芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 森鷗外
森鷗外
畢竟鷗外先生は軍服に劍を下げた希臘人である。
[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」「武者修業」「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」と、後の「或資本家の論理」の全十一章で初出する。但し、本章は単行本「侏儒の言葉」ではカットされた。森鷗外(本名・森林太郎 文久二(一八六二)年~大正一一(一九二二)年七月九日)は、ご覧の通り、この発表の二年前四ヶ月前に亡くなっている(死因は萎縮腎及び肺結核)。彼は作家である前に公的には陸軍軍医(最高位で明治四〇(一九〇七)年十月に中将相当陸軍軍医総監に昇進、人事権をもつ軍医最高位である陸軍省医務局長に就任している)で、当時の軍人の佩刀は当然であるから、このアフォリズムのオリジナリティは「希臘人である」の部分にあることになる(「希臘」は「ギリシア」で読んでおく)。無論、これは古代ギリシャ人の謂いで、さすれば、ギリシャの先哲らのように、武人にして政治家・博物学者・文学者・科学者あり、それ前に哲学者や美学者であるといった八面六臂の総合的才知の持ち主の謂いではあろう。しかしでは何故、これを単行本から削除したのか? それは思うに捻りも何にもない前振りが、逆に芥川龍之介自身の軍人嫌いの生理的不快を自分で刺戟してしまったからだろうとまずは言える。さらに、知られたことであるが、彼が「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」で始まる最後の遺言(七月六日附)を残していたため、その遺言に従って、墓には一切の栄誉と称号を排し、ただ「森林太郎ノ墓
」とのみ刻されている(私も大学に入ったその年の四月に一度だけ、三鷹市の禅林寺に墓参したことがある。但し、ウィキの「森鷗外」の注によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『遺言を残した翌七月七日に天皇と皇后から葡萄酒が下賜され、八日に摂政宮(のちの昭和天皇)から御見舞品が下賜され、従二位に叙せられた。鷗外本人は、遺言を残した六日夜半から容体が悪化し、七日夕刻から昏睡状態に入っ』たとしながら、『もっとも、死去する前日の八日に従二位に叙せられたこと』から、一部の研究者は『鷗外最後の遺言を疑問視し、鷗外の叙爵への執着を指摘し』ており、『鷗外が石黒忠悳』(ただのり 弘化二(一八四五)年~昭和一六(一九四一)年陸軍軍医。子爵。鷗外の上官)『によって貴族院議員に推挙された際に喜んでお受けしたい旨の返書を送ったという日記(大正五年一月六日)の記述を挙げ、鷗外が臨終の際に袴をはいていたのは叙爵の使者を迎えるためだったと指摘』されてもいる)。孰れにせよしかし、世間に於いては謎めいた軍人としての事蹟の拒絶を示すような遺言の文々(もんもん)がいろいろと軍内部の確執などが噂された(事実あったともする研究者は多いようだ)ことから、龍之介は草葉の陰で鷗外の霊が恨むというより、このアフォリズムが彼の意図とは異なった形で曲解される(ごく短文なればこそ作者の意図とは真逆に解釈される(それがどのようなおぞましいものかは私には生憎想起出来ないが)可能性は高い)ことを憚った故の削除であったような気が私がしている。取り敢えず謂い添えておくなら、龍之介は三中時代から師漱石の諸作とともに鷗外の作品にも親しんではいた。生涯に少なくとも三度は面会している。また、鷗外に〈歴史其儘〉やら〈歴史離れ〉の歴史小説があって、龍之介の王朝物・切支丹物・近世物などを始めとする寓話的なそれらは確かに「歴史物」ではあるものの、両者は自ずとはなはだ懸隔したものであると言える。龍之介は「文藝的な、餘りに文藝的な」(昭和二(一九二七)年『改造』。リンク先は私の電子テクスト)の「十三 森先生」では以下のように述べている。全文を引く。
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僕はこの頃「鷗外全集」第六卷を一讀し、不思議に思はずにはゐられなかつた。先生の學は古今を貫き、識は東西を壓してゐるのは今更のやうに言はずとも善(よ)い。のみならず先生の小説や戲曲は大抵は渾然と出來上つてゐる。(所謂ネオ・ロマン主義は日本にも幾多の作品を生んだ。が、先生の戲曲「生田川」ほど完成したものは少かつたであらう。)しかし先生の短歌や俳句は如何に贔屓目に見るとしても、畢に作家の域にはひつてゐない。先生は現世にも珍らしい耳を持つてゐた詩人である。たとへば「玉篋兩浦嶼(たまくしげふたりうらしま)」を讀んでも、如何に先生が日本語の響を知つてゐたかが窺はれるであらう。これは又先生の短歌や俳句にも髣髴出來ない訣ではない。同時に又體裁を成してゐることはいづれも整然と出來上つてゐる。この點では殆ど先生としては人工を盡したと言つても善(よ)いかも知れない。
けれども先生の短歌や發句は何か微妙なものを失つてゐる。詩歌はその又微妙なものさへ摑めば、或程度の巧拙などは餘り氣がかりになるものではない。が、先生の短歌や發句は巧は即ち巧であるものの、不思議にも僕等に迫つて來ない。これは先生には短歌や發句は餘戲に外ならなかつた爲であらうか? しかしこの微妙なものは先生の戲曲や小説にもやはり鋒芒を露はしてゐない。(かう云ふのは先生の戲曲や小説を必しも無價値であると云ふのではない。)のみならず夏目先生の餘戲だつた漢詩は、――殊に晩年の絶句などはおのづからこの微妙なものを捉へることに成功してゐる。(若し「わが佛(ほとけ)尊(たふと)し」の譏りを受けることを顧みないとすれば。)
僕はかう云ふことを考へた揚句、畢竟森先生は僕等のやうに神經質に生まれついてゐなかつたと云ふ結論に達した。或は畢に詩人よりも何か他のものだつたと云ふ結論に達した。「澀江抽齋」を書いた森先生は空前の大家だつたのに違ひない。僕はかう云ふ森先生に恐怖に近い敬意を感じてゐる。いや、或は書かなかつたとしても、先生の精力は聰明の資と共に僕を動かさずには措かなかつたであらう。僕はいつか森先生の書齋に和服を着た先生と話してゐた。方丈の室に近い書齋の隅には新らしい薄緣りが一枚あり、その上には蟲干しでも始まつたやうに古手紙が何本も並んでゐた。先生は僕にかう言つた。――「この間柴野栗山(しばのりつざん)(?)の手紙を集めて本に出した人が來たから、僕はあの本はよく出來てゐる、唯手紙が年代順に並べてないのは惜しいと言つた。するとその人は日本の手紙は生憎月日しか書いてないから、年代順に並べることは到底出來ないと返事をした。それから僕はこの古手紙を指さし、ここに北條霞亭の手紙が何十本かある、しかも皆年代順に並んでゐると言つた。」! 僕はその時の先生の昂然としてゐたのを覺えてゐる。かう言ふ先生に瞠目するものは必しも僕一人には限らないであらう。しかし正直に白狀すれば、僕はアナトオル・フランスの「ジアン・ダアク」よりも寧ろボオドレエルの一行を殘したいと思つてゐる一人である。
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この後半に出るシークエンスを問題にして、山崎一頴(かずひで)氏は「森鷗外と龍之介」(『国文学』一九三九年三月)の中で、『晩年の龍之介の精神は、魂の震えの如き繊細な神経で支えられていた。しかも壊れ易いガラスのような精神の芥川の眼前で、鷗外は北條霞亭の年次なき書簡を編年に並べ平然としていた。芥川はその強靭な精神に恐らく羨望と恐怖と嫌悪とを感じた』と述べて、龍之介の鷗外に対する、敬して遠ざくが如き微妙な雰囲気を非常に上手く表現されておられる(以上の山崎氏の論の引用は、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の林正子氏の「森鷗外」の項に引用されているものを孫引きしたものであることを断わっておく)。まさに、この龍之介を含めたありとある現代人が『羨望と恐怖と嫌悪とを感』ずるところの、恐るべき『強靭な精神』の持ち主なればこそ、龍之介は彼を「希臘人」と呼んだのではあるまいか。
私が最初に担任した教え子の女性は今や、森鷗外の第一人者である。軽々なことは語れぬ。これを以ってとめおくことと致す。]
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