芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) S・Mの智慧
S・Mの智慧
これは友人S・Mのわたしに話した言葉である。
辨證法の功績。――所詮何ものも莫迦げてゐると云ふ結論に到達せしめたこと。
少女。――どこまで行つても淸冽な淺瀨。
早教育。――ふむ、それも結構だ。まだ幼稚園にゐるうちに智慧の悲しみを知ることには責任を持つことにも當らないからね。
追憶。――地平線の遠い風景畫。ちやんと仕上げもかゝつてゐる。
女。――メリイ・ストオプス夫人によれば女は少くとも二週間に一度、夫に情欲を感ずるほど貞節に出來てゐるものらしい。
年少時代。――年少時代の憂欝は全宇宙に對する驕慢である。
艱難汝を玉にす。――艱難汝を玉にするとすれば、日常生活に、思慮深い男は到底玉になれない筈である。
我等如何に生くべき乎。――未知の世界を少し殘して置くこと。
[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』(前号五月号は休刊)巻頭に前の「二宮尊德」「奴隷」(二章)「悲劇」「強弱」とともに全六章で初出する。標題のイニシャル「S・M」の「友人」とは、芥川龍之介の数少ない真の理解者であった、詩人で小説家の室生犀星(むろうさいせい 明治二二(一八八九)年~昭和三七(一九六二)年:本名は室生照道(てるみち))のことである(龍之介より三歳年上)。本章はその言い回しなどから見ても、概ね犀星の直話と考えてよく、とすれば「侏儒の言葉」の中では他者由来のアフォリズムとして特異例ということになるが、自ずと龍之介の嗜好好みの条々であり、幾分か、龍之介の筆も加えられていると考えてよかろう。現在まで私の読んだ犀星の文章にこれを解説したものには出逢っていない。あれば、御教授戴けるよう、よろしくお願い申し上げる。私の貧しい注を少しでも充実させるために、である。
・「辨證法」ドイツの哲学者ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel 一七七〇年~一八三一年)のそれ(ドイツ語:Dialektik:音写「ディアレクティク」。 語源はギリシア語の「対話」(ラテン文字転写:dialektikē )と採る。グーグルの「弁証法」の検索で頭に出る解説が簡潔で分かり易いので引く。『物の考え方の一つの型。形式論理学が、「AはAである」という同一律を基本に置き、「AでありかつAでない」という矛盾が起こればそれは偽だとするのに対し、矛盾を偽だとは決めつけず、物の対立・矛盾を通して、その統一により一層高い境地に進むという、運動・発展の姿において考える見方。図式的に表せば、定立(「正」「自」とも言う)Aに対し』(「テーゼ」(ドイツ語(以下、同):These)、『その(自己)否定たる反立(「反」「アンチテーゼ」』(Antithese)『とも言う)非Aが起こり、この否定・矛盾を通して更に高い立場たる総合(「合」「ジンテーゼ」』(Synthese)『とも言う)に移る。この総合作用を「アウフヘーベン」』(aufheben)『(「止揚」「揚棄」と訳す)と言う』。
・「淸冽」「せいれつ」水が清らかで冷たいさま。
・「メリイ・ストオプス夫人」スコットランドの植物学者・作家・女性運動家で、特に産児制限運動家として知られたマリー・ストープス(Marie Carmichael Stopes 一八八〇年~一九五八年)。ウィキの「マリー・ストープス」から引く。『エディンバラに生まれた。父親は人類学者のヘンリー・ストープスで、母親のシャーロット・カーマイケル=ストープスは有名なシェークスピアの専門家で、スコットランドで最初に大学教育を受けた女性である。ロンドンで育ち』、十二歳まで『母親から教育を受けた。エディンバラのSt. George Schoolで学んだ後、女子校のノース・ロンドン・コレジエイト校を卒業した。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで、植物学、地質学を学ぶことを許された。古生代の地層から新たに発見された植物化石に強い関心をもった最初の女性となり、その化石の研究は高い評価を得た』。『植物学と地質学、地理学の学位を得た後、ミュンヘンの植物学研究所に進み』、一九〇四年に『自然科学の博士号を取得した。博士論文のテーマは、ソテツやシダの種子の構造に関するもので、絶滅したシダ種子類(Pteridospermae)の確立に重要な役割を果たした』。一九〇四年(明治三十七年)に『マンチェスター大学の最初の女性科学研究者とな』り、一九〇七年(明治四十年/マリー二十七歳)で『ミュンヘンで知り合った、日本人植物学者、藤井健次郎について、来日』、二年の間、日本で共同研究を行ない、『中生代後期の地層からの新種の植物化石を藤井と記載した』。一九〇八年に『イギリスに戻り、再びマンチェスター大学で働いた。カナダの地質調査や、ランカスターの植物化石の有名な産地のFern Ledgesなどで仕事をした』。一九一三年から『ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの古植物学の講師を』七年間務め、一九〇九年にはロンドン・リンネ協会の会員となっている。『産児制限運動や性教育の分野で、家族計画に関する著作』「結婚で結ばれた愛」(Married
Love 一九一八年)や「賢明な親」(Wise
Parenthood 一九一八年)があり、十三の言語に翻訳され、数百万部を売り上げるベストセラーとなった。ストープスの『来日費用は王立協会から北海道での白亜紀被子植物探索調査の名目で支給された。東京大学で講義をし、小石川植物園に化石研究の施設を整える一方、北海道で単身、化石採集を行った。明治時代の北海道を若い白人女性が化石採集するのは、センセーショナルで、新聞に取り上げられ、警官の護衛がついたとされる。滞日中の記録は、『日本日記』(A
Journal From Japan)に残され、北海道以外に房総半島の旅行の記録や日本の風俗などが記録されている。藤井と共著で「白亜紀植物の構造と類縁に関する研究」を発表した。この研究には、白亜紀の単子葉類の子房の化石、クレトオパリウム(Cretovarium)が記載されている』。『滞日中のエピソードとしては、大使館の夜会にでるのにピンクのドレスで自転車で出かけたり、日本科学界の重鎮、桜井錠二男爵に可愛がられ、謡いの名手だった男爵から能の手ほどきを受け、能の公演にも招待された。帰国後王立協会で能の名作「隅田川」を朗読し』てもおり、また「日本の古典劇・能」(Plays
of Old Japan (The NO) 一九一二年)をロンドンで出版してもいる、とある。来日当時は犀星十八、龍之介十五歳であった(因みに、この年、龍之介は当時在学中の東京府立第三中学校(源氏の都立両国高校)の同級生で親友の山本喜誉司(きよし)の姪であった塚本文(ふみ)七歳と初めて逢っている。後の芥川龍之介夫人である(結婚は大正七(一九一八)年二月二日))。
・「驕慢」「けうまん(きょうまん)」とは、驕(おご)り昂(たか)ぶって相手を侮(あなど)り、勝手気儘に振る舞うこと。
・「艱難汝を玉にす」「かんなんなんぢ(なんじ)をたまにす」と読む。苦労や困難を耐え乗り越えてこそ立派な人間と成るの意。筑摩全集類聚版脚注では、『西洋の諺の意訳。Adversity makes men wise. 』とある。「adversity」は逆境・不運・災難・困難・困窮であるから、訳すなら「逆境は人を賢明にする。」である。]
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