「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 若葉して御目のしづく拭はばや 芭蕉
本日 2016年 5月 8日
貞享5年 4月 9日
はグレゴリオ暦で
1688年 5月 8日
招提寺(せいだいじ)鑑眞和尚(がんじんわしやう)來朝の時、船中七十餘度の難を凌ぎ給ひ、御目(おんめ)の中(うち)汐風吹き入りて、終(つひ)に御眼(おんめ)盲(しい)させ給ふ尊像を拜して、
若葉して御目のしづく拭(ぬぐ)はばや
「笈の小文」より。奈良西郊(現在の奈良県奈良市五条町)にある南都六宗の一つである律宗の総本山唐招提寺で同寺に安置されている鑑真和上像(現在、国宝)を拝した折りの名吟である。
「笈日記」には、
靑葉して御目の雫(しづく)拭(ぬぐは)ばや
とするが、ここは「靑葉」ではだめである。
同寺を建立した鑑真(がんじん 六八八年~天平宝字七年六月二十五日(ユリウス暦七六三年五月六日相当)についてはウィキの「鑑真」から引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『唐の揚州江陽県の生まれ。十四歳で智満について得度し、大雲寺に住む。十八歳で道岸から菩薩戒を受け、二十歳で長安に入る。翌年、弘景について登壇受具し、律宗・天台宗を学ぶ。律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、四万人以上の人々に授戒を行ったとされている。揚州の大明寺の住職であった七四二年、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。当時、奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かった。私度僧に対して差別的な勢力が、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させようと画策、聖武天皇に取り入』ったことから、『聖武天皇は適当な僧侶を捜していた』。『仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい』、僧伽(そうぎゃ:「サンガ」とも。仏教で具足戒を正しく保つ出家修行者らによって構成される僧集団を指す)『集団の規則を「律」という。戒を誓う為に、十人以上の僧尼の前で儀式(これが授戒である)を行う宗派もある。日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が盛んであった。しかし、奈良時代に入ると自誓授戒を蔑ろにする者たちが徐々に幅を利かせ、十人以上の僧尼の前で儀式を行う方式の授戒の制度化を主張する声が強まった。栄叡と普照は、授戒できる僧十人を招請するため』、『戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れた』。『栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかった。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子二十一人も随行することとなった。その後、日本への渡海を五回にわたり試みたが』、これは『ことごとく失敗した』。『最初の渡海企図は七四三年夏のことで、このときは、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放された。鑑真は留め置かれた』。『二回目の試みは七四四年一月、周到な準備の上で出航した』ものの、『激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった』。『再度、出航を企てたが、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕をされ、三回目も失敗に終わる』。『その後、栄叡は病死を装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。そのため、官吏に出航を差し止めされ、四回目も失敗する』。『七四八年、栄叡が再び』、『大明寺の鑑真を訪れた。懇願すると、鑑真は五回目の渡日を決意する。六月に出航し、舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、十一月に日本へ向かい出航したが、激しい暴風に遭い、十四日間の漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着した。鑑真は当地の大雲寺に一年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えた。そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡が残されている』。『七五一年、鑑真は揚州に戻るため』、『海南島を離れた。その途上、端州の地で栄叡が死去する。動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう』。『七五三年、大使・藤原清河らが鑑真のもとに訪れ』、そこで鑑真は彼らに『渡日を約束した。しかし、明州当局の知るところとなり、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否』せざるを得なくなった。『それを聞いた副使の大伴古麻呂は大使の藤原清河に内密に第二舟に鑑真を乗船させた。天平勝宝五年十一月十六日』(ユリウス暦七五三年十二月十五日)『に四舟が同時にが出航する。第一舟と第二舟は十二月二十一日に阿児奈波嶋』(あこなはじま:現在の沖繩本島のこと)到着した(以下、日付に疑義があるので一部を中略した)。『天平勝宝五年十二月十二日』(七五四年一月九日)『に屋久島(益救嶋)に到着、鑑真は晴れて日本への渡航に成功した。
朝廷や大宰府の受け入れ態勢を待つこと』、『六日後の十二月十八日に大宰府を目指し出港』、翌十九日に遭難したが、二日後に辛くも秋目(現在の南さつま市坊津(ぼうのつ)に比定)に漂着、その後、『大安寺の延慶に迎えられながら』、大宰府に到着天平勝宝五年十二月二十六日(七五四年一月二十三日)に『到着、鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、天平勝宝六年二月四日』(七五四年三月二日)『に平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。翌四月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで四百名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後、天平宝字五年には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった』であった。(天平宝字二(七五八)年、『淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる労苦から解放するため』、『僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた』。翌天平宝字三年には、天武天皇の皇子の一人であった新田部親王(にいたべしんのう
)の『旧邸宅跡が与えられ』、『唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ』が、四年後の天平宝字七年、『唐招提寺で死去(遷化)した。七十六歳。死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像』(脱活乾漆・彩色で、麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法が用いられており、両手先は木彫りである)『を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている』、この唐招提寺鑑真像が、現存する『日本最古の肖像彫刻とされている。また』、宝亀一〇(七七九)年には淡海三船によって鑑真の伝記「唐大和上東征伝」が著わされ、『鑑真の事績を知る貴重な史料となっている』とある。
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