芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 貝原益軒
貝原益軒
わたしはやはり小學時代に貝原益軒の逸事を學んだ。益軒は嘗て乘合船の中に一人の書生と一しよになつた。書生は才力に誇つてゐたと見え、滔々と古今の學藝を論じた。が、益軒は一言も加へず、靜かに傾聽するばかりだつた。その内に船は岸に泊した。船中の客は別れるのに臨んで姓名を告げるのを例としてゐた。書生は始めて益軒を知り、この一代の大儒の前に忸怩として先刻の無禮を謝した。――かう云ふ逸事を學んだのである。
當時のわたしはこの逸事の中に謙讓の美德を發見した。少くとも發見する爲に努力したことは事實である。しかし今は不幸にも寸毫の教訓さへ發見出來ない。この逸事の今のわたしにも多少の興味を與へるは僅かに下のやうに考へるからである。――
一 無言に終始した益軒の侮蔑は如何に辛辣を極めてゐたか!
二 書生の恥ぢるのを欣んだ同船の客の喝采は如何に俗惡を極めてゐたか!
三 益軒の知らぬ新時代の精神は年少の書生の放論の中にも如何に潑溂と鼓動してゐたか!
[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年九月号『文藝春秋』巻頭に後の「或辯護」「制限」とともに全三章で初出する。江戸時代の儒学者にして優れた本草学者であった「貝原益軒」(名は「えきけん」とも「えっけん」とも読む 寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)はウィキの「貝原益軒」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『筑前国(現在の福岡県)福岡藩士、貝原寛斎の五男として生まれ』、『一六四八年(慶安元年)、十八歳で福岡藩に仕えたが、一六五〇年(慶安三年)』、暗愚であった(ここは私が追加した)『二代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、七年間の浪人生活を送ることとなる。一六五六年(明暦二年)二十七歳、三代藩主・光之に許され、藩医として帰藩.翌年、藩費による京都留学で本草学や朱子学等を学ぶ。このころ木下順庵、山崎闇斎、松永尺五、向井元升、黒川道祐らと交友を深める。また、同藩の宮崎安貞が来訪した。七年間の留学の後、一六六四年三十五歳の時、帰藩し、百五十石の知行を得、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。藩命により『黒田家譜』を編纂。また、藩内をくまなく歩き回り『筑前国続風土記』を編纂する』。『幼少のころに虚弱であったことから、読書家となり博識となった。ただし書物だけにとらわれず自分の足で歩き目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持つ。また世に益することを旨とし、著書の多くは平易な文体でより多くの人に判るように書かれている』。『七十歳で役を退き著述業に専念。著書は生涯に六十部二百七十余巻に及ぶ。主な著書に『大和本草』、『菜譜』、『花譜』といった本草書。教育書の『養生訓』、『大和俗訓』、『和俗童子訓』、『五常訓』。紀行文には『和州巡覧記』がある』。『『大和俗訓』の序に「高きに登るには必ず麓よりし、遠きにゆくには必ず近きよりはじむる理あれば」とみえるように、庶民や女子及び幼児などを対象にした幅広い層向けの教育書を著した』。『思想書としては、一七一二年(正徳二年)の『自娯集』。学問の功は思にありとして、教義・道徳・教育等の意見を著した『慎思録』、朱子学への観念的疑問等を著した『大擬録』などがある』。『一七一四年(正徳四年)に没するに臨み、辞世の漢詩二首と倭歌「越し方は一夜(ひとよ)ばかりの心地して
八十(やそじ)あまりの夢をみしかな」を残している』とある。因みに、私は『貝原益軒「大和本草」より水族の部」』を手掛けているが、暫く、怠けている。
・「貝原益軒の逸事」岩波新全集の山田俊治氏の注によれば、このエピソードは、末松謙澄「小学修身訓」(明治二五(一八九二)年)の中の「二五 ほこるべからず付益軒先生」の他、「新編修身経典 尋常小学校用」(明治三三(一九〇〇)年)や同年刊の「新編修身経典 高等小学校用」等に掲載されている、とある。幸い、国立国会図書館デジタルコレクションに「新編修身教典 尋常小學校用 卷三」(普及舎編輯所編明治三三(一九〇〇)年十二月普及舎刊)に同話を見出せた(リンク先は当該章)ので、以下に電子化する。
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第七課 貝原益軒先生 (二)
先生、かつて、船にのりて、たびをせられしとき、のりあひの一人の書生が、じまんがほに、書物のはなしをせるを、一言も、ものいはずして、聞き居られき。
まもなく、船、きしにつきたるとき、各、名のりあひたるに、彼の書生は、先生の名を聞きて、大にはぢ入り、にぐるが如くに、立ち去りき。
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芥川龍之介が江東小学校(現在の両国小学校)に入学したのが明治三一(一八九八)年であるから、彼の読んだものがこれに近いものであろうとは思われるが、調べてみると、同話のヴァリエーションでは、最後に同船していた他の客たちが走り逃げる書生を笑い謗ったシーンがあるらしく、龍之介が指弾した「二」から見ると、そちらの版がより相応しい。
・「滔々」「たうたう(とうとう)」。よどみなく話すこと。弁舌さわやかななるさま。
・「一言」「いちごん」。
・「大儒」「たいじゆ(たいじゅ)」。優れた儒学者。
・「忸怩」「ぢくぢ(じくじ)」と読む。自分の行いに対して心の内で強く恥じ入るさま。「忸」は「恥じる」、「怩」も「恥じる」であるが、「引け目を感じていじける」きまり悪く思う」の謂いを含む。
として先刻の無禮を謝した。――かう云ふ逸事を學んだのである。
・「益軒の知らぬ新時代の精神は年少の書生の放論の中にも如何に潑溂と鼓動してゐたか!」「放論」は「はうろん(ほうろん)」で、誰(たれ)憚ることもなく、思いのままに議論をすること(「身の程知らずの放言」の謂いもあるが、ここはフラットな意の方が強い)。「潑溂」「はつらつ」で、「きびきびとして元気のよいさま・生き生きとしているさま」を言う(「元気ハツラツ!」なんどと叫びながら、その実この漢字が書けない若者は今や、圧倒的であろう)。ここを読む都度、私は芥川龍之介の「黄粱夢(こうりょうむ)」を思い出さずにいられない(リンク先は私のブログ版電子テクスト注)。私は、そのエンディングの「顏をしかめた儘、然りとも否とも答へなかつた」「呂翁」のような面(つら)を益軒先生にさせて見たいと思う「書生」なのである。]
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