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2016/05/23

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或自警團員の言葉

 

       或自警團員の言葉

 

 さあ、自警の部署に就かう。今夜は星も木木の梢に涼しい光を放つてゐる。微風もそろそろ通ひ出したらしい。さあ、この籐の長椅子に寢ころび、この一本のマニラに火をつけ、夜もすがら氣樂に警戒しよう。もし喉の渇いた時には水筒のウイスキイを傾ければ好い。幸ひまだポケツトにはチヨコレエトの棒も殘つてゐる。

 聽き給へ、高い木木の梢に何か寢鳥の騷いでゐるのを。鳥は今度の大地震にも困ると云ふことを知らないであらう。しかし我我人間は衣食住の便宜を失つた爲にあらゆる苦痛を味はつてゐる。いや、衣食住どころではない。一杯のシトロンの飮めぬ爲にも少からぬ不自由を忍んでゐる。人間と云ふ二足の獸は何と云ふ情けない動物であらう。我我は文明を失つたが最後、それこそ風前の燈火のやうに覺束ない命を守らなければならぬ。見給へ。鳥はもう靜かに寐入つてゐる。羽根蒲團や枕を知らぬ鳥は!

 鳥はもう靜かに寢入つてゐる。夢も我我より安らかであらう。鳥は現在にのみ生きるものである。しかし我我人間は過去や未來にも生きなければならぬ。と云ふ意味は悔恨や憂慮の苦痛をも甞めなければならぬ。殊に今度の大地震はどの位我我の未來の上へ寂しい暗黑を投げかけたであらう。東京を燒かれた我我は今日の餓に苦しみ乍ら、明日の餓にも苦しんでゐる。鳥は幸ひにこの苦痛を知らぬ、いや、鳥に限つたことではない。三世の苦痛を知るものは我我人間のあるばかりである。

 小泉八雲は人間よりも蝶になりたいと云つたさうである。蝶――と云へばあの蟻を見給へ。もし幸福と云ふことを苦痛の少ないことのみとすれば、蟻も亦我我よりは幸福であらう。けれども我我人間は蟻の知らぬ快樂をも心得てゐる。蟻は破産や失戀の爲に自殺をする患はないかも知れぬ。が、我我と同じやうに樂しい希望を持ち得るであらうか? 僕は未だに覺えてゐる。月明りの仄めいた洛陽の廢都に、李太白の詩の一行さへ知らぬ無數の蟻の群を憐んだことを!

 しかしシヨオペンハウエルは、――まあ、哲學はやめにし給へ。我我は兎に角あそこへ來た蟻と大差のないことだけは確かである。もしそれだけでも確かだとすれば、人間らしい感情の全部は一層大切にしなければならぬ。自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めてゐる。我我は互に憐まなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは、――尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手輕である。

 我我は互に憐まなければならぬ。シヨオペンハウエルの厭世觀の我我に與へた教訓もかう云ふことではなかつたであらうか?

 夜はもう十二時を過ぎたらしい。星も相不變頭の上に凉しい光を放つてゐる。さあ、君はウイスキイを傾け給へ。僕は長椅子に寐ころんだままチヨコレエトの棒でも囓ることにしよう。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年十一月号『文藝春秋』巻頭に初出するが、単行本「侏儒の言葉」には不載。内容と発表誌の年と月から分かる通り、ここに描かれるのはこの二ヶ月前の九月一日十一時五十八分に発生した関東大震災後のシチュエーションである。震災の惨禍の記憶の新しい中で、この一章は被災した一般読者にはおよそ受け入れ難い内容と私は読む。さればこそ相応の批難もあったものかも知れぬ。私が被災した芥川龍之介好きの一東京市民であったとしても、一読、何か文句を吐きそうな気がする。……「マニラ」に「ウイスキイ」に「チヨコレエト」だあ?!……「氣樂に警戒し」ているというお前らこそ、そうした高級品を火事場泥棒してはシコタマ抱え込んだ盗品を隠し守っている「自警團」じゃあねぇのか?! と指弾したくなるのである。さればこそ単行本でカットされたのも、何となく分かる気がするのであるが、如何? 但し、このデカダンな自警団にはアイロニックな作者自身の視線が感じられ、それは当時の自警団となった集団の一部(但し、驚くほど多い)による主に朝鮮人に対する集団暴行殺人(後述)を、荒廃した夜の帝都東京の瓦礫の彼方に炙り出そうとする意図が龍之介にはあったようにも思うものではある(しかしそれは御世辞にも成功してはいない)。

 なお、底本後記によると、岩波普及版全集では「蟻」を総て「蛾」とするとある。この「蛾」はただの誤植とも当初思ったのだが……考えてみると、「蝶」に対する「蛾」である。……「月明りの仄めいた洛陽の廢都に」いる「無數の」「群」である。……「あそこへ來た」と示す生物である。……これはもう、「蟻」よりも「蛾」の方が、実は自然ではあるまいか? 如何?

 

・「自警團」本来は大災害や突発的な戦争勃発等の状況下、居住地域の人間の権利侵害が強く想定される場面などに於いて、正規の司法手続に依らずに自らの実力行使をもって自己並びに共同体の安全と権利を維持確保するために結成される組織される私設の警察的軍隊的組織集団・民兵及びそれに類似する防犯組織集団を指すが、関東大震災では、当時の日本帝国の軍と警察の主導によって関東地方に自警団が組織されており(後の引用を参照)、ここはその一つを指す。ウィキの「関東大震災」の「地震の混乱で発生した事件」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した。下線やぶちゃん)、『九月二日午後十一時、下江戸川橋を破壊中の朝鮮人を警備中の騎兵が射殺。九月二日午後十一時、南葛飾郡でこん棒などで武装した三十人の朝鮮人が砲兵第七連隊第一中隊長代理砲兵中尉高橋克己のオートバイを包囲したが』、『中尉は脱出に成功した』。『陸軍の中には、震災後の混乱に乗じて社会主義や自由主義の指導者を殺害しようとする動きがあり、大杉栄・伊藤野枝・大杉の六歳の甥橘宗一らが殺された事件(甘粕事件(大杉事件))、労働運動の指導者であった平澤計七など十三人が亀戸警察署で軍に銃殺され、平澤の首が切り落とされる事件(亀戸事件)が起きた』。『震災発生後、混乱に乗じた朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などの噂が行政機関や新聞、民衆を通して広まり、民衆、警察、軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人、日本人(聾唖者など)が殺傷される被害が発生した』。『これらに対して九月二日に発足した第二次山本内閣は、九月五日、民衆に対して、もし朝鮮人に不穏な動きがあるのなら軍隊及び警察が取り締まるので、民間人に自重を求める「内閣告諭第二号」(鮮人ニ対スル迫害ニ関シ告諭ノ件)を発し』ている(引用元の一部新字となっている漢字を正字化した)。

   *

内閣告諭第二號

今次ノ震災ニ乘シ一部不逞鮮人ノ妄動アリトシテ鮮人ニ對シ頗フル不快ノ感ヲ抱ク者アリト聞ク 鮮人ノ所爲若シ不穩ニ亘ルニ於テハ速ニ取締ノ軍隊又ハ警察官ニ通告シテ其ノ處置ニ俟ツヘキモノナルニ 民衆自ラ濫ニ鮮人ニ迫害ヲ加フルカ如キコトハ固ヨリ日鮮同化ノ根本主義ニ背戾スルノミナラス又諸外國ニ報セラレテ決シテ好マシキコトニ非ス事ハ今次ノ唐突ニシテ困難ナル事態ニ際會シタルニ基因スト認メラルルモ 刻下ノ非常時ニ當リ克ク平素ノ冷靜ヲ失ハス愼重前後ノ措置ヲ誤ラス以テ我國民ノ節制ト平和ノ精神トヲ發揮セムコトハ本大臣ノ此際特ニ望ム所ニシテ民衆各自ノ切ニ自重ヲ求ムル次第ナリ

大正十二年九月五日 内閣總理大臣

   *

『この内閣告諭第二号と同日、官憲は臨時震災救護事務局警備部にて「鮮人問題ニ関スル協定」という極秘協定を結んだ。協定の内容は、官憲・新聞等に対しては一般の朝鮮人が平穏であると伝えること、朝鮮人による暴行・暴行未遂の事実を捜査して事実を肯定するよう努めること、国外に「赤化日本人及赤化鮮人が背後で暴動を煽動したる事実ありたることを宣伝」することである。こうして日本政府は国家責任回避のため、自警団・民衆に責任転嫁して行くことになり、また実際に朝鮮人がどこかで暴動を起こしたという事実がないか、必死に探し回った』。『一方で震災発生後、内務省警保局、警視庁は朝鮮人が放火し暴れているという旨の通達を出していた。具体的には、戒厳令を受けて警保局(局長・後藤文夫)が各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電した』。――『東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし』――『さらに警視庁からも戒厳司令部宛に』――『鮮人中不逞の挙について放火その他凶暴なる行為に出(いず)る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。この際これら鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし』――及び「朝鮮人による火薬庫放火計画」なるものが伝えられているという。『また、メディア情報の中には、「内朝鮮人が暴徒化した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というものもあった。こうした報道の数々が九月二日から九月六日にかけ、大阪朝日新聞、東京日日新聞、河北新聞で報じられており、大阪朝日新聞においては、九月三日付朝刊で「何の窮民か 凶器を携えて暴行 横浜八王子物騒との情報」の見出しで、「横浜地方ではこの機に乗ずる不逞鮮人に対する警戒頗る厳重を極むとの情報が来た」とし、三日夕刊(四日付)では「各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電」の見出しで「不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり」と、警保局による打電内容を、三日号外では東朝(東京朝日新聞)社員甲府特電で「朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を經て八王子に向つて盛んに火を放ちつつあるのを見た」との記者目撃情報が掲載されている。また、相当数の民衆によってこれらの不確かな情報が伝播された』。『こうした情報の信憑性については、二日以降、官憲や軍内部において疑念が生じ始め、二日に届いた一報に関しては、第一師団(東京南部担当)が検証したところ虚報だと判明、三日早朝には流言にすぎないとの告知宣伝文を市内に貼って回っている。五日になり、見解の統一を必要とされた官憲内部で、精査の上、戒厳司令部公表との通達において』――『不逞鮮人については三々五々群を成して放火を遂行、また未遂の事件もなきにあらずも、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあれば、最早決して恐るる所はない。出所不明の無暗の流言蜚語に迷はされて、軽挙妄動をなすが如きは考慮するが肝要であろう』――『と発表。「朝鮮人暴動」の存在を肯定するも流言が含まれる旨の発表が行われた。八日には、東京地方裁判所検事正南谷智悌が一部情報を流言と否定する見解を公表、併せて「(朝鮮人による)一部不平の徒があって幾多の犯罪を敢行したのは事実である」とし、中には婦人凌辱もあったと談話の中で語った。一部の流言については一九四四年(昭和十九年)に警視庁での講演において、正力松太郎も、当時の一部情報が「虚報」だったと発言している』。『警視総監・赤池濃は「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戍総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」内務大臣・水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した。これを受け、二日には、東京府下五郡に戒厳令を一部施行し、三日には東京府と神奈川県全域にまで広げた。また、戒厳令のほか、経済的には、非常徴発令、暴利取締法、臨時物資供給令、およびモラトリアムが施行された。最終的に政府は朝鮮人犯罪を一切報道しない報道規制をおこなうまでになった』(但し、この最後の箇所には要出典要請がかけられている)。『陸軍は戒厳令のもと騎兵を各地に派遣し軍隊の到着を人々に知らせたが、このことは人々に安心感を与えたつつ、流言が事実であるとの印象を与え不安を植え付けたとも考えられる。また、戒厳令により警官の態度が高圧化したとの評価もある』。以下、「自警団による暴行」の項。軍・警察の主導で関東地方に四千もの自警団が組織され、集団暴行事件が発生した。そのため、朝鮮人だけでなく、中国人、日本人なども含めた死者が出た。朝鮮人かどうかを判別するためにシボレス』(英語: Shibboleth:ある社会集団の構成員と非構成員を見分けるための文化的指標を表す用語。例として言葉の発音や習慣風習の差異などを指す)『が用いられ、国歌を歌わせたり、朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害したとしている。また、福田村事件』(震災発生から五日後の九月六日に千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀の利根川沿いに於いて、香川県三豊(みとよ)郡(現在の観音寺市及び三豊市)の薬売の行商人十五名が、震災後の混乱の中で被差別部落出身ということで地元自警団に暴行され、九名が殺害された事件(妊婦や子供を含む九名或いは胎児を含めて十名とする説もある。ここはウィキの「福田村事件」に拠った)『のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者(聴覚障害者)も、多くが殺された』。『横浜市の鶴見警察署長・大川常吉は、保護下にある朝鮮人等三百人の奪取を防ぐために、千人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したとされる。大川は朝鮮人らが働いていた工事の関係者と付き合いがあったとされている。また、軍も多くの朝鮮人を保護した。当時横須賀鎮守府長官野間口兼雄の副官だった草鹿龍之介大尉(後の第一航空艦隊参謀長)は「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」等のデマに惑わされず、海軍陸戦隊の実弾使用申請や、在郷軍人の武器放出要求に対し断固として許可を出さなかった横須賀鎮守府は戒厳司令部の命により朝鮮人避難所となり、身の危険を感じた朝鮮人が続々と避難している現在の千葉県船橋市丸山にあった丸山集落では、それ以前から一緒に住んでいた朝鮮人を自警団から守るために一致団結した。また、朝鮮人を雇っていた埼玉県の町工場の経営者は、朝鮮人を押し入れに隠し、自警団から守った』。『警官手帳を持った巡査が憲兵に逮捕され』、『偶然いあわせた幼馴染の海軍士官に助けられたという逸話もある。当時早稲田大学在学中であった後の大阪市長中馬馨は、叔母の家に見舞いに行く途中群集に取り囲まれ、下富坂警察署に連行され「死を覚悟」する程の暴行を受けたという。歴史学者の山田昭次は、残虐な暴行があったとしている』。『十月以降、暴走した自警団は警察によって取り締まられ、殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の四つの罪名で起訴された日本人は三百六十二名に及んだ。しかし、「愛国心」によるものとして情状酌量され、そのほとんどが執行猶予となり、残りのものも刑が軽かった。福田村事件では実刑となった者も皇太子(のちの昭和天皇。当時は摂政)結婚で恩赦になった。自警団の解散が命じられるようになるのは十一月のことである』(本章の発表は『文藝春秋』十一月号である)。『殺害された人数は複数の記録、報告書などから研究者の間で分かれており明確になっていない。内閣府中央防災会議は虐殺による死者は震災による犠牲者の一から数パーセントにあたるとする報告書を作成している。吉野作造の調査では二千六百十三人余、上海の大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」社長の金承学の調査での六千六百六十一人という数字があり、幅が見られる。犠牲者を多く見積もるものとしては、大韓民国外務部長官による一九五九年の外交文章内に「数十万の韓国人が大量虐殺された」との記述がある。内務省警保局調査(「大正十二年九月一日以後ニ於ケル警戒措置一斑」)では、朝鮮人死亡二百三十一人・重軽傷四十三名、中国人三人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人五十九名、重軽傷四十三名であった。朝鮮人殺害の具体例としては、九月五日から六日に掛けて発生した藤岡事件』(九月五日、群馬県藤岡市内の砂利会社で雇用されていた朝鮮人労働者十四名の身辺危機を感じた社長らが藤岡警察署に保護を求めたが、彼らが留置場で匿われていたことを聞きつけた地元自警団が警察署に殺到、制止する警察官を振り切って留置場に乱入、保護していた朝鮮人を引き摺り出して暴行を加え、虐殺に及び、翌六日、日野村の朝鮮人三名が藤岡警察署で保護されていることを聞きつけた自警団が再び警察署を襲撃、一人を殺害、逃亡した二人を町内で発見して殺害した事件。ここは徐裕行氏のブログの「関東大震災と朝鮮人虐殺事件に思う正義のありかた。」に拠った)『が挙げられる。群馬県藤岡市の藤岡警察署に保護された砂利会社雇用の在日朝鮮人ら十七人が、署内に乱入した自警団や群衆のリンチにより殺害されたことが、当時の死亡通知書・検視調書資料により確認できる。なお、立件されたケースの被害者数を合算すると二百三十三人となる』。『二〇一三年六月には、韓国の李承晩政権時代に作成された、被害者二百八十九人の名簿が発見され、翌年には目撃者や遺族の調査が開始された』とある。

・「マニラ」筑摩全集類聚版脚注に、『Manila 煙草の名。葉巻用として有名。香気高く、味が濃厚で東洋人向きと云われる』とある。

・「チヨコレエト」岩波新全集の山田俊治氏の注に、『日本では一九一八年、森永製菓がカカオ豆からの処理を一貫生産し、生産量、消費量ともに増加した』とある。一九一八年は大正九年、この震災の三年前のことである。

・「シトロン」新潮文庫の神田由美子氏に、『Citoron。清涼飲料水の商品名。サイダー』とある。

・「甞めなければ」「なめなければ」。

・「三世」「さん ぜ」と読む仏教用語。前世(ぜんせ)・現世げんせ)・来世(ごぜ)。

・「小泉八雲は人間よりも蝶になりたいと云つた」小泉八雲(一八五〇年六月二十七日~明治三七(一九〇四)年九月二十六日):出生名パトリック・ラフカディオ・ハーン Patrick Lafcadio Hearn)と蝶といえば、知られたものに「虫の研究」(Insect-Stidies)の「蝶」(Butteflies)がある(作品集「怪談」(Kwaidan:一九〇四年ロンドン/ボストン/ホウトン・ミフリン社刊)が、当該作にはこれに近似した感懐は述べられていない。岩波新全集の山田氏は注で、この『出典は不明。ただし、『骨董』(一九〇一年)所収の「餓鬼」では「蟬か蜻蛉の生涯にせめて生れ変りたい」とある』とあり、事実、「餓鬼」の末尾で小泉八雲は自身の感懐希望としてそう述べている(因みに、私は小泉八雲の電子化注も手がけている)。なお、龍之介は小泉八雲逝去時、未だ満十二才、江東(えひがし)尋常小学校(後の両国小学校)高等科三年であり、遂にハーンと対面することはなかった。八雲が長生きしていたら、きっと龍之介の良き師(漱石とは全く違った)となっていたに違いなく、八雲の作品ももっと違ったものに発展していたに違いなく、個人的にはとても残念な気がしている。

・「僕は未だに覺えてゐる。月明りの仄めいた洛陽の廢都に、李太白の詩の一行さへ知らぬ無數の蟻の群を憐んだことを!」龍之介はこの二年前、大阪毎日新聞社中国特派員として大正一〇(一九二一)年の六月七日頃から十日頃にかけて洛陽(現在の河南省洛陽市)に滞在している。

・「シヨオペンハウエル」「シヨオペンハウエルの厭世觀」この世は考えうる限りの最悪の世界であるとした厭世哲学(ペシミズム:pessimismのチャンピオンドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーArthur Schopenhauer 一七八八年~一八六〇年:音写は「ショーペンハウエル」などとも)の思想については、小学館「日本大百科全書」の佐藤和夫氏の解説から引く。彼にとっては『世界とは「わたしの表象」であり、現象にほかならない。つまり、主観である意志に対応する客観としてのみ、世界が存在する。時間・空間・因果関係においてある現象に対して、カントのたてた物自体とは実は意志そのものにほかならない。それは「生きんとする盲目的意志」であり、満たされない欲望を追求するがゆえに、生とは苦痛なのである。彼によれば、人類の歴史、時代の変転などの人間の多様な形態は、意志の適切な客体性であるイデアを読み取りうる限りで意味をもつのであって、それ自体においてはどうでもよいものである。このイデアを認識しうるのが芸術であり、なかでも音楽は、意志を直接にイデアという媒介なしに客観化するという点で卓越している。しかし、芸術による生の苦痛からの解脱(げだつ)は一時的なものでしかない。そこで生の苦痛から解脱するには、意志の否定によって無私の行為へと向かい、梵我一如(ぼんがいちにょ)の境地、涅槃(ねはん)の境地へ達するという倫理の次元こそが、真に求められるものである』とある。さて、私は龍之介の思想は無論、彼の厭世哲学の強い影響下にあったとは思う。しかし、龍之介はかの名作「河童」の中の降霊会の報告シークエンスで、自殺した厭世主義者の詩人「トツク」の霊に対して質問者が、あの世での『君の交友は自殺者のみなりや?』と問うと、トックは『必しも然りとせず。自殺を辯護せるモンテエニユの如きは予が畏友の一人なり。唯予は自殺せざりし厭世主義者、――シヨオペンハウエルの輩(はい)とは交際せず。唯予は自殺せざりし厭世主義者、――シヨオペンハウエルの輩(はい)とは交際せず。』と答えるというシーンを配していることに着目する。私も若き日には確かに彼の哲学に一瞬、惹かれたものではある。しかし、ショーペンハウエルは、その多くの若き弟子や追従者を次々と夭折の自死に追い込みながら、自身はヘーゲルの出現によって人気を奪われて、臍を曲げて隠棲、田舎に引っ込んで余生を暮らした事実を知るや、急速に熱が冷めたのを思い出す。なお、萩原朔太郎は「芥川龍之介の死」(リンク先は私の古い電子テキスト)の「9」の最後で、芥川のこんな吐露を書き記している。やや長いが総て引いてこの注の終りとする(傍点「ヽ」は下線に代えた)。

   *

 海に面した鵠沼の東家に、病臥中の芥川君を見舞つたのは、私が鎌倉に居る間のことだつた。ひどい神經衰弱と痔疾のために、骨と皮ばかりになつてる芥川君は、それでも快活に話をした。不思議に私は、その時の話を覺えてゐる。病人は床に起きあがつて、殆んど例外なしに悲慘である所の、多くの天才の末路について物語つた。「もし實に天才であるならば、かれの生涯は必ず悲慘だ。」といふ意味を、悲痛な話材によつて斷定した。それから彼は、一層悲痛な自分自身を打ちあけた。何事も、一切の係累を捨ててしまつて、遠く南米の天地に移住したいと語つた。

 さうした芥川君の談話は、異常に悽愴の氣を帶びてゐた。自分は彼の作品について、時にしばしば一種の鬼氣を――支那の言語で、丁度「鬼」といふ字が表象する所の悽愴感を――感じてゐた。實に私は、至る所にこの「鬼」の形相を見た。彼の容貌や風格に、そのユニイクな文字や書體に、そしてとりわけ作品や會話の中に。

 丁度、ひどい憂鬱の厭世觀に憑かれてゐた私は、談話のあらゆる本質點に於て彼と一致し、同氣あひ引く誼みを感じた。だが私は、彼の厭世觀の眞原因が、どこにあるかを判然と知り得なかつた。多分その絶望的な病氣と、それに原因する創作力の衰弱がとが、事情の主たるものであると思つた。且つ一つには、例の「人の心を見通す」聰明さから、彼一流の思ひやりで、たまたま私と合槌を打つてるのだとも考へた。實にこの一つの邪推は、彼に對する交際の第一日から、私の胸裏に根強く印象されたものであつた。彼はあらゆる聰明さで、あらゆる人と調子を合せて談話する。だがその客が歸つたあとでは、けろりとして皮肉の舌を出すだろう。そしていかに相手が馬鹿であり、愚劣な興奮に驅られたかを、小説家特有の冷酷さで客觀してゐる。

 この考へは、確かに不愉快なものであつた。だが私は、かつて伊香保で知己になつた谷崎潤一郎氏に對しても、やや同樣の邪推なしに居られなかつた。けだし私は、室生犀星以外のいかなる文壇人とも交際がなかつた上、特に小説家については全く未知の世界に屬してゐた。小説家は――あらゆる小説家は――私にとつて「星からの人類」だつた。彼等と交はることは、私にとつてちがつた宇宙への觀察だつた。自分たち詩人の仲間は、すべてが單純な情熱家であり、客觀的な觀照眼を殆んどもたない。詩人は常に醉つて居り、醉ひの主觀境地でのみ話をする。然るに小説家は、常に何事にも對しても客觀的で、冷靜な觀察眼をはなつてゐる。だから小説家と話をする時、自分等の倶樂部と全くちがふ、冷酷にまで氷結された空氣を感ずるのだ。そのちがつた空氣は、意地の惡い觀察の眼をもつて、じろじろと自分の醉態を眺めてゐる。そこに丁度、酒に醉つた者が、醉はない人々の中にゐて、意地惡く狂態を觀察されるやうな、一種不愉快な自覺が生ずる。

 芥川君に對する時、いつも自分はさうした不快さ――觀察されるものの不快さ――を、本能の微妙な隅に直感した。それからして自分は、時にしばしば彼を「意地惡き皮肉の人」とも考へた。けれどもこれは、小説家について全く知らない私が、一般の習性ともなつてる小説家的本能(觀察本能)を、たまたま初見の谷崎君や芥川君について邪解したものにすぎなかつたのだ。彼等は決して、そんな意地惡き觀察をしてゐるのでない。ただ態度が、職業的に習性となつてるその小説家的態度が、ある冷酷な――酒に醉はない――觀察本能を、我々ちがつた世界の人間に印象させるにすぎないのだ。

 話が餘事それたが、最後に、別れる時、前言の一切を取り消すやうな反語の調子で、彼は印象強く次の言葉を繰返した。

「だが自殺しない厭世論者の言ふことなんか、皆ウソにきまつてゐるよ。」

 それから笑つて言つた。

「君も僕も、どうせニセモノの厭世論者さ。」

   *]

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