芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 制限
制限
天才もそれぞれ乘り越え難い或制限に拘束されてゐる。その制限を發見することは多少の寂しさを與へぬこともない。が、それはいつの間にか却つて親しみを與へるものである。丁度竹は竹であり、蔦は蔦である事を知つたやうに。
[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年九月号『文藝春秋』巻頭に、前の「貝原益軒」「或辯護」の全三章で初出する。なお、文中の「それぞれ」は底本では後半が踊り字「〲」となっている(この場を借りて言っておくと、私は踊り字「く」「〲」自体を自筆の文章の中で生涯一度も使ったことがない。実は「ゝ」「ゞ」や「〻」も使ったことがない(但し、「々」という本邦でしか通用しない記号は頻繁に使う)。余生もその通りであろう。それは何故と言うに、特にこの「〱」「〲」が生理的に嫌いだからである。また、私の古い電子テクストでは使用したこともあったそれを模したいまわしき「/\」「/″\」も虫唾が走る。これは今も「青空文庫」を始めとして、多くの電子テクスト・サイトで平然と使用されている(なお、私はこの絵文字みたようなものを使って恥じない現代のネット人種の感性が全く理解出来ない)。現在、ユニコードの環境依存文字で「〱」「〲」が存在するが、これは横書文書では「/\」「/″\」と同等に笑止千万で(「/\」「/″\」の方は呆けた大口のようにしか見えぬ)、縦書にすると小さ過ぎて踊り字に見えず、そのままでは「く」「ぐ」と読み誤る弊害の方が遙かに甚大で、いちいちそこだけのポイントを大きくしないと誤植かと見紛うほどに実は頗る使い勝手の悪いものなのである(私はユニコードのこの「〱」「〲」を美事に用いて違和感のないネット上縦書テクストを未だ嘗て一度も見たことがない)。従って現在の私の電子テクスト・ポリシーに於いては「〱」「〲」の踊り字は正字化し、注でそれを明記する方法を原則、採用している。この方式を採用している電子テクスト作成者は実はあまりいないと思う。しかし、これは私の確信犯であり、譲れない。今までこれについて語ったことがないので、一言しておくものである)。
・「その制限を發見することは多少の寂しさを與へぬこともない。が、それはいつの間にか却つて親しみを與へるものである」この謂いは図らずも、芥川龍之介が自らを「天才」と自認していたことを暴露してしまっている。「與へぬこともない」と感じたのは話者人以外にはあり得ず、「それはいつの間にか却つて親しみを與へるもの」となったことを体験した故に「である」と断定出来るからである。しかしその「天才」という自己認識は辛いものであった。それは「それぞれ乘り越え難い或制限に拘束されてゐ」たからであり、そうして何より、荘子が堀の中の魚の楽しみが分かったように、「竹は竹であり、蔦は蔦である」「やうに」、私は私である/でしかなかったことを「知つた」/知ってしまったから、である。]
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