芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) チエホフの言葉
チエホフの言葉
チエホフはその手記の中に男女の差別を論じてゐる。――「女は年をとると共に、益々女の事に從ふものであり、男は年をとると共に、益々女の事から離れるものである。」
しかしこのチエホフの言葉は男女とも年をとると共に、おのづから異性との交渉に立ち入らないと云ふのも同じことである。これは三歳の童兒と雖もとうに知つてゐることと云はなければならぬ。のみならず男女の差別よりも寧ろ男女の無差別を示してゐるものと云はなければならぬ。
[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年八月号『文藝春秋』巻頭に前の「民衆」(三章)と、後の「服裝」「處女崇拜」(三章)「禮法」とともに全九章で初出する。
・「チエホフはその手記の中に男女の差別を論じてゐる」出典を明らかに示しているのは岩波新全集の山田俊治氏だけ。アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(Антон Павлович Чехов/ラテン文字表記:Anton Pavlovich Chekhov 一八六〇年~一九〇四年)の『「手帖Ⅰ」(一八九一年―一九〇四年)に「男女のちがい」として「女は年をとるにつれて、ますます女の仕事に身を入れる。男は年をとるにつれて、ますます女の仕事から遠ざかる」(池田健太郎訳)とある』と注されておられる。なお、チェーッホフを芥川龍之介は作家活動に専心するようになってから特に偏愛するようになり、彼の後期の幾つかの作品(「葱」・「尾生の信」・「秋」・「庭」など。リンク先は私の電子テクスト。私は特に「庭」を偏愛するが、確かにこれには「桜の園」との類似性が認められるように思う。最初の指摘は藤井淑禎(ひでただ)氏の「作品と資料 芥川龍之介」(一九九四年双文出版刊)である)にもその影響が見られると考えられている。
・「女の事」私はこれを子に対して愛情を注ぎこむことと採っている(私の妻そうであるが、子のない女性には失礼。)「男は年をとると共に、益々女の事から離れるものである」というのが「異性との交渉に立ち入らな」くなるというダイレクトな謂いであることは認めるが、それは必ずしも「男女とも年をとると共に、おのづから異性との交渉に立ち入らないと云ふのも同じことである」とは思わない。さらに言えば「これは三歳の童兒と雖もとうに知つてゐることと」も私は思わない。少なくとも愚昧な私は三歳の時にはそんなことは知らなかったし、私は初老に至っても「異性との交渉に立ち入らな」かったかと問われたなら、私は肯んずることが出来ないことも事実である。寧ろ、男が妻に対しては「年をとると共に」そうした「交渉に立ち入らな」くなる結果として、妻である女が「女の事」=「子に対して愛情を注ぎこむ」ことへ専心するようになると言えるのではないか? と推察する。とすれば、このチェーホフのアフォリズムは「男女の差別よりも寧ろ男女の無差別を示してゐるもの」とはならぬはずである。それはその見かけ上の共通性の中に夫婦間の恐るべき乖離状況があり、その原因がとりもなおさず男のそれにあって、結果が女のそれを惹起させるということになる。さればこそ論理的に「男女の無差別を示してゐる」とは言えないはずである。或いは、私の謂いを男女引っくり返して反論される龍之介弁護派もあるやも知れぬ。では引いておこう。当の「侏儒の言葉」の「S・Mの智慧」には「女。――メリイ・ストオプス夫人によれば女は少くとも二週間に一度、夫に情欲を感ずるほど貞節に出來てゐるものらしい。」とあるよ、と。さてもこれは室生犀星の言、いやさ、マリー・ストープスの謂いだ、と指弾されるなら、あなたは「侏儒の言葉」の「S・Mの智慧」に墨塗りをなさい、と応じておく。どうぞ、お塗りになられるがよかろうぞ。]
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