芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 幻滅した藝術家
幻滅した藝術家
或一群の藝術家は幻滅の世界に住してゐる。彼等は愛を信じない。良心なるものをも信じない。唯昔の苦行者のやうに無何有の砂漠を家としてゐる。その點は成程氣の毒かも知れない。しかし美しい蜃氣樓は砂漠の天にのみ生ずるものである。百般の人事に幻滅した彼等も大抵藝術には幻滅してゐない。いや、藝術と云ひさへすれば、常人の知らない金色の夢は忽ち空中に出現するのである。彼等も實は思ひの外、幸福な瞬間を持たぬ訣ではない。
[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年六月号『文藝春秋』巻頭に前の「創作」「鑑賞」「古典」(二篇)と合わせて計五章で初出する。私はこの章は、これら四章の最後に満を持して配されてあるのだと思うものである。これは「地獄變」なぞよりも遙かに芥川龍之介の芸術至上主義を語る一章とも読める(但し、近年、私は芥川龍之介の芸術至上主義自認に懐疑的である。「地獄變」で良秀を自裁させることに、私は龍之介の中の異様なほどに強い倫理意識を感じとるからであり、彼の自死の子どもらへの遺書を読んでも、それをことさらに激しく感じざるを得ないからである(リンク先は私のもの)。
さて、これらの五章が纏めて書かれ、しかもそれが一挙に載せられていることを考える時、我々は、と言うよりも、当時の読者に、これらが連続した同一体として読まれることを、芥川龍之介は切実に「要請」していたと考えて良いのではあるまいか? 煩を厭わず、試みに、やってみようではないか。
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「創作」とは何かと言ふことを考へて見る。すると、それは、以下のやうに述べ得るであらう。即ち、『藝術家は何時も意識的に彼の作品を作るのかも知れない。しかし作品そのものを見れば、作品の美醜の一半は藝術家の意識を超越した神祕の世界に存してゐる。一半? 或は大半と云つても好い』。『我我は妙に問ふに落ちず、語るに落ちるものである。我我の魂はをのづから作品に露るることを免れない。一刀一拜した古人の用意はこの無意識の境に對する畏怖を語つてはゐないであらうか? 創作は常に冐險である。所詮は人力を盡した後、天命に委かせるより仕方はない』。例へば、『少時學語苦難圓 唯道工夫半未全 到老始知非力取 三分人事七分天』といふ、『趙甌北の「論詩」の七絶はこの間の消息を傳へたものであらう。藝術は妙に底の知れない凄みを帶びてゐるものである。我我も金を欲しがらなければ、又名聞を好まなければ、最後に殆ど病的な創作熱に苦しまなければ、この無氣味な藝術などと格鬪する勇氣は起らなかつたかも知れない』。さても、しかし、藝術作品には「鑑賞」といふ側面もあることは事實ではあらう。それに就いて私は以下のやうに考へるものである。即ち、『藝術の鑑賞は藝術家自身と鑑賞家との協力である。云はば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身の創作を試みるのに過ぎない。この故に如何なる時代にも名聲を失はない作品は必ず種々の鑑賞を可能にする特色を具へてゐる。しかし種々の鑑賞を可能にすると云ふ意味はアナトオル・フランスの云ふやうに、何處か曖昧に出來てゐる爲、どう云ふ解釋を加へるのもたやすいと云ふ意味ではあるまい。寧ろ廬山の峯々のやうに、種々の立ち場から鑑賞され得る多面性を具へてゐるのであらう』と。さて、翻つて、私はしばしば「古典」作品をその素材としてはゐる。しかし、その「古典」とは次のやうな屬性を持つてゐると斷言出來る。即ち、『古典の作者の幸福なる所以は兎に角彼等の死んでゐることである』といふ認識であり、さうして同時にそれは、「又」、『我我の――或は諸君の幸福なる所以も兎に角彼等の死んでゐることである』といふ歸結に至るといふことである。とすれば、私は次のやうに斷言し得る。即ち、「幻滅した藝術家」と言ふ存在が確かにこの世には存在し、しかも私はその「幻滅した藝術家」の一人では確かにあるといふことである。それを更に私なりに言ひ替へるとするならば、『或一群の藝術家は幻滅の世界に住してゐる。彼等は愛を信じない。良心なるものをも信じない。唯昔の苦行者のやうに無何有の砂漠を家としてゐる。その點は成程氣の毒かも知れない。しかし美しい蜃氣樓は砂漠の天にのみ生ずるものである。百般の人事に幻滅した彼等も大抵藝術には幻滅してゐない。いや、藝術と云ひさへすれば、常人の知らない金色の夢は忽ち空中に出現するのである。彼等も實は思ひの外、幸福な瞬間を持たぬ訣ではない』といふことになるのである。
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こういう仕儀に批判はあろう。大方の御叱正を俟つものではある。しかし、分立した章句を論(あげつら)うのではなく、ずっと麓まで下がって五篇の景観を見るべきではないのか? 彼自身が言っているではないか。「寧ろ廬山の峯々のやうに、種々の立ち場から鑑賞され得る多面性」こそが真に求められる、と。
・「良心なるものをも信じない」「侏儒の言葉」には、誰もが知るところのかの、「わたし」の中に、「わたしは良心を持つてゐない。わたしの持つてゐるのは神經ばかりである。」という一節(私の座右の銘である)がある。
・「無何有の砂漠」の「無何有」は「むかう」。「何有」は「何か有らむ」と読み、反語で「何物も存在しない」の意で、自然のままに何の作為もないことを本来的には指す。ただ、ここでは見た目も現実も、全く砂以外には存在しない、茫漠とした不毛の地という謂いである。]
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