忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「知慧」
知慧
妻は私にとつて、なかなかの知慧袋であつた。私は妻から障子の貼り方、キセル掃除の仕方、アイロンの掛け方、字畫の順序、算盤の加算などを教はつた。字畫の順序とか、算盤とかいふものは子供の時に教へ込まれて居なければならない筈だと、妻は病床で齒痒がつた。
火のおこし方とか、米の磨き方とか、洗濯・掃除なども、女中が雇へなくなつてから私は習ひ覺えた。
そのほか、一つ一つは憶ひ出せぬ細かなことを教はつたと思ふし、もつと妻が生きてゐて呉れたら、まだまだ何かを教はつたであらう。實際、人生に於ては常に教はらねばならぬこまかな事柄があるのに、私はこの齡になつて驚かされるのである。
[やぶちゃん注:いろいろ考えた末、「智慧袋」の「袋」は底本のままの用字とした。
「この齡」これは発表時のそれ(昭和二一(一九四六)年三月号『三田文学』に発表。当時の民喜は満四十歳)ではなく、冒頭の「飛行機雲」で考証した通り、作品内の主人公(筆者)の措定時間である昭和一九(一九四四)年一月頃である。この時ならば、民喜は満三十九歳(彼は明治三八(一九〇五)年十一月十五日生まれ)である。]
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