忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「眼」
眼
よく働く眼であつた。ちらつとものを竊視ることも出來たし、靜かにものを見詰めることもできる眼であつた。どんな細かなものも見落すまいと褐色の眸は輝き、一眼でものの姿を把へようと勝氣な睫は瞬いた。手先仕事のちよつとした骨(こつ)なら傍から見ていて、すぐに覺えとつてしまふ眼であつた。眼分量のよくきく眼であつた。マツチの大箱に軸が何本這入つてゐるか、眼で測つて、後で數へてみると殆ど差がなかつた。
熱が出ると、その眼は潤んで、大きく見開かれた。頰の火照りをじつと怺へてゐて、何かを一心に祈つてゐる眼であつた。
人の氣持に先𢌞りしようとする眼であつた。その眼からはとげとげしいもの、やさしいもの、うれしげなものがいつも活潑に飛び出た。
私はその眼が末期の光を湛へて、大きく虛ろに見開かれたのを忘れはしないが、あの時の相は私の心に正確には映らなかつた。むしろ、夜の闇の中で考へてゐると、まざまざと甦つて來るまなざしの方がかなしいのである。
[やぶちゃん注:「竊視る」「ぬすみみる」と訓じておく。
「眼分量」「めぶんりやう(めぶんりょう)」目分量。
「怺へて」「こらへて」。「堪えて」に同じい。]

