芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) フロオベル
フロオベル
フロオベルのわたしに教へたものは美しい退屈もあると言ふことである。
[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」「武者修業」「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」と、後の「モオパスサン」「ポオ」「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。小説家ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert 一八二一年~一八八〇年)に就いては既に「戀は死よりも強し」の注で少し述べた。但し、今回、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の山田俊治氏の「フローベール」の項を読むに、芥川龍之介が彼に抱いた、やはりかなりアンビバレントな感懐を認識することが出来た。山田氏は芥川龍之介のフローベール観は「澄江堂雜記」(大正一一(一九二二)年四月『新潮』)の以下に集約されるとする(引用は同「澄江堂雜記」の私の電子テクスト。以下同じ)。
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藝術至上主義
藝術至上主義の極致はフロオベルである。彼自身の言葉によれば、「神は萬象の創造に現れてゐるが、しかも人間に姿を見せない。藝術家が創作に對する態度も、亦斯くの如くなるべきである。」この故にマダム・ボヴァリイにしても、ミクロコスモスは展開するが、我我の情意には訴へて來ない。
藝術至上主義、――少くとも小説に於ける藝術至上主義は、確かに欠伸の出易いものである。
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これはしかし、まさに本アフォリズムの格好の注であるとも言える。「美しい退屈」の「美しい」は「藝術至上主義」に基づく「小説」の謂いであり、それはまた「美しい」と同時に「確かに欠伸の出易い」「退屈」でもある。それは何故か? それはフローベールが「藝術至上主義の極致」でありそれは彼が「神は萬象の創造に現れてゐるが、しかも人間に姿を見せない。藝術家が創作に對する態度も、亦斯くの如くなるべきである」と述べた如く、彼の代表作「ボヴァリー夫人」を読んでみ「ても、ミクロコスモスは展開するが、我我の情意には」全く以って「訴へて來ない」からである、と言っているのである。山田氏は龍之介はフローベールの『作者の主観的な解釈を徹底的に排除した』『小説は、人生に対する教訓を与えることはない、それほどフローベールは研ぎ澄ました精神を持続させ、徹底した文章の彫琢によって実在と拮抗するようなミクロコスモスを物語世界に構築ていたのである』と書かれた上で、『芥川は、こうしたフローベールに親近感を抱き、早い時期から』、「モオパツサンは事象をありのままに見るのみではない ありのまゝに觀た人間を憎む可きは憎み 愛す可きは愛してゐる。その点で万人に不關心な冷然たる先生のフロオベエルとは大分ちがふ」(この書簡引用は山田氏とは違った意味で私は既にやはり「戀は死よりも強し」で引用している。どちらの引用が正しいか、読者の判断にお任せする)『という理解を示している』とされる。そうして、龍之介の遺稿「機關車を見ながら」(昭和二(一九二七)年九月『サンデー毎日』秋季特別号。掲載誌の本文文末には、この掲載に関わった編集者の文章があり、そこには本稿は、彼の自死の直前、五、六日ほど前に執筆されたものと推定される、とある)から、
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我々はいづれも機關車である。我々の仕事は空(そら)の中に煙や火花を投げあげる外はない。土手の下を歩いてゐる人々もこの煙や火花により、機關車の走つてゐるのを知るであらう。或はとうに走つて行つてしまつた機關車のあるのを知るであらう。煙や火花は電氣機關車にすれば、ただその響きに置き換へても善い。「人は皆無、仕事は全部」といふフロオベエルの言葉はこのためにわたしを動かすのである。宗教家、藝術家、社會運動家、――あらゆる機關車は彼等の軌道により、必然にどこかへ突進しなければならぬ。もつと早く、――その外に彼らのすることはない。
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の一部を引き、『という一節まで変わらなかったといえる』と述べておられる。私は既に「幻滅した藝術家」の注で述べたように、芥川龍之介が最終的に芸術至上主義者であったこと(況やそのために自裁したなどというまことしやかな謂い)に現在、深い疑義を抱いており、それを否定する地平に立とうとしている。龍之介はフローベールの世界に惹かれた部分はあるであろう。それが、孤高な龍之介のミクロ・コスモスと有意な箇所で部分集合を成すことは凡愚な私にも解るからである。「人は皆無、仕事は全部」と呟きながら、薬物のために震える手で筆を運ぶ龍之介の坐った後ろ姿は確かに現前する。しかし、では、龍之介の退屈な小説を挙げよ、と言われて、私は一掌品も、否、一断片すら名指し示すことは出来ぬ。龍之介の作品には「美しい退屈」など微塵もない。その意味に於いて、私は龍之介が『フローベールに親近感を抱き』、その死の直前に至るまで、そのシンパシーは『変わらなかった』とする山田氏の見解には、到底、肯んずることが出来ないのである。]
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