忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「きもの」
きもの
大學から大先生が來診して下さると決まると、妻は急いで新しい寢卷にとりかへた。鋭い麻の葉模樣の浴衣であつた。それを着たまま三日後には死んで行つた。が、あの浴衣はたしか昨年、大學に入院した最初の日にも着てゐたものであつた。麻の葉模樣の靑地に白く浮出た鋭い線が、瘦せた軀に喰ひ込むやうに絡んでゐて、それはふと私の心をかきむしつたのであつた。妻も悲壯な氣持であつたのに違ひない。
小豆色のぱつと明るい、鹿子絞の羽織を妻は好んで病院では着てゐた。齡にも似合はない派手なものであつたが、それをかたきのやうに身に着けてゐたのも、今にして思へば、悲壯な心からかもしれない。
白いフランネルの寢卷。これはむかし新婚の旅先で彼女がトランクからとり出して着、「この寢卷のことをいつかはきつと書いて下さい」と云つてゐたものだ。それほど好きだつた寢卷も病床で着古し、今はすつかりすりきれたやうになつてゐる。
[やぶちゃん注:「それを着たまま三日後には死んで行つた」あるから、初行のシーンは、逝去の昭和一九(一九四四)年九月二十八日の三日前、九月二十五日の回想である。
「鹿子絞」「かのこしぼり」と読む。括(くく)り絞り(絞り染めの一種。「括り染め」とも称し、布の一部を糸で括って染色し、括ったところを白く残す染色法)の一種で、絞り染の最高級品とされるもの。布を糸で括って染め上げた後に糸を解(ほど)いた際に仔鹿の背の班点のような模様に染め上げる技法。かつて京近郊で生産されたことから「京鹿子(きょうがのこ)」とも呼ばれ、また、絞り目を、一つ一つ、丹念に指で摘まんで絞ることから「目結(めゆい)」と呼称する。この技法では着物一枚を絞るのに数ヶ月を要するものも多く、所謂、振袖などに用いられる。全体を絞りで埋めたものを「総絞り」、または「総鹿子」と名付けて最高の贅沢品とされる(以上は主に、着物の注でしばしばお世話になっている(私は全く不冥なため)「創美苑」公式サイト内の「きもの用語大全」の「鹿子絞りとは」に拠った)。グーグル画像検索「鹿子絞」をリンクしておく。
「フランネル」(flannel)は両面を起毛した柔らかな平織り(経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に浮き沈みさせて織る織り方)、或いは綾織り(経糸が二本又は三本の緯糸の上を通過した後、一本の橫糸の下を通過することを繰り返して織られもの)の紡毛(ぼうもう)織物(羊などの短い毛で作った紡毛糸を用いた織物)。梳毛(そもう:羊毛などの短い毛を梳いて除き、長い毛のみを並べて紡いだもの)や綿を用いたものもある。「フラノ」「ネル」とも呼ぶ。
「この寢卷のことをいつかはきつと書いて下さい」貞恵さん……あなたの夫は本当に日本一の夫でした。……]
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