海の小品 原民喜 (恣意的正字化版)
[やぶちゃん注:初出は昭和二五(一九五〇)年九月発行の『野性』、その後、一切の詩集・全集・抄録集にも載ることなく、実に初出から六十五年後(発表の翌の年昭和二十六年三月十三日に民喜自死)の二〇一五年七月岩波文庫刊の「原民喜全詩集」で初めて再録された。本電子データは同岩波文庫を元にしつつ、歴史的仮名遣が使用されている事実、民喜が終生、基本、自筆稿では正字を使用していた事実から、それらを恣意的に多くを正字化して示した。なお、私は本詩篇群は海辺に近かった、戦前の千葉の登戸(のぶと)時代の思い出に基づく、回想的詩篇なのではないかと推理している(発表当時の民喜の居所は竟の住み家となった吉祥寺である)。少なくとも、発表されたこの九月には民喜は自死を決意していたものと私は考えている。なお、「宿かり」の「リツク」(「リュック」の意)はママである。]
海の小品
蹠(あしうら)
あたたかい渚に、既に觸れてゴムのやうな感じのする砂地がある。踏んでゐるとまことに奇妙で、何だか海の蹠のやうだ。
宿かり
じつと砂地を視てゐると、そこにもこゝにも水のあるところ、生きものはゐるのだつた。立ちどまつて、友は、匐つてゐる小さな宿かりを足の指でいぢりながら、
「見給へ、みんな荷物を背負はされてるぢやないか」と珍しげに呟く。その友にしたところで、昨夕、大きなリツクを背負ひながら私のところへ立寄つたのだつた。
渚
步いてゐると、步いてゐることが不思議におもへてくる時刻である。重たく澱んだ空氣のとばりの中へ足が進んで行き、いつのまにか海岸に來てゐる。赤く濁つた滿月が低く空にかゝつてゐて、暗い波は渚まで打寄せてゐる。ふと、もの狂ほしげな犬の啼聲がする。波に追はれて渚を走り𢌞つてゐる犬の聲なのだ。ふと、怕くなつて渚を後にひきかへして行くと、薄闇の道路に、犬の聲は、いつまでもきこえてくる。