忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「耳」
耳
もともと、よく訓練された耳ではなかつた。人の云ふことを聞き違へることもなかつたかはりに、人の口眞似を巧みにこなすことは出來なかつた。活々した抑揚とか、快い發聲法はなく、ただ内に閃くもの、迸るものに隨つて聲を出すのであつた。その調子は時に唐突でもあつた。
音樂も語學も身につけることが出來なかつたが、それだけに名曲を聽きたがつたり、英語の單語を覺え込まうとした。その耳が、病氣のすすむに隨つて、だんだん冴えて行つた。見えない所でする微かなもの音で、人の立居振舞や氣分まで察することが出來たし、他所の家のラジオではつきりと報道を聽きとることもあつた。耳はまた、しーんとして夜の靜寂を貫き流れる聲なき聲に聽き入らうとしてゐた。
私はその耳にあまり優しい言葉を囁かなかつたが、だが、竊かにこの頃懷ふことがらを、その耳は他界にあつて聽きとるであらうか。
[やぶちゃん注:「迸る」「ほとばしる」。]
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