芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 事實
事實
しかし紛紛たる事實の知識は常に民衆の愛するものである。彼等の最も知りたいのは愛とは何かと言ふことではない。クリストは私生兒かどうかと言ふことである。
[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)と、後の「武者修業」「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。冒頭を「しかし紛紛たる事實の知識は常に民衆の愛するものである」で始めることで、前の前の「政治家」の一章目の「政治家の我我素人よりも政治上の知識を誇り得るのは紛紛たる事實の知識だけである。畢竟某黨の某首領はどう言ふ帽子をかぶつてゐるかと言ふのと大差のない知識ばかりである。」を直に飛んで受けるようになっている。同時に、前の「政治家」の二章の中の最後の一文「且又利害を超越した情熱に富んでゐることは常に政治家よりも高尚である。」という命題にそれがまた繋がるように作られてある。即ち、「利害を超越した情熱に富んでゐることは常に政治家よりも高尚である」ところの「民衆の愛するもの」とは、「政治家」が「政治上の知識」として「誇り得る」ところの「紛紛たる事實の知識」、「畢竟某黨の某首領はどう言ふ帽子をかぶつてゐるかと言ふのと大差のない知識ばかりである」となって、「彼等の最も知りたいのは愛とは何かと言ふことではない。クリストは私生兒かどうかと言ふことである。」と繋がるようになっているのである。それに気づいたとき、男女を問わず、あらゆる読者は苦虫を潰すこととなるのであるが、哀しいかな、殆どの読者は「彼等の最も知りたいのは愛とは何かと言ふことではない。クリストは私生兒かどうかと言ふことである」という部分でニンマリして鼻の下伸ばすばかりなのである。芥川龍之介の厄介なのは、こういう仕儀を仕掛けてくる点にあるのである。
・「クリストは私生兒かどうかと言ふこと」私はキリスト者でないので、新潮文庫の神田由美子氏の注をそのまま引いておく。「新約聖書」に『聖母マリアはヨセフの妻と決まっていたが、二人が結婚しないうちに、聖霊によって身籠(みごも)り、ベツレヘムの馬小屋でキリストを生んだと記されている』。私は龍之介のこの一章を読むと、アンドレイ・タルコフスキイ(Андрей Арсеньевич Тарковский/Andrei Arsenyevich Tarkovsky 一九三二年~一九八六年)の「アンドレイ・ルブリョフ」(Андре́й
Рублёв/Andrei
Rublev 一九六七年:完成後に厳しい批判にさらされて改訂版公開及び本邦公開は一九七一年であった)の第七番目のパートに当たる「襲来 一四〇八年」にある、あるシークエンスを思い出すことを常としている。ウラジミールの聖堂を完膚なきまでに蹂躙し、略奪し、残虐の限りを尽くしているタタールの首魁汗(ハン)が、馬上のまま聖堂内を闊歩する。手引きをした、ロシア人の大公である兄を裏切った弟に対して(彼は自らが企てながらそのあまりの凄惨な破壊と暴虐のありさまに茫然自失している)、壁画にあったキリスト生誕の絵を指して、「これは何だ?」と問う。聖処女マリアがキリストを産んだ時の絵だと彼が答えるや、汗(ハン)は、「子供を産んで処女なんてことがあるもんかい!」と如何にも猥雑な笑みを浮かべて吐き捨て、「まあ、ロシアってぇのは不思議な国だからな。……面白い。」とほくそ笑みながら付け加えるシークエンスである。]
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