忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「勘」
勘
「勘がないのですか、打てば響くといふやうになつて下さい」と、病妻はよく私のことを零した。こまごました看病と體を使ふ雜用のため、頭は茫として、私の勘はだんだん鈍つて行つた。が、妻の方は反對に病氣が進んでゆくに隨つて、直覺力が冴えて行つた。あの病氣につきものの、極微なものをしつこく穿鑿しようとする癖や、遠方にゐる人の氣持まで透視しようとする望みが、死期の近づくとともに募つて行つたのである。そうして、大概の場合、妻の豫言は的中してゐた。
簞笥や、押入の中にある品物の數量と位置をちやんと記憶してゐるのも、街の路筋や、どこの店には何があり、どこそこの家の隣りは誰が棲んでゐるかといふことなど、或は過去の忘れはてた瑣事をふと記憶の底から呼び起すのも、寢た儘動けない病人の方であつた。それ故、私は妻を喪つたことに依つて、何か大きな空隙ができてしまつた。
[やぶちゃん注:「零した」「こぼした」。不平・愚痴などを言うの意。ぼやく。
「あの病氣」結核。]
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