芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 古典(二章)
古典
古典の作者の幸福なる所以は兎に角彼等の死んでゐることである。
又
我我の――或は諸君の幸福なる所以も兎に角彼等の死んでゐることである。
[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年六月号『文藝春秋』巻頭に前の「創作」「鑑賞」及び後の「幻滅した藝術家」と計五章で初出する。同題なので二つ一緒に示す。「又」は龍之介が「侏儒の言葉」でこの後、頻繁に使用する前の章との同題を指示する文字であるが、この「又」もなかなかに曲者である。概ね前の章をパラドキシャルに変換する効果を持つため、前章自体がパラドックスを述べている場合には、かなり手強い。龍之介のパラドックスは必ずしも元には戻らず、それこそ裏表や内側と外側が反転して張り合わされ、メビウスの帯かクライン管のような様相を呈するからである。
この二章もまさにそれで、具体的な例を想起して考えてみると分かる。
○「荘子(そうじ)」や「源氏物語」の作者(に措定されている)ところの荘子(そうし)や紫式部が幸福である絶対的理由は彼らがとにかく既にして死んでいることに存している。
そして「又」、
●その「荘子」や「源氏物語」を読むところの、我々或いは読者諸君がそれを読みながら幸福であることが出来る理由もとにかく既にして荘子や紫式部が既にして死んでいることに同じく存している。
というのである。これは同語反復(トートロジー)の遊戯ではない。
○荘子や紫式部が幸福であるのは、その叙述創作したところの「荘子」や「源氏物語」に対する、如何なる毀誉褒貶に対してもそれを少しも気にすることもなく、それは同時に、自己の産み出した文学(的)作品に対して一切の責任を負う必要が全くないことを意味するからである。
そして「又」、
●翻って、その「荘子」や「源氏物語」を読んで面白がったり不思議がったり怖がったり涙を流したりする現代人全般がそれで幸福でいられるのは、それを創作した荘子や紫式部が既にして死んでいることに依拠するのは、作った奴がいないのだから、どう理解しようが、誤解・曲解しようが、神棚に祭りあげようが、厠の糞拭きにしようが、基本的に自由自在だからである。作者がその解釈は全然違うよ、とは決して言いもしないから、どんな風に受け入れても構わないという絶対自由の幸福があるからである。さらに加えて言えば、教師や学者・役人なんどというそれの物申すことを糧とする下劣な輩は、実はその個人の感懐やそれに伴う行動には、実は何の意味も価値も権威も持たない無力な無効な存在だからである。
ここで龍之介が言いたい点はなんであるか? それはこれらを対偶すれば分かる。そしてそのヒントは「我々」と言いながら「或いは読者諸君」と――敢えてする――ところにある。
△ここで私芥川龍之介は、かのヒットした「古典」を素材とした「羅生門」(こちらは後にヒットした)やら「鼻」やらの作者であるが、自分は「今昔物語集」の作者のようには死んでいないから、書いたものに責任を持たねばならぬ。それはそれで自信を持っておれば、相応に泰然として居られるのであろうが、実際には私はどこか自信が無くって常時、びくついている。そうして、お門違いな絶賛礼讃或いは見当違いの誹謗中傷を波状的に生身に受け続けている。
▲翻って、私芥川龍之介の作品を娯楽として消費する大衆の中の殆んどの読者は、やれ「暗い」だの「甘い」だのと私の作品の隅をほじくっては論(あげつら)い、エンディングの絶望感に思想がないとか、ただの古典の剽窃じゃないかとか、鬼の首を獲ったような言いたい放題に終始している。そうした勝手な物言いが彼らの絶対的幸福であるための権利ででもあるかのように、である。しかしそれは、ただ作者芥川龍之介が今に「生きている」という事実のみに依拠する幸福に過ぎない。
そうしてまた――そうした馬鹿げた問いや批判に、また、いちいち私は神経症的に誠実に答えねばならないという、実に針の筵の地獄――不幸――の中に生きている――と芥川龍之介は言っているのではあるまいか?
――とすれば――それを終わらせる方法は――一つしか――ない。
――自身自ら「死ぬ」こと――しか――ない
詳述は省くが、私はこの時期に既に芥川龍之介の意識の中で、自殺念慮がはっきりと動いていたと考えている。それは例えば、この年(大正一二(一九二三)年)の二ヶ月後の八月に龍之介が避暑のために訪れていた鎌倉平野屋別荘での様子描いた岡本かの子の「鶴は病みき」の龍之介(作中では「麻川荘之介」)の無惨な姿を読めば自ずと実感出来るものと存ずる。青空文庫のそれをリンクしておく。]
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