蟲(とびむし)」と訓ずるは非なり。「飛蟲」は、即ち、「鼠負蟲(そふむし)」なり【濕生の類の下に出づ。】。

 

[やぶちゃん注:私はこれは何だか、挿絵と毒性を見た瞬間に、何故か、ピンときた! これは、本邦産で示すなら、

鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目ハネカクシ下目ハネカクシ上科ハネカクシ科アリガタハネカクシ亜科Paederinae

Paederus属アオバアリガタハネカクシ Paederus fuscipes

或いは同じく、

Paederus属エゾアリガタハネカクシ Paederus parallelus

又は

Oedechirus属クロバネアリガタハネカクシ Oedechirus lewisius

ではなかろうか? 実際に「靑腰蟲」で検索をかけると、中文サイトで「Oxytelus batiuculus」という学名を附したものが見出せ、このOxytelus 属とはまず、ハネカクシ科セスジハネカクシ亜科Oxytelinae の一属と見られるからである。即ち、

「青腰蟲」とは少なくとも、ハネカクシ科 Staphylinidae のハネカクシ類の総称である

と考えてよいと私は思うのである。

 これらの種は和名の「蟻型翅隠し」から分かるように、アリに似た形をしていて、ウィキの「ハネカクシ」によれば、『大部分の種で上翅(鞘翅)が非常に小さく、後翅はその下に小さく巧みに折りたたまれているため、腹部の大部分が露出しており、一見すると短翅型のハサミムシやアリのような翅のない昆虫に見える。しかし実際にはほとんどの種類が機能的な後翅をもっていて、必要に応じてそれを伸ばしよく飛翔する。着地後は再び後翅をたたみ隠し、もとの翅の無いかのような姿に戻る』のであるが、その中でも上記の三種は我々の小学生時代には「猛毒で目に入ると失明する!」というような過激情報が「アオバアリガタハネカクシ」という呪文めいた名前とともに激しく流布されたのでピンとくる人々も多いかも知れぬ。例えば、上記ウィキにも(下線やぶちゃん)、『ハネカクシの専門家以外にもよく知られたものに体液に毒素を有するアオバアリガタハネカクシ(Paederus fuscipes Curtis)がある。水田地帯など湿潤な平野に多い昆虫で人家にも灯火に誘引されてよく飛来するが、分泌した体液が首筋や太もものような皮膚の角質の薄い箇所に付着すると、かぶれて線状皮膚炎を引き起こす。体液がついてから発症するまでに多少の時間がかかるため、患者はその原因が自分の肌から少し前に払い落とした小昆虫の体液にあることに気がつきにくく、突然生じるミミズ腫れに当惑することになる。そのため地方によっては家屋内を徘徊するヤモリの尿が付着したためとする俗信を生み、これを俗に「ヤモリのしょんべん」とも呼ぶ。アオバアリガタハネカクシの毒成分はペデリン(Pederin)といい、全合成も行われている』とある。そのリンク先のウィキの「ペデリン」には、二つの『テトラヒドロピラン環を持つ水泡を発生させる毒性アミドの』一種で、『アオバアリガタハネカクシ(Paederus fuscipes)を含むハネカクシ科Paederus属の甲虫の血リンパに含まれている。ペデリンは』、実に二千五百万匹の『採取されたアオバアリガタハネカクシを処理することで初めて同定された』もので、化合物質名も『この昆虫の属名に由来する。ペデリンの含有量は昆虫(アオバアリガタハネカクシ)の体重のおよそ』僅かに〇・〇二五%しかない。『ペデリンの生産は、Paederus属昆虫内での内部共生生物』(グラム陰性好気性桿菌の一群である、真正細菌プロテオバクテリア門ガンマプロテオバクテリア綱シュードモナス目シュードモナス科シュードモナス属Pseudomonas)『の活動によるものであることが明らかにされている』。『ペデリンの製造は概して雌の成虫のみに限られる。幼虫および雄は母親から(すなわち卵を通して)獲得するか、摂取したペデリンのみを貯蔵する』とあり、『ペデリンは、RNA合成に影響を与えることなくタンパク質ならびにDNAの合成を阻害することで』、ごく少量で『有糸分裂を阻害する。また、様々な腫瘍を持つマウスの寿命を延長することが示されて』いることから、『抗がん治療薬候補化合物として興味が持たれている』ともあるのである。見直そうじゃないか、「アオバアリガタハネカクシ!」

 さても、私の数多所持する有毒生物関連書(実は私はこの方面ではかなりフリークで学術的専門書も数十冊持つ)の中でもヴィジュアルでしかも分かり易く書かれてある(この手の本で最も実用的に重要なのは、専門記載ではなく、誰にも分かる危険性と具体な防禦法の紹介にある)、二〇〇三年学研刊の「学研の大図鑑」(くどいが、この書名だからとジャリ向けだと言って侮ってはいけない。何と言っても総てにラテン語学名が附されているのである)の「危険・有毒生物」には、アオバアリガタハネカクシの項に(下線やぶちゃん)、本州・四国・九州・南西諸島に分布し、大きさは六・五~七ミリメートル、『頭部、後胸部、尾端は黒色、前胸部、腹部が橙色で前翅(ぜんし)は青緑色の光沢がある。成虫はほぼ』一年中『見られ、平地や水田や池沼の周辺、その他湿った草地に生息している。また』、四月から十月頃には『灯火によく飛来し』、六~七月頃は『特に多い。肉食性の傾向が強く』、『他の昆虫類を捕食するが、植物のやや腐敗した部分も食する。体液にペデリンという有毒物質が含まれて』おり、『皮膚につくと数時間後に赤く腫れ、まもなく水泡(すいほう)が生じる。皮膚についた本種を払いのける際に誤ってつぶしてミミズ腫れ(いわゆる線上皮膚炎)を起こすことが多い』(私もこれは小さな頃に何度か経験している)。『眼に入ると激しい痛みがあり、結膜炎、角質潰瘍(かいよう)などを起こす。体についた場合はつぶさないようにそっと払いのける』とある。本書が素晴らしいのは、この他に上に示した同属のエゾアリガタハネカクシも写真入りで掲げ、本種は北海道・本州の中部以北に棲息し、前種より大型(八ミリメートル)ながら、後翅が退化してしまっているため、飛べないことから、『灯火に飛来することがなく、人が接触する機会は少ない』と危険リスクが有意に低いことを記す。また、同書は本州中部以西・四国に棲息するやはり飛翔出来ないアリガタハネカクシ Megalopaederus poweriも記載する。これは恐らくは同じくペデリンを有し、しかも一・三センチメートルと遙かに大きいことから、潰した際の炎症のリスクが高いからであろう。こういうまめな記載こそが真に子どもや人を守る価値ある図鑑であると私は信じて疑わない。何なら、最高度の学術図鑑を見られよ。多かれ少なかれかなり危険な毒を有する刺胞動物類の記載には、症状も防禦法も対処法も何にも書かれていないものが非常に多いから(因みに私は海産の有毒生物群を最も得意な守備範囲としている)。

 

・「中蟻」中ぐらいの大きさの蟻。

・「狗首猲」不詳。東洋文庫版現代語訳では、この「首」の右に特異的にルビのようにカタカナのママ注記を打つ。これは「本草綱目」の「靑腰蟲」のここの記載が、「狗猲」となっているからで、この「首」は或いは衍字とも思われるのである。問題はしかし、「狗猲」で、これが何かよく分からぬことである。東洋文庫版はこの二字で『くかつ』(ママ注記を省略)とルビした上で、『(犬のことか)』という割注を施している。確かに「狗」は犬、「猲」は狼の意ではある。しかし、ハネカクシ類の形状は私はイヌやオオカミに似ているようには思われない。これは何か、別な生き物を指す語ではなかったろうか?

・「印字」東洋文庫版現代語訳には『(あざのおのことか)』と推定割注する。生まれつきある痣や、或いは、黥(刺青=入れ墨)のことではあるまいか?

・「瘜肉〔(しよくにく)〕」東洋文庫版現代語訳にはこの二字に『こぶいぼ』とルビする。現代中国語では「ポリープ」の意味だから、それに従う。

・「癬蟲〔(ぜんちゆう)〕」ダニ目無気門亜目ヒゼンダニ科ヒゼンダニ Sarcoptes scabiei var. hominis。激しい掻痒感を伴う皮膚疾患である疥癬は本種の寄生によるもの。以下、ウィキの「疥癬」から引用する(アラビア数字を漢数字に代え、単位を日本語化。記号及び本文の一部を変えた)。『ヒゼンダニの交尾を済ませた雌成虫は、皮膚の角質層の内部に鋏脚で疥癬トンネルと呼ばれるトンネルを掘って寄生する。疥癬トンネル内の雌は約二ヶ月間の間、一日あたり〇・五~五ミリメートルの速度でトンネルを掘り進めながら、一日に二個から三個、総数にして一二〇個以上の卵を産み落とす。幼虫は孵化するとトンネルを出て毛包に潜り込んで寄生し、若虫を経て約十四日で成虫になる。雄成虫や未交尾の雌成虫はトンネルは掘らず、単に角質に潜り込むだけの寄生を行う』。『交尾直後の雌成虫が未感染の人体に感染すると、約一ヵ月後に発病する。皮膚には皮疹が見られ、自覚症状としては強い皮膚のかゆみが生じる。皮疹には腹部や腕、脚部に散発する赤い小さな丘疹、手足の末梢部に多い疥癬トンネルに沿った線状の皮疹、さらに比較的少ないが外陰部を中心とした小豆大の結節の三種類が見られる』。『時にはノルウェー疥癬と呼ばれる重症感染例もみられる。過角化型疥癬は一八四八年にはじめてこの症例を報告したのがノルウェーの学者であったためについた名称であり、疫学的にノルウェーと関連があるわけではないので、過角化型疥癬と呼ぶことが提唱されている。何らかの原因で免疫力が低下している人にヒゼンダニが感染したときに発症し、通常の疥癬はせいぜい一患者当たりのダニ数が千個体程度であるが、過角化型疥癬は一〇〇万から二〇〇万個体に達する。このため感染力はきわめて強く、通常の疥癬患者から他人に対して感染が成立するためには同じ寝具で同衾したりする必要があるが、そこまで濃厚な接触をしなくても容易に感染が成立する。患者の皮膚の摩擦を受けやすい部位には、汚く盛り上がり、カキの殻のようになった角質が付着する』。『中国隋の医師巢元方が著した「諸病源候論」に『疥』として記載がある。また、唐の孫思邈が著した「千金翼方」は、硫黄を含む軟膏による治療法が記載されている。光田健輔によると、昔はらい病と疥癬はよく合併し、光田自身も神社仏閣でよく観察していたという。なお、光田は「令義解」の『らい』が伝染した話は、疥癬があり、伝染したことが観察されたのではないかという。通常の『らい』であれば、伝染する印象はない』(最後の部分はハンセン病の感染力は極めて小さいからである)。……それにしても……過角化型疥癬……百万から二百万匹のヒゼンダニが寄生する人体……牡蠣の殻のようになった角質が盛り上がる……こりゃ、凄いわ…………さてもこの疥癬が原因でヒトが死亡するなんどと言うことが……あり得ようか?……どうも、戦争末期に逮捕され、敗戦に前後して獄中死した西田幾太郎の愛弟子であったマルクス系哲学者の二人、三木清(昭和二〇(一九四五)年九月二十六日於豊多摩刑務所)と戸坂潤(同年八月九日於長野刑務所)の死因は――「疥癬」である――恐らくは、この過角化型疥癬に伴う腎不全だったようである……七転八倒の掻痒と孤独な死……「悲惨」などと容易に口に出せるものではない……。おやおや、またまた、脱線したわい。

・『「飛蟲」は、即ち、「鼠負蟲(そふむし)」なり【濕生の類の下に出づ。】。』最後の割注は不審である。まず、本「和漢三才図会」の「濕生類」には管見する限りでは「飛蟲」も「鼠負蟲」も掲げられていない、では「本草綱目」はどうかというと、「鼠婦」の項に「鼠負」と別称が載るものの、これは湿生類でなく「蟲之三」の「化生類」に載るからである。なお、現行の中国語では「鼠婦」とは団子虫(だんごむし)、節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目 Ligiamorpha 下目Armadilloidea上科オカダンゴムシ科オカダンゴムシ属 Armadillidium 類を指すのであるが、これも「飛蟲」という名とどうにも合致しない。ここの良安先生の意見には私は従えない。さればこそ、「飛蟲」なる者は未だ不明である。]

2016/05/11

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 小人國(2) 人間山 三章

 

      人間山 三章

 

 私の噂は國中にひろまつてしまひました。〔お〕金持で、暇の〔ある〕、物好きな連中が〔、〕毎日〔私のところへ〕、雲のやうに〔押〕しかけて來ます。

 そのために〔、〕村村は〔ほとん〕ど空つぽになつてしまひ〔り〕、畑の仕事も家の仕事も〔、〕すつかりお留守になります〔りさう〕でした。で〔、〕皇帝から〔こんな〕命令が出ました。見物がすんだ〔人〕はさつさと帰るべしこと→れ〕、〔無斷〕で私の家の五十ヤード以内に近よつてはいけない〔こと〕、と、こんなことが決められました。

[やぶちゃん注:「五十ヤード」四十五・七二メートル。]

 ところで〔、〕皇帝は何度も會議を開いて、一たい、あの人間を〔これは〕どうしたらいいのかといふことに〔と相談〕されたさうです。〔きくところによると〔、〕〕朝廷でも私の取扱ひには〔、〕大分困つてゐたやうです。あんな男を自由〔の身〕にする〔してやる〕のも心配でした→した〕が、なにしろ〔、〕私の食事がとても大変なものでしたから、これでは〔國中が〕〔今に〕飢饉になるかもしれないと心配でした〔といふのです〕。

 いつそのこと〔、〕何も食べさ〔せ〕ないで〔、〕餓死させた方がいい〔るか、それ〕とも〔、〕毒矢で殺してしまふ方がよからう〔、〕と云ふものもありました。

 だが、あの山のやう山のやうな大男に死なれると、〔山のやうな〕屍體からから發する惡い臭いがたまらない、その惡〔い〕臭は〔、〕國中に傳染病をひろげることになるだらう〔、〕と説く者もありました。

 丁度、この會議の最中に、私が〔あの一たん〔摑→つか〕まへた〕六人の野次馬を〔寛大に〕許してやつたことが傳へられました。すると〔、〕皇帝も大臣も〔、〕私の行ひに大変〔すつかり〕感心してしまひました。早速、〔皇帝は〕敕命が出まして→で〕、私のために、〔村村から〕毎朝牛六頭、羊四十頭、その他パン、葡萄酒などを供出するやう命令されました。

[やぶちゃん注:現行は「感心してしまひました。」の箇所で改行され、「早速、〔皇帝は〕」以下が独立段落であるが、底本には改行指示はなく繋がっている。]

 それから六百人のものが、私の御用係にされ、私の家の兩側にテントを〔は〕つて寢とまりすることになりました。それから私の服を作つてくれるために、三百人の仕立屋が、やとはれました。

 それから〔、〕宮廷で一番えらい學者が六人、この國の言葉を私に教へてくれました〔ることになり、〕私は三週間ぐらゐで、小人國の言葉が〔だい→少し〕喋れるやうになりました。

[やぶちゃん注:この段落は現行では「それから、宮廷で一番えらい学者が六人、この国の言葉を私に教えてくれることなりました。私は三週間ぐらいで、小人国の言葉がしゃべれるようになりました。」と二文である。]

 皇帝もよく〔ときどき〕私のところへ訪ねて來られましたが、〔。〕私たちは〔そうよく〕話はできるやうになりました。が最初におぼえた 言葉は〔のは〕〔は皇帝にひざまづいて、〕

 「どうか私を自由な身にして下さい」

いふ言葉でしたが〔何度もお願ひしま〕した。すると皇帝は

 「もう暫く待て」と云はれるのでした。私が〔私が〕〔「〕自由な身にしてもらふ〔ため〕には、〔お前は〕まづ、皇帝とこの國とに〔、〕和親を誓ひは〔ひをし〕なければいけないといふことでした。それから〔、〕私は〔お前は〕いづれ身體檢査〔を〕されることになりますがさうでした。〕が、それも惡く思はないでくれ。多分〔たぶん〕お前は何か武器〔など〕持つてゐることだらうが、お前のその大きな身躰〔で〕相應するつける→つかふ〕武器なら、よほど危險なものにちがひない〔からふ〕だらう→にちがひない〕」

[やぶちゃん注:最初の本格的直接話法の箇所で民喜が相当苦渋している感じが如実に伝わってくる。試みに、このガリヴァ―と皇帝の台詞の箇所の削除部分を除いたもの(一部の削除忘れを好意的にとる)と現行の当該箇所を並べてみると、

   *

☆【自筆原稿版】

 「どうか私を自由な身にして下さい」

と何度もお願いしました。すると皇帝は

 「もう暫く待て」と云はれるのでした。私が「自由な身にしてもらふためには、お前はまづ、皇帝とこの國とに、誓ひをしなければいけない。それから、お前はいづれ身體檢査をされるが、それも惡く思はないでくれ。たぶんお前は何か武器など持つてゐることだらうが、お前のその大きな身躰でつかふ武器なら、よほど危險なものにちがひない」

★【現行版】

「どうか、私を自由な身にしてください。」

 と何度もお願いしました。

 すると皇帝は、

「もうしばらく待て。」

 と言われるのでした。

「自由な身にしてもらうには、お前はまず、この国と皇帝に誓いをしなければいけない。それから、お前はいずれ身体検査をされるが、それも悪く思わないでくれ。たぶん、お前は何か武器など持っていることだろうが、お前のその大きな身体で使う武器なら、よほど危険なものにちがいない。」

   *

句読点や改行など、推定される編集者による自動書き換え(かつては頻繁に行われた)も含め、変遷過程が私には頗る興味深い。]

 私は皇帝に申上げました。「どうか御得心の參りますやう。何なら〔すぐ〕お目の前で裸になつて御覽に〔も〕いれませうし、ポケツトを裏返してお目にかけても〔ます〕から。」

[やぶちゃん注:このガリヴァ―の台詞は、

   *

「どうか、いくらでも調べてください。なんなら、すぐお目の前で裸になって御覧にもいれましょうし、ポケットを裏返してお目にかけますから。」

   *

と現行とは開口一番が有意に異なる。]

 これは半分は言葉、半分は手眞似でやつて見せました。すると皇帝が言はれるには、

 「では、二人の士官に命じて身躰檢査を行はせる〔やらせる〕が、〔これは〕〔臣下の〕生命をお前の手にゆだねることになる〔のだから〕なにぶん、よろしく賴む。お前が〔は〕寛大でものわかりがいいことを知つてゐるから→〔信用できさうな人間だから〕それから、〔たとへ〕どんな品物を取上げても、お前がこの國を去る時には必ず返してやる。でなかつたら、〔いい値段で〕買ひとつてやつてもいい。」と言はれました。

[やぶちゃん注:この原稿も実際は非常に複雑である。実は原稿用紙の枠内の初筆稿は以下の通りである。

   *

【初筆】

 「では、二人の士官に命じて身躰檢査を行はせるが、なにぶん、よろしく賴む。お前が寛大でものわかりがいいことを知つてゐるから臣下の生命をお前の手にゆだねることになるそれから、どんな品物を取上げても、お前がこの國を去る時には必ず返してやる。でなかつたら、買ひとつてやつてもいい。」と云はれました。

   *

それが、

「お前は寛大でものわかりがいいことを知つてゐるから」

の部分が、

「信用できさうな人間だから」

とまず書き換えられ、それがまた抹消され、

「臣下の生命をお前の手にゆだねることになる」

を、

「臣下の生命をお前の手にゆだねるのだから」

と書き換えた下文を辛うじて分かるように、前の方の「なにぶん、よろしく賴む」の前に矢印で挿入指示しているのである。私は学生時代の印刷会社のアルバイトや新聞部の顧問でこうした校正物は見馴れているが、全くの素人の場合、このぐちゃぐちゃの原稿を見てもかく組みかえることはなかなか難しいかとは思う。因みに現行は、

   *

【現行版】

「では、二人の士官に命じて身体検査をやらせるが、これは臣下の生命をお前の手にゆだねるのだから、なにぶん、よろしく頼む。それから、たとえどんな品物を取り上げても、お前がこの国を去るときには、必ず返してやる。でなかったら、いゝ値段で買い取ってやってもいゝ。」

   *

であるから、私の読みが間違っていないことは分かって戴けるであろう。]

 〔さて、〕二人の士官が身躰檢査にやつて來ると、私は二人をつまみ上げて、まづ上衣のポケツトに入れてやり、それから〔、〕順次にほかのポケツトに案内してやりました。が、ただどうしても〔、〕見せたくない品の〔ものを〕入〔れ〕てゐたポケツト〔だけ〕は、案内しませんでした〔見せなかつたのです。〕ポケツトの一方には銀時計を、一方には財布を持つてゐました。

 二人の男は、ペンとインクと紙をもつて、見たものを〔、〕一つ一つ〔精しく〕書きとめ〔ました。→て、〕皇帝の御覽に入れるために目錄を作りました〔つたのです〕。皇帝の御覽に入れた、私もその目錄を後になつて、見せてもらひましたが、それは〔ざつと〕次の通りでした。

[やぶちゃん注:「目錄を作りました〔つたのです〕」の両抹消はママ。現行はこの段落は「二人の男は、ペンとインクと紙を持って、見たものを、一つ一つくわしく書きとめ、皇帝の御覧にいれるために、目録を作りました。私もあとになって、その目録を見せてもらいましたが、それは、ざっと次の通りでした。」である。]

 

「まづ、この大きな人間山の上衣の右ポケツトを〔嚴重に→嚴重に〕檢査したところ、ただ一枚の大きな布を發見しただけです→しました〕。大きさは宮中の〔宮中の〕大廣間の敷もの位の大きさだらうか。〔あります。〕 

[やぶちゃん注:「大きな人間山」は自筆原稿では傍点「ヽ」。但し、この傍点は現行版にはない。]

 〔次に〕左ポケツトには〔からは〕銀の蓋のついた大きな凾のやうなものが出て來〔まし〕たが、二人には持上げることができませんでした。私どもはそれを開けさせ、一人が中に這〔はい〕つてみますと、塵のやうなものが〔腹の半ばをうめる位も〕〔一杯〕〔つま〕つてをゐました。が、その塵が私どもの顏のところまで舞上つた時には、二人とも同時に何度もくしやみが出ました。

[やぶちゃん注:現行版では「くしゃみ」に傍点「ヽ」が打たれてある。]

次に、チヨツキの右ポケツトには〔から出て來たものは、〕人間三人分位の大きさの白い薄い物が、〔針金で〕いく枚も重ねて締めつけてあり、それには、いろんな形〔が〕黑くついてゐました。これは〔たぶん〕書物だらうと思ひます。一字の大きさは〔、〕私どもの手の半分ほどもあります。

[やぶちゃん注:「人間三人分位の大きさの白い薄い物」の「大きさの」は現行版には、ない。]

 次に、チヨツキの左ポケツトには〔、〕一種の機械がありました。宮殿前の柵に似た長い二十本ばかりの棒が〔、〕その背中から出てゐるのです。これは人間山が頭の髮を櫛けす〔とく〕道具らしい です〔と思へます〕。

 ずぼんのポケツトからは、長さ人間ほどもある、鐵の〔筒〕がありました。これは何に使ふのかわかりません。右の内側のポケツトからは、一筋の銀の鎖が垂れて〔下がり〕、その下の方には一つの不思議な機械がついてゐました。私どもは〔、〕その鎖に〔つ〕いてゐるものを引出してみよと言ひました。〔こ〕れは半分は銀で、半分は透明なもので出來てゐる円形のものでした。〔ます。〕〔彼はこの機械を〔、〕〕私どもの耳の傍へ持つて來ました。すると、水車のやうに絶えず音がしてゐるのです。私どもはこれは不思議な動物か、小さな神樣 だらうと私どもは 〔らしく〕ひます〔へます〕。彼れを〔人間山〕の説明では、彼は何をするにも〔、〕いちいちこの機械と相談するといふことです。

 次に、彼は左の内ポケツトから……漁夫の使ふやうな網を取出しました。これは財布だあうです。中には■■〔重い〕黃色い金属がいくつか入つてゐました。これが〔ほんとの〕金だとすれば、大変な値段〔ねうち〕にちがひありません。

[やぶちゃん注:判読不能の抹消二字は思うに孰れも「類」という字を書こうとしているようには見える。]

 このやうにして〔、〕私どもは陛下の命令どほり〔、〕熱心に彼のもちものを調べてみましたが、最後に、彼の腰の周りに〔、〕一つの帶があるのを見つけました。それは何か大きな動物の革でこしらへたもので、その左の方からは〔、〕人間五人分の長さもの〔の〕劍が下つて〔を〕りま〔した〕。右の方からは〔、〕袋が下つて〔を〕りました。

 私どもは人間山の身體檢査から發見したものを、このやうに〔、〕書きとめておきます。人間山は〔、〕陛下を尊敬して〔、〕禮儀正しく、私どもを待遇してくれました。

 

 この目錄〔は〕皇帝の前で讀みあげられると、〔ました。〕皇帝は〔、〕叮嚀な言葉で、〔その〕目錄に書いてある品ものを〔、私に〕出せと云はれました。その時、皇帝〔先づ短刀を〔獲〕せ〕と云はれたので、私は鞘ごとそれを取出しました。この時、皇帝は三千の兵〔士〕で私を遠くから取りかこみ、いざといへば〔、〕弓矢で射るやうに用意されてゐたのでした。が〔、〕私の目は皇帝の方だけ見てゐたので、それには〔少しも〕氣がつきませんでした。

[やぶちゃん注:現行版では「この目錄〔は〕皇帝の前で讀みあげられると、〔ました。〕」の後は改行されている。原稿には改行記号は、ない。

「獲」の字は自信がないが、明らかに「出せ」の「出」が抹消されている。「獲れ」とでもするつもりであったものか? なお、現行版は元の「出せ」である。]

 「その短刀を拔いてみよ」と皇帝は云はれました。

[やぶちゃん注:ここは現行版では「その短刀を拔いてみよ。」の箇所で改行され「と皇帝は云はれました。」以降は改行せずに続いている。原稿にははっきりと濃い改行指示記号が附されてある。次の一文のみ改行も現行版では、ない。]

 刀は潮水で少し錆てはゐましたが、まだよく光ります。

 スラリと拔き放つと、兵士どもは、あつと叫んで、〔みんな〕驚き恐れました。振りかざしてみせたら、太陽の反射で、刀がピカピカ光り、〔兵士は〕みんな目が〔くら〕ん〔でしまつ〕たのですが、皇帝はそれほど驚かれませんでした。〔それを〕もう一度鞘におさめて、鎖の端から六呎ほどの地上に、なるたけ靜かに〔お〕け、と〔私に〕命令されました。

[やぶちゃん注:「〔兵士は〕みんな目が〔くら〕ん〔でしまつ〕たのですが、皇帝は」の箇所は現行版では「兵士はみんな目がくらんでしまったのです。が、皇帝は」で文が切れている。原稿の句点はぐるぐると潰されていると私は読む。即ちここは、「兵士はみんな目がくらんでしまつたのですが、皇帝は」と文が繋がっていると考える。

 

「六呎」現行は「六フィート」(向後は五月蠅いだけなので、この異同は略す)。一メートル八十三センチメートル弱。]

 次に皇帝は、鐵の筒を見せよと云はれました。鐵の筒といふのは、私のピストルの〔こと〕でした〔す〕。私はそれを取出して、その使ひ方を説明しました。皇帝が使〔それから、〕 ピストルに私はそのピストルに〕火藥を〔つ〕めて、

 「今から使つて見せますが、どうか怖がらないで〔安心して〕下さい」と、〔まづ〕皇帝に注意しておいて、ドンと一發空に向つて打ちました。今度の驚きは〔、〕短刀どころの騒ぎではありません。何百人の人間が打殺されたやうに、ひつくりかへりました。皇帝はさすがに倒れなかつたものの、〔きよとんとして暫く眼をパチパチされていました。

[やぶちゃん注:「どうか安心して下さい」は、現行版では「驚かないでください」で有意に異なる。なお、現行版はこの最後の箇所では改行しておらず、次へと続いている。]

 私は短刀と同樣に、このピストルを引渡しました。それから〔、〕火藥と彈丸の入つた革袋も渡しました〔が〕「この火藥は火花が一つ飛んでも、宮殿も何もかも吹きとばしてしまひますから、どうか火に近づけないやう用心して下さい。」と注意しておきました。

[やぶちゃん注:現行版は(前注の通り改行なしで前から続く)、

   *

私は短刀と同じように、このピストルを引き渡しました。それから、火薬と弾丸の入った革袋も渡しました。そして、

「この火薬は火花が一つ飛んでも、宮殿も何もかも吹き飛ばしてしまいますから、どうか火に近づけないでください。」

   *

である(下線やぶちゃん)。]

 それから、懷中時計も〔皇帝に〕に引渡しました。皇帝はこの時計を非常に珍しがり、一番背の高い二人の兵士に、それを棒に掛〔か〕けて〔舁〕がせました。〔絶〕えず時計がチクタク音を立てるのと、時計の長針が動いてるのを見て、皇帝はびつくりし〔大へん驚き〕ました。この國の人たちは〔、〕私たちより目がいいので、分針の動いてゐるの〔まで〕すぐ見わけがつくのです。「一たいこれは何だらう」と〔、〕皇帝は學者たちにお尋ねになりましたが、學者たちの意見はまちまちで〔、〕した。とんでもない見當違ひ〔も〕ありました。

[やぶちゃん注:「懷中時計も〔皇帝に〕に引渡しました。」は現行版では「懐中時計を渡しました。」である。]

 次に私は銀貨と銅貨を〔とりだし、〕、それから櫛や嗅煙草入れ、ハンカチ、旅行案内などを、みんな渡しました。短刀とピストルと革袋は〔數台の〕荷車〔に〕つんで、皇帝の倉へ運ばれましたが、その他の品物は私に返してくれました。

[やぶちゃん注:現行版ではここの改行は、ない。原稿は初筆からちゃんと改行してある。]

 私は身躰檢査の時、〔兵士に〕見せなかつたポケツトがありました〔す〕。そのなかには眼鏡が一つ、望遠鏡が一つ、その他二三の品ものが入つてゐたのです〔ました〕。これは私が失くされたり壞されると大變だから、そのまま 見せなかつたものです。わざわざ皇帝に持出して見せなくてもよからうと考へ たからです。〔思ひました。〕

[やぶちゃん注:この段落も推敲の後がかなり複雑である。原稿そのものの執筆状態をなるべく忠実に再現すると、

   *

【マスに従った初期形(一行二十字も合わせた)】

 私は身躰檢査の時、見せなかつたポケツト

がありました。そのなかには眼鏡が一つ、望

遠鏡が一つ、その他二三の品ものが入つてゐ

たのです。これは私がわざわざ皇帝に持出し

て見せなくてもよからうと考へたからです。

失くされたり壞されると大變だから 、その

まま見せなかつたものです。

   *

が元で、そのれに削除と挿入と文の入れ替えを行った最終形が以上に示したものなのである。それに従って書き直すと、

   *

【自筆原稿決定稿】

 私は身躰檢査の時、兵士に見せなかつたポケツトがあります。そのなかには眼鏡が一つ、望遠鏡が一つ、その他二三の品ものが入つてゐました。これは失くされたり壞されると大變だからわざわざ皇帝に持出して見せなくてもよからうと思ひました。

 

しかしそれでも現行版とは異なる。以下に示す。

   *

【現行版(既に述べた通り、前の段落と続いていて改行はないが、比較のために頭を一字下げた)】

 私は身体検査のとき見せなかったポケットがあります。その中には眼鏡が一つ、望遠鏡が一つ、そのほか二三の品物が入っていました。これは失くされたり壊されると大へんだからわざわざ見せなくてもよかろうと思ったのです。

   *

今回は表記(漢字か平仮名か)の細部まで見てみよう。両方に私が引いた下線箇所が異同箇所である。これだけを見ると、凡そ別稿と言ってもおかしくないほどに違っていると言言えるのである。]

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 猶見たし花に明けゆく神の顏 芭蕉

本日  2016年 5月11日

     貞享5年 4月12日

はグレゴリオ暦で

    1688年 5月11日

 

   葛城山(かづらぎやま)

 

猶見たし花に明けゆく神の顏

 

「笈の小文」より。但し、同作では本句はずっと前の三月二十日(グレゴリオ暦四月二十日)の初瀬(はつせ/はせ)と、翌二十一日の臍峠(へそとうげ/ほぞとうげ)の間に、

   *

   はつ瀨

春の夜や籠人(こもりど)ゆかし堂の隅

足駄はく僧も見えたり花の雨       萬菊

   葛城山

猶見たし花に明けゆく神の顏

三輪、多武峰(たふのみね)、臍峠(へそたうげ)、〔多武峰より龍門(りゆうもん)へ越ゆる道なり。〕

雲雀より空にやすらふ峠かな

   *

の形で操作(虚構)挿入されてある。先行の行程でも葛城山を辛うじて遠望出来、恐らくは三月二十四日に吉野山を発ち、泊まった五條宿で翌二十五日の曙の葛城山を眺めたかも知れぬ(サイト「俳諧」の「笈の小文」のこちらで推定されておられる)。それならロケーションの時間は合致するものの、それではあまりに遠望であって、この句のようなダイナミズムを鑑賞することは(私は)出来ぬ。以下に見るように、別の前書には「やまとの國を行脚して葛城山のふもとを過(すぐ)るに」とあるから、やはりこれは行程上から、この日の作と採るしかない。山本健吉氏は「芭蕉全句」の本句鑑賞の冒頭で、『四月二十日、門人千里の郷里竹内村を訪れたあと、当麻寺に詣でたのだから、そのとき葛城山の麓も過ぎたわけである』と述べておられる。

 「猿蓑」には、

 

   葛城のふもとを通る

 

と前書し、「泊船」のそれは、

 

やまとの國を行脚して葛城山のふもとを過るに、よもの花はさかりにて、峰々はかすみわたりたる明ぼのゝけしき、いとゞ艶(えん)なるに彼(か)の神のみかたちあしゝと、人の口さがなく世にいひつたへ侍れば

 

猶見たし花に明行(あけゆく)神の顏

 

と詳述を極める。「葛城山」は「大和葛城山(やまとかつらぎさん)」とも呼称され、現在の奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境にあり、標高は九百五十九・二メートルある。この前書にも出るここで言う「神」とは、葛城山麓(現在の奈良県御所市森脇)にある葛城一言主(かつらぎひとことぬし)神社の祭神である、一言主を明け行く山体に感じているのである。同神はウィキの「一言主」によれば、「古事記」の「下つ卷」に登場するのを初出とし、雄略天皇四(四六〇)年のこと、『天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った』と出る。後の「日本書紀」では、『雄略天皇が一言主神に出会う所までは同じだが、その後共に狩りをして楽しんだと書かれていて、天皇と対等の立場になって』おり、さらに下ってから書かれた「続日本紀」(延暦一六(七九七)年成立)では、『高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流された、と書かれている。これは、一言主を祀っていた賀茂氏の地位がこの間に低下したためではないかと言われている。(ただし、高鴨神は、現在高鴨神社に祀られている迦毛大御神こと味耜高彦根神であるとする説もある)』。さらに後の平安時代初期(弘仁一三(八二二)年頃)に書かれた最古の説話集「日本霊異記」にあっては、『一言主は役行者(これも賀茂氏の一族である)に使役される神にまで地位が低下しており、役行者が伊豆国に流されたのは、不満を持った一言主が朝廷に讒言したためである、と書かれている。役行者は一言主を呪法で縛り』つけ、当の「日本霊異記」が書かれているその『執筆の時点でもまだそれが解けないとある』。他に能の「葛城」では女神とされるが、ウィキの記載は醜い顔とする叙述がない。しかし、ウィキの「役の行者」の方には、役の行者が、『ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという』と出るから、「日本霊異記」に記された伝承が一言主醜顔とする濫觴であろう(前記の記載からは天皇と同等の神格から急激に零落していくことが判り、そのスティグマ(聖痕)こそが逆に「醜い顔」として残ったのだとも言えよう。さらに言えば実は国津神たる大国主命の子事代主神と同一視されることもあるのである。私はこれは「ひとことぬし」と「ことしろぬし」と発音上の類似性だけが根拠とは到底、思われないのである。なお、「枕草子」(初稿成立は長徳二(九九六)年の頃)の第一七九段では、夜の伺候の多く、明け方早々に退出しようとする出仕し始めの頃の若き日の清少納言を中宮定子が「葛城の神」と揶揄する回想シーンがあるから、この頃には一言主の醜顔というのはすっかり定着していたことが判る。この伝承から例えば「拾遺和歌集」には小大君(こおおきみ:三条院女蔵人左近とも呼ぶ)の一首(一二〇一番歌)に、

 

岩橋(いははし)の夜(よる)の契りも絶えぬべし明(あ)くるわびしき葛城の神

 

などともある。芭蕉の一句は曙に浮かび上がる花の華麗な実景の中に、消えゆく零落させられた神一言主の面影を、寧ろ、それを能の「葛城」の如くに美しき女神として蘇生させ、しかもなお、「消えないで! 今一度! その美しき面影を!」と「言上げ」する秘やかな祝祭句、いやさ! 恋句であるのではなかろうか?

2016/05/10

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版)  始動 / 小人國(1)

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版)

 

[やぶちゃん注:本篇はイングランド系アイルランド人の司祭にして痛烈な諷刺作家であったジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift 一六六七年~一七四五年)の知られたファンタジー「ガリヴァー旅行記」(Gulliver's travels:原書初版は世論の批判をかわすために決定稿を改変して一七二六年に出版、一七三五年には本来の決定稿完全版が出版されている。なお、本作の正式な題名は〝Travels into Several Remote Nations of the World, in Four Parts. By Lemuel Gulliver, First a Surgeon, and then a Captain of several Ships〟(「船医から始まり、後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリヴァーに拠る、四篇から成る、世界の僻遠の国々への旅行記」)である)の原民喜による子供向けの抄訳本で、原民喜の自死(昭和二六(一九五一)年三月十三日午後十一時三十一分、吉祥寺西荻窪間にて鉄道自殺)後の昭和二六(一九五一)年六月(一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅱ」では三月とするが、同全集「Ⅲ」の書誌及び年譜の六月を採用した)主婦の友社より刊行された。則ち、本翻訳は原民喜が自死する直前、覚悟の中で訳したもの、彼の最後の大きな文学的コーダであったと言えるのである。

 底本は広島市立中央図書館の「原民喜の世界」の「画像ギャラリー」の原稿を視認したが、時間を短縮するため、青空文庫のkompass 氏の入力及び浅原庸子氏の校正に成る「ガリバー旅行記 GULLIVER'S TRAVELS ジョナサン・スイフト Jonathan Swiftを加工用データとして使用させて戴いた。ここに厚く御礼申し上げる。但し、それは講談社文芸文庫を底本としたもので、新字新仮名であるから、自ずから相当に異なる印象のものと成ることは申し上げておく(単なる正字・新字以外の字の異同や表現の微妙な違いも実は数多いが、それらはあまりに膨大に及ぶので、原則、五月蠅い注記はしなかった)。

 原民喜訳同底本はほぼ決定稿に準じたもので、多くの細かい校正指示が書き込まれているが、五月蠅いので、本文内容に密接に関わらぬ限り、原則、再現していない。改行指示はそれに従って改行した。漢字は正字か新字(俗字)か迷う場合は正字を採用した。抹消は抹消線で示し、挿入及び書き換え字は〔 〕で示した。例えば、「でしたせうがしたでせう〕、」というのは最初にでした、」と書いたものを抹消し、次に「せうが」と訂し、また「したでせう」と直したことを示す。判読不能字は「■」で示した。抹消線には抹消し損なった残部が散見されるが、そこはなるべく民喜に好意的に伸ばして補ってある(それを注することに意味をあまり感じないからでもある)。各章題の前後は一行空けとした(原稿は詰めてあったり、挿入になったりしている)。

 因みに、私の再現で民喜が非常に多くの漢字のひらがな化や読点を追加しているのが分かる。子どもが読み易いようにと考えた彼の優しさが伝わってくるではないか。但し、それらは必ずしも現行のそれに反映されているわけではない。

 一部の疑義のある箇所は、一九七八年青土社刊「原民喜全集 」と校合し、必要と認めた場合は、当該段落の後に注を附した。但し、「原民喜全集 」の「ガリバー旅行記」は主婦の友社版に依拠しており、新字新仮名である。さればこそ、ここでの私の電子化は、最も本来の民喜の書いたそれに近いものであると自負するものではある。

 なお、現在、本作は「ガリバー旅行記」の表記で通行しているのであるが(自筆原稿には総標題はない)、自筆原稿一枚目の冒頭の第二文の本文で最初に主人公が自分の名を語る部分で「レミュエル・ガリバー」と書いた後、「バ」を徹底的にぐるぐると抹消した上、脇に「ヴァ」と訂していることから、実は原民喜は「ガリバー旅行記」ではなく、「ガリヴァー旅行記」としたかったのであることが判明したので、私の総評題も敢えてそれを踏襲することとした。

 冒頭から読みにくく注するのは厭なので、ここで言っておくと、最初の「小人國」「大騷動」及び抹消された「びつくり仰天」と「目がさめてみると、」(これは続けて書いたものと思われる)及び「目がさめてみると」は総て原稿用紙の右罫外にある。「小人國」は有意に大きく、標題と分かる(現行では『第一、小人国(リリパット)』となっている)。「大騷動」はその左下に書かれてあるから、これが当初の「小人国」の副題であったものかと思われる。なお、その右手には校正メモとして「八十五枚」という本パートの総原稿枚数が記されてある。また総標題「小人國」の「國」の字は自筆原稿では、ただの「囗」であるが、本文の「國」に合わせて書き換えた。【始動 2016年5月10日 藪野直史】]

 

 

 小人國

    大騷動

 

   びつくり仰天

     目がさめてみると、

           目がさめてみると

 私はいろいろ不思議な國を旅行して、さまざまの珍しいことを見て來た者です。名前はレミュエル・ガリ〔ヴァ〕ーと申します。

 子供のときから、船に乘って外國へ行つてみたいと思つてゐたので、航海術や〔、〕數學や〔、〕醫學などを勉強しました。外國語の勉強も〔、〕私は大へん得意でした。

 一六九九年の五月、私は「かもしか号」に乘つて、イギリスの港から出帆しました。船が東インドに向ふ頃から〔、〕海が荒れだし、船員たちは大そう弱つてゐました。

 十一月五日のことです。ひどい霧の中を〔、〕船は進んでゐました。その霧のために〔、〕大きな岩が〔、〕すぐ目の前に現れてくるまで氣がつかなかつたのです。

 あつといふ間に、岩に衝突、船は眞二つになりました。それでも〔、〕六人だけはボートに乘り移ることができました。私たちは〔、〕くたくたに疲れてゐたので、ボートを漕ぐ力もなくなり、ただ海の上をただよつてゐました。と急に吹いて來た北風が、いきなり〔、〕ボートをひつくりかへしてしまひました。で、それきり、仲間の運命はどうなつたのか、わかりませんでした。

 たゞ〔、〕私はひとり夢中で、泳ぎつづけました。何度も何度も〔、〕試しためしに足を下げてみましたが、とても海底にはとどきません。嵐は漸(ようや)く 靜まつてきましたが、私はもう泳げるぐ力もなくなつてゐました。そして私の足は〔、〕今ひとりでに海底にとどきました。

[やぶちゃん注:「漸く」の後の一字空白はママ。]

 〔ふと〕氣がつくと〔、〕背が立つのです。このときほど〔、〕うれしかつたことはありません。そこから一哩ばかり步いて〔、〕私は岸にたどりつくことができました。

[やぶちゃん注:「一哩」現行は「一マイル」。一マイルは現行ならば約一・六キロメートルである。]

 〔私が〕陸に上つたのは、かれこれ夜の八時頃でしたせうがしたでせう〕、あたりには〔、〕家も人も見あたりません。いや、とにかく、ひどく疲れてゐたので〔、〕私は睡いばつかしでした。草の上に追う橫になつたかと思ふと、たちまち〔、〕何もかもわからなくなりました。〔ほんとに〕〔、〕このときほどよく眠つたことは〔、〕生れてから今まで〔、〕一度もなかつたことです。

[やぶちゃん注:「かれこれ夜の八時頃でしたせうがしたでせう〕、」ここは現在、「でした。」(しかも読点でなく句点)と殆んど初案の形に戻っている。

 なお、次の一行空けは校正記号によって空けた。しかし、現行ではこの一行空けは存在しない。]

 

 ほつと目が覺めると、もう夜明らしく、空が明るんでゐました。さて起きよう〔かな〕、と思ふとひ、〔起きようとしたのです立ちあがらうとすると、〔身〕動かうと〔きしよう〕とすると、〕どうしたことか、身躰が〔、〕〔さつぱり〕動きません。氣がつくと、私の身躰は〔、〕手も足も細い紐で地面に〔、〕しつかりくくりつけられてゐます〔てあるのです〕。髮の毛まで縛りつけてあるのです〔あります〕。これでは〔、〕私はただ仰向になつてゐるほかはありません。

[やぶちゃん注:「髮の毛まで縛りつけてあるのです〔あります〕」の箇所は現行では「髪の毛まくゝりつけてあります」となっている。なお、ここで言っておくが、現行通行本ではやたらに踊り字「ゝ」「ゞ」「〱」「〲」が用いられていて厭らしい(私は基本、踊り字が嫌いである)のであるが、原民喜もやはり、これらの踊り字が嫌いであったことが自筆原稿から如実に窺えるのである。彼はまず滅多に踊り字を使用しないのである。]

 陽はだんだん暑くなり〔、〕〔それが〕眼はまぶしくなりました〔にギラギラします〕。まはりに〔、〕何かガヤガヤといふ騷が聞えてきましたが、しばらくすると、私の足の上を〔、〕何か生物が〔、〕ゴソゴソ動い〔這つ〕てゐるやうです。その生ものは〔、〕私の胸の上を通つて、顎のところまでやつて來ました。

 私はそつと〔、〕下目を使つてそれを眺め〔ると、〕はつと驚いてしまひました。何と、それは人間なのです。身長六吋もない小人が、手に弓矢〔手〕を〔手に〕して〔、〕私の顎のところに立つてい〔る〕のです。そのあとにつづいて、四十人あまりの小人が〔、今〕ぞろぞど步いて來ます。〔いや、〕私は度胸を拔かれて、 びつくり仰天のあまり〕驚いたの驚かな〔い〕かつたの、〔私は〕いきなり〔、〕ワツと大声を立てました。〔たものです。〕

[やぶちゃん注:「六吋」現行は「六インチ」。十五センチメートル強。

「度胸」はママ。「度胆」の誤字であろう。ここの書き直しは、実はそれが気に障ったのかも知れない。

「驚いたの驚かな〔い〕かつたの、」しかし現行はここは「驚いたの驚かなかつたの、」である。]

 相手も〔、〕びつくり仰天、たちまち〔、〕逃げてしまひました。後できいて分かつたのですが、その時、私の脇腹から地面にとび下りるへうしに、四五人の怪我人も出たさうです。

 しかしすぐに彼等は引つ返して來ました。一人が〔、〕何か鋭い声で〔わけのわからぬこと■を叫〕ぶと、他の連中が〔、〕それをくりかへします。私はどうも〔薄〕氣味が惡いので、逃げようと思ひ、身をもがいてみました。と、うまく左手の方の紐が切れたので、ついでに、ぐいと頭を持上げて、髮の毛を〔しば〕つてゐる紐〔も〕〔、〕少しゆるめました。〔これで、〕どうやら首が動くやうになつたので、相手を〔つまうろうろしてゐる〕 〔つかま〕へてやらうとすると〔、〕〔小人は〕バタバタ逃げ出します。 すしまつです。〕してしまふのです。

[やぶちゃん注:「しかしすぐに彼等は引つ返して來ました」現行は「しかし彼等はすぐ引つ返して來ました」。]

 その時、大きな號令とともに、百〔いく〕本の矢が私の左手めがけて降りそそいで來ました。それはまるで針で〔さ〕すようにチクチクしました。そのうち〔に〕矢は顏にも落ちて〔向つて〕來〔るので、〕ます。〔私は〕大急ぎで左手で顏を〔おほ〕ひ、ウンウン〔うな〕りました。逃げようとする〔たび〕に〔、〕矢の攻擊はひどくなり、中には〔、〕槍でもつて〔、〕私の脇腹を〔つ〕きに來るものもあります。それで、私はとうとう、じつと、〔こら〕へてゐることにしました。〔そのうち〕〔、〕夜になれば〔、〕譯なく逃げられる〔だらう〕と考へたのです〔思ひました〕。

[やぶちゃん注:「とうとう」はママ。

 末尾は現行では「わけなく逃げられるだろうと考へたのです。」となっている。]

 私がをとなしくなると、もう矢は飛んで來ませんでした。〔なくなりました〕が、前とは餘程〔よほど〕人數がふえたらしく、あたりは一段と騷がしくなりました。〔さきほどから〕〔、〕私の耳から二間ぐらゐはな〔離〕れたところで、何かしきりに〔、〕物を打込んでゐる音がしていました〔す〕。

[やぶちゃん注:冒頭は現行、「私がおとなしくなると、もう矢は飛んで来なくなりました。が、」であるが、この「來ませんでした。」の句点は特に黒く塗りつぶしてあり、民喜の意図は少なくともこの原稿では、「私がをとなしくなると、もう矢は飛んで來ませんでしたが、」と文を続けることを指示している。

「二間」三メートル六十三センチメートル強。]

 そつと顏をそちら側へねぢ〔む〕けてみると、そこには〔、〕高さ一呎半ばかりの舞台が出來上つてゐます。〔これは〕〔、〕小人なら〔、〕四人ぐらい乘れさうな舞台で〔す。〕す。〔のぼるために〕〔、〕梯子はしごまで〔、〕二つ三つかかつてゐるのです〔ます〕。今〔、〕その舞台の上に〔、〕大將らしい男が立つ〔と〕、大演説をはじめ〔やりだ〕しました。四人のお附きをしたがえた、その男は〔大將は〕、年〔は〕四十歳〔ぐ〕らゐで、風采も堂堂としてゐます。といつても、〔その〕身長は私の中指ぐらゐでした〔せう〕。彼は声をはりあげ、手を〔ふ〕り𢌞〔まは〕し、〔彼は〕なかなか立派な演〕を喋りました〔調子よく〕しゃべるのです。

 私も左手を高く上げて、うやうやしく、答へのしるしをしました。しかし、なにしろ私は〔、〕船にゐたとき食べたきりで、あれから〔、〕何も食〔一つ食〕べてゐません。ひもじさに、お腹がぐーぐー鳴りだしました。〔もう〕〔、〕どうにも我慢ができないので、私は口へ指をやつては、何か食べさせて下さい〔、〕といふ樣子をしました。〔すると〕大將は私の意味が〔よく〕わかつたとみえて、早速、〔命令して、〕私の橫〔腹〕に〔、〕梯子を五六本掛けさせました。

 すると〔、〕その樣子を百人あまりの小人が、それぞれ〔、〕肉を一杯もつ〔入れ〕た籠をさげて、登つて〔その梯子をのぼり〕、私の口のところへやつて來るのです。牛肉やら〔、〕羊肉やら〔、〕豚肉やら、料理もなかなか立派〔なごちさう御馳走〕でしたが、大きさは〔、〕雲雀の翼ほどもありません。一口に二つ三つは〔、〕すぐ平げることができます。それにパンも大へん小粒なので、一口に三つは食べられました。〔ぐらゐわけないのです。〕後から後から運んでくれるのを〔、〕私がぺろりと平げるので、一同は〔ひどく〕驚きあきれ〔い〕てゐるやうでした。

 私は水が〔ほ〕しくなつたので、その手眞似をしました。あんなに食べるのだから、〔水だつて〕〔、〕ちよつとやそつとでは〔、〕〔た〕りないだらうと〔、〕小人たちは一番大きな樽を私の上に〔つる〕しあげて、ポンと呑口を〔あ〕けてくれました。それも一息に私は〔、〕飮み〔ほ〕してしまひました。〔なに、〕大樽といつたつて、コツプ一杯分ぐらゐの水なのですから、〔これは〕あたりまへのことです。が、その水は〔、〕薄い葡萄酒に似て〔、〕なんともいい味のものでした。

[やぶちゃん注:「〔これは〕あたりまへのことです。」は現行は「なんでもありません。」と極端に異なる。]

 彼等は 私のやつたことが〔こんなことが、〕よほど珍しか〔得意だ〕〔うれしか〕つたのでせう、大喜びで〔、〕はしやぎまわり、私の胸の上で〔、〕〔おど〕りだしたのです。〔しました。〕それ〔下〕からは私にむかつて、その空樽を投下してくれと手眞似をします。

[やぶちゃん注:冒頭の抹消の「彼等は」が現行では生きている。

 次の文章とは繋がっているが、改行を示す校正記号「』」が打たれているので改行した。しかし、この改行は現行のそれにはなく、次の段落はここと繋がっている。]

 私が左手で胸の上の樽を投げてやると、小人たちは一せいに拍手しました。それなんそれ〕にしても〔、〕私の身躰の上を勝手に步き𢌞〔まは〕つてゐる小人たちの大膽さ。私の身躰は〔、〕彼等から見れば〔、〕山ほどもあるのです。それを〔、〕平氣で步き𢌞〔まは〕つてゐるのには感心しました。 〔、〕少からずですだから■■■ます。〕

[やぶちゃん注:最後の決定稿はどうしても読めない。意味からすると「だからあきれます」ならいけるが、最初の判読不能字は「に」に似ており、「あ」にはとても見えない。それにしてもこれだけ苦労していながら、現行のこの部分は「それを平気で歩きまわっているのです。」である。なんじゃ? こりゃあ?!]

 しばらくすると、皇帝陛下からの勅使が、十二人ばかりのお供を引連〔つれ〕てやつて來ました。私の右足の足首から〔のぼ〕つて、どんどん顏のあたりまでやつて來ます。その書狀(かきもの)をひろげたかと思ふと、私の眼の前につきつけて、何やら讀み〔あ〕げました。それから、頻りに前方を指さしました。〔こ〕の意味は〔、〕後になつて分〔わか〕つたのですが、〔指さしてゐる方向に〔、小人〕國の都があ〔つたのです。〕そこへ、〕皇帝陛下が〔、〕私を〔つ〕れて來るやう云ひつけられたのださうです。

 そこで私は、自由に くくられてゐない手の方で片方の手をうごかしてくくられていないゐない片方の手で〕、どうか〔この〕紐をといて下さいと、〔いろいろと〕手眞似をしてみ〔せ〕ました。〔すると〕、勅命は〔、それはならぬといふ風に、〕頭を左右に〔ふ〕りました。承知してくれません でしたでした〕。しかし、そのかはり、食物や飮ものに不自由させない〔ぬ〕から安心せよ と勅命〔彼〕は手眞似で答へました。

[やぶちゃん注:ここも改稿が錯綜しているが、現行ではこの段全体は、

『私は、どうかこの紐を解いてくださいと、くゝられていない片方の手で、いろいろと手まねをして見せました。すると勅使は、それはならぬというふうに、頭を左右に振りました。その代り、食物や飲物に不自由させぬから安心せよ、と彼は手まねで答えました。』

となっているから、概ね、この改稿通りとなってることが分かる。「勅命」は原稿のママだが、確かに「勅使」でないと通りが悪い。]

 敕使が帰つてゆくと、大勢の小人たちが〔、〕私の側にやつて來て、顏と兩手に〔、〕何か〔ひどく香りのいい、油のやうなものを〕塗〔塗〕〔塗〕つてくれました。すると間もなく〔、〕〔あの〕矢の痛みはケロリとなほりました。

 私は氣分もよくなつたし、お腹も一杯だつたので、こんどは〔、〕睡くなりました。そして八時間ばかりも眠りつづけました。これも後で〔きいて〕わかつたのですが、〔私が飮んだ〕〔、〕あの〔お〕酒には〔、〕〔睡〕り〔藥〕が〔ま〕ぜてあつたのです。

 最初、私が上陸して〔、〕草の上に〔何も知らないで〕眠つてゐた時、小人たちは〔、〕それ〔私〕を發見すると、大急〔ぎ〕で皇帝にお知らせしました。そこでさつそく、會議が開かれ、とにかく、私をしばりつけておくこと、食物と飮物を送つてやること、私を運搬するために、大きな機械を一つ用意すること、こんなことが會議で決まつたらしいのです。

 で、早速、五百人の大工と技師に云ひつけ、この國で一番大きな機械を持出すことになりました。そ〕れは長さ七呎、幅四呎の木の台〔で〕、二十二〔個〕の車〔輪〕〔つ〕ついて動くのです。〔ゐます。〕私が〔私が〕睡りぐすり〔藥〕のお蔭で、〔私が〕ぐつすり何も知らないで眠つてゐる間に、この車〔が〕私の身躰〔に〕ぴつたり橫づけにされ〔てゐ〕ました。だが、睡つてゐる私を〔かつ〕ぎあげて、この車に乘せるのは〔とても〕大変〔容易〕なこと〔ではありません〕〔だつた〕らしかつた〔い〕のです。

[やぶちゃん注:「七呎」現行は「七フィート」。二メートル十三センチメートルほど。

「四呎」現行は「四フィート」。一メートル二十二センチメートルほど。]

 まづ第一に〔、〕高さ一呎の柱を八十本立て、それから、私の身躰をぐるぐる𢌞(ま)きにしてゐる紐〔の上〕に、丈夫な綱をかけました。そして、この綱を〔、〕柱にしかけてある滑(かつ)車で、〔えんさえんさと〕引上げるのです。九百人の男が力をそろへて、とにかく三時間足らずのうちに、私を車台〔の上〕に〔つる〕し上げて〔、〕むす結〕びつけてしまひました。すると、千五百頭の馬が、その車を引いて、私を都の方へ〔つ〕れて行つた〔も〕のです。出しました。行きました。〕もつとも、これは〔、みんな〕後から人に聞いて知つた話〔なの〕です。

[やぶちゃん注:「一呎」現行は「一フート」。三〇・四八センチメートル。]

 車が動きだしてから〔、〕四時間〔も〕した頃のことです。何か  〔の〕故障〔の〕ため、車はしばらく〔と〕まつてゐましたが、その時、二三の物好〔き〕な男〔たち〕が、〔、〕私がどんな〔の寢〕顏して寐てるのか〔はどんなものか、それを〕見たいと〔るた〕めに、〔わざわざ、〕車に攀〔よ〕ぢのぼつて來ました。

[やぶちゃん注:「が、〔、〕」の読点のダブりはママ。]

 〔はじめは、〕そつと〔、〕顏のあたりまで近づいて來たのですが、一人の男が、手に持つてゐた槍の先を〔、〕私の鼻の孔にグイ〔と〕突込んだ〔も〕のです。こよりで〔、〕つつかれたやうなもので、〔くすぐ〕つたくてたまりません。私は思はず〔知らず〕〔、〕大きな〔、〕クシヤミ〔くしやみ〕と一緒に〔私は〕目が〔さ〕めました。

[やぶちゃん注:現行は「こより」と「くしゃみ」に傍点「ヽ」が附されている。]

 その 〔日はそれからまだ大分〕 うち夜になりました 車は進んで行ました 〔日が暮れてから、車は休むことになりましたが、〕私の兩側には〔、〕それぞれ五百人の番兵が、弓矢や〔半分は〕炬火をかかげて取圍(かこ)み、私がちよつとでも身動きしようものなら、直ぐ取りおさへさうでした。〔ようとしていました。〕翌朝、日が上ると〔、〕車はまた進みだしました。そして正午頃、〔ようやく〕車は都の近くまでに〕やつて來ました。〔すると〕皇帝も〔、〕家來〔大臣〕も〔、〕みんな出て迎へました。が、大臣たちは、皇帝が私の身躰の上にのぼつてみる のは  〔たがるのを、〕「そいつは危險でございます」と言つて〔、〕〔大臣たちは〕〔ひき〕とめました。

[やぶちゃん注:現行ではこの段落は「日が暮れてから、車は休むことになりましたが、私の両側には、それぞれ五百人の番兵が、弓矢や炬火をかゝげて取り囲み、私がちょっとでも身動きしようものなら、すぐ取り押えようとしていました。翌朝、日が上ると、車はまた進みだしました。そして正午頃、車は都の近くにやって来ました。皇帝も、大臣も、みんな出迎えました。皇帝が私の身体の上にのぼってみたがるのを、それは危険でございます、と言って、大臣たちはとめていました。」となっていて、直接話法の鉤括弧が示されていないし、「そいつ」がが「それは」となっていて、採りようによってはかなりニュアンスが違う。]

 丁度、車が停つたところに、この國で一番大きい神社がありました。こ〔こ〕は前に、何か不吉なことがあつたので今は〔今では祭壇もとり除かれ、とり除かれて、中はすつかり、〕から〔空〕つぽになつてゐました。この建物のなかに〔、〕〔この〕私〔が〕〔い〕れ〔られ〕ることになつたのです。北に向いた門の高さが約四呎、幅は二呎ぐらゐ、ここから〔、〕私は這ひはい〕り込むことができます。私の左足は〔、〕錠前で〔と〕められ、左側のそ窻のところに、鎖でつながれました。

[やぶちゃん注:「四呎」現行は「四フィート」。一メートル二十二センチメートルほど。

「二呎」現行は「二フィート」。二〇・九六センチメートル。]

 〔この〕神殿〔社〕の向側に見える塔の上から、皇帝は臣下と一緒に、〔この〕私を御見物になります。つたさうです。りました。〕なんでも、その日、私を見物するために〔、〕十万人以上の人出があつたといふことです。それに〔、〕番人がゐても、梯子を〔つた〕つて、この私の身躰に〔のぼ〕つた連中が〔、〕一万人ぐらゐはゐました。が、これは間もなく禁止され、犯したものは死刑だといふ〔にされる〕ことになりました。

 いよいよ〔もう〕私が逃げ出せないことが分ると、〔わかつたの〕で、職人たちははじめて〔、〕私の身躰〔に〕まきついてゐる紐を切つてくれました。それで、はじめて私は立上つてみたのですが、〔それは、〕いや、何とも妙で〔いえない〕、憂欝〔いや〕な氣持でした。

 ところで、私が立〔上〕つて步きだしたのを、〔はじめて〕見〔る〕人人の驚きといつたら、これ〔また〕〔、〕大変なものでした。私の足をつないでゐる鎖は〔、〕約二ヤードばかりあつたので、半円を描いて往復することができま〔した〕。

二章 皇帝陛下

[やぶちゃん注:以上のパート標題は現行にはなく、行空けもなしで以下に続く。]

 立上つて〔、〕私はあたりを見𢌞しましたが、實に面白い景色でした。附近の土地は庭園が續いてゐるやうで、垣をめぐらした畑は〔、〕花壇を〔なら〕べたやうでした〔す〕。その畑のところどころに森が混つてゐますが、一番高い樹でまづ七呎ぐらゐでした〔す〕。街は左手に見えてゐましたが、それは〔丁〕度、芝居の町そつくりでした。

[やぶちゃん注:「七呎」現行は「七フィート」。二・一三メートル。]

 〔さきほどまで〕〔、〕塔の上から私を見物してゐられた〔ゐた〕皇帝が、今、塔を〔お〕りて、馬にこちらに馬を進めて來られました。が、これはもう少しで大事になるところでした。といふのは、この馬はよく〔な〕れた馬でしたが、私を見て山が動きだした〔や〕うに、びつくりしたのです〔もので〕すから、忽ち後足で立ち上りまし〔つたのです〕。〔しかし〕皇帝は馬の達人だつたので、鞍〔の上〕にぐつと落着いてゐられる、そこへ從者〔家來〕がやつて來て〔駈けつけて〕、手綱を押へ〔る〕、〔こ〕れでまづ、無事に〔お〕りることができました。

 馬から下りると皇帝は〔、〕私を眺めまはし、頻りに感心されていました〔す。〕が、私の鎖のとどくところへは近寄りません。それから、料理人〔たち〕に〔、〕食べものを運べと云ひつけられました。〔すした。〕すると、〔みんなが、〕御馳走を盛つた、車のやうな容れものを、押〕して來ては、私の側においてくれます。

 〔私は〕容れものごと手で〔つか〕んで、〔私は〕ペロリと平げてしまひました〔す〕。肉が二十車、飮みものが十車、どれもこれも〔、〕平げてしまひました。皇后と若い皇子皇女たちは〔、〕澤山の女官に附添はれて、少し離れた椅子のところにゐましたが、皇帝のさきほどの馬の騷ぎのとき、みんな席を立つて、皇帝のところに集つて來ました。ここで、皇帝の樣子を〔、〕ちよつと述べてみませう。

[やぶちゃん注:現行では「皇后と若い皇子皇女たちは、」以下が独立段落となっている。現行には改行指示はないので繋げて示した。]

 皇帝の身長は宮廷の誰よりも、高かつたのです。丁度、私の爪の幅ほど高かつたやうです〔。〕が、これだけでも、なかなか立派に見えます。男らしい顏つきで、きりつとした口許、弓なりの鼻、頰はオリーヴ色、動作はもの靜かで、態度に威嚴(いげん)がありました〔す〕。年は二十八年と九ケ月といふことです。

 着物は質素で、頭に〔は〕〔寶石をちりばめた〔、〕輕い〕黄金の兜をいただき、頂きに羽根飾りがついてゐますが、着物は大へん質素(しつそ)でした。手には長さ三吋ぐらゐの劍を握つてをられ、〔ます。〕〔その〕柄と鞘は黄金で造られ、ダイヤモンドが〔ちりば〕めてあります。

 皇帝の声はキイキイ声ですが、よくききとれました〔す〕。女官や廷臣たちは、みんな綺麗な服を着てゐます。だから、〔みんなが〕並んで立つてゐるところは、まるで金絲銀絲 〔金や銀の糸〕の刺繡〔の衣〕を地面にひろげたやうでした。

[やぶちゃん注:現行のこの段落は「皇帝の声はキイキイ声ですが、よく聞きとれます。女官たちは、みんな綺麗な服を着ています。だから、みんなが並んで立っているところは、まるで、金糸銀糸の刺繡の衣を地面にひろげたようでした。」である。私の引いた下線部の違いに着目されたい。]

 皇帝は何度も私に話しかけられましたが、〔殘念ながら〕どうもお互に言葉が通じません。二時間ばかり〔し〕て、皇帝〔を〕はじめ一同は帰つて行きました。あとに殘された私には、ちやんと番人がついて、見張りしてゐました〔くれます〕。それは〔つまり〕〔これは〕私を見に押しかけて來る〕野次馬のいたずらを防ぐためでした〔す〕。

[やぶちゃん注:現行では「野次馬」は「やじ馬」で「やじ」には傍点「ヽ」が附されてある。以下の「野次馬」も同じ。]

 野次馬どもは〔、〕勝手に私の近くまで押よせ、なかには、私に矢を射かける〔ようとする〕もの〔まで〕ゐま〔した〕。一度など〔、〕その矢が〔、〕私の左の眼にあたるつきさすあたる〕ところでした。が、番人は早速、その連中を捕へ〔野次馬のな〕かの〔、〕頭らしい六人の男を捕へて〔、〕〔私に引渡し〕くれました。そして番人の槍先で〔、〕私の近くまで〔、〕その六人が追立てられて來ると、私は一度に六人を鷲〔牛で〕摑みにしました。〔手でつかんでやりました。〕

[やぶちゃん注:「〔私に引渡し〕くれました。」はママ。現行では「私に引渡してくれました。」である。或いは前の「捕へて」の「て」を読点の下に誤認したものかも知れない。]

 五人は上衣のポケツトにねぢこみ、殘りの〔殘りの私の指に殘つてゐる〕一人は 今にも〔あとの一人〔に〕は、〔そら、〕これから食つてやるぞ、といふやうな顏つきをして脅かしました。〔見せました。〕〔私の指に摑〔はさ〕まれて、〔すると、〕その男は〔私の指のなかで〕〔わーわー〕泣きわめきますくこと、きます〕。

 私が〔私が〕〔その〕指を口〔に〕もつてゆくと、ほんとに食はれるのではないかと、〔他の〕〔番人ま番人も見物人も〔、〕〕みんな靑くなつて〔ハラハラして〕ゐたやうです。が間もなく、私はやさしい顏つきに返り、その男をそつと地面に〔お〕いて、〔はな〕してやりました。他の五人も、一人づつポケツトから引張り出して許してやりました。〔すると〕番人も見物人も〔、〕一安心で〔ほつとして〕、私のしたことに感謝してゐる樣子でした。

 夜になると、〔見物人も帰るので〕やうやく私は家のなかにもぐりこみ、地べた〔で〕寢そべるのでした。二週間ばかり〔は毎晩〕地べたで寢てゐまし〔たものです。〕が、そのうちに皇帝が〔、〕私のためにベツドを拵へてやれ〔、〕と命令さ〔云は〕れました。普通の大きさのベツドが六百、車に積んで運ばれ、私の家の中で、それ〔を〕組立てられました。

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 螱(はあり)

Haari

はあり   白蟻 飛螘

      【和名波阿里

        俗云波里】

ヲイ

 

本綱蟻之白者穴地居蠹木而食因濕營土大爲物害初

生爲蟻蝝至夏遺卵生翼而飛則變黒色尋亦隕死性畏

1炭桐油竹鷄

[やぶちゃん字注:「1」=「火」+「孚」。]

按螱【俗云波里】羽蟻也人家古松柱間生螱其蚳細白如罌

 粟子有黒點處頭也尋變黃赤生翼再變黒而群飛不

 能奈何相傳書咒歌粘其柱則螱悉除去屢試驗焉其

 歌未知誰人所詠

      はありとは山に住むへきものなるに里へいつるはおのか誤り

 

 

はあり   白蟻〔(しろあり)〕 飛螘〔(ひぎ)〕

      【和名、波阿里〔(はあり)〕。俗に云ふ、「波里〔(はり)〕」。】

ヲイ

 

「本綱」、蟻の白き者。地に穴して居〔(を)〕る。木を蠹〔(むしば)み〕て食ふ。濕に因て土を〔もて〕營む。大いに物の害を爲す。初めて生ずるを「蟻蝝〔(ぎえん)〕」と爲し、夏に至りて卵を遺〔(この)し〕、翼を生〔じ〕て飛ぶ。則ち、黒色に變じ、尋(つい)で亦、隕〔(お)ちて〕死す。性、1炭(をき〔(ずみ)〕・桐油・竹鷄〔(てつけい)〕を畏る。

[やぶちゃん字注:「1」=「火」+「孚」。]

按ずるに、螱【俗に云ふ、「波里」。】は羽蟻(はあり)なり。人家・古き松柱に、間(まゝ)、螱を生ず。其の蚳(ありのこ)、細白〔(ほそじろ)くして〕、罌粟子(けしのみ)のごとく、黒き點有る處、頭なり。尋(つい)で、黃赤に變じ、翼を生じ、再び黒に變じて群飛す。奈何(いかん)ともすること能はず。相ひ傳へて、咒歌(まじなひうた)を書きて其の柱に粘(は)れば、則ち、螱、悉く除去〔せりと〕。屢々試みて驗あり。其の歌、未だ誰(たれ)人の詠ずる所と云ふを知らず。

      はありとは山に住むべきものなるに里へいづるはおのが誤り

 

[やぶちゃん注:「白蟻」と呼ばれながら実は蟻ではない節足動物門昆虫綱網翅上目ゴキブリ目(旧の等翅(シロアリ)目を復活させるべきとする考えも有り)シロアリ科 Termitidae に属する生物群。亜科は現行、ムカシシロアリ亜科 Mastotermitinae・レイビシロアリ亜科 Kalotermitinae・オオシロアリ亜科 Termopsinae・シュウカクシロアリ亜科 Hodotermitinae・ミゾガシラシロアリ亜科 Thinotermitinae・ノコギリシロアリ亜科 Serritermitinae・シロアリ亜科 Termitinae の七科ほどに別れるようであるが、以下に見るように分類は錯綜している。ウィキの「シロアリ」より引く。『主に植物遺体を食べる社会性昆虫である。熱帯から亜寒帯まで、陸上のほとんどの地域に分布するが、熱帯に種数が多い。いわゆる蟻塚のほとんどは、シロアリによって作られる』。『シロアリには』ミゾガシラシロアリ亜科(Heterotermitinae 科とするデータも有り)ヤマトシロアリ属ヤマトシロアリ Reticulitermes speratus・ミゾガシラシロアリ亜科(同じくHeterotermitinae 科とするデータも有り)イエシロアリ属イエシロアリ Coptotermes formosanausのような『下等シロアリと』、キノコシロアリ(本種群は上に出ないキノコシロアリ亜科Macrotermetinae とするデータが多い)のような『沖縄以南に分布する高等シロアリがある。家屋に被害を与えるのは下等シロアリである』。『木造家屋などに棲みつき木材(場合によってはコンクリートやプラスチック、動物の死骸なども食い荒らすこともある』)『を食い荒らす害虫として忌み嫌われるが、自然界においてはセルロースの分解に携わる重要な働きを持つ。近年ではシロアリの消化器官内の共生菌によるセルロース分解プロセスがバイオマスエタノールやバイオガスの製造に役立つ事が期待され、研究が進められる』。『白「蟻」と名がつけられているが、アリはハチ目の昆虫で、翅を欠く社会性のハチであるのに対し、シロアリは朽木などの植物遺体を食べるゴキブリの中から社会性を著しく発達させた系統の昆虫である。不完全変態のため、幼虫は成虫とほぼ同じ姿である。そして、ある程度成長すればニンフという段階を経て生殖虫(いわゆる羽アリで成虫に該当する)となって巣外へ出て行く。この生殖虫の翅は細長くて柔らかく』、四枚が『ほぼ同じ大きさをしている。「等翅類」という名称は、この』四枚が総て『ほぼ同じ大きさをしている翅に因んだものである。この翅は折り重なるように畳んで背中に平らに寝かせることができる。ただし飛行後間もなく根元で切れて脱落する。種によって異なるが、それ以外の兵蟻や職蟻は終世翅を持たない』。『触角は数珠状。口器は咀嚼型。頭部、胸部、腹部はその間でくびれない。腹部は膨らんで柔らかい。日本産のものは巣内にとどまるので白っぽく、足が短く不活発なものが多いが、熱帯のキノコシロアリ類や餌を野外に探しに行くシュウカクシロアリ科の種類では』、七メートルの『穴を掘り水脈を探し、体色が白ではなく茶褐色や黒っぽいものもいる。それらでは手足も長く活発な種も多い』。『林や草原における枯木や落葉などの』一六%から六〇%が、『シロアリの身体を通ることで一般の動植物が再利用できるものに変えられ、生態系維持に重要な役割を果たす』。『シロアリはすべてが真社会性である。シロアリは巣から有翅の雌雄の生殖虫が飛び出し、群飛後地上に降り、雌雄がペアになって巣作りを始める。雌雄は女王、王となり、交尾、産卵を繰り返す。女王は卵巣の発達とともに次第に腹が膨らみ、種によっては元の大きさの数倍に達する。生まれた子供は親と同じ姿で、ある程度成長すれば職蟻として、王、女王を助け、巣を作るなどの作業を行う。職蟻は雌雄両性があり、それらは成長してゆくにつれ、一部のものが兵蟻、ニンフ、有翅虫(羽蟻)、副女王や副王(複数おり生殖虫がコロニー内に居る限り生殖は行わない)に分化する。兵蟻は繁殖をしないが他階級は生殖階級(女王、王)に分化可能である』。『副女王は女王のクローンであることが近年多くの種で確認されている。なお、上記でもわかるとおり、姿の似たアリでは職蟻は成虫であるが、シロアリでは幼虫である。このことから、専門的な文脈では職蟻ではなく擬職蟻(偽職蟻は誤り)と表記することが多い。兵蟻も幼虫とされているが職蟻と違い、通常は他階級には分化できない。職蟻がどの齢まで他のどの階級に分化可能かは種によって異なる。巣の規模が小さい間は職蟻と兵蟻だけであるが、大きくなってくると、ニンフを経て羽蟻、副女王、副王が現れる。羽蟻は特定の時期に巣外に出て群飛し、新天地にコロニー創生する。副女王、副王はコロニー分裂時や女王、王の死亡時などに生殖虫に分化する。なお、女王や王が何らかの理由でいなくなった場合、副女王や副王だけでなく、ニンフや職蟻の一部からも女王や王を生じことが可能である(前者階級ほど優先)。この時は繁殖可能な(つまり兵蟻を除く)』二匹を『最低ふくまねばならない。シロアリの種によっては単為生殖により雌だけでコロニーを創設することが可能であるが、その場合でも単一個体での創設は不可能で、雌同士』二個体での『創設が必須である。これはシロアリがアリと異なり、単一個体で自らの体を満遍なくクリーニングすることができず、必ず他個体に自らだけでは不可能な部位のクリーニングを手伝ってもらわなければならないためである。実験的に雌』一個体で『コロニー創設を行わせると、通常昆虫寄生菌を体表から除去することができず、感染により死亡する』。『ちなみに兵蟻は他虫の世話を含むコロニー管理ができない。多くの場合、自らのみでは摂食することすらできない』。『生殖虫には眼があるが、働きアリと兵隊アリは眼がない』。『シロアリは互いに餌を口移しで与え合ったり、他個体の糞を口にしたりする。これによって、腸内微生物を共有する効果がある他、フェロモンを集団内に行き渡らせる働きがある』。『兵アリは大きな頭部を持ち、巣に敵が侵入してくるのを防ぐ。兵アリには、様々な形のものがあり、種によって独特の形態となる。日本産では、ヤマトシロアリ、イエシロアリは細長い頭の先端に鋭い牙を持っている。八重山諸島に産するタカサゴシロアリ』(シロアリ亜科Nasttermes属タカサゴシロアリNasttermes takasagoensis)は、『丸い頭で、牙は小さいが頭の斜め前方に鋭い角を出し、そこから液体を噴射する。沖縄産のダイコクシロアリ』(レイビシロアリ亜科CryptotermesCryptotermes domesticus)は、『丸っぽい頭で、先端が平らになっており、これを使って巣穴を塞ぐという』。『働きアリは外見は白い種が多く、巣(アリ塚)の修復や食料集め、子の世話を担当する。アリ塚(蟻塚)の修復には、唾液や糞でこねた小さな土の粒を一粒ずつ運んで貼り付けていく』。『シロアリはすべて巣穴を作り、その中に王と女王が滞在し、働きアリが餌を運ぶ。巣穴は餌となる材の中に作るもの、地中に作るものが多いが、熱帯や乾燥した草原のものは、地表に盛り上がったアリ塚(蟻塚)を作るものが多い。アリ塚は土や自身の排泄物などでできており、一つのアリ塚には数百万匹棲んでいる。塚の壁は厚さ』十五センチメートルにも『達するものもあり、高温や乾燥から、中のシロアリを守ってくれる。アリ塚には直径』五ミリメートルほどの『穴がいくつも開いている。働きアリは塚の外に出て、枯れ木、枯れ葉、その他植物遺体を摂食するものが大部分だが、熱帯には地衣類を食べるものも知られる』。『高等シロアリと呼ばれるシロアリ科のシロアリにはユニークな生態のものがあり、その中にはキノコを栽培するシロアリもある。それらは喰った枯死植物を元にしてキノコを栽培する為の培養器を作る。それを入れるための巣穴を特に作る必要がある。日本では八重山諸島に分布するタイワンシロアリ』(シロアリ亜科OdontotermesOdontotermes formosanus)『が地下に巣穴を掘り、そのあちこちにキノコ室を作る』。『樹上生活のものもある。やはり高等シロアリで八重山諸島に生息するタカサゴシロアリは、樹木の幹に頭大の丸い巣を付ける。餌は近くの枯れた幹で、働き蟻がそれをくわえて運び込む。熱帯では、地表の枯れ木や枯葉を主として持ち込むものもあり、それらは巣穴から働きアリが地表を歩いて取りに行く。隊列をなして餌運びをする働きアリの列の外側を、兵アリが守っている』。『食物は主に枯死した植物で、その主成分はセルロースである。しかし、下等シロアリではセルロースを分解する能力が低く、消化管内の共生微生物(主に原生動物)の助けを得ている。一方高等シロアリでは、シロアリ自身もセルロースを分解する酵素(セルラーゼ)を持っていることが確認されている。これは遺伝子の水平伝播を示唆していると考えられている。シロアリの腸内共生原生生物は、セルロースを酢酸まで分解し、これをシロアリの栄養源として提供する』。『下等シロアリ類では消化管内に住む共生原生動物の酵素で植物繊維のセルロースを分解し消化吸収する。共生しているのは超鞭毛虫類や多鞭毛虫類が中心で、そのほとんどはシロアリの腸内のみに生息している。キノコシロアリ等、熱帯で繁栄する高等シロアリ類(シロアリ科)では共生原生動物を欠き、グループにより、担子菌』(菌界担子菌門 Basidiomycota の所謂、茸(きのこ)の類)の『キノコや細菌などと共生関係を持つ。体内の原生生物自身は、酢酸に分解する間にエネルギーを得るが、この過程で二酸化炭素と水素が発生し、さらに二酸化炭素と水素から酢酸またはメタンが生成される』。『担子菌類と共生するキノコシロアリ類は、巣の中に菌類培養室をいくつも持っている。野外から植物遺体を採集してくると、まずそれを食い、その糞を積み上げる。共生菌がその上で成長し、糞に含まれる成分を分解する。シロアリはその塊の底から食ってゆき、また糞をその上に積み上げる。これを繰り返してゆけば、積み上げられた糞の中の成分は次第に分解され、シロアリは食ったものの中から吸収できる成分を吸収する。吸収できなかった成分は再び糞として積み上げられ、すべてが吸収できるまで循環することになる。そのため、シロアリの巣内に持ち込まれた植物遺体は二酸化炭素と水になるまで分解され、土壌形成という形で広い範囲の土地を肥やすことにはならないとも言われているが、シロアリは腸内に窒素固定菌を飼っており、窒素循環の一翼を担い』、『巣の近辺には無機栄養塩が濃集することで植物の生育がよくなることが知られている』。『腸内微生物の中にはPCB(ポリ塩化ビフェニル)を分解する種も見つかっている』。『体の大きさや巨大な群れを作る社会性昆虫であることなど、アリとの共通点が多いが、アリとシロアリは全く異なった昆虫である。アリはハチ目(膜翅目)の一員で完全変態を行う昆虫であり、幼虫は蛆(うじ)のような形態をしている。一方、シロアリはゴキブリ目(網翅目)に属する不完全変態の昆虫である。シロアリでは幼虫も成虫によく似た形態をしている』。『社会の仕組みについて、アリは雌中心で女王と不妊の雌である働きアリ(職アリ)で構成され、雄アリは一時的にしか生じないのに対し、シロアリでは生殖虫(女王・王)、働きアリ(偽職アリ)、兵アリ(兵隊アリ)などの階級それぞれに雌雄が含まれている』。『シロアリの雌生殖虫(女王アリ)は結婚飛行を終えてコロニーが発達してくると、腹部がソーセージのように異様に発達した、他の階級個体とは大きく異なる産卵に特化した外形に変化する。熱帯に分布する大型のものでは体長』五センチメートルほどで一日に五万個の『卵を産むものもある。対するにアリの女王はグンタイアリ類など一部を除くとシロアリの女王のような特異な外形はしておらず、他の階級個体より一回り大きい程度の差異しか見られないことが多い。それゆえシロアリの女王の方がより生殖に特化して進化したかに見えるが、他の理由もあるため、一概に判断はできない。アリの女王は貯精嚢を有しており、そこに一生分の精子を貯蔵できるため、交尾を済ませれば生殖能力はほぼ一生持続できるのに対し、シロアリの女王は貯精嚢を欠くため、生殖能力を維持するには定期的に交尾を繰り返す必要があり、これがアリには見られない雄生殖虫(王アリ)が存在する大きな理由となっている』。『アリの社会では女王と働きアリだけで構成され、種類によっては一部の働きアリが特殊化した大型の兵アリとなるものもあるが、兵アリが分化していないものがむしろ大半である(近年は単純に戦闘に特殊化したわけではないことが明らかになっているため兵アリと呼ばずに大型働きアリ major worker と呼ぶことが普通となっている)。それに対して、シロアリではほぼ全ての種に兵アリがいる。これは、アリは基本的には捕食性の強い肉食の昆虫で、すべての働きアリに高い攻撃力があるのに対して、シロアリは主に枯死植物を食べる昆虫であるため、基本的には攻撃的ではなく、肉食昆虫に狙われる存在だからである』。『また、下等なシロアリでは真の働きアリは分化せず、他の階級への分化能力を有する未成熟の幼虫が働きアリとして働いている。つまり、アリ(ハチ)は、親(女王)が自分の子のほとんど全部を不妊の働きアリ(蜂)にすることで真社会性になったのに対して、シロアリは親が子の一部を兵アリとして不妊化することによって真社会性になったと言っていい』。『ちなみに、アリはシロアリにとって最も恐ろしい天敵の一つでもある。熱帯ではシロアリを主たる獲物としているアリも少なくない。日本ではオオハリアリ』(ハリアリ亜科フトハリアリ属オオハリアリPachycondyla chinensis:本種は毒針を持ち、人が刺された場合でもかなり痛むので注意が必要)『などがシロアリを捕食することが知られている』。『熱帯域ではその現存量が多く、また集中しているため、食料として有望であるが、地下や蟻塚の中など、手に入れるのが容易でない上、兵アリがいる。そのため、これを専食する動物には独特の適応が見られる。典型的な例がアリクイ』類(哺乳綱異節上目有毛目アリクイ亜目 Vermilingua)で、『前足の強い爪は蟻塚に傷を付けるのに有効で、長い吻とさらに長い舌はそれをこの傷に突っ込んで舌でシロアリを吸着させて集めるのに役立つ。チンパンジーは蟻塚に唾液で湿らせた小枝を差し込み、シロアリを釣り出して食べる』行動は、見かけ上、このアリクイの捕食行動と酷似はする。『天敵から身を守るために、アリ塚を利用して生活したり、巣を作ったりする他の生物もいる』(以下、昆虫と鳥の三例が示されてあるが省略する)。『その他にも、シロアリの巣内に生息する小動物はいくつかあり、好白蟻性と言われる』。『他に、シロアリの卵に擬態した菌核を作る菌が知られている。色は異なるが、化学物質や形の擬態によって、シロアリは卵と間違えて巣内に運び込むという。この菌核はターマイトボールと呼ばれる』。以下、「伝承」の項。『中国には、シロアリが銀を食べるという話が伝わっている。清代の康熙年間に呉震方が著した『嶺南雑記』には』、清代の一六八四年に『ある役所の銀倉庫で数千テール』(清代の一両(テール)は三十七・三グラムであるから、二百二十三キログラム位に相当する)『の銀が紛失したが、倉庫の隅にシロアリの巣があった以外に異常はなく、不可解に思いながらシロアリを炉に放り込んで焼き殺したところ、炉から銀が出たという話が書かれている。また、『天香楼外史』にも銀を入れていた木箱がシロアリに喰われて、銀が消えたが、シロアリを炉で焼いたら箱に入れていただけの銀が出たという話が載っている』。『これらの伝承には一部誇張もあるであろうが、シロアリは食物を求めて巣から蟻道を伸張する過程で、立ちふさがる障害物はとりあえず齧って突破を試みることが知られているので、それによって銀塊が著しく損傷したことを伝えているのであろう。現代でもレントゲン室の鉛板や地下埋設された鉛管をシロアリが損傷することがよく知られている。齧りとられた銀は消化管を通じて、あるいは口でくわえて巣に持ち帰り巣材に用いられたであろうから、巣をシロアリもろとも焼けば塗り込められた銀粉が再度溶けて銀塊に戻ることもあり得る話である』。『日本本土に分布する種では、ヤマトシロアリ Reticulitermes speratus (Kolbe,1885)と、イエシロアリ Coptotermes formosanus (Shiraki, 1905)が普通である。この』二種は『いずれもミゾガシラシロアリ科に分類される』。『ヤマトシロアリは枯れ木の中に巣穴を作って生活している。巣穴は網目状になった孔の連続からなり、シロアリはその周辺を食べながら巣を広げる。場合によっては表面に木くずを積み重ねたトンネルを造ってその中を移動する。広い面積を食べることは少ない』。『一方、イエシロアリは地下に穴を掘り、木くずや土でかためられた大きな巣を作り、この中に女王がいる。この巣を中心にしてトンネルを掘り、あちこちを食うので木造家屋などでは大きな被害が出る。根絶は難しいが、巣を発見・摘出することによって被害の進行をある程度止めることが出来る』。一方、『南西諸島では、シロアリの種数は遙かに多く』、十種を『超える。その中には地下に巣を作り、オオシロアリタケ』(担子菌門菌蕈亜門真正担子菌綱ハラタケ目キシメジ科オオシロアリタケ属の一種 Termitomyces sp.)『というキノコと共生関係にあるタイワンシロアリや、樹上にスイカほどもある大きな巣を作るタカサゴシロアリなど、興味深い種も含まれる。近年ではアメリカカンザイシロアリ』(レイビシロアリ亜科Insitermes属アメリカカンザイシロアリInsitermes minor)『が増えつつある』。『また、日本最大のシロアリは鹿児島以南に生息するオオシロアリ』(オオシロアリ亜科オオシロアリ属オオシロアリHodotermopsis sjostedti:大きさは有翅虫で十五ミリメートル働き蟻で一〇~十五ミリメートル、兵隊蟻に至っては大きいものでは二十ミリメートルにも達する)である。以下、「利用」の項。『昆虫食の対象として、トカゲやチンパンジー、オオアリクイ、クマなど、シロアリを好んで食べる動物は少なくないが、ヒトでも食料とする地域や民族がある。人間がシロアリを食用にする場合、採取に著しい労力が必要な上消化管に枯死植物質が充満した働き蟻ではなく、繁殖期に巣の外に大量に出現する生殖虫、すなわち雄と雌の羽アリを集めて食料とするのが普通である』。『スーダンなどではこれらの羽アリを採取し、油で揚げて販売する。南米先住民は生食で食している。フィリピンには、すりつぶしてスープの具にする地区もあるという。他にも中国・雲南省やタイ北部でも素揚げやスープなどにして食べられている。シロアリには』六%程度のタンパク質、〇・一%程度の『鉄分が含まれ』ている。『なお、シロアリそのものではないが、シロアリの培養するキノコであるシロアリタケはキシメジ科に属する食べられるもので、かなり美味なキノコとして扱われることが多い。中国の一部では庭にアリ塚を移植して、そこから発生するシロアリタケを食用にするとも言われるし、日本のキノコ培養性のシロアリであるタイワンシロアリが八重山諸島と沖縄島の那覇周辺に隔離分布するのは、琉球王国の宮廷料理に使うために、八重山から那覇へ移植が行われたためとする説がある』。『シロアリの消化器官内の共生菌によるセルロースの分解がバイオエタノールの生産に役立つと期待され、琉球大学や理化学研究所等で研究が進められ』ており、『また、シロアリの消化器官内にいる共生菌の中には水素を生成する菌がいる事が確認されている』 ともある。

 

・『和名、波阿里〔(はあり)〕。俗に云ふ、「波里〔(はり)〕」』「はあり」は「羽蟻」の略であることは分かるが、「はり」というのは私は聴いたことがない。しかし、「日本国語大辞典」には見出しとして載り、羽蟻の意とする。但し、そこに例示されているのは江戸期の用例三例、その内の一つは本記載である。

・「蠹〔(むしば)み〕て」この訓は東洋文庫版現代語訳を参考にさせて戴いた。

「濕に因て土を〔もて〕營む」湿気のある地面の土の中を好み、そこに営巣する。

・「尋(つい)で」次いで。やがて。

・「隕〔(お)ちて〕」隕石の「隕」は「堕(お)ちる」が原義。

・「1炭(をき〔(ずみ)〕」(「1」=「火」+「孚」)消し炭(ずみ)。おこった炭火や燃えた薪(まき)の火を消して作った炭。火つきがよい。東洋文庫版では「1炭」二字に対して『おき』と振る。「おき」は「燠」「熾」とも書き、赤く起った熾火(おきび)以外に同義もあるので無論、おかしくはない。しかし、原文は明らかに「1」のルビとしてしか「をき」(歴史的仮名遣は「おき」の方が正しい)と振っていないので、私は「おきずみ」と訓じておいた。

・「桐油」落葉高木であるトウダイグサ目トウダイグサ科アブラギリ属アブラギリ Vernicia cordata の種子から精製した桐油(きりゆ)。不飽和脂肪酸を多く含む乾性油で塗料・印刷インキ・油紙素材として盛んに使われたが、エレオステアリン酸など毒性を持つ不飽和脂肪酸を含むため、食用には出来ない(ウィキの「アブラギリに拠った)。

・「竹鷄〔(てつけい)〕」「大辞泉」に「てっけい」の見出しで漢字表記「竹鶏」とある。それによれば、キジ科Phasianidaeの鳥で大きさや体色はコジュケイ(キジ目キジ科コジュケイ属コジュケイ Bambusicola thoracicus)に似る。台湾特産で「台湾小綬鶏(たいわんこじゅけい)」とも呼ぶとある。ウィキの「コジュケイ」にタイワンコジュケイ(テッケイ)Bambusicola thoracicus sonorivox として記載がある。コジュケイの食性は雑食性で種子・果実・昆虫・蜘蛛などを食べるとあるから、恐らくは白蟻も食うであろう。東洋文庫版現代語訳では『うずらの類の鳥』と割注するが、確かに画像を見るとコジュケイの類の姿はうずらっぽくはあるものの、ウズラ類はキジ目キジ科でも別なウズラ属 Coturnix に属するから、この注はやや疑問であると私は思う。

・「間(まゝ)」老婆心乍ら、副詞の「頻度が多くはないものの少なくもないさま」「時々」「時には」の意の「まま」は事実、漢字では「間間」と書く。

・「はありとは山に住むべきものなるに里へいづるはおのが誤り」不詳。]

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 いひあり

Iiari

いひあり   
1螘

【音籠】

       【和名以比阿里】

ロン

[やぶちゃん字注:「1」=「虫」+「丁」。「2」=(上)「龍」+(下)「虫」。]

 

本綱2乃蚍蜉之赤者也五行記云後魏時兗州有赤蟻

與黒蟻闘長六七歩廣四寸赤蟻斷頭死則離騷所謂南

方赤蟻若象玄蜂若壷者非寓言也

嶺南有獨脚蟻一足連樹根下止能動揺不能脱去亦一

異者也

 

 

いひあり   1螘〔(たうぎ)〕

【音、籠。】

       【和名、以比阿里。】

ロン

[やぶちゃん字注:「1」=「虫」+「丁」。「2」=(上)「龍」+(下)「虫」。]

 

「本綱」に、2は乃〔(すなは)〕ち、蚍蜉(をほあり)の赤き者なり。「五行記」に云ふ、後魏〔(こうぎ)〕の時、兗〔(えん)〕州に赤蟻有り、黒蟻と闘(たゝか)ふ。長〔(た)〕け六、七歩〔(ぶ)〕、廣さ四寸あり。赤蟻、頭を斷(き)られ死すと云ふ時は、則ち、「離騷」に謂へる所の、『南方に赤蟻あり。象のごとし。玄蜂(くろばち)壷のごとし。』と云ふは、寓言に非ず。

嶺南、獨脚の蟻、有り。一足にて樹の根の下に連なり、止〔(た)〕だ能く動揺して脱去すること能はず。亦、一異なる者なり。

 

[やぶちゃん注:以下の叙述から、一応、アリ科ヤマアリ亜科ヤマアリ属アカヤマアリ亜属アカヤマアリ Formica sanguinea を同定候補の一種に挙げておきはする。闘争シーンが示されるが、ウィキの「アカヤマアリによれば、『ヨーロッパ、ロシア、東アジアなどに』棲息し、体長は六~七ミリメートルで『胸部や肢は赤く、頭部や腹部は通常』は黒色を成す。『アカヤマアリは奴隷狩りをすることで知られており』、同亜属の近縁種であるクロヤマアリ亜属クロヤマアリ Formica japonica・ヤマクロヤマアリ Formica lemani・ツヤクロヤマアリ Formica candida・ハヤシクロヤマアリ Formica hayashi などを『狩り、奴隷として巣に住まわせ』ている。殆んどの『巣で他種のアリと混生しており、単独で巣を作ることは少ない。また蟻塚を作ることはほとんどない』。また、『アカヤマアリ亜属の種として初めて融合コロニー』(一つの『コロニーが多数の巣を形成すること)の存在が確認され』てもいる、とあり、強ち、トンデモ同定とも思えないように私には思われる。

 

・「いひあり」これは私の単なる直観だが、「飯蟻(いひあり)」(いいあり)ではなかろうか? 古代米は赤いからである。

・「蚍蜉(をほあり)」大蟻。ここは種としてそれ(現行ではアリ科ヤマアリ亜科オオアリ属オオアリ亜属クロオオアリ Camponotus japonicus を代表種(本邦最大種)として示し得る。但し、それでも働きアリの体長は七~十二ミリメートルである)ではなく、単に大きな蟻の謂いである。

・「五行記」東洋文庫版書名注には『一巻。無名氏撰』とのみあるが、子の書誌情報で合致するデータがネット上にはない。識者の御教授を乞う。

・「後魏〔(こうぎ)〕」拓跋(たくばつ)氏が華北を統一して五胡十六国時代を終焉させて建国した北魏(三八六年~五三四年)のこと。国号は「魏」であるが、戦国時代の「魏」や三国時代の「魏」などと区別するため、通常はこちらを「北魏」と呼称する。ウィキの「北魏」によれば、また別に三国時代の「魏」が曹氏が建てたことから、これを「曹魏」と呼ぶのに対し、拓跋氏の「魏」はその漢風姓である元氏からとって「元魏(げんぎ)」と呼ぶこともあり、広義には後に分裂して出来る「東魏」と「西魏」もこれに含まれ、さらにこうした国号の由来から「曹魏」のことを「前魏」、「元魏」のことを「後魏」と呼ぶこともある。

・「兗〔(えん)〕州」現在の山東省・河北省に当たる広域古称。

・「六、七歩〔(ぶ)〕」九・三~一〇・八メートル。古代中国でもこの単位は大きく変わらない。言っておくが、以上は私の計算や表記違いではない。

・「廣さ四寸」体の幅は十二センチメートル。同前。

・「離騷」誤り。「楚辞」の「招魂」篇の中の一節。当該の前後を抄出する。但し、「幸」は奇体な別字であるが、表記出来ないし、字注するにもまっこと奇体な字体あり、本テクスト化の主旨からは字を説明する必要を認めないので、意味の通り易いこちらに換えた(中文テクストでもこの「幸」を用いており、理不尽なこととは思わない)。

   *

 

魂兮歸來

南方之害

流砂千里些

旋入雷淵

散而不可止些

幸而得脱

其外曠宇些

赤蟻若象

玄蜂若壺些

五穀不生

叢菅是食些

 

やぶちゃんの勝手書き下し文

魂よ 歸り來たれ

南方の害

流砂 千里たり

旋りて 雷淵に入らば

散(びさん)して止まるべからず

幸ひにして脱するを得るとも

其の外(がい) 曠宇(くわうう)たり

赤蟻は象のごとく

玄蜂は壺のごとし

五穀 生ぜず

叢菅(そうくわん) 是れを食らひたり

   *

「雷淵」は砂漠地帯で発生した強烈な砂嵐のこと(そのびしびしと打ち当たる砂を「雷」としたもののようである)。「散」粉砕され粉々になって飛び散ってしまうこと。「曠宇」果てしなく広がる荒野。本文にも出るが、この「壺」はその素材からの謂いで瓢簞(ひょうたん)の謂いであるので注意されたい。「叢菅」草むらに生えた茅(かや)。以上の注はは昭和四二(一九六七)年集英社刊藤野岩友校注訳注になる「楚辞」を参考にさせて戴いた。

・「寓言」事実に基づかない誇張したトンデモ譬え話。

・「嶺南」現在の広東省・広西チワン族自治区の全域と湖南省及び江西省の一部に相当する地域の古称。

・「獨脚の蟻、有り。一足にて樹の根の下に連なり、止〔(た)〕だ能く動揺して脱去すること能はず」一読、私はこれは高い確率で、前の項で掲げたアリ科ヤマアリ亜科ケアリ族ミツツボアリ属 Myrmecocystus に属する一種ではあるまいか? 私が映像で見た蜜をためることに特化したこの種の中の働きアリは、暗い地中の巣の上部に密生して固着し、飲み溜めた巨大な蜜壺のようなそれをぶら下げたまま動かないからである。但し、同種群の一首が中国の上記地方に棲息するかどうかは、確認出来ていない。識者の御教授を乞う。]

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 鹿の角先づ一ふしの別れかな / 草臥て宿かる比や藤の花 芭蕉

本日  2016年 5月10日

     貞享5年 4月11日

はグレゴリオ暦で

    1688年 5月10日

 

舊友に奈良にて別る。

 

鹿の角先づ一ふしの別れかな

 

「笈の小文」。「韻塞」には、

 

   奈良にて故人に別る

 

二俣にわかれ初(そめ)けり鹿の角

 

とある(「泊船」もこの句形)。「蕉翁句集」はこの句形で元禄四年の作とするが、どう考えてもこの句の初案としか読めぬし、ここでかく詠んだと措定(後にでも結構)したものを、元禄四年にこんな酷似した形で詠もうはずもない。初案は「奥の細道」の掉尾、大垣での離別、

 

蛤のふたみに別れ行く秋ぞ

 

に美事に吸収されたのである。

 「舊友」とはこの奈良来訪の際に伊賀から出向いていた伊賀蕉門の窪田猿雖(えんすい:惣七)・貝増卓袋(かいますたくたい)・梅軒・中野梨雪(りせつ:利雪とも)・植田示蜂(しほう:示峰とも)といった弟子らを指している。

 

 

 

本日  2016年 5月10日

     貞享5年 4月11日

はグレゴリオ暦で

    1688年 5月10日

 

   大和行脚のとき

 

草臥(くたびれ)て宿かる比(ころ)や藤の花

 

「猿蓑」。「笈の小文」には不載。但し、この十四日後の四月二十五日附猿雖宛書簡冒頭に、

 

大坂までの御狀忝拜見、此度南都之再會、大望生々の樂ことばにあまり、離別のうらみ筆に不被盡候。わがたのもし人にしたる奴僕六にだに別れて、いよいよおもきもの打かけ候而、我等一里來る時は人々一里可行や、三里過る時はをのをの三里可行や、いまだしや、梅軒何がしの足の重きも、道づれの愁たるべきと墨賣がをかしがりし事ども云々、石の上在原寺、井筒の井の深草生たるなど尋て、布留の社に詣、神杉など拜みて、聲ばかりこそ昔なりけれと、詠し時鳥の比にさへなりけるとおもしろくて瀧山に昇る。帝の御覽に入たる事、古今集に侍れば、猶なつかしきまゝに二十五丁わけのぼる。瀧のけしき言葉なし。丹波市、やぎと云所、耳なし山の東に泊る。

 

時鳥宿かる頃の藤の花

 

と云ひて、なほおぼつかなきたそがれに哀れなるむまやに至る。今は人々舊里にいたり、妻子童僕の迎て、水きれいなる水風呂に入て、足のこむらをもませなどして、大佛法事の咄とりどりなるべき。市兵衞は草臥ながら梅額子に卷ひけらかしに可被行、梅軒子は孫どのにみやげねだられておはしけんなど、草の枕のつれづれに、ふたり語り慰みて、十二日、竹の内いまが茅舍に入る。うなぎ汲入たる水瓶もいまだ殘りて、わらの筵の上にてちや酒もてなし、かの布子賣たしと云けん萬菊のきるものあたひは彼におくりて過る、おもしろきもおかしきもかりの戲にこそあれ、實のかくれぬものを見ては、身の罪かぞへられて、萬菊も暫落涙おさへかねられ候。

 

とあり、この、

 

ほとゝぎす宿かる比(ころ)の藤の花

 

が初案であったと思われる。即ち、初夏(初五「ほととぎす」)から三春(「藤の花」)へと時間を巻き戻して惜春の余情をさらに香らせているといえよう。しかもこの作句感懐には書簡の中の「なほおぼつかなきたそがれ」、即ち、「徒然草」第十九段の、

 

 折節の移り變るこそ、ものごとにあはれなれ。「もののあはれは秋こそまされ。」と人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、いまひとは心も浮き立つものは、春の氣色にこそあ(ン)めれ。鳥の聲などもことのほかに春めきて、のどやかなる日影(ひかげ)に、かきねの草もえ出づる頃よりやや春深く霞みわたりて、花もやうやうけしきだつほどこそあれ、をりしも、雨風(あめかぜ)うちつづき、心あわただしく散り過ぎぬ。靑葉になりゆくまで、萬(よろづ)にただ心をのみぞ悩ます。

 花橘は名にこそおへれ、なほ梅のにほひにぞ、古しへのこともたちかへり、戀しう思ひ出でらるる。山吹の淸げに、藤のおぼつかなき樣(さま)したる、すべて、思ひ捨てがたきこと多し。「灌佛の頃、祭の頃、若葉のこずゑ涼しげに茂り行くほどこそ、世のあはれも、人の戀しさもまされ。」と人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。五月(さつき)、あやめふく頃、早苗とる頃、水鷄(くひな)のたたくなど、心ぼそからぬかは。水無月の頃、あやしき家に、夕顏の白くみえて、蚊遣火(かやりび)ふすぶるもあはれなり。六月祓(みなづきばらへ)またをかし。

 

が裏打ちされていることも明示されているのである。諸注、只管、行脚の疲れた目に浮かぶ藤の花を、ぼんやりと浮かばせる人生の旅愁の「けだるさ」の映像とのみ捉えているが、ここはまさに「頃や」と、つい口をついて出た折りの芭蕉微妙な眼遣いをこそ注視せねばならぬ。その漠然としたダルな雰囲気の彼方には、間違いなく、「詩経」の女の愁うところの春、さらに「藤」のゆかり、さらには「徒然草」が直ちに繋げるところの「あやしき家に、夕顏の白くみえて」の具体な源氏の「夕顔」の帖への飛翔の暗示をも匂わせてあるのであり、この妖しく艶めいた「藤の花房」のぼうとしたショットには「妖艶なる春愁のひだるさ」をこそ感じ取るべきである。仏教の辛気臭い無常観のスモークのかかった藤の花房や、プロレタリア染みた疲労困憊のムッとするリアルな汗など、本句には全く以って無縁なのである。

2016/05/09

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蟻

Ari


あり    玄駒【
1同】

【螘同】 蚍蜉【大蟻】

      馬蟻【右同】

 2【赤色蟻】

ニイ     【和名阿里】

[やぶちゃん字注:「1」=「虫」+「句」。「2」=(上)「龍」+(下)「虫」。]

 

本綱蟻有君臣之義故字從義有大小黒白黃赤數種穴

居卵生其居有等其行有隊能知雨候春出冬蟄壅土成

封曰之蟻封【蟻垤蟻塿蟻冢並同】其如封垤塿冢也其卵名蚳【音遲】又

曰蝝【音員】山人掘之有至斗石者古人食之今亦南夷食之

其蟻卵醬味似肉醬也

嶺南多蟻其窠如薄絮囊連帶枝葉彼人以布袋貯之賣

與養柑子者以辟蠹蟲

五雜組云蟻黃色者小而健與黒者闘黒必敗僵屍蔽野

死者輙舁歸穴中又有黑者長寸許最強螫人痛不可忍

凡物之小而可愛者莫如蟻其占候似智其兼弱似勇其

呼類似仁其次序似義其不爽似信有君臣之義兄弟之

愛長幼之倫焉人之不如蟻者多矣人有掘地得蟻城者

     【藻塩】水無月の照日の土のわれのみとありの通路行違ふ也

小説云孔子得九曲珠欲穿不得遇二女教以塗脂於線

使蟻通焉此與列子兩兒辯日事相似言聖人亦有所不

知也

按泉州蟻通明神緣起畧與此同【詳于泉州】

 

 

あり         玄駒〔(げんく)〕【「1」に同じ。】

【「螘」に同じ。】蚍蜉〔(ひふ)〕【大蟻。】

           馬蟻〔(ばぎ)〕【右に同じ。】

 2〔(ろう)〕【赤色の蟻。】

ニイ        【和名、阿里。】

[やぶちゃん字注:「1」=「虫」+「句」。「2」=(上)「龍」+(下)「虫」。]

 

「本綱」、蟻、君臣の義有り。故に字、「義」に從ふ。大小、黒・白・黃・赤の數種、有り。穴居して卵生す。其の居、等〔(たう)〕、有り、其れ、行〔くに〕、隊(つい)有り。能く雨候を知る。春、出でて、冬、蟄〔(すごもり)〕す。土に〔て〕壅〔(ふさ)ぎ〕、封を成す。之れを「蟻封」と曰ふ【蟻垤〔(ぎてつ)〕・蟻塿〔(ぎらう)〕・蟻冢〔(ぎちよう)〕、並びに同じ。】其れ、封垤のごとき塿冢なり。其の卵を「蚳」【音、「遲」。】と名づく。又、蝝【音、「員〔(エン)〕」。】と曰ふ。山人、之れを掘りて斗石〔(とこく)〕に至る者、有り。古人、之れを食ふ。今も亦、南夷に之れを食ふ。其の蟻卵の醬〔(ししびじほ)〕の味、肉醬〔(にくしやう)〕に似れり。

嶺南に蟻、多し。其の窠、薄き絮囊(わたぶくろ)のごとく、枝葉を連帶す。彼〔(か)〕の人、布袋〔(ぬのぶくろ)〕を以て之れを貯へ、賣りて柑子〔(かうじ)〕を養ふ者に與ふ。以て蠹蟲〔(きくひむし)〕を辟〔(さ)〕く。

「五雜組」に云ふ、『蟻の黃色なる者は小にして健(すくや)かなり。黒き者と闘へば、黒は必ず敗して、僵屍〔(きやうし)〕野に蔽ふ。死者、輙〔(すなは)〕ち、舁(か)いて穴中に歸る。』〔と〕。『又、黑〔くして〕長さ寸許りの〔もの〕有り。最も強にして人を螫す。痛み、忍ぶべからず。』〔と〕。『凡そ、物の小にして愛すべき者は蟻にしくこと莫し。其の候を占ふ、「智」に似たり。其の弱を兼〔(かぬ)〕るは「勇」に似れり。其の類を呼ぶは「仁」に似たり。其の序を次ぐは「義」に似たり。其の爽(たが)はざるは「信」に似たり。君臣の「義」・兄弟の「愛」・長幼の「倫」、有り。人の蟻にしかざる者、多し。』〔と〕。『人、地を掘りて蟻城を得る者、有り。』〔と〕。

     【「藻塩」】水無月の照る日の土のわれのみとありの通ひ路行き違ふなり

小説に云ふ、孔子、九曲の珠を得〔(え)〕、穿(うが)たんと欲すれども得ず、二女の教〔(おしへ)〕に遇〔(あ)ひて〕、以て脂を線(いと)に塗りて蟻をして通さしむ。此れと「列子」に與〔(の)する〕、兩兒、日を辯ずる事、相ひ似たり。言ふ心は、聖人も亦、知らざる所(ところ)有り、となり。

按ずるに、泉州「蟻通明神」の緣起、畧〔(ほぼ)〕、此れと同じ【泉州に詳し。】。

 

[やぶちゃん注:節足動物門昆虫綱ハチ目ハチ亜目有剣下目スズメバチ上科アリ科 Formicidae に属するアリ類の総論部。現在、世界で一万種以上、本邦では二百八十種以上が記載されている(ウィキの「アリ」に拠る)。但し、以下に述べるように、実際にはアリ類とは無縁の網翅上目ゴキブリ目シロアリ科 Termitidae のシロアリ類も含まれていると考えて考えてよく、実際、二つ後の「蟻」各項の最後に「螱(はあり)」として掲げられている。

 

・「等」等級。階級制度が蟻社会に存在することを明言している。素晴らしい! 社会性昆虫であることを「本草綱目」は既にして見抜いているのである!

・「隊(つい)」軍隊のような整然とした隊列を成すことを指す。

・「雨候」雨の気配を素早く予兆する。

・「壅〔(ふさ)ぎ」「塞」(ふさぐ)に同じい。

・「蟻封」「蟻垤〔(ぎてつ)〕」「蟻塿〔(ぎらう)〕」「蟻冢〔(ぎちよう)〕」総て蟻の巣のこと。所謂、「蟻塚」ではあるが、我々が想起する巨大な蟻塚というのはアリ類とは無縁の網翅上目ゴキブリ目シロアリ科 Termitidae のシロアリ類が造成するものであるので、誤解のないように(但し、これは現在の昆虫学の認識であり、時珍や良安は白蟻(現行のシロアリ類)も無論、蟻の仲間と考えていたであろうし、ここで語っているものはどう見ても巨大なシロアリ類の形成するそれであるようにしか読めぬことも事実ではある。

・「斗石」一斗や一石。明代の「一斗」は現在の十七リットル、「一石」は七十一キロ六百十八グラムにも及ぶ。

・「之れを食ふ」ウィキの「アリ」にも、『直接の利用としては、食用とされる例がある。アリ入りのチョコレートがはやった時代があり、日本からもアカヤマアリを』一箱に二十匹ほど『入れたチョコレート(商品名・チョコアンリ)が』一九五〇年代に『アメリカ向けへ多量に輸出されていた事がある』(使用されたのはアリ科ヤマアリ亜科ヤマアリ属アカヤマアリ亜属アカヤマアリ Formica sanguinea で、ウィキの「チョコアンリ」によれば、『アカヤマアリを油で揚げて塩味を付けたあとチョコレートでくるんだもの』で、『一粒あたり約』二十匹の『アリが入っていた。蟻酸のため甘酸っぱい味のするチョコレート』で『強心剤として効果があるとも言われた』。『アカヤマアリは長野県の戸隠・飯縄高原のカラマツ林に生息するものが収集され』、八月末に『地元の農家の人々が採集用の目の細かい網と、取ったアリを入れるための水の入った石油缶を用意して出かけた』。『このアリは林内の地上に高さ』二十センチメートルから一メートルにも『なる円錐形』『の蟻塚を作っている。蟻塚周辺には多数のアリが出歩いており、また攻撃的なアリで近づくものにはすぐに噛みついてくる』。『そのため、網を蟻塚にかぶせると多数のアリがその網に噛みついてくるので、収集は簡単であった。それを石油缶の中にはたき落とすことでアリを回収した』。『一日で二百匁程度は簡単に採集でき、百匁あたり四百円程度で買い取られた。そのため、一家総出で三日間働いて、一万円稼いだという話も残っている。現地には集荷場も作られ、乾燥させたものが長野市内を経由して東京の工場に運ばれた。地元では、思わぬ現金収入として喜ばれ、嫁入り支度をこれで整えたなどといった話も伝えられている。また、このために戸隠や飯縄高原では一時ヤマアカアリが減少したとも言われる』。価格は一粒で百八十円、一缶五十五グラム入りで、『横浜からニューヨークに出荷された。アメリカでも高級品とされ』、二千万円もの『外貨を稼いだとも伝えられる』とある。なお、私はこんなチョコレートは全く知らなかった)。『また、特殊な例としては、蜜をため込むミツアリの例もある』とある。この「ミツアリ」とはアリ科ヤマアリ亜科ケアリ族ミツツボアリ属 Myrmecocystus に属する種群で、本邦にはいないものと思われるが、オーストラリアの原住民アボリジニーがこれを採取して食用とするのを自然科学番組で見たことある。

・「南夷」南方の異民族。

・「嶺南」現在の広東省・広西省を含む広域古称。

・「絮囊(わたぶくろ」綿袋。

・「枝葉を連帶す」細く細かな通路によって細かな部屋が連絡し合っている、の謂いであろう。

・「柑子〔(かうじ)〕」広義の柑橘類と採っておく。

・「蠹蟲〔(きくひむし)〕」現行の昆虫学では狭義には昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae に属する「木喰虫」を指すが、実際には恐らく、木質部や紙を食害する多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科 Anobiidae に属する「死番虫」や、書物を食害するとされた昆虫綱シミ目 Thysanura の「紙魚」(実際には顕在的な食害は認められないのが事実である)の仲間をも含んでいるように思われる。

・「辟〔(さ)〕く」避ける。

・「五雜組」既出既注。以下は、『蟻の黃色なる者は小にして健(すくや)かなり。黒き者と闘へば、黒は必ず敗して、僵屍〔(きやうし)〕野に蔽ふ。死者、輙〔(すなは)〕ち、舁(か)いて穴中に歸る』と『又、黑〔くして〕長さ寸許りの〔もの〕有り。最も強にして人を螫す。痛み、忍ぶべからず。』の部分が、「物部」の「七」の、

   *

蟻有黃色者小而復眞叩者開洲必敗僵屍蔽野死者輒羿歸穴中畏亂之世戰骨如麻人不及蟻多矣又有黑者長寸許最強螫人痛不可忍亦有翼而飛者

   *

に拠り、『凡そ、物の小にして愛すべき者は蟻にしくこと莫し。其の候を占ふ、「智」に似たり。其の弱を兼〔(かぬ)〕るは「勇」に似れり。其の類を呼ぶは「仁」に似たり。其の序を次ぐは「義」に似たり。其の爽(たが)はざるは「信」に似たり。君臣の「義」・兄弟の「愛」・長幼の「倫」、有り。人の蟻にしかざる者、多し。』と『人、地を掘りて蟻城を得る者、有り』の部分が同じ「七」の、

   *

物之小而可愛考某如蟻其占假似智其羔弱似勇其呼類似仁其次序似義其不奚似信有君臣乏義焉兄第之愛焉長切之倫焉人之不如蟻者二矣故淳于禁維酒遣世而甘爲之稽亦有激之言也

人有插地得蟻城者街市屋宇棲壤門巷井忒有條唐五行志門成元年眾城有蟻聚長五六十步凋五尺至一丈厚五寸至尺可謂異矣蜂亦有之床

   *

に拠る。

・「藻塩」月村斎宗碩(そうせき)編「藻塩草」。連歌を詠むために用いるもので、古典等から語句を集め、注解を加えた一種の字書。全十冊。二十部門に分類されている。藻塩草とはまさに藻塩(海藻からとれる塩)をとるために使う海藻(概ね不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属 Sargassum の類)を指し、その際、掻き集めて潮水を注ぐことから「書き集める」の掛詞となったものを書名とした。

・「水無月の照る日の土のわれのみとありの通ひ路行き違ふなり」東洋文庫版現代語訳では、

 

水無月や照る日の土のわれのみとありの通ひ路行き違ふなり

 

とする。しかし、これは「万葉集」の「卷第十」の「夏の相聞」に載る(第一九九五番歌)、

 

   日に寄せたる

 

六月(みなづき)の地(つち)さへ裂けて照る日にも我が袖乾(ひ)めや君に逢はずして

 

という絶唱恋歌の極めて安易で下らぬ替え歌に過ぎぬ。

・「小説」中国で日常の出来事に関する些末な意見や主張・見解・聞書の謂いで、本来、漢文学では「取るに足りない下らぬ論議」の意を持つ。

・「孔子、九曲の珠を得〔(え)〕、穿(うが)たんと欲すれども得ず、二女の教〔(おしへ)〕に遇〔(あ)ひて〕、以て脂を線(いと)に塗りて蟻をして通さしむ」「九曲の珠」とは本邦の勾玉(まがたま)のような宝玉製のアクセサリーのことと思う。その小さな貫通した穴(既に開けられていたのであってここで新たに穿ったとは読めない)に装飾用に糸を通すための方法を述べたものと思われる。孔子を主人公とするが、如何にも孔子らしからぬ下らぬエピソードで、後世の作話である。

・「列子」春秋時代の虚心説を唱えた思想家(名は禦寇(ぎょこう))の著書とされる道家思想書。八編。但し、現行本は前漢末から晋代にかけて成立したものと推測される。故事・寓言・神話などを多く載せ、唐代には道教の教典として尊ばれ、「沖虚真経(ちゅうきょしんけい)」などと称された。

・「兩兒、日を辯ずる事」「列子」の「湯問第五」の七話目に載る以下の話。

   *

孔子東游、見兩小兒辯鬪、問其故。一兒曰、「我以日始出時去人近、而日中時遠也。」。一兒以日初出遠、而日中時近也。一兒曰、「日初出大如車蓋、及日中、則如盤盂。此不爲遠者小而近者大乎。」。一兒曰、「日初出滄滄涼涼。及其日中、如探湯。此不爲近者熱而遠者涼乎。」孔子不能決也。兩小兒笑曰、「孰爲汝多知乎。」。

やぶちゃんの書き下し文

孔子、東に游びて、兩小兒の辯鬪(べんたう)するを見、其の故を問ふ。一兒曰く、

「我れ以(おもへ)らく、日(ひ)、始めて出ずる時は、人を去るに近して、而して、日、中(ちゆう)する時は遠し。」

と。一兒、

「以らく、日、初めて出づるときは遠く、而して、日、中する時は近し。」

と。一兒曰く、

「日の初めて出づるや、大いさ、車蓋(しやがい)のごとく、日の中するに及びて、則ち、盤盂(ばんう)のごとし。此れ、遠き者、小さくして、近き者、大いなるが爲めならずや。」

と。一兒曰く、

「日の初めて出づるや、滄滄として涼涼たり。其の日の中するに及びては、湯を探ぐるがごとし。此れ、近き者、熱くして、遠き者、涼しきが爲めならずや。」

と。孔子、決すること、能はず。兩小兒、笑ひて曰く、

「孰(たれ)か、汝を多知なりと爲(い)ふや。」

と。

   *

「辯鬪」は言い争い。「車蓋」は車の輪のことの誤字であろう。「盤盂」はお盆やお椀。「滄滄として涼涼たり」何とも言えず寒々として涼しい。

・「泉州」和泉国。現在の大阪府南西部に相当する。

・「蟻通明神」現在の大阪府泉佐野市長滝(ながたき)にある蟻通(ありとおし)神社。祭神は大国主命。ウィキの「蟻通神社によれば、かつては熊野街道『沿いに広大な境内地を有する神社であったが、第二次世界大戦中、明野陸軍飛行学校佐野分教場(佐野飛行場)建設のため現在の長滝地区に移転。規模も縮小した』。『紀貫之ゆかりの神社で』、『昔、紀貫之が和泉の国を旅する途中うっかりと蟻通明神の神域に騎馬のまま乗り込んで罰を受け』、『馬が倒れたのを見て神の怒りを悟った貫之はとっさに「かきくもり あやめもしらぬ おほそらに ありとほしをおもふべしやは」(二重の意味を読み込んだ歌で、曇り空に星を思うというのが表の意味、裏読みすると無知ゆえに神の怒りを買ったことを謝罪する意味になる)と詠み、神は心を和らげて馬を復活させたという』。『のちに世阿弥がこの故事を素材に能曲「蟻通」を作曲したため有名になり、笠森お仙を描いた鈴木春信の浮世絵にも背景として取り上げられている』とある。

・「泉州に詳し」「和漢三才図会」の「卷第七十六」の「和泉」の「日根(ひね)郡」の「蟻通明神」の項を指す。そこには本邦での話として「七曲の珠」が出てきて、それに糸を通す方法を教えるのは七十に近い老父である。]

萩原朔太郎「人間の退化について」+「傾斜に立ちて」

萩原朔太郎「人間の退化について」+「傾斜に立ちて」

 

       ●人間の退化について

 

 進化論に於ける、一般の通俗化された誤謬は、生物界に於ける弱肉強食の思想、即ちより優秀なもの、より強大のものが、常により劣等のものや弱小のものを征服し、生存競爭に於て勝利を得るといふ思想である。(今日米國のフヱミニストや平和論者が、ダウヰンを人道主義の仇敵視し、法律によって進化論を國禁しようとしてゐるのが、全くこの理由にもとづくのである。)しかしながら反對であり、ダウヰンの説くところは、生物の進化でなくして退化を教へ、價値の存在を轉倒してゐる。なぜなら進化論の根本原理は、唯一の「自然淘汰」にあり、「適者生存」にあるのだから。

 あらゆる地上の生物は、その環境に適するところの、素質の順應に於てのみ生存する。自然淘汰の法則は、避けがたくこれを勵行し、他を絶滅させてしまふだらう。故に生存競爭の優勝者は、常に必ず「環境への妥協者」を意味してゐる。そして必ずしも、優秀者や、天才者や、強力者を意味しない。むしろ此等の者は、その非順應的な素質の故に、年々歳々沒落して行き、地層と共に埋れてしまふであらう。反對に劣等のもの、卑陋のもの、平凡のもの共は、その細胞組織の單純さと、繁殖力の旺盛さとから、容易に環境に順應して行き、常に他のものを征服して、地上に於ける生存競爭の勇者となつてる。

 この悲しむべき事實――生物退化の事實――は、歷史のあらゆる過去からして、疑ひもなく實證されてる。見よ。かつて太古の世界では、地上が植物で蔽はれて居り、マンモスや、怪龍や、恐角獸やの、巨大な恐るべき動物が、それの卓越な優秀と強力とで、他のあらゆる弱小者を壓倒しつつ、獨り森林の中に橫行してゐた。ただその時代だけ、弱肉強食が現實してゐた。しかしながら今日、ああそれらの強者はどこへ行つたらう! 自然淘汰の法則は、常に經濟的な者に與して、不經濟的な者を殺してしまふ。その巨大な體軀や武器の故に、常に最も豐富な食餌を要したところの、それらの原始時代の優秀者等は、早く既に地層の下に埋れて、後にはより弱小な小動物が、獨り生存の權をほしいままにした。そして今日でさへも、獅子や、虎や、象や、鷲やの動物は、次第に益〻減少して行き、逆に糞蟲や、野鼠や、蠕蟲類やの小動物が、どんな惡い境遇にも順應し得るところの、その種の劣等によつて優勝してゐる。そして尚、地上に於ける眞の絶對的征服者は、人間でなくしてバクテリアであり、これがあらゆる生物を食ひ殺し、地球の死滅する最後までも、獨り益〻繁殖を續けるのである。

 生物界に於けるこの實情は、人間の社會に於ても例外なく、もちろんまた同樣であるだらう。なぜなら、人類生活の環境も、自然界に於けるそれと同じく、年々歳々切迫して、昔のやうには餘裕がなく、次第に生活難のせち辛い方向に向つてくる。そして適者生存の法則は、すべての惡しき事情の下に、すべての劣惡な種を順應させ、より下等なものの勝利を、避けがたく必然にしてしまふから。實に人間のあらゆる歷史は、この傷ましき種の下向と、人間文化の沒落を實證してゐる。見よ。あのヘレス人の次には羅馬が興り、羅馬の次にはゲルマンやサキソン人の世界が榮え、今ではもはや、無智のアメリカ人が全世界を支配してゐる。そしてこの階程は、歷史の初ほど地位が高く、下に行く程低くなつてる。東洋では、それが尚一層著しく、印度に於ても支那に於ても、あらゆる文化は古代の花園にのみ咲き亂れた。

 しかしながら歷史でなく、現在の生活してゐる社會から、最もよくその實證を見るであらう。藝術に於ても、またはその他の社會に於ても、環境の惡くなる事情と比例して、年々歳々下等の種屬が、それの多産と順應性から、マルサス的增加率で繁殖して行く。一方で天才や英雄やは、その容易に順應できない氣質からして、次第に衆愚の勢力に追ひ立てられ、時代と共に沒落して行く。自然淘汰の法則は、避けがたく彼等を亡ぼしてしまふであらう。反對に劣等種屬は、それの旺盛な繁殖率から、多數群團して勢力を得、藝術上にも、政治上にも、一切の社會的權力を握つてしまふ。そこで今日の思潮界は、あの奴隷的均一を説くデモクラシイや、蟻的社會の幸福を説く共産主義や、單細胞動物的な集團を考えてる無政府主義や、その他のすべて大多數決的、愚民的、下等動物的の平等思想が、時代と共に勢力を得て、運命への避けがたい墜落率を、一層速めてゐるのである。實に想像し得ることは、文化の近い未來に於て、人間沒落の最後が來ること。あらゆる人類が猿に歸り、蜥蜴になり、蜜蜂的の單位になり、最下等の黴菌にさへ、退化してしまふと言ふことである。

 

   *

 

       ●傾斜に立ちて

 

 墜落して行くものの悲劇は、自ら運命について知らず、落ちることの加速度に勇氣を感じ、暗黑の深い谷間に向つて、不幸な、美しい、錯覺した幻燈のユートピアを見ることである。ああ今! 彼等にしてその危險を知つたならば!

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虛妄の正義」の、前者「人間の退化について」は「社會と文明」のパートに配され、後者「傾斜に立ちて」は次の「意志と忍從もしくは自由と宿命」のパートにある。「*」は私が二つのアフォリズムは元来は独立した別のものとしてあることを示すために便宜的に打ったものである。傍点「ヽ」は下線に代えた。

 二つのアフォリズムを並置した理由は、ここでは敢えて外したが(頁数が明らかに編者によって底本のそれに書き換えられているため)、底本(昭和五〇(一九七五)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集 第四卷」。但し、底本で修正された二箇所を原典「虛妄の正義」版に直してある)では前者の末尾に『(「傾斜に立ちて」三三七頁參照)』というポイント落ちの注記が附されてあるからである。]

2016/05/08

ブログ810000アクセス突破記念 原民喜「雲の裂け目」 (恣意的正字化版)

雲の裂け目   原民喜 (恣意的正字化版)

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二二(一九四七)年十二月号『高原』に発表され、原民喜の死後の昭和二八(一九五三)年に刊行された角川書店版作品種第二巻で民喜自身の配列に基づいて、「美しき死の岸に」の中の「画集」と「魔のひととき」の間に配された。

 底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅱ」に拠ったが、殆どの漢字を恣意的に正字化した。その理由は既に何度も述べているので、繰り返さない。ともかくも民喜自身の直筆原稿に遙かにこうした方が近づけると私は固く信じているからである。

 最初に簡単な注を先に附しておく。

 作中、「僕」(「薰」)の「五十を過ぎた」「多年宿痾の療養をなほざりにしてゐた」「亡父」のことが主に述べられてゆくが、二〇一六年岩波文庫刊「原民喜全詩集」巻末の竹原陽子氏の手に成る「原民喜年譜」によれば、民喜の父貞吉(広島の幟町(のぼりちょう:現行の呼び名もこの通り、但し、ネット情報では「まち」と呼んでいたこともあるとあった)の実家で「原商店」として陸海軍・官庁用達の縫製業(軍服・テント等の製造・卸)を経営していた)は大正六(一九一七)年二月二十七日に享年五十一で胃癌のために亡くなっている。逝去当時の民喜は満十一歳で広島師範学校附属小学校五年(この年四月に六年に進級)であった。本篇第二パートの冒頭では「僕といふ少年が父親の死を境に變つて行つた姿をくりかへし繰返し考へてゐた」と出るが、竹原氏は大正六年の父の死の記事の後に、『やさしく庇護者であった父を亡くしたことで、家族や店の従業員との人間関係に微妙な変化が生じ、「世に漲(みなぎ)る父性的のもの」の圧迫を感じ、死の問題を抱えて無口で内向的な性格にな』ったとされ、『この頃から、二階の自室から見える楓に愛着を感じ、霊魂のやすらう場所と思うようになった』と本篇の終りのパートに即した記載をしておられる(この楓は民喜の他作品にもしばしば登場する。最古期の詩篇「楓」などを参照されたい)。因みに、この「世に漲(みなぎ)る父性的のもの」というのは、二〇〇六年にまさにこの竹原氏が発見された本「雲の裂け目」の初期自筆草稿と推定される原稿からの引用である。それを報じた『朝日新聞』の『原民喜の短編「雲の裂け目」 初期の草稿発見』(二〇〇八年三月十一日ネット記事。現在も閲覧可能)の記事中に、自筆原稿から『父を失つてからの私は、何かこの世に漲(みなぎ)る父性的のものに絶えず威あつされて……人と争ふことも親しむことも好まず内側へ内側へと消え入らうとした。さうして、何時(いつ)までたつても、一人立の出来ない大人になつてゐた』と引用され(「……」は記事編者の省略か)、記事は続いて、『また草稿には、父の臨終をいつか書きたいと思いながら〈何故(なぜ)か微妙なつかへがあつて書けなかつた〉と記しており、冒頭には〈私の父は大正六年二月二十七日夜半に死んだ〉と書きながら線で消している。いずれ直視すべき自らのトラウマに、ようやく取り組んだ作品であることが伺える』。『発見した竹原さんは「これまでも父の死がトラウマの原因だったと推定はされていたが、民喜自身が具体的に書いたものはなかった。〈父性的のもの〉に威圧されて、などと、自らの心理をつづった記述はこの草稿が初めて。草稿では発表作よりも内面が赤裸々に書かれていて、自己克服するために父の死をとらえ直す必要があったのでしょう」とみる』とあり、本作を鑑賞する上で、というよりも、被爆体験ばかりが意識されることの多い民喜の「死」への独特の傾斜感覚が、妻貞恵との死別(昭和一九(一九四四)年九月二十八日)、そしてそれより遙か前の、この父との死別へと遡るものであるらしいことは非常な示唆に富む指摘である。なお、この原稿の全文と解説は、同年四月十日発売の『三田文学』春季号に掲載されている(私は未見。されば敢えて新聞記事を引用させて戴いた)。

 第七段落の「お前と一緒に暮してゐたあの旅先の借家」「旅先」とあるが、叙述から推して、これは十年余りをほぼ妻貞恵と二人で過ごした、千葉の登戸(のぶと)の家をモデルとしているように思われる。

 同段落の「火がいこつてゐたし」は当初、「おこつてゐたし」の誤字かとも思ったが、第二パートにも出るから、これは「憩う・息ふ」で、炭が赤くほっこりと火を起こしていた、の謂いと思われる(「(火が)おこる」の広島弁の可能性も考えたが、辞書やネットでは現認出来なかった)。

 第二パートの第一段落内の「ほんとうに臺所の窓は薄暗くなつてゆくやうだつた」の「ほんとう」はママ。

 第二パート第四段落中の「隣境の黑い坂塀が取除かれて」の「坂塀」はママであるが、これは「板塀」の誤りではあるまいか? 坂に面した塀を意味する「坂塀」という熟語はあるので、暫くママとする。

 隣家の台所の中央にある「車井戸」とは、所謂、滑車の溝に掛け渡した綱の両端に釣瓶(つるべ) をつけて綱を手繰って水を汲み上げるタイプの井戸のこと。

 「睥みつけて」「にらみつけて」。民喜の好む用字である。

 なお、本テクストは私のブログの810000アクセス突破記念(つい数分前)として公開する。【2016年5月8日 藪野直史】]

 

 

  雲の裂け目

 

 お前の幼な姿を見ることができた。それは僕がお前と死別れて郷里の方へ引あげる途中お前の生家に立寄つた時だつたが、昔の寫眞を見せてもらつてゐるうちに、庭さきで撮られた一家族の寫眞があつた。それにはお前の父親もゐて、そのほとりに、五つか六つ位の幼ないお前は眼をきつぱりと前方に見ひらいてゐて、不思議に悲しいやうな美しいものの漲つてゐる顏なのだ。こんな立派な思ひつめたやうな幼な顏を僕はまだ知らなかつた。さういへば、お前と死別れて間もない頃、お前の母はこんな話を僕にしてくれた。

「あの子は小さい時から、それは賢くて、まだはつきり昨日のやうに憶ひ出せるのは、あの家から小川の方を見てゐると、小さな子供達があそこで遊んでゐるのです。さうすると、そこへ學校の先生が通りかかりになると、ほかの子たちは知らぬ顏してゐるのに、あの子だけが路の眞中へ出て來て、丁寧にお辭儀するのです。先生も可愛さにおもはず、あの子の頭を撫でておやりになるのでした。」

 僕はそれから、自分の郷里に戾ると、久振りにこんどは僕の幼い姿を見ることができた。その寫眞も家族一同が庭さきに並んでゐる姿なのだが、父親に手をひかれて氣ばつてゐるこの男の子は、もう自分の片割ともおもへないのであつた。そのかはり久振りで見る亡父の姿はつくづくと珍しかつた。ついこの間まで僕は父親といふものを、ひどく遠いところに想像してゐた。ところが今度みる寫眞では、もう殆ど僕の手の屆きさうなところに父親がゐる。僕は土藏の中から父の古い手紙を見つけると、警報の合間には憑かれたやうにそれを讀み耽つた。

 僕の父は死ぬる半年あまり前に、病氣の診斷を受けるため、はるばる大阪へ赴いてゐるのだが、その大阪の病院から母へ宛てた手紙が二三あつた。止むを得ない周圍の事情のため多年宿痾の療養をなほざりにしてゐたことを嘆じながら、診斷を受けてみると、もう手遲れかもしれぬと宣告されたときのことだ。何處からも見舞狀もやつて來ないし、父はよほど寂しかつたのだらう。それで僕の父は母に對つてかう訴へてゐるのだ。「お前樣も漸くー通の見舞狀を呉れただけその文面にも只驚いたとの事ばかりにて 私の精神とお前樣の精神は大變に相違して居るのに今更私も驚く外はない小兒が多くて多忙ではあらうが毎日はがきなり又二日に一度なり手紙を下さらぬか 病室には只一人で精神の慰安は更にない」

 はたして、これが五十を過ぎた男がその妻に送つた手紙なのだらうか、手紙といふものの微妙さに僕はすつかり驚かされてしまつた。そして、僕はすぐにこれをお前に讀ませたくなると、まるでお前がまだ何處かこの世の片隅に生きてゐるのではないかといふ氣がした。僕はこれを讀むときのお前の顏つきも、その顏つきを眺めてゐる僕自身の顏つきまですつかり想像できるのであつた。だが、かういふ空想に浸つてゐる時でも、僕は自分のゐる家が猛火につつまれる時のことがおもはれてならなかつた。お前と死別れて廣島に歸つて來た僕は今度はここの家の最後の姿を見とどけることになるのかしらと考へてゐた。

 そして、間もなくそれはそのとほりになつたのだつた。あれは夏の朝のほんの數秒間の出來事だつた。眞暗な音響ととも四方の壁が滑り墜ち、濛々と煙る砂塵が鎭まると、いたるところに明るい透間と柱が見えて來た。それはおそろしく靜かな眺めだつた。僕はあの時、あの家の最初の姿と最後の姿を同時に見たやうな氣がしたのだつた。間もなく火の手があがりだしたので僕はあの家を逃出して行つたのだが、むかし僕の父が建て、そこで死んで行つた家もあれが見おさめだつたのだ。

 あの時から僕はすつかり家といふものを失つてしまつた。しかし、どうしたものか郷里の家の姿はもうあまり僕の眼さきにちらつかなかつた。それなのに、お前と一緒に暮してゐたあの旅先の借家の姿は、あれは僕の内側にあつて、僕はまだどうかすると、あそこでお前と一緒に暮してゐるのではないかしらとおもふのだ。僕はあの立てきつた部屋で何かぼんやり不安と慰籍につつまれてゐた。机の前の窓の外の地面には氷の張つてゐることが感じられたが、僕のゐる部屋は暖かに火がいこつてゐたし、廊下を隔てて隣の部屋にはお前が睡つてゐた。殆ど毎晩僕は同じ姿勢で同じ灰の色を眺め、同じことを考へてゐたらしい。お前が睡つてゐる時間が僕の起きてゐる時間だつたので、僕は僕ひとりの時間が始まると、夜の沈默(しじま)のなかに魅せられながら、やがて朝がやつて來るまでを、凝とあの部屋に坐つてゐた。夜あけ前の微妙な時刻には、ふと、どうしたわけか、死んだ人の生還つてくるやうな幻覺がした。

 毎晩、僕たちは夕食後の一ときをあの部屋で過したので、あの部屋には僕たちの會話や、會話では滿たされない無限の氣分が一杯立罩めて行つたやうだ。お前が寢室に引退り僕ひとりになると、僕はよくあの部屋の柱や壁をじつと眺めた。その柱には懷中時計の型をしたゴム消が吊りさげてあつた。あれはお前が女學生だつた頃から持つてゐたゴム消だつたが、僕はあの時計の面の針が一向動かないのがひどく氣に入つてゐた。電燈の明りが夜更になると靜かな流れをなして古ぼけた襖の模樣の上を匐つた。僕はそつと立上つて、壁際にある鏡臺の眞紅な覆ひをめくつてみた。すると、鏡は僕の顏や僕の背後をそつと映してゐる。僕は自分の顏を覗き込むより(何だか古い、もの寂びた井戸の底を覗くやうに)向側から覗いてくるものを覗き込まうとしてゐた。僕はお前の云つてゐたことを思ひ出す。「深夜の鏡で自分の顏を眺めると、怕くなることはありませんか」何氣なくさういふことを云つたお前も、僕を覗き込むよりもつと向側から覗いてくるものを覗き込まうとしてゐたのではあるまいか。よくお前は臨終の話をした。人間の意識が生死の境目をさまよふ時の幽暗な姿を想像するお前の顏には、いつも絶え入るやうなものと魅せられたやうなものが入混つてゐた。そして、僕たちは死のことを話すことによつて、ほんとうに心が觸れあふやうにおもへたものだが……。

 僕は絶えずあそこの部屋で自分の少年時代の回想をしてゐた。僕といふ少年が父親の死を境に變つて行つた姿をくりかへし繰返し考へてゐた。僕の父の顏に瞼しい翳が差すことを、僕は十位のときから知つてゐた。恰度、雷雨がやつて來さうになる前の空模樣とか、遠かに光線の加減が變つて死相を帶びる叢の姿にそつくりそれは似てゐた。よく僕は眞晝の家のうちが薄暗くなると、脅えて藻搔くやうな氣持に驅られるのだつたが、時どき僕の父も何かに驅られてもがいてゐるやうな不思議な顏をしてゐた。しかし、父はもう眞暗なものを通り越してゐたのだつた。二ケ月あまり熱病で魘されてゐた父は、やがて病床を離れると、雷雨の去つた後のやうに爽やかな氣分が訪れた。僕はもう父が死ぬるとは考へてもみなかつた。父は快活に振舞つてゐたし、僕も明るい子供だつた。だが、さういふ家のうちの空氣が二三年するとまた妙にこぢれて來た。父は旅に出て行つたし、母は心配相な顏をして父のことを話しだした。僕は薄光りする臺所の板の間に立つてゐた。何か心配なことを話すとき母はいつもそこにゐるのだつたが、すると、ほんとうに臺所の窓は薄暗くなつてゆくやうだつた。それから間もなく母も旅に出て行つた。母は父に追ひついて看護のために出かけて行つたのだつた。僕は母が家のうちからゐなくなると、だんだん不機嫌になつた。ぞくぞくと鳥肌のやうなものが家の隅から迫つて來るし、僕はききわけのない子供になつてしまつた。無茶苦茶な氣特に引裂れて、僕は泣き狂ふのだつた。だが、やがて兩親は家に戾つて來た。すると、僕はすつかり安心したらしかつた。父はまた元どほり生きて還つたのだ。

 ところが、ある日、父はみんな彼の部屋に呼び集めたのだ。障子の窓からはひつそりした冬の庭が見えてゐた。父は脇息に凭掛り、その側には母も坐つてゐた。大きな桐火鉢に新しい火がいこつてゐたし、僕のすぐ隣には二番目の兄が手を膝の上に置いて坐つてゐたが、――僕はかうして、みんなが揃つたからには、何かすばらしい團欒が始まるのではないかと思つた。すると、ちよつと浮浮した氣持がした。父はまだ何も云ひ出さなかつたけれども、兄の顏を覗くと、その顏は少し綻びかけてゐた。僕はもう我慢ができなくて、くすりと笑つた。すると、兄も僕に誘はれてくすくす笑ひだした。父はまだ何も云ひ出さうとしない。僕の氣持はをかしさが一杯詰つて、すつかり上づつてしまつた。そのとき漸く父が口を開いた。「けふこれからお父さんが話すことは……」氣がつくと、父の聲はひどく沈んでゐるのだ。だが、僕の彈んだ氣持は容易に鎭まらうとしない。僕は父がしみじみ話し出せば出すほど、その下をくぐり拔けるやうに、くすくす笑つた。その癖、僕はその時の父の言葉はみんな憶えてゐた。

 やつぱし父の病氣はただごとではなかつたのだ。父は醫者から胃癌の宣告を受けたのだ。もし手術をして經過が良ければ助かるかもしれないが、この儘ではもう先が見えてゐると云はれたのだ。それで、父は思ひ惑つた揚句、手術を受けることに決心したのだつた。またはるばる手術を受けに旅に出ることになつたのだ。だが、手術で失敗すれば、それきり助からないかもしれないから、これがお別れになるかもしれないのだつた。――話のなか頃から僕は隣に坐つてゐる兄が洟を啜りだすのに氣づいた。見ると、兄の鼻翼を傳つて大粒の涙が流れてゐるのだつた。それでも僕は何か目さきにちらつくをかしさを怺へることができなかつた。そのうちに、父も眼に指をあてて、涙を拭ひだす。僕はもう流石に笑はなかつたやうだが、それでも何か自分ひとり取殘されてゐるやうな、變な氣持だつた。僕は茶棚の上に飾られた翡翠の小さな香爐を眺めてゐた。子供の僕にはどうしてあんなことがおこつたのかわからなかつた。僕はやはり父が死ぬるとは容易に信じなかつたのだらう。

 間もなく父は福岡の大學病院に入院して手術を受けることになり、母が附添つて出掛けて行つた。さうするとまた家のうちは薄暗くなり、寒い風が屋根の上を吹いた。僕はときどき、走り𢌞つた揚句など、火照る感覺の向に、ひんやりした西空の翳をおもひ出すことがあつた。庭の池には厚い氷が張り、雪圍ひの棕櫚の藁は霜でふくれ上つてゐた。ふと、僕はひつそりした庭が病氣してゐるやうに思へると、庭の方でもじつと僕を見つめてゐるやうに思へるのだつた。日南の緣側には福壽草の鉢が置いてあつた。あの褐色の衣の中からパツと金色に照り返ってゐる蕾が、僕には何だか朽葉色の夜具の下で藻搔いてゐる熱病の時の父を連想させるのだつた。父はまたあの嶮しい翳を額に押されて、ひどいあがきをつづけてゐる――僕には手術といふことがはつきり解らなかつたが、もの凄い感じだけがわかつた。やがて父は旅先から歸つて來た。手術は無事に終つたらしかつた。だが、家へ戾つて來ると父はすぐ奧座敷に引籠つた儘、寢ついたままであつた。僕はその病室に入ることを許されなかつたし、父の容態がどうなつてゐるのか分らなかつた。ひよつとすると僕はまたあの雷雨の後の爽やかな氣分が訪れてくるのかとおもつた。ところが、ある日、隣境の黑い坂塀が取除かれて、そこから隣の空家へ行けるやうになると、子供たちは晝間はその空家の方で過すことになつた。

 僕はその隣の家に絡まる不思議なことがらを知つてゐた。その家は以前は酒屋だつたのが死絶えてしまつたのだ。僕は幼い時、表の方からよくその店さきに遊びに行つたことがあるし、その家族の顏もよく覺えてゐる。ある年そこの主人が亡くなると、若い息子がフラフラ病になつた。そのをとなしい靑年は幼い僕にガリバアの話などしてくれたこともあつたが、僕はもう長い間その姿を見なかつた。僕はある朝その靑年が死んだといふことを聞かされた。恰度その少し前、鴉が妙な啼きかたをしてゐたので、やつぱし、さうでした、と母は不思議さうな顏をした。それから次いで、そこの主婦さんが殺された。一週間ばかし前に傭つた小僧が夜明けがたその主婦さんの枕頭に立ち斧を振つて滅多打にしたのだ。犯人は有金を攫つて逃げたらしかつた。それきり、そこの酒屋は裏戸が鎖され長らく棲む人もなかつた。僕は黑塀越しに見える隣の松の梢に月が冴えてゐるときなど、その方角を振向くのも怕い氣持がした。だから、隣境の塀が取除かれても、僕一人ではとてもその空家へ這入つて行けなかつただらう。僕は兄たちに從いて、裏口から踏込んで行つた。すると薄暗い臺所の中央に深い車井戸があつて、長い綱の垂れ下つた底には水が鏡のやうに覗いてゐた。荒れた庭さきには植木鉢が放り出してある。小さな圓形の厚つぼつたい葉をした草が埃をかむつてゐる。それから隅の方に、紅い椿が淋しさうに咲いてゐる。僕は何か探險でもしてゐるやうな氣持で、黴くさい疊の上を歩き𢌞つた。表の方の戸は鎖ざされてゐるので、家のうちは薄暗かつた。いたるところに怕いものが潛んでゐさうなので、僕は絶えずそれを踏みつけてゐなければならなかつた。僕たちはそこでさんざ騷ぎ𢌞つてゐた。家の方からオルガンが運ばれると、そこは一層賑やかになつた。女中は僕の妹を背に負つた儘オルガンを彈いた。僕はこの幽靈屋敷がだんだん氣に入つた位だつた。しかし、電燈のつかない家だから、日暮になるともう堪らなかつた。僕は逃げだすやうに家の方へ走つて歸るのだつた。

 僕は家に戾つて來ると、よく厭な氣分に陷つた。もう久しく母の姿を見なかつたし、大人たちは誰も僕をかまつてくれないのを知つてゐたが、それがどうかすると我慢できなくなるのだつた。僕は臺所の方へ𢌞ると、尖つた聲で從姉を呼びとめた。その次の瞬間には僕はもう自分が狂暴な喚きをあげさうなのを知つてゐたし、すぐ側の火鉢に掛つてゐる鍋がくらくら湯氣をあげてゐるのを僕は睥みつけてゐた。ところが、從姉はそのとき僕の顏を見ると急にとても心配さうな顏つきになり、殆ど哀願するやうな眼つきだつた。「ね、薰さんだつて、お父さんが亡くなられたら悲しいでせう。この間お父さんはこんなことを言つてゐられましたよ。薰はときどき騷いだりするがあれほ僕が死ぬるのを喜んでるのかしら、さうお父さんは私に訊かれたのです。いいえ、いいえ、とんでもない、薰さんだつてお父さんと死にわかれるのは、それは淋しいにちがひありません、心のうちではやつぱし心配してゐるのです、とさうお父さんには申上げておきました」

 僕は從姉の言葉を聞いてゐるうちに、側にある鍋の湯氣まで凍ててゆくやうな氣持がした。それからふと僕は父の顏の翳をおもひ出した。すると、それが遙かに怨めしさうな白つぽいものにかはり、それが病室一ぱいに擴がつてゐるやうな氣がした。

 僕はその日、學校の一番最後の時間が理科の時間で、先生が次の理科の時間までにしてくる宿題を出したのをおぼえてゐる。僕は次の理科の時間には學校を休んでゐるかもしれないなと考へた。すると、何だか明日からもう學校を休まなけれはならなくなるやうな氣持がした。僕はその頃、女の子が不思議な夢の話をしてゐるのに耳を傾けてゐたことがある。「紅いお月さんの昇る夢をみたら、お父さんが亡くなる。白いお日さんの沈む夢をみたら、お母さんが」二人の女の子はさう云ひながら教室の片隅で靜かに頷き合つてゐるのだつた。その女の子たちは近頃ほんとうに不幸があつたのだから、僕にはどうも不思議でたまらなかつた。僕はその日も學校の歸り路で、ちらりとその夢のことを考へてゐたやうだ。

 僕はその夜、寢る前に父の病室に呼ばれて行つた。父は腹這になりながら枕に齧りつくやうにして、顏をもち上げ、喘ぎ喘ぎ口をきいた。「薰か、お父さんはもう助からないが、お父さんが死んだ後は、みんな仲よくやつて行つてくれ」僕は默つてただ頷いてゐたが、間もなく次の間に去つた。それから僕は間もなく床に這入つたのだつた。だが、僕はさきほど見た父の難儀さうな姿がはつきり目に見えて、なかなか睡れさうにない。そのうちに僕はつい夢をみてゐた。圓い大きな紅い月が昇つて來た。僕は夢のなかで、たうとう紅い月の夢をみたなと思つた。それではいよいよ父も死ぬるのかしら、さう考へた瞬間、父の病床がぱつと眼さきに見えて來た。さきほどあんなに喘ぎ喘ぎしてゐた父は今、夜具を跳ねのけると、するすると、疊の方へ匐ひ出して來る。はつとして僕は呻かうとした。そのとき僕は從姉にゆすぶり起されてゐた。「お父さんが……」彼女は急いで僕に着物着替へさせた。僕が父の病室に入つた時、あたりは泣聲に滿ちてゐた。

 たうとう父はほんとに死んだのだつた。僕はしかし何か半信半疑の氣持がしてならなかつた。死んだ父の額にはあの不吉な翳が刻まれてゐたし、身を縮めて棺に納まつてゆくときの父はやはり喘いでゐるのではないかとおもはれた。だが、家には大勢の人が集まつてゐたし、埋葬はもの珍しく賑やかだつたので、僕はやはりどうやら、その方に氣をとられてゐる子供だつたのだ。

 

 だが、それから一年位すると、僕はいつの間にか、あの飛んだり跳ねたりしたがる子供の衝動をすつかり喪つてゐた。父の臨終の時の空氣がその頃になつて、ぞくぞくと僕のなかに流れ込んで來た。僕の家の庭の隅にある大きな楓の樹が無性に懷しくおもへだしたのもその頃だ。その樹は恰度父が死んだ部屋のすぐ近くの地面から伸び上り、二階の窓のところに二股の幹を見せてゐたが、僕は窓際に坐つて、靑く繁つた葉の一つ一つの透間にしづかに漾ふ影を見とれた。殆どその楓の樹は僕のすべての夢想を抱きとつてくれたやうであつた。幹には父親のやうな皺があつたが、光澤のいい小さな葉は柔かにそよいでゐた。夜もそこに繁つた葉があることを考へると、ひつそりと落着くのだつた。雨の日はしづかなつぶやきが葉のなかにきこえた。僕はその密集する葉をそのまま鬱蒼とした森林のやうに感じたり、靈魂のやすらふ場所のやうにおもつた。そして、僕はもう同じ齡頃の喧騷好きの少年たちとは、どうしても一緒になれなかつたし、學校の課業にはまるで張合を失つてゐた。僕は子供のとき考へてゐた僕とはすつかり變つてゐる自分に面喰ひだした。僕は何になりたいのか、わからなかつたし、大人たちが作つてゐる實際の世界は僕にはやりきれないもののやうに思へだした。僕は運動場の喧騷を避けて、いつも一人で植物園のなかを歩いた。さうすると、樹木の上の空が無限のかなたにじつと結びつけられてゐるのがわかつたし、樹影の沈默のなかに祕められてゐる言葉がみつかりさうだつた。それから、ふと樹の枝にある花が僕に幼年の日の美しい一日を甦らせたし、父親の愛情がそこに瞬いてゐるやうであつた。僕の頭には、あの莊嚴な宗教畫の埋葬の姿が渦卷き、沈んだセピア色と燃える紅と、光と翳の襞につつまれ、いま僕の父親の死が納まつてゐた。

 彈力のある靑空からは今にも天使の吹く喇叭の音がききとれさうであつた。僕は樹の列から列へゆるやかに流れてくる日の光のなかをくぐつて、僕はいつのまにか、中央にある芝生の圓い花壇のところに來てゐた。圓い環のなかではアネモネ、ヒヤシンス、チユーリツプなどが渦卷いてゐて、それはいきなり僕を眩惑させる。僕はエデンの園にゐるやうな氣がした。そして僕はどこか見えないところにゐるイヴの姿を求めてゐるのだつた。

2016年1月1日以降のブログ記事のサイト内リンクを全修正

2016年1月1日以降のブログ記事のサイト内リンクを総て修正した。それ以前のものは、URL文字列の検索では、少なくとも旧リンクを貼った記事が1800タイトル近く存在するので、気がついた時に直す以外には法はない。上手くリンクが働かず、直ちにご覧になりたい場合にはお手数乍ら、どうか、前に述べた方法でお願い申し上げる。これでも殆んど徹夜したのである。 深謝敬白   心朽窩主人

左コンテンツ「サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)」のリンクを総て修正

恐らくは誰もが馬鹿かと思うであろうところの、ブログの左コンテンツ「サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)」のリンクを総て新しいものに一つずつ書き換えた。何万人かの一人が私のブログを訪れ、これはと思ってクリックし、失望するのは私には耐えきれぬ、それが私の性分だからである。

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 若葉して御目のしづく拭はばや 芭蕉

本日  2016年 5月 8日

     貞享5年 4月 9日

はグレゴリオ暦で

    1688年 5月 8日

 

招提寺(せいだいじ)鑑眞和尚(がんじんわしやう)來朝の時、船中七十餘度の難を凌ぎ給ひ、御目(おんめ)の中(うち)汐風吹き入りて、終(つひ)に御眼(おんめ)盲(しい)させ給ふ尊像を拜して、

 

若葉して御目のしづく拭(ぬぐ)はばや

 

「笈の小文」より。奈良西郊(現在の奈良県奈良市五条町)にある南都六宗の一つである律宗の総本山唐招提寺で同寺に安置されている鑑真和上像(現在、国宝)を拝した折りの名吟である。

 「笈日記」には、

 

靑葉して御目の雫(しづく)拭(ぬぐは)ばや

 

とするが、ここは「靑葉」ではだめである。

 同寺を建立した鑑真(がんじん 六八八年~天平宝字七年六月二十五日(ユリウス暦七六三年五月六日相当)についてはウィキの「鑑真から引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『唐の揚州江陽県の生まれ。十四歳で智満について得度し、大雲寺に住む。十八歳で道岸から菩薩戒を受け、二十歳で長安に入る。翌年、弘景について登壇受具し、律宗・天台宗を学ぶ。律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、四万人以上の人々に授戒を行ったとされている。揚州の大明寺の住職であった七四二年、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。当時、奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かった。私度僧に対して差別的な勢力が、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させようと画策、聖武天皇に取り入』ったことから、『聖武天皇は適当な僧侶を捜していた』。『仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい』、僧伽(そうぎゃ:「サンガ」とも。仏教で具足戒を正しく保つ出家修行者らによって構成される僧集団を指す)『集団の規則を「律」という。戒を誓う為に、十人以上の僧尼の前で儀式(これが授戒である)を行う宗派もある。日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が盛んであった。しかし、奈良時代に入ると自誓授戒を蔑ろにする者たちが徐々に幅を利かせ、十人以上の僧尼の前で儀式を行う方式の授戒の制度化を主張する声が強まった。栄叡と普照は、授戒できる僧十人を招請するため』、『戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れた』。『栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかった。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子二十一人も随行することとなった。その後、日本への渡海を五回にわたり試みたが』、これは『ことごとく失敗した』。『最初の渡海企図は七四三年夏のことで、このときは、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放された。鑑真は留め置かれた』。『二回目の試みは七四四年一月、周到な準備の上で出航した』ものの、『激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった』。『再度、出航を企てたが、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕をされ、三回目も失敗に終わる』。『その後、栄叡は病死を装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。そのため、官吏に出航を差し止めされ、四回目も失敗する』。『七四八年、栄叡が再び』、『大明寺の鑑真を訪れた。懇願すると、鑑真は五回目の渡日を決意する。六月に出航し、舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、十一月に日本へ向かい出航したが、激しい暴風に遭い、十四日間の漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着した。鑑真は当地の大雲寺に一年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えた。そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡が残されている』。『七五一年、鑑真は揚州に戻るため』、『海南島を離れた。その途上、端州の地で栄叡が死去する。動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう』。『七五三年、大使・藤原清河らが鑑真のもとに訪れ』、そこで鑑真は彼らに『渡日を約束した。しかし、明州当局の知るところとなり、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否』せざるを得なくなった。『それを聞いた副使の大伴古麻呂は大使の藤原清河に内密に第二舟に鑑真を乗船させた。天平勝宝五年十一月十六日』(ユリウス暦七五三年十二月十五日)『に四舟が同時にが出航する。第一舟と第二舟は十二月二十一日に阿児奈波嶋』(あこなはじま:現在の沖繩本島のこと)到着した(以下、日付に疑義があるので一部を中略した)。『天平勝宝五年十二月十二日』(七五四年一月九日)『に屋久島(益救嶋)に到着、鑑真は晴れて日本への渡航に成功した。 朝廷や大宰府の受け入れ態勢を待つこと』、『六日後の十二月十八日に大宰府を目指し出港』、翌十九日に遭難したが、二日後に辛くも秋目(現在の南さつま市坊津(ぼうのつ)に比定)に漂着、その後、『大安寺の延慶に迎えられながら』、大宰府に到着天平勝宝五年十二月二十六日(七五四年一月二十三日)に『到着、鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、天平勝宝六年二月四日』(七五四年三月二日)『に平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。翌四月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで四百名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後、天平宝字五年には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった』であった。(天平宝字二(七五八)年、『淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる労苦から解放するため』、『僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた』。翌天平宝字三年には、天武天皇の皇子の一人であった新田部親王(にいたべしんのう )の『旧邸宅跡が与えられ』、『唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ』が、四年後の天平宝字七年、『唐招提寺で死去(遷化)した。七十六歳。死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像』(脱活乾漆・彩色で、麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法が用いられており、両手先は木彫りである)『を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている』、この唐招提寺鑑真像が、現存する『日本最古の肖像彫刻とされている。また』、宝亀一〇(七七九)年には淡海三船によって鑑真の伝記「唐大和上東征伝」が著わされ、『鑑真の事績を知る貴重な史料となっている』とある。

2016/05/07

2015年   58歳  藪野唯至

 
 星果つる雷の匂ひや滿銀河
 
 
 
  夢に生前の母を淸拭す 白き肌への美しかりけり
 
 膝の上に母の裸身のかぐはしき
  
 
 
  八月八日東京湾花火大會にて轉倒、前頭葉の一部を挫滅す
 
 華燭天面影(おもかげ)忘却香喪失
 
 

 
句集「鬼火」追加分)

サイト・データのリンク修正ほぼ完全に終了

サイトの縦書版を除くデータの新サイトへのリンク修正をほぼ完全に終了した。

海の小品   原民喜   (恣意的正字化版)

[やぶちゃん注:初出は昭和二五(一九五〇)年九月発行の『野性』、その後、一切の詩集・全集・抄録集にも載ることなく、実に初出から六十五年後(発表の翌の年昭和二十六年三月十三日に民喜自死)の二〇一五年七月岩波文庫刊の「原民喜全詩集」で初めて再録された。本電子データは同岩波文庫を元にしつつ、歴史的仮名遣が使用されている事実、民喜が終生、基本、自筆稿では正字を使用していた事実から、それらを恣意的に多くを正字化して示した。なお、私は本詩篇群は海辺に近かった、戦前の千葉の登戸(のぶと)時代の思い出に基づく、回想的詩篇なのではないかと推理している(発表当時の民喜の居所は竟の住み家となった吉祥寺である)。少なくとも、発表されたこの九月には民喜は自死を決意していたものと私は考えている。なお、「宿かり」の「リツク」(「リュック」の意)はママである。]

 

 

   海の小品


 
 

 蹠(あしうら)

 

 あたたかい渚に、既に觸れてゴムのやうな感じのする砂地がある。踏んでゐるとまことに奇妙で、何だか海の蹠のやうだ。

 

 

 

 宿かり

 

 じつと砂地を視てゐると、そこにもこゝにも水のあるところ、生きものはゐるのだつた。立ちどまつて、友は、匐つてゐる小さな宿かりを足の指でいぢりながら、

 「見給へ、みんな荷物を背負はされてるぢやないか」と珍しげに呟く。その友にしたところで、昨夕、大きなリツクを背負ひながら私のところへ立寄つたのだつた。

 

 

 

 渚

 

 步いてゐると、步いてゐることが不思議におもへてくる時刻である。重たく澱んだ空氣のとばりの中へ足が進んで行き、いつのまにか海岸に來てゐる。赤く濁つた滿月が低く空にかゝつてゐて、暗い波は渚まで打寄せてゐる。ふと、もの狂ほしげな犬の啼聲がする。波に追はれて渚を走り𢌞つてゐる犬の聲なのだ。ふと、怕くなつて渚を後にひきかへして行くと、薄闇の道路に、犬の聲は、いつまでもきこえてくる。

岩波文庫「原民喜全詩集」入手

昨年の七月に岩波文庫版「原民喜全詩集」が出ていたことは知っていた。
退職して四年、下界に降りることの僅かになって、書店へ足を運ぶのも数ヶ月に一度あるかないか――それよりも自身の書斎の開かれておらぬ頁を繰ることの方が忙しい――。
されば、昨日、妻のリハビリの待ち合わせまで時のあればこそ、二軒目の書店でやっと入手した。

驚愕は以下の二点。

・既出全集未収録の散文詩三篇から成る「海の小品」という掌篇が載っていたこと。

・巻末の竹原陽子氏の手に成る「原民喜年譜」(全二十六ページにも及ぶ)が恐らく、現在、最も完備した年譜となっていること
前者は、これより電子化する。

後者によって例えば、

・貞恵の肺結核発病(私は喀血発症日と推定)が昭和一四(一九三九)年九月十日であること、私の推理通り、糖尿病の発覚がその後のことであったこと、佐々木基一が信濃に結核療養していた時期があったこと(「忘れがたみ」の「南瓜」の義弟が彼であること)、母はやはり彼女の妻貞恵の命日が私が墓石画像からやはり推定した通り、昭和一九(一九四四)年九月二十八日であったこと。
・父貞吉の経営した「原商店」が陸海軍・官庁用達の具体的に『縫製業』(軍服等)であったこと。

・「原民喜」の名は、彼の生まれた(明治三八(一九〇五)年十一月十五日生まれ)年の九月五日に日本軍が勝利して終結した日露戦争にあやかって、『「民がが喜ぶ」という意味で名付けられたという』こと。

・読みの新情報が多数あること(同人誌『春鶯囀』は「しゅんのうでん」、「幼年畫」の「蝦獲り」が「えびどり」と濁音で表記されていることなど)。

といった、非常に興味深い事実(或いは情報)が数多く判ってくるのである。これは私にとっては非常に興味深いことなのである。向後、追々、それらによって過去の電子テクストの注補正や追加を行いたいと考えている。

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 灌佛の日に生れ逢ふ鹿の子かな 芭蕉

本日  2016年 5月 7日

     貞享5年 4月 8日

はグレゴリオ暦で

    1688年 5月 7日

 

 

灌佛(くわんぶつ)の日は奈良にて此處彼處(ここかしこ)詣で侍るに、鹿(しか)の子を生むを見て、此日に於てをかしければ、

 

灌佛の日に生(うま)れ逢ふ鹿(か)の子かな

 

「笈の小文」より。芭蕉は先の和歌の浦から三月二十九日に発って、熊野街道を通り、小野坂を越えて名手宿、そこから大和街道を五條宿に抜け、下街道を通って奈良へ着いたのが四月三日のことであったとサイト「俳諧」の「笈の小文」では推定されてある。されば、この句を詠んだ本日までは、五日間あり、「奈良にて此處彼處詣で侍る」という言辞も腑に落ちる。

「灌佛の日」は灌仏会(かんぶつえ)で、釈迦が旧暦四月八日に生誕したとする伝承に基づく祭日。右手で天、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」を唱える姿の釈迦の誕生仏の像を、花御堂(花で飾った小さなお堂)の中に安置し、この像に甘茶を柄杓で掬って灌(そそ)ぎかける行事を行う。「仏生会(ぶっしょうえ)」「降誕会(ごうたんえ)」「仏誕会(ぶったんえ)」などとも呼ばれ、釈迦が悟りを得たとされる旧暦十二月八日の成道会(じょうどうえ)、釈迦が入滅したとする旧暦二月十五日の涅槃会(ねはんえ)と共に三大法会(ほうえ)とされる。

 鹿の子(生きとし生けるもののシンボライズ)の可憐さが赤子の釈迦と重ね写され、灌仏会の甘茶がけをする子らの情景とも美しく響き合う、佳句である。

2016/05/05

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蛭

Hiru

ひる    蚑【蜞虮並同】 至掌

【音質】  【和名比流】

      馬蛭      馬鼈

       【長大者】

チツ    馬蟥【腹黄者】

 

本綱蛭在水中者名水蛭在草土者名草蛭狀似蚓扁能

咂牛馬人血

水蛭 生河池【鹹苦平有毒】入藥取水中小者用之治折傷疼

 痛【焙爲細末酒服二錢】食頃作痛可更一服痛止

 治赤白丹腫癰初起者以竹筒盛蛭合之令病處血

 滿自脱

草蛭 在深山草中人行即着脛股不覺入於肉中産育

 爲害南方有水蛭似鼻涕聞人氣閃閃而動就人體成

 瘡惟以麝香硃砂塗之即愈此即草蛭也

別有石蛭生石上泥蛭生泥中其二蛭頭尖腰粗色赤誤

 食之令人眼中如生烟漸致枯損

 昔有人途行飮水及食水菜誤呑蛭入腹生子爲害噉

 臟血腸痛黃瘠者惟以路泥或擂黃土水飮數升則必

 盡下出也葢蛭在人腹忽得土氣而下爾

按蛭水中濕生也又海帶昆布如久漫雨水則共能化

 成蛭性忌石灰食鹽試鹽點蛭則盤縮死

 

 

ひる       蚑〔(き)〕【蜞、虮、並〔びに〕同じ。】 至掌〔(ししやう)〕

【音、質。】   【和名、比流。】

         馬蛭〔(ばしつ)〕  馬鼈〔(ばべつ)〕

         【長く大なる者なり。】

チツ       馬蟥 〔(ばくわう)〕【腹、黄なる者。】 

 

「本綱」、蛭、水中に在る者を水蛭〔(みづびる)〕と名づく。草土に在る者を草蛭〔(くさびる)〕と名づく。狀、蚓(みゝづ)に似て扁(ひらた)し。能く牛馬、人の血を咂 (す)ふ。

水蛭は 河・池に生ず【鹹〔(しほか)〕らく、苦〔(にが)くして〕、平。毒、有り。】藥に入るるに水中の小さき者を取りて之れを用ふ。折傷・疼痛を治す【焙りて細末と爲し、酒〔にて〕服〔すこと〕二錢。】食頃(しばら)くして痛みを作(な)す。〔されば〕更に一服すべし。痛み、止む。

 赤白丹・腫癰〔(しゆよう)の〕初めて起る者を治するに、竹の筒を以て、蛭を盛り、之えれに合はせて(す)はしめば、病處〔(びやうしよ)〕、血、滿れば、自〔(おのづか)〕ら脱す。

草蛭は 深山の草の中に在りて、人の行く時は、即ち脛(はぎ)・股(もゝ)に着く。覺へずして肉〔の〕中に入りて産育して害を爲す。南方に水蛭有り、鼻涕(じる)に似て、人の氣(かざ)を聞き、閃閃(ひかひか)として動き、人體に就きて、瘡と成る。惟だ麝香・硃砂〔(しゆさ)〕を以て之れを塗れば、即ち、愈ゆ。此れ、即ち、草蛭なり。

別に石蛭〔(いしびる)〕有り。石の上に生ず。泥蛭〔(どろびる)〕は泥の中に生ず。其の二の蛭、頭、尖り、腰、粗く、色、赤し。誤りて之れを食へば、人をして眼中に烟を生ずるがごとくならしめ、漸く、枯損〔(こそん)〕を致す。

 昔し、人、有り、途(たび)行(ゆ)きて、水を飮〔(むに)〕及〔びて〕水菜を食ふに、誤りて蛭を呑む。腹に入りて子を生みて害を爲す。臟〔(はらわた)〕・血を噉〔(くら)ひ〕て、腸、痛み、黃(きば)み瘠(やす)る者あり。惟だ、路の泥を以て、或いは黃土を擂(す)りて水、飮すること、數升、則ち、必ず盡〔(す)〕ぐ、下り出だすなり。葢し、蛭、人の腹に在れば、忽ち土氣を得て、下〔(くだ)さ〕るのみ。

 

按ずるに、蛭は水中の濕生なり。又、海帶(あらめ)・昆布、如〔(も)〕し、久しく雨水に漫(ほと)びる時は、則ち、共に能く化して蛭と成る。性、石灰・食鹽を忌む。試みに鹽を蛭に點ずれば、蛭、則ち、盤〔(からだ)〕、縮して死す。

 

[やぶちゃん注:環形動物門ヒル綱 Hirudinea のヒル類である。ウィキの「ヒル」によれば、体の前後端に吸盤を持つことを特徴とする。『ヒル類は大型動物の血を吸うものがよく知られているため、その印象が強いが、それ以外の生活をするものもある。共通の特徴は体の前端と後端に吸盤を持つことであるが、その発達の程度は様々である。また、細長いぬめぬめするもの、動物の生き血を吸うものといった印象の動物にヒルの名を付ける場合もある』が、それらは『分類上は全く異なったものである』ことも多い。『環形動物一般に共通するが、体は細長い。この類の特徴として、外部形態の退化傾向が挙げられる。口前葉はほとんど確認できない。疣足はなく、貧毛類にはある剛毛すらほとんどが持たない。代わりに、口周辺と肛門の下側が吸盤になっており、捕食活動にも運動にもこれを用いる。どちらか一方だけを持つものもある。一部に外鰓を持つものがある』。『体は外見上は非常に多くの体節を持つように見えるが、そのほとんどは表面に環状のしわがあるだけで、実際の体節はより少なく、普通は』三十四節ある。『しわがあるために明確ではないが、ミミズ類に見られるような環帯が体前方にあり、その腹面に雌雄の生殖孔が開く。雌雄同体である』。『外見的には感覚器は見えないが、体前方の背面に眼点(光の強弱を感じるセンサーで、電子顕微鏡で見える表面が凹んだ器官)があるものが多い』。体長は二ミリメートルの小さなものか四十センチメートルにもなる大きなものまで他種多様である。『多くは淡水に住むが、陸上や海水に住む種類もいる。肉食性で、主に小動物を食べるもの、大型動物の血を吸っているものなどがある。長く大型動物にたかって暮らすものは、寄生性と見なされる。小さい方では、例えば』ヒル綱吻蛭目グロシフォニ科 Batracobdella 属カイビル Batracobdella kasmiana などは体長約八ミリメートルから二センチメートルほどの『小さいもので、水草の上などを這いながら、小さな巻き貝などに頭を突っ込んで食べている』。逆に特に大きな種ではイシビル科クガビル属ヤツワクガビルOrobdella octonaria がおり、これは成体個体では伸びた全長が五〇センチメートルを越え、『全身は鮮やかな黄色に黒色の縦スジがある。湿った陸上に住み』、これまた四〇センチメートルにも『達するシーボルトミミズ』(環形動物門貧毛綱ナガミミズ目フトミミズ科フトミミズ属シーボルトミミズ Pheretima sieboldi)『などの大型ミミズを丸飲みにする』(私は高校教師時代、山岳部山の顧問をしていたが、何度か、その驚くべき同種と思しい巨大蛭と遭遇した)。『哺乳類に対して吸血する種があり、人を対象とするものも少なくない。川に入っているときや沼地や湿度の高い森林などを歩いているときに取り付かれ、血を吸われることがある。水田にはチスイビル』(顎(あご)ビル目ヒルド科チスイビル属チスイビル Hirudo nipponica)『が多く、水田での作業中に血を吸われることは普通であったが、農薬などによって減少している。ヤマビル』(ヒルド科 Haemadipsa Haemadipsa zeylanica 亜種ヤマビル Haemadipsa zeylanica japonica )『は、サル、イノシシ、シカなどの増加につれて分布域を広げているという話もある』。二〇〇八年までに『日本でヤマビルによる被害が確認されていないのは埼玉県、大阪府、福井県、石川県、青森県、北海道、山口県、北部九州、四国である。ヤマビルは靴につくとシャクトリムシのように体の上の方に上がって行き、服や靴の裾や袖口などの隙間からもぐりこんで皮膚に到達する。かまれてもヒルの唾液に麻酔成分があるため痛みを感じないまま血を吸われ、吸血痕からの出血を見て気がつく場合がある。また、血液の凝固作用を妨げる成分も含まれていて』、なかなか『血が止まらず、流血が広がりやすいが、通常、傷は数日で治る。ヒル自体には毒性はないといわれる』(私は残念なことに一度も吸血されたことはないが、引率した生徒が分厚いソックスの間に忍び込まれてしばしば知らないうちに咬まれて吸血され、恐懼していたのを思い出す)。『吸血種の主な種類は、チスイビルやヌマビル、ヤマビルなどがある。日本にも生息するハナビル』(ヒルド科 Dinobdella属ハナビル Dinobdella ferox 。「鼻蛭」でまさに幼生が人の鼻の穴に侵入して寄生することで知られ、東南アジアでは人への寄生症例がしばしば問題にされるようである)『のように、体表から吸血するのでなく、体内に潜り込んで吸血するものもあり、内部蛭症と呼ばれる』。『吸血性ヒルに関しては害のみでなく、医療や薬用として利用も行われている』。『基本的に人間は吸血生物に対して嫌悪感を持つ。特にヒルは、カやアブなどのような他の吸血性動物と異なり、ヌメヌメした容姿に対する嫌悪感や、噛まれた傷口から長く出血することへの不快感も加わる』。『他方、血の凝固を防ぐ力があることから、古来より瀉血などの医療用としても用いられてきた』歴史があり、また、『漢方では乾燥したヒルの生薬名を水蛭(すいてつ)と呼』んで、『滋養強壮に効果があると言われ、ヨーロッパでも古くから薬用とされてきた』。一八八四年に『イギリスの生理学者ジョン・ヘイクラフト』(John Berry Haycraft)『が、薬用ヒルの唾液腺からペプチドで構成される血液抗凝固成分であるヒルディン』(またはヒルジン(Hirudin):吸血性ヒルの唾液腺から分泌されるポリペプチド。トロンビンを阻害することによって血液凝固を妨害し、さらにヒルに噛まれた痕自身も止血し難くなる。六十五個のアミノ酸から構成されており、ヒルの頭部から熱水抽出によって得られる。天然のヒルジンは多数の種類から構成される混合物であるが、現在は純粋に大量生産出来る組み換え型ヒルジンが用いられている。ヒルジンは医薬として血腫などの治療に用いられることもあるが、日本では認可されていない)『という成分を発見した。日本では水蛭やヒルディンを使用した製品に薬効を謳うことは許可されていないため、健康食品として販売されている。ヒルは悪い血を吸い出すものとして、インドのアーユルヴェーダなどでデキ物などにたからせて血を吸わせるなどの行為が行われた。また、ヒルの唾液は、膝関節症に効果があると』もされる。『現在は外科医療用のヒルとして、接合した四肢の端部に大型の無菌化したヒルを付けて血を吸わせ(ヒルは数時間毎に交換)、血管の再生を促す治療法がイギリスを始めとして用いられつつある』。『帽子・長袖・長ズボン・厚手の靴下・長靴(あるいはしっかりした登山靴)を着用し、首筋にタオルを巻いたり、靴とズボンの隙間をガムテープを巻くなどして極力肌の露出を避ける。ただし、ズボンを着用している状態であっても、ズボンを這い上がったのちに上着の隙間から入り込んで腹部に吸着する場合がある。タオルや靴下にあらかじめ』、『塩をすり込んでおくなどの処置も有効である』とある。塩に忌避効果があるというのは本文の記載と一致する。

・「水蛭〔(みづびる)〕」漢方では「スイテツ」と音読みする。漢方生薬や瀉血用(チスイビルのみ)に用いるのは以下の三種。

顎ビル目ヒルド科Whitmania属ウマビル Whitmania pigra

(日本各地の水田や池沼などに棲息し、冬は泥の中に隠れる。体は扁平で、長さ十~十五センチメートル、幅二センチメートル内外。背面はオリーブ色で五本の暗色の縦線を有する。腹面は淡色で、小さい暗色斑点が縦に並ぶ。前吸盤は非常に小さく、その底部に口がある。口には三個の顎があるが、ヒトの皮膚に傷をつけて吸血することは出来ず、食性も吸血性ではなく肉食性と思われる(ネットの諸記載から判断)。後吸盤は円形で大きい。体中央部では一体節に五体環がある。目は五対あって第二・三・四・六・九のそれぞれの体環上に存在する。雌雄同体で雌雄生殖口は第十一及び第十二体節に開く。和名の「ウマ」は「大形」を意味する(概ね、小学館「日本大百科全書」の今島実氏の解説に拠った)。

Whitmania属チャイロビル Whitmania acranulata

(ウマビルの近縁種。画像(中国・台湾のサイトで確認出来る)を見る限りでは、普通に素手で掌に載せているものが多く、やはり吸血性ではないと推定される)

ヒルド科チスイビル属チスイビル Hirudo nipponica

(日本各地の淡水の湿地に生息する。体長は三~四センチメートルで、扁平で細長く、背面に緑灰色の数条の縦縞を有する。前方吸盤に口があり、顎(あご)がよく発達していて多数の歯が一列に並ぶ。この顎で他の動物の皮膚に傷をつけて吸血する。彼らの唾液には先の引用のも出たヒルジンという血液凝固抑制物質が含まれており、相手の血を凝固させることなく、安定的に吸血することが出来る。雌雄同体で、温血動物の血を吸ったあとに交尾・産卵をする。このヒルの吸血性を利用して、鬱血した場所に吸い付かせる治療に用いることから「医用ビル」の別名をも持つ(同じく小学館「日本大百科全書」の今島実氏の解説に拠った)。

・「草蛭〔(くさびる)〕」ヒルド科 Haemadipsa Haemadipsa zeylanica 亜種ヤマビル Haemadipsa zeylanica japonicaに代表されるヤマビル類と考えてよかろう。ウィキの「ヤマビル」より引く。『山野で大型哺乳類を攻撃する。ヒトにもよく着くので非常に嫌われる』。『ヤマビルは陸に棲むヒルで、吸血性のヒル類としては日本本土では唯一の陸生ヒルである。日本以外では複数の種がある場合もある。なお、より厳密を求めてニホンヤマビルとの和名も提唱されているが、普通はヤマビルと呼ばれること』の方が圧倒的に多い。『山奥の森林に生息するもので、特に湿潤な場所に多いというのが一つの定見であり、深い森と結びつけて恐怖をもって語られたこともある』。例えば泉鏡花の「高野聖」には『「恐ろしい山蛭」が木の上から落ちてくるシーンが描かれている』(本文をこの注の後に示す)。『しかし平成年代頃より人里での出現、その生息地の拡大が言われるようになった』。『気づかれないうちに血を吸われ、その傷口が吸血性昆虫のそれより大きいこと、本体がぬめぬめしたのであることなど嫌悪感が強い。「人間が最も不快と感じる動物のひとつ」との声もある』。『しかしそれ以上の被害、たとえば寄生虫や病原体の伝搬などは知られていない。湿度の高い環境で活発になる』一方で、『乾燥に弱い』。『日本では岩手・秋田県以南の本州から四国、九州に分布する。また周辺島嶼では佐渡島、金華山、淡路島、それに屋久島が知られる。ただし神奈川県の調査報告によると、四国は分布域とされているが、確実な情報がないという。国外では中国の雲南省も生息域として知られる。原名亜種は熱帯域に広く分布するものである。琉球列島でも石垣島、西表島に多く、これはサキシマヤマビル H. zeylanica rjukjuana とされる。また他に東京都(火山列島)硫黄島にイオウジマヤマビル H. zeylanica ivosimae が知られる。ただし、これらの分類については異説もあり、日本の変種を独立種とする説もある』。体長は二五~三五ミリメートルで、『伸び縮みが激しく、倍くらいまで伸びる。神奈川県の報告書によると、弾力に富み、且つ丈夫で、引っ張ってもちぎれず、踏んでもつぶれないと表現されるほどである』(後掲するように鏡花は実にそこをリアルに描いている)。『体は中央後方で幅広く、前後に細まるが、おおよそ円柱形で多少とも腹背に扁平。おおよそ茶褐色で栗色の縦線模様がある。背面の表面には小さなこぶ状の突起が多い。体は細かい体環に分かれているが、実際の体節はその数個分である。第二節から五節までと八節目の背面に丸く突き出た眼が一対ずつある。後方側面に耳状の突起がある。吸盤は前端と後端にあり、後端のそれがずっと大きい。口の中の顎には細かな歯がある。肛門は後方の吸盤の背面にある』。『晴天時には地上の落葉の下などに潜伏してじっとしているが、大型動物が接近すると表に出て、あるいは草に登って体を長く伸ばして直立し、その先端をあちこち振り回すように動かす。動物の接近は二酸化炭素や振動、熱などによって感知するものとされる』(私はしばしばこの行動を山で観察したものだった。恐懼する生徒らを尻目に正直、実に面白かったのである)。『動物に触れるとすぐにとりつき、前後の吸盤でシャクトリムシのように移動し、皮膚の柔らかいところにとりついて吸血を始める。一般には、シカやイノシシが主な宿主とされている。他にツキノワグマ、ノウサギ、タヌキ、ニホンカモシカ、ニホンザルなども吸血されることが確認されており、ヤマドリやキジが吸血対象となった例も確認されている』。『人間であれば、その衣服の中に入り込んで吸血することもある。靴下など、目が粗ければ頭をその隙間から突っ込んで吸血する例もある』。キャラバン・シューズに吸着した個体が靴下の中に潜り込むまで三十秒とする記録もあるという。『雨の時には活動はさらに活発になり、樹上に登って枝葉の先からぶら下がり、動物のより高いところにもくっついてくる。ビニールのカッパは張り付きやすいため、足下から首まではい上がるのに』一分程度しかかからないともいう。『吸血の際は、まず先端側の吸盤にある口の中の顎によって皮膚を食い破り、血液凝固を阻害するヒルジンという成分を注入する』。満腹になるまで吸血するが(約一時間を要するとする)、『その間に水分を排出し、その成分を濃縮する。ヒルジンの注入の為に、吸われている側は吸血されていることに気づかない』。『満腹すると動物からはなれて地上に落ち、落ち葉の下などに隠れる。往々に吸血後に脱皮、産卵する』。『乾燥には弱いが、気温は』摂氏十度以上で『あれば活動が可能で、冬以外は』よく活動する。房総半島では四~十一月に『活動が見られ、特に梅雨や秋雨の頃が活発と』される。『なお、自ら水中に入ることはない』。親は血を吸うと約一ヶ月後には産卵をする。『卵は表面にハチの巣状の突起のある透明な卵嚢(cocoon)に包まれる。これは、産卵時にはゼラチン質の泡となっており、ヒルはこの中に産卵する。この泡が乾燥することで透明な皮膜となる。内部は黄色で美しく、山中征夫は「万人が神秘的と認めるほど」とまで言っている。一つの卵嚢には』五~六個の『卵が含まれる。なお』、一個体の『雌が生涯に作る卵嚢の数は』二十以上に『達する。 孵化には』約一ヶ月を要し、『孵化直後の幼生は体長約』五ミリメートルで、『飼育による調査結果によると』、三~四回の『吸血で幼生は産卵可能な成体になり、これには』約一年を『要する。成体になるまでは』1~六ヶ月に一回の『吸血が必要であるが、それ以降は年に』ただ一回の吸血で足り、成体に於いては実に二年もの『絶食に耐える。生涯の吸血回数は多いもので』も八回ほどしかせず、『飼育下での最長の寿命は』五年であったとある。『雌雄同体であるが、交尾を行』い、その際には二個体が『互いに首を絞めあうような形で交接をする』。『一般には山地の森林に生息し、特に湿潤な、渓流沿いのコケの多いところなどに多数見られることがある。地理分布としては広いが、各地での生息域は狭く限られており、どこにでも見られるものではなかった』。『しかしそれ以上に、吸血対象となる大型ほ乳類の生息域に依存していて、ときには、開けたところやちょっとした藪でも遭遇することがある。人里ではあるが、奈良公園の春日神社などには多く、ときおり藪に潜り込んだカップルが血を流しながらあわてて飛び出すのが見られたという』。『ところが、平成頃からはあちこちでヤマビルの増加が言われるようになった。たとえば房総半島では』一九七五年頃には清澄山(きよすみやま:千葉県鴨川市清澄にあり、日蓮が出家得度及び立教開宗した寺とされる大本山千光山清澄寺(せいちょうじ)がある)を『中心とする一帯に生息するのみだったものが』、『東西南北に広がり、その生息面積は』二〇〇五年には三十倍にも広がっているという。『また市街地に出現する例も伝えられるようになった。丹沢山地、西濃、鈴鹿山脈などの山域でハイカーなどが吸血の被害を受けている』。『これは人里近辺でシカなどが増加したと言われることと符合する』。ヒル学の専門家山中征夫氏も 『シカの生息域拡大との共通性を述べ、地域の古老の言葉として「シカの糞からヒルがわく」をあげて、シカがヒルの運搬にも荷担しているとする。実態は、シカやカモシカの蹄にヒルが寄生するためと考えられている』。農学者梅谷献二氏は『この他に、生息地域へ入る観光客の増加が原因の一つではないかと述べている』。梅谷氏によると、『ほ乳類の個体が高い頻度で吸血されると抗体ができ、抗体を持つ血液を吸ったヒルは死滅して、ヒルの個体数を抑制する作用があると考えられている。一方、ヒルと接触する機会を持たなかった観光客が多く来ることにより、ヒルは抗体に阻まれることなく増殖できたのだろうという。さらに、ヒルに付かれた人間が生息域外に移動したところでヒルが落ち、生息域の拡大につながった可能性も指摘している』。『一回の吸血量は、産卵をするような成体で』二~三ミリリットルであるが、ヒルジンの影響で『その後も出血するので失血量はそれよりやや多くなる』。『咬まれてもヒルの唾液には麻酔成分が含まれるため、痛みはそれほど感じない。咬まれた痕は丸い小さな傷口になり、血液凝固を阻害するヒルジンにより、しばらくは出血が止まらない。普通は』二時間程度は『少しずつ出血が続く。一旦止まっても、入浴などで再び出血することもある。その後も傷の治りは遅く、極端な例では二年に及ぶこともある』という。『皮膚に付いた場合はアルコールが効果的で、近づけただけでも落ちる。そのほか、火を近づけたり、塩や塩分濃度の高い液体、食酢のような酸性の液体をかけることも効果がある。食塩を入れた布を、ヒルの進行を防ぐような形で足首に巻くという予防法もある。吸血跡は化膿止めをした方がよいとされている。なお、ヤマビルによって媒介される寄生虫や病原体は知られていない』。『近年の人里での増加から、薬物などによる防除も行われているが、決め手は今のところない』。『また、場所によっては、ハイキングコースの入口にヤマビル退治用の塩の入った瓶が置いてある』ところもあるとする。ここでもまた、「塩」である。

 私の好きな泉鏡花の「高野聖」の、これまた、遺愛の第「八」章を総て引いておく(底本は所持する一九四〇年刊岩波版全集を用いた。底本は総ルビであるが、読みの振れそうなもののみとし、踊り字「〱」は正字化した)。

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「心細さは申すまでもなかつたが、卑怯な樣でも修業の積まぬ身には、恁(か)う云ふ暗い處の方が却つて觀念に便(たより)が宜(よ)い。何しろ體が凌ぎよくなつたゝめに足の弱(よわり)も忘れたので、道も大きに捗取(はかど)つて、先づこれで七分(ぶ)は森の中を越したらうと思ふ處で、五六尺天窓(あたま)の上(うへ)らしかつた樹(き)の枝から、ぼたりと笠の上へ落ち留(と)まつたものがある。

 鉛の錘(おもり)かとおもふ心持、何か木の實でゞもあるか知らんと、二三度振つて見みたが附着(くツつ)いて居て其まゝには取とれないから、何心なく手をやつて摑むと、滑らかに冷(ひや)りと來た。

 見ると海鼠(なまこ)を裂いたやうな目も口もない者ぢやが、動物には違ひない。不氣味で投出さうとするとずるずると辷(すべ)つて指の尖(さき)へ吸ひついてぶらりと下さがつた、其の放れた指の尖から眞赤な美しい血が垂々(たらたら)と出(で)たから、吃驚(びツくり)して目の下へ指をつけてぢつと見ると、今(いま)折曲(をりま)げた肱(ひぢ)の處へつるりと垂懸(たれかゝ)つて居るのは同(おなじ)形(かたち)をした、巾が五分、丈(たけ)が三寸(ずん)ばかりの山海鼠(やまなまこ)。

 呆氣(あつけ)に取とられて見る見る内に、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太つて行くのは生血(いきち)をしたたかに吸込む所爲(せゐ)で、濁つた黑い滑らかな肌に茶褐色の縞をもつた、痣胡瓜(いぼきうり)のやうな血を取る動物、此奴(こいつ)は蛭ぢやよ。

 誰(た)が目にも見違へるわけのものではないが、圖拔(づぬけ)て餘り大きいから一寸は氣がつかぬであつた、何の畠でも、甚麼(どんな)履歷のある沼でも、此位(このくらゐ)な蛭はあらうとは思はれぬ。

 肱をばさりと振(ふる)つたけれども、よく喰込こんだと見えてなかなか放れさうにしないから不氣味ながら手で抓(つま)んで引切(ひつき)ると、ぶつりといつてやうやう取れる、暫時(しばらく)も耐(たま)つたものではない、突然(いきなり)取つて大地へ叩きつけると、これほどの奴等(やつら)が何萬となく巢をくつて我ものにして居ようといふ處、豫(かね)て其の用意はして居ると思はれるばかり、日のあたらぬ森の中の土は柔(やはらか)い、潰れさうにもないのぢや。

 と最早や頸(えり)のあたりがむずむずして來た、平手(ひらて)で扱(こい)て見ると橫撫(よこなで)に蛭の背(せな)をぬるぬるとすべるといふ、やあ、乳(ちゝ)の下へ潛んで帶の間にも一疋、蒼くなつてそツと見ると肩の上にも一筋。

 思はず飛上つて總身(そうしん)を震ひながら此(この)大枝の下を一散にかけぬけて、走りながら先づ心覺えの奴だけは夢中でもぎ取つた。

 何(なん)にしても恐しい今の枝には蛭が生(な)つて居るのであらうと餘(あまり)の事に思つて振返ると、見返つた樹の何の枝か知らず矢張(やつぱり)幾ツといふこともない蛭の皮ぢや。

 これはと思ふ、右も、左も前の枝も、何の事はないまるで充満(いつぱい)。

 私(わし)は思はず恐怖の聲を立たてて叫んだ、すると何と? 此時は目に見えて、上からぼたりぼたりと眞黑な瘦せた筋の入つた雨が體へ降りかゝつて來たではないか。

 草鞋(わらぢ)を穿いた足の甲へも落た上へ又累(かさな)り、竝(なら)んだ傍(わき)へ又附着(くツつ)いて爪先(つまさき)も分らなくなつた、然(さ)うして活(い)きてると思ふだけ脈(みやく)を打つて血を吸ふやうな、思ひなしか一ツ一ツ伸縮(のびちゞみ)をするやうなのを見るから氣が遠くなつて、其時不思議な考へが起きた。

 此の恐しい山蛭(やまびる)は神代(かみよ)の古(いにしへ)から此處(こゝ)に屯(たむろ)をして居て、人の來るのを待ちつけて、永い久しい間に何(ど)の位(くらゐ)何斛(なんごく)かの血を吸ふと、其處(そこ)でこの蟲の(のぞみ)が叶ふ、其の時はありつたけの蛭が不殘(のこらず)吸つただけの人間の血を吐出(はきだ)すと、其(それ)がために土がとけて山一ツ一面に血と泥との大沼(おほぬま)にかはるであらう、其と同時に此處に日の光を遮ぎつて晝もなほ暗い大木(たいぼく)が切々(きれぎれ)に一ツ一ツ蛭になつて了(しま)ふのに相違(さうゐ)ないと、いや、全くの事で。」

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・「折傷」東洋文庫版現代語訳にはこの熟語に『うちみ』とルビする。

・「二錢」明代の重量の一銭は三・七三グラムであるから、七・四六グラム。

・「食頃(しばら)くして」音「シヨクケイ(ショッケイ)」 で、これは、「食事をするほどの」僅かな時間の意。

・「赤白丹腫・癰」漢方サイトの検索から「・」を挿入した。東洋文庫版現代語訳は五字で一語と採り、『できものの一種』と割注する。これはしかし、さらに言うなら、これは所謂、、溶連菌による皮膚の化膿性炎症である「丹毒」の病態の一種である、「白丹腫」と「赤丹腫」(恐らくは腫れ物が呈している色に拠る)及び「癰(よう)」(腫れ物の中でも中に膿を持っていて出口の閉塞した悪性のもの)という見た目上の異なる三種の腫れ物を指す語と私は読む。

・「竹の筒を以て、蛭を盛り、之えれに合はせて(す)はしめば、病處〔(びやうしよ)〕、血、滿れば、自〔(おのづか)〕ら脱す」化膿した腐敗物をヒルに吸引させる手法で、前胃に見たようにヒルによる別な二次感染症は確認されていないから、効果的な手法と言える。蠍の条に出た木の椀による吸引なんぞよりも遙かに実質的に期待出来ると言える。

・「肉〔の〕中に入りて産育して害を爲す」「産育」とは人体内で卵を産み、成長するの謂いであり、しかも人体に有害であるというのである。まず浮かぶのは、既に出した、幼生がヒトの鼻の穴に入り込んで寄生することで知られ、日本国内にも分布するところの顎ヒル目ヒルド科 Dinobdella属ハナビル Dinobdella ferox ではあるが、彼らは幼体時の寄生であって、人体内で子を産んだりはしないウィキの「ハナビル」によれば、『大型のヒル類で成体は水生昆虫などを食べる肉食性であるが、幼生時に大型ほ乳類の鼻腔に侵入し、そこで寄生生活をしつつ成長するという派手な習性を持っている。しかもその状態で』数センチメートルに『なるまで成長し、伸びると鼻孔からその先端がはみ出すこともある。さらに、時に人間を宿主とする場合があるのでやっかいである。名前は鼻蛭の意である。九州南部では「鼻かす」という地方名がある』という。『東南アジアに多いが、日本でも南部に記録があり、人間の感染例も知られる』。成虫は二〇センチメートルに『達することもある大型のヒル類。全身が黒色で円筒形をしており、両端には吸盤がある。体は細かい環節に分かれる。顎板には細かい歯がなく、体後部に耳状突起がない。また、眼は背面の前端部分に五対あり、アーチ状に配置する』。『成体は渓流域の水中におり、石の下などに潜んで水生昆虫の幼虫やイトミミズ類などを捕食している』。初期の幼虫は五~一〇ミリメートルで、『ごく細くて体色が乳白色をしており、吸盤がよく発達している。これが水中で待機しており、そこに野生動物がやってきて水を飲んだり、水中に入った際に鼻腔に潜り込む。そこで』十センチメートル程度に『なるまで成長し、その後に動物体を離れて、それ以降は自由生活を送る。寄生中は宿主を変えることがなく、その期間は一ヶ月に及ぶ。 実験的にニワトリに寄生させた例では』、十二日で体長二センチメートルに『なって色が黒に変わった。また兎に感染させた実験では幼虫の脱出には一ヶ月を要し、その際の体長は平均』四・五センチメートルであったという。『一般に山間部の清冽な渓流に生息するものである。東南アジアでは高地に多く見られる。また、その地域の大型ほ乳類で幼生の寄生が見られ、時に一頭の宿主に複数個体が寄生しているのが希ではないという』。『アジアの熱帯域を中心に広く分布する。日本では奄美大島、九州南部、それに本州の一部で知られている』。『日本本土での分布について』は、一九九四年の段階では『鹿児島・奈良・岐阜があげられており、この他に宮崎で被害報告がある旨が述べられているが』、それ以前の一九八八年の報告では、『宮崎県で生息してるとする他』、『九州北部での生息の可能性を示唆しているが、奈良での生息については触れていない』。一部の噂では奈良県と三重県の県境にある『大台ヶ原にいる、との話がネット上などで確認できるが、これは怪しい』とする。『成体は見かければ喜ぶ人は少ないだろうが、不快害虫の範疇にとどまり、実害はない』。『しかし幼生は明瞭な寄生虫である。ヒルが体内に侵入して被害を与えることを内部蛭症というが、本種はこれを引き起こす日本における唯一の種である』。『上記のようにこのヒルはあまり人里には出ないものであり、山間渓流域で野生動物を宿主とするものである。したがって、そういう場所に入って渓流で顔を洗ったり、水を飲んだ際に幼生の寄生を受ける。幼生は上記のように細くて白っぽいため、見つけるのは困難である。寄生する部位は多くの場合に下・中鼻道である』。『感染初期には自覚症状はほとんどない。しかし虫体が成長し、大きくなるにつれ、その運動を異物感や痒痛感として感じるようになり、また蛭が吸血部位を変える度にそこからの出血が見られるようになる。ヒル類は吸血のための傷口から血液凝固阻止剤を注入するので、出血は止まりにくく、極端な例ではそのために貧血が起きる』。『福岡での症例を扱ったもの』によれば、『その患者は出血の他に鼻汁の異常分泌に悩まされたという。しかしこれら以外に身体症状を引き起こすことはほとんどなく、この患者の場合も鼻腔内に潰瘍等はなく、耳内、口腔内も問題なかった。血液検査等に於いてもほとんど異常を認められていない。しかし、鼻腔内に奇妙な「虫」が住み着いていることは大きな不安感を引き起こす。上記のよう症状の他に、ハナビルの幼生が成長してくると、体を伸ばした際には外から見えるようになり、この患者も手鏡でこれを見てこれを取り去ることを画策、最後に洗面器に水を張って顔をつけ、虫体が伸びたところをぬれタオルで確保、引きずり出したと言うが、その際に虫が鼻腔内壁に吸い付いてなかなか外れず、「鼻がもぎ取られるように』」痛んだとある。『なお、鼻腔であれば幼生が成長すると脱落して、それで終わりであるが、それ以外の部位に寄生した例もある。水と共に入り込んだ虫が気管に達し、声帯や気管に吸着して呼吸困難になった例や、たまたま眼にこすり込んだために結膜に寄生された例、外耳道に入り込んで化膿を起こした例、尿道に入り込んで血尿を起こした例なども知られている』。『治療としては、要するに虫を取り出せばいいのであるが、虫の麻酔と吸着部位の麻酔薬を効かせつつ、取り出すような方法がとられる』とある。『上記のようにその生息地が人里離れた場所を主体としているから、寄生される事象はそれほど頻繁に起こるものではない。かといって到達困難な地域と言うほどでもないため、該当地域ではそれほど珍しいものでもないらしい』。一九八八年のデータでは、『日本国内での論文のような形での』症例報告は十例程度あるという。『しかし宮崎地方での開業医はたいていこれを見ていると言われ、宮崎県の該当地域で小中学生を対象にした調査では』六百二十九人中十四人が『これに寄生された経験があると答えたとのこと。国外では東南アジアに派遣されたアメリカ合衆国の兵隊がこれの寄生を受けた例も知られる』。研究者は『分布地の拡大の懸念を示唆しており、また温泉ブームなどに関連して山間自然に踏み込む人が増えてきたことからも注意を喚起する必要があると述べている』とある。そうなるとどうも私は「産育」という語に引っ掛かるのである。人体内に深く侵入し、そこに寄生し、しかも子を産んで人体内で繁殖し、人体に明らかな害を及ぼす「蛭」のような生き物……あれか! 後の「「腹に入りて子を生みて害を爲す。臟〔(はらわた)〕・血を噉〔(くら)ひ〕て、腸、痛み、黃(きば)み瘠(やす)る者あり」で再考する。

・「鼻涕(じる)」鼻汁。私が観察した丹沢での幼体は細く白く柔らかく、この比喩が腑に落ちる。

・「人の氣(かざ)」人の気配。

・「閃閃(ひかひか)として動き」発光物質を持っているとは思われないが、やはり私の観察したものは如何にも抜けるように白く、しかも草葉の枝先で、通行する動物を待ち構えるために常に、尺取虫か手招きのような運動をする。それは天女の羽衣のように陽の光を反射して、ぴかっと光るようには私には見えた。されば、この表現も私には全く奇異に思われないのである。

・「麝香」哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ(麝香鹿)属 Moschus の仲間の、成獣のが持つ、を誘うための性フェロモンを分泌する麝香腺(陰部と臍の間にある)を抜き取って乾燥させた生薬。専ら、媚薬として珍重される。

・「硃砂〔(しゆさ)〕」鉱物の一種である「辰砂(しんしゃ)」。硫化水銀()(HgS)からなる鉱物で別名を「賢者の石」「赤色硫化水銀」「丹砂」「朱砂」、英名を cinnabar と呼び、本邦では古来、「丹(に)」と呼ばれた物質。毒性があるものの、生薬としては非常に古くから用いられている。

・「石蛭〔(いしびる)〕」「頭、尖り、腰、粗く、色、赤し。誤りて之れを食へば、人をして眼中に烟を生ずるがごとくならしめ、漸く、枯損〔(こそん)〕を致す」化生説のようなとんでもない記載になっているいるが、この和名を持つヒルは実在する。環形動物門ヒル綱咽蛭(インビル)目イシビル(石蛭)科Erpobdellidaeの総称である。この類は肉食性に最もよく適応した消化器官を保持し、咽頭が長く、三条の筋肉性の襞を有し、顎はなく、稀に一~三本の牙を有する。シマイシビル属ナミイシビルErpobdella octoculata は、湖や河川に棲息し、アジア・ヨーロッパに広く分布、昆虫の幼生・貝類・ミミズなどを食べる。シマイシビル属シマイシビルErpobdella lineataは、背面が茶褐色から暗緑色まであり、中央に色がやや淡い縦縞があり、池や河川に棲息し、水底やその他の物の上に茶褐色の扁平な楕円形の卵嚢を産む。Odontobdella属キバビルOdontobdella blanchardiは体長二〇センチメートルにもなり、三本の牙を有し、池や沼に棲むが湿地にも這い出してくる。マネビル属マネビルMimobdella japonicaは体長十センチメートルほどで、日本に広く分布し、池や沼に棲むが、やはり湿地にも這い出してきて、顎や牙を持たないにもかかわらず、ミミズなどを捕えて捕食する(小学館「日本大百科全書」の今島実氏の解説に拠った)。衛生不快生物ではあるが、吸血はしないし、ここに記されたような誤飲誤食に伴う、眼脂疾患や全身性衰弱(「枯損」)を引き起こす毒性も現認出来ない。なお、「蛭石」という鉱物もあるので参考までに附しておくと、蛭石(ひるいし:正式和名は「苦土蛭石(くどひるいし)」。英語名「vermiculite」で、但し、これはラテン語の「蚯蚓」を始めとした「蠕虫」を意味する「vermiculare」がもとであるから「蛭」は相応しいとは言えない)は農業や園芸に盛んに使われる土壌改良用の土や建設資材とされるヴァーミキュライトに使用されている。

・「泥蛭〔(どろびる)〕」現在の中文サイトや、腰が粗い模様を成しているというのは、先の「水蛭」の中でも吸血性の(だから体色を「赤」とするか。実際にはチスイビルは赤くはない)ヒルド科チスイビル属チスイビル Hirudo nipponica 或いはその仲間の吸血性のヒル類と一応、しておく。

・「水菜」この場合は、水辺や水中に植生する食用の蔬菜・野草全般の謂い。

・「腹に入りて子を生みて害を爲す。臟〔(はらわた)〕・血を噉〔(くら)ひ〕て、腸、痛み、黃(きば)み瘠(やす)る者あり」さても「黃み瘠る者あり」である。これは明らかに肝臓障害による黄疸の症状などを示している。しかもその「蛭」のような形をした生物は「腹に入りて子を生みて害を爲す」ものであり、「腸」(はらわた)がねじ切れんばかりに「痛み」、それに冒されて亡くなった者の内臓は変質しており、まるでその「蛭」に「噉〔(くら)」われた如くに夥しい出「血」や炎症を起こしている――これは実は「蛭」のようで「蛭」でない、かの、

扁形動物門吸虫綱二生亜綱棘口吸虫目棘口吸虫亜目棘口吸虫上科蛭状吸虫(カンテツ)科蛭状吸虫亜科カンテツ属カンテツ(肝蛭/日本産肝蛭)Fasciola sp.

を指しているのではあるまいか? カンテツの成虫の体長は二~三センチメートルで幅一センチメートル。本邦でも中間宿主はヒメモノアラガイ(腹足綱直腹足亜綱異鰓上目有肺目基眼亜目モノアラガイ上科モノアラガイ科 Austropeplea 属ヒメモノアラガイ Austropeplea ollula。但し、北海道ではモノアラガイ科 Lymnaea 属コシダカヒメモノアラガイ Lymnaea truncatula)で、終宿主はヒツジ・ヤギ・ウシ・ウマ・ブタ・ヒトなどの哺乳類である。ヒトへの感染はミョウガ・クレソン又は牛レバーの生食による。参照したウィキの「肝蛭によれば、『終宿主より排出された虫卵は水中でミラシジウム』(miracidium:ギリシア語の「幼若なもの」に由来)『に発育し、中間宿主の頭部、足部、外套膜などから侵入し、スポロシスト』(sporocyst:「スポロキスト」とも呼ぶ。「胞子・芽胞」(spore)を持つ「嚢子」(cyst)の意)『となる。スポロシストは中腸腺においてレジア』(redia)及びセルカリア(cercaria)へと『発育する。セルカリアは中間宿主の呼吸孔から遊出し、水草などに付着して被嚢する。これをメタセルカリア』(metacercaria)『と呼ぶ。メタセルカリアは終宿主に経口的に摂取され、空腸において脱嚢して腸粘膜に侵入して腹腔に至る。腹腔に出た幼若虫は肝臓実質内を迷走しながら発育し、総胆管に移行する。感染後』七十日前後で『総胆管において産卵を行う。肝蛭の幼若虫は移行迷入性が強く、子宮、気管支などに移行する場合がある』。本種に感染することで発症する肝蛭症は感染初期では発熱・右上腹部痛・圧痛を伴う肝腫大・発咳・好酸球増多・肝機能異常が見られ、慢性期になると不規則な発熱・貧血・好酸球増多・腹痛・消化不良・下痢が出現し、黄疸や著しい体重減少などがみられる(ここはウィキの「肝蛭症」に拠る)。

・「數升」明代の一升は一・七リットルであるから、十リットルぐらいは飲まねばなるまい。

・「土氣を得て、下〔(くだ)さ〕るのみ」この「土氣」とは「泥」土や「黃土」だから「土氣」なのではなく、当然、五行の「土」である。相剋説によって「土」気によって制せられるのは「水」気であるから、蛭は「水」気に属するということなのである。湿気なしには生きて行けない蛭は確かに「水気」の生物ではあるとは言える。

・「蛭は水中の濕生なり」良安先生、そういうことを安易に言っていいのかな? 「本草綱目」は「卵生類」に載ってますけど?

・「海帶(あらめ)」不等毛植物門褐藻綱コンブ目 Lessoniaceae科アラメ属アラメ Eisenia bicyclis。詳しくは私の「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「海帶」を参照されたい。にしても……良安先生……ここで次の昆布と合わせて、何でまた? 海産藻類なのかしらん? よう、わからへん?!

・「昆布」コンブ目コンブ科 Laminariaceae のコンブ類(コンブ科は十三属ある)。詳しくは私の「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「昆布」を参照されたい。不服は同前。

・「久しく雨水に漫(ほと)びる時は、則ち、共に能く化して蛭と成る」良安先生! またまた! これじゃ、馬の毛が蛭になったり、長芋が鰻になったりする、化生みたようなもんでんがな! あきまへん!

・「性、石灰・食鹽を忌む。試みに鹽を蛭に點ずれば、蛭、則ち、盤〔(からだ)〕、縮して死す」既に引用で見た通り、一部でヤマビル予防に塩が登山口に用意されてあるとあった。しかし彼らの体は蛞蝓のようにはいかへんと思うがなぁ。「盤〔(からだ)〕」は東洋文庫版現代語訳のルビを援用させて戴いた。彼らの体型を考えるとこの「盤」は実に実に如何にもしっくりくると言える。]

2016/05/04

【重要】サイト(HP)アドレス変更のお知らせ

先延ばしにしていたサイト(ホームページ)移行を本日、実行した。トップ・ページやテクスト総目次のある「心朽窩新館」・「心朽旧館」の「小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」「俳句篇」などはリンクのURLの変更を行ったが、総てのページを一度に修正することはとても出来ない。万一、リンクをクリックして「ページ移転のお知らせ」が出た場合には、戻ってリンク部分で右クリックしてアドレスをコピーして戴き、その頭の

http://homepage2.nifty.com/onibi

の部分を

http://yab.o.oo7.jp

に変えて戴けると、表示出来るはずである。暫くは不便をお掛けするかも知れないが、悪しからず。サイト・トップ(HP)はこちらブック・マークの変更もお願い申し上げる。

ブログの旧記事の修正まではとても手が回らない。上記の方法でお願い申し上げる。

この移行に伴い、ブログの左コンテンツの一部のテクストの古いサイト・リンクも同様に表示される。おいおい修正するつもりであるが、面倒でも暫くは、同様の仕儀でお願いする。

しかし、これで一気に容量が2GBに増えたのはちょっと気持に余裕が出来て、嬉しい。
          心朽窩主人敬白        

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 全蠍

Sasori

せんかつ    蛜
 杜白

全蠍     主簿蟲

        蠆尾蟲

ツヱン ヒヱツ  【佐曽利】

[やぶちゃん字注:「」=「虫」+「祁」。]

 

本綱其形如水黽八足而長尾有節色青螫人有毒雄者

若螫人痛止在一處用井泥傅之雌者痛牽諸處用瓦溝

下泥傅之皆可也蠍子多負於背子色白纔如稻粒

又云被蠍螫者以木椀合之神効

蠍青州山中石下有之江南舊無蠍唐開元初以來往往

有之産東方色青足厥陰經藥小兒驚風尤不可闕今多

以鹽泥貯之入藥有全用者謂之全蠍有用尾者謂之蠍

稍去足焙用

按倭無蠍此蟲雖有治驚癇之功而常螫人之害甚大

 焉然則無亦可也 本朝得中和之氣故諸毒藥亦不

 猛烈也

五雜組云相傳爲蠍螫者忍痛問人曰吾爲蠍螫奈何答

曰尋癒矣便則豁然若叫號則愈痛一晝夜始止蠍雙尾

者殺人

[やぶちゃん字注:一部の「蠍」の字は「歇」の下に「虫」であるが、字義上の差異はないと判断して「蠍」で統一した。]

 

 

ぜんかつ    蛜〔(いき)〕 杜白〔(とはく)〕

全蠍     主簿蟲〔(しゆんぼちゆう)〕

        蠆尾蟲〔(たいびちゆう)〕

ツヱン ヒヱツ  【佐曽利。】

[やぶちゃん字注:「」=「虫」+「祁」。]

 

「本綱」、其の形、水黽〔(あめんぼ)〕のごとく、八足にて長き尾、節、有り。色、青し。人を螫す。毒、有り。雄なる者、若〔(も)〕し人を螫せば、痛み、止〔(た)〕だ一處に在り。井の泥を用ひて之れを傅〔(つ)〕く。雌なる者、痛み、諸處に牽く。瓦溝の下の泥を用ひて之れに傅けて、皆、可なり。蠍の子、多く背に負ふ。子の色、白くして纔かに稻粒(いなつぶ)のごとし。

又、云ふ、蠍に螫され〔た〕る者、木〔の〕椀を以て之れに合はす。神効〔あり〕。

蠍は青州の山中、石の下に之れ有り。江南は舊(もと)、蠍、無し。唐の開元の初めより以來、往往〔にして〕之れ有り。東方に産〔するは〕、色、青く、足の厥陰經〔(けついんけい)〕の藥、小兒の驚風〔(きやうふう)に〕尤も闕〔(か)〕くべからず。今、多く鹽泥を以て之れを貯ふ。藥に入るるに、全く〔なるを〕用ふる者、有り。之れを「全蠍〔(ぜんかつ)〕」と謂ふ。尾を用ふること有り。之「蠍稍〔(かつしやう)〕」と謂ふ。足を去りて焙〔(あぶ)〕り用ふ。

按ずるに、倭に、蠍、無し。此の蟲、驚癇〔(きやうかん)〕を治するの功有りと雖も、常に人を螫すの害、甚だ大なり。然〔(さ)す〕る時ば、則ち、無きも亦、可なり。 本朝は中和の氣を得る故、諸毒藥〔も〕亦、猛烈ならざるなり。

「五雜組」に云ふ、『相ひ傳ふ、蠍の爲〔(ため)〕、螫(さ)ゝるゝ者、痛みを忍(こら)へて人に問ひて曰く、「吾、蠍の爲めに螫れたり。奈何〔(いかん)〕せん。」。答へて曰く、「尋(つい)で癒(い)へん。」と。便〔(すなは)〕ち則〔ち〕、豁然〔(くわつぜん)〕たり。若〔(も)〕し、叫(わめ)き號(さけ)ぶ時は、則ち愈(いよいよ)、痛む。一晝夜にして始めて止む。』〔と〕。『蠍、雙尾〔(さうび)〕なる者、人を殺す。』〔と〕。

 

[やぶちゃん注:これは、

節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱サソリ目 Scorpiones

に属するサソリ類を指す(サソリ目は Pseudochactoidea 上科・キョクトウサソリ上科 ButhoideaChaeriloidea 上科・Chactoidea 上科・Iuroidea 上科・コガネサソリ上科Scorpionoidea の六上科に分かれる)。

 但し、良安は日本に蠍はいないと言っているが、厳密にはこれは誤りであって、以下に見る通り、当時の日本にも

キョクトウサソリ上科キョクトウサソリ科Isometrus 属マダラサソリ Isometrus maculatus

が小笠原諸島に分布している。本「和漢三才図会」は正徳二(一七一二)年頃の完成であるが、小笠原諸島は文禄二(一五九三)年に深志城主(現在の長野県松本市)小笠原長時の孫小笠原貞頼が徳川家康の許しを得て出航、 八丈島の南東洋上で無人島を発見、島の品々を持ち返ってこの功績によって家康から「小笠原島」の名を賜ったと伝えられ、また正確な記録としては、延宝二(一六七四)年には江戸幕府が漂流民の報告を元に、浦(まつら)党の島谷市左衛門らに命じ、当時、長崎で建造されていた唐型船の富国寿丸(ふこくじゅまる)を派遣、 翌年の五月一日に船長島谷始め三十二名が上陸、方位測定を行なった上、鉱石・動植物など数百種を採取して同年六月十二日に下田に帰航している。この際、「此島大日本之内也」という碑も設置し、以上の調査結果は将軍幕閣に披露された。この時以降、この現在の小笠原諸島は「無人島(ぶにんじま)」と呼ばれるようになり、即ち、良安の生きた時代には「無人島(小笠原諸島)」は既にして正当な「日本」であったのである。

 さらに附言すれば、現行の日本国内には沖縄県八重山諸島に

コガネサソリ上科コガネサソリ科 Liocheles 属ヤエヤマサソリ Liocheles australasiae

も棲息する。ウィキの「サソリ」によれば、ヤエヤマサソリは三センチメートル強の小型のサソリで、『東南アジア、オセアニア、オーストラリアなどに広く分布』する種で、『枯れ木の皮の下などに住み、シロアリなどを食べる。雄がほとんど存在せず、単為生殖で殖えるとされている。無毒とされる程毒性は弱い』とある。以下、前掲した、マダラサソリも掲げておくと、

マダラサソリ Isometrus maculatus

は六センチメートルほどの中型のサソリで、『人家の壁等に住み、毒はそれほど強くはなく、ミツバチ程度とされる。世界の熱帯地域に広く分布し、人為的に分布を広げたと思われる。日本では、沖縄の八重山諸島、宮古諸島、および小笠原諸島に分布し、時折、ホームセンターでの資材の中や、港の倉庫や、積み卸し荷の中で見つかり、パニックになる時もある』とある。

 以下、ウィキの「サソリ」からサソリの概論部を引く。『命にかかわる毒を持つものはごく一部である』。少なくとも四億三千万年以上前から『存在した事が確認されており、現存する陸上生活史を持つ節足動物としては世界最古にあたる(ただし初期のサソリは水生動物であり、陸上進出自体はヤスデに後れをとった)』。『頭胸部と腹部はくびれずにつながっている。腹部は前腹部と後腹部に分かれる、後腹部は長い尾部になれ、曲げられる。その先端の尾節は少し膨らんで、曲がった毒針になっている』。『鋏角は短い鋏状、触肢は長く発達した鋏になっている。歩脚は』四対で、長さは第一対から第四対まで『どんどん長くなる。第四脚の付け根には、櫛状板と呼ばれる、整髪用の櫛の形の器官が左右』一対『ついている。腹部の腹面には各節に』一対ずつ、四対の書肺を持つ。『現生のサソリは頭胸部前方側面に』二~五対の『単眼の列(側眼)を、また頭胸部中央には上向きに露出する接近した』一対の単眼をもつ。『サソリは一見すると、その形状から陸生甲殻類と思う人も多いが、甲殻類との類縁関係は遠く、鋏角亜門クモ形類に属するので、クモ類の仲間であり、符節や脚部の構造にも、そういったクモ類との共通点が見られる。また、触肢と呼ばれるハサミの可動爪がエビやカニでは上側なのに対し、サソリでは下側であるのも特徴である。

サソリの体の構造は、様々な点で古生代前期に繁栄したウミサソリ類』(鋏角亜門カブトガニ綱 Merostomata(但し、異説有り)の広翼(ウミサソリ)目 Eurypterida の類。無論、絶滅種群である)『に似ており、特に体節の数や、全体のシルエットが似ていることから、直接の類縁関係があると言われる。しかし、これには疑問を唱える向きもある』。『現在知られている中での最大のサソリは、アフリカに生息する』サソリ目コガネサソリ科 Pandinus 属ダイオウサソリ Pandinus imperator(英名:Emperor scorpion(エンペラー・スコーピオン))で最大二〇センチメートル以上にも達する世界最大のサソリで、黒色を呈し、強靭な鋏を持ち如何にも獰猛兇悪に見えるものの、実際には大人しく、毒性も低いので、最も一般的にペットとしても飼育販売されている。『歩く時は尾部を曲げて体の上の前方にのばす。餌を獲った時には、鋏で固定した餌に尾部の針を刺し、毒液を注入し、鋏角で小さくちぎって食べる』。『肉食で、昆虫などを餌にするが、時にはトカゲなどの小動物を襲う。それほど大食いではなく、絶食に耐えるものが多く、中には』一年『以上の絶食に耐えるものもある』。『主に夜行性で昼間は岩の下や土の中、何かの隙間に居る事が多い。元来活動はあまり活発ではなく、じっとして獲物が通るのを待っていたりする』。『サソリ類の配偶行動は、婚姻ダンスとして有名である。雌雄が互いの触肢、あるいは鋏角をつかみ合って、前後左右に動き、種によってはそれが数時間以上も続けられる。最終的に、雄は精包を地上に置き、そこへ雌を誘導し、雌はその精包を生殖口から取り入れることで、配偶行動は完了する』。『サソリ類は、卵胎生と胎生の種に分けられ、雌親はサソリの形の幼生を産む。生まれた幼生は雌親の体の上に登り、その背中でしばらくの時間を過ごすが、一週間か』十日ほどで『独立し、自立生活に入る』。既に示した通り、『ヤエヤマサソリは雌性産生単為生殖することが分かっているが、個体数は少ないものの雄も存在する。その他』十種ほどの『種で単為生殖が知られ』ている。『雌雄の見分け方は腹部にある櫛状板(ペクチン)が大きい方が雄であるといわれ』、『また、雌の方が体が全般的に大きく、太っているが、雄の方は雌を交尾の婚姻ダンスの際に、雌を押さえつけておくために、雌よりも鋏が大きいというのも見分け方の一つである』。『サソリの婚姻行動は相性の悪い相手であれば、お互いに刺しあってどちらか一方を殺してしまったり、雌が雄を一方的に食べてしまったりするような行動をとってしまうケースもある』。『ファーブルはその行動を観察して、サソリはカマキリやクモのように、交尾後に雌が雄を捕食してしまうと思ってしまったが、これは狭い飼育ケージ内での観察であり、野外においての交尾後の共食いは少ないのではないかといわれている』。『サソリ類は世界に多く分布しており、種数は』一千種を『超える。基本的には暖かいところに多く、熱帯地方が分布の中心ではあるが、かなり寒い地方まで分布している種もある。日本では、南西諸島に』二種が『分布するだけだが、アジア大陸では、北朝鮮、内モンゴルにまで分布がある。湿潤な気候に生息する種もあるが、砂漠に生息する種もあり、適応範囲は広い。ヨーロッパでは地中海周辺地域に生息する。人間の生活範囲に生息するものもあり、それらの生活圏内に住む住人は、かならず靴を履く前に、中にサソリが入っていないか調べると言われる。このような種は、稀に荷物に紛れて輸送されることがあり、日本でも港で発見され、大騒ぎになる事がある』。『サソリの尾の先には毒針があり、これを使って毒を注入することは一般的によく知られており、猛毒により刺されたら死ぬ場合もあるとして恐れられている。神話伝説にも猛毒を持つサソリの話はたびたび出てくる。ギリシア神話では、英雄オーリーオーンを殺してさそり座になったサソリの話が有名である。神話や逸話によりサソリの毒性は誇張された形で認知されている。実際には、ほとんどのサソリの種は大型哺乳類を殺せるほどの猛毒は持っていない。その理由はサソリは昆虫など小動物を捕食する際に毒を使う事がほとんどであり、大型動物にそれを使うのは防御反応で、大型哺乳類の殺傷性を目的とした毒素ではない。人間に対して致命的な毒を持つものも存在するが、その数は』約一千種類中、僅か二十五種と『少ない』。『日本産の種の毒性は低い。日本以外の地域に生息する種でも人命に関わるような毒性を持つものは少ない。しかし、真に危険なものも実際に存在し、サソリによる死者は世界で年間』一千人以上とも『言われる。また、人家周辺に生息する種もあり、地域によっては被害を受けやすく、南方地域では、靴を履く時に、靴を裏返してサソリがいないかどうか確かめる地域があるとされる』。『毒性の弱い種であっても、刺された結果スズメバチの場合と同様』、『アナフィラキシーショックのような症状に陥ること』があるから刺された場合には注意が必要である。『人命に関わる猛毒をもつ種類は』、

キョクトウサソリ上科キョクトウサソリ科Androctonus 属イエロー・ファットテール・スコーピオン Androctonus australis(英名 yellow Fattail scorpion:『北アフリカに分布する尾の太い中型のサソリ。強い毒を持ち、死亡例もある。近似種のAndroctonus bicolorや、キョクトウサソリ上科キョクトウサソリ科Buthus occitanusと共に危険な種である。ペットとしての人気は高かったが、他のキョクトウサソリ達と同様に、現在は法律により研究施設等以外での飼育は禁止されている』)

や、

キョクトウサソリ上科キョクトウサソリ科 Centruroides 属ストライプ・バーク・スコーピオン Centruroides vittatus(英名 striped bark scorpion:学名からセントルロイデス・スコーピオンとも呼ばれる四センチメートルほどの小型種で、弱々しくみえるものの、『強力な毒をもつ。フロリダにも近似種のCentruroides gracilisが分布し、いずれも毒性が強い危険な種である』)

で、中でも最強の毒を持つのとされるのは中近東に棲息する、

キョクトウサソリ上科キョクトウサソリ科オブトサソリ Leiurus quinquestriatus 及びその近縁種(英名 Deathstalker(デスストーカー。「忍び寄る死神」ほどの謂いか):尾接の第五間接部が黒いのが特徴で、『サソリのなかで最強の毒をもつといわれる。非常に攻撃的で素早い危険なサソリ』)

『といわれている。それら強力な毒を持つサソリの多くは、キョクトウサソリ科で占められており、現在これらキョクトウサソリ科のグループは、日本への輸入が原則禁止となっている』。『漢方の生薬学においては、有名なものではトリカブト(附子)などのように、毒性を持つものが独特の効力を発揮するものとして、しばしば生薬に利用されるが、毒性を持つサソリも卒中や神経麻痺・痙攣に効果があるとされる。生薬名を「全蝎」というが、これは生きたままのサソリを食塩水で丸ごと煮てから、全体を乾燥させたものを、生薬として使用されることからこう呼ばれている』。『昆虫などをエサにするサソリだが、実はサソリ自体にも多くの天敵が存在し、それらの捕食動物相手には、毒針と鋏を振るって応戦するが、相手によっては毒に免疫を持っている場合もあり、自分より大きな動物相手には一方的に捕食されてしまうケースが多い』。サソリの天敵はイタチやジャコウネコ科(食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科 Viverridaeなどの肉食性哺乳類及び鳥類・爬虫類、『他に同じサソリや、肉食性の昆虫類にオオツチグモ類』(鋏角亜門蛛形(クモ)綱クモ目オオツチグモ科 Theraphosidae)『やムカデ類などにも捕食される』。『毒を持つサソリ類を好んで食べるクジャクは古代から益鳥として尊ばれ、仏教では孔雀明王として信仰対象にも取り入れられた』。『サソリは見た目がザリガニのように見えるので、堅い皮膚を持っていそうだと思われがちだが、クモ類よりは堅いとはいえ、甲虫や甲殻類に比べればそれほど堅くないために、他の多くの肉食動物の格好のエサにされてしまうようである』。『サソリが隠密性の強い生き物であるのも、こういった多くの天敵から逃れる手段ではないかと考えられ』ている。なお、『サソリに暗闇でブラックライトを当てると、どの種も緑色に光る。表皮にあるヒアリン層が蛍光を発するとされるが、これには少なくともβ-カルボリンが関わって』おり、『産まれたてのサソリにはヒアリン層がないが、脱皮を重ねて成長する毎に増え、発光現象が強くなる』。『液浸標本にしても、周囲にヒアリン層が溶け出して、光る』とされ、『脱皮した後の脱皮殻も光る』。この蛍光現象は『サソリの他のクモ類、さらに昆虫類と一部のヤスデ』でも見られるという。絶滅種群である『ウミサソリ類は形態的に共通点が多く、一部の種は陸に上がったと思われることもあって、これがサソリ類の直接の先祖であるとの考えがある。これには異論があるものの、サソリがクモ綱の中で最初期に分化した生物であるという事については長く信じられている。化石は古生代シルル紀まで遡る。中生代までのものは水中生活のものがあったと考えられる。 この類に見られる卵胎生や胎生は陸上生活への適応と見られる』とある。なお、本項目名を「全蠍」とするのはおかしい。これは本文でも述べている通り、一匹まるまるを生薬とした際の「生薬名」だからである。ここは「蠍」だけが正しい。

 

・「蛜〔(いき)〕」読みは東洋文庫版現代語訳を参照した。

・「主簿蟲〔(しゆんぼちゆう)〕」「本草綱目」には、

   *

時珍曰、按「唐史」云、劍南本無蠍、有主簿將至、遂呼爲主簿蟲。又、張揖「廣雅」云、杜伯、蠍也。陸璣「詩疏」云、蠆一名杜伯、幽州人謂之蠍。觀此、則主簿乃杜伯之訛、而後人遂附會爲蠆。

   *

とある。これは本文にも出るが、「唐史」によると、剣南(これは現在の四川省北部の剣門山脈以南の地で、本文の「江南」は長江南岸地域であるから、ずっと西にずれる)にはもともと蠍は棲息しなかったが、とある主簿(中央及び郡県の属官で帳簿を管理し、庶務を統轄した官職)が生きた蠍をその地にもたらして繁殖させた(させてしまった)ことによる呼び名とするのであるが、時珍はそれに対して、これは蠍の別名である「杜伯」(本文の「杜白」)という名が訛って「主簿」と誤って漢字が当てられたに過ぎぬ牽強付会だと一蹴しているのである。

・「蠆」の字は本書で今までも刺す虫に盛んに用いられてきているが、元はサソリの形状を指す象形文字的な形声字である。

・「水黽〔(あめんぼ)〕」音なら「すいばう(すいぼう)」。東洋文庫版現代語訳は「黽」に『かえる』とルビするが(単漢字では確かに蛙を指す)、採らない。現代中国語でも半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目アメンボ下目アメンボ上科アメンボ科 Gerridae をかく表記し、実際にサソリはカエルよりもアメンボに似ているからである。

・「佐曽利」和名の「さそり」は、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 1 蟲類」の「サソリ」によれば、膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目アナバチ科ジガバチ(似我蜂)亜科ジガバチ族 Ammophilini に属する『ジガバチの古名』とあり、『人を刺す習性から流用されたものか』と推定されておられる。ジガバチ類は積極的に人を刺すこと(人に対する攻撃習性)はないが、ネットを検索すると刺された記載がある。

・「井の泥」井戸の底に溜まる泥。

・「傅〔(つ)〕く」塗りつける。

・「諸處に牽く」刺された部位から広く全身に広がる、という謂いであろう。

・「瓦溝の下の泥」屋根瓦の端の雨樋のような箇所に溜まった泥の謂いであろう。「本草綱目」には『瓦屋溝下泥』とある。

・「蠍の子、多く背に負ふ。子の色、白くして纔かに稻粒(いなつぶ)のごとし」子を背負って保育することはウィキにも載っていたが、私はとある海外の自然ドキュメンタリーでサソリの保育を親しく見たことがあるのであるが、その小さな子の量は半端なく多く、しかもサソリは極度の近眼であるため、母サソリから降りて、眼前をうろついている子が当の母に餌として捕食されてしまう場面をつぶさに観察した。何か、哀しい気がした。

・「木〔の〕椀を以て之れに合はす」木製のお椀をそこにぴったりとくっつける。これは毒の吸引具ということであれば腑に落ちる。

・「青州」現在の山東省・遼寧省の旧広域地方名。

・「唐の開元の初め」開元元年はユリウス暦七一三年。開元は二十九年まで。この頃は玄宗の治世の前半で「開元の治」と呼ばれる善政が敷かれ、唐の絶頂期と評価される時期である。

・「厥陰經〔(けついんけい)〕」古代中国の医学に於ける十二経絡(人体の中の気血栄衛(気や血や水などといった生きるために必要なもの。現代の代謝物質に相当)の「通り道」として考えられた導管。「経」脈は縦の脈、「絡」脈は横の脈の意)の一つ。この場合は足を流れるとする厥陰肝経(肝臓と胆嚢及び目の周囲を掌る)の不全を指すから、「厥陰病」と考えてよいか。ウィキの「厥陰病によれば、後漢末から三国時代にかけて張仲景が編纂した知られた医学書「傷寒論」によれば、『「厥陰の病たる、気上がって心を撞き、心中疼熱し、飢えて食を欲せず、食すれば則ち吐しこれを下せば利止まず」といわれ上気して顔色は一見赤みがかっているが、下半身は冷え、咽が渇き、胸が熱く、疼み、空腹だが飲食できない。多くはやがて死に至る』とある重病である。

・「小兒の驚風」小児が「ひきつけ」を起こす病気の称。現在の癲癇(てんかん)症や髄膜炎の類に相当する。後の「驚癇」も同じい。

・「闕〔(か)〕く」欠く。

・「鹽泥」強い塩分を持った泥のことであろう。塩湖の湖底や海浜の泥か。

・「蠍稍〔(かつしやう)〕」「稍」は僅か・少しの意。

・「足を去りて」脚部を総て取り去って。

・「然〔(さ)す〕る時ば」さすれば。

・「中和の氣」陰陽(或いは天地)の気が程よく調和がとれている、中庸の気風に満ちている、というのである。良安の精神上の日本観が窺えるところである。

・「五雜組」明の謝肇淛(しゃちょうせい)の十六巻からなる随筆集であるが、殆んど百科全書的内容を持ち、日本では江戸時代に愛読された。書名は五色の糸で撚(よ)った組紐のこと。以下は同書の「卷九」に、

   *

京師多蠍、近來不甚復見、惟山東平、陰陽谷等處最多。過其蟄時、發巨石下、動得數鬥。小民亦有取以爲膳者。相傳爲蠍螫者忍痛問人曰「吾爲蠍螫、奈何。」、答曰、「尋愈矣。」。便即豁然。若叫號、則愈痛、一晝夜始止。關中有天茄可治蠍毒。余在齊固安、劉君養浩爲郡丞、傳一膏藥方、傅之痛立止、屢試、神效。

蠍雙尾者殺人。余初捕得蠍、輒斬其尾、縱之、後以語人。一客曰、「若斷尾復出、即成雙尾、害不淺矣。」。後乃神之。

   *

に基づく。

・「尋(つい)で癒(い)へん」次第に良くなるに違いない。東洋文庫現代語訳では『時間がたてば癒(い)えるでしょう』とある。

・「豁然」心の迷いや疑いが消えるさま。東洋文庫現代語訳ではここを『そこで痛みをこらえていた人も心が軽くなった』とある。これは一種の精神的な強いショック状態を緩和する有効な心理的助言と読める。答えた人物は、その人が刺された蠍の種を見極めており、その毒の程度を知っていたのに違いない。

・「叫(わめ)き號(さけ)ぶ時は、則ち愈(いよいよ)、痛む」代謝が盛んになってしまい、毒が周るはずのない部位にまで代謝してしまうことを言っており、医学的には正しい部類に属する評釈である(毒の抽出と体部の間歇的緊迫及び解毒剤や緩和剤の投与を併用させた上でではある)。

・「雙尾〔(さうび)〕なる者」種としてはいない。畸形としていたとしても成虫になれるとは私には思われない。]

2016/05/03

吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「死の影」 / 「吾亦紅」~完

   死の影

 

 永らく私は妻の軀を冷水摩擦してやつてゐたので、その輪郭は知り盡してゐた。夕食後、床の上に脚を投げ出した妻を、足指の方から手拭でこすつて行く私は、どうかすると器具を磨いてゐるやうな、なほざりな氣持もした。「簡單な摩擦」と、そんなとき妻は私のやりかたを零すのであつた。

 妻が死んだ時、私はその全身をアルコールで拭いてやつたが、それは私にとつて、暫く杜絶えてゐた冷水摩擦のつづきのやうでもあつた。だが、硬直した背中の筋肉や、四肢の窪みには、嘗てなかつた陰翳が閃めいてゐた。死體に觸れた指を石鹼で洗ひ、それから自分の手にさはつてみると、ふと私は自分の體まで死體ではないかと思へた。

 原子爆彈遭難以來、私は食糧難とともに衰弱してゆく體を、朝夕怠らず冷水摩擦するのだつた。瘦せ細る足を手拭でこすりながら、ふと私はそれが死んだ妻のそれに似てくるのに駭かされることもある。それから、私は近頃、嘗て妻が苦しんだ夜半の咳の發作にも惱まされてゐる。夜と朝とが入替る微妙な外氣のうごきが咽喉の一點を襲ふと、もうそれからは、いくら制しようとしても制しきれぬ咳だ。私は溢れ出る涙を夜着の袂で覆ひ、今も地上に、かうした悲境に突き陷されてゆく人々の悶えを悶えるのであつた。

――昭和二十一年九月 貞惠三囘忌に――

 

[やぶちゃん注:妻貞恵の死は昭和一九(一九四四)年九月二十八日のことであった。彼女は明治四四(一九一一)年生まれであるから、民喜より六つ年下で、享年三十四であった。昭和二一(一九四六)年九月当時は民喜は満四十歳で、上京からほどなく慶應義塾商業学校・工業学校の夜間部の嘱託英語講師となっている。但し、翌年十二月にはそれを退職し、貧窮の中、『三田文学』編集人と創作に精進したのであった。]

吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「机」

   机

 

 私のいま使つてゐる机は、――机ではなく實は箱なのだが、下に石油箱を橫たへ、その上に木製の洋服箱を重ね、書きものをする高さに調節してゐる譯なのだが、この上の方の輕い箱には蓋も附いてゐて、それが押匣の代用にもなり、原稿用紙や鳥渡したものを容れておくのに便利だ。もともと、これは洋服箱ではなく、實は妻が嫁入する時持つて來たもので、中には彼女が拵へた繻子の袱紗や、水引の飾りものが容れてあつた。

 私は昨年の二月、千葉の家を引上げ、郷里の兄の許に移ると、土藏の中で、この箱を見つけた。妻が嫁ぐとき持つて來た品々は、まだその土藏の長持の中に呼吸づいてゐて、それが私の嘆きを新たにした。警報がよく出てあはただしい頃ではあつたが、私は時折、土藏の二階へ行つて、女學生の頃使用してゐたものらしい物尺や筆入などを眺めた。はじめて島田を結つたとき使つたきり、そのまま埋沒されてゐた頭の飾りも出て來た。私は刺繡の袱紗の上に、綺麗な櫛など飾つて四五日眺め、やがて一纏めにすると妻の郷里へ送り屆けた。それから空箱になつた木の箱には、私の夏の洋服やシヤツを詰めて、田舍の方へ疎開させておいた。

 原子爆彈のため、廣島の家は灰燼に歸し、久しく私が使用してゐた机も本箱も、みんな喪はれた。だが、八幡村へ疎開させておいた洋服箱は無事であつた。私は八幡村の農家の二階で、この箱を机の代用にすることを思ひつき、そこで半歳あまり、ものを書くのに堪へて來た。昭和廿一年三月、私は東京の友人のところへ下宿することに決心したが、荷物を送り出すについて、この箱が一番氣にかかつた。薄い板で出來てゐる箱ゆゑ、もしかすると途中で壞れてしまひさうだし、それかといつて、どうしても諦めてしまふことは出來なかつた。私は材木屋で枠になりさうな板を買ふと、奮然としてその箱に枠を拵へた。實際、自分ながら驚くべき奮鬪であつたが、やがて、その箱は他の荷物と一緒に無事で友人の許に屆いてゐた。

 

[やぶちゃん注:「押匣」これは限りなく「抽匣」(ひきだし)の誤字か誤植と思われるが、ママとした。「抽匣」の用例なら原民喜「幼年畫」の「靑寫眞」に多出する。

「鳥渡したもの」「ちよつとしたもの(ちょっとしたもの)」。

「繻子」「しゆす(しゅす)」と読む。布面(ぬのおもて)が滑らかで、つやがあり、縦糸又は横糸を浮かして織った織物。

「袱紗」通常、茶道(貞恵は茶の湯をやった)のそれは「帛紗」と書く。道具をぬぐったり、盆・茶托の代用として器物の下に敷いたりする絹布。普通は羽二重で出来ており、縦を九寸(約二十七センチメートル)、横を九寸五分(約二十九センチメートル)ほどに作る。

「水引」紙縒(こよ)りに米糊(こめのり)を引いて干し固めたものを三本或いは五本並べて固めたもの。贈り物の飾り紐とし、慶事・弔事など用途に応じて用いる色や結び方に決まりがある。

「昨年の二月、千葉の家を引上げ、郷里の兄の許に移る」民喜は昭和二〇(一九四五)年一月末に千葉の登戸の家を引き払って、広島市幟町の実家(当時は三男信嗣が継いでいた。長男次男は夭折)へ戻っている。これは底本年譜によれば『疎開』目的であった。そこで彼は原爆に遇うこととなったのである。

「妻の郷里」広島県豊田郡本郷町(現在の三原市本郷町)。

「田舍の方」後に出るように「八幡村」のこと。広島県の旧山県郡八幡村(現在の北広島町内)。

「昭和廿一年三月、私は東京の友人のところへ下宿することに決心した」実際の上京は同年(一九四六年)の翌月の四月で、「友人」とは大森区馬込に住んでいた、中学以来の友人で詩人の長光太のこと。]

吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「菓子」

   菓子

 

 ある夕方、妻はぐつたりした顏つきで、「お菓子が食べたい」と云つた。その頃妻は貪るやうにものを食べるのであつたが、どうも元氣がなかつた。いつも私は教員室で先生たちが「せめて子供に、大福をもう一度食べさすことが出來る日まで、生きてゐたいものだ」など話合つてゐるのをきかされてゐたが、「お菓子が食べたい」といふ妻の訴へは、普通の人のそれとは少し違つてゐたらしい。ひどく銷然としてゐるので、私は妻を慰めるつもりで、その傍にねそべり、一時間あまりも菓子の話をした。思ひ出してみれば、世の中には隨分いろんな菓子があつたものだ。幼い時から親しんだ菓子の名前がすぐ念頭に浮かび、その恰好や、色彩をお互に話し合つた。娘の頃から抹茶を習つてゐる妻は、日本菓子について詳しかつた。さまざまの記憶を靜かに語り合つてゐると、もう返つて來ぬ夢のやうに、うつとりと絶望するのであつた。

 妻の母は娘を悦ばすために、東京からわざわざ蓬團子を拵へて持つて來ることがあつた。すると、妻は重箱に詰められた團子を、見る見るうちに平らげてしまふのであつた。これまでにないことであつた。たまたま、私も學校で生徒の父兄から贈られた菓子を少し頒けてもらつた。甘納豆、豆板、飴玉など、この時も妻は悦んだ。だが、菓子を食べても、ものを貪つても、どうも妻は元氣にならなかつた。ものに憑かれたやうに、たらふく食事をした後では、ぐいぐいと水を飮んだ。それが、糖尿病の所爲だとは、暫くの間まだ氣がつかなかつたのである。

 その後、糖尿の養生をはじめ、順調に行きさうもない時、もの狂ほしげに妻は母に云つた。「どうせ助からないのなら、思ひきり欲しいものを食べて死なうかしら」「それはまだ早いよ」と母は靜かに宥めた。結局、妻は思ひきり欲しいものを食べないうちに、死んでしまつたのである。

 戰爭が終つて、闇市にはぼつぼつ菓子の姿を見かけられるやうになつた。私はそれを亡き妻に報告したいやうな氣持に驅られる。報告したいのは、菓子のことばかりではない。戰爭によつて歪められてゐた敷かぎりないことがらを、今は、しづかにかへりみてゐるのである。

 

[やぶちゃん注:この章段は非常に興味深い。それは貞恵の糖尿病の発症(初期には日常の目立った症状はないので発覚とする方がよい)が、実は亡くなる二年程前であったことがここで判明するからである。ここで「私」は「いつも」「教員室で先生たちが」「話合つてゐるのをきかされてゐた」とし、「たまたま、私も學校で生徒の父兄から贈られた菓子を少し頒けてもらつ」て貞恵に持ち帰ったとあるからである。即ち、この時、「私」、原民喜は教師をやっていた。それは既に述べた通り、昭和一七(一九四二)年一月から昭和一九(一九四四)年一月までの、千葉県立船橋中学校の英語教師として週三回の勤務していた時を除いて、他にないのである。ということは、その二年三ヶ月余りのどこかが、このシークエンス、結核(昭和一四(一九三九)年九月喀血)に加えて糖尿病(恐らくは型)が発覚する場面だということになるのである。因みに、言わずもがな、結核と糖尿病というのは、最もありがたくない悩ましい病いの組み合わせである。栄養をつけねば結核菌にますます冒され、栄養をつければ血糖値がますます跳ね上がっておぞましい糖尿病関連合併症のリスクがますます高まることになるからである。ここに出る、甘いものを異様に欲しがる、喉が渇いて盛んに水を飲む、といった症状は糖尿病の初期から少し進んだ症状である。そうした機序に就いても私は細かく理解し、また説明出来るがそこは流石に避けよう。言っておくが、私は既に述べた通り、現在、既に型糖尿病を抱えているが(血糖値を安定させるジャヌビア錠の一日一回服用のみで、HbA1c上限値ギリギリで安定)、一歳半から四歳半まで、私は左肩関節の結核性カリエスにも罹患している。私が申し上げたいのは、私のこうした注はただの好事趣味なんぞでは――ない――ということだけである。

「銷然」「せうぜん(しょうぜん)」であるが、元気がない・しょげている・憂いに沈んでいるさまの意の「悄然(せうぜん(しょうぜん))」の誤字である。「銷」は「消」と同義ではあるが、このような熟語は勿論、消然という熟語も一般的には用いない。

「妻の母は娘を悦ばすために、東京からわざわざ蓬團子を拵へて持つて來ることがあつた」【2016年5月15日改稿】「蓬團子」は「よもぎだんご」。「妻の母」とあるから、永井すみである。次の章の「机」で、貞恵の死後に広島の実家に戻った民喜が、貞恵の遺品を土蔵の中から見出し、それらを纏めて郷里に送り届けたことが出ることから、これは貞恵の病状が思わしくないために、母が看病のために、東京の親族の家にでも一時的に滞在し、登戸の娘を訪ねて来た折りの描写と考えるのが、どうも自然なようで、その後に入手した二〇一六年岩波文庫刊「原民喜全詩集」巻末の竹原陽子氏の手に成る「原民喜年譜」の昭和一九(一九四四)年の冒頭に、『一月、信濃追分で結核療養をしていた佐々木基一が発熱して帰京、基一の母が貞恵の看病のために民喜宅へ住んでいたことから、基一も千葉の家に同居』を始めたとあるので、私の最後の推理がほぼ正しいことが分かった。

「豆板」「まめいた」は豆を砂糖で板状に固めた菓子のこと。ウィキの「豆板によれば、『当初は、炒り大豆を氷砂糖の中に閉じ込め板状に固めた和菓子であったが、後に小豆・斗六豆(白インゲン)・黒豆・ピーナツ・甘納豆など、様々な豆が使われるようになった』。『また、豆と固める砂糖の比率を変え、豆を飴炊きさせたりと店ごとに様々に工夫されている』とある。私は菓子(特に和菓子には)に殆んど興味も嗜好もない人間なので形状が浮かばなかった。グーグル画像検索「豆板をリンクさせておく。

「戰爭が終つて、闇市にはぼつぼつ菓子の姿を見かけられるやうになつた」冒頭に注したように、 本「吾亦紅」の末尾には(用字はここでは底本のままに示す)『――昭和二十一年九月 貞恵三回忌に――』というクレジットと添書が附されている。十章から成る本「吾亦紅」全体は昭和二二(一九四七)年三月号『高原』に発表されているが、ここで「私」が言う時間は、やはり、そのクレジットである昭和二一(一九四六)年九月以前と読まねば、おかしい。]

吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「葡萄の朝」

   葡萄の朝

 

 私は靑白い中學生だつた。夏が來ても泳がうとはせず、二階に引籠つて書物を讀んでゐた。だが、さうした憂欝の半面で、私のまはりの世界は、その頃大きく呼吸づき、夏の朝の空氣のやうに淸々しかつた。

 家の裏には葡萄棚があつて、涼しい朝の日影がこぼれ落ちてゐる。私はぼんやりその下にゐた。すると、ふと、その時私は側にやつて來た近所の小父の聲で我にかへつた。

「少しは水泳にでも行つたらどうだね。この子を見給へ、毎日泳いでるので、君なんかよりづつと色黑だ」

 さう云はれて、彼の側にくつついてゐた小さな女の兒は、いま私の視線を受け、羞みと得意の表情で、くるりと小父の後に隱れてしまつた。

 ある朝の、ほんの瞬間的な遭遇であつた。その少女が、私の妻にならうとは、神ならぬ私は知らなかつたのだ。

 

[やぶちゃん注:短章ながら、とても印象的な映像である。当初、私はこの標題は「葡萄の棚」の誤植ではないかと疑っていた。しかし、注を附すために熟読するほどに、これはやはり「葡萄の朝」なのだ、と得心したのであった。でなくて民喜は「神」を最終行には出すまい、と私は読んだのである。貞恵は遺言を綴った手帳に「マタイ伝」の一節を引いている(私の原民喜忘れがたみ「手帳」を参照されたい)。

「私は靑白い中學生だつた」原民喜は大正七(一九一八)年三月に県立広島師範学校附属小学校を卒業後、広島高等師範学校附属中学校(すぐ上の兄四男守夫が在学中)を受験したが不合格で四月から尋常小学校高等科に入学、改めてよく大正八(一九一九)年四月に広島高等師範学校附属中学校を再受験して合格、ここに五年在学した(但し、四年修了で大学予科の受験資格が与えられたため、五年進級後は一年の間、登校せず、文学に親しんだ)から、ここは民喜満十三歳から十七歳までの、夏のシークエンスである。底本年譜によれば、この在学中、『級友も教師も原民喜の「声」を殆ど聞いたことがなかった』とある(同全集第一巻の長光太の「解説」に基づくが、そこではもっと強烈で、『中学でのこの四年のあいだ、同級生も教師もだれも原民喜の声を、まったくただの一言も、返事の声も聞いたものがいない』(!)という民喜の若き日よりの盟友であった熊平武二の証言を載せているのである)。貞恵は明治四四(一九一一)年生まれで民喜より六つ下であるから、当時七歳から十一歳となる。

「小父」民喜は親族の場合には「伯父」「叔父」の語を用いて区別するので、この「小父」は、年下の人間が親族以外の壮年期以降の成人男性を指して呼ぶ一般的用語と採れる。「小父」を赤の他人ではなく、父母の兄弟以外の親族である、例えば従兄弟(いとこ)の伯父(叔父)や父母と年齢の近い従兄弟及び兄弟姉妹の舅などを指して呼ぶ場合もあるが、この「小父」の台詞は少し遠縁の親族中学生相手にしては「給へ」や「君」という用語が如何にも他人行儀であるから、親族や姻族ではなく、単に原家と親しい(でなければ葡萄棚のある裏庭に入ってくるはずがない)「おじさん」と読む。そうしてその「近所のおじさん」の兄弟か何かの親族の小学生の娘が、この日はたまたま夏休みで来ていたのを朝の散歩に連れていた。それが何と、後に妻となる貞恵であったというのであろう。【2016年5月14日追記】二〇一六年岩波文庫刊「原民喜全詩集」巻末の竹原陽子氏の手に成る「原民喜年譜」の昭和八(一九三三)年三月二十七日の貞恵との結婚(見合い結婚であった)の条に、『見合いは、原家の隣家に住む三吉光子が貞恵の母の実家と親戚で、原家ともつながりがあったことから両家を仲介した。民喜は中学生の頃、自宅の裏庭の葡萄棚の下で少女と遭遇したことがあった』とあるのが、まさにこのシークエンスであり、この光子の夫である三吉氏がこの「小父」と考えてよく、恐らくは私が想定したような事実があったものと考えられる。

「羞み」「はにかみ」。

「その少女が、私の妻にならうとは」民喜の妻貞恵は広島県豊田郡本郷町(現在は三原市本郷町(ちょう))の米穀肥料問屋永井菊松とすみの次女で、見合い結婚であった、と底本年譜にはあるが、その邂逅はもっと前に、かく、あったのであった。]

吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「草木」

   草木

 

 庭の片隅に移し植ゑた萩は毎年、夏の終りには、垣根の上まで繁り、小さな紅い花を持つた。暑い陽光に蒸れる地面も、その邊だけは爽やかな日蔭となり、こまかなみどりが風に搖れてゐた。私は、あの風にゆらめく葉をぼんやりと眺めてゐると、そのまま、いつまでも、ここの生活がうつろはないもののやうな氣持がしたのだが……。最初その小さな庭に、妻と二人でおりたち、前の借主が殘して行つた、いろんな草木を掘返した時の子供つぽい姿が、――素足で踏む黑土の鮮やかなにほひとともに――今も眼さきに髣髴とする。さういへば、二人であの淺い濁つた海に浸つたとき海水で顏を洗ひ、手拭の下から覗いた顏もまるで女學生の表情だつた。はじめのころ妻は、クロツカアズ、アネモネ、ヒヤシンスなど買つて來て、この土地での春を待つた。私は私で、芝生を一めんに繁らさうと工夫した。春さきになると、まづ壺すみれが日南に咲いた。それからクローバー、車前草(おほばこ)、藜(あかざ)などがほしいままに繁つた。黃色い暑苦しい花、焰のやうな眞赤な小さな花、黃や紫の白粉花など、毎歳その土地には絶えなかつた。ダリヤは花を持つ頃になると風に吹き折られた。紺菊は霜に痛められて細細と咲いた。庭の手入も、年とともに等閑になつたが、鬼灯ばかりは最後の年までよく出來た。私はその靑い實の一輪を妻の病床に飾つたのだつた。

 一つ一つはもう憶ひ出せないが、私は妻とあの土地で暮した間、どれほどかずかずの植物に親しみ、しみじみそれを眺めたことか。妻が死んだ翌日、佛壇に供へる花を求めて、その名を花屋に問ふと、われもかう、この花を、つくづくと眺めたのはその時がはじめてだつた。が、その花を持つて家に歸る途中、自轉車の後に同じ吾亦紅と薄の穗を括りつけてゆく子供の姿をふと見かけた。お月見も近いのだな、と私はおもつた。

 

[やぶちゃん注:貞恵の亡くなったのは昭和一九(一九四四)年九月二十八日であった。「焰」は底本の用字である。「日南」は「ひなた」、「白粉花」は「おしろひばな(おしろいばな)」と訓じておく(前者の読みについては、私の原民喜「幼年畫」「招魂祭」(恣意的正字化版)の私の注を参照されたい)。「クロツカアズ」クロッカス(crocus:単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科クロッカス属 Crocus)であるが、ネット上で英語のネィティヴの発音を複数聴いてみると、これは我々が普段発音している「クロッカス」なんぞよりも「クロゥガァス」「クロッガ」に近く、民喜の英語の音写は実はおかしなものではないことが判る(民喜は慶応義塾大学英文科卒である)。前章同様、本篇には博物学的興味からは多くの注を附したい欲求に駆られるのであるが、ここは切なく美しい絢爛たるカット・バックと、コーダのシークエンスを静かに味わって戴くため、敢えてこの注だけで留めおくこととする。前章「蟲」と全体と各部の美しい対表現が胸をうつ。]

吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「昆蟲」

   昆蟲

 

 草深いその佗住居――佗住居と妻は云つてゐた――には、夏になると、いろんな昆蟲がやつて來た。梅雨頃のおぼつかなげな、白い胡蝶、潮風に乘つて彷徨ふ揚羽蝶、てんたう蟲、兜蟲、やがて油照りがつづくと、やんまの翅をこする音がきこえ、蜥蜴の砂を崩す姿がちらついた。その狹い庭には、馬陸(やすで)といふ蟲が密生してゐたし、守宮も葉蔭に這つてゐた。それから、夜は灯を慕つてやつて來る蟲で大變だつた。灯を消しても、邯鄲はすぐ側の柱で鳴き續けたし、大きな蛾は、パタパタと蚊帳のまはりを暴れた。殺して紙に包んで捨てた筈の蛾が、翌朝も、秋雨のなかで動いてゐることがあつた。眼球がキーンと光つてゐるといつて、妻は特にその蛾を厭がつた。ある年、黄色い蛾が、この地方を脅やかした。その粉にあてられると、皮膚が腫れるといふのであつた。この蛾のためかどうかはつきりしないが、妻の顏が遽かにひどく腫れ上つた。それは濕疹だといふことであつたが、妻の軀にはそれからひきつづいて不調が訪れて來たのだつた。

 夏の終り頃には、腹に朱と黄の縞のある蜘蛛が、窓のところに巣を造つた。黐木の枝に巣を張つてゐる蜘蛛も、夕方になると、かならず同じ場所に現れた。微熱のつづく妻は、緣側の靜臥椅子に橫はつたまま、それらを凝と眺めるのであつた。さういふとき、時間はいみじくも停止して、さまざまな過去の斷片が彼女の眼さきにちらついたのではあるまいか。そこから、昆蟲の夢の世界へは、一またぎで行けさうであつた。簷のところで、蟷螂と蜂が爭つてゐることもあつた。蜥蜴と守宮が喧嘩してゐることもあつた。蟻はせつせと荷を運び、蜂の巣は夕映に白く光つた。

 妻が死んだ晩、まだ一度も手をとほさなかつた綠色の晴着が枕頭に飾つてあつた。すると、窓から入つて來た蟷螂が、その枕頭をあたふたと飛び𢌞つた、――大きな綠のふしぎな蟲であつた。

 

[やぶちゃん注:貞恵の亡くなったのは昭和一九(一九四四)年九月二十八日であった。本篇には博物学的興味からは多くの注を附したい欲求に駆られるのであるが、ここはコーダのシークエンスを静かに味わって戴くために、敢えてこの注だけで留めおくこととする。]

吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「嗟嘆」

   嗟嘆

 

 日盛の靜かな時刻であつた。私は椅子にねころんで、ぼんやり本を展げてゐた。露次の方に、荷車の音がして、垣のところの芥箱の蓋があく音がする。塵取人夫の來てゐることは、その音でもわかる。窓に面した六疊の方で、妻の立上つて、臺所へ行く氣配がする。暫くすると、窓のところで、「御苦勞さま」と人夫に呼びかけてゐる一きは快活さうな聲がする。「これ一つ」と何か差出したのは、多分、梅燒酎だつたのだらう。やがて、「あーツ」と、いかにも、うまさうに一氣にそれを呑み乾したらしい、溜息がきこえる。

 ……いつのことであつたか、もうはつきりは憶ひ出せぬ。「あーツ」といふ嗟嘆ばかりは今も私の耳にのこつてゐる。日盛の靜かな時刻であつた。

 

[やぶちゃん注:この小さな夏の永遠の至福の瞬間のスカルプティング・イン・タイムは何時のことか。「いつのことであつたか、もうはつきりは憶ひ出せぬ」と筆者は言っているが、千葉の登戸の景であり、「もうはつきりは憶ひ出せぬ」とならば、貞恵の発病のずっと以前であり、前の出た「マル」や「カナリヤ」の時間以前と推定し得る。都心からの登戸への転居は昭和九(一九三四)年の初夏で、雌犬「マル」を飼い始めたのは昭和一一(一九三六)年の初めであったから、私はこれを昭和九年か翌十年のロケーションと見たい。貞恵との結婚(昭和八(一九三三)年三月)から一年半か二年半後のこととなる。私はこの短章が、涙が出るほど好きである。

「嗟嘆」この場合の「さたん」は、ひとしきり感心して褒めること・嘆賞の謂いである。

「日盛」「ひざかり」。

「芥箱」「ごみばこ」。

「梅燒酎」自家製の梅酒。]

吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「蛞蝓」

 蛞蝓

 

 その頃、妻は夜半に起出しては蛞蝓退治をしてゐた。私がぼんやり夜の書齋に坐つてゐると、一寢入した妻は茫とした夢の温もりを背負つて、しかし、いそいそとした顏つきで、懷中電燈を持つて、すぐ隣の臺所に現れる。それから、洗場の笊の下とか、敷板の下などを點檢し、蛞蝓は火箸で摘んで、鹽で溶かすのであつた。妻は蛞蝓の居さうな場所と、出て來る時刻を、すつかり諳じてゐた。これがすむと、妻は淸々した顏つきで寢室に引返すのであつた。

 淸潔好きの妻のことで、臺所など自分の體のつづきのやうにおもつてゐるらしかつたが、それにしても、蛞蝓は相手が相手だけに、私には何だかをかしかつた。

『庭の無花果が芽を吹き、小さな果を持つ頃、蛞蝓は現れて來る。小さな靑い無花果の噓の果を見て、ほう、今年はもう無花果がなるのかしら、と亭主は感心してゐる。こんな阿房な亭主だから、蛞蝓までこちらを馬鹿にして、するすると臺所に侵入して來るのである。……

 私はその頃、こんな戲文を書いて、妻に示したことがある。すると妻も「蛞蝓退治」と題して、何か書かうとするのであつた。

 蛞蝓は、しかし、あの南風でねとねとする風土と、むかむかするその頃の世相を象徴してゐるやうでもあつた。何だか譯のわからない氣持のわるいものが、外にも内にも溢れてゐた。妻が病氣する前のことで、昭和十三年頃のことである。

 

[やぶちゃん注:「蛞蝓」「なめくぢ(なめくじ)」。軟体動物門腹足綱有肺亜綱 Pulmonata に属する陸生巻貝類の内、殻が退化しているものの総称。ナメクジ類は上科で三つ、科のタクソンでも八科にも分かれるので一種を示すことは難しいが、本作品内時間の当時、家屋内で認められるそれは、柄眼目ナメクジ科ナメクジ科ナメクジ属ナメクジ Meghimatium bilineatum を指している可能性は高いとは一応、言えるであろう(現在は、これに加えてヨーロッパ原産の侵入種、柄眼目コウラナメクジ科 Lehmannia 属チャコウラナメクジ Lehmannia valentiana も幅をきかせている。これは一九七〇年以降に全国に拡大したが、敗戦後の一九五〇年代の本州に於いて、アメリカ軍物資に紛れ込んで侵入したものと考えられている)。

「夜半に起出しては蛞蝓退治をしてゐた」正しい駆除行動で、体の大部分が水分で出来ているナメクジは陽光を嫌い、まさに貞恵が点検しているような湿度の高い暗い場所で夜間に活発に行動する傾向があるからである(ナメクジは夜行性、と言明明記しているネット記載もあるが、私は留保する。雨の時期でなくても、実日中の陽光下で活動する個体を幾らも観察しているからである)。

「一寢入」「ひとねいり」。

「懷中電燈」「燈」は底本の用字。

「鹽で溶かす」事実は塩である必要はなく、殆んどが水分で構成されているナメクジから浸透圧現象によって水分を失わせる物質であるならば、例えば反対に砂糖でも何でも構わないのである。ウィキの「ナメクジ」によれば、『ナメクジの体表に塩を盛ると水分が抜けて溶けるように見える。これは水分を高張とする、つまり水溶液になって分子間力を生じる(浸透圧が起きる)物質ならば何でもよい。つまり、砂糖や重曹などでも同じような現象が観察できる。死ぬ前に水をかけると上記とは逆の作用により復活するように見える』ものの、『多くの場合はダメージが大きいために後日には死ぬ』とある。

「諳じて」「そらんじて」。

「無花果」「いちぢく(いちじく)」。

「小さな果」「果」は「み」と訓じておく。

「小さな靑い無花果の噓の果」言わずもがな乍ら、植物学的に非常に正確な表現である。バラ目クワ科イチジク属イチジク Ficus carica の漢名「無花果」はまさに花が咲かずに実をつけるように見えることに由来するのであるが、我々が「いちじくの実」と通称しているのは分り易く言えば「花の塊り」であって、通常の果実である子房ではなく、その隣接組織に由来する果実状の器官、「偽果(ぎか)」(Accessory fruit)」である(イチジクのそれは「イチジク状果」と呼ぶ。更に言うと、実はリンゴやナシも「ナシ状果」という偽果であり、我々が食わずに捨てている芯の部分のみが真の果実なのである)。因みに、和名の「イチジク」の語源は、ウィキの「イチジクによれば、本種(本種の偽果)を指す『中世ペルシア語「アンジール」(anjīr)を当時の中国語で音写した「映日」に「果」を補足した』「映日果」という別漢名『日本語名「イチジク」はこれの音読「エイジツカ」の転訛とする』とある。ここには注があって、『別説として、果実が一ヶ月程度で熟すから、または、一日一果実ずつ熟すから「一熟(イチジュク)」と呼び、「イチジク」はこの転訛であったとするが、実際には果実が熟するまでに』二ヶ月半程度は『要することから、前者の理由については全く当たるものでない。後者についてもそのような事実はないが、あえて大雑把に言うなら大半の植物は何日にもわたってひとつふたつと実りつづけるのであり、なぜイチジクがその代表に選ばれたか、またそもそも、なぜそのような当たり前の事象が名称とされたかの説明を欠いている。また仮にこのような造語が行われたとして、造語法としても普通に見られるものではない』と記す。なお、イチジクには初夏から夏にかけて実がなるものと、秋に実がなるもの、そして初夏と秋両方に実がなるものがあるが、ここは蛞蝓の登場と期を一にする初夏の情景と考えてよかろう。

「阿房」「あはう(あほう)」。「阿呆」に同じい。

「あの南風でねとねとする風土」梅雨時の日本に対する巨視的な謂いであろうが、千葉県千葉市登戸町(現在の千葉市中央区登戸)の家は房総半島の東京湾の南岸直近にあり、文字通りの皮膚実感でもあった。

「むかむかするその頃の世相」「昭和十三年頃」(一九三八年頃)、日本は既に前年から日中戦争を起こしていた。ウィキの「1938年」によれば、三月にナチス・ドイツがオーストリアを併合、翌四月一日には本邦で「国家総動員法」が公布(翌月施行)、五月十九日には日本軍が徐州を占領、九月には『従軍作家陸軍部隊出発(久米正雄・丹羽文雄・岸田国士・林芙美子ら)』『従軍作家海軍部隊出発(菊池寛・佐藤春夫・吉屋信子ら)』『従軍作家詩曲部隊出発(西條八十・古関裕而ら)』、十月には日本軍が広東や武漢三鎮を占領、十一月三日、『近衛首相による「東亜新秩序」声明』があり、十一月九日は「水晶の夜」でドイツに於けるユダヤ人迫害が開始されている。]

吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「カナリヤ」

  カナリヤ

 

 カナリヤを飼ひはじめたのは、昭和十一年の終頃からだつた。ふと妻が思ひついて、私たちはある夜、巷の小鳥屋を訪れた。そこには、小鳥のやうに、しなやかな、心の底まで快活さうな細君がゐて、二羽のカナリヤを撰んでくれた。最初から、その女は私の印象にのこつたが、妻もほぼ同樣であつたらしい。その後、妻は餌を買ひにそこへ行くにつけ、小鳥屋の細君のことを口にするやうになつた。どうして、あんなに身も魂も輕さうに生きてゐられるのだらうか、小鳥など相手に暮してゐると自然さうなるのだらうか、と私の妻はその女の姿を羨しがるのであつた。

 さて、翌日カナリヤの箱が屆けられると、それからは毎朝妻がその世話を燒くのであつた。新しい新聞紙を箱の底に敷きかへて、靑い菜つばと水をやると、緣側の空氣まで淸々しくなる。妻は氣持よささうにそれを眺めた。

 春さきになると、雌はよく水を浴びるやうになつたが、雄の方はひどくぎこちない姿で泊木に蹲つたまま、てんで水など浴びようとしなかつた。それを妻は頻りに氣にするやうになつてゐた。と、ある朝、この雄は泊木から墜ちて死んでゐた。

 その後、一年あまりは殘された雌だけを飼ひつづけた。この雌は箱の中から、遠くに見える空の小鳥の姿を認めて、微妙な身悶えをすることがあつた。私たちが四五日家をあけなければならなかつた時、餌と水を澤山あてがつておいた。歸つて來て早速玄關の箱の中を覗くと、このカナリヤは無事で動き𢌞つてゐた。

 ある秋の夜、妻は一羽の雄をボール凾に入れて戾つて來た。ポール幽から木の箱へ移すと、二三度飛び𢌞つたかとおもふと、咽喉をふるはせて囀りだした。電燈の光の下で囀る雄と、それを凝と聽きとれてゐる雌の姿はまことにみごとであつた。こんどの雄は些も危な氣がなかつた。産卵期が近づくと、棉を喰ひちぎつて巣に持運んで行く雌を、傍からせつせと手助けするのであつた。やがて、卵はかへつたが、どれも育たなかつた。梅雨の頃、三羽の雛が生れこんどは揃つて育ちさうであつた。が、母親がぽつくり死んでしまつた。すると、殘された雄が母親がはりになり、せつせと餌を運んでは、巧みに仔を育てて行つた。雛はみな無事に生長して行つた。一羽の雛はもう囀りを覺えはじめ、わけても愛らしく賴もしかつた。

 ある日、カナリヤの箱を猫が襲つた。氣がついた時には、金網がはづされてをり、箱の中は空であつた。が、庭の塀の上に雄のカナリヤと二羽の雛がゐた。この父親は仔をつれて、すぐに箱のなかへ戾つて來た。だが、一羽の一番愛らしかつた雛は、父に隨はず、勝手に黐木の梢の方を飛び𢌞つてゐた。「あ、あそこにゐるのに」と妻は夢中で空をふり仰いでゐた。カナリヤは屋根に移り、そこで、しばらく娯しさうに囀つてゐた。その聲がだんだん遠ざかり、遂に聞えなくなるまで、妻は外に佇んでゐた。やがて、ぐつたりして妻は家に戾つて來た。耳はまだあの囀りのあとを追ひ、その眼は無限のなかに彷徨つてゐるやうで、絶え入るばかりの烈しいものが、妻の貌に疼いてゐた。妻が發病したのは、それから間もなくであつた。

 二羽のカナリヤは無事に育つて行つたが、翌年の春になると、父親と喧嘩して騷々しいので、とうとう父親だけを殘して、出入の魚屋に呉れてやつた。殘された雄は相變らずよく囀つた。春も夏も秋も、療養の妻の椅子のかたはらに、ぽつんと置かれてゐた。カナリヤは孤獨に馴れ、ひとり囀りを娯しんでゐるやうにおもへた。このカナリヤが死んだのは昭和十八年の暮で、妻が醫大に入院してゐる時のことであつた。數へてみると、妻がそれを買つて歸つた時からでも、五年間生きてゐたことになる。

 

[やぶちゃん注:「カナリヤ」鳥綱スズメ目アトリ科カナリア属カナリア Serinus canaria。漢名漢字表記は「金糸(絲)雀」。ウィキの「カナリア」によれば、『アトリ科に分類される小鳥、及びそれを原種として品種改良された愛玩鳥フィンチの一種』(この場合の「フィンチ」は知られた狭義のそれ(フウキンチョウ科 Thraupidae の例えばダーウィンフィンチ属 Camarhynchus など)の謂いではなく、広義のアトリ科 Fringillidae(英名でこのグループを「Finches」と呼ぶ)の鳥類の総称であるので注意されたい)を指し、『英名では、特に野生種と飼養種を区別するとき、前者を Island Canary, Wild Canary, Tame Canary, Atlantic Canary などと呼び、後者を Domestic Canary と呼ぶ』。『原生種は』アゾレス諸島(北大西洋の中央部(マカロネシア)に位置するポルトガル領の群島)、カナリア諸島(アフリカ大陸の北西沿岸に近い大西洋上の七つの島からなるスペイン領の群島)、及びマデイラ諸島(北大西洋上のマカロネシアに位置するポルトガル領の諸島)に『産し、名のカナリアは原産地のカナリア諸島による。飼養種はほぼ世界中で飼われている。 これら以外に、かご抜けした飼養種がバミューダ諸島、ハワイのミッドウェイ環礁、プエルトリコで再野生化している』。『野生種の大きさは』翼長二〇~二三センチメートル、体長約一二・五センチメートル、体重一五~二〇グラムほどで、『飼養種の大きさもほぼ同程度だが、ずっと大きな品種や小さな品種もある』。『飼養種は品種により様々な変化に富んだ羽色を呈し、もっともよく見かけるのが、全身がいわゆるカナリア色(カナリアイエロー)で知られた鮮やかな黄色で染まった個体で、この色名は飼養種の呈するこの色にちなんでいる』。『これに対し』、『カナリア諸島産の野生種』『は腹面が煤けた黄緑色、背面に茶色っぽい縞が入った地味な小鳥である。しかし飼養種にも野生種の羽色に近いリザードのような品種もある』。『野生種、飼養種のどちらもセリンやズアオアトリ同様、澄んだ美しい声でさえずる』。『飼育に際してはつがい、もしくは一羽飼いが基本だが、これは本種に脂肪分に富んだエサを好む傾向があり、同じエサを与えて他のフィンチと一緒に飼うと、他の鳥が脂肪過多を起こすからだとされている。しかし特に脂肪分を多くせず、他のフィンチと同じエサを与えてもそれほど変化はない、とする人もいる。実際によく食べる傾向が見られるのは青菜類で、これらを欠かしてはいけない。飼育下では春から夏にかけて繁殖し、夏の終わりから秋にかけて換羽するが、本種に限らず飼い鳥は換羽期に落鳥しやすいので注意する。また他のフィンチと比較してワクモ(羽ダニ)』(節足動物門鋏角亜門クモ綱ダニ目ワクモ科 Dermanyssus 属ワクモ Dermanyssus gallinae:ダニの一種で鳥類の外部寄生虫。夜間に休息している鳥類の血を吸血する)『が付きやすいので、これらにも注意する』。「人間との関係」の項。『ヨーロッパで古くから愛玩鳥として飼養され、現在では世界中で飼われている。また毒物に敏感である事から毒ガス検知に用いられたり、実験動物としても用いられる』。『日本では後述する炭鉱のカナリアや童謡「かなりや」の影響で、実態以上にひ弱な鳥といったイメージが流布しており、外の世界で生きられない事の比喩表現である籠の鳥とは本種のこととすら思われている』。『しかし、高級フィンチの中には本種よりずっと気難しくて温度管理にうるさい種があり、それらに較べればずっと飼い易いうえに巣引き』(飼鳥用語の一つ。飼育環境下での「繁殖」、「累代飼育」をすることを指す)『も簡単である。野外で生き延びられないのは飼育環境へ適合した結果であり、逆を言えば、野鳥はかごで飼うと気をつけないとすぐに死んでしまう』。『人間に馴れやすく、雛から育てなくても、手乗りになったり、飼い主の手から餌を食べる事がある』。一六〇〇年代に『スペイン人の船員によってヨーロッパに持ち込まれ、飼い鳥として品種改良された。当初修道院の僧のみが本種の巣引き技術を有しており、美しいさえずりを聞かせるオスのみを市場に卸すといった方法で出荷調整を行い価格を高騰させていたのだが、その後ふとしたきっかけからイタリア人がメスの入手に成功。もとより巣引きにさほどの技術を要さなかったことから、各地で増殖されヨーロッパ全土で流行するようになる』。『イギリスでも同様に、当初は富裕層のみが飼育していたが、すぐに民間で巣引きが繰り返されるようになり、非常に一般的な飼い鳥となった。また巣引きと並行して行われた品種改良により多くの種類が産み出されることになる』。『日本へは江戸時代にオランダ人により長崎へもたらされた。日本では古くから鳥を飼い慣らしてそのさえずりを楽しむ風流な習慣があり、カナリアも姿形やさえずりの美しさから、たちまち人気となり流行した。当時から盛んに輸入され、武士や知識層に愛玩されたようである。有名なところでは曲亭馬琴が巣引きを再三試みており、葛飾北斎の日本画にも登場する』。多様な品種は『おおまかに羽の色や模様、姿形、さえずりに特化した』三グループに分けられ、『色を楽しむ品種を色鳥、変わった模様を楽しむ品種は羽鳥、変わった羽や姿勢、大きさに変化を持たせた品種を形鳥、巻き毛や姿勢を観賞する品種を姿勢鳥、さえずりを愛でる品種を鳴鳥などとも呼ぶ』。『姿形を楽しむための改良は主にイギリスで、さえずりを楽しむための改良は主にドイツで行われてきた。実際に市場に出回るものは、上記各グループの有する一つの特徴にだけ特化した改良がなされたもの以外に、巻き毛赤ローラーなど、各グループ間で交雑させ複数の特徴を織り込んだものが多数あるので、その種数はじつに多岐に及ぶ』。「毒ガス検知」の項。『いわゆる炭鉱のカナリアは、炭鉱においてしばしば発生するメタンや一酸化炭素といった窒息ガスや毒ガス早期発見のための警報として使用された。本種はつねにさえずっているので、異常発生に先駆けまずは鳴き声が止む。つまり危険の察知を目と耳で確認できる所が重宝され、毒ガス検知に用いられた』。『具体的には、新しい斜坑の底にまず』三羽以上の『カナリア(別種の鳥を用いることもあった)の入ったカゴが置かれ、そのうち』一羽でも『異常な行動が見られたなら、坑夫たちはその斜坑に危険が発生したと察知していた。イギリスの炭鉱ではこうした方法による危険察知システムが』一九八七年まで採用されていた、とある。『鉱山以外でも、戦場や犯罪捜査の現場で使われる事がある。日本でも』一九九五年の『地下鉄サリン事件を受け、山梨県上九一色村のオウム真理教施設に対する強制捜査の際、捜査員が携行している様子が報じられ、こうした役割が知られるようになった』。なお、知られる童謡「かなりや」は作詞が西條八十、作曲が成田為三で、雑誌『赤い鳥』の大正七(一九一八)年十一月号に掲載された。本童謡は当初から曲のついたと童謡として初めて発表された作品であり、この曲の発表以降、童謡に曲を付けて歌われることが一般化した(この部分は童謡のウィキの「かなりやの記載に拠った)。

「昭和十一年の終頃」巻頭章の「マル」の冒頭は、雌犬『マルが私の家に居ついたのは』同年(一九三六年)『のはじめであった』で始まっている。そうしてそのカナリヤたちの数奇な生死が語られる。最後に残るのは――雄一羽――である。事実の数奇を含め、十全に練られた対章章段であることが判る。

「春さき」昭和一二(一九三七)年の春。

「泊木」「とまりぎ」。止まり木。

「その後、一年あまり」とここにあって、次の段落冒頭が「ある秋の夜、妻は一羽の雄をボール凾に入れて戾つて來た」と始まるから、「ある秋の夜」は昭和一三(一九三八)年の秋ということになる。

「ボール凾」「凾」は「ばこ」。段ボールの箱。

「電燈」「燈」は底本の用字。

「それを凝と聽きとれてゐる雌の姿は」ママ。「それを凝と聽きとつてゐる雌の姿は」(或いは「それに凝と聽きほれてゐる雌の姿は」であるが、こちらは如何にも擬人的表現で私は厭である)の謂い。

「些も」「すこしも」或いは「いささかも」。「危なげがない」に続けるなら前者がよいように私は感ずる。

「梅雨の頃」昭和一四(一九三九)年初夏ということになる。以下との叙述との時系列上での矛盾はない。

「黐木」「もちのき」と読む。バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integra。和名は樹皮から鳥黐(とりもち:野鳥や昆虫などを捕えるのに用いる粘着性の物質)を作ることに由来する。ウィキの「モチノキによれば、『春から夏にかけて樹皮を採取し、目の粗い袋に入れて秋まで流水につけておく。この間に不必要な木質は徐々に腐敗して除去され、水に不溶性の鳥黐成分だけが残る。水から取り出したら繊維質がなくなるまで臼で細かく砕き、軟らかい塊になったものを流水で洗って細かい残渣を取り除くと鳥黐が得られる』とある。

「彷徨つて」「さまよつて(さまよって)」。

「妻の貌」「貌」は「かほ(かお)」であろう。

「疼いて」「うづいて(うずいて)」。

「妻が發病した」昭和一四(一九三九)年九月。結核の発病(吐血)と推定される。

「翌年の春」昭和一五(一九四〇)年春。民喜、満三十四、貞恵二十八、九歳。ここに「春も夏も秋も、療養の妻の椅子のかたはらに、ぽつんと置かれてゐた」とあることから、この年は冬を除いて貞恵は自宅療養していたことが判る。こうした事実を積み上げていかないと、この時期の民喜の年譜(少なくとも底本の年譜)は発表作ばかりが羅列されるばかりで、日常的な状況が殆んど欠落しているのである。

「このカナリヤが死んだのは昭和十八年の暮で、妻が醫大に入院してゐる時のことであつた」ここでも昭和一八(一九四三)年の暮れの時点では貞恵が入院していた事実が判る。この後、貞恵は翌一九(一九四四)年三月に病状が悪化、同年九月二十八日に亡くなることとなる。但し、他作品から死の前には自宅に戻っていることも判っている。因みに、「昭和十八年の暮」れの時点では、民喜は千葉県立船橋中学校の英語教師として週三回の勤務していた(前年昭和十七年一月より。但し、翌十九年一月には退職)。作家専業から教師生活に入ったのは、妻の医療費の問題があったからでろうか。貞恵の亡くなる少し前には朝日映画社嘱託ともなっている。しかし、翌二十年一月末には、長年住み慣れたこの千葉の登戸の家をたたんで、広島の広島市幟町実家へ戻る。そうして八月六日の原爆に遭遇するのであった。]

2016/05/02

吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 /始動  「マル」

吾亦紅   原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:十章から成る本篇全体は昭和二二(一九四七)年三月号『高原』に発表され(当時の民喜は満四十歳)、後の民喜自死の二年後の昭和二八(一九五三)年三月角川書店刊「原民喜作品集 第二巻」に「美しき死の岸に」の総評題で「忘れがたみ」「小さな庭」、そして本「吾亦紅」、以下、「冬日記」「秋日記」「画集」「雲の裂け目」「魔のひととき」「苦しく美しき夏」「夢と人生」「遥かな旅」「美しき死の岸に」の全十二篇の一篇として所収された。底本(後述)の編註によれば、この総標題と配列は原民喜自身の分類・配列によるものであるとする。

 本「吾亦紅」の末尾には(ここでは以下に示す底本のままに示す)、

――昭和二十一年九月 貞恵三回忌に――

というクレジットと添書が附されている。

 本「吾亦紅」の各篇とその全体は民喜の散文詩の一つとして捉えてよいものと私には思われる。底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集 」を用いたが、本カテゴリ「原民喜」で既に述べた通り、民喜が終生、基本的に一貫して正字を用いていたこと、本文が歴史的仮名遣を用いていること、及び、本篇の内容が昭和一九(一九四四)年九月二十八日に亡くなった妻貞恵の死(明治四四(一九一一)年生まれ。享年三十四。民喜より六つ年下であった)をテーマとしていることから、恣意的に多くの漢字を原則、正字化して示すこととする。

 「吾亦紅」は「われもかう(われもこう)」で第六章の「草木」の印象的なシークエンスに登場する。バラ目バラ科バラ亜科ワレモコウ属ワレモコウ Sanguisorba officinalis 。各章の後にオリジナルな注を附した。ウィキの「ワレモコウ」によれば、『草地に生える多年生草本。地下茎は太くて短い。根出葉は長い柄があり、羽状複葉、小葉は細長い楕円形、細かい鋸歯がある。秋に茎を伸ばし、その先に穂状の可憐な花をつける。穂は短く楕円形につまり、暗紅色に色づく』とあり、この名は「源氏物語」にも『見える古い名称である。漢字表記においては吾木香、我毛紅、我毛香など様々に書かれてきたが、「〜もまた」を意味する「亦」を「も」と読み、「吾亦紅」と書くのが現代では一般的で』、『名の由来には諸説あるが』、植物学者『前川文夫によれば木瓜文(もっこうもん)』(日本の家紋の一種で瓜紋(かもん・うりもん)ともいう。卵の入った鳥の巣の様子に似ているとされる)『を割ったように見えることからの命名と』する『ほか、「我もこうありたい」の意味であるなど、様々な俗説もある』と記す。

 各章の後にオリジナルな注を附した。]

 

 

 吾亦紅

 

 

   マル

 

 マルが私の家に居ついたのは、昭和十一年のはじめであつた。死にさうな、犬が庭に迷ひ込んで來たから追出して下さいと妻はある寒い晩云つた。死にはすまいと私はそのままにしておいた。犬は二三日枯芝の日だまりに身をすくめ人の顏をみると脅えた目つきをしてゐたが、そのうち元氣になつた。鼻や尻尾に白いところを殘し、全體が褐色の毛並をしてゐる、この雌犬は人の顏色をうかがふことに敏感であつた。

 その春、私たちは半月あまり家をあけて、歸郷してゐたが、千葉の家に戾つて來たのは夜更であつた。木戸の方から、生ひ繁つた雜草を踏んで戸袋のところの南京錠をあけようとしてゐると、何か私たちの足もとに觸はつたものがある。「マル」と妻は感動のこもつた聲を放つた。烈しい呼吸をつきながらマルは走り𢌞るのであつた。

 秋になると、マルはもう母親になつてゐた。芙蓉の花の咲誇る下で仔犬と戲れ合つてゐる姿は、いかにも滿ち足りたものの姿であつた。ところが間もなく、マルは犬獲りに攫はれて行つた。隣家の細君と私の妻とは、蘇我といふ所の犬獲りの家を搜しあて、漸く無事に連れ戾つた。すると、その隣家の子供は、戾つて來たうれしさに、いきなりマルの乳を吸つてみたのである。うそ寒い夕方、臺所の露次で、他所の犬が來て、マルの乳を吸つてゐることもあつた。「をかしな犬」と妻はあきれた。

 翌年の寒中のことであつた。マルは他所の家の床下に潛り込んだ儘、なかなか出て來ようとしなかつた。その暗い床下からは、既に産みおとされた仔犬の啼聲がきこえてゐた。四五日して現はれたマルの姿は、ひどく變りはててゐた。子宮が外部に脱出してしまひ、見るも痛々しげであつた。マルは苦しさうに眠りつづけた。今度はもう死ぬるかと思はれたが、そのうちにまた歩きだすやうになつた。胯間に無氣味なものをぶらつかせて、のこのこと歩く姿は見る人の目を欹だたせたが、マルの目つきも哀れげであつた。

 その年の秋、私の家の前に小林先生が移轉して來た。その新婚の細君と私の妻とは、すぐに親しく往來するやうになつた。マルの姿は先生の注意をひいた。「いつか手術してやる」先生はその細君に漏らしてゐたのである。

 マルが手術されたのは、翌年の春であつた。恰度、旅から歸つて來た私は、玄關先に筵を敷かれて寢そべつてゐるマルの姿を認めた。留守の間に、小林先生の細君と私の妻は、マルを醫大に連れて行つたのであつた。「それは大變でしたよ」と妻は浮々した調子でその時のことを語つた。自動車に乘せて、大學の玄關まで運ぶと、そこに看護婦が待伏せてゐて、板に縛りつける。無事に手術を了へると、マルは、牛乳やらビスケツトやらで歡待されたのである。(もつと細かに、面白げに、妻は私に話してくれたのだが、今はもう細かな部分を忘れてしまった。今になつて思ふと、妻は私にそのことを面白く書かせようと考へてゐたのに違ひない。)

 手術後のマルはあの醜いものを除かれて、再び元氣さうになつた。だが、歳月とともに、この犬の顏は陰氣くさくなつて行つた。自轉車に乘つた人を見るたびに火のついたやうに吠え猛つた。ある日、妻がお茶の稽古から歸つて、派手なコートの儘、臺所の七輪を弄つてゐると、ふとマルが鼻を鳴らしながら近づいて來る。珍しく甘えるやうな仕草で、終にはのそのそと板の間に這ひ上つて來るのであつた。どうしたのだらうと私たちは不審がつたが、妻はお茶の師匠の處でそこの小犬を一寸撫でてやつたことを思ひ出した。

 マルは翌年の秋、死んだ。あまり吠えつくので、誰かが鐵片を投げつけたらしく、その疵がもとで、犬はぽつくりと死んだ。恰度、私の妻は最初の發病で、入院中であつた。茫とした國道の裏にある、小さな病院の離れで、妻は顏を火照らしながら、ひどく苦しさうであつた。その病院から、ほど遠からぬ荒れはてた墓地の片隅に、マルは埋められた。

(小林先生はマルを手術した翌年、本町の方へ轉宅した。だが、その後も私の妻と先生の細君とは仲よく往來してゐたし、妻が病氣してから他界する日まで絶えず私たちは先生のお世話になつてゐた。)

 

[やぶちゃん注:「昭和十一年のはじめ」一九三六年年初の頃は、原民喜は満三十歳、貞恵は満二十四かと思われる。結婚して三年目の春を迎えていた(二人の結婚は昭和八(一九三三)年三月)。以下、本「吾亦紅」全篇のロケーションは当時夫妻が昭和九(一九三四)年初夏より住んでいた千葉県千葉市登戸(のぶと)町(現在の千葉市中央区登戸)の家である。底本年譜を見る限りでは民喜は作家稼業で定職には就いておらず、この年の四月頃から『三田文学』への投稿が多くなり、戦前の民喜の最も旺盛な作家活動の一ピークを成した(しかし、昭和一四(一九三九)年九月の貞恵の発病と同時に発表作品は減ずることとなる)。

「攫はれて」「さらはれて(さらわれて)」。

「隣家の細君」この人は原民喜の「忘れがたみ」の「南瓜」(リンク先は私の恣意的正字化版)に出る「隣の奧さん」に違いない。そう、思いたい。

「蘇我」現在の千葉県千葉市中央区蘇我町のことであろう。登戸からは南西海沿いに五キロメートルはある。

「翌年の寒中」この寒中を限定した「寒の内」の意で用いているとすれば、昭和一二(一九三七)年の「寒の入り」(一月五日或いは六日頃)から「寒の明け」即ち「立春」(二月四日頃)前の約三十日間を指す。

「胯間」「こかん」。股間に同じい。

「小林先生」看護婦らの手際の良さから見ても、この先生は獣医師であったのではないかと私には思われる(普通の医師でもよいが、看護婦の対応はそう上手くは行かないと思われるからである)。但し、旧千葉医科大学(現在の千葉大学医学部の後身)或いは千葉大学内に農学部や獣医学科があった痕跡は発見出来なかった。しかし、立地的には牛馬や畜産と関連があり、当時、あったとしてごく自然であるとは思う。

「翌年の春」昭和一三(一九三七)年春。「恰度、旅から歸つて來た私」とあるのは、底本年譜に『この年春、京都周辺を単独で旅行する』(同年譜は小説のための取材旅行と推定)とあるのと一致する。

「弄つて」「いぢつて(いじって)」。

「翌年の秋」「恰度、私の妻は最初の發病で、入院中であつた」昭和一四(一九三九)年に貞恵は発病(この場合、結核の最初の喀血と考えられる)している。この叙述によって、昭和十四年の秋には貞恵が最初の入院をしていることが判る。貞恵の死去は昭和一九(一九四四)年九月二十八日であるから、「マル」の死から五年後のことであった。

「小林先生はマルを手術した翌年、本町の方へ轉宅した」「本町」現在の千葉県千葉市中央区本町であろう。登戸から直線で二キロメートル強、(リンク先は私の原民喜「忘れがたみ」の「飛行機雲」)千葉大学医学部附属病院の北西直近である(ということは、この先生はやっぱり獣医ではなく、医師かなぁ)。また、この前に「私の家の前に小林先生が移轉して來た」とあり、小林先生の家は原家の「前隣」であったことが判る。……そうか……その後に……あのいやらしい「前隣」の「隣人」(私の原民喜「雜音帳」の「にほひ」を参照)が来たという訳だったのか……]

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蠅虎

Haetorigumo

はへとりぐも 蠅豹子

蠅虎    蠅蝗

      【和名波倍度里】

イン フウ

 

和名抄云蠅虎似蜘蛛恒捕蠅爲粮者也

按蠅虎其大三四分常在壁上而不能布網搆窠於壁

 隅開一門出入捕蠅也甚逸而色灰班故得虎豹之名

 蠅如逢之則不遁其害如禾苗之蝗故名蠅蝗矣

太平廣記云午日取蠅虎杵碎拌豆自踊躍可以擊蠅

 

 

はへとりぐも 蠅豹子〔(ようへうし)〕

蠅虎    蠅蝗〔(ようこう)〕

      【和名、波倍度里(はへとり)。】

イン フウ

 

「和名抄」に云ふ、『蠅虎は蜘蛛に似て、恒に蠅を捕へて粮(かて)と爲る者なり。』〔と〕。と。

按ずるに、蠅虎、其の大いさ、三、四分。常に壁の上に在りて網を布〔(し)〕く能はず。窠を壁の隅(すみ)に搆〔(かま)〕へて一門を開き、出入〔り〕し、蠅を捕ふることなり。甚だ逸(はや)くして、色、灰班〔(はひまだら)〕。故に虎豹の名を得。蠅、如〔(も)〕し之れに逢ふ時は、則ち、其の害を遁(のが)れず。禾苗〔(いねのなへ)〕の蝗〔(いなご)〕のごとし。故に蠅蝗と名づく。

「太平廣記」に云ふ、『午〔(うま)〕の日、蠅虎を取りて、杵(つ)き碎(くだ)き、豆に拌(かきま)ぜれば、自〔(おのづか)〕ら踊躍(おどり)りて、以つて蠅を擊つべし。』と。

 

[やぶちゃん注:これは陸棲の虫嫌いの私が特異点で偏愛する、

クモ目ハエトリグモ科 Salticidae のハエトリグモ(蠅捕蜘蛛)類

である。数多くの種がいるが、我々が普通に室内で出逢うのは、

スジハエトリグモ属チャスジハエトリ Plexippus paykulli

オビジロハエトリグモ属アダンソンハエトリ Hasarius adansoni

など、人家の外壁などで見かけるそれは、

シラヒゲハエトリグモ属シラヒゲハエトリ Menemerus brachygnathus

などが代表種であるようである(以下の引用を参照されたい)。ウィキの「ハエトリグモによれば、正面の二基の『大きな目が目立つ小型のクモ。その名の通り、ハエ類を含む小型の虫を主食とする益虫であるが、クモをねらうもの、アリを食うものなど、特殊なものもあり、さらには草食を中心としたものの存在も知られている』。『捕獲用の網を張らず、歩き回りながら獲物を狩る徘徊性のクモである。一部の種は都市部や人家にも適応しており、日常の中でよく出会うクモで』、『非常に多くの種類がある。いずれも比較的小型で、足も長くないが、よく走り回り、ジャンプも得意』であることから、英名も「jumping spider(ジャンピング・スパイダー)」である。『歩きながらえさを探す徘徊性のクモで』、『目が大きく発達しているのが特徴で、前列に』四基の『目が、正面を向いて配置する。前中眼が最も大きく、前側眼はやや小さい。後の』同じくある四基の『目は頭胸部の背面周囲に並び、小さい。前方に向かう目は、視力がよく、ものの形も分かるとされている。ものを見るときには、この目でとらえようとするので、ハエトリグモに後ろから忍び寄ると、体をひねって振り返る様子が見える』。『また、このように視力が良いためか、ハエトリグモは、配偶行動などでも、視覚に訴えるような、手振りや体を上下させるような動きでやりとりをするものが多い。雌雄で色彩に違いがある性的二形がはっきりしたものも少なくない。ただし、他のクモと同様に震動が利用される例もあることが知られている』。『頭胸部は大きな目が並ぶ前面がほぼ垂直に切り立っており、そこから後列の目が外側に並ぶ台形部分が盛り上がっており、後方は低くすぼまる。腹部は楕円形』を呈し、『足は比較的太くて短いものが多い。足先の爪は』二本を有し、『その間に粘着毛を持つ。これによって、ガラス面でも歩くことができる』。中でも第一脚は『太くなっているものが多い。その前足を持ち上げて構える姿がよく見かけられる。また、配偶行動において前足を振るものには、特に色がついていたり、毛が生えていたりと、目立ったものがある。アリグモ』(ハエトリグモ科アリグモ属 Myrmarachne)『の場合、前足は細く、それを持ち上げて先端の数節を折り曲げるため、アリの触角に見えるようになっている』。『ハエトリグモ類は種類が多いが、その外見的特徴には共通点が多く、一見してハエトリグモと判断できる。その代わり、科の中の分類は問題が多く、歴史的に何度も構成が変わっている』。『生活史を通して徘徊性で、歩き回って餌を捕らえる。餌は昆虫を中心とした小動物である。餌を発見すると、そっと近づき、十分な距離に達すると、前列眼で距離を見極め、一気に跳躍して飛びかかることができる。なお、歩くときは常に糸を引いており(しおり糸)、失敗しても地上に落ちることはない』。『特殊な餌をねらうものとしては、アオオビハエトリ』(オビハエトリグモ属アオオビハエトリSiler vittatus)『が地上のアリの列のそばにいて、アリをねらうことが知られている。また、沖縄にも分布する』ケアシハエトリグモ属ケアシハエトリPortia fimbriata はヒメグモ類(クモ目ヒメグモ科 Theridiidae)など、『小型の造網性のクモを主として餌とする。また、ハエトリグモ類の仲間であるバギーラ・キプリンギ』(Bagheera  Bagheera kiplingi:主に北米南部から中米にかけての熱帯地域に棲息し、本邦には産しない)は、『クモでは珍しく草食を中心としている』。『他に、アリグモ類』(アリグモ属 Myrmarachne)『はアリにそっくりな姿で、アリに擬態しているとされる』。『繁殖時には、雄は雌の周りで前足や触肢を振るようにして独特のダンスをする。雌は産卵に際して、狭い空間を糸の膜で区切った巣を作り、その中に卵のうをつける。卵のうは薄く糸にまかれて巣の底につける』。『世界中に広く分布するが、熱帯に種類が多い。様々な環境に、それぞれ多くの種がある』。『日本の人家の中でよく見かけるのは、アダンソンハエトリとチャスジハエトリ、家の外壁にはシラヒゲハエトリが多い。人家に出没するものは、ほかに数種ある』。『平地の山野では、草の上に』コゲチャハエトリグモ属ネコハエトリ Carrhotus xanthogramma、マミジロハエトリ属マミジロハエトリ(眉白蝿捕)Evarcha albariaなどが『普通種である。地上では』オビハエトリグモ属アオオビハエトリ Siler vittatus やウデブトハエトリ属ウデブトハエトリ Harmochirus insulanusなどが『見かけられる。ヤハズハエトリ類』(オオハエトリグモ属 Marpissa の類)『は、いずれも細長い形をしており、ススキ類の葉の上の生活への適応と考えられる。かつて、農村周辺の茅場に多く見られた』。『山地や森林にも様々な種がある。海岸では高潮帯の岩の上に』Hakka 属イソハエトリ Hakka himeshimensis がいる。文化史的には、『かつては、子供の遊びとしてハエトリグモにけんかをさせるほんち(ホンチ)などがあり、ネコハエトリやヤハズハエトリ類などが用いられたという』。『また江戸期の一時期(寛文から享保頃)には、ハエトリグモを「座敷鷹」と呼んで、蝿を捕らせる遊びが流行した。これは大人の遊びで、翅をやや切って動きを制限したハエを獲物とし、複数のハエトリグモにそれを狩り競わせるというものだった。文字通り、鷹狩りの室内版だったのである』。『やがて座敷鷹が娯楽として定着するにつれ、クモを売る商売やクモを飼い置くための蒔絵を施した高価な印籠型容器まで出現した。強いクモは非常に高価で、当時の江戸町人の平均的な月収に相当したという。後には廃れたが、一説には賭博の禁止令により、博打の対象となっていた座敷鷹の遊びも消滅していったとされる』。またパソコンの『モニタ画面上にいるハエトリグモの周囲でマウスポインタを動かすと、画面のマウスポインタを餌と誤認して狩猟態勢に入る』ともある。

 

・『「和名抄」に云ふ、『蠅虎は蜘蛛に似て、恒に蠅を捕へて粮(かて)と爲る者なり。』〔と〕』「和名類聚抄」を見ると、

   *

蠅虎 兼名苑注云蠅虎【和名波倍度里】此虫似蜘蛛恒捕蠅爲粮者也崔豹古今注云蠅虎也一名蠅蝗一名蠅豹子

[やぶちゃん字注:「」=「虫」+「爪」。]

   *

とある(因みに、この「崔豹」は「古今注」を著わした西晋の官吏の名であって、本種の「蠅豹子」という別名とは関係がないので注意されたい)。実は「本草綱目」には立項されておらず、辛うじて「蠅」の項に『一種小蛛、專捕食之、謂之蠅虎者是也』とあるだけなのである。

・「三、四分」九十一ミリメートルから一・二センチメートル。

・「太平廣記」宋の李昉(りぼう)ら十三名が編した類書(百科事典)。全五百巻。九七八年成立。太宗の勅命によって正統な歴史にとられない古来の野史・小説その他の説話を集め、内容によって神仙・女仙・道術・方士等、実に九十二項目に分類配列されてある。

・「午〔(うま)〕の日、蠅虎を取りて、杵(つ)き碎(くだ)き、豆に拌(かきま)ぜれば、自〔(おのづか)〕ら踊躍(おどり)りて、以つて蠅を擊つべし」「四庫全書」巻四では『五月五日、捕蠅虎杵拌豆、豆自踴躍、可以擊蠅』となっている。これは何とも不思議な謂いで、ハエトリグモを磨り砕いて、それを豆の中に入れてかき混ぜると、ああら! 不思議! 豆が自然に踊り出して、蠅を攻撃するというのである!]

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「門」 / 忘れがたみ~完

   門

 

 見たこともない土地の夕暮であつた。若い男がとぼとぼと砂の道を歩いて行つた。糠のやうな砂は男の踵を沒し、一足ごとに疲れは加はつてゐた。それでも男は歩いて行かなければならなかつた。炎暑のほとぼりをもつた空には低く雲が迷つてゐ、行手は茫漠として果しもないやうであつた。

 若者は立留まつて、ふと、

「遠い遠い道だなあ」と嘆息した。

「どこを歩いてゐるのです」と、その時頭上の雲の裂間から母親の聲が洩れた。

「遠い、遠い道……」若者はしづかに答へた。

 しばらくすると、若者の目の前には大きな大きな琥珀色の石の砦が現れて來た。彼はやや嬉しげにその城門を見上げようとした。だが、城門のてつぺんは目もとどかない大空の高みにあつた。

「高い高い門だなあ」と彼は力無げに呟いた。

「どんな風な門なのです」と今度は前よりもつと感動にふるへる母親の聲がした。

「大きな、大きな門……」彼は低く低くうなだれるやうに應へた。

 息子を喪つた婦人が私の妻の七七忌にやつて來て、臨終の話をしてゐた。その話を私はいつのまにか、こんな風な夢につくりかへてゐた。

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「霜の宿」

   霜の宿

 

 私は十年あまり住み慣れた、この借家を近いうちに引上げようかと思つてゐた。寒い夜半、ふと六疊の方の窓邊にある木瓜の木と芙蓉の木が思ひ出された。あの木も今はみんな落葉して裸木になつてゐるのだが、毎年春さきには木瓜の木が朱い蕾をもち、厚ぽつたい花をひらゐたし、秋になると芙蓉の淡い花が、つぎつぎに咲いては墜ちて行つた。そして、木瓜の花も芙蓉の花も、ある時のある氣分の、亡妻の面影に似かようてゐるのであつた。さう思ふと、窓邊にある裸木の姿が頻りと氣に懸つた。

 翌朝窓邊に立つて、しみじみと眺めれば、ひどい霜に土は歪んで、木瓜も芙蓉も寒々としてゐる。

  さればこそ荒れたきままの霜の宿

 ふと、芭蕉の句が思ひ出されたのである。

 

[やぶちゃん注:「私は十年あまり住み慣れた、この借家を近いうちに引上げようかと思つてゐた」既に注したが、原民喜が妻貞恵と昭和九(一九三四)年初夏から住んで居た千葉県千葉市登戸(のぶと)町(現在の千葉市中央区登戸)から、郷里広島の実家に戻るのは貞恵が亡くなって約四ヶ月後の昭和二〇(一九四五)年一月末のことである。

「さればこそ荒れたきままの霜の宿」「笈の小文」の旅の途次、禁制の空米(くうまい)取引坪(先物取引)で罰せられて家財没収。領分追放の刑を受けて、伊良湖岬に配流されていた名古屋の米穀商で愛弟子であった坪井杜国を訪ねた際の一句である。本句のシチュエーション、異型句その他についは詳しくは私の芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねるを参照されたいが、リンク先の私の注は分量膨大にして、お読みになるのであれば、相応の覚悟が必要であることを申し添えておく。貞亨四(一六八七)年で芭蕉の伊良湖行は十一月十日から十四日、本句はまさにその杜国の配流先の茅屋を尋ねた折りの一句である。当時芭蕉は数えで四十四歳であった。芭蕉は十一月十一日と十三日と三日間、杜国邸に泊まっているから、これはその十一日若しくは翌十二日の杜国謫居での詠である。杜国邸到着の十一日深夜と想像する方が、荒涼感に何とやらんもの凄さを加えてよいように私に思われる。「笈日記」の「さればこそ逢ひたきまゝの霜の宿」という句形は面白い謂いで、これなら挨拶句になると思うが、風国編「泊船(はくせん)集」では、ただの書き誤りと断じている。予期していたこと(この場合は不安)がまさに的中した際に発する異様な「さればこそ」という感慨の措辞については、何か杜国の内実に深く感じ入った芭蕉の感懐が示されてあると言える。「艸芳サイト」の「笈の小文」の「保美(伊湖)」の頁では、先に示した杜国の弟とも目される坪井庄八の、この訪問の五ヶ月前に起きた殺人と斬首の一件が「さればこそ」と芭蕉に歎かせた告白ではなかったかという、興味深い仮説(八木書店一九九七年刊の大礒義雄氏の「芭蕉と蕉門俳人」に依拠されたものらしい)を立てておられ、なかなか説得力がある。この「荒れたきままの」という表現の特異性は非常に面白い(「荒れたる」ではつまらぬ)。この「たき」は私は形容詞ク活用型の接尾語「たし」(「痛し」の頭の母音が合成語を成す際脱落した形とされる)と採り(その様子や状態が甚だしい意を表す形容詞を作るもので、所謂「めでたし」のそれである)、「荒れたし」(の連体形)で荒れたい放題に荒れまくっていることを強調する語と考えている。私がわざわざこんなことを述べるのは、本句について文法的に私自身が納得出来る解説に出逢ったことが、実はないからである。]

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「椅子」

   椅子

 

 おまへが靜かに椅子に横たはり、あたりもひつそりとして吐く息、吸ふ息を數へながら、うつとりとしてゐると、空氣も爽やかに澄み亙り、おまへのふるさとの山のはざまの靑空が浮かび、とびかふ小鳥のさへずりもきこえ。

 

 おまへが椅子のうへで頰を火照らしてゐるとき、海の近いこの土地の、わるい濕氣や、南風や、苛立たしい光線などが皮膚のすみずみに甦り、何もかも堪へ忍ばねばならぬ人間のかなしさがむねをふさぎ。

 おまへの嘆き、歡び、背の恰好をのこしてゐる椅子。

 

[やぶちゃん注:第一段落と第二段落の行空けはママ。

「海の近いこの土地」民喜夫妻が当時住んでいた千葉県千葉市登戸(のぶと)町(現在の千葉市中央区登戸)のことを指すと考えてよい。地図を見ていると、当時の登戸地区の海岸側は海から六百メートル(或いはもっと遙かに短い)圏内にあったものと思われる。現在の千葉街道登戸交差点の直近にあるバス停に「登戸海岸渚跡」という名を見出せる。]

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「けはひ」

   けはひ

 

 ごそつと机の引出を開ける音がする。紙をめくつてゐるけはひがする。……私が徹夜して書いた原稿を讀んでゐるのだ。紙をめくる音も歇む。障子にはたきをかけだしたやうだ。……その頃私は床にゐて、妻の動作をぼんやり感じてゐるのが好きだつた。

 いいものが書けた時は、妻の顏色も爽やかであつた。私も救はれるやうな氣持がした。だが、いいものは書けず、徹夜しても白紙のままのことが多かつた。そんな時、私は妻の動作の微細なところまで氣に懸つた。……俎でコトコト菜葉を庖丁で叩いてゐる。コトコトといふ細かい音の中に何ともしれぬ憂鬱が籠つてゐる。私は暗默に咎められてゐるのだつた。

 このやうにして、昔の月日は水のやうに流れて行つた。……だが、近頃でもひとり家にゐると、私はどこか見えない片隅に懷しいもののけはひを感じる。自分の使ふペンの音とか、紙をめくる音のなかに、いつのまにやら、ふと若い日の妻の動作の片割れが潛んでゐる。

 

[やぶちゃん注:太字「はたき」は底本では傍点「ヽ」。]

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「ある朝」

   ある朝

 

 庭の酸漿が赤く色づき、葉が蝕まれたまま、すがれてゆく頃、私は旅に出て、山の宿でさびしい鳥の啼聲を聽いた。夜のあけがた、何か訴へるやうな、かすかな、せつなげな聲が夢うつつに私の耳に入り、それがいつまでも魂にこびりついた。

 その頃、妻はよくものごとに苛立つてゐた。見慣れた顏ながらときにひどく濃艷であつたり、どうかすると透き徹つたやうな謎の顏つきをしてゐた。眼球が大きくなり、ギラギラ燃えてゐた。

 ある朝(それは昭和十四年九月十日のことであつた)私はまだ床にいて、よく目も覺めきらなかつたが、とくに起出してごそごそやつてゐる妻のけはひを隣室に感じてゐるうち、ふと、かすかな、せつなげな、絶え入るばかりの咳の聲を聞いた。私は寢卷のまま飛出して隣室に行つてみた。妻はぐつたりとして、かすかに笑顏をした。それはたつた今生じたことを容易に信じかねるやうな、稍うはずつて美しい顏であつた。だがこれが我々の身の上を訪れた最初の霹靂であつた。

 

[やぶちゃん注:貞恵の最初の喀血を描く。底本年譜も昭和一四(一九三九)年九月の条に貞恵の発病を記す。初段の旅は恐らく、その前年の昭和一三(一九三八)年の夏、箱根へ数日の遠出をした経験を指すものかと思われる(この年の春にも京都周辺を単独で旅しているが、「酸漿」(ほおづき)が色づくのは六~七月であるから時期が合わない)。同年譜にはこの二つの旅行について、『いずれも、小説のための取材旅行というべき歩行とみられる』とある。]

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「こころ」

   こころ

 

 わたしが詩を書いて病院に持つて行くと、妻はベットで顏の上にそれをひらいて讀み、讀んでからよくかう云つたものだ「わたしの氣持とそつくりではないのかしら、これは……」さうして、妻は不思議さうな顏をした。その顏が私には不思議でならなかつた。

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「勘」

   勘

 

「勘がないのですか、打てば響くといふやうになつて下さい」と、病妻はよく私のことを零した。こまごました看病と體を使ふ雜用のため、頭は茫として、私の勘はだんだん鈍つて行つた。が、妻の方は反對に病氣が進んでゆくに隨つて、直覺力が冴えて行つた。あの病氣につきものの、極微なものをしつこく穿鑿しようとする癖や、遠方にゐる人の氣持まで透視しようとする望みが、死期の近づくとともに募つて行つたのである。そうして、大概の場合、妻の豫言は的中してゐた。

 簞笥や、押入の中にある品物の數量と位置をちやんと記憶してゐるのも、街の路筋や、どこの店には何があり、どこそこの家の隣りは誰が棲んでゐるかといふことなど、或は過去の忘れはてた瑣事をふと記憶の底から呼び起すのも、寢た儘動けない病人の方であつた。それ故、私は妻を喪つたことに依つて、何か大きな空隙ができてしまつた。

 

[やぶちゃん注:「零した」「こぼした」。不平・愚痴などを言うの意。ぼやく。

「あの病氣」結核。]

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「讀書」

   讀書

 

 妻はあまり讀書家ではなかつた。範圍も狹く、好みも偏つてゐたし、それに病氣してからは餘程氣分がいい時でないと讀書しなかつた。

「ドルヂエル伯の舞踏會」を讀んで興奮して熱を出したことがある。チェーホフや、モーパツサンの短篇を好み、シエークスピヤの豐饒さに驚き、健康になつたらこれはみんな讀んでみたいと云つてゐた。どうも、讀んだ後で鬱屈した氣分を解放してくれるものを好んだやうだ。

 鏡花の「高野聖」の頓智や芥川の「河童」の機智を愛し、里見弴の彈むやうな文體に惹かれ、十和田操を期待してゐた。それから、堀辰雄のものも讀んでゐた。

 惟ふに、機智や諧謔の表面的な面白さより、それを創り出す人間性の逞しさに憧れてゐたのかもしれない。私はいつかはセルバンテスを讀ませたかつた。

 死ぬる半年程前のこと、妻はプーシキンの「ベールギン物語」を讀んでひどく喜んだ。いかにもプーシキンの短篇は病人に讀ませていい書だ。私は病人に向く小説といふものを考えてみたし、そんなものを書いてみたかつた。

 

[やぶちゃん注:私は私のよく知り、好むところの作家(里見弴は好まないが比較的よく知ってはいる)や文芸作品については原則、注をしない(ここでは「ベールギン物語」の注は例外的。私自身が遠い昔に読んでいるものの、内容を忘れているからである)。悪しからず。

「ドルヂエル伯の舞踏會」デビュー第一作「肉体の悪魔」(Le Diable au corps)で知られる夭折(死因は腸チフスとされる)のフランスの作家レイモン・ラディゲ(Raymond Radiguet 一九〇三年~一九二三年)の二番目の小説にして遺作となってしまった長編小説「ドルジェル伯の舞踏会」(Le Bal du comte d'Orgel)。ウィキの「ドルジェル伯の舞踏会によれば、『頽廃的な社交界を舞台に、貞淑な人妻の伯爵夫人が夫への貞潔と、青年への情熱との板ばさみに苦悩する三角関係の恋愛心理の物語』。『フランス伝統の心理小説に連なる傑作とされ』る。『ある日知り合った青年へ恋心を抱き、その燃え上がる情熱を自制しようと苦悩する貞淑な夫人の感情の動きと、仮装の社交界で孤独を感じる青年の一途な慕情との絡み合いを中心に、人工的感情の仮面をつけた様々な人物がそれと意識せずに弄する心の軌跡を、盤上のチェス駒を動かすかのような端麗なる筆致と硬質な文体で細密画のように美しく描いている』。「心理がロマネスクであるところの小説」、「もっとも純潔でない小説と同じくらいにみだらな貞潔な恋愛小説」(レイモン・ラディゲ「ノオト」(生島遼一訳)(引用元は一九七〇年(改版)新潮文庫刊「ドルジェル伯の舞踏会」)を『企図した作品で』、『簡素な三角関係の筋立てながらも格調高く、夫人の秘めやかで熾烈な恋を通じて、結末で古典劇のヒロインのような壮大な姿に化身する小説的美学が示されている』とある。私は大学時分に「肉体の悪魔」とともに読んだが、正直、退屈であった。

「十和田操」(とわだみさお 明治三三(一九〇〇)年~昭和五三(一九七八)年)は作家。本名は和田豊彦。岐阜県郡上郡生まれで父は逓信官吏であった。大正一三(一九二四)年。明治学院高等学部文藝科卒(在学中に受洗した)。上京して時事新報社に入り、昭和四(一九二九)年に同人誌『葡萄園』に参加、吉行エイスケ・古谷綱武らを知る。昭和一一(一九三六)年に時事通信社が解散、翌年、朝日新聞社に入社した。昭和一四(一九三九)年には「屋根裏出身」で芥川賞候補となっている(貞恵発病の年である)。兵役で満洲・フランス領インドシナに転戦した。戦後も朝日新聞に勤める傍ら、創作を行った(以上はウィキの「十和田操」に拠った)。民喜より五歳年上であった。広島市立中央図書館の原民喜関連資料詳細目録(PDF:貞恵の弟で文芸評論家であった佐々木基一夫人永井いく氏から広島市が寄贈を受けたもののリスト)に戦後の十和田からの民喜宛書簡(目録番号七六〇から七六五・一四〇九の計七通)や十和田の名刺などが残されていることから、その簡単な注記内容から見ると、民喜から『三田文学』に載せる原稿依頼などがあったこと、十和田が「夏の花」の感想などを綴っているらしいことが判る。七六〇番書簡(封書)は昭和二二(一九四七)年五月三十日附で(この前年の三月号に本「忘れがたみ」は掲載されているから、十和田はそこに自分の名が記されていること、民喜の妻貞恵が彼を高く評価していた事実を知っていた可能性が高い)、その注記には『おなつかしく存じました。』『奥様のご冥福をお祈りしてやみません。』とあり、原稿依頼のお礼が朝日新聞東京本社用箋に記されていることが判る。この『おなつかしく存じました』という言葉からは寧ろ、戦前からの民喜との接触を感じさせるものであり、名刺には裏に手書きの地図が記入されている。直接の面識もあったものと考えてよい。私は彼の小説を一作も読んだことがない。

「ベールギン物語」ロシアの詩人で作家のアレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン(Александр Сергеевич Пушкин 一七九九年~一八三七年)の書いたロシア近代文学に於ける散文小説の濫觴とされる一八三一年刊の短編小説集(前年の秋、プーシキン三十歳の時の執筆)。現行では一般には「ベルーキン物語」(Повести Белкина)と表記する。「その一発」「吹雪」「葬儀屋」「駅長」「贋百姓娘」(私の所持する一九六七年岩波文庫刊神西清訳「スペードの女王・ベールキン物語」の邦題)の五篇から成る。冒頭の「その一発」「駅長」は悲劇と哀話であるが、残る三つはどちらかと言えば、『明るい諧謔の調べ』(前記神西氏訳本の解説)を有するものである。]

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「知慧」

   知慧

 

 妻は私にとつて、なかなかの知慧袋であつた。私は妻から障子の貼り方、キセル掃除の仕方、アイロンの掛け方、字畫の順序、算盤の加算などを教はつた。字畫の順序とか、算盤とかいふものは子供の時に教へ込まれて居なければならない筈だと、妻は病床で齒痒がつた。

 火のおこし方とか、米の磨き方とか、洗濯・掃除なども、女中が雇へなくなつてから私は習ひ覺えた。

 そのほか、一つ一つは憶ひ出せぬ細かなことを教はつたと思ふし、もつと妻が生きてゐて呉れたら、まだまだ何かを教はつたであらう。實際、人生に於ては常に教はらねばならぬこまかな事柄があるのに、私はこの齡になつて驚かされるのである。

 

[やぶちゃん注:いろいろ考えた末、「智慧袋」の「袋」は底本のままの用字とした。

「この齡」これは発表時のそれ(昭和二一(一九四六)年三月号『三田文学』に発表。当時の民喜は満四十歳)ではなく、冒頭の「飛行機雲」で考証した通り、作品内の主人公(筆者)の措定時間である昭和一九(一九四四)年一月頃である。この時ならば、民喜は満三十九歳(彼は明治三八(一九〇五)年十一月十五日生まれ)である。]

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「耳」

   耳

 

 もともと、よく訓練された耳ではなかつた。人の云ふことを聞き違へることもなかつたかはりに、人の口眞似を巧みにこなすことは出來なかつた。活々した抑揚とか、快い發聲法はなく、ただ内に閃くもの、迸るものに隨つて聲を出すのであつた。その調子は時に唐突でもあつた。

 音樂も語學も身につけることが出來なかつたが、それだけに名曲を聽きたがつたり、英語の單語を覺え込まうとした。その耳が、病氣のすすむに隨つて、だんだん冴えて行つた。見えない所でする微かなもの音で、人の立居振舞や氣分まで察することが出來たし、他所の家のラジオではつきりと報道を聽きとることもあつた。耳はまた、しーんとして夜の靜寂を貫き流れる聲なき聲に聽き入らうとしてゐた。

 私はその耳にあまり優しい言葉を囁かなかつたが、だが、竊かにこの頃懷ふことがらを、その耳は他界にあつて聽きとるであらうか。

 

[やぶちゃん注:「迸る」「ほとばしる」。]

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「眼」

   眼

 

 よく働く眼であつた。ちらつとものを竊視ることも出來たし、靜かにものを見詰めることもできる眼であつた。どんな細かなものも見落すまいと褐色の眸は輝き、一眼でものの姿を把へようと勝氣な睫は瞬いた。手先仕事のちよつとした骨(こつ)なら傍から見ていて、すぐに覺えとつてしまふ眼であつた。眼分量のよくきく眼であつた。マツチの大箱に軸が何本這入つてゐるか、眼で測つて、後で數へてみると殆ど差がなかつた。

 熱が出ると、その眼は潤んで、大きく見開かれた。頰の火照りをじつと怺へてゐて、何かを一心に祈つてゐる眼であつた。

 人の氣持に先𢌞りしようとする眼であつた。その眼からはとげとげしいもの、やさしいもの、うれしげなものがいつも活潑に飛び出た。

 私はその眼が末期の光を湛へて、大きく虛ろに見開かれたのを忘れはしないが、あの時の相は私の心に正確には映らなかつた。むしろ、夜の闇の中で考へてゐると、まざまざと甦つて來るまなざしの方がかなしいのである。

 

[やぶちゃん注:「竊視る」「ぬすみみる」と訓じておく。

「眼分量」「めぶんりやう(めぶんりょう)」目分量。

「怺へて」「こらへて」。「堪えて」に同じい。]

2016/05/01

耳鳴りのサンボリズム

私はこの一ヶ月前から何時になく激しい耳鳴りに常時襲われている。さればこそ言えるのであるが――最も忌まわしく堪え難くおぞましいものは我々の外部にあるのではなく――我々の脳に存在しているのである――

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「手」

   手

 

 いたづらつぽい、小さな手であつた。指もすんなりとして指さきは圓々としてゐた。どの爪も、爪のつけ根にある三日月型のところが、はつきりと白かつた。器用で、敏捷で、可憐な手だつた。その手は、活花や習字やお茶の稽古にいそしんで來た手だつた。その手は指にふつくらと肉が盛り上り、笑靨の浮んだやうな、健やかな手になりたがつてゐた。

「よく寫眞を視てみると、どの寫眞もお茶の手つきをしてゐる」と嫂は云つた。發病する前、睡れない床で、その手は茶の湯の手前のことばかりを考へてゐたのだ。

 不思議なことに、どんなに容態が惡い時でも、爪のつけ根の三日月型は白く冴えて美しかつた。死んで行つた時も、その三日月は消えなかつた。

 私は古い寫眞をとりだして、指のところを注意して視た。やつぱり、くつきりと白い三日月は昨日のやうに殘つてゐるのであつた。

 

[やぶちゃん注:「笑靨」「えくぼ」。

「發病する前」民喜の妻貞子の発病は、全集年譜では昭和一四(一九三四)年九月で、貞子は満で二十八の年であった。]

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「日和下駄」

   日和下駄

 

 もう五年も前のことになるが、弟の入營を郷里まで見送りその歸りに日和下駄を一足買つて戾つた。輕い桐の臺の、赤い緒の、値段も廉いものであつたが、どこか、がつちりとした恰好が好もしく、氣輕に足を載せてみたくなるやうな品であつた。病床の妻はそれがよほど氣に入つたらしく、氣分のいい時など疊の上で履いてみたりしたが、早くその齒をぢかに黑土に觸れる日を待ち望むやうに、そつと履物を勞はつては仕舞込んで置くのであつた。

 けれども下駄の履ける日はなかなかやつて來なかつた。重態になつてからも、妻はよくその下駄を枕頭に持つて來て見せてくれと云つた。緒の色も今は少し派手であつた。が、矢張その下駄をきりつと履きしめて歩ける日を夢みてゐたやうだ。

 天氣のいい日など、私は今もあの下駄を履いて身輕に歩き廻る姿を思ひ浮かべ、その足音を耳の底に聽きとらうとするのである。

 

[やぶちゃん注:「日和下駄」老婆心乍ら、「ひよりげた」と読む。歯の低い、差し歯式の下駄。呼称は濡れたり、汚れたりする虞れのない晴天の日に主に履くことによる。

「五年も前のこと」昭和二〇(一九四五)年初から五年前とすると、昭和一五(一九四〇)年かその前年。

「弟の入營」大正五(一九一六)年生まれの民喜の弟で七男の敏(民喜より十一年下)。六男の六郎は夭折している。]

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「きもの」

   きもの

 

 大學から大先生が來診して下さると決まると、妻は急いで新しい寢卷にとりかへた。鋭い麻の葉模樣の浴衣であつた。それを着たまま三日後には死んで行つた。が、あの浴衣はたしか昨年、大學に入院した最初の日にも着てゐたものであつた。麻の葉模樣の靑地に白く浮出た鋭い線が、瘦せた軀に喰ひ込むやうに絡んでゐて、それはふと私の心をかきむしつたのであつた。妻も悲壯な氣持であつたのに違ひない。

 小豆色のぱつと明るい、鹿子絞の羽織を妻は好んで病院では着てゐた。齡にも似合はない派手なものであつたが、それをかたきのやうに身に着けてゐたのも、今にして思へば、悲壯な心からかもしれない。

 白いフランネルの寢卷。これはむかし新婚の旅先で彼女がトランクからとり出して着、「この寢卷のことをいつかはきつと書いて下さい」と云つてゐたものだ。それほど好きだつた寢卷も病床で着古し、今はすつかりすりきれたやうになつてゐる。

 

[やぶちゃん注:「それを着たまま三日後には死んで行つた」あるから、初行のシーンは、逝去の昭和一九(一九四四)年九月二十八日の三日前、九月二十五日の回想である。

「鹿子絞」「かのこしぼり」と読む。括(くく)り絞り(絞り染めの一種。「括り染め」とも称し、布の一部を糸で括って染色し、括ったところを白く残す染色法)の一種で、絞り染の最高級品とされるもの。布を糸で括って染め上げた後に糸を解(ほど)いた際に仔鹿の背の班点のような模様に染め上げる技法。かつて京近郊で生産されたことから「京鹿子(きょうがのこ)」とも呼ばれ、また、絞り目を、一つ一つ、丹念に指で摘まんで絞ることから「目結(めゆい)」と呼称する。この技法では着物一枚を絞るのに数ヶ月を要するものも多く、所謂、振袖などに用いられる。全体を絞りで埋めたものを「総絞り」、または「総鹿子」と名付けて最高の贅沢品とされる(以上は主に、着物の注でしばしばお世話になっている(私は全く不冥なため)「創美苑」公式サイト内の「きもの用語大全」の鹿子絞りとはに拠った)。グーグル画像検索「鹿子絞をリンクしておく。

「フランネル」(flannel)は両面を起毛した柔らかな平織り(経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に浮き沈みさせて織る織り方)、或いは綾織り(経糸が二本又は三本の緯糸の上を通過した後、一本の橫糸の下を通過することを繰り返して織られもの)の紡毛(ぼうもう)織物(羊などの短い毛で作った紡毛糸を用いた織物)。梳毛(そもう:羊毛などの短い毛を梳いて除き、長い毛のみを並べて紡いだもの)や綿を用いたものもある。「フラノ」「ネル」とも呼ぶ。

「この寢卷のことをいつかはきつと書いて下さい」貞恵さん……あなたの夫は本当に日本一の夫でした。……

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「手帳」

   手帳

 

 枕頭においてゐた小さな手帳には遺言狀をしたためてゐた。その手帳の第一頁に、

 蓋(そは)もし衣にだにも捫(さは)ら

 ば愈(いえ)んと意(おも)へばなりイ

 エスふりかへり婦(をんな)を見て曰け

 るは女(むすめ)よ心安かれ爾の信仰な

 んぢを愈せり即ち婦この時より愈(いゆ)

と鉛筆で書いてあり「昭和十九年三月二十九日午後八時四十分」とある。私は妻が入院中糖尿の食餌療法のために誌してゐた、もう一つの手帳で、三月二十九日はどんな日だつたか調べてみた。すると、三度の食事を記入した欄外に「夜法話を聞き眠れなく氣分惡し、ホテリ」とある。ホテリといふのは頰が火照つて苦しいことである。

「蓋もし衣にだにも……」といふ一節はマタイ傳の中に見つかつた。が「十二年血漏を患へる婦うしろに來て其衣の裾に捫れり」といふ句に續くものであつた。

 十二年血漏を患へる婦――それを凝と睡れないで考へ詰めてゐた顏が、私には何だか怕しい。三月二十九日午後八時四十分、その時から妻も心安らかであつたのだらうか。

 

[やぶちゃん注:引用部は表記通り、全体が一字下げである。ブログでの表示の不具合を考えて、一行字数をわざと減じてある。

 この記載によって、彼女の入院が同年年初辺りであったこと、その後何時かは不明ながら、晩春か初夏には自宅での療養に切り替えたものと推定される。これは何度も引くが、底本年譜の昭和一九(一九四四)年の条の最初に、『三月、船橋中学退職。四月、一月より同居中の義弟、佐々木基一氏が、治安維持法違反の容疑で警視庁に検挙され、そのため妻貞恵の病状が悪化する』とあるから、入院の直後に弟の検挙があったものと思われる。或いは、これは「三月二十九日」であるから、そうした弟の検挙が近いかもしれないという不安が既に貞恵を襲っていた可能性も十分にあるように思われるのである。

 ここに貞恵が引いているのは新約聖書の「マタイによる福音書」の第九章第二十節から第二十二節の部分である。

 まず、私の持つ岩波文庫刊塚本虎二訳「新約聖書 福音書」から前後の部分(第九章も含めて引く(ルビは一部を省略し、各節の数字と空隙は詰めた。下線は私が引いた貞恵が引いた部分に相当する箇所である)。断食をしないイエスの弟子を洗礼者ヨハネの弟子が旧態然の戒律に基づいて批判し、それにイエスが敢然と「新しい葡萄酒は新しい皮袋に入れるべきである」という喩えで反論する(以下の冒頭の「こう話しておられると」はそこを受ける)、かなり知られたシークエンスの直後である。

   《引用開始》

 こう話しておられると、そこに一人の礼拝堂の役人が進み出て、しきりに願って言った、「わたしの娘がたった今死にました。それでも、どうか行って、手をのせてやってください。そうすれば生き返りますから。」イエスは立ち上って彼について行かれた、弟子たちも一しょに。するとそこに、十二年間も長血(ながち)にかかっていた女が近寄ってきて、後(うしろ)からイエスの上着(うわぎ)の裾(すそ)にさわった。「お召物(めしもの)にさわるだけでも、なおるにちがいない」と、ひそかに思ったのである。イエスは振り向いて、女を見ながら言われた、「娘よ、安心しなさい、あなたの信仰がなおした。」するとちょうどその時から、女はなおった。やがてイエスは役人の家に着いて、笛吹き男と騒いでいる群衆とを見ると、言われた。「あちらに行っておれ。少女は死んだのではない、眠っているのだから。」人々はイエスをあざ笑っていた。群衆が外に出されると、イエスは部屋に入っていって少女の手をお取りになった。すると少女は起き上がった。この評判がその土地全体に広まった。

   《引用終了》

次に、ウィキソースの「マタイ伝福音書」の「第九章(文語訳)」から貞恵が引いたのと同じ箇所を前の部分を含めて引く(節番号を除去し、総て繋げた)。

   *

視(み)よ、十二年(じふにねん)血漏(ちらう)を患(わづら)ひゐたる女(をんな)、イエスの後(うしろ)にきたりて、御衣(みころも)の總(ふさ)にさはる。それは、御衣(みころも)にだに觸(さは)らば救(すく)はれんと心(こころ)の中(うち)にいへるなり。イエスふりかへり、女(をんな)を見(み)て言(い)ひたまふ『娘(むすめ)よ、心安(こころやす)かれ、汝(なんぢ)の信仰(しんかう)なんぢを救(すく)へり』女(をんな)この時(とき)より救(すく)はれたり。

   *

この文語訳は貞恵のものとは異なる。そこで調べてみると、どうも上記のものは聖書文語訳でも「大正訳」と呼ばれるものであり、貞恵のものはそれ以前の「明治訳」と呼ばれるものであることが判った。文字列で検索したところ、文語明治訳の「馬太傳福音書」を電子化ものを発見したので当該箇所引く。句読点がないので、節(番号は省略)の間だけは一字空けを施した。

   *

十二年血漏を患へる婦うしろに來て其衣の裾に捫れり 蓋もし衣だにも捫らば愈んと意へばなり イエスふりかへり婦を見て曰けるは女よ心安かれ爾の信仰なんぢを愈せり即ち婦この時より愈

   *

まさに、これである。なお、「蓋(そは)」は通常、漢文で「けだし」と読み、「思うに」の謂いである。「捫(さは)らば」の「捫る」は「触る」であるが、この字は漢語としては「撫(な)でる」「探(さぐ)る」「捻(ひね)る」の意で、古語としては「捫(もじ)ふ」(もじう)で「捩じ(ね)る・捩(よじ)る」の意のハ行下二段活用動詞である。

 さて「血漏」(「ちらう(ちろう)」とは変な読みで「けつらう(けつろう)」であろうとは思う。塚本訳では『長血』)であるが、これは重い月経異常或いは激しい出血が続いて止まらない何らかの女性生殖器の重篤な疾患のようにも思われる。貞恵の場合、罹患していたのは結核とⅠ型糖尿病と思われるが、月経異常は女性の糖尿病患者の症状として挙げられるものではある。そうした実際を考えずとも、血糖値が異常に上がってしまう病いとは、見かけ上では素人ならば「血」の病いと認識するであろう(言っておくが、私はⅡ型の糖尿病で、三年前から血糖値上昇をコントロールするジャヌビアという薬物を一日一回服用し、取り敢えずはHbA1cで許容上限値ギリギリを守ってはいる)。

「怕しい」「おそろしい」。「怕」は民喜の好んだ字で、「こはい(こわい)」の訓でしばしば用いられる。

「法話」は通常は仏教の「説教」であるが、仏教が本来の義とする「説教」という語はキリスト教の「説教」と同義であるから、ここはキリスト教の「説教」を聴いたものと考えてよかろう。敢えて複雑に坊主の「法話」を聴いて気が滅入って「氣分」が「惡」くなったから、そこで新約聖書を開いて(或いは思い出して)「マタイ伝」の一節を綴ったなどとうがって考えるには及ぶまい。]

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「寫眞」

   寫眞

 

 その寫眞はいくつ位の時のものであらうか、娘の時撮つたものには違ひないのだが、不思議に變らぬ一つの相を湛へてゐたし、妻の顏といふものは時にさまざまに變つてゐたやうな氣もするが、やはり一つを貫いて流れるものがあつたらしい。最近の寫眞とても無かつたので、佛壇のほとりにその寫眞を飾つた。見れば無邪氣な表情のなかにも、神經質らしい閃きがあつた。義母も一枚その複製が欲しいと云ふので、街の寫眞屋に持つて行つて賴むと、期日は請合かねるが一ケ月もしたら來てみてくれと云つた。

 その後一ケ月もたつたが寫眞屋の前を通れば大概戸を鎖めてゐるのであつた。私はふとあの寫眞が紛失するのではないかと不安になつた。ある朝思ひたつて行つてみると、今年中は出來ないと寫眞屋の返事であつた。それで、一まづ寫眞を返してもらつた。オーバーのポケツトに入れて、急いで家に歸ると、早速とり出して眺めた。すると、その寫眞は長い間不自由な場所にゐて漸く歸つて來たやうな、吻として多少呼吸困難を訴えてゐるやうな、病み上りのいじらしい姿に見えるのであつた。

 

[やぶちゃん注:「吻として」「ほつとして(ほっとして)」。民喜はこれをかなり好んで用いる。]

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「南瓜」

   南瓜

 

 寢てゐて見える半間の窓に這ひ登つてゐた南瓜は、嵐で地面に叩き落されてしまつた。後にはよごれたトタン塀が白々と殘されてゐた。折角あれが見えるのを娯しみにしてゐたのに、と妻は病床で喞つた。

 木戸の方に這つてゐる南瓜には、しつかりとした實がついた。その實はどの位の大きさになつたかと妻はよく訊ね、私は寸法を計つては病床に報告した。

 ある日、信州にゐる義弟から南瓜の菰包を送つて來た。開けてみると、稍長目のもの、球形のもの、淡い靑に白く斑點の浮出たもの、僧に似た褐色のもの、形も色も珍しく、疊の上に並べてみたが、どう並べてみてもしつくりと落着くのであつた。

 私は家に成つてゐる一つを捩ぎとつて、そのほとりに並べた。妻はうれしげにしげしげ眺めてゐたが、隣の奧さんを呼んで來てと云ふ。やがて隣の細君の姿が現れると「いづれ煮いて食べる時には少しづつお頒けしますよ」と妻は晴れ晴れと云ふのであつた。――死ぬる六日前のことであつた。

 

[やぶちゃん注:「半間」九十一センチメートル。

「喞つた」「かこつた(かこった)」と読む。嘆いて言う・不平を言うの意。「託つ」に同じい。

「私は寸法を計つては病床に報告した」如何にも民喜らしいと私は思う。

「信州にゐる義弟」【2016年5月15日改稿】貞恵の実弟の文芸評論家佐々木基一(本名は永井善次郎)。当初、不確定であったが、その後に入手した二〇一六年岩波文庫刊「原民喜全詩集」巻末の竹原陽子氏の手に成る「原民喜年譜」の昭和一九(一九四四)年の冒頭に、『一月、信濃追分で結核療養をしていた佐々木基一が発熱して帰京、基一の母が貞恵の看病のために民喜宅へ住んでいたことから、基一も千葉の家に同居』を始めたとあることから、彼と断定出来た。その後、民喜夫妻と同居中であった彼は、同年四月二十七日に治安維持法違反の容疑で警視庁に検挙されている(約一ヶ月後に釈放)。基一は当時、満二十九歳であった(民喜より九歳年下)。

「菰包」「こもづつみ」。

「稍」「やや」。

「僧に似た」当初、色と勘違いして「僧衣(そうえ)」の謂いか、「え」の脱字であろうと思ったが、「褐色」の僧衣というのはあまり見ない(黄褐色ならタイなどの僧や原家の宗旨である真宗大谷派の最下級の僧が黄梔子(きくちなし)色の法衣(ほうえ)を着用はする)。この場合は、前の例が形をと色を併せて述べているから、恰も坊主の頭みたいにつるんとしている形のことを指しているようである。

「捩ぎとつて」「捩」が通常、「捩(ね)じる」であるが、民喜はしばしば「捥(も)ぐ」の謂いでこの字を用いている。取るのに小型のものであれば、捩じり切ることが出来るから、表記としては強ち、奇異ではないと私は思う。原民喜「幼年畫」の「不思議」(リンク先は私の恣意的正字化版)にも同じ用例がある。

「隣の奧さん」原民喜「雜音帳」の「にほひ」(リンク先は私の自筆原稿復元版)に出る「前隣」りの「奥さん」では――決してあるまい――と私は思う。それは至極、嫌味なことになるからで、貞恵はそうした女性とは私には思えないからである。

「煮いて」「たいて」。やはり原民喜「幼年畫」の「不思議」に用例がある。

「死ぬる六日前」民喜の妻貞恵の逝去は昭和一九(一九四四)年九月二十八日であるから、九月二十二日のことである。]

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「花」

   花

 

「花といふものが人間の生活に必要だといふことをつくづく感じるやうになつた、以前は何だかつまらないものだと思つてゐたが……」

 柩に入れる花を求めて歸る途中、私の友人はふとそんなことを呟いた。

 妻の靈前には花が絶やされなかつたが、四十九日になるとあちこちから澤山の花を貰つた。佛壇は花で埋れさうであつた。雨氣の多い日には障子の開けたてに菊の香が動いた。夜一人で寢てゐると、いろんな花のけはひが闇の中にちらついて、何か睡眠を妨げるやうであつた。花が枯れて行くに隨つて香りも錆びてゆくのであつた。

 新しい花を求めてまた花屋に行つた。近頃花屋にも花は乏しく、それに價段は驚くほど高くなつてゐる。しかし、大輪の黃菊と紅白のカーネーションなど掌に持ち歩いてゐると、年寄の女など嘆聲をあげて珍しがるのであつた。

 

[やぶちゃん注:冒頭の友人の台詞と次の段落は無論、貞恵の葬儀の日である。前の「財布」で特定したように(以後、この前振りは略す)彼女の逝去は昭和一九(一九四四)年九月二十八日である。

「四十九日」同年十一月十五日(水曜)に当たる。]

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「財布」

   財布

 

 初七日が過ぎて、妻の財布を開けてみた。枕頭に置いて金の出入を司つてゐた、この大きな財布はもう外側などボロボロになつてゐる。死ぬる二三日前はもう小錢の扱ひも面倒くさがつてゐたが、患つてはゐても長い間、几帳面に錢勘定をしてくれたものだ。

 財布の内側には二十圓なにがし金が殘つてゐた。もつと内側のかすかに含らんでゐるところには……何が這入つてゐるのだらうと、私は一つ一つ調べてみた。竹村章一といふ印の捺された水道料金の受領證、それも昨年の六月分だけ一枚それから四年前の書留の受取、そうした無意味な紙片にまじつて、大切さうに半紙に包んだ小さなものが出て來た。私は何だらうと思ひながらそれを開けてみた。鹿島神宮武運長久御守……はつとして、眼頭の熱くなるものがあつた。

 

[やぶちゃん注:原民喜は敗戦時で満三十九歳であったが、徴兵されていない。徴兵検査の記録も底本年譜には、ない。

「財布」これは原民喜「雜音帳」の「靴と傘(リンク先は私の自筆原稿復元版)に出てくる財布ではなかろうか?

「初七日」妻貞恵は昭和一九(一九四四)年九月に結核と糖尿病によって亡くなっているが、その忌日は何故か、諸年譜にも明記されていない。今回、もしや、と思って原家の墓の墓誌の写真をネットで捜してみたところ、河津聖恵氏のブログ「詩空間」の広島小紀行②8月6日で確認出来た(墓所は広島市中区東白島町にある浄土真宗大谷派円光寺)角度の関係上、確実とは言えないが、画像補正処理などをして調べたところ、恐らく『九月廿八日』である(当日は木曜日)。とすれば、これはその初七日で昭和十九年十月四日(水曜)のシークエンスである。向後はこの日と確定して考察することとする。

「水道料金の受領證、それも昨年の六月分」この叙述から貞恵は死の二~三ヶ月前には自宅で療養していた可能性が高いことが判る。]

忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 始動 / 飛行機雲

[やぶちゃん注:二十章から成る本篇全体は昭和二一(一九四六)年三月号『三田文学』に発表され(当時の民喜は満四十歳)、後の民喜自死の二年後の昭和二八(一九五三)年三月角川書店刊「原民喜作品集 第二巻」に「美しき死の岸に」の総評題で本「忘れがたみ」を冒頭に「小さな庭」「吾亦紅」「冬日記」「秋日記」「画集」「雲の裂け目」「魔のひととき」「苦しく美しき夏」「夢と人生」「遥かな旅」「美しき死の岸に」の全十二篇で所収された。底本(後述)の編註によれば、この総標題と配列は原民喜自身の分類・配列によるものであるとする。

 本「忘れがたみ」の各篇とその全体は民喜の散文詩の一つとして捉えてよいものと私には思われる。底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅱ」を用いたが、本カテゴリ「原民喜」で既に述べた通り、民喜が終生、基本的に一貫して正字を用いていたこと、本文が歴史的仮名遣を用いていること、及び、本篇の内容が昭和一九(一九四四)年九月に亡くなった妻貞恵の死(明治四四(一九一一)年生まれ。享年三十四。民喜より六つ年下であった)をテーマとし、作品内の筆者の措定執筆時間が敗戦前の昭和二〇(一九四五)年年初を主としていると推定される(冒頭の「飛行機雲」の私の注を参照されたい)ことから、恣意的に漢字を正字化して示すこととする。

 各章の後にオリジナルな注を附した。]

 

 

 忘れがたみ

 

   飛行機雲

 

 大學病院の方へ行く坂を登りながら、秋空に引かれた白い線に似た雲を見てゐた。こんな面白い雲があるのかと、はじめて見る奇妙な雲について私は早速歸つたら妻に話すつもりで……しかし、その妻はもう家にも病院にも居なかつた。去年のこの頃、よくこの坂を登りながら入院中の妻に逢ひに行つた。その頃と變つて今では病院の壁も黑く迷彩が施されてはゐるが、その方へ行くとやはり懷しいものが殘つてゐさうで……しかし、私がもう此處を訪れるのも今日をかぎりにさう滅多にあるまい。玄關ではもう穿き替への草履を呉れないことになつてゐた、これも、以前と變つたことがらである。私は川島先生に逢つて、妻の死を報告しておいた。それからとぼとぼ坂を降りて行つた。

 翌日、新聞に飛行機雲の寫眞が出てゐた。さては昨日見た雲は飛行機雲といふものなのかとひとり頷いたが、假りにこれを妻に語るならば「漸くあなたはそんなことを知つたのですか」と、病床にいても新知識の獲得の速かつた彼女はあべこべに私を笑つたかもしれないのだ。

 

[やぶちゃん注:「去年のこの頃」この言辞から、実はこの本文内での主人公(筆者)の執筆措定時間は原民喜の妻貞恵が亡くなった(昭和一九(一九四四)年九月)翌昭和二〇(一九四五)年であることが判る。しかも、本「忘れがたみ」全体には被爆や敗戦を匂わせる記載は全く現われない。それどころか、戦況記載もなく、本篇が戦中であることを匂わせる叙述は、辛うじて「その頃と變つて今では病院の壁も黑く迷彩が施されてはゐる」とあることによって類推されるのみである(これは彼にとっての妻貞恵の死が被爆以上に強烈な悲劇として『彼の運命を大きく変え』(底本全集年譜より)たのだという事実を是が非でも理解して戴きたいのである。原民喜は原爆文学を書いたではあるものの、それ以前に原型としては繊細な悲愁の詩人であったことを忘れてはならないのである)。しかし、終りから二つ目の十九章「霜の宿」に「私は十年あまり住み慣れた、この借家を近いうちに引上げようかと思つてゐた」とあるのであるが、民喜が妻貞恵と昭和九(一九三四)年初夏から住んで居た千葉県千葉市登戸(のぶと)町(現在の千葉市中央区登戸)から郷里広島の実家に戻るのは昭和二〇(一九四五)年一月末である(本篇は途中に生前の妻との回想シーンなどが盛んに挿入され、章ごとの時間配列が少なからず前後はするものの、俯瞰的時系列そのものに理解し難い操作は認められない)。妻貞恵が入院(彼女は結核に罹患しており、しかも糖尿病でもあった)したのが何時であったのかは現在のところは私には分明でない。しかしながら、底本の年譜記載から、恐らく結核の方の発病は昭和一四(一九三九)年九月と思われるものの、他作品の叙述から見ても自宅療養のシークエンスが複数あることから、ずっと何年にも亙って入院していたのではない。この妻の死の報告をかつての主治医にするというシークエンスから見ても、貞恵はその最期を自宅か或いは別な病院で迎えたということになる。底本年譜では貞恵の病状の悪化は昭和一九(一九四四)年三月の条に出る(因みに、その悪化理由としてこの昭和十九年『四月、一月より同居中の義弟、佐々木基一氏が、治安維持法違反の容疑で警視庁に検挙され、そのため妻貞恵の病状が悪化』したと記す。文芸評論家佐々木基一(本名は永井善次郎。民喜より九歳年下)は妻貞恵の実弟である)。これらを考え合わせるならば、「去年」とある以上、本「飛行機雲」の作品内時間は転居する直前、昭和二〇(一九四五)年の一月上・中旬の短い閉区間に限定されることとなる。転居することを意識していたからこそ、かつての妻の主治医に挨拶に赴いたと考えられる。そうして「去年のこの頃」が正確な謂いであるとするならば、妻貞恵の「入院」(年譜の『悪化』とする三月以前にそれはあったと考えざるを得ない)先であるこの病院の坂を上ったのも昭和十九年の一月頃ということになるのである。この時ならば、民喜は満三十九歳(彼は明治三八(一九〇五)年十一月十五日生)である。

「大學病院」不詳であるが、現在の千葉県千葉市中央区亥鼻にあった千葉医科大学附属医院(現在の同所にある千葉大学医学部附属病院)ならば丘陵地にある。

「玄關ではもう穿き替への草履を呉れないことになつてゐた、これも」の読点はママ。]

26年目の結婚記念日

26年目の結婚記念日――式を挙げず、「メーデー」に合わせただけで心付かず――既にして銀婚式は過ぎていたのであった――

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