芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 政治的天才(二章)
政治的天才
古來政治的天才とは民衆の意志を彼自身の意志とするもののやうに思はれてゐた。が、これは正反對であらう。寧ろ政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののことを云ふのである。少くとも民衆の意志であるかのやうに信ぜしめるものを云ふのである。この故に政治的天才は俳優的天才を伴ふらしい。ナポレオンは「莊嚴と滑稽との差は僅かに一步である」と云つた。この言葉は帝王の言葉と云ふよりも名優の言葉にふさはしさうである。
又
民衆は大義を信ずるものである。が、政治的天才は常に大義そのものには一文の錢をも抛たないものである。唯民衆を支配する爲には大義の假面を用ひなければならぬ。しかし一度用ひたが最後、大義の假面は永久に脱することを得ないものである。もし又強いて脱さうとすれば、如何なる政治的天才も忽ち非命に仆れる外はない。つまり帝王も王冠の爲にをのづから支配を受けてゐるのである。この故に政治的天才の悲劇は必ず喜劇をも兼ねぬことはない。たとへば昔仁和寺の法師の鼎をかぶつて舞つたと云ふ「つれづれ草」の喜劇をも兼ねぬことはない。
[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年三月号『文藝春秋』巻頭に後の「戀は死よりも強し」「地獄」との全四章で初出する。
・『ナポレオンは「莊嚴と滑稽との差は僅かに一步である」と云つた』新全集の山田俊治氏の注に、『オクターブ・オブリ』(Octave Aubry(一八八一年~一九四六年:フランスの歴史家)編「ナポレオン言行録」(Les
Pages immortelles de Napoléon (1941))『中の格言。栄光の絶頂にいる者もふとしたはずみで悲惨な状態に陥ることがある。得意と失意は紙一重という意味』とある。
・「政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののことを云ふのである。少くとも民衆の意志であるかのやうに信ぜしめるものを云ふ」「政治的天才は俳優的天才を伴ふ」或いはある読者はアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler 一八八九年~一九四五年)を直ちに想起するかも知れない。しかし、この年(一九二三年)ヒトラーは未だ満三十四歳で、同年十一月にはナチス党員の一人としてミュンヘン一揆(ドイツ闘争連盟が起こしたクーデター未遂事件)に参加するも、半日余りで鎮圧され、ヒトラーは首謀者一員として警察に逮捕されている。彼のおぞましき晴れ舞台への登場はまだまだ先のことであった。
・「抛たない」「なげうたない」。
・「非命」「ひめい」とは、天命を全うしないで思いもかけない災難によって死ぬこと。横死(おうし)。
・「仆れる」「たふれる(たおれる)」。斃れ(たお)れる。
・「をのづから」はママ。
・『仁和寺の法師の鼎をかぶつて舞つたと云ふ「つれづれ草」の喜劇』「鼎」は「かなへ(かなえ)」で食物を煮るのに用いた金属の器。但し、以下の「徒然草」に出るそれは、実用料理具のそれではなく、室内装飾用に置かれたものと考えられる。言わずもがな、誰もが高校の古文で読まされた、「徒然草」第五十三段の、酒に酔った愚かな僧が鼎をすっぽり首まで被って舞い踊り、満座を沸かしたものの、さて鼎が抜けなくなってしまい、医師にも匙を投げられ、首も千切れんばかりに力任せに引き抜いたところが、耳・鼻が欠け、永く病むこととなったという滑稽譚である。挙げるまでもないが、まあ、短いし、懐かしかろうから、以下に掲げる。底本は木藤才蔵校注「新潮日本古典集成」本を基本参照したが、漢字を恣意的に正字化し、読み(無論、歴史的仮名遣)はオリジナルに増加させてある。
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これも仁和寺(にんなじ)の法師(ほふし)、童(わらは)の法師にならんとする名殘(なごり)とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔(ゑ)ひて興(きよう)に入る(い)あまり、傍(かたはら)なる足鼎(あしがなへ)をとりて、頭(かしら)にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻をおしひらめて、顏をさし入れて、舞ひ出でたるに、滿座興にいる事かぎりなし。
しばしかなでて後(のち)、拔かんとするに、大方(おほかた)ぬかれず。酒宴(しゆえん)ことさめて、いかがはせんと惑(まど)ひけり。とかくすれば、頸(くび)のまはり缺(か)けて、血(ち)埀(た)り、ただ腫(は)れに腫れみちて、息もつまりければ、打ち割(わ)らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪へがたかりければ、かなはで、すべきやうなくて、三足(みつあし)なる角(つの)の上に、かたびらをうちかけて、手をひき、杖(つゑ)をつかせて、京(きやう)なる醫師(くすし)のがり、率(ゐ)て行きける、道すがら、人のあやしみ見ること限りなし。醫師のもとにさし入りて、向ひゐたりけんありさま、さこそ異樣(ことやう)なりけめ。物を言ふも、くぐもり聲(ごゑ)に響きて聞えず。「かかることは、文(ふみ)にも見えず、傳へたる教へもなし。」と言へば、また、仁和寺へ歸りて、親しき者、老いたる母など、枕上(まくらがみ)によりゐて泣き悲しめども、聞くらんともおぼえず。
かかるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻(みみはな)こそ切れ失(う)すとも、命(いのち)ばかりはなどか生きざらん。ただ、力(ちから)を立てて引きに引き給へ。」とて、藁(わら)のしべをまはりにさし入れて、かねを隔(へだ)てて、頸(くび)もちぎるばかり引きたるに、耳鼻缺けうげながら拔けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。
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まず、総論を述べる。授業では絶対に言わなかったが、ここで先輩法師らが俗体であった「童」(稚児(ちご))が一人前の「法師」(法体(ほったい))となって別れるとて、かくも異様なるどんちゃん騒ぎをするのは、その背景に法師と稚児の公的(天台宗の稚児灌頂(ちごかんじょう)など)に許された同性愛行為があったからに他ならない。そこを語り、そこを知らなければ、このシークエンスの意味は真に理解出来たとは言えない、と今の私は思う。そもそもがだな、――挿し入れたものが容易抜けなくなる――というのはまっこと、分かり易いシンボライズであって、これは語るに価値ある内容であると今は私は切に思うのである。たとえ、相手が高校一年生の初(うぶ)な男女であっても、である。因みに、参考にした原文底本の木藤氏の頭注には『三本の角といえば、『梁塵秘抄』に見える』、「我をたのめて來ぬ男 角三つ生ひたる鬼になれ さて人に疎(うと)まれよ 霜雪霰(あられ)降る水田(みづた)の鳥となれ さて足冷かれ 池の浮草(うきくさ)となりねかし と搖りかう搖り搖られ歩け」『(巻二)とう歌謡が有名であるが、恐らくこの主の歌謡を一座で合唱して舞ったのであろう』と記しておられるが、この歌、それこそ、通いの絶えた男への深い恨みごとと呪詛を詠み込んだ歌詞である。以下、「※」で語釈を附す。
※「仁和寺」現在の京都府京都市右京区御室(おむろ)にある真言宗大内山(おおうちさん)仁和寺。宇多天皇の開基(光孝天皇の勅願で仁和二(八八六)年に着工されたものの、光孝帝は寺の完成を見ることなく翌年崩御したため、子の宇多帝が遺志を継いで建立した)の門跡寺院(出家後の宇多法皇が住したことから「御室御所(おむろごしょ)」とも別称された)。本尊は阿弥陀如来。
※「大方」呼応の副詞で下に否定を伴い、一向に・全く(~ない)の全否定の意。
※「かなはで」叶はで。打ち割ることも出来ないで。
※「かたびら」「帷子」で単衣(ひとえ:裏をつけていない布で制した衣類)の総称。
※「がり」「誰彼(たれかれ)の人のいる所(へ)」。元来はそうした方向を示す格助詞用法の上代の接尾語であったものが、中古以後に形式名詞化したもの。因みに、この語の成立や、この妙な意味(形式名詞なのに「もとへ」「ところろへ」と辞書に書かれてあるのは面妖極まりない)を高校一年生に分かれ、丸呑みしろ、と言うのは私はまさに文法嫌いにさせる元凶と思う。
※「さこそ異樣なりけめ」さぞかし異様(いよう)面妖なようすであったであろう。「こそ」に呼応する文末助動詞「けり」の已然形の係り結びとともに、「けり」が間接過去の助動詞であることから、筆者はこれを実見したのではなく、話に聴いた際に想像し、その面妖さに呆れているのだ、とここで教授するのが古文授業の「王道」とされる。アホらし。
※「くぐもり聲」内にこもってはっきりしない声の謂いであるが、ここは鼎の中で顔面が腫脹しているために発音が明瞭でないことに加えて、金属製の鼎の中での発声なれば反響するという、ダブルで全くB級SF映画の宇宙人(見た目も奇体なフル・フェリス・ヘルメットだ)みたような声となるのである。
※「文」本草書や医書。
※「傳へたる教へ」「文」に記載化されていない、医療(多分に民間療法的な)の口伝(くでん:口伝え)の治療法・処方のこと。如何にも辛気臭い事大主義的な医師のアセスメントであるが、ここは兼好、確信犯で笑いのダメ押しとして構築している。
※「命(いのち)ばかりはなどか生きざらん」どうして助からないなどということがあろうか、いや、助かる。二箇所目の係り結びで、しかも反語であるから、国語教師にはまっこと、試験を作り易い教材では確かに、あると言える。教師時代、私は「いや、助かる」を附けない反語訳は「×」としたが、これもまっこと、阿呆らしい採点法だったと今は懺悔しよう。
※「藁(わら)のしべ」藁の穂の芯の部分。滑りらせするための補助材である。
※「かねを隔てて」金属製の鼎の口の周囲の部分と法師の肉身の頸部表皮との間に隙間を拵えて。
※「うげ」「穿(う)ぐ」(カ行下二段活用・自動詞)の連用形で、孔が空く・抉(えぐ)り取られるの意。
※「からき」形容詞ク活用「からし」の連体形で、ここでは、免(まぬか)れることが困難な・危ういの謂い。すんでのことに。
※「まうけ」「まうく」(カ行下二段活用・他動詞)の連用形で、ここでは、命を危うくとりとめる。助かる、の意。
まあしかし、後の芥川龍之介の謂い(「つれづれ草」)じゃないが、今考えれば、「中學程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ」「徒然草」なんぞは、これ、およそ「愛讀」する価値のある代物じゃあ、確かに、ない、ね。]
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