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2016/05/24

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  椎の葉

 

椎の葉

 

 完全に幸福になり得るのは白痴にのみ與へられた特權である。如何なる樂天主義者にもせよ、笑顏に終始することの出來るものではない。いや、もし眞に樂天主義なるものの存在を許し得るとすれば、それは唯如何に幸福に絶望するかと云ふことのみである。

 「家にあれば笥にもる飯を草まくら旅にしあれば椎の葉にもる」とは行旅の情をうたつたばかりではない。我我は常に「ありたい」ものの代りに「あり得る」ものと妥協するのである。學者はこの椎の葉にさまざまの美名を與へるであらう。が、無遠慮に手に取つて見れば、椎の葉はいつも椎の葉である。

 椎の葉の椎の葉たるを歎ずるのは椎の葉の笥たるを主張するよりも確かに尊敬に價してゐる。しかし椎の葉の椎の葉たるを一笑し去るよりも退屈であらう。少くとも生涯同一の歎を繰り返すことに倦まないのは滑稽であると共に不道德である。實際又偉大なる厭世主義者は澁面ばかり作つてはゐない。不治の病を負つたレオパルデイさへ、時には蒼ざめた薔薇の花に寂しい頰笑みを浮べてゐる。……

 追記 不道德とは過度の異名である。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年二月号『文藝春秋』巻頭に次の「佛陀」(同題で三章)との全四章で初出する。

 

・「もし眞に樂天主義なるものの存在を許し得るとすれば、それは唯如何に幸福に絶望するかと云ふことのみである」龍之介は人生の普遍的絶対属性を「絶望」のみと捉えていることがこれによって判明する。オプティミスト(optimist)とは「絶望」をさえ幸福と感ずる救いがたい白痴であると断じていることに注視せねばならぬ。しかも「厭世主義者は澁面ばかり作つて」いるわけではなく、厭世詩人の荊冠を被せられた「不治の病を負つたレオパルデイさへ」も「時には蒼ざめた薔薇の花に寂しい頰笑みを浮べて」いたと付け加えるところが胆(きも)である。絶望と厭世の中に在っても儚い薔薇の衰えゆく美を惜しみ愛でる感情こそが厭世主義者の正しき「道德」だというのである。彼は、殊更にこれ見よがしに悲観するペシミスト(悲観厭世主義者)も、何が何でも幸せとへらへら笑い呆けている楽天主義者も、これ、孰れも「過度」の病態を示した「不道德」な病者であると喝破しているのである。そこに思い至らねば、龍之介の真意、いや、まことの憂鬱を理解することは出来ぬのである。

・「家にあれば笥にもる飯を草まくら旅にしあれば椎の葉にもる」「万葉集」の「巻第二」の「挽謌」冒頭に載る有間皇子(みこ)が自らが謀反の罪で絞首刑される前に詠んだとされる辞世の二首(第一四一及び一四二番歌)、

 

   有間皇子(ありまのみこ)の自(みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)を結べる歌二首

 

磐代(いはしろ)の濱松が枝を引き結び眞幸(まさき)くあらばまた還り見む

 

家(いへ)にあれば笥(け)に盛(も)る飯(いひ)を草枕(くさまくら)旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る

 

の後の一首である。「松が枝を結べる」草木を結ぶことは、古来からある、その「結び繋ぐ」という行為の中に人の命を繫ぎ止める(死に至らせない)という類感呪術である。「磐代」は現在の和歌山県日高郡みなべ町(ちょう)西岩代。後に知られるようになる熊野古道が通るが、本歌に近似性のある一首「万葉集」「卷第一」の第十番歌である「中皇命(なかつすめらみこと)の、紀の温泉(ゆ)に往(いでま)しし時の御歌(みうた)」という前書を持つ「君が代もわが代も知るや磐代の岡の草根(くさね)をいざ結びてな」という歌の中西進氏の注(講談社文庫版「万葉集(一)」)にこの磐代の北にある『切目(きりめ)からここまでは海岸をはずれて峠を越える。この下り口の岡に無事を祈る習慣があったのだろう』と注されておられる。なお、「中皇命」は有間皇子の父孝徳天皇の皇后である間人皇后(はしひとのひめみこ)に比定されている(但し、有間皇子の母ではない)。「眞幸く」の「ま」は美称の接頭辞。「幸く」は命が栄えるさま。「見む」の「む」は推量。意志ととると、直前の「あらば」の仮定と微妙に齟齬する。「笥」食物を盛る木製の食器。当時、「笥を持つ」というのはその笥を使う男の妻となることを意味したから、この部分には妻への思慕の情が深く示されてある。「椎」ブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis の樹木或いは近縁のブナ科マテバシイ属マテバシイ Lithocarpus edulis かも知れぬ。

 有間皇子(舒明天皇一二(六四〇)年~斉明天皇四年(六五八)年)は飛鳥時代の皇族で第三十六代孝徳天皇の皇子。ウィキの「有間皇子」によれば、孝徳天皇元(六四五)年に父が即位して孝徳天皇となり、天皇は同年六月十九日に史上初めて元号を立てて「大化元年」とし、その十二月九日(ユリウス暦では丁度、六四六年一月一日)に都を難波宮に移したが、それに反対する皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)は白雉四(六五三)年に都を倭京(わきょう:大和)に戻すことを求めた。孝徳天皇がこれを聞き入れなかったため、中大兄は勝手に倭京に移り、皇族たちや群臣たちの殆んど、孝徳天皇の皇后である間人皇女までも中大兄に従って倭京に戻ってしまう。失意の中に孝徳天皇は白雉五年十月に崩御し、斉明天皇元(六五五)年一月(新たな元号は定められておらず、白雉の継続使用も行われていない)、孝徳天皇の姉の宝皇女(第三十五代皇極天皇)が再び、飛鳥板葺宮で題三十七代斉明天皇として重祚(ちょうそ)した。『父の死後、有間皇子は政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して牟婁の湯に赴いた。飛鳥に帰った後に病気が完治したことを斉明天皇に伝え、その土地の素晴らしさを話して聞かせたため、斉明天皇は紀の湯に行幸した。飛鳥に残っていた有間皇子に蘇我赤兄』(そがのあかえ:蘇我馬子の孫)が『近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘し、自分は皇子の味方であると告げた。皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。なお近年、有間皇子は母の小足媛』((おたらしひめ:大化の改新で左大臣に任じられた阿倍内麻呂の娘)『の実家の阿部氏の水軍を頼りにし、天皇たちを急襲するつもりだったとする説が出ている』。『ところが蘇我赤兄は中大兄皇子に密告したため、謀反計画は露見し(なお蘇我赤兄が有間皇子に近づいたのは、中大兄皇子の意を受けたものと考えられている)、有間皇子は守大石・坂合部薬たちと捕らえられた』。斉明天皇四年十一月九日(六五八年十二月九日)に『中大兄皇子に尋問され、その際に「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」(天與赤兄知。吾全不知)と答えたといわれる。翌々日に藤白坂』(ふじしろのさか:現在の和歌山県海南市藤白)『で絞首刑に処せられた』が、護送される途中、磐代の『地で皇子が詠んだ』二首がこれらの歌であるとされる。但し、この二首に『ついては、民俗学者・折口信夫により後世の人物が皇子に仮託して詠んだものではないかと』疑義が示されてある。『有間皇子の死後、大宝元年』(七〇一年)の『紀伊国行幸時の作と思われる長意吉麻呂や山上憶良らの追悼歌が』「万葉集」に残されているものの、『以降、歴史から忘れ去られた存在となるが、平安後期における万葉復古の兆しと共に、幾ばくか史料に散見されるようになり、磐代も歌枕とな』った。但し、俊頼髄脳では、『辞世歌が父・孝徳と喧嘩して出奔した際の歌とされているなど、伝説化の一途を辿るようにな』り、『極端な例では』、江戸期の「百人一首」の『注釈書などでは「後即位」とまでなっている』とある。

・「倦まない」「うまない」。飽きない。

・「不治の病を負つたレオパルデイ」イタリアを代表する詩人(厭世詩人)の一人で哲学者・文献学者でもあったジャコモ・レオパルディ(Giacomo Taldegardo Francesco di Sales Saverio Pietro Leopardi, Conte  一七九八年~一八三七年)。以下、平凡社「世界大百科事典」の河島英昭氏の解説に拠る(書名原題その他一部は私が挿入した。下線はやぶちゃん)。アドリア海を遠望する丘陵地帯の町レカナーティに伯爵家の長男として生まれた。母親も侯爵家の出身で、幼い頃から厳しい躾を受け、政治的にも文化的にも保守性の強い環境に育った。最初の教育は父親や聖職者たちから受けたが、刻苦勉励して異常なまでに早熟な才能をあらわし、十四歳の頃には教師を必要としなくなり、膨大な蔵書を収めた父親の書斎に引き籠って、専ら古典文献の読破に努めた。十歳から十八歳頃までの驚異的な勉学によって、英語・ドイツ語・フランス語の近代語は勿論、古代ギリシア語・ラテン語・ヘブライ語などをも独習して該博な知識を身につけたものの、この間にあまり陽光の入らない部屋のなかで生活したため、発育不全となって身長が伸びず、佝僂(くる)となって、はなはだしく健康を害することとなった。一方、その頃、ヘシオドスの翻訳や「オデュッセイア」「アエネーイス」の部分訳などを試み、古典的な文体を身につけた。しかし、初めは必ずしも文学を志したわけではなく、博識を駆使して「天文学史」(Storia dell'astronomia:一八一三年)などの啓蒙主義的な論文や悲劇の習作・古典文学論などを著している。その後、一八一五年から一八一六年にかけて言語に纏わる美に目覚め、一種の宗教的な体験のうちに、それまでの知識を振り捨てるようにして詩の世界へ踏み込んだ。詩編「死に近づく賛歌」(L'appressamento della morte:一八一六年作)はその意味で詩人レオパルディの誕生を画した文学的回心の作品とされる。この中でレオパルディは、言うなら、ダンテとペトラルカの詩法の融合を企て、一種の宗教的な信条から発した詩心を吐露している。しかし、彼の詩才に対して周囲は冷ややかな態度で接し、両親の無理解と屈辱的な経済援助のうちに詩人は呻吟して暮らした。すべての愛する者たちの心から離れ、全くの孤独のうちに詩作を続けたが、二十一歳の時、眼病に罹患し、読書の道を絶たれるなど、不幸は更に次々と彼を襲った。文学史上、しばしば世界最高の厭世詩人と呼ばれるように、レオパルディの詩は暗澹たるペシミズム(厭世主義)に塗りこめられているしかし、彼の詩には、本来、二つの異なる傾向が共存していた一つは詩編「イタリアに」(All'Italia :一八一八年)・「ダンテの碑の上で」(Sopra il monumento di Dante che si preparava in Firenze :一八一九年(彼についてのイタリア語版ウィキでは一八一八年とする))・「アンジェロ・マーイに」(Ad Angelo Mai, quand'ebbe trovato i libri di Cicerone della Repubblica:一八二〇年)などのように、同時代の政治的かつ文化的要請に応えようとする傾向で、その限りでは、近代イタリア国家統一へと収斂していくロマン主義文学と軌を一にしている今一つは、詩編「月に寄せて」(Alla luna:一八一九年)・「無窮」(L'infinito:八一九年)・「祭りの日の夕べ」(a sera del giorno festivo:一八二〇年)などのように、深い悲しみとあらわにされた心の動きをそのままに伝える一連の抒情詩で、そこには個人的な悲しみの感情を超えて、世界そのものが悲哀の存在として描き出されている。「サッフォーの最後の歌」(Ultimo canto di Saffo:一八二二年)・「シルビアに寄せて」(A Silvia:一八二八年)、また「月は傾く」(Il tramonto della Luna:一八三六年。但し、最後の六行は詩人の死の直前に口述されたものとされる)など、透徹した悲哀の詩編は、いずれも詩集「カンティ」(Canti:「Canti」は古フランス語の「チャント(chant)」で「詠唱・唱和」の意。初版一八三一年)に収められている。散文作品としては、対話形式をとった二十六の短編から成る「教訓的小話集」(Operette morali:一八二七年)があり、これはまさに絶望の哲学の書というべきもので、悲劇と喜劇が表裏一体となって展開する。また、生誕百年を記念して出版された膨大な手記「随想集」全七巻(一八九八年から一九〇〇年に刊行)は彼を十九世紀イタリア最大の思想家たらしめている。レオパルディは彼の詩の母体であると同時に苦しみの土地であった故郷レカナーティを二十四歳の時に離れており、以後はローマ・ミラノ・ボローニャ・フィレンツェなどを転々とし、晩年の一八三三年になってナポリの亡命者アントニオ・ラニエリの知遇を得て、その妹パオリーナの手厚い看護を受けながら、同地で病没した、とある。

 これだけ詳細な記載の中にも龍之介の言う「不治の病を負つた」の部分が明らかでないが、「佝僂」とあるところから、或いは先天的な脊椎奇形が疑われるようにも思われ、彼についてのウィキの英語版及び良質評価のつくドイツ語版を管見する(日本語版はリンクするのもおぞましいほど貧弱)と、脊椎カリエス(結核性脊椎炎)の持病を確認出来、直接の死因は肺水腫とし、喘息発作とも読める記載があることから、脊椎カリエスを含む慢性的脊椎疾患(先に述べた通り、その総て或いは一部が先天的なものであれば当時の医学上からは「不治」である)から来る重篤で致命的な呼吸器疾患に罹患していたものと推測される(重い喘息は発作によって窒息死することもままある)。逝去した折りにはコレラが蔓延しており、一時はそれらのコレラで死亡した多量の遺体とともに穴に投げ込まれて共同埋葬されそうになったが、無事に改葬されたことなども記されてある(脊椎カリエスなるものが分からない方は自分でお調べ頂きたい。私は一歳半から四歳半まで左肩関節結核性カリエスに罹患しているので私自身には注する必要がないからである。悪しからず)。]

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