忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「花」
花
「花といふものが人間の生活に必要だといふことをつくづく感じるやうになつた、以前は何だかつまらないものだと思つてゐたが……」
柩に入れる花を求めて歸る途中、私の友人はふとそんなことを呟いた。
妻の靈前には花が絶やされなかつたが、四十九日になるとあちこちから澤山の花を貰つた。佛壇は花で埋れさうであつた。雨氣の多い日には障子の開けたてに菊の香が動いた。夜一人で寢てゐると、いろんな花のけはひが闇の中にちらついて、何か睡眠を妨げるやうであつた。花が枯れて行くに隨つて香りも錆びてゆくのであつた。
新しい花を求めてまた花屋に行つた。近頃花屋にも花は乏しく、それに價段は驚くほど高くなつてゐる。しかし、大輪の黃菊と紅白のカーネーションなど掌に持ち歩いてゐると、年寄の女など嘆聲をあげて珍しがるのであつた。
[やぶちゃん注:冒頭の友人の台詞と次の段落は無論、貞恵の葬儀の日である。前の「財布」で特定したように(以後、この前振りは略す)彼女の逝去は昭和一九(一九四四)年九月二十八日である。
「四十九日」同年十一月十五日(水曜)に当たる。]
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