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2016/05/11

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 猶見たし花に明けゆく神の顏 芭蕉

本日  2016年 5月11日

     貞享5年 4月12日

はグレゴリオ暦で

    1688年 5月11日

 

   葛城山(かづらぎやま)

 

猶見たし花に明けゆく神の顏

 

「笈の小文」より。但し、同作では本句はずっと前の三月二十日(グレゴリオ暦四月二十日)の初瀬(はつせ/はせ)と、翌二十一日の臍峠(へそとうげ/ほぞとうげ)の間に、

   *

   はつ瀨

春の夜や籠人(こもりど)ゆかし堂の隅

足駄はく僧も見えたり花の雨       萬菊

   葛城山

猶見たし花に明けゆく神の顏

三輪、多武峰(たふのみね)、臍峠(へそたうげ)、〔多武峰より龍門(りゆうもん)へ越ゆる道なり。〕

雲雀より空にやすらふ峠かな

   *

の形で操作(虚構)挿入されてある。先行の行程でも葛城山を辛うじて遠望出来、恐らくは三月二十四日に吉野山を発ち、泊まった五條宿で翌二十五日の曙の葛城山を眺めたかも知れぬ(サイト「俳諧」の「笈の小文」のこちらで推定されておられる)。それならロケーションの時間は合致するものの、それではあまりに遠望であって、この句のようなダイナミズムを鑑賞することは(私は)出来ぬ。以下に見るように、別の前書には「やまとの國を行脚して葛城山のふもとを過(すぐ)るに」とあるから、やはりこれは行程上から、この日の作と採るしかない。山本健吉氏は「芭蕉全句」の本句鑑賞の冒頭で、『四月二十日、門人千里の郷里竹内村を訪れたあと、当麻寺に詣でたのだから、そのとき葛城山の麓も過ぎたわけである』と述べておられる。

 「猿蓑」には、

 

   葛城のふもとを通る

 

と前書し、「泊船」のそれは、

 

やまとの國を行脚して葛城山のふもとを過るに、よもの花はさかりにて、峰々はかすみわたりたる明ぼのゝけしき、いとゞ艶(えん)なるに彼(か)の神のみかたちあしゝと、人の口さがなく世にいひつたへ侍れば

 

猶見たし花に明行(あけゆく)神の顏

 

と詳述を極める。「葛城山」は「大和葛城山(やまとかつらぎさん)」とも呼称され、現在の奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境にあり、標高は九百五十九・二メートルある。この前書にも出るここで言う「神」とは、葛城山麓(現在の奈良県御所市森脇)にある葛城一言主(かつらぎひとことぬし)神社の祭神である、一言主を明け行く山体に感じているのである。同神はウィキの「一言主」によれば、「古事記」の「下つ卷」に登場するのを初出とし、雄略天皇四(四六〇)年のこと、『天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った』と出る。後の「日本書紀」では、『雄略天皇が一言主神に出会う所までは同じだが、その後共に狩りをして楽しんだと書かれていて、天皇と対等の立場になって』おり、さらに下ってから書かれた「続日本紀」(延暦一六(七九七)年成立)では、『高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流された、と書かれている。これは、一言主を祀っていた賀茂氏の地位がこの間に低下したためではないかと言われている。(ただし、高鴨神は、現在高鴨神社に祀られている迦毛大御神こと味耜高彦根神であるとする説もある)』。さらに後の平安時代初期(弘仁一三(八二二)年頃)に書かれた最古の説話集「日本霊異記」にあっては、『一言主は役行者(これも賀茂氏の一族である)に使役される神にまで地位が低下しており、役行者が伊豆国に流されたのは、不満を持った一言主が朝廷に讒言したためである、と書かれている。役行者は一言主を呪法で縛り』つけ、当の「日本霊異記」が書かれているその『執筆の時点でもまだそれが解けないとある』。他に能の「葛城」では女神とされるが、ウィキの記載は醜い顔とする叙述がない。しかし、ウィキの「役の行者」の方には、役の行者が、『ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという』と出るから、「日本霊異記」に記された伝承が一言主醜顔とする濫觴であろう(前記の記載からは天皇と同等の神格から急激に零落していくことが判り、そのスティグマ(聖痕)こそが逆に「醜い顔」として残ったのだとも言えよう。さらに言えば実は国津神たる大国主命の子事代主神と同一視されることもあるのである。私はこれは「ひとことぬし」と「ことしろぬし」と発音上の類似性だけが根拠とは到底、思われないのである。なお、「枕草子」(初稿成立は長徳二(九九六)年の頃)の第一七九段では、夜の伺候の多く、明け方早々に退出しようとする出仕し始めの頃の若き日の清少納言を中宮定子が「葛城の神」と揶揄する回想シーンがあるから、この頃には一言主の醜顔というのはすっかり定着していたことが判る。この伝承から例えば「拾遺和歌集」には小大君(こおおきみ:三条院女蔵人左近とも呼ぶ)の一首(一二〇一番歌)に、

 

岩橋(いははし)の夜(よる)の契りも絶えぬべし明(あ)くるわびしき葛城の神

 

などともある。芭蕉の一句は曙に浮かび上がる花の華麗な実景の中に、消えゆく零落させられた神一言主の面影を、寧ろ、それを能の「葛城」の如くに美しき女神として蘇生させ、しかもなお、「消えないで! 今一度! その美しき面影を!」と「言上げ」する秘やかな祝祭句、いやさ! 恋句であるのではなかろうか?

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