芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 佛陀(三章)
佛陀
悉達多は王城を忍び出た後六年の間苦行した。六年の間苦行した所以は勿論王城の生活の豪奢を極めてゐた祟りであらう。その證據にはナザレの大工の子は、四十日の斷食しかしなかつたやうである。
又
悉達多は車匿に馬轡を執らせ、潜かに王城を後ろにした。が、彼の思辨癖は屢彼をメランコリアに沈ましめたと云ふことである。すると王城を忍び出た後、ほつと一息ついたものは實際將來の釋迦無二佛だつたか、それとも彼の妻の耶輸陀羅だつたか、容易に斷定は出來ないかも知れない。
又
悉達多は六年の苦行の後、菩提樹下に正覺に達した。彼の成道の傳説は如何に物質の精神を支配するかを語るものである。彼はまづ水浴してゐる。それから乳糜を食してゐる。最後に難陀婆羅と傳へられる牧牛の少女と話してゐる。
[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年二月号『文藝春秋』巻頭に前の「椎の葉」との全四章で初出する。底本の後記によれば第一アフォリズムは初出では、「六年の間苦行した所以は勿論王城の生活の豪奢を極めてゐた祟りであらう。」の「祟り」が、「六年の間苦行した所以は勿論王城の生活の豪奢を極めてゐた結果であらう。」となっている。仏陀を主人公としているところに「祟り」を持ち出すところがすこぶるよろしい、面白いと私は感ずる。それについては以下の私の「祟り」の注を参照されたい。
・「悉達多は王城を忍び出た後六年の間苦行した」「悉達多」は「しつたるた(しったるた)/しつだるた(しっだるた)」と普通は読むが、旧全集の芥川龍之介の「神神の微笑」で「したあるた」とルビあい、筑摩全集類聚版もそれを採っているので、ここでも「したあるた」と読んでおく(リンク先は私の初出推定復元版)。原音に基づくなら、ガウタマ・シッダールタ(Gautama Siddhārtha:紀元前五世紀頃の北インド出身の人物)であり、濁音化する方が近いが、辞書類は概ね清音で示すようである。これは梵語(古代サンスクリット語)の「Siddhārtha」(「すべて完成しているもの」の意)の漢訳で(フルでは「瞿曇悉達多(くどんしっだった)」)、釈迦が出家前に太子だった折りの名である。ウィキの「釈迦」によれば(下線やぶちゃん)、『釈迦の父であるガウタマ氏のシュッドーダナは、コーサラ国の属国であるシャーキャのラージャで、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーである』。二人の『間に生まれた釈迦はシッダールタと名付けられた。母のマーヤーは、出産のための里帰りの旅行中にルンビニで釈迦を生み、産褥熱でその』七日後に死んだとされる。『シャーキャの都カピラヴァストゥにて、釈迦はマーヤーの妹プラジャーパティーによって育てられ』、『釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った』。十六歳で『母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子、ラーフラをもうけた』(別説有り)。『当時のインドでは、後にジャイナ教の始祖となったマハーヴィーラを輩出するニガンタ派をはじめとして、順世派などのヴェーダの権威を認めないナースティカが、バラモンを頂点とする既存の枠組みを否定する思想を展開していた』。『釈迦が出家を志すに至る過程を説明する伝説に、「四門出遊」の故事がある。ある時、釈迦がカピラヴァストゥの東門から出る時老人に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時死者に会い、この身には老いも病も死もある、と生の苦しみを感じた(四苦)。北門から出た時に一人の沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった』。『長男のラーフラが生まれた後』の、二十九歳の『時に、夜半に王宮を抜け出て、かねてよりの念願の出家を果たした。出家してまずバッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、バッカバは死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。次にアーラーラ・カーラーマのもとを訪れると、彼が空無辺処(あるいは無所有処)が最高の悟りだと思い込んでいるが、それでは人の煩悩を救う事は出来ないことを悟った。次にウッダカラーマ・プッタを訪れたが、それも非想非非想処を得るだけで、真の悟りを得る道ではないことを覚った。この三人の師は、釈迦が優れたる資質であることを知り後継者としたいと願うも、釈迦自身はすべて悟りを得る道ではないとして辞した』。その後、ウルヴェーラーの林(苦行林)へ『入ると、父のシュッドーダナは釈迦の警護も兼ねて』五人の沙門(五比丘)を『同行させた。そして出家して』六年の間、『苦行を積んだ。減食、断食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。その際、五比丘は釈迦が苦行に耐えられず修行を放棄したと思い、釈迦をおいてワーラーナシーのサールナートへ去っ』ている。この時既に三十五歳となっていた釈迦は、そこで、『全く新たな独自の道を歩むことと』し、リラジャンという川で『沐浴したあと、村娘のスジャータから乳糜』(後注参照)『の布施を受け、気力の回復を図って、インドボダイジュの木の下で、「今、悟りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で瞑想した。すると、釈迦の心を乱そうとマーラ』(釈迦の瞑想を妨げるために現れた魔神。愛の神カーマと結び付けられて「カーマ」の別名又は「カーマ・マーラ」として一体で概念されることがある。マーラを降すことを「降魔」という)『が現れ、この妨害が丸』一日『続いたが、釈迦はついにこれを退け(降魔)、悟りを開いた(正覚)』とある。なお、岩波新全集の山田俊治氏の注では、『以下の説話は「今昔物語集」巻一第四、五によっている』と注する。しかしこれは厳密に言うなら、その前の「悉達太子在城受樂語第三」(悉達太子(しつだたいし)、城(じやう)に在りて樂しみを受けたまへる語(こと)第三)及び「悉達太子出城入山語 第四」(「悉達太子、城を出でて山に入りたまへる語第四)と「悉達太子於山苦行語第五」(悉達太子、山に於いて苦行したまへる語第五)の三篇に基づくとすべきところである(リンク先はともに私がしばしばお世話になっている「やたがらすナビ」の漢字新字版平仮名化の原文である)。「後」は「のち」。芥川龍之介は滅多に「あと」とは訓じない。
・「祟り」本来の仏教には「祟り」という概念はないと考えてよい(ヒンドゥーの魔神類は悉く如来の眷属化していて祟るべき神は教義上では存在しないはずと私は思う)。仏教よりも起源の古い(と私は考えている)日本の古い信仰に於ける「神」は(大和朝廷によって「古事記」などで整序された国家神道以前の信仰を私は指しているので注意されたい)、基本的に「祟り神」という絶対属性を持つ。辛気臭い仏教やら阿呆臭い現人神なんぞとはわけが違う――だから――小気味よく、すこぶるよろしく面白いのである。なお、本邦の仏教で「祟り」を謂い出すようになるのは神仏習合の恐らく非常に早い時期に神道側からの強い「祟り」観念の強力感染が仏教側に発生したことを意味するものと私は思っている。その感染菌が仏教の胎内で共生することによって、仏教側もたんまり儲けられるようになることが即座に判ったからに他ならない。ウィキの「祟り」にも(下線やぶちゃん)、『日本の神は本来、祟るものであり、タタリの語は神の顕現を表す「立ち有り」が転訛したものといわれる。流行り病い、飢饉、天災、その他の災厄そのものが神の顕現であり、それを畏れ鎮めて封印し、祀り上げたものが神社祭祀の始まりとの説がある』。一般に祟りというと、『人間が神の意に反したとき、罪を犯したとき、祭祀を怠ったときなどに神の力が人に及ぶと考え』て発生したものと考えてよかろう。『何か災厄が起きたときに、卜占や託宣などによってどの神がどのような理由で祟ったのかを占っ』たりすることによって、その神が『人々に認識され』、そこでやおら、『罪を償い』、『その神を祀ることで祟りが鎮められると考えられている。神仏習合の後は、本来は人を救済するものであるはずの仏も、神と同様に祟りをもたらすと考えられるようになった。これも、仏を祀ることで祟りが鎮められると考えられた。しかしこれはあくまでも俗信であり、仏教本来』(ここには要出典要請がかけられているが、どこでもよい、寺を訪ねて訊くがよい。祟りを語るのは水子や先祖霊の供養を高額で勧めるクソ坊主ばかりであるはずだ)『の考え方においては、祟りや仏罰を与えることはない』。後に御霊信仰の成立により(これは明らかに仏教ではなく、神道や古神道以前の信仰が遠い濫觴であると私は思う)、『人の死霊や生霊も祟りを及ぼすとされるようになった。人の霊による祟りは、その人の恨みの感情によるもの、すなわち怨霊である。有名なものとしては非業の死を遂げた菅原道真(天神)の、清涼殿落雷事件などの天変地異や、それによる藤原時平・醍醐帝らの死去などの祟りがある。時の天皇らは恐懼して道真の神霊を天満大自在天神として篤く祀り上げることで、祟り神を学問・連歌などの守護神として昇華させた。このように、祟り神を祭祀によって守護神へと変質させるやり方は、恐らく仏教の伝来以降のものと考え』て間違いはないと思われる。
・「ナザレの大工の子は、四十日の斷食しかしなかつた」「新約聖書」の「マタイによる福音書」の第四章に以下のようにある(私が下線を引いた第二節が当該箇所)。大正改訳に読点などを補って示す。
*
ここにイエス、御靈(みたま)によりて荒野(あらの)に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり。 四十(しじふ)日四十夜(や)斷食(だんじき)して、後(のち)に飢ゑたまふ。試むる者、きたりて言ふ、
「汝もし神の子ならば、命じて此等(これら)の石をパンと爲らしめよ。」
答へて言ひ給ふ、
「『人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言(ことば)に由る。』と錄(しる)されたり。」
ここに惡魔、イエスを聖なる都(きやこ)につれゆき、宮(みや)の頂上きに立たせて言ふ、
「汝もし神の子ならば己(おの)が身を下(した)に投げよ。それは、
『なんぢの爲に御使ひたちに命じ給はん。
彼ら手にて汝を支へ、その足を
石にうち當つること無からしめん。』
と錄されたるなり。」
イエス、言ひたまふ、
「『主(しゆ)なる汝の神を試むべからず。』と、また錄されたり。」
惡魔またイエスを最(い)と高き山につれゆき、世のもろもろの國と、その榮華とを示して言ふ、 「汝なんぢもし平伏(ひれふ)して我を拜(はい)せば、此等を皆、なんぢに與へん。」
ここにイエス、言ひ給ふ。
「サタンよ、退(しりぞ)け。『主なる汝の神を拜し、ただ之れにのみ事(つか)へ奉まつるべし。』と録されたるなり。」
ここに惡魔は離れ去り、視よ、御使ひたち來り事へぬ。
*
・「車匿」「しやのく(しゃのく)」と読み、梵語Chandakaの音写で釈迦の元従僕(馬丁)で後に弟子となった人物。釈迦 が王城を後にして出家した際、苦行林までその馬を牽いたとされる人物で、釈迦の没後に阿難(釈迦十大弟子の一人。多聞(たもん)第一と称せられた)について修行し、阿羅漢(あらかん:梵語arhatの漢音写。「応供」(おうぐ)などと漢訳する。「尊敬を受けるに値する人」の意。略称して「羅漢」とも言い、主に小乗仏教に於いて最高の悟りに達した聖者を指す)となったとされる。「チャンダカ」「チャンナ」とも呼ぶ。ウィキの「車匿」によれば、『釈迦の弟子で、チャンナという同名の弟子は』四名『いたといわれる。釈迦が出家する際に、白馬・健陟(カンタカ)を牽引した馬丁チャンナと六群比丘の一人で悪行が多かったチャンナは共通の事説が多く、同一人物といわれる』。『チャンナは釈迦と同じ日に生まれたという。釈迦仏が太子時の従僕であるが』、『クシャトリア(王種)ともいわれる。シッダルタ太子(釈迦)がカピラ城をチャンナと共に出城し、東方の阿奴摩(アーマー)河にて剃髪し出家した。その際、チャンナに宝冠、衣帯、宝珠を渡し』て、『白馬カンタカを牽引して城へ帰さしめた』。「摩訶僧祇律」(まかそうぎりつ:中国の東晋代に成立した律蔵(教団規律集)の一つ。仏駄跋陀羅(ぶっだばっだら)と法顕の共訳で全四十巻)では釈迦十大弟子の一人で頭陀第一とされた摩訶迦葉(まかかしょう)の『後に続いて順に出家したとされるが、一般的には釈迦仏が故郷カピラ城へ帰った際に出家したといわれる』。『チャンナは自分がクシャトリアであり、仏と最も親しい者であると思い込んでおり、しばしば悪口を働き、そのため悪性車匿(あくしょう・しゃのく)、あるいは悪口車匿(あっく・しゃのく)といわれた。舎利弗』(しゃりほつ:釈迦十大弟子の一人。智慧第一とされた)や目連(釈迦十大弟子筆頭で神通第一とされる)に対しても嫉妬し、『悪口をいい、釈迦仏も幾度も彼に注意したが、その場では大人しいが、しばらくするとまた悪口を言うことを繰り返した。また戒律を犯しても認めようとせず、他の比丘衆からもよく駆遣呵責(くけんかしゃく=厳しくその責を咎める)された』。『釈迦仏の入滅直前に、阿難(アーナンダー)がチャンナをどう扱えばよいかと問うと、ブラフマダンタ(黙擯=だまってしりぞける、つまり無視する)の罪法を科した。アーナンダーは、それでもチャンナは気が荒く乱暴者であるから』、その場合は『どうすればよいか再度訊ねると、仏は大勢の比丘を率いていけばよいと答えた。しかして釈迦仏が入滅した後に、アーナンダーは』五百人の『比丘を連れてコーサンビーのゴーシタ苑に彼を呼び出し、仏から伝えられた罪を申し渡した。彼はそれを聞き、気絶して倒れたが、それを機に心を入れ替え』て『修行に励んだ結果、ついに阿羅漢果を得て、後に無余涅槃に入ったといわれる』とある。
・「馬轡」「はみ」或いは「くつわ」「くつばみ」と当てて訓じたい(筑摩全集類聚版は「ばひ」とルビするが、聴き慣れず、採らない)。要するに、馬具の一種である「轡(くつわ)」のことである。馬の口には嵌めて手綱に繫いで馬を制御する道具。狭義には、馬の口に噛ませるその主要な部分を「馬銜」(はみ・喰)と呼ぶ。
・「メランコリア」英語の
melancholia は文語で鬱(状態)・病的な重い憂鬱の意。鬱気分や鬱病は現行では depression を用いる。
・「釋迦無二佛」釋迦無二」は「釋迦牟尼」が一般的表記であるが、所詮、梵語の Śākyamuni、「釈迦族の聖者」の意の音写の符号であるから別段「無二」でもよく、字面も「釈迦」の尊称として違和感がない。
・「耶輸陀羅」筑摩全集類聚版は「やすだら」とルビするが、現在では殆んどの辞書が「やしゆだら(やしゅだら)」とする。ところがウィキの「耶輸陀羅」では「やしょだら」(歴史的仮名遣なら「やしよだら」)で、言語の綴り(梵語:Yaśodharā / Jašódharā・パーリ語:Yasodharā)から見て、「やしょだら」で読むこととする。以下、ウィキの「耶輸陀羅」から引く。『釈迦が出家する前、すなわちシッダールタ太子だった時の妃である。一般的な説では、出家以前の釈迦、すなわちガウタマ・シッダールタと結婚して、一子羅睺羅(らごら、ラーフラ、ラゴーラ)を生んだとされる』。後に『比丘尼(すなわち釈迦の女性の弟子)となった』。『耶輸陀羅の身辺や出身には多くの説があ』り、『拘利(コーリヤ)族の天臂(デヴァーダハ)城のアンジャナ王を祖父として、その王の長男・善覚(スプラブッダ)、長女・摩耶、次女・摩訶波闍波提あり、耶輸陀羅は善覚の娘で提婆達多は弟に当る(南伝パーリ仏典、ジャータカ等)という説』、『釈迦族の住むカピラ城の執杖(ダンダパーニ)大臣の娘、瞿夷(ゴーピカー、普曜経等の記述)が同人異称とし、混同されて伝えられたという説』、『釈迦族のカピラ城の大臣、摩訶男(摩訶摩那とも、阿那律の兄で五比丘の一人とは別人)の娘(仏本行集経)の説』などがあるとし、『いずれにしても一般的には、摩訶摩耶の子である釈迦、摩訶波闍波提の子である難陀は彼女のいとこに当るという説が北伝』(北伝仏教:インドから北方のルートを経て伝播した仏教の総称。大乗仏教と同義)『では採用されている。北伝の仏典では、彼女の婿選び儀式 (swayamvara)で釈迦と難陀や提婆達多等と競技を行い、釈迦の正妃となったとする説もあるが、彼女が』十歳前後で釈迦が十七歳(或いは十六歳)で『結婚したといわれる。また釈迦とは同じ生年月日で』十七歳で『結婚したとする説もある』。『また出家前の釈迦には、耶輸陀羅も含め三人の妃と子がいたと伝えられるが、耶輸陀羅はいずれもその正妃となったともいわれる』。『彼女は釈迦の妃となって初めて宮中に入る際、慣例を無視してヴェールをつけず侍女から注意されると、「この傷一つない顔をなぜ隠す必要があるのですか?」と言ったともいわれる。この故か五天竺第一の美女とも称せられる』。『彼女は釈迦仏が出家直前(直後とも)にラゴーラを生んだが、経典によっては、彼女はラゴーラを』六年もの間、『胎内に宿していた、という説や、釈迦が難行苦行中の』六年の間に『ラゴーラを宿していて、成道の夜に生んだという諸説がある。雑宝蔵経では、釈迦の成道後にラゴーラを生んだことで親族から貞節を疑われたと記し、ジャータカ因縁物語では釈迦の実父である浄飯(スッドダーナ)王は彼女の貞節を賛じたという』。『釈迦仏が』悟りを開いて十二年の後、『故郷カピラ城に帰郷した際、彼女はラゴーラを伴』って『釈迦仏に会いに行き』、『「財宝を譲って下さい」と言うようにラゴーラに言わせたという。釈迦仏はそのようにすればよい、と認めるもラゴーラはニグローダ樹苑に行こうとする釈迦仏の一行についていき、沙彌(年少の見習い修行者)となった』。『彼女自身も叔母の摩訶波闍波提』(まか はじゃはだい)や五百人の『女性と共に出家させてもらえるよう、釈迦仏に三度にわたり懇願したが、なかなか受け付けてもらえず』、『大声で泣いて帰城した。釈迦仏の一行は既にカピラ城を離れ』、『ヴァイシャリー城の郊外にある大林精舎(重閣講堂)へ赴いたが、あきらめきれなかった彼女たちは剃髪し』、『黄衣を着て』、『跡を追って行った。講堂の前で足を腫らして涙と埃や塵でまみれ大声で泣いていたが、彼女らを見た阿難陀(アーナンダ)が驚いて理由を聞かれ、女性の出家を認めるよう頼み、阿難陀の説得もありようやく出家を許された。出家後は自分を反省する事に努め、尼僧中の第一人者になったといわれる』とある。
・「すると王城を忍び出た後、ほつと一息つゐたものは實際將來の釋迦無二佛だつたか、それとも彼の妻の耶輸陀羅だつたか」実に上手い。彼は妻を置いて独り「王城を忍び出た」がしかし、「彼の思辨癖」(神経症的にぐるぐるぐるぐる考え続ける悪い癖)は、その後も(ということはそれ以前も)しばしば「彼」自身「をメランコリア」、重い抑鬱状態に陥らせた。だと「すると」彼が出家するために「王城を忍び出た後」に「ほつと一息つ」いた者は「實際」、当の「將來の釋迦無二佛だつた」のだろうか? いや、胆汁質の「メランコリア」の輩はそう簡単に「ほつと」などせぬ。実は彼がいなくなって「ほつと一息つ」けたのは、さんざんっぱら、彼の鬱気分につきあわされ続けてきて、内心は彼に飽き飽きしていた「彼の妻の耶輸陀羅だつた」のかも「知れない」、というのである。非常にこの気持ち、私にはよく判る。――私自身が「メランコリア」の輩だから――である。
・「菩提樹」釈迦が菩提を得た、悟りを開いた場所にあったとされる、イラクサ目クワ科イチジク属インドボダイジュ Ficus religiosa 。別名を「テンジクボダイジュ」(天竺菩提樹)と称し、釈迦が生まれた所にあったとされる「無憂樹」(マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サラカ属ムユウジュ Saraca asoca)及び釈迦の涅槃の場にあったとされる「沙羅双樹」(アオイ目フタバガキ科 Shorea 属サラソウジュ Shorea
robusta)と並ぶ、仏教三大聖樹の一種。ウィキの「インドボダイジュ」によれば、熱帯地方では高さ二十メートル以上に『生長する常緑高木。葉の先端が長く伸びるのが特徴。他のイチジク属と同様、絞め殺しの木となることがある。耐寒性が弱く元来は日本で育てるには温室が必要であるが、近年では地球温暖化の影響で、関東以南の温暖な地域では路地植えで越冬できたり、または鉢植えの観葉植物として出回っている。各地の仏教寺院では本種の代用としてシナノキ科の植物のボダイジュ』(アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属ボダイジュ Tilia miqueliana)『がよく植えられている。そのためボダイジュが「菩提樹」であるかのように誤解されることが多いが、本種が仏教聖樹の「菩提樹」である』とある。
・「正覺」「しやうがく(しょうがく)」は仏教用語。「無上等正覚」の略で、仏の正しい悟り・最高の悟りの境地を指す。筑摩全集類聚版には「正」『意を以って宇宙人生の真理を』「覚」『悟した意』とある。
・「成道の傳説」「成道」は「じやうだう(じょうどう)」と読む仏教用語で、仏教の修行者や求道者が修行を積んだ結果、遂に悟りを開くことを指す(「道」は「さとり」の意)。釈迦は苦行実践を無益であるとして捨てた後、菩提樹の下で悟りを開いた、これを「成道」と呼び、毎年、その成道の日とされる十二月八日に「成道会(じょうどうえ)」 が行われる。新潮文庫の神田由美子氏の注には、『悉達多六年の苦行後、解脱(げだつ)を断念し、尼連禅河』(にれんぜんが:Nairañjanā; Nerañjanā:インド・ビハール州ブッダガヤーの東を流れる川。先に出した「リラジャン」川と同じ)『にて水浴し、村長の娘善生の供養する乳糜(にゅうび)』(次注参照)『を食べ』、『体力を回復した後、菩提樹下に初めて悟りを開き、仏陀とな』ったとする。その「正覺」、悟りに至った経緯を語る諸伝承の謂いである。
・「乳糜」「にゆうび(にゅうび)」は諸注総て、牛乳で米をに煮詰めた食物とする。「糜粥(びじゅく)」という熟語があり、これは薄い粥(かゆ)を指すから、牛乳を水で割って煮込んで製した粥ということであろうか(消化はすこぶる良さそうである)。先のウィキの「釈迦」から引いたり、或いは前注した通り、釈迦は尼連禅河で『沐浴したあと、村娘のスジャータ』(次注参照)から、この『乳糜の布施を受け』て、遂に悟達したのである。
・「難陀婆羅」「なんだばら」。この龍之介の文脈だと、乳糜を施してくれた人物と、「最後に」「話し」た「牧牛の少女」「難陀婆羅」は別人としか読めないが、考えてみれば、牛の乳の粥と牧牛であるから、これは同一人物と考えた方が自然である。実際、ウィキの「スジャータ」を見ると同一人物である。以下に引く。スジャータ(サンスクリット語及びパーリ語:Sujātā:正確に音写するなら「スジャーター」)は釈迦が悟る直前に乳がゆを供養して『命を救ったという娘である』。釈迦は六年に亙る『生死の境を行き来するような激しい苦行を続けたが、苦行のみでは悟りを得ることが出来ないと理解する。修行を中断し責めやつしすぎた身体を清めるためやっとの思いで付近のネーランジャラー川(尼連禅河)に沐浴をした』。『スジャータは「もし私が相当な家に嫁ぎ、男子を生むことがあれば、毎年百千金の祭祀(Balikamma)を施さん」とニグローダ樹に祈った。その望みの通りになったため、祭祀を行っていた。スジャータの下女はプンナー(PuNNā)樹下に坐していた釈迦を見て、樹神と思い、スジャータに知らせると、彼女は喜んで』、『その場に赴いて釈迦に供養した。釈迦はスジャータから与えられた乳がゆ(Pāyāsa)を食してネーランジャラー川に沐浴した』。『心身ともに回復した釈迦は心落ち着かせ』、『近隣の森の大きな菩提樹下に座し』、(東アジアの伝承では旧暦十二月八日に)『遂に叡智を極め悟りを得て』、『仏教が成道した』。『一般的に、釈迦がスジャータから乳がゆの供養を得て悟りを得た後に説法して弟子となったのは、五比丘であり、優婆夷(女性在家信者)ができたのもその後と考えられるが、彼女を最初の優婆夷とする仏典もある』。『スジャータは古代インドの女性名で、“良い生い立ち、素性”を意味する。漢訳では善生(ぜんしょう)、難陀婆羅(ナンダバラ)など。難陀(Nanda)とは、歓喜。婆羅(Vara)とは、菩薩(求める)』の謂いである。なお、彼女の出自や身辺は経典によって異なるとある。]
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