芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 禮法
禮法
或女學生はわたしの友人にかう云ふ事を尋ねたさうである。
「一體接吻をする時には目をつぶつてゐるものなのでせうか? それともあいてゐるものなのでせうか?」
あらゆる女學校の教課の中に戀愛に關する禮法のないのはわたしもこの女學生と共に甚だ遺憾に思つてゐる。
[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年八月号『文藝春秋』巻頭に前の「民衆」(三章)「チエホフの言葉」「服裝」「處女崇拜」(三章)とともに全九章で初出する。
・『「一體接吻をする時には目をつぶつてゐるものなのでせうか? それともあいてゐるものなのでせうか?」』「侏儒の言葉」の特異点。このアフォリズムは「侏儒の言葉」が始動してから、通算五十八番目のアフォリズムであるが(単行本ではカットがあるので通算数は二つ減ずる)、本物の台詞形式(生(なま)の女学生の言葉)で直接話法が出現し、しかもそれが独立段落として扱われているのはここが初めてである。鍵括弧が文中に引用語句或いは仮想会話文を示すのに用いられた例は幾らもあるが、直接話法は「尊王」のブルゴーニュ公とアベの会話だけで、これは改行せずに文中挿入である。改行独立段落では「醜聞」のグールモンのそれがあるが、これは会話文ではなく完全な引用である。時に、これにどう答えるか。多くのキスを描いた絵や写真は概ね目を瞑っている。目をカッと見開いた男女が接吻しているというのはどうも気持ちが悪いような気がする。さればこそ「愛に關する禮法」では目を瞑るということになるのであろうか? しかし、あなたはどうか? 本当に目を瞑っていたか? いやさ、いるか? 薄っすらと開けて女の瞑った目を確かめたりはしなかったか? 或いは、薄っすらと開けて見たら、女もそうして覗き見ていたから、慌ててギュと閉じたりはしなかったか? 遠い遠い日の、思い出、である。]
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