芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 自由意志と宿命と
自由意志と宿命と
兎に角宿命を信ずれば、罪惡なるものの存在しない爲に懲罰と云ふ意味も失はれるから、罪人に對する我我の態度は寛大になるのに相違ない。同時に又自由意志を信ずれば責任の觀念を生ずる爲に、良心の麻痺を免れるから、我我自身に對する我我の態度は嚴肅になるのに相違ない。ではいづれに從はうとするのか?
わたしは恬然と答へたい。半ばは自由意志を信じ、半ばは宿命を信ずべきである。或は半ばは自由意志を疑ひ、半ばは宿命を疑ふべきである。なぜと云へば我我は我我に負はされた宿命により、我我の妻を娶つたではないか? 同時に又我我は我我に惠まれた自由意志により、必ずしも妻の注文通り、羽織や帶を買つてやらぬではないか?
自由意志と宿命とに關らず、神と惡魔、美と醜、勇敢と怯懦、理性と信仰、――その他あらゆる天秤の兩端にはかう云ふ態度をとるべきである。古人はこの態度を中庸と呼んだ。中庸とは英吉利語の good sense である。わたしの信ずるところによれば、グツドセンスを待たない限り、如何なる幸福も得ることは出來ない。もしそれでも得られるとすれば、炎天に炭火を擁したり、大寒に團扇を揮つたりする瘦せ我慢の幸福ばかりである。
[やぶちゃん注:初出は大正一二(一九二三)年五月号『文藝春秋』巻頭であるが、前の「神祕主義」が一緒に掲載されている。なお、底本(岩波旧全集)の後記によれば、最後の一文、
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もしそれでも得られるとすれば、炎天に炭火を擁したり、大寒に團扇を揮つたりする瘦せ我慢の幸福ばかりである。
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は、初出では、
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もしそれでも得られるとすれば、炎天に炭火を擁したり、大寒に團扇を揮つたりする我慢の幸福ばかりである。
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と、「瘦せ」が、ない。
標題中にある「自由意志」という訳語は近代以降に齎された西欧の倫理哲学に於ける英語の「free will」やドイツ語「freier Wille」の訳語に過ぎず、日本語として定着しているものの、本来の日本語には存在しないし、正規の学術用語でもないと私は思う。因みに、私は「宿命」も全く以って信じぬ代わりに「自由意志」も存在しない、幻想に過ぎぬ、という立場を採るものである。とすれば、私は龍之介の言うところの極端たる「寛大」も、その対極たる「嚴肅」をも自らのものとしないことになる。とすれば、私は「中庸」か? ところがまことに残念なことに、私は「中庸」というでぶでぶした文字も生理的に嫌いだし、その意味するところの欺瞞的妄想をもさらさら信を置かぬ人間なのである。
・「宿命を信ずれば、罪惡なるものの存在しない爲に懲罰と云ふ意味も失はれる」仏教の因果応報思想の絶対倫理観の基底はまさにここにある。それを鮮やかに高らかにズバリと語ったのが、親鸞の(厳密にはそれを録した唯円の)「歎異抄」の悪人正気機の言説(ディスクール)たる「善人尚ほもて往生をとぐ。況や惡人をや」である。我々の悪心悪行は自身の心によるものではなく、前世の「業(ごう)」に基づくのである。私はこの仏教に於ける当たり前のことが、現代に於いて十全に理解されているとは実は思っていない。といって、私は仏教徒ではないが。
・「恬然」「てんぜん」。物事に拘(こだわ)らず平然としているさま。「恬」自体が「気にかけないで平然としているさま」を意味する漢語である。
・「怯懦」「けふだ(きょうだ)」。臆病で気が弱いこと。意気地(いくじ)のないこと。
・「古人は中庸と呼んだ」「中庸」という漢語は「論語」の「雍也第六」に、
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子曰、中庸之爲德也、其至矣乎。民鮮久矣。
(子曰く「中庸の德たるや、其れ、到れるかな。民、鮮(すく)きこと、久し。」
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を初出とするとされるが、龍之介は直後に英語の「good sense」(良識)を並置しており、さすればこれは、儒家思想の根本理念たるしいそればかりではなく、古代ギリシャのアリストテレスが「ニコマコス倫理学」(ラテン語:Ēthica
Nicomachēa/Moribus ad Nicomachum)の中で倫理学上の徳目の一つとして掲げたところの、行為や感情の過剰と不足を制御する「メソテース」(ラテン語:Mesotes:「中間にあること」の意。これを邦語訳ではまさに儒教用語である「中庸」を当てている。例えば、アリストテレスは龍之介の例示した「勇敢と怯懦」に酷似した形で、「勇気」とは「蛮勇」と「臆病」の両極の中間的状態であり、それの中間の様態を認識する徳性が思慮(phronesis:フロネーシス。実践知)であるとする)も含まれる。されば、この「古人」とは孔子だけでなく、アリストテレスをも含み、洋の東西を問わぬ古代の哲人を指すと考えねば不十分である。
・「擁したり」老婆心乍ら、「ようしたり」と読む。抱きかかえたり。
・「大寒」読みは「だいかん」であろうが(筑摩全集類聚版など)、「炎天」との対から考えれば、これは二十四気の一つのそれ(現在の陽暦一月二十一日頃)の謂いではなく、単に厳しい寒さの中の意である。
・「團扇」老婆心乍ら、「うちは(うちわ)」と読む。「うちわ」という当て読みは「打ち羽」が元という。「團」(団)は、主たる形状の「円(まる)い」ことによる。
・「揮つたり」老婆心乍ら、「ふるつたり(ふるったり)」と読む。]
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