忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「霜の宿」
霜の宿
私は十年あまり住み慣れた、この借家を近いうちに引上げようかと思つてゐた。寒い夜半、ふと六疊の方の窓邊にある木瓜の木と芙蓉の木が思ひ出された。あの木も今はみんな落葉して裸木になつてゐるのだが、毎年春さきには木瓜の木が朱い蕾をもち、厚ぽつたい花をひらゐたし、秋になると芙蓉の淡い花が、つぎつぎに咲いては墜ちて行つた。そして、木瓜の花も芙蓉の花も、ある時のある氣分の、亡妻の面影に似かようてゐるのであつた。さう思ふと、窓邊にある裸木の姿が頻りと氣に懸つた。
翌朝窓邊に立つて、しみじみと眺めれば、ひどい霜に土は歪んで、木瓜も芙蓉も寒々としてゐる。
さればこそ荒れたきままの霜の宿
ふと、芭蕉の句が思ひ出されたのである。
[やぶちゃん注:「私は十年あまり住み慣れた、この借家を近いうちに引上げようかと思つてゐた」既に注したが、原民喜が妻貞恵と昭和九(一九三四)年初夏から住んで居た千葉県千葉市登戸(のぶと)町(現在の千葉市中央区登戸)から、郷里広島の実家に戻るのは貞恵が亡くなって約四ヶ月後の昭和二〇(一九四五)年一月末のことである。
「さればこそ荒れたきままの霜の宿」「笈の小文」の旅の途次、禁制の空米(くうまい)取引坪(先物取引)で罰せられて家財没収。領分追放の刑を受けて、伊良湖岬に配流されていた名古屋の米穀商で愛弟子であった坪井杜国を訪ねた際の一句である。本句のシチュエーション、異型句その他についは詳しくは私の「芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる」を参照されたいが、リンク先の私の注は分量膨大にして、お読みになるのであれば、相応の覚悟が必要であることを申し添えておく。貞亨四(一六八七)年で芭蕉の伊良湖行は十一月十日から十四日、本句はまさにその杜国の配流先の茅屋を尋ねた折りの一句である。当時芭蕉は数えで四十四歳であった。芭蕉は十一月十一日と十三日と三日間、杜国邸に泊まっているから、これはその十一日若しくは翌十二日の杜国謫居での詠である。杜国邸到着の十一日深夜と想像する方が、荒涼感に何とやらんもの凄さを加えてよいように私に思われる。「笈日記」の「さればこそ逢ひたきまゝの霜の宿」という句形は面白い謂いで、これなら挨拶句になると思うが、風国編「泊船(はくせん)集」では、ただの書き誤りと断じている。予期していたこと(この場合は不安)がまさに的中した際に発する異様な「さればこそ」という感慨の措辞については、何か杜国の内実に深く感じ入った芭蕉の感懐が示されてあると言える。「艸芳サイト」の「笈の小文」の「保美(伊良湖)」の頁では、先に示した杜国の弟とも目される坪井庄八の、この訪問の五ヶ月前に起きた殺人と斬首の一件が「さればこそ」と芭蕉に歎かせた告白ではなかったかという、興味深い仮説(八木書店一九九七年刊の大礒義雄氏の「芭蕉と蕉門俳人」に依拠されたものらしい)を立てておられ、なかなか説得力がある。この「荒れたきままの」という表現の特異性は非常に面白い(「荒れたる」ではつまらぬ)。この「たき」は私は形容詞ク活用型の接尾語「たし」(「痛し」の頭の母音が合成語を成す際脱落した形とされる)と採り(その様子や状態が甚だしい意を表す形容詞を作るもので、所謂「めでたし」のそれである)、「荒れたし」(の連体形)で荒れたい放題に荒れまくっていることを強調する語と考えている。私がわざわざこんなことを述べるのは、本句について文法的に私自身が納得出来る解説に出逢ったことが、実はないからである。]
« 忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「椅子」 | トップページ | 忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「門」 / 忘れがたみ~完 »