芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 瑣事
瑣事
人生を幸福にする爲には、日常の瑣事を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戰ぎ、群雀の聲、行人の顏、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。
人生を幸福にする爲には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の爲に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破つたであらう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を與へたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享樂の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に樂しむ爲には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。
人生を幸福にする爲には、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戰ぎ、群雀の聲、行人の顏、――あらゆる日常の瑣事の中に墮地獄の苦痛を感じなければならぬ。
[やぶちゃん注:大正一四(一九二三)年七月号『文藝春秋』巻頭に前の「社交」と後の「神」(二章)とともに全四章で初出する。リフレインと「ずらし」の修辞技法を用い、ごく限られた語彙で組み立てられたアフォリズムであるが、完成度は頗る高い。故に難解である。芥川龍之介の言う「幸福」は、べろりと裏返して見れば「絶対の不幸」でもある。龍之介が好んだ言葉、「煩悩則菩提」が、まさにこの「長歌」の「短歌」とも言えるかも知れぬ。
・「瑣事」「さじ」。小さな事。つまらぬ事。「瑣」は小さい・細かい・取るに足りないの意。「些事」とも書ける。
・「戰ぎ」「そよぎ」。
・「群雀」「むらすずめ」。
・「行人」「かうじん(こうじん)」。道を歩いて行く人或いは旅人の意であるが、ここは擦れ違う見知らぬ他人の謂いと採るのがよい。
・「甘露味」「かんろみ」。「甘露」には多様な意があるが、ここは古代インドの聖なる甘い飲物で、苦悩を除き、長寿を保って、死者をも復活させるとされたものを指し、後には仏法の教えに喩えられたそれに基づき、想像だにし得なかった意外な感動・感懐の味わいを指すと考える。
・「庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破つたであらう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を與へたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享樂の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である」「愁」は「うれひ(うれい)」。無論、松尾芭蕉の人口に膾炙した「古池や蛙(かはづ)飛びこむ水の音」を指すが、この句は貞享三(一六八六)年春、芭蕉庵で催した句会で詠んだもので、それまで、歌学にあって専ら鳴くことをのみ当然の風趣としてきた平板な「蛙」という材料を美事に跳ね飛ばさせた上、その跳躍の瞬時の「動」から即座にずらして、その直後の池の絶対の「静」を引き出すという、新鮮な詩情を創出させている。これはまさに、全くそれまでの和歌や俳諧連歌に存在しなかった芸術性の高みをシンボライズする句であり、「蕉風」の象徴的句として俳句史に於いては捉えられている。それを踏まえながら、芭蕉がこの句に象徴されるところの新しい詩を生み出すことで、マニエリスムに陥っていた退屈な詩歌の「百年の愁」いを「破つた」のではあるが、しかしそれは同時に、孤独な作業にして、答えの出ることのない芸術探究という「百年の愁」いを現出させてしまったのだとも言い得る、日常の中にこそ波状的に襲いきたる「墮地獄」(だじごく)を味わう芭蕉の孤独はこの句から始まったのだ、ということである。ここで龍之介は孤高な芭蕉に秘かに自分自身を擬えていると言ってよい。でなければ、こんな逆説的感懐は脳裏に浮かびはしないからである。そうした芥川龍之介の共時的芭蕉観は「侏儒の言葉」の芭蕉限定アフォリズム集とも言うべき「芭蕉雜記」(大正十二(一九二三)年~大正十三年)や「續芭蕉雜記」(昭和二(一九二七)年)に示されてある(リンク先は私の電子テクスト)。]
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