芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 機智(二章)
機智
機智とは三段論法を缺いた思想であり、彼等の所謂「思想」とは思想を缺いた三段論法である。
又
機智に對する嫌惡の念は人類の疲勞に根ざしてゐる。
[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十月号『文藝春秋』巻頭に、前の「火星」「Blanqui の夢」「庸才」の全五章で初出する。これはすこぶる短章ながら、なかなか難しいと私は思う。以下、注を附しながら、乏しい我が「機智」を以って対峙して見よう。
・「機智」「機知」とも書ける。その場その場に応じて、活発に働く才知。ウイット(wit)。とっさの場合に素早く働く知恵(頓智(とんち))。この場合の「機」は「はずみ・ある事象の起こる(変化するきっかけ」或いは、そのような瞬時の知性的な「働き・活動」の謂いであると思う。
・「三段論法」分かり易さという点で(私は注を迂遠には附けるが、決して難解に附けることはしていないと自負している。あなたにとって私の注が難解だとしたら、それは珍しくもあなたがその叙述に関しては私の乏しい知にさえ追いついていないということに他ならない)、「ニコニコ大百科」の「三段論法とは」を引く(一部の表記を連続させ、記号を変更した。リンク元の方が読み易い)。『大前提(主に普遍的な法則)と小前提(個別の単なる事実)から結論を導き出す推論方法』で、『簡潔に説明すると以下のような論法である。『AはBである。→BはCである。→よってAはCである。』『「A」と「C」という元々直接的には関係しない事柄を、両方と関連性のある「B」という事柄を用いて論理的に結びつけることができる』。『三段論法の有名な例としては以下の文が挙げられる』。『ソクラテスは人間である。→全ての人間は死すべきものである。→ゆえにソクラテスは死すべきものである。』『上述の説明に当てはめると、「ソクラテス」はA、「人間」はB、「死すべきもの」はCに該当する』。『「ソクラテスは人間である」という小前提と「全ての人間は死すべきものである」という大前提により、「ソクラテスは死すべきものである」という結論が導き出されたのである』。『三段論法を少し応用すると以下のような論述もできる』。『Xさんは殺人を犯した。→殺人を犯した者は逮捕される。→Xさんは逮捕される。』『三段論法はどんな事柄にでも応用が利くため、あらゆる場面において重用される』。
・『彼等の所謂「思想」とは思想を缺いた三段論法である』この場合の「彼等」とは、機智を働かして面白おかしいが、なかなか侮れない洒落たことを言う連中の謂いであろう(誰かがそうじゃないか?(私の独り言))。「思想を缺いた三段論法」とは三段論法の大前提・小前提・結論のどこかに論理矛盾や偽があるのではなく、悪意を以って解釈するなら、大前提も小前提も結論もただの平板な比喩や換喩の関係にあるだけで、そこに三段論法を以って語ろうとするその者(機智を働かす者)の信じるところの「思想」が微塵もないことを意味する、と一応、採れるようには思われる。しかし、短文なればこそ全く逆に善意とは言わないまでもフラットな解釈をすることも出来る。その場合は、そうした「彼等」には世間で「思想」と認められているものとは隔絶した、全く異なるその(機智を上手く働かす者の)個人の中にのみ存在する純粋にオリジナルな「思想」に依拠する「三段論法」がある、と言う意味に採ることが可能である。そうして私は第二章とのジョイントの良さから、後者の謂いで理解している。即ち、芥川龍之介は、
その「機智を働かす者」には、信じ得るところの「既成の陳腐な思想」が微塵もないことこそが「その者個人の思想」なのであり、そうした「個人純正の思想に基づく三段論法」を操る者を――龍之介は否定していない
と読むのである。何故なら、そうでないとどうしても、次の二章目のアフォリズムと、上手く繫げて解釈することが出来ないからである(次注参照)。
・「機智に對する嫌惡の念は人類の疲勞に根ざしてゐる」この一文は「人類」の多くは、上手く「機智」を働かす人間とそのアジな「機智」に対して強い「嫌惡の念」を抱くが、それは多分に「人類の疲勞」、精神的にすっかり疲弊させられてしまっている「人類」の病的な心理状態に「根ざしてゐる」と言っているのである。一章目では不確かであった「機智」に対する龍之介の立場が、この二章目に於いてはっきりと示されてあるのである。
そこで私は、はたと膝を打ったものである。
機智を働かした一貫した「思想」は雲霧の彼方にまるで見えてこない、妖しい具体例が、実に目の前にあるではないか!
アフォリズム(Aphorism)とは何だ?
日本語では「金言」とか「格言」と訳されるが、辞書を開けば、その濫觴はギリシア語で「分離する」の意の(ラテン文字転写。以下、同じ:aphorizein)が語源で、ヒポクラテス(Hippocrates 紀元前四六〇年頃~紀元前三七〇年頃)が医学上の処方を記した「箴言」(Aphorisms)に始まるらしい。元来は「実用的な指示や助言を伝える」であったものが、後に、それぞれがまさに「分離した」簡明な文言を特に指す言葉となったのであったが、ルネサンス期頃からは人間の性格や処世上の教訓を述べる際にも好んで用いられるようになったという。また別な記載には、元は――理論や原理に於ける「定義」――の意であったものが、後には――原則や一般に受入れられた「真理」を端的な言葉で表わしたもの――を指すようになった、ともある。
おお! 「こゝろ」の初版の見開きにあるあのラテン語の台詞(私のブログ。当該画像を見られる)が、まさにそのヒポクラテスの最古のアフォリズムの一つではないか!
――Ars
longa,vita
brevis.
――(アルスロンガ、ウィータ ブレウィス。)
――(医の)技術の修得は長く(かかる)、(しかし)生は短い。
――学問は永く、生命は短い。
――(やぶちゃん訳)僕にはやりたいことが腐るほどある、……だのに、その前に僕の脳味噌と肉
は腐ってしまうのだ。
そうだ!
この二章のアフォリズムは、それ自体が、まさに「三段論法」となっているのではないか?!
芥川龍之介自身が「機智」を用いて「機智」と「思想」を皮肉に語りつつ、それを如何にもヤる気無さげに読者に投げ与えておいて(ヤる気は実は遍身に満ちているくせに)、
――あなたの「三段論法」でどうぞ讀解なされるが好(よ)いでせう――
と意地悪く、誘っているのではないか?
「私がここで働かせている機智」とは三段論法を欠いた「私だけの思想」である。
↓
「私だけの思想」とは何か? それは、世間で言うような退屈な思想なんぞをすっかり欠いた「純然たる冷徹にして論理的な私だけの三段論法」である。
↓
故に「私がここで働かせている機智」に対し、疲労し尽くして自分の機智を働かすことはおろか、他者の鋭い機智をさえ全く読み取れなくなってしまっている人類は、「私がここで働かせている機智」たるところの、「純然たる冷徹にして論理的な私だけの三段論法」を遂に理解出来ず、ただただ嫌悪するばかりなのである。
ヤラレた!
という感じが、今の私には、している。…………]
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